2024年03月10日「ホサナ 主の名によって来られる方に 호산나 주의 이름으로 오시는 이여」

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ホサナ 主の名によって来られる方に 호산나 주의 이름으로 오시는 이여

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 11章1節~11節

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聖句のアイコン聖書の言葉

11:1一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
11:2言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。
11:3もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」
11:4二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。
11:5すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。
11:6二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。
11:7二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
11:8多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。
11:9そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。
11:10我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
11:11こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 11章1節~11節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

私たちは今、キリストのご受難を覚える受難説を過ごしています。ちょうどマルコの福音書も11章からエルサレムにおける最後の受難週について描写されています。ダビデの町エルサレムへ入城し、そして神殿の境内に入ることこそ、イエス様の主目的でありました。なぜなら、イエス様はご自分の民のもとへ、メシア・救い主として来られたからです。しかし民が考えるメシアと、聖書の言うメシアとの間には大きなギャップがありました。民が考える王と、真の王との間には大きすぎるほどのギャップがありました。このギャップが何を意味するのか、ということについて本日の箇所には書かれています。イエス様のエルサレム入城は、劇的に主の受難週の開始を知らせたのであります。

【1】. 意図した子ろばの入城

さて、オリーブ山の頂からは、眼下に美しいエルサレム神殿が建てられている神殿の丘と、そして城壁の側面にあるキドロンの谷を一望することができました。ベトファゲとベタニアは、オリーブ山のふもとにある村々です。この場所にさしかかったとき、イエス様は向こうの村へ二人の弟子を遣わされました。「向こうの村」とは、ベトファゲなのかベタニアなのか、はっきりわかりませんが、ベタニアという村には、イエス様の友人である、ラザロと彼の姉妹のマルタ、マリアも住んでいました。11:1~2節をご覧ください。

“一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。”

イエス様は子ろばに乗ってエルサレムに入城されます。その子ろばを連れてくるように二人の弟子に命じられました。この時、イエス様は非常に具体的な指示を弟子たちに与えています。そして、不思議なことに、その通りに事柄が起こって行きました。3~6節をご覧ください。

“もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。”

この出来事については、いろいろな注解書に様々なことが書かれていました。第一に「主がお入り用なのです。」という言葉です。用が済んだら、すぐに返却したと思われますが、「主」とは、誰を指しているのでしょうか。「主人」とも取れますし、「神」とも取れます。マルコによる福音書では、これまでイエス様がご自身を指して「主」と言われたことはありませんが、しかしこの文脈では、イエス様がご自身を指して「主」と言われたと解釈するのが自然だと思います。そうすると、ヘブライ語ではヤハウェを意味する「アドナイ」という言葉を使ったと考えられますから、イエス様はご自身のことを「主なる神」として、主張されたということになります。第二に、実際に、イエス様の言われた通りの事柄が起こったということです。このことについて、注解書は、おそらくイエス様が事前に調整しておいたのではないか?仮に向こうの村がベタニアならば、イエス様の知人も多くいたであろう。その中に子ろばの主人がいたに違いないと推測します。果たして事前に子ろばの主人と調整していたのか、あるいは、イエス様の予知能力によってこの不思議なことが起こったのか、はっきりしたことは分かりませんが、いずれの場合であれ、大切なことは、イエス様ご自身が、このような具体的な詳細部分に至るまで、エルサレムに入城することを意図されたということであります。そして、その出来事が、二人の弟子たちによって事実として確定されたということであります。まだだれも乗ったことのない子ろばは、神様に捧げる聖なる用途に用いられるために必要でした。たまたま子ろばがつながれていて、疲れたために、それに乗って旅を続けたという訳ではありません。それに巡礼者は、普通歩いて行くものです。過ぎ越しの祭りの時期ともなれば、大勢の人々がエルサレムにひしめき合うわけですから、そのように混雑した場所に、ろばに乗って入ろうとは誰も考えないはずです。しかし、イエス様はあえて子ろばに乗ってエルサレムに入ろうと意図されたのです。その理由は、見えるしるしによってご自身が誰かということを明らかにするためでありました。旧約聖書の預言の御言葉を調べてみましょう。ゼカリヤ書9:9-10をご覧ください。

【2】. 平和の王の行進

“娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。”

「シオン」とはエルサレムとほとんど同義語であります。特に地上のエルサレムではなく、天のエルサレムを指すときに、象徴的な言葉として「シオン」という言葉が聖書で使われています。「娘」という言葉がありますが、普通、ヘブライ語において都市の名前が女性名詞で扱われますので、都市の代名詞として彼女、娘という言葉が使われます。ゼカリヤ書9章の預言は、平和の王がエルサレムに来られるので、喜び叫べと語ります。その方は子ろばに乗って来られると語ります。イエス様はまさにこの預言を念頭に置いていたに違いありません。ご自身のエルサレム入城を、平和の王の入城として位置付けていたということです。戦車と軍馬を絶つ、平和の王の到来です。

二人の弟子は自分の服を脱ぎ、それを子ろばにかけて鞍とすると、イエス様はそこにお乗りになりました。すると多くの人々が自分の服を道に敷き、また、ある人は野原から葉の付いた枝を切って道に敷きました。自分の大切な上着を道に敷くという行為は、王に対する忠誠として受け取れます。因みにイエス様の時代から約900年も昔になりますが、北イスラエルでイエフが王に即位した時も、民はやはり王に対する忠誠を表すために自らの服を地面に敷きました。(2列王記9:13です。ご関心のある方は後で調べてください。)イエス様を取り巻く人々は、巡礼者がよく歌ったハレルヤ詩編を賛美しました。間違いなくこの時「ダビデの子イエスよ!」と叫んだバルティマイも、この中に加わっていたことでしょう。マルコ11:9-10節をご覧ください。

“そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」”

詩編113~118編はハレルヤ詩編と呼ばれ、特に過ぎ越しの祭りの際に好んで歌われました。「ホサナ」とは、「どうか救ってください」という意味です。ここではメシアの到来によってダビデの国が成就されることを願う気持ちが、この「ホサナ(どうか救ってください)」という言葉に表れています。一年の中で、特に過ぎ越しの祭りのこの時期は、イスラエルの中にダビデの国が回復されることを願う思いが高まるのですが、人々はイエス様に対し、このお方こそ、ローマの支配から自分たちを解放してくれるメシア的な人物であるかもしれないと気付き始めていたのです。群衆の歓呼を受けながら、イエス様を乗せた子ろばは、下に敷かれた上着を踏みしめながら行進していきました。それはまさに王の入城行進でありました。確かにこの時、人々のメシアに対する理解と、聖書に書かれているメシアの間には、大きなギャップがありました。数日後には彼らは態度を一変させ、「十字架につけろ」と叫ぶことになります。しかし、ここで重要なことは、イエス様が、ご自分が王であることを受け入れられ、エルサレムに上って行かれたということです。もはや自分のことを口止めされることはありません。ボルテージの上がった群衆の歓呼の声を受け入れられ、そして群衆の心に王としての姿が刻み付けられたのです。そして、いよいよ神殿の境内に入っていきます。マルコ福音書はここで何か異変を感じたような書き方になっています。11節をご覧ください。

“こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。”

境内では、祭司長たちの恭しい出迎えはありませんでした。イエス様を取り巻く大勢の群衆はエルサレムに住む比較的富裕層の人々ではなく、主にガリラヤ方面から出てきた人々であったということです。イエス様はエルサレムにいた宗教指導者たちからは冷遇されました。彼らの目には、群衆から歓呼を受けたイエス様は、革命家の一人にしか見えなかったということでしょう。また、エルサレムには自称メシアが多く現れ、暴動を起こすという事件がしばしばありました。そのためこの都にはローマ軍が常に駐屯しているほどです。メシアであられるイエス様が、エルサレムの中に場所を見出すことができず、再び城壁の外のベタニヤに宿泊するために引き返さなければならなかったというのは、大変象徴的な出来事です。イエス様はご自分の民のところに来られたのに、民は御子を受け入れることをしなかったのです。

この象徴的な出来事を通して、そもそも、イスラエルにとって王とは何かということを聖書は私たちに問いかけているのではないでしょうか。もともと、イスラエルにとって王とは、主ご自身でありました。従って、イスラエルにとって国家体制は、神様が直接支配する神政政治であり、国の法律は神から直接いただいた律法でありました。ところが、イエス様の時代から1100年も遡る紀元前11世紀頃の話ですが、民は、周辺諸国を見回して、どこの国にも立派な人間の王様が立てられているのに、なぜ我々だけには王様がいないのかと、不平を言い始めました。そして神様のお言葉を伝えるサムエルに、「我々にも立派な王を立ててほしい」と願ったのであります。そのような民の罪深い声を、神はお聞きになり、その上で、神はサムエルに言われました。そこまで言うならよろしい。彼らの好きなようにさせなさい。ただし、あなた方の王がどういうことをするのか、それだけは先に言っておこう。そう言いながら、王の権利について一つ一つ列挙しました。少し長いですが、大切な箇所ですから御言葉を開いてみたいと思います。サムエル上8:11~18です。

“彼はこう告げた。「あなたたちの上に君臨する王の権能は次のとおりである。まず、あなたたちの息子を徴用する。それは、戦車兵や騎兵にして王の戦車の前を走らせ、千人隊の長、五十人隊の長として任命し、王のための耕作や刈り入れに従事させ、あるいは武器や戦車の用具を造らせるためである。また、あなたたちの娘を徴用し、香料作り、料理女、パン焼き女にする。また、あなたたちの最上の畑、ぶどう畑、オリーブ畑を没収し、家臣に分け与える。また、あなたたちの穀物とぶどうの十分の一を徴収し、重臣や家臣に分け与える。あなたたちの奴隷、女奴隷、若者のうちのすぐれた者や、ろばを徴用し、王のために働かせる。また、あなたたちの羊の十分の一を徴収する。こうして、あなたたちは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない。」”

つまりイスラエルの民が望んだ立派な王とは、一言でいえば、民を搾取する支配者、権威を乱用する独裁者のことだと言っているのです。それでも民は、主なる神を捨てて、それで構わないから我々に人間の王を与えてくれと願いました。現在も民を搾取する支配者、権威を乱用する独裁者は君臨し、世界各地に争いは絶たれることはありません。私たちが悔い改めた時に与えられるメシアなる王とは、このような王ではないということです。聖書に書かれているメシアなる王とは人々に仕えられるためではなく、仕えるために来られるのです。子ろばに乗り、身代金としてご自分の命を献げるために来られるのです。そのへりくだりは十字架の死によって頂点に達することでしょう。このお方こそ、イスラエルに神との和解をもたらし、罪の赦しと平和を与えてくださる、イスラエルの真の王なのであります。

【結論】

弟子たちは、そのことに後から気づくことになります。後で振り返った時に、イエス様が、ご自身がメシアであることのしるしを与えてくださったことがどれほど恵み深いことであったのか気づかされるのです。そして心に刻みこまれた一つ一つの出来事を、決して忘れることができなかったことでしょう。二人の弟子たちは自分たちの服を子ろばの鞍に掛けたこと、そのことを一生忘れることができなかったに違いありません。子ろばに乗った王は「ホサナ主の名によって来られる方に」というハレルヤ詩編をお受けになったこと、一つ一つの出来事が臨場感を持って思い起こされるのです。このお方は、まさにゼカリヤ書に預言された、喜びと、平和をもたらす、待望のメシアでありました。それは当初思い描いていた王ではありませんでしたが、それ以上のお方、柔和で謙遜で高ぶることのない真の王であり、ご自身の民を永遠に治めてくださる神の子でありました。人間の罪のゆえに神との関係が断絶されてしまいましたが、再び神との関係を和解させてくださり、神の民を永遠の祝福の中に招いてくださる王であったのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

호산나 주의 이름으로 오시는 이여

2024년 3월10일 센겐다이 교회 주일설교

마가복음 11장 1~11절

서론

우리는 지금, 그리스도의 수난을 기억하는 사순절을 보내고 있습니다. 마침 마가복음서도 11장부터 예루살렘에서의 마지막 수난주에 대해 묘사되어 있습니다. 다윗의 성읍 예루살렘에 입성하고, 성전 경내로 들어가는 것이야말로, 예수님의 주 목적이었습니다. 왜냐하면 예수님은 자신의 백성에게 메시아・구원자로 오셨기 때문입니다. 그러나 백성들이 생각하는 메시아와, 성경이 말하는 메시아와의 사이에는 큰 간극이 있었습니다. 백성들이 생각하는 왕과 진정한 왕 사이에는 너무 큰 차이가 있었습니다. 이 갭이 무엇을 의미하는지에 대해 오늘의 성경 구절에는 적혀 있습니다. 예수님의 예루살렘 입성은, 극적으로 주님의 수난주의 시작을 알렸던 것입니다.

(1) 의도하신, 나귀 새끼를 타신 입성

자, 감람 산 정상에서는, 눈아래로 아름다운 예루살렘 성전이 세워져 있는 성전 언덕과, 성벽 측면에 있는 기드론 골짜기를 한눈에 볼 수 있었습니다. 벳바게와 베다니는, 감람 산의 기슭에 있는 마을들입니다. 이 곳에 당도했을 때, 예수님은 맞은편 마을로 두 제자를 보내셨습니다. 맞은편 마을이란 벳바게인지 베다니인지 확실히 알 수 없지만, 베다니라는 마을에는 예수님의 친구인 나사로와 그의 여동생들인 마르다, 마리아도 살고 있었습니다. 11장 1,2절을 보시기 바랍니다.

1 그들이 예루살렘에 가까이 와서 감람 산 벳바게와 베다니에 이르렀을 때에 예수께서 제자 중 둘을 보내시며

2 이르시되 너희는 맞은편 마을로 가라 그리로 들어가면 곧 아직 아무도 타 보지 않은 나귀 새끼가 매여 있는 것을 보리니 풀어 끌고 오라

예수님은 나귀 새끼를 타고 예루살렘에 입성하십니다. 그 나귀 새끼를 데려오라고 제자들에게 명령하십니다. 이때, 예수님은 매우 구체적인 지시를 제자들에게 내리고 있습니다. 그리고 이상하게도 그대로 일이 벌어져 갔습니다. 3~6절을 보시죠.

3 만일 누가 너희에게 왜 이렇게 하느냐 묻거든 주가 쓰시겠다 하라 그리하면 즉시 이리로 보내리라 하시니

4 제자들이 가서 본즉 나귀 새끼가 문 앞 거리에 매여 있는지라 그것을 푸니

5 거기 서 있는 사람 중 어떤 이들이 이르되 나귀 새끼를 풀어 무엇 하려느냐 하매

6 제자들이 예수께서 이르신 대로 말한대 이에 허락하는지라

이 사건에 대해서는, 여러 가지 주해서에 여러 가지가 적혀 있었습니다. 첫째, 「주가 쓰시겠다」라는 단어입니다. 일이 끝나면 바로 돌려줬다고 생각됩니다만, 「주」란 누구를 가리키고 있는 것일까요. 「주인」이라고도 할 수 있고 「하나님」이라고도 할 수 있습니다. 마가복음에서는, 지금까지 예수님이 자신을 가리켜 「주」라고 하신 적이 없지만, 그러나 이 맥락에서는, 예수님이 자신을 가리켜 「주」라고 말씀하신 것으로 해석하는 것이 자연스러울 것입니다. 그러면 히브리어로는 여호와를 뜻하는「아도나이」라는 말을 사용했다고 생각되기 때문에, 예수님은 자신을 「주 하나님」으로, 주장하셨다는 것이 됩니다. 둘째, 실제로, 예수님이 말씀하신 대로의 일이 일어났다는 것입니다. 이에 대해 주해서는 “아마도 예수님이 미리 손을 써 놓으신 것이 아닐까? 만일 맞은편 마을이 베다니라면 예수님의 지인도 많이 있었을 것이다. 그 안에 나귀 새끼 주인이 있었던 것이 틀림없다”라고 추측합니다. 과연, 사전에 나귀 새끼의 주인과 조율하고 있었는지, 혹은 예수님의 예지 능력으로 인해 이 이상한 일이 일어났는지 확실한 것은 알 수 없지만, 어느 경우든 중요한 것은 예수님 자신이 이런 구체적 세부적인 부분에 이르기까지 예루살렘에 입성하는 것을 의도하셨다는 것입니다. 그리고 그 사건이 두 제자들에 의해 사실로 확정되었다는 것입니다. 아직 아무도 타 보지 않은 나귀 새끼는, 하나님께 바치는 거룩한 용도로 이용되기 위해 필요했습니다. 우연이 나귀 새끼가 매여 있고, 피곤하기 때문에 그것을 타고 여행을 계속하셨다는 것이 아닙니다. 게다가 순례자는, 보통 걸어가기 마련입니다. 유월절 축제의 시기가 되면, 많은 사람들이 예루살렘에 와글와글 몰려들기 때문에, 그렇게 붐비는 곳에, 당나귀를 타고 들어갈 생각은 아무도 하지 않을 것입니다. 그러나 예수님은 일부러 나귀 새끼를 타시고 예루살렘에 들어가시려고 의도 하셨습니다. 그 이유는 보이는 증표에 따라 자신이 누구인지를 밝히시기 위해서였습니다. 구약성경의 예언 말씀을 알아봅시다. 스가랴9장 9,10절을 보시기 바랍니다.

(2) 평화의 왕의 행진

9 시온의 딸아 크게 기뻐할지어다 예루살렘의 딸아 즐거이 부를지어다 보라 네 왕이 네게 임하시나니 그는 공의로우시며 구원을 베푸시며 겸손하여서 나귀를 타시나니 나귀의 작은 것 곧 나귀 새끼니라

10 내가 에브라임의 병거와 예루살렘의 말을 끊겠고 전쟁하는 활도 끊으리니 그가 이방 사람에게 화평을 전할 것이요 그의 통치는 바다에서 바다까지 이르고 유브라데 강에서 땅 끝까지 이르리라

「시온」이란 예루살렘과 거의 동의어입니다. 특히 지상의 예루살렘이 아니라, 하늘의 예루살렘을 지칭할 때 상징적인 말로 「시온」이라는 말이 성경에서 쓰이고 있습니다. 「딸」이라는 말이 있는데, 보통 히브리어에서 도시 이름이 여성명사로 쓰이기 때문에, 도시의 대명사로 그녀, 딸이라는 말이 쓰입니다. 스가랴서 9장의 예언은, 평화의 왕이 예루살렘에 오시니, 기뻐하며 외치라고 합니다. 그 분은 나귀 새끼를 타고 오신다고 합니다. 예수님은 그야말로 이 예언을 염두에 두고 계셨음에 틀림이 없습니다. 자신의 예루살렘 입성을, 평화의 왕의 입성으로 규정하셨다는 것입니다. 전차와 군마를 대동하지 않는 평화의 왕의 도래입니다.

두 제자는 나귀 새끼를 예수께로 끌고 와서 자기들의 겉옷을 그 위에 얹어 놓으니 예수께서 타셨습니다. 그러자 많은 사람들이 자기들의 겉옷을 길에 깔았고, 또 다른 이들은 들에서 벤 나뭇가지를 길에 폈습니다. 자신의 소중한 겉옷을 길에 깐다는 행위는, 왕에 대한 충성으로 받아들여집니다. 참고로 예수님 시대로부터 약 900년전이나 옛날이지만, 북 이스라엘에서 예후가 왕으로 즉위했을 때도, 무리들은 역시 왕에 대한 충성을 나타내기 위해서 자신들의 옷을 지면에 깔았습니다(열왕기하 9장 13절입니다. 관심이 있으신 분은 나중에 읽어보세요). 예수님을 둘러싼 사람들은, 순례자들이 즐겨 부른 할렐루야 시편을 찬미했습니다. 틀림없이 이때 「다윗의 자손 예수여!」라고 외쳤던 바디매오도, 이 안에 가담했을 것입니다. 마가복음 11장 9,10절을 보시기 바랍니다.

9 앞에서 가고 뒤에서 따르는 자들이 소리 지르되 호산나 찬송하리로다 주의 이름으로 오시는 이여

10 찬송하리로다 오는 우리 조상 다윗의 나라여 가장 높은 곳에서 호산나 하더라

시편 113~118편은 할렐루야 시편이라고 불렸고, 특히 유월절에 즐겨 불렀습니다. 「호산나」는 「제발 구해주세요」라는 뜻입니다. 여기서는 메시아의 도래로 다윗의 나라가 성취되기를 바라는 마음이, 이 「호산나(제발 구해주세요)」라는 말에 나타나 있습니다. 일년 가운데, 특히 유월절 축제인 이 시기는 이스라엘 안에, 다윗의 나라가 회복되기를 바라는 마음이 커지는데, 사람들은 예수님이, 이 분이야말로 로마의 지배로부터 자신들을 해방 시켜 주는 메시아적인 인물일 수도 있다는 것을 깨닫기 시작했습니다. 군중의 환호를 받으며 예수님을 태운 나귀 새끼는 길에 깔린 옷을 발로 밟으며 행진해 갔습니다. 그것은 바로 왕의 입성 행진이었습니다. 확실히 이때, 사람들의 메시아에 대한 이해와, 성경에 적혀 있는 메시아 사이에는 큰 갭이 있었습니다. 며칠 후면 그들은 돌변하여 「십자가에 못 박으라」고 외치게 됩니다. 그러나 여기서 중요한 것은 예수님께서 자신이 왕임을 받아들이시고, 예루살렘으로 올라가셨다는 것입니다. 더 이상 자신에 대한 입막음을 하시지 않으셨습니다. 열기가 오른 군중의 환호성을 받아들이시고, 그리고 군중의 마음에 왕으로서의 모습이 각인된 것입니다. 그리고 드디어 성전 경내로 들어가십니다. 마가복음은 여기서 뭔가 이변을 느낀 듯안 문체로 기록됩니다. 11절을 보세요.

예수께서 예루살렘에 이르러 성전에 들어가사 모든 것을 둘러 보시고 때가 이미 저물매 열두 제자를 데리시고 베다니에 나가시니라

성전에서는, 제사장들의 정중한 영접이 없었습니다. 예수님을 둘러싼 많은 군중은 예루살렘에 사는 비교적 부유한 사람들이 아니라, 주로 갈릴리 방면에서 나온 사람들이었다는 것입니다. 예수님은 예루살렘에 있던 종교 지도자들로부터 냉대를 받았습니다. 그들의 눈에는 군중의 환호를 받은 예수님은, 혁명가 중 한 명으로만 보였다는 것일 것입니다. 또 예루살렘에는 자칭 메시아가 많이 나타나 폭동을 일으키는 사건이 종종 있었습니다. 그래서 이 도시에는 로마군이 항상 주둔하고 있을 정도였습니다. 메시아이신 예수님이 예루살렘안에서 머물 곳을 찾지 못하시고 다시 성벽 밖 베다니아에 머물기 위해 발길을 돌리셔야 했다는 것은 매우 상징적인 일입니다. 예수님은 자기 백성에게 오셨는데 백성들은 하나님의 아들을 받아들이지 않았습니다.

이 상징적인 사건을 통해, 애초에 이스라엘에게 있어 왕이란 무엇인가라는 것을 성경은 우리에게 묻고 있는 것이 아닐까요? 본래 이스라엘에게 있어서 왕이란, 주님 자신이셨습니다. 따라서 이스라엘에 있어서 국가체제는 하나님이 직접 통치하시는 신정정치이며, 나라의 법률은 하나님께 직접 받은 율법이었습니다. 그런데 예수님의 시대에서 1100년이나 거슬러 올라가는 기원전 11세기 무렵의 이야기인데요, 백성들은, 주변 나라를 둘러보며, 어느 나라에나 훌륭한 인간의 왕이 세워져 있는데 왜 우리만 왕이 없느냐고 불평하기 시작했습니다. 그리고 하나님의 말씀을 전하는 사무엘에게, 「우리에게도 왕을 주어 우리를 다스리게 하라」고 요구했습니다. 그런 백성들의 죄 많은 목소리를 하나님은 들으시고, 그 위에 하나님은 사무엘에게 말씀하셨습니다. 「그들의 말을 듣되 너는 그들에게 엄히 경고하고 그들을 다스릴 왕의 제도를 가르치라」그러면서 왕의 권리를 하나하나 열거하셨습니다. 조금 길지만 중요한 부분이기 때문에 말씀을 펼쳐보도록 하겠습니다. 사무엘상 8장 11~18절입니다.

11 이르되 너희를 다스릴 왕의 제도는 이러하니라 그가 너희 아들들을 데려다가 그의 병거와 말을 어거하게 하리니 그들이 그 병거 앞에서 달릴 것이며

12 그가 또 너희의 아들들을 천부장과 오십부장을 삼을 것이며 자기 밭을 갈게 하고 자기 추수를 하게 할 것이며 자기 무기와 병거의 장비도 만들게 할 것이며

13 그가 또 너희의 딸들을 데려다가 향료 만드는 자와 요리하는 자와 떡 굽는 자로 삼을 것이며

14 그가 또 너희의 밭과 포도원과 감람원에서 제일 좋은 것을 가져다가 자기의 신하들에게 줄 것이며

15 그가 또 너희의 곡식과 포도원 소산의 십일조를 거두어 자기의 관리와 신하에게 줄 것이며

16 그가 또 너희의 노비와 가장 아름다운 소년과 나귀들을 끌어다가 자기 일을 시킬 것이며

17 너희의 양 떼의 십분의 일을 거두어 가리니 너희가 그의 종이 될 것이라

18 그 날에 너희는 너희가 택한 왕으로 말미암아 부르짖되 그 날에 여호와께서 너희에게 응답하지 아니하시리라 하니

즉 이스라엘 백성이 원했던 훌륭한 왕이란, 한마디로, 백성을 착취하는 지배자, 권위를 남용하는 독재자를 말하는 것입니다. 그래도 백성들은, 주님을 버리고, 그렇게 되어도 상관없으니 우리에게 인간의 왕을 달라고 요구했습니다. 현재도 백성을 착취하는 지배자, 권위를 남용하는 독재자는 군림하고, 세계 곳곳에서 싸움은 끊이지 않습니다. 우리가 회개했을 때 주어지는 메시아이신 왕은 이런 왕이 아니라는 것입니다. 성경에 적혀 있는 메시아이신 왕이란, 사람들의 섬김을 받기 위해서가 아니라, 섬기기 위해서 오시는 것입니다. 나귀 새끼를 타고, 대속물로서 자신의 생명을 바치시기 위해 오시는 것입니다. 그 겸손함은 십자가의 죽음에 의해서 정점에 이를 것입니다. 이 분이야말로, 이스라엘에 하나님과의 화해를 가져오고, 죄의 용서와 평화를 주시는, 이스라엘의 진정한 왕입니다.

결론

제자들은 그 사실을 뒤늦게 깨닫게 됩니다. 나중에 돌아봤을 때, 예수님께서, 자신이 메시아이심의 표시를 주신 것이 얼마나 은혜로운 일이었는지 깨닫게 되는 것입니다. 그리고 마음속에 각인된 하나하나의 사건들을, 결코 잊을 수 없었을 것입니다. 두 제자는 나귀 새끼를 예수께로 끌고 와서 자기들의 겉옷을 그 위에 얹어 놓은 것, 그 일을 평생 잊지 못했을 것입니다. 나귀 새끼를 타신 왕은 「호산나 찬송하리로다 주의 이름으로 오시는 이여」라는 할렐루야 시편을 받으신 것, 하나하나의 사건이 현장감 있게 상기되는 것입니다. 이 분은, 바로 스가랴서에 예언된, 기쁨과 평화를 가져오는 대망의 메시야셨습니다. 그것은 애초에 마음에 그리던 왕은 아니었지만, 그 이상의 분, 온화하고 겸손하고 교만하게 굴지 않는 진정한 왕이며, 자신의 백성을 영원히 다스려 주시는 하나님의 아들이셨습니다. 인간의 죄 때문에 하나님과의 관계가 단절되었지만, 다시 하나님과의 관계를 화해시켜 주시고 하나님의 백성을 영원한 축복 가운데로 초대해 주시는 왕이신 것입니다.

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