2024年02月25日「仕えられるためではなく仕えるために 섬김을 받으려 함이 아니라 도리어 섬기려 하고」

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仕えられるためではなく仕えるために 섬김을 받으려 함이 아니라 도리어 섬기려 하고

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 10章35節~45節

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聖句のアイコン聖書の言葉

10:35ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」
10:36イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、
10:37二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
10:38イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」
10:39彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。
10:40しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
10:41ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。
10:42そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
10:43しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
10:44いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
10:45人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 10章35節~45節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

イエス様の公生涯と呼ばれる約三年間の間、イエス様は弟子たちと寝食を共にされました。そして弟子たちに、常に教えを語ってきたはずです。ですから福音書には記されていない多くのドラマがそこあり、多くのイエス様との語らいがそこにあったことでしょう。マルコ福音書8章27節以下で、ペトロは弟子たちを代表し「あなたはメシアです」と信仰を言い表しました。しかし、その直後、第一回目の受難告知が語られると、ペトロはイエス様をわきへお連れし、いさめ始めました。「あなたはメシアです」と言い表したその内容が正確に何を意味しているのか全く自覚されていなかったということが、ペトロにおいて明らかにされました。そのことはペトロだけではありません。本日の箇所では、ヤコブにおいても、ヨハネにおいても、そしてその他の弟子たちにおいても、「あなたはメシアです」という、その告白が正確に何を意味しているのか自覚されていないということが明らかにされます。今朝の御言葉は、先週、扱った聖書箇所と同じでありますが、大切な箇所ですから前回とは異なる視点で御言葉に聞いて、恵みに与っていきたいと思います。

【1】. 私が飲む杯、私が受ける洗礼

さて、イエス様の三回目の受難告知の後、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」と言いました。イエス様が「何をしてほしいのか」と言われると、二人は、厚かましくも「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と申し出たのです。41節を見ればわかりますが、後でこのことを聞いた他の10人の弟子たちは、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めました。彼らは決してイエス様を気遣って腹を立てたのではありません。自分たちが出し抜かれたことに気づき、頭に一気に血が上って憤怒したのであります。つまり、他の10人の弟子たちもヤコブとヨハネと同じように、イエス様の右と左の座を狙っていたということです。興味深いことは、三度の受難告知を通して、イエス様はお決まりのように、その後、自己否定に関する教え、或いは、仕えることに関する教えを語られたということです。一回目の受難告知の後に、イエス様は次のようなことを教えられました。8:34-35をご覧ください。

“それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。”

次に、二回目の受難告知の後には、こんなことが教えられています。9: 35です。

“イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」”

ご覧のように受難告知の後、自己否定の教え、仕えることの教えが繰り返されています。三回目の受難告知は、それにも拘らず、弟子たちが依然として理解することができないということが強調されているのです。弟子たちの無理解は、イエス様の十字架と復活を通してでなければ、決して解かれないもの、決して治らないものでありました。仮に、この後、四度、五度に渡り、受難告知と、仕えることの教えが語られたとしても、弟子たちは誰が一番大いなる者かについての議論を止めることはなかったでしょう。イエス様はヤコブとヨハネの願いに対し、頭越しに叱りつけるのではなく、忍耐強く教え諭してくださいました。38~40節をご覧ください。

“イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼(バプテスマ)を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたは、私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼(バプテスマ)を受けることになる。しかし、私の右や左に座ることは、私の決めることではない。定められた人々に許されるのだ。」”

イエス様は、ヤコブとヨハネに、私がこれから受ける苦難の「杯」を飲むことができるか、苦難の中に沈み込む「洗礼」を受けることができるか、と問い掛けています。それに対し二人は「出来ます」と豪語しました。「出来ません」と言えば、右と左に着くことができないとでも思ったのでしょうか。イエス様は、そのように答えた二人に対して、「確かに、あなたがたは、私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることになる。」と言われました。この時イエス様は、復活の後、二人が福音伝道者となって体験するであろう苦難の杯と、苦難の洗礼を見ておられた訳ですが、右や左に座らせるのは、イエス様のお決めになることではないにしても、この時、イエス様の語られた約束は大変驚くべきお言葉だと思います。実際、彼らはイエス様の十字架と復活の後、聖霊を受けて、イエス様の御名のために苦難を受けることを喜ぶ者へと変えられました(使徒5:41)。使徒言行録の12章には、ヘロデ大王の孫にあたる、ヘロデアグリッパ一世の迫害によって、ヤコブが剣で殺されるということが記されています。12使徒の中で最初の殉教者となりました。この時、ヤコブがいよいよ剣によって殺される時、きっとイエス様の教えを思い出したに違いありません。そして、キリストの弟子として自らの杯を飲み干し、自らの十字架を担うことができた自分の人生を振り返って、きっと平安のうちに、息を引き取ったに違いありません。そのイエス様の教えとは、42~44節に書かれている教えです。この教えは、語られた時点では彼らに理解されませんでしたが、後に十字架と復活を通して、理解されることになります。42~44節をご覧ください。

【2】. 仕えられるためではなく、仕えるために

“そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。”

この42~44節において、「あなた方の間で」(エン フィミン)という言葉が三回も出てきます。43節で二回、それから新共同訳聖書では省略されていますが44節の冒頭で一回です。「あなた方の間で」、つまり教会においてということです。教会においては、世の異邦人の間で行われている仕方に追従してはならない。教会の仕方と、世の仕方が対照に置かれているのが見て取れます。これは、教会が、神の国の前触れ、神の国の現れであるということでしょう。世の異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たち、つまり直訳すると「大いなる者たち」が、権力を振るいます。考えてみれば、現在世界中で起こっている、テロや、他国の領土の侵略や紛争、国同士の戦争とは、支配者や、大いなる者たちが、権力を強硬に振るった結果なのかもしれません。そしていつでも、その犠牲となる人々は、弱い立場の人々であり、小さき者たちであり、子供たちです。しかし、神の国において、大いなる人、偉い人とは、「皆に仕える者である。」「立場の弱い人々や子供たちに仕える者である。」とイエス様は言われます。「仕える者」とは、ギリシャ語で「ディアコノス」で、この言葉は「執事」とも訳すことができるんですね。執事という職分は、神の国でいかに栄光な職分であるのか理解することができます。さらに、イエス様は、一番上になりたい者は、すべての人の「僕」になりなさいと言われました。僕とは、ギリシャ語で「ドゥロス」で、この言葉は「奴隷」とも訳すことができます。恐らくこの時、弟子たちの間で、自ら進んで「仕える者」、「奴隷」になりたいと願った者は一人もいなかったでしょう。人は誰であれ、奴隷のように他人からぞんざいに扱われることを体験したくないからです。誰であれ、多くの人々から傷を受け、これ以上傷つきたくないと思っているからです。イエス様の語られる教えとは、確かに美しい教えですが、そんなこと実行不可能であり、口先だけのきれい事のように聞こえたことでしょう。だからこそ、弟子たちは繰り返し同じことを教えられても、誰が一番大いなる者なのか、お互いの序列のことばかり気にしていたのだと思います。それでは、十字架と復活を通して、弟子たちの中で一体何がどのように変化したのでしょうか。それは、最後の45節の御言葉が、預言の言葉としてイエス様において成就され、この美しい教えを、きれい事のような教えを、そのまま実行された方が、まさにメシアであられるイエス様であったということに気づかされた点であります。45節をご覧ください。

“人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。”

新共同訳には省略されていますが、45節の冒頭に「なぜなら」という言葉が挿入されています。三度語られた受難告知の、その原因が、その理由が、「なぜなら」で始まる45節において語られていると解釈することもできます。また、「身代金」という言葉は、新約聖書の中でたった二回だけ(並行記事のマタイ20:28に)しか出てこない大変珍しい言葉です。「償いの献げ物」とほぼ同等の意味であると考えられています。頻度が少ないからと言って重要ではないということにはなりません。旧約聖書の中に償いの献げ物という言葉が用いられている一文が、イザヤ書に出てきますので、その一文と並べて45節を黙想したいと思います。イザヤ53:6-10をご覧下さい。

“わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を刈る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。”

預言者イザヤは、「わたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた」と語っています。この、彼とは一体誰なのでしょうか。彼は屠り場に惹かれる子羊のように口を開かず、裁きを受けて、命を取られました。彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、罪人として殺されました。自らの命を償いの献げ物としたのです。そして、主の望まれることは彼の手によって成就されました。預言者イザヤが語る、この彼とは一体誰なのでしょうか。それはイエス様であります。そして、マルコ10:45節で「多くの人の身代金として献げるために来た」と語られたイエス様のお言葉と、イザヤ書の御言葉の二つを、十字架と復活の後、照らし合わせて見たときに、弟子たちは、イザヤ書に書かれた預言が、メシアとして来られたイエス様のことであったということに光が差し込まれたに違いありません。かつて「あなたはメシアです」と告白しましたが、自分たちが告白した内容が正確に何を意味しているのか、ようやく弟子たちにおいて立体的な理解として立ち上がって来たのです。仕えられるためではなく、仕えるために来られ、ディアコノスのように、ドゥロスのように自分を低くされる教えを、そのまま実行された方が、まさにイエス様であられたのです。身代金としてご自身の命を献げられ、罪の支配からあなた方を解放したと言われるのです。テロ、侵略、戦争による悪循環のスパイラルからあなた方を解放したと言われるのです。あなた方はメシアであるイエス様の御苦しみによって贖われた。メシアにあって、神の国があなた方の間に到来したということです。弟子たちの先生であるイエス様が、そのように自分たちを愛してくださり、仕えてくださいました。そうであるなら、キリストの弟子たちは、なおさらのこと、自らを低くし、仕える者、僕として歩むべきであると、弟子たちの価値観、弟子たちの認識が180度方向転換させられたのです。このようにして弟子たちはイエス様の御名のために苦難を受けることを喜ぶ者へと変えられました。ヤコブは殉教の死を前に、平安のうちに、息を引き取ったに違いないのであります。

【結論】

私たちは、今、受難節(レント)の時期を過ごしています。主の御苦しみを黙想し、その意味をはっきりと知るなら、私たちの人生が、主が歩まれたように、仕えることを喜びとする人生になることでしょう。主の御苦しみに共に与るなら、愛の人として豊かな実を結ぶことができるでしょう。私たちは、イエス様によって買い取られました。私たちはイエス様の中で生かされています。そしてイエス様は今日、ヤコブとヨハネに語られたように、私たちにも同じように語ってくださいます。「あなた方は私が飲む杯を飲み干し、私が受ける洗礼を受けることになる。」「キリストの受難に与りながら、最後まで信仰を全うすることができる」と語ってくださるのです。この御言葉は、私たちにとってどれほど深い慰めとして迫って来ることでしょうか。私たちは、主が天に備えていてくださる豊かな祝福を仰ぎ見て、謙遜に、忍耐強く、愛の実を豊かに結ぶ者として、主の約束の中、主の御苦しみに与ることができるのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

섬김을 받으려 함이 아니라 도리어 섬기려 하고

2024년 2월 25일 센겐다이 교회 주일설교

마가복음 10장 35~45절

서론

예수님의 공생애라고 불리는 약 3년 동안 예수님은 제자들과 숙식을 같이 하셨습니다. 그리고 제자들에게 늘 가르치셨을 것입니다. 그래서 복음서에는 기록되지 않은 많은 드라마가 그곳에 있었고, 많은 예수님과의 대화가 그곳에 있었을 것입니다. 마가복음 8장 27절 이하에서 베드로는 제자들을 대표하여 「주는 그리스도시니이다」라고 믿음을 표현했습니다. 그러나 그 직후 첫 번째 수난 고지를 말씀하시자, 베드로는 예수님을 붙들고 항변하기 시작했습니다. 「주는 그리스도시니이다」라고 표현한 그 내용이 정확히 무엇을 의미하는지 전혀 자각되지 않았다는 것이 베드로에 의해 밝혀졌습니다. 그 일은 베드로 뿐만이 아닙니다. 오늘의 본문에서는 야곱에게서도, 요한에게서도, 그리고 그 밖의 제자들에게서도, 「주는 그리스도시니이다」라고 표현한 그 내용이 정확히 무엇을 의미하는지 전혀 자각되지 않았다는 것이 베드로에게 밝혀졌습니다. 그 일은 베드로 뿐만이 아닙니다. 오늘 본문의 야곱에게서도, 요한에게서도 그리고 그 밖의 제자들에게서도 「주는 그리스도시니이다」라는 그 고백이 정확히 무엇을 의미하는지 자각하지 못하고 있다는 것이 밝혀집니다. 오늘 아침의 말씀은 지난 주에 다루었던 성경 부분과 겹치는 구절이 있습니다만, 중요한 부분이기 때문에 지난 번과는 다른 시점에서 말씀을 살펴보고 은혜를 얻고자 합니다.

(1) 내가 마시는 술잔, 내가 받는 세례

자, 예수님의 세 번째 수난 고지 후에, 세배대의 아들 야곱과 요한이 나서서 「선생님이여 무엇이든지 우리가 구하는 바를 우리에게 하여 주시기를 원하옵나이다」라고 말합니다. 예수님께서 「너희에게 무엇을 하여 주기를 원하느냐」고 말씀하시자 두 사람은 뻔뻔스럽게도 「주의 영광중에서 우리를 하나는 주의 우편에, 하나는 좌편에 앉게 하여 주옵소서」라고 말했습니다. 41절을 보면 알겠지만 나중에 이 일을 들은 다른 열 명의 제자들은 야곱과 요한에 대해 화를 내기 시작했습니다. 그들은 결코 예수님을 염려하여 화를 낸 것이 아닙니다. 자신들보다 앞섰다는 것을 깨닫고 머리에 한꺼번에 피가 차올라 분노한 것입니다. 즉 다른 열 명의 제자들도 야곱과 요한과 마찬가지로 예수님의 오른쪽과 왼쪽 자리를 노리고 있었다는 것입니다. 흥미로운 것은 세 번의 수난 고지를 통해 예수님께서는 상투적으로, 그 후 자기 부정에 관한 가르침 혹은 섬김에 관한 가르침을 말씀하셨다는 것입니다. 첫 번째 수난 고지 후에 예수님께서는 다음과 같은 것을 가르치셨습니다. 8장 34,35절을 보세요.

34 무리와 제자들을 불러 이르시되 누구든지 나를 따라오려거든 자기를 부인하고 자기 십자가를 지고 나를 따를 것이니라

35 누구든지 자기 목숨을 구원하고자 하면 잃을 것이요 누구든지 나와 복음을 위하여 자기 목숨을 잃으면 구원하리라

그 다음 두 번째 수난 고지 후에는 이런 말씀을 하셨습니다. 9장 35절입니다.

예수께서 앉으사 열두 제자를 불러서 이르시되 누구든지 첫째가 되고자 하면 뭇 사람의 끝이 되며 뭇 사람을 섬기는 자가 되어야 하리라 하시고

보시는 것처럼 수난 고지 후 자기 부정의 가르침, 섬김의 가르침이 반복되고 있습니다. 세 번째 수난 고지는 그럼에도 불구하고 제자들이 여전히 이해하지 못하고 있다는 것이 강조되고 있습니다. 제자들의 몰이해는 예수님의 부활을 통해서가 아니면 결코 알수 없는 것, 결코 개선되지 않는 것이었습니다. 만일 이 후 네 번, 다섯 번에 걸쳐 수난 고지와 섬김의 가르침을 들었다 하더라도 제자들은 누가 가장 큰 자인가에 대한 논의를 멈추지는 않았을 것입니다. 예수님께서는 야곱과 요한의 소원에 대해 무조건 꾸짖는 것이 아니라 인내심을 가지고 가르치셨습니다. 38~40절을 보세요.

38 예수께서 이르시되 너희는 너희가 구하는 것을 알지 못하는도다 내가 마시는 잔을 너희가 마실 수 있으며 내가 받는 세례를 너희가 받을 수 있느냐

39 그들이 말하되 할 수 있나이다 예수께서 이르시되 너희는 내가 마시는 잔을 마시며 내가 받는 세례를 받으려니와

40 내 좌우편에 앉는 것은 내가 줄 것이 아니라 누구를 위하여 준비되었든지 그들이 얻을 것이니라

예수님은 야곱과 요한에게 내가 앞으로 받을 고난의「잔」을 마실 수 있는지, 고난 속으로 가라앉는 「세례」를 받을 수 있는지 묻고 계십니다. 이에 두 사람은 「할 수 있나이다」라고 호언장담했습니다. 「할 수 없나이다」라고 말하면 오른쪽과 왼쪽에 앉을 수 없다고 생각했던 것일까요? 예수님은 그렇게 대답한 두 사람에게 「너희는 내가 마시는 잔을 마시며 내가 받는 세례를 받으려니와」라고 말씀하셨습니다. 이때 예수님께서는, 부활 후, 두 사람이 복음 전도자가 되어 겪을 고난의 잔과 고난의 세례를 보셨는데, 오른쪽이나 왼쪽에 앉히는 것은 예수님의 결정이 아닐지라도 이때 예수님이 하신 약속은 매우 놀라운 말씀이라고 생각합니다. 실제로 그들은 예수님의 십자가와 부활 후, 성령을 받아 예수님의 이름 때문에 고난을 받는 것을 기뻐하는 자로 변했습니다(사도행전 5장 41절). 사도행전의 12장에는 헤롯 대왕의 손자인 헤롯 아그립파 1세의 박해로 야곱이 칼로 죽임을 당한다는 사실이 적혀 있습니다. 열 두 사도중 최초의 순교자가 되었습니다. 이때 야곱이 드디어 칼에 의해 죽임을 당할 때, 분명 예수님의 가르침을 떠올렸을 것입니다. 그리고 그리스도의 제자로서 스스로의 잔을 들이키고, 스스로의 십자가를 짊어질 수 있었던 자신의 삶을 돌아보며 분명 평안 속에 숨을 거뒀음에 틀림이 없었을 것입니다. 그 예수님의 가르침이란 42~44절에 적혀있는 가르침입니다. 이 가르침은 말씀하신 시점에서는 그들에게 이해되지 않았지만 나중에 십자가와 부활을 통해 이해하게 됩니다. 42~44절을 보시기 바랍니다.

(2) 섬김을 받으려 함이 아니라 도리어 섬기려 하고

42 예수께서 불러다가 이르시되 이방인의 집권자들이 그들을 임의로 주관하고 그 고관들이 그들에게 권세를 부리는 줄을 너희가 알거니와

43 너희 중에는 그렇지 않을지니 너희 중에 누구든지 크고자 하는 자는 너희를 섬기는 자가 되고

44 너희 중에 누구든지 으뜸이 되고자 하는 자는 모든 사람의 종이 되어야 하리라

이 42~44절에서 「너희 중에(엔 휘민)」이라는 말이 세 번이나 나옵니다. 43절에서 두 번, 그리고 신공동역 성경(일본어성경)에서는 생략되어 있지만 44절의 첫 머리에서 한 번입니다. 「너희 중에」즉, 「교회에서」라는 것입니다. 교회에서는 세상의 이방인들 사이에서 행해지는 방식을 추종해서는 안 된다는, 교회의 방식과 세상의 방식이 비교되고 있는 것을 알 수 있습니다. 이것은 교회가 하나님 나라의 전조, 하나님 나라의 모습이라는 것일 것입니다. 세상의 이방인들 사이에서는 지배자로 간주되는 사람들이 백성을 지배하고, 지위가 높은 사람들. 즉 직역하면 「큰 자들」이 권력을 휘두릅니다. 생각해 보면, 현재 전 세계에서 일어나고 있는 테러나, 타국의 영토 침략이나 분쟁, 국가간의 전쟁이란, 지배자나, 높은 지위의 사람들이 권력을 강경하게 휘두른 결과인지도 모릅니다. 그리고 언제라도 그 희생이 되는 사람들은 약한 입장의 사람들이고, 작은 자들이며, 아이들입니다. 그러나 하나님의 나라에서 큰 자, 높은 자란 「모두를 섬기는 자」이며 「입장이 약한 사람들이나 아이들을 섬기는 자」라고 예수님은 말씀하십니다. 「섬기는 자」는 헬라어로 「디아코노스」로 이 말은 「집사」라고도 번역할 수 있습니다. 집사라는 직분은 하나님 나라에서 얼마나 영광스러운 직분인지 이해할 수 있습니다. 더구나 예수님께서는 가장 위에 오르고 싶은 자는 모든 사람의 「종」이 되라고 하셨습니다. 「종」은 헬라어로 「둘로스」로 이 말은「노예」라고도 번역할 수 있습니다. 아마 이때 제자들 사이에서 스스로 「섬기는 자」「노예」가 되고 싶었던 자는 단 한 명도 없었을 것입니다. 사람은 누구든 노예처럼 남에게 함부로 대하는 것을 겪고 싶지 않기 때문입니다. 누구든 많은 사람들로부터 상처를 받거나, 더 이상은 상처받고 싶지 않을 것이기 때문입니다. 예수님이 말씀하시는 가르침이란 분명 숭고한 가르침이지만, 그런 것은 실행 불가능하고 말뿐인 그럴듯한 것처럼 들렸을 것입니다. 그렇기 때문에, 제자들은 반복적으로 같은 것을 가르침을 받고도 누가 가장 큰 자인지 서로의 서열에 대해서만 신경을 썼다고 생각합니다. 그렇다면 십자가와 부활을 통해 제자들의 도대체 무엇이 어떻게 변화했을가요? 그것은 마지막 45절 말씀이 예언의 말씀으로 예수님에 의해 성취되었고, 이 숭고한 가르침을, 말로만 그럴듯하게 들리는 것과 같은 가르침을 그대로 실행하신 분이 바로 메시아이신 예수님이셨다는 것을 깨닫게 된 점입니다. 45절을 보세요.

인자가 온 것은 섬김을 받으려 함이 아니라 도리어 섬기려 하고 자기 목숨을 많은 사람의 대속물로 주려 함이니라

신공동번역(일본어성경)에는 생략되어 있지만 45절 첫머리에 「왜냐하면」이라는 말이 삽입되어 있습니다. 세 번 언급된 수난 고지의 그 원인이 그 이유가 「왜냐하면」으로 시작하는 45절에서 이야기되고 있다고 해석할 수도 있습니다. 또 「대속물」이라는 말은 신약성경에서 단 두 번(병행기사 마태복음 20장 28절)에 밖에 나오지 않는 아주 특이한 말입니다. 「속건제물」과 거의 동등한 의미로 여겨집니다. 빈도가 적다고 해서 중요하지 않다는 것은 아닙니다. 구약성경 중에 「속건제물」이라는 말이 사용되고 있는 한 문장이 이사야서에 나오므로 그 한 문장과 나란히 45절을 묵상하고자 합니다. 이사야 53장 6~10절을 보시기 바랍니다.

6 우리는 다 양 같아서 그릇 행하여 각기 제 길로 갔거늘 여호와께서는 우리 모두의 죄악을 그에게 담당시키셨도다

7 그가 곤욕을 당하여 괴로울 때에도 그의 입을 열지 아니하였음이여 마치 도수장으로 끌려 가는 어린 양과 털 깍는 자 앞에서 잠잠한 양 같이 그의 입을 열지 아니하였도다

8 그는 곤욕과 심문을 당하고 끌려 갔으나 그 세대 중에 누가 생각하기를 그가 살아 있는 자들의 땅에서 끊어짐은 마땅히 형벌 받을 내 백성의 허물 때문이라 하였으리요

9 그는 강포를 행하지 아니하였고 그의 입에 거짓이 없었으나 그의 무덤이 악인들과 함께 있었으며 그가 죽은 후에 부자와 함께 있었도다

10 여호와께서 그에게 상함을 받게 하시기를 원하사 질고를 당하게 하셨은즉 그의 영혼을 속건제물로 드리기에 이르면 그가 씨를 보게 되며 그의 날은 길 것이요 또 그의 손으로 여호와께서 기뻐하시는 뜻을 성취하리로다

예언자 이사야는 「우리 모두의 죄악을 그에게 담당시키셨도다」라고 말하고 있습니다. 이 「그」는 도대체 누구일까요? 그는 도수장에 끌려가는 어린 양처럼 입을 열지 않고 재판을 받고 목숨을 빼앗겼습니다. 그는 강포를 행하지 아니하였고 입에 거짓이 없었으나 죄인으로 살해 당했습니다. 자신의 목숨을 「속건제물」로 삼았습니다. 그리고 주님의 뜻은 그의 손에 의해 성취되었습니다. 예언자 이사야가 말하는 이 「그」는 도대체 누구일까요? 그것은 예수님입니다. 그리고 마가복음 10장 45절에서 「자기 목숨을 많은 사람의 대속물로 주려 함이니라」고 하신 예수님의 말씀과 이사야서의 말씀 두 가지를 십자가와 부활 후, 대조해 보았을 때, 제자들은 이사야서에 적힌 예언이 메시아로 오신 예수님의 일이었다는 것을 빛 가운데 깨달았음에 틀림이 없었을 것입니다. 일찍이 「주는 그리스도시니이다」라고 고백했지만, 자신들이 고백한 내용이 정확히 무엇을 의미하는지, 그제서야 제자들에게 입체적인 이해로 다가온 것입니다. 섬김을 받으려 함이 아니라 도리어 섬기려 오셨고, 디아코노스처럼, 둘로스처럼 자신을 낮추시는 가르침을 그대로 실행하시는 분이 바로 예수님이셨던 것입니다. 대속물로서 자신의 목숨을 바쳐, 죄의 지배로부터 너희를 해방시켰다고 제자들에게 말씀하시는 것입니다. 테러, 침략, 전쟁에 의한 악순환의 소용돌이로부터 여러분을 해방시켰다고 하는 것입니다. 너희는 메시아이신 예수님의 고통으로 속죄받았다, 메시아를 만났고, 하나님의 나라가 너희에게 도래했다고 제자들에게 말씀하시는 것입니다. 제자들의 선생님이신 예수님께서 그렇게 자신들을 사랑해주시고 섬겨주셨습니다. 그렇다면 그리스도의 제자들은 더욱더 스스로를 낮추고 섬기는 자, 종으로 살아야 한다고, 제자들의 가치관, 제자들의 인식이 180도 방향을 틀게 된 것입니다. 이렇게 해서 제자들은 예수님의 이름 때문에 고난 받는 것을 기뻐하는 자로 바뀌었습니다. 야곱은 순교의 죽음을 앞두고 평안한 가운데 숨을 거둔 것이 틀림없습니다.

결론

우리는 지금 수난절(렌트)의 시기를 보내고 있습니다. 주님의 괴로움을 묵상하고 그 뜻을 분명히 안다면 우리의 삶이, 주님이 걸어가신 것처럼, 섬기는 것을 기쁨으로 하는 삶이 될 것입니다. 주님의 고통에 함께 참여한다면, 사랑의 사람으로서 풍성한 열매를 맺을 수 있을 것입니다. 우리는 예수님에 의해 속량되었습니다. 우리는 예수님 안에서 살고 있습니다. 그리고 예수님은 오늘 야곱과 요한에게 말씀하신 것처럼 우리에게도 똑같이 말씀하십니다. 「너희는 내가 마시는 잔을 마시며 내가 받는 세례를 받으려니와」「그리스도의 수난에 참여한다면 최후까지 믿음을 다 할 수 있다」라고 말씀해 주시는 것입니다. 이 말씀은 우리에게 얼마나 깊은 위로로 다가올까요? 우리는 주님이 하늘에 준비해 주시는 풍성한 복을 우러러 보며 겸손하게 인내하고, 사랑의 열매를 풍성하게 맺는 자로서, 주님의 약속 가운데 주님의 고난에 참여 할 수 있는 것입니다.

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