2024年02月11日「一つ欠けているもの 한 가지 부족한 것이 있으니」

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一つ欠けているもの 한 가지 부족한 것이 있으니

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 10章17節~31節

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聖句のアイコン聖書の言葉

10:17イエスが道に出て行かれると、ある人が走り寄り、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
10:18イエスは言われた。「なぜ私を『善い』と言うのか。神おひとりのほかに善い者は誰もいない。
10:19『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父と母を敬え』という戒めをあなたは知っているはずだ。」
10:20するとその人は、「先生、そういうことはみな、少年の頃から守ってきました」と言った。
10:21イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」
10:22彼はこの言葉に顔を曇らせ、悩みつつ立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
10:23イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」
10:24弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは重ねて言われた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。
10:25金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。」
10:26弟子たちはますます驚いて、「それでは、誰が救われることができるのだろうか」と互いに言った。
10:27イエスは彼らを見つめて言われた。「人にはできないが、神にはできる。神には何でもできるからだ。」
10:28ペトロがイエスに、「このとおり、私たちは何もかも捨てて、あなたに従って参りました」と言いだした。
10:29イエスは言われた。「よく言っておく。私のため、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は誰でも、
10:30今この世で、迫害を受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を百倍受け、来るべき世では永遠の命を受ける。
10:31しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 10章17節~31節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

最も無力で貧しく影響力のない子供たちに、神の国はこのような者たちのものだと言われ、最も力があり裕福で影響力のある人に、神に国に入ることは難しい、と主イエスは言われました。これは一体どういうことでしょうか。今朝、お読みした御言葉は、イエス様がエルサレムへの道に進むため、とどまっていた所から出立したときの出来事であります。道に出ると、財産家のある人がイエス様の下に走り寄って来て、イエス様に質問いたしました。この人物について、マタイによる福音書では「財産を持った青年」として紹介されており、ルカによる福音書では「財産を持った議員」として紹介されています。彼は財産家であり、年齢が若いながら議員であって、何の申し分のない人物でした。そんな彼とイエス様との間になされた会話を通して、今朝も御言葉から恵みに与っていきたいと思います。17~18節をご覧ください。

【1】. 善い先生

“イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。”

この青年は物質的な豊かにとどまらず、加えて、霊的な面、つまり信仰的な面においても飢え渇きをもっていました。走り寄って、ひざまずき「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」とイエス様に質問しています。見たところ、大変好感が持てる人物だと思ってしまいますが、しかし「何をすればよいでしょうか?」という彼の質問から、「永遠の命は、あたかも自分の行いや、自分の努力によって得られるもの」という考え方が垣間見えます。イエス様は、彼に「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」と言い、ご自身に対する称賛の言葉を、はねつけられました。どうやら「善い」という言葉をめぐり、青年の意図するところと、イエス様の意図するところとで、噛み合わなかったようです。「善い」とは、ギリシア語では「アガトス」という言葉ですが、この言葉はヘブライ語の「トーブ」という言葉の翻訳語として使われています。英語ではgoodと翻訳されていますが、日本語では、この言葉は「善」、「良い」という意味の他にも、非常に多様に翻訳されています。例えば「美しい (1サム9:2)」「目に適う (1サム3:18)」「幸い (民10:32, 申30:15, 詩編33:13)」「賜物 (申26:11)」「恵み (申28:11-12, 詩編23:6, 詩編27:13, 詩編54:8, 詩編73:1)」などです。当然ですが、青年が「善い先生」とイエス様を呼んだ時、その言葉はイエス様を神として告白しているということではありませんでした。彼は、「善い」という言葉を、相対的な意味で使用しているのですが、イエス様は「善い」という言葉を、神の属性として捉え、絶対的な善、絶対的な恵み、絶対的な上からの賜物という意味で使用しているということです。イエス様は、彼に対し十戒の掟を、永遠の命を得るための基準として示されました。19-20節をご覧ください。

“『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。”

ここでイエス様は、第六戒から第十戒まで順に語り、最後は第五戒の「父母を敬え」という戒めによって締めくくっています。本来、律法とは、人々に自分の罪を悟らせ、救い主であるイエス様へと導く案内係でありますが、この青年にとって律法はそのようには機能しませんでした。「そういうことはみな、子供の時から守ってきた」という言葉の中に、彼の自負心と、そんなことを聞いているのではなくて、それ以上のことを聞きたかったという、彼の失望感を感じ取ることができます。「子供の時から守ってきた」という彼の言葉は、決して嘘ではなかったと思います。どのような水準で律法を守るのかは別として、子供の時から律法に慣れ親しんでいるユダヤ人にとって、十戒を表面的に守ることは当たり前のことでした。おそらく彼は、永遠の命を受け継ぎたいと真剣に願っていたわけですから、人よりも熱心に十戒を守っていたに違いありません。しかし、それは相対的な意味に過ぎません。律法を真剣に守ろうとするなら、それはやはり無理な話しであり、この世に義人は一人もいないという告白をせざるを得ないのです。イエス様は、彼に相対的な善ではなく、絶対的な善を、絶対的な恵みを、絶対的な上からの賜物を手に入れるように語られます。そして、それは彼の度肝を抜くような内容でもありました。21、22節をご覧ください。

【2】. 一つ欠けているもの

“イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。”

このイエス様の御言葉は、財産家の人は全て、自分の財産を売り払い、それを貧しい人々に施し、すべての物を共有しなければならないという意味ではありません。イエス様は、この青年にたくさんのことを同時に要求しているように見えますが、実は一つのことだけを要求しています。青年に一つ欠けたものとは何か。それは、「わたしに従いなさい」ということです。21節の冒頭には、「イエスは彼を見つめ、慈しまれた」と書かれていますね。イエス様はこの財産家を愛され、「わたしに従いなさい」と招きの言葉をかけてくださったのです。イエス様に従うことこそ、永遠の命を受け継ぐことであり、恵みによって義とされる道だからです。ところが、この人にとって、自分の財産が偶像のようになっていて、イエス様に従うということにおいて障害となっていましたから、イエス様はあえて、彼に「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言ったと考えられるのです。

聖書には、イエス様の招きのことばに従うことができなかった人々と、従うことができた人々とが描かれていますが、それぞれのケースについて調べてみたいと思います。最初に招きに従うことができなかったケースです。ルカ9:57~62をご覧ください。

“一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。”

イエス様はご自身に従わせるために、ある人には枕する所もない、劣悪な環境を覚悟することを要求しました。またある人には、ユダヤ人であれば誰もが大切にしていた死者を葬ることの常識的な価値観に捕われることがないように要求しました。またある人には、家族を何より優先にする家族愛を放棄することを要求しました。イエス様に従う上で、その人にとって障害となるものを放棄しなさいと、イエス様は言われるのです。イエス様を第一優先にするためであります。次にイエス様の招きに従うことができたケースとして、ペトロとアンデレの召命の記事を見てみましょう。マルコ1:17~18をご覧ください。

“イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。”

ペトロとアンデレのケースでは、彼らは自分たちの商売道具である網を捨てて、イエス様に従って行ったと書かれています。続いて、徴税人レビ(マタイ)の召命の場面も見てみましょう。マルコ2:14をご覧ください。

“そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。”

徴税人レビのケースでは、大変お金になるその職業を捨てて、イエス様に従っていきました。イエス様の招きに従う時、その際、その人にとって障害となるものが何かあり、それを放棄する時に、それを捨てる時に、イエス様に従い行くことができるのです。これは私たちの召命についても同じことが言えるのではないでしょうか。イエス様から直接呼ばれた時、私たちも何らかのものを放棄してイエス様に従ったのであります。財産家の青年にとっては、その放棄すべきものとは彼の財産でありましたが、彼は、悲しみながらその場から立ち去っていきました。富も、人望も、名声も、すべてのものを兼ね備えているように見えた青年ですが、永遠の命を受け継ぐために必要な、たった一つのものを備えることができなかったのです。それは目の前にいるイエス様に従うことです。子供のように自分をイエス様に委ね、その方に信頼し、明け渡すことです。

【3】. 天に積まれた祝福

さて、イエス様は弟子たちを見回しながら「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言われました。弟子たちはこの言葉を聞いて驚いたとあります。ここには、当時の弟子たちの富に対する考え方、富に対する概念が如実に現れています。神の国とは、病が癒され、清さと、幸いと、豊かさで満ち溢れているところですから、当時、富める者、財産家とは、神様に祝福された人として考えられていました。一方、貧しい者、病んでいる者とは、神様から刑罰が下された罪人として考えられていました。従って財産家の青年は、ここにいる弟子たちの誰よりも神の国に近い人物であると考えられていた可能性があります。その財産家の彼を指して、神の国に入るのはなんと難しいことかと言われ、さらに24節においても繰り返し、「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言われるのです。究極的に、人間が神の国に入れられることは、らくだが針の穴を通るのが不可能であるように、不可能なことだと言われました。それは財産家の男だから入れないというのではなく、誰であれ、人間の力では決して入ることはできないという意味です。しかしイエス様は「人間にできることではないが、神にはそれができる」と言われるのです。ただ、救い主であるイエス・キリストを信じることによって、イエス・キリストに従い行くことによって、神の国に入れられるのです。すると、ペトロは28節でイエス様に言い出しました。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」。何か優越感に浸って自らを誇っているようにも聞こえてきますが、イエス様は、このペトロの言葉をそのまま受け入れられ、次のようにおっしゃっています。大変意義深いお言葉です。29~31節をご覧ください。

“イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」”

冒頭の「はっきり言っておく」とは、アーメンという言葉です。「あなた方に確かに言っておく」とイエス様は保証されます。「家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てて、子供のようにイエス様に従うならば、この世で迫害を受けることはあるものの、捨てたものの百倍の祝福を受ける」と言われました。さらには、「後の世では永遠の命を受ける」と言われました。この意味は、キリスト者は主にあって兄弟姉妹であるため、全世界のキリスト者とキリスト教会とが、私たちの家であり、兄弟、姉妹、母、子供、畑になるという意味です。そして、地上の教会だけに留まりません。時間を超えた天上にある勝利した教会とも、私たちは家族として交わりを持つ者とされるのです。「百倍」という言葉に注目してください。例えば、仮にこの財産家の青年の財産が1億だったとすると、それをイエス様のために捨てるとき、100億が天に積まれるということになります。そのことをイエス様は保証してくださっているのです。これほど利回りの良い投資はないと思います。私たちがこの世でどのようにイエス様に従い行くのかが、問われているのではないでしょうか。この世でどのようにイエス様に従い行くのかが、来るべき世、来世において大変重要になってくるということです。聖書には、神の国の祝福とは、天に保管された宝石と、義人に分配される報いであると、しばしば描写されていますが、その分配があまりにも大き過ぎるために、誰もその祝福を自分の努力によって得たとか、働きの代価によって得た、従順の報いによって得たなどと言うことはできなくなるでしょう。神の国と、栄光の冠と、そこで永遠に生きる豊かな祝福は、あまりにも価値があるため、それらは専ら上からの賜物であり、イエス・キリストを通して与えられるのです。そのイエス様が私たちに、今日、「わたしに従って来なさい」と招いてくださるのは、どれほど大きな祝福でしょうか。

【結論】

イエス・キリストにある神の国は、今まさに到来しております。この国はイエス様に従うことによって入ることが許されます。私たち一人ひとりは確かに招きの言葉を聞いて、今日までイエス様に従ってまいりました。これからも、さらにイエス様に従順に歩みつつ、天に宝を積む者とならせていただきましょう。そして、やがての日に、その祝福の分配に豊かに預かる者とならせていただきましょう。

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한 가지 부족한 것이 있으니

2024년 2월 11일 센겐다이 교회 주일설교

마가복음 10장 17~31절

서론

가장 무력하고 가진 것이 없고 영향력이 없는 아이들에게 「하나님의 나라는 이런 자의 것」이라고 말씀하셨고, 가장 힘 있고 부유하며 영향력 있는 사람에게는 하나님 나라에 들어가기 어렵다고 주 예수님은 말씀하셨습니다. 이게 대체 무슨 말씀일까요? 오늘 읽은 말씀은 예수님이 예루살렘으로 가시기 위해, 머무시던 곳에서 출발하셨을 때의 일입니다. 길을 나서자 재산가인 한 사람이 예수님 밑으로 달려와서 예수님께 질문했습니다. 이 인물에 대해 마태복음에서는 「어떤 사람」으로 소개되고 있고, 누가복음에서는 「어떤 관원」으로 소개되고 있습니다. 그는 재산가였고 나이가 어려도 관원이며 아무 나무랄 데 없는 인물이었습니다. 그런 그와 예수님 사이에 이루어진 대화를 통해 오늘 아침에도 말씀에서 은혜를 얻고 싶습니다. 17,18절을 보시겠습니다.

(1) 선한 선생님

17 예수께서 길을 나가실새 한 사람이 달려와서 꿇어 앉아 묻자오되 선한 선생님이여 내가 무엇을 하여야 영생을 얻으리이까

18 예수께서 이르시되 네가 어찌하여 나를 선하다 일컫느냐 하나님 한 분 외에는 선한 이가 없느니라

이 청년은 물질적인 풍요에 만족하지 않고 거기에다가 영적인 면, 즉 신앙적인 면에 있어서도 굶주림을 느끼고 있었습니다. 달려와서 무릎을 꿇어 앉아 「선한 선생님이여 내가 무엇을 하여야 영생을 얻으리이까」라고 예수님께 질문을 하고 있습니다. 보아하니 매우 호감이 가는 인물이라고 생각되지만 그러나 「무엇을 하여야 영생을 얻으리이까」 라는 그의 질문에서 「영생은 마치 자신의 행위나 자신의 노력에 의해 얻어지는 것」이라는 생각이 엿보입니다. 예수님은 그에게 「어찌하여 나를 선하다 일컫느냐 하나님 한 분 외에는 선한 이가 없느니라」라고 말씀하시며 자신에 대한 칭송을 거절하셨습니다. 아무래도 「선하다」는 말을 두고 청년이 의도하는 바와 예수님이 의도하는 바가 맞물리지 않았던 것 같습니다. 「선하다」말은 헬라어로는 「아가토스」라는 말인데, 이 말은 히브리어의 「토브」라는 말로 번역되어 쓰이고 있습니다. 영어로는 good이라고 번역되고 있습니다만, 일본어에서는 이 말은 「선」, 「좋다」라는 의미 외에도 매우 다양하게 번역되고 있습니다. 예를 들면 「준수하다 (사무엘상 9장 2절)」, 「선하시다 (사무엘상 3장 18절)」 「복 (민수기 10장 32절, 신명기 30장 15절, 시편 33편 12절)」, 「재물 (신명기 26장 11절)」, 「은혜(신명기 28장 11,12절, 시편23편 6절, 시편 27편 13절)」등입니다. 당연하지만 청년이 「선한 선생님」이라고 예수님을 불렀을 때 그 말은 예수님을 하나님으로 고백하고 있다는 것이 아니었습니다. 그는 「선하다」라는 말을 상대적인 의미로 사용하고 있는데, 예수님은 「선하다」라는 말을 하나님의 속성으로 보고 절대적인 선, 절대적인 은혜, 절대적인 위로부터의 선물이라는 의미로 사용하고 계시다는 것입니다. 예수님은 그에게 십계명의 율례를 영원한 생명을 얻기 위한 기준으로 제시하셨습니다. 19,20절을 보세요.

19 네가 계명을 아나니 살인하지 말라, 간음하지 말라, 도둑질하지 말라, 거짓 증언 하지 말라, 속여 빼앗지 말라, 네 부모를 공경하라 하였느니라

20 그가 여짜오되 선생님이여 이것은 내가 어려서부터 다 지켰나이다

여기서 예수님은 제 6계명에서 제 10계명까지 차례로 말씀하시고, 마지막은 제 5계명의 「네 부모를 공경하라」라는 계명으로 끝맺고 계십니다. 원래 율법이란 사람들에게 자신의 죄를 깨닫게 하여 구원자이신 예수님께 인도하는 안내자인데, 이 청년에게는 율법이 그렇게 기능하지 않았습니다. 이것은 「내가 어려서부터 다 지켰나이다」는 말 속에 그의 자부심과 그런 걸 묻는 게 아니라 그 이상을 듣고 싶었다는 그의 실망감을 느낄 수 있습니다. 「어려서부터 다 지켰나이다」라는 그의 말은 결코 거짓이 아니었다고 생각합니다. 어떤 수준으로 율법을 지키느냐를 떠나 어릴 때부터 율법에 익숙한 유대인들에게 십계명을 표면적으로 지키는 것은 당연한 일이었습니다. 아마도 그는 영생을 얻기를 간절히 바랬기 때문에 남들보다 더 열심히 십계명을 지키고 있었을 것입니다. 하지만 그것은 상대적인 의미일 뿐입니다. 율법을 완전하게 지킨다는 것, 그것은 역시 무리한 이야기이며, 이 세상에 의인은 한 명도 없다는 고백을 하지 않을 수 없습니다. 예수님은 그에게 상대적인 선이 아니라 절대적인 선을, 절대적인 은혜를 받으라고 말씀하십니다. 그리고 그것은 그를 슬프게 하는 내용이기도 했습니다. 21,22절을 보시기 바랍니다.

(2) 한 가지 부족한 것이 있으니

21 예수께서 그를 보시고 사랑하사 이르시되 네게 아직도 한 가지 부족한 것이 있으니 가서 네게 있는 것을 다 팔아 가난한 자들에게 주라 그리하면 하늘에서 보화가 네게 있으리라 그리고 와서 나를 따르라 하시니

22 그 사람은 재물이 많은 고로 이 말씀으로 인하여 슬픈 기색을 띠고 근심하며 가니라

이 예수님의 말씀은 재산가인 사람은 모두, 자신의 재산을 처분하여 그것을 가난한 자들에게 주고 모든 물건을 공유해야 한다는 뜻은 아닙니다. 예수님은 이 재산가에게 많은 것을 동시에 요구하시는 것처럼 보이지만 사실은 한 가지만을 요구하고 있습니다. 청년에게 한 가지 부족한 것은 무엇인가요? 그것은 「나를 따르라는 것」입니다. 21절 첫머리에는 「예수께서 그를 보시고 사랑하사」라고 적혀있죠. 예수님께서는 이 재산가를 사랑하시며 「나를 따르라」고 부르시는 말씀을 해주셨습니다. 예수님을 따르는 것이야말로 영원한 생명을 이어가는 것이고 은혜로 말미암아 의롭게 여기지는 길이기 때문입니다. 그런데 이 사람에게 있어서는 자신의 재산이 우상처럼 되어 있어 예수님을 따르는 데 장애가 되고 있었으니, 예수님은 굳이 그에게 「네게 있는 것을 다 팔아 가난한 자들에게 주라」고 말씀 하셨을 것으로 생각됩니다.

성경에는 예수님의 부르심에 따르지 못한 사람들과 따랐던 사람들이 그려져 있는데 각각의 경우에 대해 알아보도록 하겠습니다. 처음에 부르심에 따르지 못했던 경우입니다. 누가복음 9장 57~62절을 보시겠습니다.

57 길 가실 때에 어떤 사람이 여짜오되 어디로 가시든지 나는 따르리이다

58 예수께서 이르시되 여우도 굴이 있고 공중의 새도 집이 있으되 인자는 머리 둘 곳이 없도다 하시고

59 또 다른 사람에게 나를 따르라 하시니 그가 이르되 나로 먼저 가서 내 아버지를 장사하게 허락하옵소서

60 이르시되 죽은 자들로 자기의 죽은 자들을 장사하게 하고 너는 가서 하나님의 나라를 전파하라 하시고

61 또 다른 사람이 이르되 주여 내가 주를 따르겠나이다마는 나로 먼저 내 가족을 작별하게 허락하소서

62 예수께서 이르시되 손에 쟁기를 잡고 뒤를 돌아보는 자는 하나님의 나라에 합당하지 아니하니라 하시니라

예수님은 자신을 따르게 하기 위해 어떤 사람에게는 머리 둘 곳도 없는 열악한 환경을 각오할 것을 요구하셨습니다. 또 어떤 사람에게는 유대인이면 누구나 중요하게 생각하는 사망자를 매장하는 상식적인 가치관에 사로잡히는 일이 없도록 요구했습니다. 또 어떤 사람에게는 가족을 무엇보다 우선으로 하는 가족애를 포기할 것을 요구했습니다. 예수님을 따르는 데 있어서 그 사람에게 장애가 되는 것을 포기하라고 예수님은 말씀하십니다. 예수님을 최우선으로 하기 위해서입니다. 다음으로 예수님의 부르심을 따랐던 사례로 베드로와 안드레의 소명 기사를 살펴봅시다. 마가복음 1장 17,18절을 보시기 바랍니다.

17 예수께서 이르시되 나를 따라오라 내가 너희로 사람을 낚는 어부가 되게 하리라 하시니

18 곧 그물을 버려 두고 따르니라

베드로와 안드레의 경우에는 그들이 자신들의 생업 수단인 그물을 버리고 예수님을 따라갔다고 쓰여 있습니다. 이어서 세관원 레위(마태)의 소명도 살펴보겠습니다. 마가복음 2장 14절을 보시겠습니다.

또 지나가시다가 알패오의 아들 레위가 세관에 앉아 있는 것을 보시고 그에게 이르시되 나를 따르라 하시니 일어나 따르니라

세관원 레위의 경우에는 고소득의 직업을 버리고 예수님을 따라갔습니다. 예수님의 부르심을 따를 때, 그 때 그 사람에게는 장애가 되는 것이 무엇인가 있고, 그것을 포기할 때, 그것을 버릴 때 예수님을 따라갈 수 있는 것입니다. 이것은 우리의 소명에 대해서도 같은 말을 할 수 있지 않을까요. 예수님께서 직접 부르셨을 때 우리도 자신의 어떤 것을 포기하고 예수님을 따랐던 것입니다. 재산가인 청년에게 있어서는 그 포기해야 할 것은 그의 재산이었지만, 그는 슬퍼하면서 그 자리에서 떠나갔습니다. 부도 인망도 명성도 모든 것을 겸비한 것처럼 보였던 청년이지만, 영원한 생명을 얻는데 필요한 단 하나의 것을 갖추지 못했습니다. 그것은 눈앞에 있는 예수님을 따르는 것입니다. 아이처럼 자신을 예수님께 맡기고 그분을 신뢰함으로 자신을 내어 드리는 것이었습니다.

(3) 하늘에 쌓인 축복

그런데 예수님은 제자들을 둘러보며 「재물이 있는 자는 하나님의 나라에 들어가기가 심히 어렵도다」라고 말씀하셨습니다. 제자들이 그 말씀에 놀랐다고 합니다. 여기에는 당시 제자들의 부에 대한 생각, 부에 대한 개념이 여실히 드러나 있습니다. 하나님의 나라란 병이 없고, 거룩함과 복과 풍요로움이 가득한 곳이기 때문에 당시 부유한 자, 재산가란 하나님께 축복받은 사람으로 여겨졌습니다. 한편 가난한 자, 병든 자란 하나님으로부터 형벌이 내려진 죄인으로 여겨졌습니다. 따라서 재산가인 청년은 이곳에 있는 제자들 중 누구보다도 하나님의 나라에 가까운 인물이라고 생각했을 가능성이 있습니다. 그런 재산가인 그를 가리켜 하나님의 나라에 들어가는 것이 얼마나 어려운 일이냐고 하고, 심지어 24절에서도 다시 대답하여 이르시되 「얘들아 하나님의 나라에 들어가기가 얼마나 어려운지」라고 말씀하십니다. 궁극적으로 인간이 하나님의 나라에 들어간다는 것은 낙타가 바늘귀를 통과하는 것이 불가능하듯이 불가능한 일이라고 말씀하셨습니다. 그것은 재산가이기 때문이기 때문에 들어갈 수 없다는 것이 아니라 누구든 인간의 힘으로는 결코 들어갈 수 없다는 뜻입니다. 그러나 예수님은 「사람으로는 할 수 없으되 하나님으로는 그렇지 아니하니 하나님으로서는 다 하실 수 있느니라」라고 말씀하십니다. 오직 구원자이신 예수 그리스도를 믿음으로써 예수 그리스도를 따라감으로써 하나님의 나라에 들어갈 수 있는 것입니다. 그러자 베드로는 28절에서 예수님께 말씀드립니다. 「보소서 우리가 모든 것을 버리고 주를 따랐나이다」무언가 우월감에 젖어 스스로를 자랑하는 것처럼 들리지만, 예수님은 이 베드로의 말씀을 그대로 받아들여 다음과 같이 말씀하십니다. 매우 뜻깊은 말씀입니다. 29~31절을 보세요.

29 예수께서 이르시되 내가 진실로 너희에게 이르노니 나와 복음을 위하여 집이나 형제나 자매나 어머니나 아버지나 자식이나 전토를 버린 자는

30 현세에 있어 집과 형제와 자매와 어머니와 자식과 전토를 백 배나 받되 박해를 겸하여 받고 내세에 영생을 받지 못할 자가 없느니라

31 그러나 먼저 된 자로서 나중 되고 나중 된 자로서 먼저 될 자가 많으니라

첫머리의 「진실로 너희에게 이르노니」라는 말은「아멘」이라는 말입니다. 「너희에게 확실히 말해 둔다」라고 예수님은 보증하십니다. 「집과 형제와 자매와 어머니와 자식과 전토를 백 배나 받되 박해를 겸하여 받고」라고 하셨습니다. 심지어 「내세에는 영생을 받지 못할 자가 없느니라」라고 하셨습니다. 이 뜻은 그리스도인은 주안에서 형제자매이기 때문에 전 세계의 그리스도인과 그리스도의 교회가, 우리들의 집이며 형제, 자매, 어머니, 자녀, 전토가 된다는 뜻입니다. 그리고 지상의 교회에만 머물지 않습니다. 시간을 초월한 천상에 있는 승리한 교회와도 우리는 가족으로서 교제하는 자로 여겨 집니다. 「백 배」라는 말에 주목하시기 바랍니다. 예를 들어 만일 이 재산가 청년의 재산이 1억이었다면, 그것을 예수님을 위해 버릴 때 100억이 하늘에 쌓인다는 것입니다. 그것을 예수님은 보증해 주시고 계신 것입니다. 이렇게 수익률이 좋은 투자는 없다고 생각합니다. 우리가 이 세상에서 어떻게 예수님을 따를 것인가 하는 질문을 받고 있는 것은 아닐까요? 이 세상에서 어떻게 예수님을 따르느냐가 다가올 세상, 다음 세상에서 매우 중요해진다는 것입니다. 성경에는 하나님 나라의 축복이란 하늘에 보관된 보화와 의인에게 분배되는 보수라고 종종 묘사되고 있지만, 그 분배가 너무 크기 때문에 누구도 그 축복을 자신의 노력으로 얻었다거나 사역의 대가로 얻었다거나, 순종적인 보답으로 얻었다거나 할 수 없게 될 것입니다. 하나님의 나라와 영광의 면류관과 그곳에서 영원히 사는 풍요로운 축복은 너무나도 가치가 있기 때문에 그것들은 오직 위로부터의 선물이며 예수 그리스도를 통해 주어지는 것입니다. 그 예수님이 우리에게 오늘 「나를 따르라」라고 불러 주시는 것은 얼마나 큰 축복일까요.

결론

예수 그리스도께 있는 하나님의 나라는 지금 바야흐로 도래하고 있습니다. 이 나라는 예수님을 따름으로써 들어가는 것이 허용됩니다. 우리 한 사람 한 사람은 분명 부르심의 말씀을 듣고 오늘날까지 예수님을 따라 왔습니다. 앞으로도 더욱 예수님께 순종하며 하늘에 보배를 쌓는 자가 됩시다. 그리고 이윽고 그 축복의 분배에 풍성하게 참여하는 자가 되도록 합시다.

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