2024年01月28日「特別に親しい絆 특별히 친밀한 유대」

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特別に親しい絆 특별히 친밀한 유대

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 10章1節~12節

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聖句のアイコン聖書の言葉

10:1イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。
10:2ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。
10:3イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。
10:4彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。
10:5イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。
10:6しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。
10:7それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、
10:8二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。
10:9従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
10:10家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。
10:11イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。
10:12夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 10章1節~12節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

旧約時代、イスラエルの民に一夫多妻制が認められていました。しかし、それは、神の命令ではなく、創造の初めからの神の御心でもありません。一夫多妻制は罪人である民の心が頑ななので、神が譲歩された制度であり、それは人間の慣習に過ぎなかったと言えます。同じく離婚の問題も、イエス様の時代、一般的に認められていましたが、それは、神の命令ではなく、創造の初めからの神の御心でもありませんでした。離婚は、罪人である民の心が頑ななので、神が譲歩された制度であり、公然と姦淫の罪を犯すことがないよう、一定の手続きを経て離縁ができるように許されたのであります。本日は、天地創造の初めに神様が定められた男と女の結婚を通して、御言葉から恵みに与っていきたいと思います。

【1】. 夫が妻を離縁することは律法に適っているか

イエス様一行は、エルサレムに向かって南下しています。この時、弟子たちはまだはっきりと認識してはいませんでしたが、イエス様ご自身が弟子たちに繰り返し予告したとおり、イエス様はエルサレムにおいて十字架に架かられるために足を進めていました。イエス様に残された時間は、もうわずかしかありませんでした。一行がヨルダン川を越えて、ペレア地方にやって来ると、群衆が再び集まってきましたのでイエス様は群衆に御言葉を教えました。すると、そこにファリサイ派の人々も近寄ってきて、イエス様に質問したのであります。10:1-2をご覧ください。

“イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。”

「イエスを試そうとした」とあります。彼らは人々のイエス様に対する人気と支持を失墜させるため、悪い動機を持って質問したことが分かります。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」という質問は、エッセネ派と呼ばれる隠遁生活をしていた一部の人々を除いて、当時のほとんどの人々が、離縁することは律法に適っていると答えたことでしょう。なぜなら申命記を見ると、次のように書かれているからです。申命記24章1をご覧ください。

“人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。”

この申命記の御言葉によれば、妻に何か恥ずべきことを見出した時、離縁状を書いて離婚が成立するとありますが、問題は、この「恥ずべきこと」とは何なのか、イエス様から言質を取るために質問をしたと考えられます。イエス様は、徴税人や罪人の友達であり、また弟子たちの中には、マグダラのマリアのような女性も含まれていましたから、おそらく性的な関係についても、あいまいな見解を持っており、ふしだらな言質が取れるのではないか、狙っていたと考えられるのです。実際、ファリサイ派の中においても、この離縁の理由となる「恥ずべきこと」をめぐって様々な解釈がありました。ファリサイ派の中で比較的保守的な人々(シャンマイ派)は、妻が姦淫したケースしか認めなかったのに対し、自由主義的な人々(ヒレル派)は、「料理がまずかった」、「自分の妻よりきれいな人が現れた」などのケースでも、簡単に離婚が認められたのであります。イエス様が保守側につくのか、自由主義側につくのか、どちら側につくにしても、片方の側の支持は失うことになるでしょう。するとイエス様は「モーセはあなたたちに何と命じたのか」と問い返されました。3-5節をご覧ください。

“イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。”

3節のイエス様の質問である「何と命じたか」という言葉と、4節のファリサイ派の人々の答えである「許しました」という言葉に注目してください。ファリサイ派の人々は、先ほどの申命記24:1の御言葉を引用して、離縁状を書いて家を去らせることを「許した」と言っているのです。申命記が書かれた当時、女性が財産の一部のように扱われていたという背景があります。当時の社会で、男性が姦淫罪で問われることは滅多にありませんが、女性が男性から捨てられて、次の男性と結婚し、性的な関係に入るときに、女性が姦淫罪として訴えられることがありました。姦淫罪は、石打ちの刑です。ですから、申命記の御言葉は、捨てられた女性が訴えられ、殺されることがないよう、女性を保護するためのものであったと言えるのです。神が離婚を許されたのは、それが神の御心なのではなく、神の御心を受け入れられない頑なな人間の罪のために、許された制度であったということです。10:6~9節でイエス様は、モーセの律法の別の箇所から御言葉を引用しました。ご覧ください。

“しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」”

これは、創世記からの引用ですが、おそらくファリサイ派の人々にとって予想外の答えであったに違いありません。弟子たちも後で、家に戻ってから、イエス様に再度説明を求めたほどです。当時の常識を覆すようなイエス様のこの見解は、実は洗礼者ヨハネが持っていた見解と同じでありました。洗礼者ヨハネとは、領主ヘロデ・アンティパスに対し、兄弟フィリポの妻ヘロディアを娶ることは、律法では許されない結婚だと公然と非難し続けたため、ヘロデに捉えられ死刑された人物であります。奇しくもイエス様一行が今いる、このペレア地方とは、生前、洗礼者ヨハネが活動していた場所でもありました。

【2】. 特別に親しい絆

神は人間を男と女に創造しました。男と女の結婚とは、天地創造の初めからの神様の御心であって、離婚は、この神の創造の秩序を紙切れ同然にするものであるとイエスは言われるのです。それゆえに洗礼者ヨハネの主張と同じように、離婚は神の律法に適っていないと強く言われるのであります。このように言われてしまうと、教会では、離婚は全く許されないのか?と当惑する方もおられるかもしれません。私たちの置かれている現実を見るなら、そのようなきれいごとで全てが片づけられるのではなく、価値観や性格の不一致で悩んでいるカップルは大勢いることでしょう。時には、家庭内暴力、DVで苦しんでいる方もおられるでしょう。キリスト者であったとしても、もう、どうしようもなく、離婚に至るケースは十分に考えられるのです。私は、本日の箇所を読んで、なぜ神様が人間に、結婚の秩序を定められたのか、その理由について考えてみる必要があるのではないかと思わされました。イエス様が引用された創世記2:21-24の御言葉を調べてみましょう。

“主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。”

この創世記の記事を見ますと、女は男のあばら骨で造られたと書かれています。ですからアダムがエバを初めてみた時に、人(ヘブライ語でイシュ)である自分と大変似ているので、「これこそわたしの骨の骨、私の肉の肉」と言いながら、「イシャー」と名付けたのであります。発音が似ていますね。英語で言えば、男(人)がmanですから、アダムはエバを似たような発音でwoman(女)と名付けたということです。アダムは自分とそっくりなエバを見て生涯の誠実な伴侶を得ることになったと喜び驚いているのです。女は男のあばら骨を通して作られましたが、それにもかかわらず、男は女を通して生まれてきます。ということは、男がいなければ女は存在できず、女がいなければ男は存在できないことになります。神は人を、男と女に二人としてではなく、一体としてお造りになられたことが分かるのです。二人は一つの有機体であって、結び合わされる時に、初めて完全になるのです。このように、結婚とは、非常に親しい絆であり、それは神の計画における特別な絆であるため、使徒パウロは、この「結婚の絆」を、偉大な神の神秘として、新郎であるキリストと、新婦である教会の絆にたとえています。エフェソ5:31-32をご覧ください。

“「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。”

「神秘」という言葉が出てきます。ギリシア語でμυστήριον ミュステーリオンという言葉です。英語ではmystery と翻訳され、韓国語では「秘密」と翻訳されています。この神秘という言葉は少し誤解を招きやすい単語であり、ついつい神秘的な力がそこに宿っているのではないかと想像してしまいますが、そういうことではありません。このエフェソ5:32のミュステーリオンという言葉を、新しい聖書教会共同訳では、あえて「神秘」とは訳さず「秘義」と改訂されています。新改訳聖書では「奥義」と訳されています。つまり「隠された奥義」、「隠された秘密」というような意味だと思います。これは、間接的に福音のことを指しています。「男と女の絆が福音だって?」とびっくりされる方もおられるかもしれません。神の創造の秩序では、男と女の特別に親しい絆とは、キリストと教会の絆を表している、キリストと教会の関係、人格的な深い関係を表している、即ち、間接的な福音だというのです。結婚した夫婦の交わりは、信仰生活に入れられたキリスト者のイエス様との交わりにたとえられるのであり、夫婦が、健やかな時も、順境においても、逆境においても、常に二人が助け合い、真実に愛し合う姿は、いかなる状況であれ、決して切り離すことのできないキリストと教会の姿にたとえられるのです。そして、私たちキリスト者一人一人を見るならば、欠けが多く、罪だらけの者たちでありますが、ただ、イエス様に結ばれているという理由だけで、ただ恵みの契約によってキリストに属する者とされているというその理由だけで、教会が神の国の現れであると言われるように、夫婦の営み、クリスチャンホームも、神の国の現れであると言うことができるのです。ですから、イエス様は「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない!(10:9)」、何人も切り離すことはできないと、宣言されるのです。イエス様と教会がこのような不思議な絆によって結ばれているように、男と女の結婚も、特別に親しい絆によって結ばれています。結婚という絆は、言い換えれば、福音を世に証しすること、或いは神の信実さを世に宣言することであると言えのではないでしょうか。最後にマルコ10:10~12をご覧ください。

“家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」”

12節の御言葉について、神学者の間で疑問が提起されています。当時、夫を離縁して他の男を夫にする女性など、とても想定できなかったのに、なぜイエス様は、そのように言われたのかということです。おそらく、マルコによる福音書が異邦人向けに書かれた福音書であり、異邦人の中では夫を離縁して他の男性を夫にする女性がいたため、この言葉が挿入されたのではないかと注解書には書かれていました。確かにその通りだと思います。しかし、同時にこの11節と12節の御言葉は、神が私たちに宣言してくださる恵みの契約の確かさについて語っているようにも聞こえてきます。つまり11節は、イエス様が教会と離縁して、他の人々と契約を結ぶなら、教会に対し、イエス様ご自身が罪を犯すことになるということです。イエス様は決して罪を犯すことのないお方ですから、教会を見捨てるようなことは決してないと響いてくるのです。また12節は、主イエス以外に、いかなるものにも依り頼んではならない、イエス様だけが私たちの主であり、私たちの善き牧者であり、私たちの救い主であるということを、私たちは結婚の絆や、クリスチャンホームを通して、告白していくことができるのだと思うのです。

【結論】

男と女の結婚とは、特別に親しい絆であり、この親密な関係は、イエス・キリストと教会の関係であります。イエス様は決して契約を破棄することなく、教会を見捨てることはありません。永遠に変わることのない誠実な愛によって、私たちは愛を受けているのです。ですから、私たちは、結婚の絆を特に大切にしながら、夫婦の絆を通して、クリスチャンホームを通して、福音を証ししていく者たちとならせていただきましょう。そして、まだそれぞれの家庭の中で救われていない配偶者、救われていない子供たちがいるのなら、その方々の救いのために祈っていく私たちとならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

특별히 친밀한 유대

2024년 1월 28일 센겐다이 교회 주일설교

마가복음 10장 1~12절

서론

구약시대, 이스라엘 백성에게 일부다처제가 허용되고 있었습니다. 그러나 그것은 하나님의 명령이 아니며 창조의 시작부터 하나님의 마음도 아닙니다. 일부다처제는 죄인인 백성의 마음이 너무 완악해서 하나님이 양보하신 제도였고, 그것은 인간의 관습에 불과하다고 할 수 있습니다. 마찬가지로 이혼 문제도 예수님 시대에 일반적으로 인정받았지만 그것은 하나님의 명령이 아니었고 창조때부터의 하나님의 마음도 아니었습니다. 이혼은 죄인인 백성의 마음이 완악하기 때문에 하나님이 양보하신 제도로 공연히 간음의 죄를 짓는 일이 없도록 일정한 절차를 거쳐 이혼을 할 수 있도록 허락된 것입니다. 오늘은 천지창조의 처음에 하나님이 정하신 남자와 여자의 결혼을 통해 말씀에서 은혜를 입고자 합니다.

(1) 사람이 아내를 버리는 것이 옳으니이까

예수님 일행은 예루살렘을 향해 남하하고 있습니다. 이때 제자들은 아직 분명하게 인식하고 있지는 못했지만, 예수님 자신이 제자들에게 거듭 예고하신 대로 예수님은 예루살렘에서 십자가에 못 박히기 위해 발걸음을 옮기고 있었습니다. 예수님께 남은 시간은 이제 얼마 남지 않았습니다. 일행이 요단 강을 건너 베레아 지방으로 가니 무리가 다시 모여들자 예수님은 다시 무리에게 말씀을 가르쳤습니다. 그러자 그곳에 바리새인들도 다가와 예수님께 질문한 것입니다. 10장 1,2절을 보세요.

1 예수께서 거기서 떠나 유대 지경과 요단 강 건너편으로 가시니 무리가 다시 모여들거늘 예수께서 다시 전례대로 가르치시더니

2 바리새인들이 예수께 나아와 그를 시험하여 묻되 사람이 아내를 버리는 것이 옳으니이까

「예수께 나아와 그를 시험하여 묻되」라고 되어 있습니다. 그들은 사람들의 예수님에 대한 인기와 지지를 실추시키기 위해 나쁜 동기를 가지고 질문했음을 알 수 있습니다. 「사람이 아내를 버리는 것이 옳으니이까」라는 빌문은 에세네파라고 불리는 은둔생활을 하던 일부 사람들을 제외하고 당시 대부분의 사람들은 아내를 버리는 것이 옳다고 대답했을 것입니다. 왜냐하면 신명기를 보면 다음과 같이 적혀 있기 때문입니다. 신명기 24장 1절을 보시기 바랍니다.

사람이 아내를 맞이하여 데려온 후에 그에게 수치되는 일이 있음을 발견하고 그를 기뻐하지 아니하면 이혼 증서를 써서 그의 손에 주고 그를 자기 집에서 내보낼 것이요

이 신명기의 말씀에 의하면 아내에게 뭔가 수치되는 일이 있음을 발견했을 때 이혼 증서를 쓰고 이혼이 성립된다고 하는데, 문제는 이 「수치되는 일」이 무엇인지 예수님으로부터 언질을 받기 위해 질문을 했다고 생각됩니다. 예수님은 세금 징수원이나 죄인의 친구였고, 또 제자들 중에는 막달라 마리아 같은 여성도 포함되어 있기 때문에 아마도 성적인 관계에 대해서도 모호한 견해를 가지고 있었고, 성적문란한 꼬투리를 잡을 수 있지 않을까 노렸던 것으로 생각됩니다. 사실 바리새파 안에서도 이 이혼의 이유가 되는 「수치되는 일」을 둘러싸고 다양한 해석이 있었습니다. 바리새인 중 비교적 보수적인 사람들(샴마이파)은 아내가 간음한 경우만 인정한 반면 자유주의적인 사람들(힐렐파)은 “요리가 맛없다”, “내 아내보다 예쁜 사람이 나타났다”등의 경우에도 쉽게 이혼이 인정된 것입니다. 예수님이 보수 쪽에 붙을지, 자유주의 쪽에 붙을지, 어느 쪽에 붙을지라도 한쪽의 지지는 잃게 될 것입니다. 그러자 예수님은 「모세가 어떻게 너희에게 명하였느냐」고 되물었습니다. 3~5절을 보시기 바랍니다.

3 대답하여 이르시되 모세가 어떻게 너희에게 명하였느냐

4 이르되 모세는 이혼 증서를 써주어 버리기를 허락하였나이다

5 예수께서 그들에게 이르시되 너희 마음이 완악함으로 말미암아 이 명령을 기록하였거니와

3절 예수님의 질문인 「어떻게 너희에게 명하였느냐」는 말과 4절 바리새인 사람들의 대답인 「허락하였나이다」라는 말에 주목하십시오. 바리새인 사람들은 아까 신명기 24장 1절 말씀을 인용해서 이혼 증서를 써서 자기 집에서 내보낼 것을「허락하였나이다」라고 말하고 있는 것입니다. 신명기가 쓰여질 당시 여성이 재산의 일부처럼 취급되었다는 배경이 있습니다. 당시 사회에서 남성이 간음죄로 추궁당하는 일은 드물지만, 여성이 남성으로부터 버림받고 다음 남성과 결혼하여 성관계를 가질 때 여성이 간음죄로 고소당하는 일이 있었습니다. 간음죄는 돌팔매질의 형입니다. 그래서 신명기의 말씀은 버려진 여성이 피소되어 죽임을 당하는 일이 없도록 여성을 보호하기 위한 것이었다고 할 수 있습니다. 하나님이 이혼을 허락하신 것은 그것이 하나님의 마음이 아니라 하나님의 마음을 받아들일 수 없는 완악한 인간의 죄 때문에 허락된 제도였다는 것입니다. 10장 6~9절에서 예수님은 모세의 율법(모세오경)의 다른 부분에서 말씀을 인용하셨습니다. 보세요.

6 창조 때로부터 사람을 남자와 여자로 지으셨으니

7 이러므로 사람이 그 부모를 떠나서

8 그 둘이 한 몸이 될지니라 이러한즉 이제 둘이 아니요 한 몸이니

9 그러므로 하나님이 짝지어 주신 것을 사람이 나누지 못할지니라 하시더라

이것은 창세기로부터의 인용이지만, 아마 바리새인들에게 있어서 예상외의 대답이었음이 틀림이 업었을 것입니다. 제자들도 나중에 집에 돌아와서는 예수님께 다시 설명을 청했을 정도입니다. 당시의 상식을 뒤집는듯한 예수님의 이 견해는 사실 세례 요한이 가지고 있던 견해와 같았습니다. 세례 요한은 영주 헤로데 안티파스에게 형제 빌립의 아내 헤로디아를 취하는 것은 율법으로 허용되지 않는 결혼이라고 공공연히 비난했기 때문에 헤로데에게 잡혀 사형당한 인물입니다. 기이하게도 예수님 일행이 지금 있는 이 베레아 지방이란 생전에 세례 요한이 활동하던 곳이기도 했습니다.

(2) 특별히 친밀한 유대

하나님은 인간을 남자와 여자로 창조했습니다. 남자와 여자의 결혼은 천지창조의 시작부터 하나님의 마음이며, 이혼은 이 하나님의 창조질서를 휴지조각처럼 만드는 것이라고 예수님은 말씀하십니다. 그렇기 때문에 세례 요한의 주장과 마찬가지로 이혼은 하나님의 마음에 합당하지 않다는 말을 엄하게 말씀하시는 것입니다. 이렇게 말해 버리면 “교회에서는 이혼은 전혀 허용되지 않는 것인가?”라고 당황하시는 분도 계실 수 있습니다. 우리가 처한 현실을 본다면 그렇게 간단한 말로 모든 것이 정리되는 것이 아니라 가치관이나 성격의 불일치로 고민하는 커플이 많이 있을 것입니다. 때로는 가정내 폭력, DV로 고통받고 있는 분도 계실 것입니다. 그리스도인이라고 해도 이제 더 이상 어쩔 수 없이 이혼에 이르는 경우는 충분히 생각할 수 있는 것입니다. 저는 오늘의 구절을 읽고 왜 하나님은 인간에게 결혼의 질서를 정하셨는지 그 이유에 대해 생각해 볼 필요가 있지 않을까 생각했습니다. 예수님이 인용하신 창세기 2장 21~24절 말씀을 읽어 봅시다.

21 여호와 하나님이 아담을 깊이 잠들게 하시니 잠들매 그가 그 갈빗대 하나를 취하고 살로 대신 채우시고

22 여호와 하나님이 아담에게서 취하신 그 갈빗대로 여자를 만드시고 그를 아담에게로 이끌어 오시니

23 아담이 이르되 이는 내 뼈 중의 뼈요 살 중의 살이라 이것을 남자에게서 취하였은즉 여자라 부르리라 하니라

24 이러므로 남자가 부모를 떠나 그의 아내와 합하여 둘이 한 몸을 이룰지로다

이 창세기 말씀을 보면 여자는 남자의 갈빗대로 만들어졌다고 적혀 있어요. 그래서 아담이 하와를 처음 봤을 때 사람(히브리어로 이쉬)인 자신과 매우 닮았기 때문에 「이는 내 뼈 중의 뼈요 살 중의 살이라」고 하면서 「잇샤」라고 이름 붙인 것입니다. 발음이 비슷하네요. 영어로 말하면 남자(사람)가 MAN이기 때문에 아담은 하와를 비슷한 발음으로 WOMAN(여자)라고 이름 지었다는 것입니다. 아담은 자신과 꼭 닮은 하와를 보고 평생의 성실한 반려자를 얻게 되었다며 기뻐하고 놀라고 있는 것입니다. 여자는 남자의 갈비뼈를 통해 만들어졌지만, 그럼에도 불구하고 남자는 여자를 통해 태어납니다. 그렇다는 것은 남자가 없으면 여자는 존재할 수 없고, 여자가 없으면 남자는 존재할 수 없는 것이 됩니다. 하나님은 사람을 남자와 여자로 둘이 아니라 하나로 만드셨음을 알 수 있습니다. 두 사람이 하나의 유기체로 결합될 때 비로소 완전해지는 것입니다. 이처럼 결혼이란 매우 친밀한 유대이고 그것은 하나님의 계획에 있어서 특별한 유대이기 때문에 사도 바울은 이 「결혼의 유대」를 위대한 하나님의 신비로 신랑인 그리스도와 신부인 교회의 유대에 비유하고 있습니다. 에베소서 5장 31,32절을 보시기 바랍니다.

31 그러므로 사람이 부모를 떠나 그의 아내와 합하여 그 둘이 한 육체가 될지니

32 이 비밀이 크도다 나는 그리스도와 교회에 대하여 말하노라

「신비(일본어성경 신공동역에는 비밀이 아니라 신비로 번역되어 있다)」라는 말이 나옵니다. 헬라어로 μυστήριον 미스테리온이라는 말입니다. 영어로는 mystery로 번역되고 한국어로는 「비밀」로 번역되어 있습니다. 이 신비라는 말은 조금 오해를 불러일으키기 쉬운 단어이며, 무의식중에 신비로운 힘이 거기에 깃들어 있는 것이 아닐까 상상하게 되지만, 그런 것은 아닙니다. 이 에베소서 5장 32절의 미스테리온이라는 말을 새성경교회공동역(일본 성경)에서는「신비」라고 번역하지 않고 「秘義」라고 개정되어 있습니다. 신개역성경에서는 「奥義」라고 번역되어 있습니다. 즉, 「숨겨진 奥義」, 「숨겨진 비밀」이런 뜻인 것 같아요. 이것은 간접적으로 복음을 가리키고 있습니다. “남자와 여자의 유대감이 복음이라고?”라고 깜짝 놀라시는 분도 계실 수 있습니다. 하나님의 창조의 질서에서는 남자와 여자의 특별히 친밀한 유대는 그리스도와 교회의 유대를 나타내고 있는, 그리스도와 교회의 관계, 인격적인 깊은 관계를 나타내고 있는, 즉 간접적인 복음이라는 것입니다. 결혼한 부부의 교제는 신앙생활을 막 시작한 그리스도인과 예수님과의 교제에 비유할 수 있으며, 부부가 건강할 때도 평탄할 때도 역경을 만났을 때도 항상 두 사람이 서로 돕고 진실하게 사랑하는 모습은 어떤 상황에서도 결코 떼어놓을 수 없는 그리스도와 교회의 모습에 비유되는 것입니다. 그리고 우리 그리스도인 한 사람 한 사람을 본다면 허물이 많고 죄투성이인 자들이지만 그저 예수님께 연합되어 있다는 이유만으로, 오직 은혜의 언약에 따라 그리스도에 속한 자로 되어 있다는 그 이유만으로, 교회가 하나님 나라의 나타남이라고 하듯이 부부생활, 크리스챤 홈도 하나님 나라의 나타남이라고 할 수 있는 것입니다. 그러므로 예수님은 「그러므로 하나님이 짝지어 주신 것을 사람이 나누지 못할지니라(10장 9절)」누구도 떼어낼 수 없다고 선언을 하시는 것입니다. 예수님과 교회가 이런 불가사이한 유대감으로 연결되어 있듯이 남자와 여자의 결혼도 특별히 친밀한 유대감으로 연결되어 있습니다. 결혼이라는 유대는 말하자면 복음을 세상에 증거하는 것, 혹은 하나님의 신실함을 세상에 선언하는 것이라고 할 수 있지 않을까요. 마지막으로 마가복음 10장 10~12절을 보시기 바랍니다.

10 집에서 제자들이 다시 이 일을 물으니

11이르시되 누구든지 그 아내를 버리고 다른 데에 장가 드는 자는 본처에게 간음을 행함이요

12 또 아내가 남편을 버리고 다른 데로 시집 가면 간음을 행함이니라

12절 말씀에 대해 신학자들 사이에서 의문이 제기되고 있습니다. 당시 남편을 버리고 다른 남자를 남편으로 삼는 여자는 도저히 가정할 수 없었는데 왜 예수님은 그렇게 말씀하셨느냐는 것입니다. 아마도 마가복음이 이방인을 위해 쓰인 복음서였고, 이방인 중에는 남편을 버리고 다른 남자를 남편으로 삼는 여자가 있었기 때문에 이 말이 삽입이 된 것이 아니냐고 주해서에는 적혀 있었습니다. 확실히 맞는 말인 것 같아요. 그러나 동시에 이 11절과 12절의 말씀은 하나님이 우리에게 선언해 주시는 은혜의 언약의 확실함에 대해 이야기하는 것처럼 들려옵니다. 즉 11절은 예수님이 교회를 버리고 다른 사람들과 언약을 맺는다면 교회에 대하여 예수님 자신이 죄를 짓게 된다는 것입니다. 예수님은 결코 죄를 짓는 일이 없는 분이기 때문에 교회를 저버리는 일은 결코 없다고 울려오는 것입니다. 또 12절은 주 예수 외에 어떤 것에도 의탁해서는 안 되는 예수님만이 우리의 주님이요, 우리의 선한 목자요, 우리의 구원자라는 것을 우리는 결혼의 유대나 크리스챤홈을 통해 고백해 나갈 수 있다고 생각합니다.

결론

남자와 여자의 결혼은 특별히 친밀한 유대이며, 이 친밀한 관계는 예수 그리스도와 교회의 관계입니다. 예수님은 결코 언약을 파기하지 않고 교회를 저버리지 않습니다. 영원히 변하지 않는 성실한 사랑으로 인해 우리는 사랑을 받고 있는 것입니다. 그러므로 우리는 결혼의 유대를 특히 소중히 여기면서 부부의 유대를 통해, 크리스챤홈을 통해 복음을 증명해 나가는 자들이 되도록 합시다. 그리고 아직 각 가정 안에서 구원받지 못한 배우자, 구원받지 못한 자녀들이 있다면 그들의 구원을 위해 기도해 나가는 우리가 되도록 합시다.

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