2019年02月24日「読者よ、悟れ」

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15「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、
16そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。
17屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。
18畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。
19それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。
20逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。
21そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。
22神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。
23そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。
24偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。
25あなたがたには前もって言っておく。
26だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。
27稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。
28死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 24章15節~28節

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キリスト教がユダヤの民族的宗教から世界宗教になって行った背景には、神のご計画があり、そして、イエスさまの弟子たちに対する「あなた方は全世界に出て行って、全ての民を私の弟子にしなさい」という大宣教命令があったからと考えることが出来ます。

しかし、それは現代を生きる私たちがそのように簡単に考えることであって、実際、当時のユダヤ人にとっては、それは決して一言で片づけられる問題ではありませんでした。と言うのは、彼らはこれまで、自分たちの血統を重んじ、先祖たちの言い伝えをしっかりと守り、伝統と慣習を大事にしてきたからです。彼らにとって全世界に出て行き福音を宣べ伝えるということは、自分たちのアイデンティティである、ユダヤ人としての枠を超えていくという事であり、想像以上に大変なことであったと推定されます。また、当時初代教会の時代においても、いわゆる「割礼派」と呼ばれる人々が現れて、もし異邦人がイエスさまを受け入れたなら、割礼を施さなければならないこと、そしてモーセの律法を守らせなければならないことを主張しました。割礼派の主張は後にエルサレム会議において完全に否定されましたが、ガラテヤ書を見ますと、使徒ペトロでさえ、割礼派の人々の主張に対して面と向かって論駁することはできなかったほどです。しかし、イエスさまがこの世に来られたことによって律法が成就されたために、律法的な礼拝の最終的な廃棄や、エルサレム神殿の破壊は運命づけられていたとも言うことができるのです。

イエスさまは、ご自分の民が、旧約の伝統、そしてエルサレム神殿に対する誤った信仰、ユダヤ国家に対する誤った妄想から、彼らが決別することが出来るように、そして、むしろそこから離れ一目散に逃げることこそ救いであるということを、ダニエルの預言を引用して弟子たちに教えられました。あなた方は今後、自分たちの民族から離れて行くことを心配してはならない。神は時が満ちた時に、形式的な儀式律法が中止され、祭祀制度を廃棄されるだろうということを警告と共に証言されたのです。ユダヤ人にとってエルサレムの神殿の存在自体が、それほど影響力があったということです。15-16節をご覧ください。

「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、

そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。

ダニエル書に「憎むべき破壊者」と書かれている箇所はどこでしょうか。ダニエル書11:31と12:11に出てきます。また、余談ですが複数形として9:27にも出てきます。最初にダニエル書11:31(旧p1400)をご覧ください。その次に9:27についても考えていきたいと思います。

彼は軍隊を派遣して、砦すなわち聖所を汚し、日ごとの供え物を廃止し、憎むべき荒廃をもたらすものを立てる。

実はイエスさまの預言のような出来事が、つまり「憎むべき破壊者が神殿に立つ」という事件が、過去にもありました。それは、セレウコス朝シリアのアンティオコス4世エピファネスという王がBC168年にエルサレムに攻め上った時です。彼は神殿にゼウスの祭壇を築きました。この時は祭司であるユダ・マカバイが立ち上がり、ゼウス神殿を持ち込んだシリア軍を撃破しました。詳しい内容は聖書の続編であるマカバイ記に書かれています。

それで、ダニエル書9:27(旧p1397)には「憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。」とありまして、複数形になっています。これは即ち「偶像」を意味していますので、ダニエル記9:27こそ、過去に起こったアンティオコスの事件だと考えられるのです。ですから第1マカバイ1:54-59にその成就として次のような記事が書かれています。

第百四十五年、キスレウの月の十五日には、王は祭壇の上に「憎むべき破壊者」を建てた。人々は周囲のユダの町々に異教の祭壇を築き、

家々の戸口や大路で香をたき、

律法の巻物を見つけてはこれを引き裂いて火にくべた。

契約の書を隠していることが発覚した者、律法に適った生活をしている者は、王の裁きにより処刑された。

悪人たちは毎月、町々でイスラエル人を見つけては彼らに暴行を加えた。

そして月の二十五日には主の祭壇上にしつらえた異教の祭壇でいけにえを献げた。

アンティオコスは、月に一度、エルサレムの神殿で異教の祭りを捧げ、この時、ユダヤ人にとって汚れた動物である豚も捧げられたということです。

ところで、イエスさまはダニエル記11章の預言をBC168年に起きたアンティオコスの事件ではなく、これから後に起こる未来のこととして弟子たちに語られました。そしてアンティオコスの事件に比較できないほど悲惨な出来事であり、ついには神殿が完全に破壊されるだろうという預言でした。

そしてイエスさまのご指摘の通り、そして、ダニエル書11章の預言の通りの事件が本当に起こります。AD70年のエルサレム陥落です。この経緯について、詳しく説明しますと、ローマ帝国における属州における民族的宗教や慣習に対して、最初は寛容で融和政策をとりましたが、ポンテオピラト以降、次第に宗教的な圧迫が激しくなっていきました。するとローマに対するユダヤ人の反感が次第に強くなって行き、ユダヤ人の中で特に熱心党が、さらに過激な思想を持つようになりました。ついに、ローマとユダヤ人の間に衝突が起こり、AD66年にユダヤ戦争が勃発しました。皇帝ネロはユダヤを制圧するために実力者であるウェスパシアヌスをユダヤの総督として派遣しました。ところが、AD68年にネロは自殺し、翌年69年には、ウェスパシアヌスがローマ皇帝となってローマに戻り、息子のティトスを代わりにユダヤの総督として派遣することになります。ティトスは、引き続きユダヤ人の制圧に力を注ぎました。

ローマの戦略はまず、周辺の要塞から攻撃していき、最後にエルサレムを包囲して陥落させました。このエルサレムに対する所謂、兵糧攻めが6か月間続き、その間、城内の人々には食べる物がなく、飢死した人々が大勢出てきました。最終的に、AD70年の9月にエルサレムが陥落しましたが、この時11万人が殺され、9万人が捕虜にされたと言われています。このユダヤ戦争において神殿に執着し続けた祭司(サドカイ派)や熱心党が滅び、歴史からその姿を消しました。現在のイスラエルの子孫は進歩的ファリサイ派と言われています。

この時、キリスト者は、エルサレムの城内に逃げ込まないで、山に逃げました。つまりヨルダン川を渡ってペラという町に逃れたと歴史家の記録に書かれています。彼らがペラに逃れて、そしてエルサレムの状況を詳しく知った後で初めて、イエスさまの語られた預言がその通りに成就されたことを認識できたことでしょう。イエスさまは屋上にいる者は家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない、畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならないと教えられました。自分の家の屋上で夕方には休むのがユダヤ人の習慣でしたが、そのまま逃げなさいというのです。それほど、急を要したということです。逃げるのが冬や安息日にならないようにと言われるのは、冬になると雨で道がぬかってしまい通れなくなります。安息日には門が閉まって移動できなくなりますし、ユダヤ人の言い伝えによって1キロ以上歩くことが禁じられていて、逃げることが制限されるからです。

エルサレム陥落の事件は世界の初めから今までにない、大きな苦難であると言われます。なぜこれほどの恐ろしい災いと苦難がエルサレムに下るのかと言えば、それは神の審判だからです。つまり、神が遣わされた御子キリストを信じないで、祭司と律法学者たちはイエスさまを十字架に架けて殺してしまったという罪に対する審判です。つまり、悪人に対する神の復讐でもありました。

神を信じない者は、旧約の時代、神によって遣わされた預言者たちをことごとく殺害し、時が満ちて神の一人子までも殺害し、神の栄光を自分たちのものにしようと強奪した罪が、この時代に最終的に精算されて、神の復讐という形でユダヤ人とエルサレム神殿に臨んだということです。このエルサレム陥落における、神の怒りは、そのままイエスさまが再臨される終末の裁きの模型であると言うこともできます。イエスさまが再臨するときは、全ての人類の罪が残らず精算され、神に復讐を叫ぶ、義人の血の声に、神さまがお答えになられる日なのです。信じない不敬虔な者にあって、神の復讐の日であり、これまでにも、これからもないような恐ろしい裁きの日なのです。22節をご覧ください。

神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。

神さまはそのような恐ろしい怒りの日であっても、ご自身の民に対しては顧みを与えてくださり、恵みを施してくださいます。

しかし、偽メシアや偽預言者が現れて、「ここにメシアがいる」、とか「いや、こっちにいる」と言って、できれば選ばれた人たちをも惑わそうとします。ですから荒れ野において洗礼者ヨハネが現れたのと同じように公開的にメシアらしき人が現れても、或いは奥の部屋のような小部屋で秘密裏にメシアらしき人が現れても、決して信じてはならないと警告します。なぜなら、人の子が再臨するときには、どのように再臨するかというと、27節に書いてある通りだからです。

稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。

イエスさまは27節の御言葉において、3節の弟子たちの質問である、「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」という質問に、初めて答えられたと言えるでしょう。イエスさまの再臨とは、突然「稲妻」が光るように、どこからでも見える、誰でも認識できる、間違いようのない出来事として起こるのです。それは、初臨の時のように処女マリアから生まれて、人々に気づかれずに世の片隅に現れるような仕方ではないということです。ですから、現代において、もし「実は聖書に書かれている再臨のメシアが、既に来られているのです」などと言われても、決してついて行ってはなりません。それは間違いなく偽メシアであると思ってください。たとえ、彼こそメシアではないかと思われる人が、数々の不思議としるしの業を行ったとしても偽メシアです。なぜなら、人の子の再臨は、ある人には認識できて、ある人には認識できなかったというような再臨の仕方ではないからです。これまでと全く異なった性質によって、どこの誰にでもすべての人に認識できるような形で再臨されるからです。そして再臨される時は世の裁きであり不信者に対する復讐の時であり、神の民であるキリスト者においては体の贖いの時、永遠の安息に入れられる栄化のときなのです。私たちは、信者であれ、不信者であれ、キリストの再臨の時、神の御前に立たされる時の準備をしているのです。

弟子たちには、イエスさまの語られた御言葉について他にまだ、理解しきれていないことがたくさんあったことと思われますが、聖霊が語られた御言葉を一つ一つ思い起こさせてくださり、その意味を後になって悟ることができるようになり、恵みに与ることとなりました。ですから、弟子たちは聖霊に満たされて、世界に出て行き、御言葉を大胆に宣べ伝えることが可能となりました。彼らの確信は日々強められ、旧約時代においても、新約時代においても、同じお一人の神がおられること、そして、旧約の時代と新約の時代の貫かれている神と民との契約も一つであること、つまり、それは一方的に神から民へ恵みとして与えられますが、信仰によってでしか、それを受け取ることができないということを深く理解したのです。また、旧約の律法と祭祀制度が全てイエスキリストを指し示しているものであり、キリストが十字架上で、神の完全な供え物として一度捧げられることで、それらを完全に成就されたことを理解したのです。私たちはやがて個人的な終末として死を迎えることになりますが、個人的な終末であれ、宇宙的な万物の終末であれ、同じです。私たちはその日、不信者にとっては裁きの日・罪の精算の日を迎え、信者にとっては喜びの日、イエスキリストのもとに引き上げられ、永遠の安息に入れられる日を迎えるのです。この地上で生かされている中で、神は私たちに試練と困難を与えますが、それらは私たちを練り浄めて、やがて主の御前に立たされる時の準備としてくださるのです。終末の日、世の終わりの日を念頭に置きながら、私たちは忍耐と感謝をもって歩ませていただきましょう。

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