2023年12月31日「このような子供の一人を受け入れる者 이런 어린 아이 하나를 영접하는 자」

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このような子供の一人を受け入れる者 이런 어린 아이 하나를 영접하는 자

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 9章30節~37節

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聖句のアイコン聖書の言葉

9:30一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
9:31それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。
9:32弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
9:33一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
9:34彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。
9:35イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
9:36そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
9:37「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 9章30節~37節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

“なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。(9:19)”と、山から降りて来てイエス様は嘆かれました。孤独の中で、イエス様がただ一人、十字架の死へと向かおうとされている苦難が、この言葉の中ににじみ出ています。どんなにイエス様が忍耐を持って弟子たちに教え続けても、弟子たちは一向に変わる様子はありませんでした。弟子たちの無理解とイエス様の孤独だけが、際立って来るようです。本日は、イエス様の孤独、イエス様の苦難とは何だったのか、そして、弟子たちはそのイエス様にどのようにして寄り添っていくことができるのかについて、御言葉から恵みに与りたいと思います。

【1】. 二回目の受難告知

イエス様一行は、ガリラヤ地方を通って行きましたが、人々に気付かれないように移動しました。その理由は、イエス様がこれからエルサレムで受けることになる受難について、弟子たちに打ち明けるためです。これは、二回目の受難告知でありました。30~32節をご覧ください。

“一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。”

イエス様の受難告知は、十字架と復活を知っている私たちにとって、すぐに理解できる言葉ですが、当時の弟子たちにとっては難解なお言葉でありました。一回目の受難告知では、ペトロがイエス様をいさめながら「そんなことがあってはなりません」と、反論しましたが、今回は、怖くて、誰もその意味を尋ねることが出来ませんでした。恐らくこの言葉を聞いた時、弟子たちは大変憂鬱な気持ちになったことでしょう。旧約聖書に預言された、イスラエルの王であるメシアがついに現れたのに、そして弟子たちに、神の国の福音を宣言させ、病人を癒し、悪霊を追い出す権能を与えて下さり、弟子たちの間には、明らかに勝利の輝きが漂っていたのに、そこに水を差すかのようなお言葉がイエス様の口から出て来たのです。

神学者たちによれば、この受難告知は、旧約聖書のダニエル記7章25節と関連があると主張します。ダニエル記7章とは、人の子に権威と威光と王権が与えられるのですが、その前に、まず悪い統治者によって悩まされ、苦難に遭わなければならないということが書かれています。ダニエル7:25~27をご覧ください。

“彼はいと高き方に敵対して語り/いと高き方の聖者らを悩ます。彼は時と法を変えようとたくらむ。聖者らは彼の手に渡され/一時期、二時期、半時期がたつ。やがて裁きの座が開かれ/彼はその権威を奪われ/滅ぼされ、絶やされて終わる。天下の全王国の王権、権威、支配の力は/いと高き方の聖なる民に与えられ/その国はとこしえに続き/支配者はすべて、彼らに仕え、彼らに従う。」”

25節の「彼」とは、悪い統治者であり、人類史上、最も強大な勢力を持っています。その勢力が神の国に敵対するのですが、人の子を含む聖者たちは、彼の手に一時期と二時期と半時期、渡されることになります。しかし、その後、復活し、権威と威光と王権が、人の子と、そして、彼に属する民に与えられるだろうということです。イエス様の受難告知がダニエル記からの引用であっても、そうでなくとも、エルサレムで起こったイエス様の十字架の死というのは、決して偶然に起こった悲劇ではありません。それは予め定められた、父なる神のご計画であったということを意味しているのです。

【2】. 大切な教え

さて、一行はカファルナウムの家に着きました。恐らくペトロの家であると推測されます。イエス様は、途中で何を議論していたのかと弟子たちにお尋ねになると、弟子たちは答えられず黙ってしまいました。その内容が、「誰が一番偉いかについて」であったため、気まずくなったのでありましょう。ユダヤ人にとって序列の問題とは、大変関心があり、大変重要な問題でありました。実は、聖書に複数の名前が出て来る時、その順番は、単純にアイウエオ順でもなければ、年齢順でもありません。大概、彼らの中の序列に従って名前が順番に記されています。「ペトロとヤコブとヨハネ」いう順番で書かれている時、或いは「パウロとバルナバ」という順番で書かれている時、その順番は、即ち彼らの中の序列であったことを意味しているのです。弟子たちは、イエス様が王であり、間もなく神の国が臨むだろうと期待する中で、それでは神の国の組織はどうあるべきか、ということを議論していたのです。しかし、イエス様がご自身の苦難と死に関する教えを直前になされていたことを勘案するなら、弟子たちがそのことについて共に悩むのではなく、むしろ自分たちの立身出世について悩んでいたというのは、ばつが悪かったに違いありません。弟子たちが序列をつけるため、互いに優劣を競い合っていたように、私たちもともすると、序列を巡り、互いに優劣を競い合うことがあるのではないでしょうか。「私は、必ず主日礼拝を守っている。」「私は日々、聖書を読んでおり、霊性が優れている。」「私は教会においても、社会においても信頼されている」などです。そのこと自体は素晴らしいことでありますが、しかし、そのことを持って他人と比較して優越感に浸ることは、同時に他人を見下し、他人を裁いてしまうことにもなりかねません。そのような思いが最も心に宿りがちになるのは、ひょっとしたら牧師なのだと思います。牧師は教会全体のことを良く知っていますし、教会員お一人お一人のことも良く知っているからです。ですから他人と比較して優越感を持ち、傲慢の心が芽生えないように、イエス様は弟子たちに大切な教えを語ってくださいました。35~37節をご覧ください。

“イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」”

イエス様が弟子たちの中にお座りになったのは、ラビが弟子たちに何かを教えられる伝統的な方法でありました。「お座りになった」ということから、これからラビとして大切な教えをされるということが分かります。ここで私たちが注意したいことは、イエス様は、一番先になりたいという思い、それ自体を否定してはおられないということです。「この中で皆の先頭に立ちたい者があるか。それならば、先頭に立てる秘訣を教えてあげよう。」と言われたのです。その教えとは、謙遜になること、自らを恥じ入り、自らを低い状態に置くことであります。その上で、すべての人に仕える者になりなさい、奉仕しなさいと勧められました。幻を見たり、預言することではありません。或いは、奇跡を起こすことでもありません。

「謙遜になれ」という教えは、私たちがこれまでにも何度か聞かされてきた、ありきたりの教えに聞こえるかもしれませんが、「イエス・キリストのゆえに」、「キリストの名のゆえに」謙遜になりなさいという教えだと思います。私たちがどんなに謙遜になり、低い状態になろうとしても、イエス様のように謙遜で、自分を低い状態に置くことは決して出来ないのです。イエス様の謙遜こそ、イエス様の奉仕こそ、私たちの模範となるのです。なぜなら、イエス様は神の御子でありながら、天の栄光を放棄され、悪臭を放つ家畜小屋でお生まれになったからです。当時のユダヤ人と同じように八日目に割礼をお受けになり、罪のないお方が罪人として律法の下で生活をされたからです。それだけではありません。十字架に掛られる前日に、弟子たちの足を洗ってくださり、そして、私たちの罪を贖うため、ご自身の命を捧げられ、十字架の道を進まれたからです。イエス様こそ、最も低く謙遜になられたお方であります。ですから、神の国、教会の中で、一番先になりたいと思うなら、イエス様の模範に従って、謙遜になり、自らを低い状態に置いて、率先して奉仕すべきであります。教会での奉仕とは何かと言えば、それは、自分の時間と、自分の賜物と、自分のお金を神様のために捧げることです。週報にも奉仕者の名前が細かく記載されていますね。旧約聖書にも礼拝に仕えた人々や、神殿や城壁の再建に携わった人々の名前が細かく記載されています。教会の奉仕とは、そのように尊い働きであるということが言えるのです。

【3】. このような子供の一人を

それから、イエス様は一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱きかかえました。「子供」とは、ギリシア語で、パイディオン「幼い子供」という意味です。またアラム語で、「子供」(טליאタルヤ、נערナアル)という言葉は、同時に「僕」という意味も持っています。ですからイエス様は「子供」と「僕」を同一視されている可能性があります。想像すれば分かりますように、子供とは、誰かに依存しなければ生きてはいけない存在です。弱く傷つきやすいのが子供であり、戦争や災害などで最初の犠牲者になりやすいのが、弱い立場にある子供たちであると言えるでしょう。また、イエス様の時代においては、幼子とか、子供たちと言う時、決して現代の私たちが抱くような、かわいい天使を連想させ、偶像視されることはありませんでした。つまり、子供の無邪気さとか、素直さ、子どもの天真爛漫な姿が、美徳としてみなされることはなかったのです。当時の子供は、むしろ、つまらない愚か者の比喩としてよく用いられ、取るに足らない者、人数を数える際、その数に含めることもない者として、見做されていました。そのような子供を、イエス様は抱きかかえて「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」と言われたのです。イエス様はおそらく取るに足らない子供を、弱い子供を、十字架上に引き渡されるご自身に投影されているのだと思います。誰かに依存せざるを得ない子供を、低い僕の姿でこの世に来られたご自身と同一視されているのだと思います。

イエス・キリストは何の抵抗もすることなく、人々の手に渡されるでしょう。それは、洗礼者ヨハネが、人々から好きなようにあしらわれたのと同じです。イエス様も同じ様に、人々から好きなようにあしらわれ、つばきを吐きかけられ、鞭打たれ、裸にされ、十字架上でさらし者とされ、人々から嘲られ、辱められるのです。イエス様がそのように低く歩まれたのは、私たち罪人を贖うために、生贄の子羊として献げられるためでありました。イエス様が私たちに与えてくださった奉仕とは、なんと尊い奉仕であったことでしょうか。イエス様が私たちのために低められたことは、なんと意味深い遜りであったことでしょうか。

そのことを覚え、心の中に深く刻み付けるなら、私たちは、最も弱い人々、最も小さな人々、誰かに依存せざるを得ない子供たちに特に注意を注ぐことができるのだと思います。イエス様と重なるからであります。これまで自分より弱いと思っていた兄弟姉妹の背後に、イエス様がおられることを信じ、兄弟姉妹に仕えることができるのだと思います。イエス様は他の箇所で次のような譬えを語っておられます。マタイ25:34-40をご覧ください。

“そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』”

小さき者の一人をイエス様の名によって受け入れることは、実はイエス・キリストを受け入れることであり、さらに言えばイエス様をこの世に遣わしてくださった天の父なる神様を受け入れることになるのです。キリストの弟子とは、王として、勝利者として来られたイエス様を、勝利の光の中で受け入れるのではなく、むしろ、このように低く人々に仕える者として来られた「苦難の僕」として来られたイエス様を、受け入れることであります。低く、弱くされた僕の姿とは、まさにイエス様がお一人で戦われた孤独であり、苦難であったのです。その僕の姿に寄り添いながら、その御足を模範として従っていく者こそ、一番偉い弟子であり、神の国に最もふさわしい弟子であると、イエス様は言われるのです。

【結論】

2000年前、イエス様はイスラエルの王として来られ、神の国を打ち立てられました。しかしイエス様は白馬に乗って来られたのではなく、ロバの子に乗って、人々に仕える王として、謙遜な姿で来られました。それは、ご自身の民を贖い、聖なる民として御国を相続させるためであり、そして主の御足に従うご自身の民に、権威と威光と王権を与えるためでありました。この恵みをしっかり受け止めながら、イエス様の孤独と苦難に寄り添っていく私たちとして歩ませていただきましょう。私たちがどんなに謙遜になり、低い状態になろうとしても、イエス様のように謙遜で、自分を低い状態に置くことは出来ませんが、イエス様の御足を模範とする者として私たちは歩ませていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

이런 어린 아이 하나를 영접하는 자

2023년 12월 31일 센겐다이교회 주일설교

마가복음 9장 30~37절

서론

「믿음이 없는 세대여 내가 얼마나 너희와 함께 있으며 얼마나 너희에게 참으리요(9장 9절)」하고 산에서 내려오신 예수님은 탄식하셨습니다. 고독 속에서 예수님 홀로 십자가 죽음으로 향하시려는 고난이 이 말씀 속에 묻어납니다. 아무리 예수님이 인내심을 가지고 제자들에게 계속 가르치려 해도 제자들은 전혀 변하는 기색이 없습니다. 제자들의 몰이해와 예수님의 고독만이 두르러지는 것 같습니다. 오늘은 예수님의 고독, 예수님의 고난이란 무엇이었는가, 그리고 제자들은 그 예수님에게 어떻게 바싹 다가갈 수 있는지 말씀으로부터 은혜를 받고자 합니다.

(1) 두 번째 수난고지

예수님 일행은 갈릴리 지방을 지나갔지만 사람들이 눈치채지 못하도록 이동했습니다. 그 이유는 예수님이 앞으로 예루살렘에서 받게 될 수난에 대해 제자들에게 털어놓기 위해서입니다. 이것은 두 번째 수난고지였습니다. 30~32절을 보시기 바랍니다.

30 그 곳을 떠나 갈릴리 가운데로 지날새 예수께서 아무에게도 알리고자 아니하시니

31 이는 제자들을 가르치시며 또 인자가 사람들의 손에 넘겨져 죽임을 당하고 죽은 지 삼 일만에 살아나리라는 것을 말씀하셨기 때문이더라

32 그러나 제자들은 이 말씀을 깨닫지 못하고 묻기도 두려워하더라

예수님의 수난고지는 십자가와 부활을 아는 우리는 곧 이해할 수 있는 말씀이지만 당시 제자들에게는 난해한 말씀이었습니다. 첫 번째 수난고지에서는 베드로가 예수님을 붙들고「주여 그리 마옵소서 이 일이 결코 주께 미치지 아니하리이다」라며 항변하였지만 이번에는 두려워서 아무도 그 의미를 묻지 못했습니다. 아마 이 말을 들었을 때 제자들은 몹시 우울해 했을 것입니다. 구약성경에 예언된 이스라엘의 왕 메시아가 마침내 나타났는데 그리고 제자들에게 하나님 나라 복음을 선포하게 하시고 병자를 치유하고 더러운 귀신을 몰아낼 권능을 주셨고 제자들 사이에는 분명히 승리의 빛이 감돌고 있었는데 거기에 찬물을 끼얹는 듯한 말씀이 예수님의 입에서 나온 것입니다.

신학자들에 따르면 이 수난고지는 구약성경 다니엘 7장 25절과 관련이 있다고 주장합니다. 다니엘 7장은 인자에게 권위와 위엄과 왕권이 부여되는데, 그 전에 먼저 악한 통치자들에 의해 고통받고 고난을 겪어야 한다는 내용이 적혀 있습니다. 다니엘 7장 25~27절을 읽어보겠습니다.

25 그가 장차 지극히 높으신 이를 말로 대적하며 또 지극히 높으신 이의 성도를 괴롭게 할 것이며 그가 또 때와 법을 고치고자 할 것이며 성도들은 그의 손에 붙인 바 되어 한 때와 두 때와 반 때를 지내리라

26 그러나 심판이 시작되면 그는 권세를 빼앗기고 완전히 멸망할 것이요

27 나라와 권세와 온 천하 나라들의 위세가 지극히 높으신 이의 거룩한 백성에게 붙인 바 되리니 그의 나라는 영원한 나라이라 모든 권세 있는 자들이 다 그를 섬기며 복종하리라

25절의 「그」란 악한 통치자이며 인류 역사상 가장 막강한 세력을 가지고 있습니다. 그 세력이 하나님 나라를 적대하는데, 인자를 포함한 성도들은 그의 손에 붙인 바 되어 한 때와 두 때와 반 때를 지내게 됩니다. 그러나 그후 부활하여 권위와 위엄과 왕권이 인자와 그리고 그에게 속한 백성들에게 주어질 것이라는 것입니다. 예수님의 수난고지가 다니엘서에서 인용된 것일지라도 그렇지 않더라도 예루살렘에서 일어난 예수님의 십자가의 죽음이라는 것은 결코 우연히 일어난 비극이 아닙니다. 그것은 미리 정해진 아버지 하나님의 계획이었다는 것을 의미하는 것입니다.

(2) 소중한 가르침

자, 일행은 가버나움의 집에 도착했습니다. 아마 베드로의 집일 것으로 추측됩니다. 예수님이 길에서 서로 토론한 것이 무엇인지 물으시자 제자들은 대답하지 못하고 입을 다물고 말았습니다. 그 내용이 「서로 누가 크냐 하고」쟁론하였기 때문에 어색했을 것입니다. 유대인에게 서열의 문제란 매우 관심이 있고 매우 중요한 문제였습니다. 사실 성경에 여러 이름이 나올 때 그 순서는 단순히 가나다라 순서가 아니고 나이 순서도 아닙니다. 그들 중 서열에 따라 이름이 순서대로 적혀 있습니다. 「베드로와 야곱과 요한」이라는 순서로 쓰여 있을 때, 혹은 「바울과 바나바」라는 순서로 쓰여 있을 때, 그 순서는 곧 그들 사이의 서열이었음을 의미하는 것입니다. 제자들은 예수님이 왕이시고 곧 하나님의 나라가 임하실 것이라고 기대하는 가운데, 그렇다면 하나님의 나라의 조직은 어떠해야 하는가에 대해 토론하고 있었던 것입니다. 그러나 예수님께서 자신의 고난과 죽음에 대한 가르침을 직전에 하셨음을 감안한다면 제자들은 그 일에 대하여 같이 고민하는 것이 아니고 오히려 자신들의 입신양명에 관해서 고민하고 있었다는 것은 잘못된 일이었을 것입니다. 제자들이 서열을 매기기 위해 서로 우열을 겨루던 것처럼 우리도 걸핏하면 서열을 놓고 서로 우열을 겨루는 경우가 있지 않을까요? “나는 반드시 주일 예배를 지키고 있다” “나는 날마다 성경을 읽고 영성이 뛰어나다” “나는 교회에서도, 사회에서도 신뢰를 받고 있다”등입니다. 그 자체는 훌륭한 일이지만, 그것을 가지고 다른 사람과 비교하여 우월감에 젖는 것은 동시에 다른 사람을 깔보고 다른 사람을 심판하게 될 수도 있습니다. 그런 생각이 가장 마음에 깃들기 쉬운 것은 어쩌면 목사인 것 같습니다. 목사는 교회 전체를 잘 알고 있고 교회원 한 사람 한 사람 잘 알고 있기 때문입니다. 그러므로 남들과 비교하여 우월감을 갖고 교만한 마음이 싹트지 않도록 예수님께서는 소중한 가르침을 말씀해 주셨습니다. 35~37절을 보세요.

35 예수께서 앉으사 열두 제자를 불러서 이르시되 누구든지 첫째가 되고자 하면 뭇 사람의 끝이 되며 뭇 사람을 섬기는 자가 되어야 하리라 하시고

36 어린 아이 하나를 데려다가 그들 가운데 세우시고 안으시며 제자들에게 이르시되

37 누구든지 내 이름으로 이런 어린 아이 하나를 영접하면 곧 나를 영접함이요 누구든지 나를 영접하면 나를 영접함이 아니요 나를 보내신 이를 영접함이니라

예수님이 제자들 가운데 앉으신 것은 랍비가 제자들에게 무언가를 가르치는 전통적인 방법이었습니다. 「앉으사」라는 것을 통해 앞으로 랍비로서 중요한 가르침을 말씀하실 것을 알수 있습니다. 여기서 우리가 주의하고 싶은 것은 예수님은 첫째가 되고 싶다는 생각, 그 자체를 부정하고 계시지 않는다는 것입니다. 「이 중에서 뭇 사람의 첫째가 되고 싶은 자가 있느냐? 그렇다면 첫째가 될 수 있는 비결을 알려주겠다」라고 말씀하시는 것입니다. 그 가르침은 겸손해지는 것, 자신을 비천하게 여기고 자신을 낮은 상태에 두는 것입니다. 게다가 모든 사람을 섬기는 자가 되라, 봉사하라고 권하고 계십니다. 환상을 보거나 예언하는 것이 아닙니다. 혹은 기적을 일으키는 것도 아닙니다.

겸손해지라는 가르침은 우리가 지금까지 몇번이나 들었던 뻔한 가르침으로 들릴지 모르지만 예수 그리스도를 위하여 그리스도의 이름 때문에 겸손해지라는 가르침이라고 생각합니다. 우리가 아무리 겸손해지고 낮은 상태가 되려고 해도 예수님처럼 겸손하고 자신을 낮은 상태로 둘 수는 없습니다. 예수님의 겸손이야말로 예수님의 섬김이야말로 우리의 모범이 되는 것입니다. 왜냐하면 예수님은 하나님의 아들이시면서도 하늘의 영광을 포기하시고 악취를 풍기는 외양간에서 태어나셨기 때문입니다. 당시 유대인들과 마찬가지로 8일째 할례를 받고 죄가 없으신 분이 죄인으로 율법 아래 생활을 하셨기 때문입니다. 그뿐만이 아닙니다. 십자가에 못 박히시기 전날 제자들의 발을 씻겨주시고 우리의 죄를 속죄하기 위해 자신의 목숨을 바쳐 십자가의 길을 가셨기 때문입니다. 예수님이야말로 가장 낮고 겸손하신 분입니다. 그러므로 하나님의 나라, 교회 안에서 첫째가 되고 싶다면 예수님의 모범에 따라 겸손해지고 스스로를 낮은 상태에 두고 솔선수범하여 봉사해야 합니다. 교회에서의 봉사란 무엇인가 하면 그것은 자신의 시간과 자신의 재능과 자신의 재물을 하나님을 위해 바치는 것입니다. 주보에도 봉사자 이름이 자세히 기재되어 있네요. 구약성경에도 예배를 드렸던 사람들과 성전이나 성벽 재건에 참여한 사람들의 이름이 상세히 기재되어 있습니다. 교회의 봉사는 그렇게 고귀한 일이라고 할 수 있습니다.

(3) 이런 어린 아이 하나를

그런 다음 예수님은 한 아이의 손을 잡고 그들 가운데 세우시고 안으셨습니다. 「아이」란, 헬라어로 파이디온「어린 아이」라는 의미입니다. 또 아람어에서 「아이」(타르야, 나알)라는 말은 동시에 「종」이라는 뜻도 가지고 있습니다. 그래서 예수님은 「아이」와 「종을」동일시 하신 가능성이 있습니다. 상상해보면 알수 있듯이 아이란 누군가에게 의존하지 않고는 살 수 없는 존재입니다. 연약하고 상처받기 쉬운 것이 아이들이고 전쟁이나 재해 등으로 최초의 희생자가 되기 쉬운 것이 약한 위치에 있는 아이들이라고 할 수 있습니다. 또한 예수님 시대에는 어린 아이라든가, 아이들이라든가 할 때 결코 오늘날의 우리가 생각하는 것과 같은 귀여운 천사를 연상시키고 우상시 되는 일은 없었습니다. 즉, 아이의 순진함이라든가, 솔직함, 아이의 천진난만한 모습이 미덕으로 간주되지는 않았습니다. 당시 아이들은 오히려 하찮은 어리석은 자들의 비유로 자주 사용되었고, 하찮은 자, 인원수를 셀 때 그 수에 포함시키지도 않는 자로 간주되었습니다. 그런 아이를 예수님은 껴안고 「누구든지 내 이름으로 이런 어린 아이 하나를 영접하면 곧 나를 영접함이요 누구든지 나를 영접하면 나를 영접함이 아니요 나를 보내신 이를 영접함이니라」라고 말씀하셨습니다. 예수님은 아마 하찮게 여겨지는 아이를, 연약한 아이를 십자가의 죽음으로 인도받는 자신에게 투영하고 있는 것이라고 생각합니다. 누군가에게 의존하지 않을 수 없는 아이를 낮은 종의 모습으로 세상에 오신 자신과 동일시하고 있다고 생각합니다.

예수 그리스도는 아무런 저항 없이 사람들의 손에 넘겨질 것입니다. 그것은 세례자 요한을 사람들이 원하는 대로 다루었던 것과 같습니다. 예수님도 마찬가지로 사람들이 원하는 대로 다루어짐을 당하시고 침 뱉음을 당하시고, 매를 맞으시고, 벌거벗겨지시고, 십자가에 못 박혀 사람들로부터 조롱 당하시고 능욕 당하시는 것입니다. 예수님이 그렇게 비천한 길을 걸으신 것은 우리 죄인을 속죄하기 위해 제물의 어린 양으로 바쳐지기 위해서였습니다. 예수님께서 우리에게 주신 섬김이란 얼마나 고귀한 섬김이었을까요? 예수님이 우리를 위해 낮아지신 것은 얼마나 뜻 깊은 겸손함이셨습니까?

그것을 기억하고 마음속에 깊이 새긴다면 우리는 가장 약한 사람들, 가장 작은 사람들, 누군가에게 의존할 수 밖에 없은 아이들에게 특히 주의를 기울일 수 있다고 생각합니다. 예수님과 겹치기 때문입니다. 그동안 자신보다 약하다고 생각했던 형제자매 뒤에 예수님이 계시다는 것을 믿고 형제자매를 섬길 수 있다고 생각합니다. 예수님은 다른 곳에서 다음과 같은 비유를 하고 계십니다. 마태복음 25장 34~40절을 참조하시기 바랍니다.

34 그 때에 임금이 그 오른편에 있는 자들에게 이르시되 내 아버지께 복 받을 자들이여 나아와 창세로부터 너희를 위하여 예비된 나라를 상속받으라

35 내가 주릴 때에 너희가 먹을 것을 주었고 목마를 때에 마시게 하였고 나그네 되었을 때에 영접하였고

36 헐벗었을 때에 옷을 입혔고 병들었을 때에 돌보았고 옥에 갇혔을 때에 와서 보았느니라

37 이에 의인들이 대답하여 이르되 주여 우리가 어느 때에 주께서 주리신 것을 보고 음식을 대접하였으며 목마르신 것을 보고 마시게 하였나이까

38 어느 때에 나그네 되신 것을 보고 영접하였으며 헐벗으신 것을 보고 옷 입혔나이까

39 어느 때에 병드신 것이나 옥에 갇히신 것을 보고 가서 뵈었나이까 하리리

40 임금이 대답하여 이르시되 내가 진실로 너희에게 이르노니 너희가 여기 내 형제 중에 지극히 작은 자 하나에게 한 것이 곧 내게 한 것이니라 하시고

지극히 작은 자 한 명을 예수님의 이름으로 영접하는 것은 사실 예수님을 영접하는 것이고 나아가서는 예수님을 이 세상에 보내주신 하늘의 아버지 하나님을 받아들이는 것입니다. 그리스도의 제자란 왕으로서 승리자로 오신 예수님을 승리의 빛 속에서 받아들이는 것이 아니라 오히려 이렇게 자신을 낮추고 사람들을 섬기는「고난의 종」으로 오신 예수님을 받아들이는 것입니다. 낮고 연약한 종의 모습이란 그야말로 예수님이 홀로 싸우신 고독이요 고난이었던 것입니다. 그 종의 모습에 가까이 다가가 그 분의 걸음을 모범으로 삼아 뒤따르는 자야말로 가장 위대한 제자요 하나님 나라에 가장 적합한 제자라고 예수님은 말씀하십니다.

결론

2000년 전 예수님은 이스라엘의 왕으로 오셔서 하나님의 나라를 세우셨습니다. 그러나 예수님은 백마를 타고 오신 것이 아니라 나귀 새끼를 타고 사람들을 섬기는 왕으로서 겸손한 모습으로 오셨습니다. 그것은 자신의 백성을 속죄하고 거룩한 백성으로서 나라를 상속받기 위함이며, 그리고 주의 걸음을 따르는 자신의 백성에게 권위와 위세과 왕권을 주시기 위함이었습니다. 이 은혜를 잘 받아들이면서 예수님의 고독과 고난에 다가가는 우리로 살아갑시다. 우리가 아무리 겸손해지고 낮은 상태가 되려고 해도 예수님처럼 겸손하고 자신을 낮은 상태로 둘 수는 없지만 예수님의 걸음을 모범으로 삼는 자로서 우리는 걸어 갑시다.

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