2023年12月17日「信じます、信仰のない私をお助けください 내가 믿나이다 나의 믿음 없는 것을 도와 주소서」

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信じます、信仰のない私をお助けください 내가 믿나이다 나의 믿음 없는 것을 도와 주소서

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 9章14節~29節

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聖句のアイコン聖書の言葉

9:14一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。
9:15群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。
9:16イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、
9:17群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。
9:18霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」
9:19イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
9:20人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。
9:21イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。
9:22霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」
9:23イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」
9:24その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
9:25イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」
9:26すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。
9:27しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。
9:28イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。
9:29イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 9章14節~29節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

イエス様がペトロとヤコブとヨハネの三人をつれて、高い山に登られ、ご自身が神の子であることを示されました。三人の弟子たちは主の栄光と祝福に満ちた素晴らしいひと時を、イエス様と共に体験し、祝福の中に包まれながら山を下りて来たのであります。ところが山のふもとでは残された弟子たちが、現実の霊的戦いの渦中に、身を置かれていました。大勢の群衆に取り囲まれ、律法学者たちと議論していたのです。イエス様が「何を議論しているのか」とお尋ねになると、ある者が答えました。17~18節をご覧ください。

【1】. 信仰のない時代の敗北感

“群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」”

律法学者たちと議論していた内容とは、なぜイエス様の弟子たちに「汚れた霊を追い出すことが出来なかったのか」ということだったと思われます。弟子たちは、汚れた霊を追い出す権能を、既にイエス様から与えられていたからです。マルコ3:15には、十二弟子を選ぶ際、次のように但し書きされています。

“悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。”

また、弟子たちは二人ずつ組になって宣教訓練に遣わされる際にも、次のように但し書きがされています。6:7です。

“そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、” …

従いまして、これまで、弟子たちは汚れた霊を何度も追い出したことがあったはずです。そして身を持って、奇跡を実感していたはずです。そのような経験は弟子たちの心にしっかりと植え付けられていたに違いありません。そんな中、父親が汚れた霊にとりつかれた息子を助けてほしいと現れました。ちょうどイエス様が不在なので、弟子たちは、イエス様に代わって御業をなそうとしますが、結局のところ、弟子たちは息子を癒すことが出来ませんでした。それを見た律法学者たちは「お前たちの先生から授かった汚れた霊を追い出す権能とは、この程度のものだったのか?」と弟子たちを嘲り、弟子たちの無能さをなじっていたのではないかと思われます。この状況は、今日の私たちが置かれている状況と似ていないでしょうか。私たちの周りにも常に、多くの問題が存在しています。多くの悩み、苦しみ、嘆きがあります。神の国が到来したはずなのに、私たちを通して何とか神の恵みの支配を広げたいと願っているのに、この世の悪が支配する状況に勝つことができず、むしろ、日々敗北を経験するのです。そのようなところに、イエス様が来られました。父親の説明を聞き、次のようにお語りになります。19節をご覧ください。

“イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」”

「なんと信仰のない時代なのか。」イエス様は不信仰な時代を嘆いています。このお言葉は、群衆にも、そして弟子たちにも語られていると思います。少し前に高い山の上で体験した栄光に包まれた至福の状況とは真逆であります。このような不信仰な時代のただ中に、イエス様はただ一人「信仰の人」として立っているのです。イエス様お一人だけで、不信仰な時代と対決しているのです。

人々が息子をイエス様のところに連れてくると、霊は、「すぐにその子を引き付け」させました。また、「その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹き」始めました。イエス様が、父親に「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになると、父親は22節で“幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでください。”と答えました。「幼い時から」ということは、子どもが突如倒れて、口から泡を吹く状況を、父親は何度も遭遇したことになります。その度に子どもを必死に守ろうとしたのでしょう。親であれば誰であれ、子どもが命の危険にさらされている時、その命を守ることができないことほど、惨めで虚しいことはありません。「子どもを憐れんでください」ではなく、「わたしどもを憐れんでください」という言葉に、何度も深い絶望感と敗北を経験した、父親の悲哀が、伝わってくるのです。

話しは逸れますが、悪霊の力とは、恐ろしいもので、人間に取りつくと、その人を殺そうとし、火の中や水の中に投げ込むことがあるということです。そのような霊の力に対し、私たちは、そんなものオカルトだとして、全く無視することは正しい態度ではありません。しかし、悪いことは、全て悪魔と悪霊どもの仕業として考えることも正しい態度ではありません。例えば、自分が風邪をひいてしまったときに、悪霊どものせいだと言ったり、自分が学校に遅刻した時に、悪魔によって妨げられたとか、悪事を働いた時に、悪魔に誘惑されて悪事を働いてしまったなどと、全てのことを悪魔や悪霊に関連させてはならないということです。悪霊の力や、悪魔の力というのは、まだ最後の火の審判を受けておらず、依然として外部から教会に影響を及ぼし、人間を神様から引き離すための何らかの影響力をもっていることを、聖書は認めていますが、神と五分五分で拮抗しているわけではなく、既に獄につながれており(2ペトロ2:4)、神の力に完全に服従させられているとも聖書には書かれています。

【2】. 赤裸々な祈り

続いて23~24節をご覧ください。

“イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」”

イエス様は「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」と息子の父親をたしなめました。すると、父親はすぐに、「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と叫びました。父親のこの叫びは、文章的には矛盾しているように聞こえます。それでいて、父親の心情をよく表している大変不思議な言葉であります。イエス様は信じる者には何でもできると言われますが、実際、父親は、これまで敗北しか味わってきませんでした。それは、自分の不信仰の現れとも取ることが出来ます。今回も、父親はイエス様に「おできになるなら」と言って、保険をかけてしまいました。どうしても不信仰の言葉を取り去ることが出来ないのです。「けれども、主よ、あなたがその言葉を取れとおっしゃるならば取ります。」しかし、そのように言った後、父親の心の中には、どこを見ても不信仰しか見つからないので「そのような不信仰の私を助けてください」と言っているのです。私たちの信仰も、これと同じだと思います。信じますと言いながら、私たちは洗礼を受け、神と教会の前に信仰告白を誓約しました。しかし、私たちの信仰とは、堅固で、決して崩れない、完全な信仰なのでしょうか。どんなことが起こっても永遠に変わらず、揺さぶられることのない信仰なのでしょうか。そんな完璧な信仰の持ち主は、神様を除いて、いないと思います。私たちの心の中を除いてみるなら、どこかで完全には信じきれていない弱さが付きまとっているのだと思います。

信仰とは、自分が貧しいことを一層深いところで知ること、自分が神の御前に救われる価値の全くないことを一層深いところで知ることであります。神から遠く離れ、望みもなく、滅びて当然の者たちであることを知る事であります。ですから、信仰とは、自分の信心のレベルを、他人に誇るというような性質のものではありません。むしろ、自分を否定して、イエス様に委ねること、イエス様に明け渡すことであります。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」という父親の叫びとは、まさに自分自身を否定し、信じることの確かさを自分の中ではなく、イエス・キリストの中にだけ置いていると言えるのであります。続いて25~27節をご覧ください。

“イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。”

この癒しは、イエス・キリストにある生まれ変わり、イエス・キリストにある再創造を象徴しているようです。汚れた霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行きました。そこにいた多くの者たちは、その子が死んでしまったと思いましたが、イエス様が子どもの手を取って起こされると、まさに死んでいた子どもが生き返ったかのように、立ち上がったのです。暗闇の支配は追いやられ、神の恵みは、命と、再創造をもたらしてくれるのです。

さて、家の中に到着すると、弟子たちは密かに「なぜ、自分たちにはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」とイエス様に尋ねました。イエス様の答えは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われました。恐らく弟子たちは、これまで蓄積してきた、悪霊追い出しのスキルやノウハウに頼っていたということなのでしょう。それでは、イエス様の言われる、「祈り」とは一体何なのでしょうか。祈りとは、教会の中で一つの奉仕であると言うことができます。献金の祈り、或いは週報の祈祷課題に沿った、とりなしの祈りなどは、確かに教会の奉仕です。しかし、イエス様がここで強調しているのは、祈りにおける、イエス様への告白という側面、イエス様との交わりという側面ではないかと思われます。祈りによる神様との関係の中で、この世的なものがすべて引き剥がされていき、神の御前に、自分自身が全く赤裸々にされることを言っているのだと思います。

ある本を読んでいましたら、次のようなお話しがありましたので、ご紹介させていただきます。加藤常昭先生の説教集からの引用です。

「山川千秋というテレビのキャスターをしていた方で、重い病に罹って遂に亡くなった方があります。奥様が先に信仰に導かれていて、その支えもあって、その病床で洗礼を受けて死んだ。『死は終りではない』という書物を夫妻の名前で出しました。今どこの本屋さんにも置いてあります。随分よく売れているのでしょう。私も読んでいろいろなことを考えさせられ、教えられました。この方が書いていることの中で最も印象深いのは、こういうことです。私は知りませんでしたけれども、この方はかつらをつけていた。テレビに映っている姿は髪の毛がふさふさでしたけれども、それはかつらだった。それを寝ている時だけしか外さなかった。子供にも髪の毛のない自分の頭を見せたことはない。まだ外に出る力があった。東京の都心に出て地下鉄の駅から階段を上がってきて、タクシーを捕まえて乗ろうと思った時に、さーっと風が吹いてきてかつらが飛んでしまった。10メートルも先へ飛んだ。夢中になって走って行ってそれを拾ってタクシーに飛び込んだ。そのことをご本人は日記に書いている。そしてとても恥ずかしかったけれども、これは神のご計画だなと思ったと書いてあります。多分これが他人だったら、自分はおかしくてしょうがなかっただろう。けれどもここに神のご計画があると知る。こういうことも書いている。テレビというのは、人に妬みと虚栄だけを教えるものである。自分はその世界に生きてきた。しかし今は神の前にあって、その妬みと虚栄を引き剥がされて、裸になって生き、また死ぬことを学んでいる。(加藤常昭著 マルコによる福音書2)」

引用はここまでです。祈りというのは、神との交わりとは、まさに山川さんが体験されたように、この世的なものがすべて引き剥がされること、赤裸々にされて、自分の罪が、自分の不信仰が、明らかにされることなのだと思います。そのような中で私たちは、「信じます、信仰のない私をお助けください」と救い主に依りすがることしか出来なくなるのです。神様はその祈りを、待っておられるのです。

【結論】

私たちは神を愛し、毎週礼拝を捧げています。信仰を持っているはずですが、心配と不安は絶えることなく、健康の問題、家族・夫婦間の問題、経済的問題などに悩ませられ、揺さぶられる者たちであります。恵みの契約は、このように私たちの揺れ動く信仰の上に建てられた契約ではなく、永遠に変わることのないイエス・キリストの信実によって成就され、堅固に打ち立てられました。私たちは、このイエス・キリストを救い主として与えられているのです。日々の霊的な戦いの中で、敗北を嫌というほど味わった私たちでありますが、このお方に祈りつつ、このお方の信実に依り頼みながら、祈りと信仰の歩みが豊かにされるように、歩む者とならせていただきましょう。イエス様に信頼し、聖霊の導きに委ねる時に、間違いなくお一人お一人に沿った道筋が備えられ、潤いに満ちた営みが整えられることでしょう。今週も愛する兄弟姉妹が主の御心に依り頼んで、共に歩んでいくことができますよう切に乞い願う者であります。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

내가 믿나이다 나의 믿음 없는 것을 도와 주소서

2023년 12월 17일 센겐다이교회 주일설교

마가복음 9장 14~29절

서론

예수님께서 베드로와 야곱과 요한 세 사람을 데리고 높은 산에 오르셔서 자신이 하나님의 아들임을 보여주셨습니다. 세 제자들은 주님의 영광과 축복이 가득한 복된 한때를 예수님과 함께 보내고 축복 속에 싸여 산을 내려왔습니다. 그런데 산기슭에서는 남겨진 제자들이 현실의 영적 싸움의 와중에 처에 있었습니다. 많은 무리에게 둘러싸여 서기관들과 변론하고 있었던 것입니다. 예수님이 「너희가 무엇을 그들과 변론하느냐」고 물으시자 무리 중의 하나가 대답했습니다. 17,18절을 보시기 바랍니다.

17 무리 중의 하나가 대답하되 선생님 말 못하게 귀신 들린 내 아들을 선생님께 데려왔나이다

18 귀신이 어디서든지 그를 잡으면 거꾸러져 거품을 흘리며 이를 갈며 그리고 파리해지는지라 내가 선생님의 제자들에게 내쫓아 달라 하였으나 그들이 능히 하지 못하더이다

(1) 믿음이 없는 세대의 패배감

서기관들과 변론하던 내용은 왜 예수님의 제자들은 더러운 귀신을 쫓아내지 못하는가 하는 것이었다고 생각됩니다. 제자들은 더러운 영혼을 몰아내는 권능을 이미 예수님으로부터 부여받았기 때문입니다. 마가복음 3장 15절에는 열두 제자를 뽑을 때 다음과 같이 단서가 적혀 있습니다.

귀신을 내쫓는 권능도 가지게 하려 하심이러라

또한 제자들은 두 사람씩 짝을 지어 선교훈련에 보내질 때도 다음과 같이 단서를 달았습니다. 6장 7절을 보시죠.

열두 제자를 부르사 둘씩 둘씩 보내시며 더러운 귀신을 제어하는 권능을 주시고

따라서 지금까지 제자들은 더러운 귀신을 몇 번이나 쫓아낸 적이 있었을 것입니다. 그리고 몸소 기적을 실감하고 있었을 것입니다. 그런 경험은 제자들의 마음에 단단히 심어졌던 것이 틀림없습니다. 그러던 중 아버지가 더러운 귀신에 사로잡힌 아들을 구해달라고 나타났습니다. 마침 예수님이 부재중이었기에 제자들은 예수님을 대신해 역사를 이루려고 했지만 결국 제자들은 아들을 치유하지 못했습니다. 그것을 본 서기관들은 “너희 선생님이 주신 더러운 귀신을 쫓아내는 권능이 이런 거냐?” 고 제자들을 비웃으며 제자들의 무능을 힐문하지 않았나 생각됩니다. 이 상황은 오늘날 우리가 처한 상황과 비슷하지 않을까요? 우리 주변에도 항상 많은 문제가 존재합니다. 많은 고민, 고통, 한탄이 있습니다. 하나님의 나라가 도래했을 텐데 우리를 통해 어떻게든 하나님의 은혜의 통치를 넓히고 싶은데 이 세상 악이 지배하는 상황을 이기지 못하고 오히려 나날이 패배를 경험하는 것입니다. 그런 곳에 예수님이 오셨습니다. 아버지의 설명을 듣고 다음과 같이 말씀하셨습니다. 19절을 보시겠습니다.

대답하여 이르시되 믿음이 없는 세대여 내가 얼마나 너희와 함게 있으며 얼마나 너희에게 참으리요 그를 내게로 데려오라 하시매

「믿음이 없는 세대여」라고 예수님은 불신하는 세대를 탄식하고 계십니다. 이 말씀은 무리에게도 그리고 제자들을 향한 말씀이었다고 생각합니다. 얼마 전 높은 산 위에서 겪었던 영광에 휩싸인 복되었던 상황과는 정반대입니다. 이런 불신의 세대의 한 가운데 예수님은 오직 한 분 「믿음의 사람」으로 서 계신 것입니다. 예수님 혼자서 불신하는 세대와 대결하고 계시는 것입니다.

이에 아들을 예수님께 데려오자 「귀신이 예수님을 보고 곧 그 아이로 심히 경련을 일으키게 하는지라 그가 땅에 엎드러져 구르며 거품」을 흘렸습니다. 예수님께서 그 아버지에게 언제부터 이렇게 되었느냐 하시니 아버지는 21절에서 「어릴 때부터니이다」라고 대답합니다. 어릴 때부터라는 것은 아이가 갑자기 쓰러져 입에서 거품을 흘리는 상황을 아버지는 여러 번 조우했을 것이고 그럴 때마다 아이를 필사적으로 지키려고 했을 것입니다. 부모라면 누구나 자녀가 생명의 위험에 처해 있을 때 그 생명을 지킬 수 없는 것만큼 비참하고 허무한 것은 없습니다. 「아들을 불쌍히 여겨 주소서」가 아니라「우리를 불쌍히 여기사 도와 주옵소서」라는 말에는 여러 번 깊은 절망감과 패배를 겪은 아버지의 비애가 전해지는 것입니다.

말은 빗나가지만 악령의 힘이란 무서운 것으로 인간을 덥치면 그 사람을 죽이려고 불속이나 물속에 던져 넣는 경우가 있다는 것입니다. 그런 영의 힘에 대해 우리는 그런 것이 오컬트라고 해서 가볍게 무시하는 것은 올바른 태도가 아닙니다. 그러나 나쁜 것은 모두 악마와 악령들의 소행으로 생각하는 것도 옳은 태도가 아닙니다. 예를 들면 내가 감기에 걸렸을 때 악령들 때문이라고 한다든지, 내가 학교에 지각했을 때 악마에 의해 해방을 받았다든지 나쁜짓을 했을 때 악마에게 유혹되어 악행을 저질러버렸다든지 모든 것을 악마나 악령과 관련히켜서는 안된다는 것입니다. 악령의 힘이나 악마의 힘은 아직 최후의 불의 심판을 받지 않았으며 여전히 외부에서 교회에 영향을 미치고 인간을 하나님으로부터 멀어지게 하는데 어떤 영향력을 가지고 있음을 성경은 인정하지만 하나님과 비등한 힘으로 대결하고 있는 것이 아니고 하나님이 어두운 구덩이에 두어 심판 때까지 지키게 하셨기에 (베드로후서 2장 4절) 하나님의 권능에 완전히 복종하고 있다고 성경은 말하고 있습니다.

(2) 적나라한 기도

이어서 23,24절을 읽어보시겠습니다.

23 예수께서 이르시되 할 수 있거든이 무슨 말이냐 믿는 자에게는 능히 하지 못할 일이 없느니라 하시니

24 곧 그 아이의 아버지가 소리를 질러 이르되 내가 믿나이다 나의 믿음 없는 것을 도와 주소서 하더라

예수님은 「할 수 있거든이 무슨 말이냐 믿는 자에게는 능히 하지 못할 일이 없느니라」라고 아이의 아버지를 나무랐습니다. 그러자 아이의 아버지는 곧바로 「내가 믿나이다 나의 믿음 없는 것을 도와 주소서」라고 소리 질렀습니다. 아버지의 이 외침은 문장적으로는 모순된 것처럼 들립니다. 그러면서 아버지의 심정을 잘 보여주는 아주 신기한 말입니다. 예수님은 믿는 자에게는 무엇이든 할 수 있다고 말하지만, 사실 아이의 아버지는 지금까지 패배밖에 맛보지 못했습니다. 그것은 자신의 불신앙의 표출이라고도 볼 수 있습니다. 이번에도 아버지는 예수님께 「무엇을 하실 수 있거든」이라며 보험에 들어 버렸습니다. 도저히 불신앙의 말을 떨쳐 버릴 수가 없습니다.「무엇을 하실 수 있거든」이라고 말은 했지만, 아이의 아버지의 마음 가운데는 어디를 봐도 불신앙 밖에는 보이지 않기 때문에 「나의 믿음 없는 것을 도와 주소서」라고 말하고 있는 것입니다. 우리들의 믿음도 이것과 마찬가지라고 생각합니다. 믿는다고 말하면서 우리들은 세례를 받고 하나님과 교회 앞에서 신앙고백을 맹세합니다. 그러나 우리들의 믿음은 견고하고 결코 무너지지 않는 완전한 믿음일까요? 어떤 일이 일어나도 영원히 변치않는 흔들리지 않는 믿음일까요? 그런 완벽한 믿음의 소유자는 하나님을 제외하고는 없다고 생각합니다. 우리 마음속을 들여다 본다면 어느 부분에서는 완전히 믿지 못하는 나약함이 따라다니는 것이라고 생각합니다.

믿음은 자신이 가난한 심령이라는 것을 더욱 깊은 곳에서 아는 것, 자신이 하나님 앞에 구원받을 가치가 전혀 없음을 더욱 깊은 곳에서 아는 것입니다. 하나님으로부터 멀리 떨어져 희망도 없고 망해야 마땅한 자들임을 아는 것입니다. 그래서 믿음이란 자신의 믿음의 수준을 남에게 자랑하는 성질의 것이 아닙니다. 오히려 자신을 부인하고 예수님에게 맡기는 것, 예수님께 주도권을 내어 드리는 것입니다. 「믿나이다 나의 믿음 없는 것을 도와 주소서」라는 아이 아버지의 외침은 바로 자기 자신을 부인하고 믿는 것의 확실성을 내 안이 아니라 예수 그리스도 안에만 두고 있다고 할 수 있습니다. 이어서 25~27절을 읽어보시겠습니다.

25 예수께서 무리가 달려와 모이는 것을 보시고 그 더러운 귀신을 꾸짖어 이르시되 말 못하고 못 듣는 귀신아 내가 네게 명하노니 그 아이에게서 나오고 다시 들어가지 말라 하시매

26 귀신이 소리 지르며 아이로 심히 경련을 일으키게 하고 나가니 그 아이가 죽은 것 같이 되어 많은 사람이 말하기를 죽었다 하나

27 예수께서 그 손을 잡아 일으키시니 이에 일어서니라

이 치유는 예수 그리스도에게 있는 재탄생, 예수 그리스도에 있는 재창조를 상징하는 것 같습니다. 더러운 귀신은 소리를 지르며 아이로 심히 경련을 일으키게 하고 나갔습니다. 그곳에 있던 무리들은 그 아이가 죽은 줄 알았는데 예수님이 아이의 손을 잡고 깨우자 바로 죽은 아이가 살아난 것처럼 일어섰습니다. 어둠의 지배는 물러나고 하나님의 은혜는 생명과 재창조를 가져다 주는 것입니다.

집에 들어가시자 제자들이「우리는 어찌하여 능히 그 귀신을 쫓아내지 못하였나이까」라고 조용히 묻습니다. 예수님의 대답은 「기도 외에 다른 것으로는 이런 종류가 나갈 수 없느니라」고 하셨습니다. 아마 제자들은 지금까지 축적해 온 악령 축출의 스킬이나 노하우에 의존하고 있었다는 것이겠지요. 그렇다면 예수님께서 말씀하시는 「기도」란 도대체 무엇일까요? 기도란 교회 안에서 하나의 봉사라고 할 수 있습니다. 헌금 기도, 혹은 주보 기도 과제에 따른 중보기란 확실히 교회의 봉사입니다. 그러나 예수님이 여기서 강조하는 것은 기도에 있어서 예수님에 대한 고백이라는 측면, 예수님과의 교제라는 측면이 아닐까 생각됩니다. 기도를 함으로써 하나님과의 관계 속에서 이 세상적인 것들이 모두 벗겨져 나가 하나님 앞에 내 자신이 완전히 적나라하게 되는 것을 말하는 것이라 생각합니다.

어떤 책을 읽다가 다음과 같은 이야기가 있어서 소개해드리겠습니다. 아래 내용은 카토 츠네아키 목사님의 설교집에서 인용한 것입니다.

야마카와 치아키라는 TV 캐스터를 하던 분 중에 중병에 걸려 끝내 돌아가신 분이 있습니다. 사모님이 먼저 믿음을 가지게 되셨고 아내 분의 전도로 병상에서 세례를 받고 돌아가셨습니다. 「죽음은 끝이 아니다」라는 책을 부부공동 이름으로 출판했습니다. 지금 어느 서점이나 비치되어 있습니다. 꽤 잘 팔리고 있는 것 같아요. 저도 읽고 많은 생각을 할 수 있었고 가르침을 얻었습니다. 이분이 쓰신 부분 중에서 가장 인상깊었던 것은 이런 것입니다. 저는 몰랐는데 이 분은 가발을 쓰고 계셨어요. 텔레비젼에 나오는 모습은 머리숱이 풍성했는데 그것이 가발이었어요. 그걸 잘 때만 벗고 자녀에게도 머리카락이 없는 자신의 머리를 보여준 적은 없었다고 해요. 아직 외출할 힘이 있어서 토쿄 도심으로 나와 지하철역에서 계단을 올라와서 택시를 잡고 타려고 하는데 바람이 확 불어와 가발이 날아가 버렸답니다. 10m나 저 멀리 날아가 버렸습니다. 정신없이 달려가 그것을 주워서 택시에 뛰어 들었습니다. 그 사실을 본인의 일기에 썼습니다. “그것은 매우 창피한 일이었지만 하나님의 계획이구나”라고 생각했다고 쓰여 있습니다. “아마 이게 다른 사람에게 일어난 일이었다면 나는 웃어 버렸을거야. 하지만 여기에 하나님의 계획이 있다는 것을 알게 되었다.”또 이런 것도 쓰여져 있습니다. “텔레비젼이란 사람에게 질투와 허영만을 가르치는 것이다. 나는 그 세계에서 살아왔다. 그러나 지금은 하나님 앞에 있어. 그 질투와 허영이 벗겨지고 벌거벗은 채 살고 또 죽는 것을 배우고 있다.”(카토 츠네아키 지음 마가복음2中)

인용은 여기까지 입니다. 기도라는 것은, 하나님과의 교제란 바로 야마카와 씨가 체험하신 것처럼 이 세상적인 것이 모두 벗겨지는 것, 적나라하게 되어 자신의 죄가, 자신의 불신앙이 드러나는 것이라고 생각합니다. 그런 가운데 우리는 「내가 믿나이다 나의 믿음 없는 것을 도와주세요」라고 구원자에게 의지할 수밖에 없게 되는 것입니다. 하나님은 그 기도를 기다리고 계십니다.

결론

우리는 하나님을 사랑하고 매주 예배를 드리고 있습니다. 믿음을 가지고 있는 것이 확실하지만 걱정과 불안은 끊이지 않고 건강의 문제, 가족 부부간의 문제, 경제적 문제 등에 시달리며 흔들리는 우리입니다. 은혜의 언약은 이처럼 우리의 요동치는 믿음 위에 세워진 언약이 아니라 영원히 변하지 않을 예수 그리스도의 신실하심에 의해 성취되고 견고하게 세워졌습니다. 우리는 이 예수 그리스도를 구원자로 맞이한 것입니다. 매일의 영적인 싸움 속에서 패배를 질릴 정도로 맛본 우리들이지만 이분에게 기도하면서 이분의 신실하심에 의지하여 부탁하면서 기도와 믿음의 풍성한 걸음을 걷는 자가 되도록 합시다. 예수님께 신뢰하고 성령의 인도에 맡길 때에 틀림없이 한 사람 한 사람에게 꼭 맞는 길이 준비되어 윤택한 매일의 걸음이 준비되어 갖추어질 것입니다. 이번 주도 사랑하는 형제자매가 주님의 마음에 의지하여 함께 걸어갈 수 있도록 간절히 바랍니다.

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