2023年11月19日「ベトサイダで盲人を癒す 벳새다의 맹인을 고치시다」

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ベトサイダで盲人を癒す 벳새다의 맹인을 고치시다

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 8章22節~26節

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聖句のアイコン聖書の言葉

22一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。
23イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。
24すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」
25そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。
26イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 8章22節~26節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。」と、イエス様は舟の中で弟子たちに問いかけました。そして「まだ悟らないのか」と、弟子たちに何度も質問されました。このイエス様のお言葉の中に、「あなた方は、まだ命のパンであり、唯一のパンである私のことが分からないのか」という、イエス様の心の内を読み取ることが出来ます。イエス・キリストこそ、私たちの救い主であり、イエス・キリストこそ、私たちの日々の歩みを、霊的にも肉体的にも養ってくださるお方です。しかし、そのことを中々悟ることができない弟子たちのことを、イエス様は忍耐強く待っておられるのです。今朝の御言葉は、以前見てまいりました、マルコ7:31~37に書かれている「耳が聞こえず、口のきけない人が癒される」奇跡と対になってします。二つの記事において共通点をいくつか見つけることが出来ます。また、それとは別にもう一つ興味深い点は、今朝の御言葉はイエス様の癒しが、二段階で書かれているという点です。これは他に類を見ない、マルコ福音書の、唯一ここでしか見ることのできない癒しの仕方です。イエス様において、この癒しがいかにも困難であり、何かてこずることでもあったという事なのでしょうか。おそらくそういうことではないと思います。一つ考えるべきことは、イエス様の奇跡において、病の癒しそのものを、奇跡そのものを、目的としているのではなく、その奇跡を通して神の啓示を目的としているという側面がございます。どういうことかと言えば、神様とは、一体どのようなお方なのか、そのことを人々に教えるために、イエス様は奇跡をなされるということです。ですからその奇跡は、群衆の中で公にされるのではなく、隠れたところで、そのメッセージを受け取ることが出来る者に明らかにされるのです。今朝の二段階の癒しには、それを通して、何か伝えたいメッセージが含まれているのではないかと、私は思っています。旧約聖書においても、預言者が人々の注意を引きながら、パフォーマンスによって預言した例がございました。例えば、イザヤが、主の命令によって、三年間、裸、はだしで歩きました。これは、エジプトとクシュに「やがて、見舞われるアッシリア捕囚によって、あなた方はこのように、裸、はだしで連行されるだろう」という神のメッセージを伝えたのです(イザ20:2-6)。同じように、預言者エレミヤも、預言者エゼキエルも、体を張ったパフォーマンスによって、神様のメッセージを伝えたことがありました(エレ19:1-15、エゼ4-5章)。イエス様もご自身のなされた奇跡を通して、あるメッセージを伝えるために、今朝お読みした通り、二段階によって奇跡を行われたと思われるのです。

【1】. イザヤの預言の成就

8:22~23節をご覧ください。

“一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。”

ここでは、7章の奇跡と共通している点がいくつかございます。第一に、友人たちの信仰によって、一人の盲人がイエス様のところに連れて来られたということです。第二に、患部に触れてほしいと願っているという事です。第三に、イエス様は患者を群衆から引き離され、村の外で奇跡をなされたという事です。第四に、イエス様は両手で触れて、そして唾をつけて、奇跡をなされたという事です。当時、唾には治癒力が宿っていると考えられていたようです。ですから、本日のマルコ8章の奇跡も7章の奇跡と同じように、イザヤ書35章の成就であるということが分かります。イザヤ35:4~6節を調べてみましょう。

“心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。”

7章では、奇跡が行われた後、「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」という人々の感謝にあふれた証言が記されています。イエス様の御業がイザヤ書35章の成就であるということは分かります。しかし、その事が、現代に生きる私たちと何の関係があるのかと思われる方もおられるかもしれません。それに、「荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる」というイザヤの言葉は、イエス様の時代にも、ついに成就されなかったのではないかと疑問を投げかける方もおられるかもしれません。おっしゃる通りです。2,000年前にイエス様がこの世に来られ、神の国が到来致しました。(到来したというのは、十字架の福音を通して、これまでおぼろげであった神の国が、より明らかに、より鮮明にされたということです。)それにも拘わらず、果たして「荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる」ような、美しい光景を見ることになっただろうか?と問われると、首をかしげざるを得ません。むしろ、近年の人間による経済活動は、もともとあった美しい自然を破壊し、緑地を砂漠化しているのではないかと見ることができます。イザヤの預言は本当に成就されたのでしょうか。黙示録22章を見ますと、イザヤが預言した「荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる」と似たような状況が出て来ます。黙示録22:1~2をご覧ください。

“天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。”

黙示録のこの描写は、再臨の時に訪れる、新しい天と新しい地の描写です。これはまさにイザヤ書の預言の成就と言えるのではないでしょうか。つまり預言者イザヤは、イエス様の初臨とイエス様の再臨を重ねて見ているということです。イエス様の初臨とイエス様の再臨を二重的に見ながら預言しているのです。イエス様の初臨によって、神の国は確かに到来しました。しかし、その到来は霊的なものであり、目には見えないものです。「荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる」という状況は、霊的には成就しましたが、依然として、私たちの目には自然破壊の方が顕著に見えてしまうのです。しかし、やがてイエス様が再臨する時が来るでしょう。その時にメシアによる、実質的な統治がもたらされ、新しい天と新しい地と共に、神の統治が目に見える形でなされるのです。

【2】. 二度目の接触

少し脇道にそれてしまいましたが、それでは7章の奇跡と8章の奇跡の異なる点とは、何でしょうか。それは、この奇跡が、異邦人地域ではなく、ユダヤ人が主に居住する地、ガリラヤ湖北岸のベトサイダでなされたという点です。イエス様一行は、ダルマヌタを出発し、ベトサイダに到着しました。ただ、本日の箇所で、ベトサイダが「村」と記述されているため、一部の神学者の中では論争を呼んでいます。ベトサイダは「村」ではなく、「町」だからです。すると、他に、「ベトサイダ村」という場所があったのでしょうか。その辺については、まだ、はっきりされていないため、私たちはこの場所をユダヤ人が主に居住しているベトサイダの町として、読み進めていきたいと思います。

「ベトサイダ」という名前は、アラム語で「漁師(猟師)の家」という意味です。イエス様の弟子たちの大半は、漁師たちであり、特にこの町は、ペトロとアンデレとフィリポの出身地でもありました。つまり、ベトサイダの盲人とは、「目があっても見えず、耳があっても聞こえない」弟子たちの状態を象徴しているのです。弟子たちのイエス様に対する無理解は、まさに盲人のようであり、これは、ファリサイ派の人々やヘロデのイエス様に対する理解と、全く大差ないということです。イエス様に敵対する人々と、弟子たちの、イエス様理解というのは全く同じだということです。23節で、イエス様が「何か見えるか」とお尋ねになっていますが、この言葉が未完了時制であるため、何度も反復して「何か見えるか?何か見えるか?」と尋ねている状況が伺えます。それは、舟の中でイエス様が弟子たちに、「まだなのか、まだなのか」と何度も質問された状況(17節、21節)と重なってきます。続いて24~25節をご覧ください。

“すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。”

イエス様の一度目の接触により、盲人は「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」という反応を示しました。この反応は、この人が、生まれつき目が見えなかったということを表しています。これまで、木や人に触って知ってはいましたが、その時までそれらを見たことがなかったという意味です。もう一度、イエス様が両手をその目に当てて、二度目の接触を試みられました。先ほども言いましたが、二度、試みられたというのは、この盲人が不信仰だったからとか、一度目の接触が不十分だったから、一度目の接触が失敗したから、ということではないと思います。とにかくイエス様がもう一度、手を当ててくださり、この二度目の接触によって、完全に回復されたのであります。盲人は、神の被造世界をはっきり見ることができるようになりました。これは、パンの出来事を中々理解することができなかった弟子たちに、そのまま当てはめることができます。来週見ることになりますが、この後、フィリポ・カイサリヤにおいてペトロが弟子たちを代表し、「あなたはメシアです」と、イエス様に信仰告白を致します。「イスラエルの来るべきメシアとは、あなたです。」と告白したのです。イエス様が期待していた見事な告白でした。しかしその後、イエス様がご自身の受難告知についてお話しになられると、弟子たちの信仰はたちまち吹き飛ばされ、神様の御心を考えず、自己保身に走ってしまったのです。弟子たちのイエス様に対する無理解は、さらに続きます。イエス様が十字架に付けられるため、エルサレムに上る直前まで、弟子たちは相変わらずの態度でありました。マルコ10:37をごらんください。今や、イエス様一行は、エルサレムに上ろうとしている場面です。ゼベダイの子ヤコブとヨハネが次のように言いました。ご覧ください。

“二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」”

ヤコブとヨハネは、イエス・キリストが王として栄光をお受けになられる時、自分たちを右大臣、左大臣にしてほしいと願っているのです。このような弟子たちの無理解は、必ず、二度目の接触が必要であることを物語っているのです。それでは、弟子たちにおいて、二度目の接触はいつ起こるのでしょうか。弟子たちの霊の目が完全に回復され、神の被造世界を、万物をはっきり見ることができる日は、いつなのでしょうか。それについてはマルコ福音書には、書かれていません。イエス様が受難を受けられ、十字架によって死なれる時でも、この福音書が閉じるイエス様の復活の事件の時でもありませんでした。ただ、著者マルコには、その時がいつなのか分かっていたはずです。その時とは、五旬節の聖霊降臨日です。本当の意味で弟子たちの目が開かれ、回復され、万物をはっきり見ることができる日は、聖霊の降臨を待たなければならなかったということです。ですから、本日の箇所で私たちに希望を与えてくれるのは、一度目の接触によって、ファリサイ派の人々やヘロデなど、イエス様に敵対する者たちと区分してくださったということです。一度目の接触によって、かすかに見えるようにされますが、依然としてはっきり見ることは出来ませんでした。依然としてイエス様を正しく知ることは出来ませんでした。しかし、主イエスは、ご自身の始められた御業を、途中で放棄されることなく、その後に二度目の接触があるということです。必ず最後までやり遂げてくださるのです。私たちはそのことに励まされるのであります。私たちの信仰生活とは、イエス・キリストを知る歩みです。弟子たちと同じように、イエス様について誤解と無理解の多い私たちでありますが、イエス様は一度目の接触を、私たちに与えてくださいました。必ずイエス様の側で、責任を持って二度目の接触をしてくださり、私たちの霊の目を開いてくださり、私たちが正しくイエス様を理解するようにし、救いを確かなものとしてくださるのです。

【結論】

私たちは人生をイエス様と共に歩ませていただきながら、弟子たちのように、長い間気付くことなく、誤解と無理解の中に過ごしているのだと思います。日々の信仰生活の中で、素晴らしく良いことが起こって喜びはするものの、しばらくすると、お金の問題であったり、健康の問題であったり、夫婦、家族、子供の問題であったり、職場の問題などで心奪われ、絶えず揺さぶられる私たちです。そのような時、私たちはイエス・キリストこそ、命のパンであり、唯一のまことのパンであることを知っているにも拘わらず、私たちは自分の人生を呪ったり、神様を恨んだりしてしまうことも、もしかしたらあるかもしれません。イエス様は、そんな私たちのことを見捨てることなく、忍耐強く寄り添ってくださり、「何か見えるか」と優しく語りかけてくださるのです。そして、良き業を初めてくださった主が、やがてその業を完成してくださるのです。やがて、イエス様が再臨される日には、顔と顔を合わせて主を見ることになり、完全に主を知る者とされるのです(1コリ13:12)。そのことに思いを寄せつつ、主に感謝を捧げながら歩んで行く私たちとならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

벳새다의 맹인을 고치시다

2023년 11월 19일 센겐다이교회 주일설교

마가복음 8장 22~26절

서론

「어찌 떡이 없음으로 수군거리느냐」라고 예수님은 배 안에서 제자들에게 말씀하셨습니다. 그리고「아직도 알지 못하며 깨닫지 못하느냐 너희 마음이 둔하냐」하시며 제자들에게 여러번 질문 하셨습니다. 이 예수님의 말씀 속에서 「너희는 아직 생명의 떡이요 유일한 떡인 나를 모르겠느냐」라는 예수님의 속마음을 읽을 수 있습니다. 예수 그리스도야말로 우리의 구원자요, 예수 그리스도야말로 우리의 매일의 걸음을 영적으로나 육체적으로 길러주시는 분입니다. 그러나 그 사실을 좀처럼 깨닫지 못하는 제자들을 예수님은 인내심을 가지고 기다리고 계십니다. 오늘 아침의 말씀은 이전에도 살펴봤던 마가복음 7장 31~37절에 적혀있는 「귀 먹고 말 더듬는 사람이 치유되는 기적」과 짝을 이루고 있습니다. 두가지의 기사에 있어서 공통점을 몇가지 찾을 수 있습니다. 또 그것과는 별개로 또 하나 흥미로운 점은 오늘 본문의 말씀은 예수님의 치유가 두 단계로 이뤄졌다고 기록하고 있다는 점입니다. 이것은 성경의 다른 곳에서는 유례가 없는 마가복음에서만 유일하게 볼 수 있는 치유 방법입니다. 예수님께는 이번의 치유가 참으로 어렵고 뭔가 애를 먹으셨다는 것일까요? 그런 건 아닌 것 같아요. 한 가지 생각해야 할 것은 예수님의 기적에서 병의 치유 자체를, 기적 그 자체를 목적으로 하는 것이 아니라 그 기적을 통해 하나님의 계시를 나타내시는 것을 목적으로 한다는 측면이 있습니다. 무슨 말이냐면 하나님이 도대체 어떤 분이신지 그것을 사람들에게 가르치기 위해 예수님은 기적을 행하신다는 것입니다. 그래서 그 기적은 무리 속에서 공개되는 것이 아니라 숨은 곳에서 그 메시지를 받을 수 있는 자에게 밝혀지는 것입니다. 오늘 아침에 살펴볼 두 단계에 걸친 치유에는 그것을 통해 무엇인가를 전하시고 싶은 메시지가 포함되어 있지 않을까 저는 생각합니다. 구약성경에서도 선지자가 사람들의 주의를 끌면서 퍼포먼스로 예언한 예가 있었습니다. 예를 들어 이사야가 주의 명령에 따라 3년 동안 벗은 몸과 벗은 발로 다녔습니다. 이는 「이와같이 애굽의 포로와 구스의 사로잡힌 자가 앗수르 왕에게 끌려갈 때에 젊은 자나 늙은 자가 다 벗은 몸과 벗은 발로 볼기까지 드러내어 애굽의 수치를 보이리니」라는 하나님의 메시지를 전하기 위함이었습니다(이사야 20장 2~6절). 마찬가지로 선지자 예레미야도, 선지자 에스겔도 몸으로 하나님의 메시지를 전달한 적이 있었습니다(예레미야19장 1~15절, 에스겔 4~5장). 예수님께서도 자신이 하신 기적을 통해 어떤 메시지를 전달하시기 위해 오늘 아침 읽으신 대로 두 단계를 걸쳐서 기적을 이루셨다고 생각됩니다.

(1) 이사야 예언의 성취

8장 22,23절을 참조하시기 바랍니다.

22 벳새다에 이르매 사람들이 맹인 한 사람을 데리고 예수께 나아와 손 대시기를 구하거늘

23 예수께서 맹인의 손을 붙잡으시고 마을 밖으로 데리고 나가사 눈에 침을 뱉으시며 그에게 안수하시고 무엇이 보이느냐 물으시니

여기서는 7장의 기적과 공통된 점이 몇 가지 있습니다. 첫째, 친구들의 믿음으로 인해 한 맹인이 예수님께 데려져 왔다는 것입니다. 둘째 환부에 손 대시기를 구하였다는 것입니다. 셋째, 예수님은 환자를 무리로부터 떼어내어 마을 밖에서 기적을 이루셨다는 점입니다. 예수님은 두 손으로 만지고 그리고 침을 묻혀 기적을 이루셨습니다. 당시 침에는 치유력이 깃들어 있다고 생각했던 것 같습니다. 그래서 오늘 마가복음 8장의 기적도 7장의 기저과 마찬가지로 이사야서 35장의 성취임을 알 수 있습니다. 이사야 35장 4~6절을 살펴봅시다.

4 겁내는 자들에게 이르기를 굳세어라, 두려워하지 말라, 보라 너희 하나님이 오사 보복하시며 갚아 주실 것이라 하나님이 오사 너희를 구하시리라 하라

5 그 때에 맹인의 눈이 밝을 것이며 못 듣는 사람의 귀가 열릴 것이며

6 그 때에 저는 자는 사슴 같이 뛸 것이며 말 못하는 자의 혀는 노래하리니 이는 광야에서 물이 솟겠고 사막에서 시내가 흐를 것임이라

7장에서는 기적이 이뤄진 뒤 「그가 모든 것을 잘하였도다 못 듣는 사람도 듣게 하고 말 못하는 사람도 말하게 한다 하니라」라고 사람들의 감사에 넘치는 증언이 적혀 있습니다. 예수님의 말씀이 이사야서 35장의 성취라는 것은 압니다. 하지만 그 일이 현대에 사는 우리와 무슨 상관이 있나 생각하시는 분들도 계실 수 있습니다. 게다가「광야에서 물이 솟겠고 사막에서 시내가 흐를 것임이라」는 이사야의 말씀은 예수님의 시대에도 끝내 성취되지 못한 것이 아닌가하는 의문을 제기하는 분들도 계실 수 있습니다. 말씀하신 대로입니다. 2000년 전에 예수님이 세상에 오셔서 하나님의 나라가 도래했습니다(도래했다는 것은 십자가 복음을 통해 그동안 아련했던 하나님의 나라가 더욱 분명하고 선명해졌다는 것입니다). 그럼에도 불구하고 과연 「광야에서 물이 솟겠고 사막에서 시내가 흐를 것임이라」라는 말씀처럼 그런 아름다운 광경을 볼 수 있는가? 라고 묻는다면 고개를 갸웃거리지 않을 수 없습니다. 오히려 최근 인간에 의한 경제활동은 원래 있던 아름다운 자연을 파괴하고 녹지를 사막화시키고 있는 것이 아닌가 생각할 수 있습니다. 이사야서의 예언은 정말 성취되었을까요? 요한계시록22장을 보면 이사야가 예언한 「광야에서 물이 솟겠고 사막에서 시내가 흐를 것임이라」라는 상황과 비슷한 상황이 나옵니다. 요한계시록 22장 1,2절을 참조하세요.

1 또 그가 수정 같이 맑은 생명수의 강을 내게 보이니 하나님과 및 어린 양의 보좌로부터 나와서

2 길 가운데로 흐르더러 강 좌우에 생명나무가 있어 열 두가지 열매를 맺되 날마다 그 열매를 맺고 그 나무 잎사귀들은 만국을 치료하기 위하여 있더라

요한계시록의 이 묘사는 재림할 때 찾아오는 새로운 하늘과 새로운 땅의 묘사입니다. 이것은 바로 이사야서 예언의 성취라고 할 수 있지 않을까요? 즉 선지자 이사야는 예수님의 초림과 예수님의 재림을 겹쳐서 보고 있다는 것입니다. 예수님의 초림과 예수님의 재림을 이중적으로 보면서 예언하고 있는 것입니다. 예수님의 초림으로 하나님의 나라는 분명히 도래했습니다. 그러나 그 도래는 영적인 것이며 눈에는 보이지 않는 것입니다. 「광야에서 물이 솟겠고 사막에서 시내가 흐를 것이라」는 상황은 영적으로 성취됐지만 여전히 우리 눈에는 자연파괴가 더 두드러지게 보입니다. 그러나 곧 예수님이 재림하실 때가 올 것입니다. 그때 메시아에 의한 실질적인 통치가 오고 새로운 하늘과 새로운 땅과 함께 하나님의 통치가 가시적인 형태로 이루어지는 것입니다.

(2) 두 번째로 손을 대시다

조금 샛길로 빠져 버렸습니다만, 그렇다면 7장의 기적과 8장의 기적의 다른 점은 무엇일까요? 그것은 이 기적이 이방인 지역이 아니라 유대인들이 주로 거주하는 곳 갈릴리 호수 북쪽 해안의 벳새다에서 이뤄졌다는 점입니다. 예수님 일행은 달마누다를 출발하여 벳새다에 도착했습니다. 다만 오늘의 구절에서 벳새다가 「마을」로 기술되어 있어 일부 신학자들 사이에서는 논란이 되고 있습니다. 벳새다는 「마을」이 아니라 「시」이기 때문입니다. 그렇다면 다른 곳에 「벳새다」라고 하는 장소가 있었을까요? 그 부분에 관해서는 아직 확실하지 않기 때문에 우리는 이 장소를 유대인들이 주로 거주하고 있는 벳새다의 마을로서 읽고 싶습니다.

「벳새다」라고 하는 이름은 아람어로 「어부(사냥꾼)의 집」이라는 뜻입니다. 예수님의 제자들은 대부분 어부들이었고 특히 이 마을은 베드로와 안드레와 빌립의 출신지이기도 했습니다. 즉 벳새다의 맹인이란 「눈이 있어도 보이지 않고 귀가 있어도 들리지 않는」제자들의 상태를 상징하고 있는 것입니다. 제자들의 예수님에 대한 몰이해는 바로 맹인과 같고 이는 바리새인들이나 헤롯의 예수님에 대한 이해와 전혀 다르지 않다는 것입니다. 예수님께 적대하는 사람들과 제자들의 예수님에 대한 이해라는 것이 똑같다는 것입니다. 23절에서 예수님께서 「무엇이 보이느냐」고 물어보시는데 이 말씀이 미완료시제이기 때문에 자꾸 반복해서 「무엇이 보이는가?

뭔가 보이느냐?」라고 묻고 계시는 상황을 알 수 있습니다. 그것은 배 안에서 예수님이 제자들에게 「아직도 알지 못하며 깨닫지 못하느냐(마가복음8장 17절)」「아직도 깨닫지 못하느냐(21절)」고 여러 번 물으셨던 상황과 겹쳐집니다. 이어서 24,25절을 읽어보시겠습니다.

24 쳐다보며 이르되 사람들이 보이나이다 나무 같은 것들이 걸어가는 것을 보나이다 하거늘

25 이에 그 눈에 다시 안수하시매 그가 주목하여 보더니 나아서 모든 것을 밝히 보는지라

예수님이 첫 번째 안수하셨을 때 맹인은 「사람들이 보이나이다 나무 같은 것들이 걸어가는 것을 보나이다」라는 반응을 보였습니다. 이 반응은 이 사람이 선천적으로 눈이 보이지 않았다는 것을 나타냅니다. 지금까지 나무나 사람을 만져서 알고는 있었지만 그때까지 그것들은 본 적이 없었다는 뜻입니다. 다시 한 번 예수님께서 두 손을 그 눈에 안수하셨습니다. 아까도 말씀드렸지만 두 번 시도를 하셨다는 것은 첫 번째 안수가 불충분했기 때문에, 첫 안수가 실패했기 때문에 그런 것은 아니라고 생각합니다. 어쨌든 예수님께서 다시 한 번 안수해 주시고 이 두 번째 안수로 완전히 회복된 것입니다. 맹인은 하나님의 피조 세계를 뚜렷하게 볼 수 있게 되었습니다. 이것은 떡으로 인해 일어난 기적의 의미를 좀처럼 이해하지 못한 제자들에게 그대로 적용할 수 있습니다. 다음 주에 보게 되는데 잠시 후 빌립보 가이사랴에서 베드로가 제자들을 대표해서 「당신은 메시야입니다」라고 예수님께 신앙고백을 드립니다. 「이스라엘에 오셔야 할 메시아는 당신입니다」라고 고백한 것입니다. 예수님이 기대하셨던 훌륭한 고백이었습니다. 그러나 이후 예수님께서 자신의 수난고지에 대해서 말씀하시자 제자들의 믿음은 금세 날아가 하나님의 마음을 생각하지 않고 자신들의 안전을 향해 달려가 버리는 것입니다. 제자들의 예수님에 대한 몰이해는 더욱 계속됩니다. 예수님이 십자가에 못 박히시기 위해 예루살렘에 오르기 직전까지 제자들은 여전했습니다. 마가복음 10장 37절을 보세요. 이제 예수님 일행이 예루살렘으로 올라가려는 장면입니다. 세베대의 아들 야곱과 요한이 다음과 같이 말했습니다. 보세요.

여짜오되 주의 영광중에서 우리를 하나는 주의 우편에, 하나는 좌편에 앉게 하여 주옵소서

야곱과 요한은 예수 그리스도가 왕으로서 영광을 받을때 자신들을 우대신, 좌대신으로 만들어 주기를 바라고 있는 것입니다. 이러한 제자들의 몰이해는 반드시 두 번째 안수가 필요하다는 것을 말해주는 것입니다. 그렇다면 제자들에게 두 번째 안수는 언제 일어날까요? 제자들의 영의 눈이 완전히 회복되어 하나님의 피조세계를, 만물을 똑똑히 볼 수 있는 날은 언제일까요? 그것에 대해서는 마가복음에는 적혀 있지 않습니다. 예수님이 수난을 당하시고 십자가에 의해 죽으셨을 때도, 이 복음서가 닫히는 예수님의 부활의 사건 때도 아니었습니다. 다만 저자 마가는 그때가 언제인지 알고 있었을 것입니다. 그때는 오순절 성령강림일입니다. 진정한 의미에서 제자들의 눈이 열리고 회복되며 만물을 똑똑히 볼 수 있는 날인 성령의 강림을 기다려야 했다는 것입니다. 그래서 오늘날 우리에게 희망을 주는 것은 첫 번째 안수를 통해서 바리새인들이나 헤롯 등 예수님께 적대하는 자들과 구분해 주셨다는 것입니다. 첫 번째 안수로 인해 희미하게 보이게 되었지만 여전히 뚜렷하게 볼 수는 없었습니다. 여전히 예수님을 제대로 이해하지 못했습니다. 그러나 주 예수께서는 자신이 시작하신 선한 일을 도중에 포기하시는 일이 없고, 그 후에 두 번째 안수가 있다는 것입니다. 꼭 끝까지 인도해주시는 것입니다. 우리는 그 일에 격려를 받는 것입니다. 우리의 신앙생활이란 예수 그리스도를 아는 걸음입니다. 제자들과 마찬가지로 예수님에 대해 오해와 몰이해가 많은 우리이지만 예수님께서 첫 번째 안수를 우리에게 해 주셨습니다. 반드시 예수님 편에서 책임을 지시고 두 번째 안수를 해주시고 우리의 영의 눈을 열어 주시고 우리들이 바르게 예수님을 이해하게 하여 주시고 구원을 확실하게 해주시는 것입니다.

결론

우리는 인생을 예수님과 함께 걸으면서 제자들처럼 오랫동안 깨닫지 못하고 오해와 몰이해 속에 살고 있다고 생각합니다. 하루하루의 신앙생활 속에서 멋지고 좋은 일이 일어나면 기뻐하기는 하지만 얼마 지나지 않아 돈 문제이거나 건강 문제이거나 부부, 가족, 자녀 문제이거나 직장 문제 등으로 마음을 빼앗겨버려 끊임없이 흔들리는 우리입니다. 그럴 때 우리는 예수 그리스도야말로 생명의 떡이자 유일한 참 떡이신 것이라는 것을 알고 있음에도 불구하고 어쩌면 우리는 자신의 삶을 저주하거나 하나님을 원망하게 될 수도 있을지 모릅니다. 예수님은 그런 우리를 버리지 않으시고 인내심을 가지고 다가오시고「무엇이 보이느냐」고 다정하게 말씀해 주시는 것입니다. 그리고 선한 일을 시작하신 주께서 곧 그 선한 일을 완성해 주시는 것입니다. 이윽고 예수님이 재림하시는 날에는 「얼굴과 얼굴을 대하여 볼 것이요 지금은 내가 부분적으로 아나 그 때에는 주께서 나를 아신 것 같이 내가 온전히 알리라(고린도전서 13장 12절)」라는 말씀이 성취될 것입니다. 이 말씀을 유념하면서 주님께 감사를 드리며 걸어가는 우리가 되도록 합시다.

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