2023年11月12日「パンを理解できない弟子たち 떡을 깨닫지 못한 제자들」

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パンを理解できない弟子たち 떡을 깨닫지 못한 제자들

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 8章10節~21節

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聖句のアイコン聖書の言葉

8:10それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。
8:11ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。
8:12イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」
8:13そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。
8:14弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。
8:15そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。
8:16弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。
8:17イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。
8:18目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。
8:19わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。
8:20「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、
8:21イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 8章10節~21節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

「イエス・キリストとは一体誰なのか」、この問いがマルコの福音書の一大テーマであります。大変難しい問いであり、弟子たちが何度も失敗した問いでもあります。五千人の給食の後、ガリラヤ湖を弟子たちだけで渡らせた時、弟子たちは逆風に見舞われました。そこへ、イエス様が湖上を歩いて弟子たちの舟に行かれた時、弟子たちは、幽霊だと思って叫び声を上げました。弟子たちはこの出来事を非常に驚いたのですが、その理由を、著者マルコは6:52で「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」と説明しています。今朝の箇所においても、弟子たちは依然としてパンの出来事を理解できない最中にいることが、ほのめかされています。

【1】. しるしを求める問い

10~11節をご覧ください。

“それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。”

四千人の給食の後、群衆を解散させてから、イエス様は弟子たちと共に舟に乗り、デカポリス地方を出発して、ダルマヌタの地方へ行かれました。「ダルマヌタ」という場所が一体どこに存在したのか、今もって皆目分かりません。しかし、その場所で「ファリサイ派の人々が来た」とありますから、ユダヤ人が主に住んでいる地域、つまり、ガリラヤ湖の西岸地区であったと考えられます。ファリサイ派の人々は、イエスを試そうとして、天からのしるしを求めています。「試す」という言葉は、マルコ1:13の、サタンがイエス様を荒れ野で誘惑したという記事の「誘惑する」と同じ言葉が使われています。言い換えるなら、マルコ1章においてサタンがイエス様を誘惑しましたが、マルコ8章においてファリサイ派の人々がイエス様を誘惑したということになります。「天からのしるし」とありますが、ユダヤ人が「天」という言葉を使う時、神様を指していました。「神の国」が来たという表現を、「天の国」が来たと言い換えます。ユダヤ人は直接「神」という言葉を使用することを躊躇し、その代わりに「天」という言葉を使うのです。ですから、「天からのしるし」とは、イエス様に「神からのしるし」を求めたということになります。果たして、彼らは主イエスの力ある業によって、どれほど多くの人々が感謝し、喜んでいるのか、巷の声を聞いたことがなかったのでしょうか。或いは、これまで主イエスの行ってきた数々の奇跡を、実際に見たことがなかったのでしょうか。恐らくそうではないと思われます。彼らは数々の奇跡について聞いており、場合によっては、それら奇跡の場面に遭遇したこともあったはずです。それにもかかわらず、ファリサイ派の人々はそのようなイエス様の働きを「しるし」として認めず、イエス・キリストにおいて神の国が到来していることを信じないのです。しるしは、しるしでも、なお、「神からのしるしを見せてほしい」と言うのです。「神からのしるし」という言葉を使って、主イエスの働きを拒絶しているのです。このような不信仰な状態では、たとえ新たな決定的なしるしが与えられても、彼らは信じないことでしょう。イエス様は心の中で深く嘆いて言われました。12節です。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」

12節でイエス様が語られる前に「心の中で深く嘆いた」という言葉があります。この言葉は、がっくりとして非常に残念に思う気持ちを表しています。本来、イスラエル宗教指導者であるファリサイ派の人々こそ、イエス様の御業に信仰によって応答し、人々を主イエスのもとに導いていくべき人々でありました。そんな彼らが、不信仰によって、主ご自身を頑なに拒絶するのをご覧になられ、魂の奥深い所から悲しまれているのです。イエス様は踵を返すように、「今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」と宣言し、彼らに背を向けられ、舟に乗って向こう岸へ出立されました。8:22を見ますと、「一行はベトサイダに着いた」とありますから、ガリラヤ湖の北岸の町、ベトサイダへ向かわれたということです。それにしても、これまでマルコ福音書には、イエス様と、宗教当局者たちとの葛藤が、つまりファリサイ派の人々や律法学者たちとの葛藤が、論争記事として幾度となく描かれてきましたが、今回は論争することなく、あっさりとしたイエス様の出立が描かれています。これは、何か、ユダヤの宗教当局者たちとの最終的な決裂を表しているようにも見えて来ます。

【2】. まだ悟らないのか

さて、舟の中で弟子たちは、パンを持ってくるのを忘れ、そのことを心配し始めました。14~16節では、単数形のパン(アルトス)と、複数形のパン(アルトゥース)が使い分けられていますので、ご注意ください。日本語ではそのような区別はつけませんが、ギリシア語では単数か複数か、はっきりと区別させます。14~16節をご覧ください。

“弟子たちはパン(複数形)を持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。弟子たちは、これは自分たちがパン(複数形)を持っていないからなのだ、と論じ合っていた。”

イエス様はおもむろに「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言われたのだと思います。「パン種」とは、一体何でしょうか。「パン種」とは、聖書の中で、肯定的にも否定的にも使われています。例えば、神の国はからし種やパン種のようであり、最初は目に見えないほどでありますが、やがては大きくなり、全体的な拡がりを見せると表現する時のパン種です。一方、パン種が罪と関連して使用される場合もあります。パウロは「わずかなパン種がパン生地全体を膨らませてしまう」と言いながら、罪のパン種、悪意によるパン種の悪い影響力について警告しています(1コリ5:6、ガラ5:9)。また、マタイによる福音書には、ファリサイ派とサドカイ派のパン種が、彼らの「教え」であることが書かれています。マタイ16章を調べてみましょう。6節と12節をご覧ください。

16:6節

“イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。”

16:12節

“そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。”

このようにマタイ福音書ではパン種を、彼らの教えであると書かれていますね。また、ルカ福音書では、ファリサイ派のパン種が、彼らの「偽善」であると書かれています。ルカ12:1を調べてみましょう。

“とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。”

ルカ福音書では「パン種」を、彼らの偽善であると書かれています。マルコ福音書では、パン種についてはっきりとは言及されていませんが、おそらく奇跡と力ある業を見ても一向に天からのしるしとして認めようとしない、彼らの「不信仰」を言っているのだと思います。このイエス様のお言葉を聞いて、弟子たちはどのように反応したでしょうか。なぜか、弟子たちは「パン種によく気をつけなさい」という警告に対し、「自分たちがパンを持っていないから」だ、と勘ぐりました。そうすると、イエス様は、これから作ることになるパンの調理法について警告されたという事なのでしょうか。私なんかは、時々妻に対し、焼き魚に十分火が通っていないとか、味が濃すぎて食べられないとか、料理の調理法について文句を言います。そしてその後、夫婦喧嘩が始まります。たわいもないことが原因ですが、時にはその喧嘩は、壮絶なバトルに発展することもあります。イエス様は果たしてパンの調理法について、弟子たちに警告を与えたのでしょうか。もちろん違います。パン種とは、しるしを求める不信仰を指しているからです。17~18節をご覧ください。

“イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。”

そもそも、弟子たちがイエス様のお言葉を正しく理解できなかった理由とは、弟子たちがイエス様を正しく理解していなかったことに起因しています。主ご自身が誰なのかについて、中々理解できない弟子たちに、イエス様は執拗に質問を投げかけています。「まだ、分からないのか、悟らないのか、心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」イエス様はどのようなお気持ちで、このような波状攻撃のような質問をされたのでしょうか。弟子たちはと言えば、実際、イエス様の御業を正確に記憶していました。それにも拘わらず、イエス様が誰なのかについて、霊の目が閉ざされていたのです。19~21節をご覧ください。

“わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。”

イエス様の執拗な質問は止むことはありません。21節においても、「まだ悟らないのか」と、畳みかけています。弟子たちはイエス様の質問に、「十二です」、「七です」と正確に答えることが出来ました。弟子たちが、両方の奇跡に直接参与したことを考えれば、あの時の状況が彼らの記憶に鮮明に残っていたということは頷けます。しかし、それにも拘わらず、依然としてイエス様が誰なのかということについては目が閉ざされているのです。

五千人の給食において、主イエスが腹わたが痛むような思いを持って、イスラエルを養ってくださる方であることを示してくださいました。そして、四千人の給食において、同じように腹わたが痛むような思いを持って、異邦人をも養ってくださる方であることを示してくださいました。「あなた方にとって命のパンであり、唯一のパンである、私があなた方と共にいるのに、なぜパンを持っていないことで議論するのか」と、主イエスは言われるのです。「あなた方に、これまでひもじい思いをさせたことがあったのか?」、「あなた方はこれまでパンがなくて困ったことがあったのか?いつも必要なものは十分に備えられたではないか」と主イエスは言われるのです。ここにおいて、私たちは「内なる人」である弟子たちのイエス様理解と、「外なる人」であるファリサイ派の人々やヘロデのイエス様理解と、全く変わらないということに気付きます。或いは、イエス様と血のつながった親族が、イエス様のことを中々悟ることが出来ず、誤解し続けたように、弟子たちも同じように、悟ることができず、誤解し続けたということが分かります。ただ、一点異なる点というか、注目すべき箇所は、イエス様の「まだ…なのか」という叱責の言葉でありましょう。イエス様は、弟子たちに踵を返すのではなく、「まだ、なのか」と、弟子たちの霊の目が開かれることを忍耐強く待っておられるのです。「まだ、なのか」という言葉は、ついに目が完全に開かれる時が来ることを暗示させるのです。私たちは、このことに希望を持つことが出来るのではないでしょうか。主イエスの熱情によって、弟子たちの養育が、弟子たちの訓練がやがて完了し、派遣される日が来ることに、希望を持つことが出来るのです。

【結論】

私たちは、イエス様を自らの救い主として告白し、キリスト者として人生を歩む者となりました。しかし、主イエスのことをどれだけ知っているのかと改めて問われるなら、心細くなってきます。イエス様は私たちの日々の歩みを霊的にも、肉体的にも満たしてくださるお方です。このお方に全面的に従い続け、このお方にのみ、依り頼むのなら、間違いはありません。しかし、ともすると、私たちの弱さのゆえに、つい他のものに依り頼んでしまったり、或いは、何事も自分で決断し、自分で解決しようとする、自己中心的な思いが先行してしまいます。自己中心的な思いは、やがて、自分が神のようになってしまい、イエス様を拒絶する道につながる危険性を孕んでいます。イエス様は、誤解が多く、盲目な私たちに対しても「まだ…なのか」と語られているのです。この言葉は、叱責でもありますが、同時に、弱い私たちに対する神様の愛のほとばしりとも、受け止めることが出来るのです。私たちの紆余曲折の人生の中で、イエス様は「まだ、なのか」と忍耐してくださり、私たちは、主イエスに結び合わされ、人生をイエス様と共に歩み、最後には、イエス様を完全に知る日が来ることに希望を持ちながら、信仰の営みを重ねて行くことができるのです。このイエス様に全幅の信頼を寄せて、歩む私たちとならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

떡을 깨닫지 못한 제자들

2023년 11월 12일 센겐다이교회 주일설교

마가복음 8장 10~21절

서론

「예수 그리스도는 도대체 누구인가」라는 물음이 마가복음의 제일 큰 주제입니다. 매우 어려운 물음이고 제자들이 여러 번 실패한 물음이기도 합니다. 오천 명을 먹이신 후 갈릴리 바다를 제자들끼리 건너가게 되었을 때 제자들은 광풍을 만났습니다. 그곳에 예수님이 바다 위를 걸어 제자들의 배로 다가가셨을 때 제자들은 유령인가 하여 소리를 질렀습니다. 제자들은 이 일에 매우 놀랐는데 그 이유를 저자 마가는 6장 52절에서 그 떡 떼시던 일을 깨닫지 못하고 도리어 그 마음이 둔하여졌음이라고 설명하고 있습니다. 오늘 아침에서도 제자들은 여전 떡 떼시던 일을 이해하지 못하고 있음이 암시되고 있습니다.

(1) 표적을 구하는 물음

10,11절을 보시기 바랍니다.

10 곧 제자들과 함께 배에 오르사 달마누다 지방으로 가시니라

11 바리새인들이 나와서 예수를 힐난하며 그를 시험하여 하늘로부터 오는 표적을 구하거늘

사천 명을 먹이신 후 무리를 해산 시키고 나서 예수님은 제자들과 함께 배에 올라 데가볼리 지방을 출발하여 달마누다 지방으로 가셨습니다. 「달마누다」라는 곳이 도대체 어디에 존재했었는지 아직도 모릅니다. 그러나 그 장소에 「바리새인들이 나왔다」라고 쓰여 있기 때문에 유대인이 주로 사는 지역 즉 갈릴리 바다의 서안지구였을 것으로 생각됩니다. 바리새인들은 예수님을 시험하려고 하늘로부터 오는 표적을 구하고 있습니다. 「시험하다」라고 하는 단어는 마가복음 1장 13절의 예수님이 광야에서 사탄에게 시험을 받으시며라는 기사의 「시험하다」와 같은 단어가 사용되고 있습니다. 바꾸어 말하면 마가복음 1장에 있어서 바리새인들이 예수님을 시험한 것이 됩니다. 하늘로부터 오는 표적이라고 되어 있는데 유대인들이 「하늘」이라는 말을 사용할 때 하나님을 가리켰습니다. 「하나님의 나라」가 임했다는 표현을 「하늘의 나라」가 왔다 라고 바꾸어 말합니다. 유대인들은 직접 「하나님」이라는 말을 사용하는 것을 주저하고 대신 「하늘」이라는 말을 사용하는 것입니다. 그래서 「하늘로부터 오는 표적」를 구했다는 것은 예수님께「하나님으로부터의 표적」을 요구했다는 얘기가 됩니다. 과연 그들은 주 예수님의 능력의 역사로 얼마나 많은 사람들이 감사하고 기뻐하는지 항간의 목소리를 들어본 적이 없었을까요? 혹은 지금까지 주 예수님이 행해 오신 수많은 기적을 실제로 본 적이 없었던 것일까요? 아마 그렇지 않을 것 같습니다. 그들은 수 많은 기적에 대해 들었고 경우에 따라서는 그 기적의 장면들을 조우한 적도 있었을 것입니다. 그럼에도 불구하고 바리새인들은 그런 예수님의 역사를 「표적」으로 인정하지 않고 예수 그리스도로 인해 하나님의 나라가 도래하고 있음을 믿지 않습니다. 명백한 표적을 보고도 인정하지 않고 한층 더 「하나님으로부터의 표적을 보여달라」고 요구하는 것입니다. 「하나님으로부터의 표적」이라는 말을 사용하여 주 예수님의 사역을 거절하고 있는 것입니다. 이러한 불신 상태에서는 비록 새로운 결정적인 표적이 주어지더라도 그들은 믿지 않을 것입니다. 예수님은 마음속으로 깊이 탄식하시며 말씀하셨습니다. 12절입니다.

어찌하여 이 세대가 표적을 구하느냐 내가 진실로 너희에게 이르노니 이 세대에 표적을 주지 아니하리라 하시고

12절에서 예수님이 말씀하시기전에 「마음속으로 깊이 탄식하시며」라는 말씀이 있습니다. 이 말은 실망스럽고 매우 유감스러운 마음을 나타냅니다. 본래 이스라엘 종교지도자인 바리새인들이야말로 예수님의 역사에 믿음으로 응답하고 사람들을 주 예수님께 인도해야 할 사람들이었습니다. 그런 그들이 불신앙으로 인해 주님을 완강히 거절하는 것을 보시고 영혼 깊숙한 곳에서 슬퍼하고 계시는 것입니다. 예수님은 발길을 돌리듯이 「이 세대에 표적을 주지 아니하리라」고 선언하시고 그들에게 등을 돌리고 배에 오르사 건너편 기슭으로 떠나셨습니다. 8장 22절을 보면 일행은 「벳새다에 이르매」라고 되어 있기 때문에 갈릴리 호수의 북쪽 해안 마을 벳새다로 향했습니다. 그런데 지금까지 마가복음에서는 예수님과 성전 당국자들의 갈등이, 즉 바리새인들과 서기관들과의 갈등이 논쟁 기사로 여러 번 그려졌지만 이번에는 논쟁없이 담백한 예수님의 떠나심으로 묘사되어 있습니다. 이것은 뭔가 유대 성전 당국자들과의 최종적인 결렬을 나타내는 것처럼 보이기도 합니다.

(2) 아직도 알지 못하며 깨닫지 못하느냐

자, 배안에서 제자들은 떡을 가져오는 것을 잊었고 그것을 걱정하기 시작했습니다. 14~16절에서는 단수형 떡(알토스)와 복수형(알투스)로 구분되어 있으므로 주의해 주십시오. 일본어에서는 그런 구별을 짓지 않았지만 헬라어에서는 단수인지 복수인지 명확하게 구별시킵니다. 14~16절을 보시기 바랍니다.

14 제자들이 떡(복수형) 가져오기를 잊었으매 배에 떡 한 개 (단수형: 생명의 떡이신 예수님을 가리킴)밖에 그들에게 없더라

15 예수께서 경고하여 이르시되 삼가 바리새인들의 누룩과 헤롯의 누룩을 주의하라 하시니

16 제자들이 서로 수군거리기를 이는 우리에게 떡(복수형)이 없음리로다 하거늘

예수님은 평소에 「바리새인들의 누룩과 헤롯의 누룩을 주의하라」고 말씀하셨던 것 같습니다. 「누룩」이 도대체 뭘까요? 「누룩」이란 성경에서 긍정적으로도 부정적으로도 쓰이고 있습니다. 예를 들어 하나님의 나라는 겨자씨나 누룩과 같고 처음에는 눈에 보이지 안을 정도인데 이윽고 커지고 부풀어서 전체적인 확장을 보인다고 표현할 때의 「누룩」입니다. 한편 누룩이 죄와 관련되어서 표현 될 때의 경우도 있습니다. 바울은 「적은 누룩이 온 덩어리에 퍼지는 것을 알지 못하느냐」며 죄의 누룩, 악의에 의한 누룩의 나쁜 영향력에 대해 경고하고 있습니다(고린도전서 5장 6절, 갈라디아서 5장 9절). 또한 마태복음서에는 바리새인과 사두개인의 누룩이 그들의 「가르침」을 가리키고 있음이 적혀 있습니다. 마태복음 16장을 살펴 보겠습니다. 6절과 12절을 보시기 바랍니다.

6 예수께서 이르시되 삼가 바리새인과 사두개인들의 누룩을 주의하라 하시니

12 그제서야 제자들이 떡의 누룩이 아니요 바리새인과 사두개인들의 교훈을 삼가라고 말씀하신 줄을 깨달으니라

이렇게 마태복음에서는 누룩을 그들의 가르침이라고 적고 있네요. 또 누가복음에서는 바리새인의 누룩이 그들의 「외식」이라고 말하고 있습니다. 누가복음 12장 1절을 보시기 바랍니다.

그 동안에 무리 수만 명이 모여 서로 밟힐 만큼 되었더니 예수께서 먼저 제자들에게 말씀하여 이르시되 바리새인들의 누룩 곧 외식을 주의하라

누가복음에서는 「누룩」을 그들의 「외식」이라고 적고 있습니다. 마가복음에서는 누룩에 대해 명확하게 언급되어 있지 않지만, 아마도 기적과 능력의 역사를 보고도 전혀 하늘로부터 온 펴적으로 인정하지 않으려는 그들의 「불신앙」을 말하는 것 같습니다. 이 예수님의 말씀을 듣고 제자들은 어떻게 반응했을까요? 웬일인지 제자들은 「누룩을 주의하라」는 경고에 대해서 「이는 우리에게 떡이 없음이로다」라고 짐작했습니다. 그렇다면 예수님은 앞으로 만들 떡의 조리법에 대해 주의를 주셨다는 말씀인가요? 저는 가끔 아내에게 생선구이가 충분히 익지 않았거나 반찬의 간이 너무 진해서 먹을 수 없다고 요리 조리법에 대해 불평합니다. 그리고 그 후 부부싸움이 시작됩니다. 대수롭지 않은 일이 원인이 되어 때로는 그 싸움은 격한 싸움으로 발전하기도 합니다. 예수님은 과연 떡의 요리법에 대해 제자들에게 주의를 주셨을까요? 물론 아니죠. 누룩은 표적을 요구하는 불신앙을 가리키기 때문입니다. 17,18절을 보시기 바랍니다.

17 예수께서 아시고 이르시되 너희가 어찌 떡이 없음으로 수군거리느냐 아직도 알지 못하며 깨닫지 못하느냐 너희 마음이 둔하냐

18 너희가 눈이 있어도 보지 못하며 귀가 있어도 듣지 못하느냐 또 기억하지 못하느냐

애초에 제자들이 예수님의 말씀을 제대로 이해하지 못한 이유는 제자들이 예수님을 제대로 이해하지 못한 데에서 기인합니다. 주님께서는 자신이 누구인지에 대해 좀처럼 이해하지 못하는 제자들에게 예수님은 집요하게 질문을 던지고 있습니다. 「아직도 알지 못하며 깨닫지 못하느냐 너희 마음이 둔하냐 너희가 눈이 있어도 보지 못하며 귀가 있어도 듣지 못하느냐 또 기억하지 못하느냐」라는 파상공격 같은 질문을 예수님은 어떤 마음으로 하셨을까요. 제자들은 사실 예수님의 말씀을 정확히 기억하고 있었습니다. 그럼에도 불구하고 예수님이 누구신지에 대해선 영의 눈이 감겨져 있었던 것입니다. 19~21절을 보세요.

19 내가 떡 다섯 개를 오천 명에게 떼어 줄 때에 조각 몇 바구니를 거두었더냐 이르되 열둘이니이다

20 또 일곱 개를 사천 명에게 떼어 줄 때에 조각 몇 광주리를 거두었더냐 이르되 일곱이니이다

21 이르시되 아직도 깨닫지 못하느냐 하시니라

예수님의 집요한 질문은 그치지 않습니다. 21절에서도 「아직도 깨닫지 못하느냐」라고 여유를 주시지 않고 다그쳐 묻습니다. 제자들은 예수님의 질문에 대해 「열둘이니이다」「일곱이니이다」라고 정확하게 대답할 수 있었습니다. 제자들이 양쪽 기적에 직접 참여한 것을 생각하면 그때의 상황이 그들의 기억에 선명하게 남아 있었다는 것은 수궁이 갑니다. 그러나 그럼에도 불구하고 여전히 예수님이 누구인가에 대해서는 눈이 감겨 있는 것입니다.

오천 명을 먹이실 때는 주 예수님이 불쌍히 여기시는 마음으로 이스라엘을 먹이시는 분임을 보여주셨습니다. 그리고 사천 명을 먹이실 때도 똑같이 불쌍히 여기시는 마음으로 이방인을 먹여 주시는 분임을 보여주셨습니다. 「너희에게 생명의 떡이자 유일한 떡인 내가 너희와 함께 있는데 왜 떡이 없는 것으로 의논하느냐」고 주 예수께서 말씀하십니다. 「너희들에게 지금까지 배고픔을 안겨준 적이 있느냐? 너희들은 그동안 떡이 없어서 곤란한 적이 있었느냐? 항상 필요한 것은 구비되어 있지 않았는가?」라고 주 예수님께서 말씀하십니다. 여기서 우리는 「안의 사람」인 제자들의 예수님에 대한 이해와 「밖의 사람」인 바리새인과 헤롯의 예수님에 대한 이해가 전혀 다르지 않다는 것을 깨닫습니다. 혹은 예수님과 피가 연결된 친족들이 예수님을 좀처럼 깨닫지 못하고 계속 오해했다는 것을 알 수 있습니다. 다만 한 가지 다른 점이랄까 주목할 점은 예수님의 「아직도…이냐」는 질책의 말씀일 것입니다. 예수님은 제자들에게 발길을 돌리는 것이 아니라「아직도, 아니냐」라고 제자들의 영의 눈이 열리기를 강한 인내심을 가지고 기다리고 계십니다. 「아직도, 아니야」라는 말은 언젠가 눈이 완전히 뜰 때가 온다는 것을 암시하게 하는 것입니다. 우리는 이 말씀에 희망을 가질 수 있지 않을까요? 주 예수님의 열정으로 제자들의 양육이, 제자들의 훈련이 곧 완료되고 파송되는 날이 오기를 희망할 수 있는 것입니다.

결론

우리는 예수님을 자신의 구원자로 고백하고 그리스도인으로 삶을 사는 자가 되었습니다. 그러나 주 예수님을 얼마나 아느냐고 진지하게 묻는다면 불안해집니다. 예수님은 우리들의 매일의 발걸음을 영적으로도 육적으로도 채워주시는 분입니다. 이 분께 전적으로 따르고 이분만 의지한다면 틀림이 없습니다. 자칫하면 우리의 연약함 때문에 무심코 다른 것에 의지하게 되거나 아니면 무슨 일이든 스스로 결단하고 스스로 해결하려는 자기 중심적인 생각은 이윽고 자신이 하나님과 같아져 예수님을 거절하는 길로 이어질 위험성을 내포하고 있습니다. 예수님은 의심을 잘하고 영적인 장님인 우리들에 대해서도 「아직도, 아니냐」라고 묻고 계신 것입니다. 이 단어는 질책이기도 하지만 동시에 연약한 우리들에 대한 하나님의 용솟음치는 사랑으로 받아들일 수 있는 것입니다. 우리의 우여곡절의 삶 속에서 예수님은 「아직도, 아니냐」고 인내해 주시고 우리는 주 예수님께 연합되어 삶을 예수님과 함께 걷고 마지막에는 예수님을 온전히 아는 날이 오기를 희망하면서 믿음의 영위를 거듭해 나갈 수 있는 것입니다. 이 예수님께 전폭적인 믿음을 갖고 걸어가는 우리가 되도록 합시다.

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