2019年10月13日「サウルへの油注ぎ 사울에의 기름부음」

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サウルへの油注ぎ 사울에의 기름부음

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記上 9章1節~10章1節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1ベニヤミン族に一人の男がいた。名をキシュといい、家系をさかのぼると、アビエル、ツェロル、ベコラト、ベニヤミン人のアフィアに至り、勇敢な男であった。
2彼には名をサウルという息子があった。美しい若者で、彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった。民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった。
3あるとき、サウルの父キシュのろばが数頭、姿を消した。キシュはその子サウルに言いつけた。「若い者を一人連れて、ろばを捜しに行ってくれ。」
4彼はエフライムの山地を越え、シャリシャの地を過ぎて行ったが、ろばを見つけ出せず、シャアリムの地を越えてもそこにはおらず、ベニヤミンの地を越えても見つけ出せなかった。
5ツフの地に来たとき、サウルは供の若者に言った。「さあ、もう帰ろう。父が、ろばはともかくとして、わたしたちを気遣うといけない。」
6若者は答えた。「ちょうどこの町に神の人がおられます。尊敬されている人で、その方のおっしゃることは、何でもそのとおりになります。その方を訪ねてみましょう。恐らくわたしたちの進むべき道について、何か告げてくださるでしょう。」
7サウルは若者に言った。「訪ねるとしても、その人に何を持参できよう。袋にパンはもうないし、神の人に持参する手土産はない。何か残っているか。」
8若者はまたサウルに答えて言った。「御覧ください。ここに四分の一シェケルの銀があります。これを神の人に差し上げて、どうしたらよいのか教えていただきましょう。」
9昔、イスラエルでは神託を求めに行くとき、先見者のところへ行くと言った。今日の預言者を昔は先見者と呼んでいた。
10サウルは若者に言った。「それはいい。さあ行こう。」彼らは神の人がいる町に向かった。
11町に通じる坂を上って行くと、水くみに出て来た娘たちに出会った。彼らは彼女たちに尋ねた。「ここに先見者がおられますか。」
12娘たちは答えて言った。「はい、おられます。この先です。お急ぎなさい。今日、この町に来られたのです。聖なる高台で民のためにいけにえがささげられるのは今日なのです。
13町に入るとすぐ、あの方に会えるでしょう。あの方は食事のために聖なる高台に上られるところです。人々は、あの方が来られるまでは食べません。あの方がいけにえを祝福してくださるからです。祝福が終わると、招かれた者が食べるのです。今上って行けば、すぐにあの方に会えるでしょう。」
14二人が町に上り、町の中に入って行こうとしたとき、サムエルも聖なる高台に上ろうと向こうからやって来た。
15サウルが来る前日、主はサムエルの耳にこう告げておかれた。
16「明日の今ごろ、わたしは一人の男をベニヤミンの地からあなたのもとに遣わす。あなたは彼に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの指導者とせよ。この男がわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫び声はわたしに届いたので、わたしは民を顧みる。」
17サムエルがサウルに会うと、主は彼に告げられた。「わたしがあなたに言ったのはこの男のことだ。この男がわたしの民を支配する。」
18城門の中でサウルはサムエルに近づいて、彼に言った。「お尋ねしますが、先見者の家はどこでしょうか。」
19サムエルはサウルに答えた。「わたしが先見者です。先に聖なる高台へ上って行きなさい。今日はわたしと一緒に食事をしてください。明朝、あなたを送り出すとき、あなたの心にかかっていることをすべて説明します。
20三日前に姿を消したろばのことは、一切、心にかける必要はありません。もう見つかっています。全イスラエルの期待は誰にかかっているとお思いですか。あなたにです。そして、あなたの父の全家にです。」
21サウルは答えて言った。「わたしはイスラエルで最も小さな部族ベニヤミンの者ですし、そのベニヤミンでも最小の一族の者です。どんな理由でわたしにそのようなことを言われるのですか。」
22サムエルはサウルと従者を広間に導き、招かれた人々の上座に席を与えた。三十人ほどの人が招かれていた。
23サムエルは料理人に命じた。「取り分けておくようにと、渡しておいた分を出しなさい。」
24料理人は腿肉と脂尾を取り出し、サウルの前に差し出した。サムエルは言った。「お出ししたのは取り分けておいたものです。取っておあがりなさい。客人をお呼びしてあると人々に言って、この時まであなたに取っておきました。」この日、サウルはサムエルと共に食事をした。
25聖なる高台から町に下ると、サムエルはサウルと屋上で話し合った。
26彼らは朝早く起きた。夜が明けると、サムエルは屋上のサウルを呼んで言った。「起きなさい。お見送りします。」サウルは起きて、サムエルと一緒に外に出た。
27町外れまで下って来ると、サムエルはサウルに言った。「従者に、我々より先に行くよう命じ、あなたはしばらくここにいてください。神の言葉をあなたにお聞かせします。」従者は先に行った。
1サムエルは油の壺を取り、サウルの頭に油を注ぎ、彼に口づけして、言った。「主があなたに油を注ぎ、御自分の嗣業の民の指導者とされたのです。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記上 9章1節~10章1節

原稿のアイコン日本語メッセージ

王政は神の摂理ではありながら、イスラエルの民が王政を求めた動機について調べてみると、それは主なる神から離れ、周辺諸国のような強く立派な王を自分たちの頭としていただき、自分たちを治めてほしいという動機でした。これは、大変、罪深い動機であり、神さまもそのことをよくご存じであられ、次のようにサムエルに8:8でおっしゃっています。「エジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった。」そのような状況において、イスラエルの初代の王として油注がれたのが本日の主役であるサウルであります。しかし、皆さんもよくご存じのように、サウルは後で神さまによって王位から廃位されてしまいます。そして、15:11には、神さまはサウルを王に立てたことを悔いると書かれています。御覧ください。

“わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果たさない。”

この御言葉は、サウルの不従順によって、神さまのご計画が変更されたと受け止めるべきでしょうか。私たちがこの御言葉から第一に気づかされることは、神さまはご自分の行いを人間のように後悔することがあるのだろうかということです。つまり、神さまも、私たちと同じように、後で振り返って見て、「あー、あの時は失敗した、明らかに衝動的だったとか、考えが浅はかだった!」という原因によって、ご自分の失敗を認めることがあるのだろうかということです。同じような御言葉として、例えば、一度、滅ぼそうとされたニネベの町を、ヨナの説教によってニネベ人が悔い改めたために、思い直されたとか、或いは、ヒゼキヤ王の寿命が一旦、預言者イザヤの口を通して宣告されましたが、ヒゼキヤの涙と祈りによって、神はその寿命を変更されたという記事もあります。

しかし、それ以上に私たちを混乱させるのは、サムエル記上15章において「悔やむ」と確かに神さまがおっしゃった、そのすぐ後に、15:29では、「神は決して悔いることはない」という御言葉があるということです。「悔いる」というヘブル語(ナカム)が11節と29節において同じように使われています。15:29を御覧ください。

“イスラエルの栄光である神は、偽ったり気が変わったりする(悔いる)ことのない方だ。この方は人間のように気が変わる(悔いる)ことはない。”

果たして、神さまは悔いることがあるのでしょうか。ないのでしょうか。二つの記事は完全に矛盾しているように見えますが、私たちはこれをどのように受け止めるべきでしょうか。そして、本日のサウルへの油注ぎはどのような意味を持っているのかについて考えていきたいと思います。まず、聖書全体から判断して、第一に明らかにしなければならないことは、神は決して後悔されたり、一度決められた計画を、後で変更されたり、翻したりされるお方ではないということです。神さまの存在の仕方と被造物の存在の仕方には根本的な違いがありますので、私たちの存在のあり方をそのまま神さまに適用するべきではありません。神さまの存在の仕方は、「自存」すると言います。これは、そのまま神さまの「私はある」という名前にもなっています。一方、被造物の存在の仕方は「生成する」と言います。これは、神さまのような絶対的な存在の仕方ではないという意味です。例えば私たちの存在の仕方である「生成」について考えてみますと、当然ですが、時空の制限を受けるということです。昨日お昼は学校がある日だったので学校にいましたが、今日は、休みのためお昼でも学校にはいません。ここで、場所の移動が起こっています。或いは、例えば、20年前はまだ両親を通して、まだ生まれていませんでしたが、10年前なら、小学校一年生でした、ということになりますと、ある時間には存在していますが、ある時間には存在していないことになります。しかも、その時々によって身長や体重も異なります。このように被造物の生成とは、絶対的な存在ではなく、時空の中にあって流動的であり、可変的であり、そして生成の仕方が自存的ではなく、常に他に依存しているということです。一方、神さまにおいては時空を超越しているわけですから、昨日、今日という制限から自由であり、永遠なるお方です。さらに場所についても、自由であり、どこにでも同時に偏在されるお方です。神さまの存在の仕方とは被造物のような生成の仕方ではなく、何ものにも依存しない方法、つまり自存しておられるお方であり、「絶対的な存在」であって、万物が創造される前から存在していたということです。このように、存在の仕方が異なる神さまにとって、将来起こることに対する無知から来る、衝動的な決断とか、浅はかな考えというのはあり得ないのです。それでは、なぜ、聖書の中に神さまが後悔されたとか、一度決められたことを取り消して考え直したといった記事が出てくるのかと言うと、それは比喩的な表現であって、神を人間になぞらえて表現しているにすぎません。神さまは不変のお方であり、聖書で神さまは、頻繁に「救いの岩」とか、「隠れの岩」と表現されていますが、人間が神に身を寄せて、信頼することができるお方であり、計画を変更したり、愛が移って変わり怒りになる感情の起伏の激しいお方ということではないということです。この点を理解しながらサウルへの油注ぎを考えてまいります。本日の聖書箇所を御覧ください。9:1~2です。

“ベニヤミン族に一人の男がいた。名をキシュといい、家系をさかのぼると、アビエル、ツェロル、ベコラト、ベニヤミン人のアフィアに至り、勇敢な男であった。彼には名をサウルという息子があった。美しい若者で、彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった。民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった。”

「勇敢な男」という言葉がありますが、これは、新改訳聖書などを見ると「裕福な男」と翻訳されています。意味的には、「財産家の勇士」であるということです。当時イスラエルの士師は、ある程度、名の通った資産家から輩出されていました。キシュは家系もしっかりしていて、士師が出ることのできる十分な家柄であったということです。キシュの息子サムエルは、美しい若者で背が高く、堂々たる体格をしており、容姿的には誰にでも好かれる人物として、全く申し分のない人物でした。ある時、キシュの所有する雌ロバが数頭、いなくなり、サウルは雌ロバを探しに行くことになります。サウルは名もないお供の若者を連れて、自分の実家であるベニヤミンのギブアから出発し、かなりの距離を歩いて、最終的にサムエルが住んでいる町、エフライムにあるラマタイムのツフの町まで導かれました。ツフの町に来ると、サウルは「さあ、もう帰ろう。父が私たちを気遣うといけない」と言い出します。ここで引き返すなら、サウルはサムエルと会えなくなってしまいます。その時、お供の若者が次のように助言をします。“ちょうどこの町に神の人がおられます。尊敬されている人で、その方のおっしゃることは、何でもそのとおりになります。その方を訪ねてみましょう。恐らくわたしたちの進むべき道について、何か告げてくださるでしょう。”しかし、神の人に持参するパンも、手土産もありません。手ぶらで尋ねるわけにも行きませんから困ってしまいました。そこへまた、お供の若者がサウルに次のように助言します。

“御覧ください。ここに四分の一シェケルの銀があります。これを神の人に差し上げて、どうしたらよいのか教えていただきましょう。”聡明な若者によって次々に問題が解決されていきます。さらに進んでいくと、今度は親切な水くみの娘たちがサウルの一行をサムエルへのもとへ案内してくれます。11~13節を御覧ください。

“町に通じる坂を上って行くと、水くみに出て来た娘たちに出会った。彼らは彼女たちに尋ねた。「ここに先見者がおられますか。」娘たちは答えて言った。「はい、おられます。この先です。お急ぎなさい。今日、この町に来られたのです。聖なる高台で民のためにいけにえがささげられるのは今日なのです。町に入るとすぐ、あの方に会えるでしょう。あの方は食事のために聖なる高台に上られるところです。人々は、あの方が来られるまでは食べません。あの方がいけにえを祝福してくださるからです。祝福が終わると、招かれた者が食べるのです。今上って行けば、すぐにあの方に会えるでしょう。」”

ユダヤ人の町は小高い丘や山頂に家々が立てられていて、低地にある井戸まで下りてきて水汲みをするのは、娘たちの毎日のルーチンワークでした。普通、朝方か、夕方に行われていたようです。また「聖なる高台」でいけにえが献げるとありますが、これは恐らくサムエルが自分の町ラマタイムに築いた祭壇のことでしょう。ここまで読んできまして、私たちが一つ奇妙に感じるのは、お供の若者も、娘たちもよく知ってる先見者サムエルについて、サウルは全く知らなかったという事実です。そして、いよいよツフの町に導かれ神さまの真の目的を成就するためにサムエルから油注がれようとする、まさにその時に、サウルは家に引き返そうとした点であります。それが何を意味しているのか確定はできませんが、何か私たちの心に引っかかってくるのです。その時、向こうから聖なる高台に上ろうとしてサムエルがやってきました。いよいよサウルとサムエルが出会います。クライマックスに差し掛かったところです。実はサムエルには、事前に神さまからお告げがありまして、そのお告げとは、神のお選びになった王に関するお告げです。16節を御覧ください。

“明日の今ごろ、わたしは一人の男をベニヤミンの地からあなたのもとに遣わす。あなたは彼に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの指導者とせよ。この男がわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫び声はわたしに届いたので、わたしは民を顧みる。”

神さまはサウルをイスラエルの王としてお立てになりました。神が意図した王の働きが16節に書かれています。第一にイスラエルの民の指導者となることであり、第二にイスラエルの民をペリシテの手から救うことであり、彼らの叫び声が天に届いたために、第三に、主がイスラエル民を顧みるように王も顧みることであります。ここで、ヘブル語を見ますと、くどいように「私の民」が強調されています。「私の民の指導者となり」、「私の民をペリシテから救うことであり」、「私の民を顧みる」ことです。つまり、それは神とイスラエルの契約関係が、以前とは変わらないということです。民は王の民ではなく、王政政治とは言っても、決して王族の利益のためになされるのではなく、あくまで、契約共同体の平安と安寧のためになされるべきなのです。内容は神聖政治と全く何ら変わりないということです。

その後、サウルとお供のものは準備された祝宴に主賓として招かれ、祭司しか食べることの許されない腿肉と、脂肪をよく含んだ脂尾が出され、歓迎を受けることになりますが、18節でサウルは初めて会ったサムエルに近づいて尋ねています。

“お尋ねしますが先見者の家はどこでしょうか。”

すると、サムエルはサウルに答えます。19~20節を御覧ください。

“サムエルはサウルに答えた。「わたしが先見者です。先に聖なる高台へ上って行きなさい。今日はわたしと一緒に食事をしてください。明朝、あなたを送り出すとき、あなたの心にかかっていることをすべて説明します。三日前に姿を消したろばのことは、一切、心にかける必要はありません。もう見つかっています。全イスラエルの期待は誰にかかっているとお思いですか。あなたにです。そして、あなたの父の全家にです。」”

雌ロバは見つかったと書かれています。どのように見つかったのか、ギブアの家に戻ってきたのか、それとも、他の人が探し当てたのか、書かれていません。もうどうでもいいという感じです。それよりも、著者の関心は、神さまの目的であるサウルへの油注ぎに当てられています。20節を注意深く見ますと、サウルへの油注ぎの意味について理解することができます。

“全イスラエルの期待は誰にかかっているとお思いですか。あなたにです。そして、あなたの父の全家にです。”

という御言葉から、イスラエルの期待は、サウルに注がれていました。つまり、サウルは全イスラエルに望まれて王になったということです。サウルの名前の意味は「求められた者」です。人々の要求に従って求められた者という意味です。ところで、サウルとサムエルの名前は音が似ていますね。そもそもサムエルという名前の意味もサウルと同じ意味で、ヘブル語の「シャアル」という言葉に由来しています。復習ですが1:20と1:27~28にサムエルの名前の由来が書かれていました。御覧ください。

“ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。主に願って得た子供なので、その名をサムエルと名付けた。”

1:20節では、ハンナが主に「願って:シャアル」得た子供なので、「願った」という意味からサムエルと名付けたと書かれています。さらに、27~28節を見ますと、

“わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願った こと(願い)をかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」彼らはそこで主を礼拝した。”

ハンナは、神に願われたサムエルを神にお委ねしましたが、この節からサムエルの名前は由来は「神が願われるので、お委ねした(シャアル)者、献げた者」という意味になります。ですから、サウルとサムエルの二人を並べてみますと、サウルが人々から願われた者、求められた者であるなら、サムエルは神から求められた者、委ねられた者であったと、言うことができるでしょう。結局サウルの油注ぎの意味は、この世の人々によって求められた王としての油注ぎであったということです。一方で、ダビデの油注ぎの記事を見てみましょう。16:7を御覧ください。

“しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」”

ダビデの油注ぎにおいては、容姿や背の高さに目を向けることをせず、人間が見るようには見ない、心によって見ると言われました。サウルはまさに周辺諸国において立てられているような王であり、忘恩背信の民の要求を、神さまが一旦かなえられたと解釈することが妥当であるということです。それは、最初からサウルとその家が王の血統として立てられるのではなかったということであり、神さまの永遠のご計画は、ダビデを通して、そしてダビデの子孫を通してメシアが(油注がれた者が)お生まれになるということだったのです。ここにおいて私たちは神の永遠の聖定と摂理をほめたたえることができるのです。

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사울에의 기름부음

2019년 10월 13일 센겐다이교회 주일설교

사무엘상 9장 1~10장 1절

왕정은 하나님의 섭리이면서도 이스라엘 백성들이 왕정을 요구한 동기에 대해 살펴보면, 그것은 여호와 하나님을 떠나 주변 국가들과 같은 강하고 훌륭한 왕을 자신들의 우두머리로 삼아 자신들을 다스려주기를 바라는 동기였습니다. 이것은 매우 죄스러운 동기이며 하나님께서도 그 사실을 잘 알고 계시며 다음과 같이 사무엘에게 8장 8절로 말씀하십니다. 「내가 그들을 애굽에서 인도하여 낸 날부터 오늘까지 그들이 모든 행사로 나를 버리고 다른 신들을 섬김 같이 네게도 그리하는도다」그런 상황에서 이스라엘의 초대 왕으로 기름 부음을 받은 것이 오늘의 주역인 사울입니다. 그러나 여러분도 잘 알고 계시듯이 사울은 나중에 하나님에 의해 왕에서 폐위되고 맙니다. 그리고 15장 11절에는 하나님이 사울을 왕으로 세우신 것을 후회하신다고 적혀 있습니다. 보시겠습니다.

내가 사울을 왕으로 세운 것을 후회하노니 그가 돌이켜서 나를 따르지 아니하며 내 명령을 행하지 아니하였음이니라 하신지라..

이 말씀은 사울의 불순종으로 인해 하나님의 계획이 변경되었다고 받아들여야 할까요? 우리가 이 말씀에서 가장 먼저 깨닫게 되는 것은 하나님은 자신의 행동을 인간처럼 후회하시는 일이 있는가 하는 것입니다. 즉 하나님도 우리와 마찬가지로 나중에 돌이켜보고 ‘아, 그때는 실수했다. 분명히 충동적이었거나 생각이 얕았다!’라고 자신의 실수를 인정하시는 경우는 있는가 하는 것입니다. 비슷한 말씀으로 예를 들어 한 번 멸망시키려 했던 니느웨 성읍을 요나의 설교로 니느웨 사람들이 회개했기 때문에 다시 생각해 보셨다거나 혹은 히스기야 왕의 수명이 일단 선지자 이사야의 입을 통해 선고되었지만 히스기야의 눈물과 기도로 인해 하나님은 그 수명을 변경하셨다는 기사도 있습니다.

그러나 그 이상으로 우리를 혼란스럽게 하는 것은 사무엘상 15장에서 「후회하노니」라고 분명히 하나님께서 말씀하셨고 그 바로 뒤에 15장 29절에서는 「결코 변개하지 않으심이니이다」는 말씀이 있다는 것입니다. 후회하다는 히브리어가 11절과 29절에서 똑같이 쓰이고 있습니다. 15장 29절을 참조하시기 바랍니다.

이스라엘의 지존자는 거짓이나 변개함이 없으시니 그는 사람이 아니시므로 결코 변개하지 않으심이니이다

과연 하나님은 후회하시는 일이 있으실까요? 없으실까요? 두 기사는 완전히 모순되어 보이는데, 우리는 이것을 어떻게 받아들여야 할까요? 그리고 오늘 사울에게 기름을 붓는 것은 어떤 의미를 가지고 있는지에 대해 생각해 보도록 하겠습니다. 우선 성경 전체를 보고 판단해서 제일 먼저 확실히 해 두어야 할 것은 하나님은 결코 후회하시거나 한번 정하신 계획을 나중에 변경하시거나 번복하시는 분이 아니라는 것입니다. 하나님이 존재하시는 방식과 피조물이 존재하는 방식에는 근본적인 차이가 있으므로 우리가 존재하는 방식을 그대로 하나님께 적용해서는 안 됩니다. 하나님이 존재하시는 방식은 「자존」하신다고 말합니다. 이것은 말 그대로 하나님의 「나는 있다」라는 이름으로 되어 있습니다. 한편 피조물이 존재하는 방식은 「生成한다」라고 말합니다. 이것은 하나님과 같은 절대적인 존재 방식이 아니라는 뜻입니다. 예를 들면 우리가 존재하는 방식인 「생성」에 대해서 생각해보면 당연하지만 시공간의 제한을 받는다는 것이죠. 어제 점심 시간에는 학교 수업이 있는 날이라서 학교에 있었지만 오늘은 방학이라서 점심시간에 학교에는 없는 것이죠. 여기서 장소 이동이 일어나고 있습니다. 아니면 예를 들면 20년 전에는 아직 부모님으로부터 태어나지 않았지만 10년 전이라면 초등하고 1학년이었다, 라고 한다면 어느 시간에는 존재하지 않는 것입니다. 게다가 그 때에 따라 키나 체중도 다릅니다. 이와 같이 피조물의 생성이란 절대적인 존재가 아니라 시공간 속에 있어서 유동적이고 가변적이며, 그리고 생성 방법이 자체적이지 않고 항상 다른 것에 의존하고 있다는 것입니다. 한편 하나님께 있어서는 시공을 초월하고 계시니 어제, 오늘이라는 제한에서 자유로우시고 영원하신 분입니다. 게다가 장소에 대해서도 자유로우시며 어디에나 동시에 편재하시는 분입니다. 하나님의 존재 방식이란 피조물과 같은 생성 방식이 아니라 그 어떤 것에도 의존하지 않는 방법, 즉 스스로 존재하시는 분이며, 「절대적인 존재」이시며, 만물이 창조되기 전부터 존재하셨다는 것입니다. 이처럼 존재 방식이 다른 하나님께 미래에 일어날 일에 대한 무지에서 오는 충동적인 결단이라든가 얕은 생각이라는 것은 있을 수 없는 것입니다. 그렇다면 왜 성경 속에 하나님이 후회하셨다거나 한 번 정해진 것을 취소하고 다시 생각해 보았다는 기사가 나오느냐 하면 그것은 비유적인 표현이며 하나님을 인간에 빗대어 표현하는 것일 뿐입니다. 하나님은 불변하신 분이고 성경에서 하나님은 자주 「구원의 반석」이라든가 「숨을 반석」이라고 표현되어 있습니다만 인간이 하나님께 자신을 의탁하고 신뢰 할 수 있는 분이며, 계획을 변경하시거나, 사랑이 변해서 분노하시는 감정의 기복이 심한 분이 아니시라는 것입니다. 이 점을 이해하면서 사울에의 기름부음에 대해 생각해 보고자 합니다. 오늘의 성경 구절을 보시겠습니다. 9장 1,2절입니다.

1 베냐민 지파에 기스라 이름하는 유력한 사람이 있으니 그는 아비엘의 아들이요 스롤의 손자요 베고랏의 증손이요 아비아의 현손이며 베냐민 사람이더라

2 기스에게 아들이 있으니 그의 이름은 사울이요 준수한 소년이라 이스라엘 자손 중에 그보다 더 준수한 자가 없고 키는 모든 백성보다 어깨 위만큼 더 컸더라

「유력한 사람」이라고 하는 단어가 있습니다만, 이것은 신개역성경 등을 보면 「부유한 남자」라고 번역되어 있습니다. 의미적으로는 「재산가의 용사」라는 거죠. 당시 이스라엘의 사사는 어느 정도 이름난 자산가에서 배출되고 있었습니다. 기스는 집안도 튼튼하고 사사가 나올 수 있는 충분한 집안이었다고 합니다. 기스의 아들 사울은 준수한 젊은이로 키가 크고 당당한 체격을 가졌으며 외모적으로는 누구에게나 사랑받는 인물로서 전혀 나무랄 데 없는 인물이었습니다. 어느 날 기스가 소유한 암나귀가 몇 마리 없어지고 사울은 암나귀를 찾으러 가게 됩니다. 사울은 이름 없는 한 사환을 데리고 자신의 고향인 베냐민의 기브아에서 출발하여 상당한 거리를 걸어 결국 사무엘이 살고 있는 마을 에브라임의 라마의 숩 땅에까지 이르렀습니다. 숩 땅에 오자 사울은 「돌아가자 내 아버지께서 암나귀 생각은 고사하고 우리를 위하여 걱정하실까 두려워하노라」라고 말문을 꺼냅니다. 여기서 되돌아간다면 사울은 사무엘과 만날 수 없게 되어 버립니다. 그때 동행한 사환이「보소서 이 성읍에 하나님의 사람이 있는데 존경을 받는 사람이라 그가 말한 것은 반드시 다 응하나니 그리로 가사이다 그가 혹 우리가 갈 길을 가르쳐 줄까 하나이다」라고 조언을 합니다. 그러나 하나님의 사람에게 드릴 예물이 없어서 곤란해져 버렸습니다. 거기에 또 동행한 사환이 사울에게 다음과 같이 조언합니다. 8절을 보시죠.

사환이 사울에게 다시 대답하여 이르되 보소서 내 손에 은 한 세겔의 사분의 일이 있으니 하나님의 사람에게 드려 우리 길을 가르쳐 달라 하겠나이다 하더라

총명한 사환에 의해 차례차례 문제가 해결되어 갑니다. 더 나아가면 이번에는 친절한 물 길으러 나오는 소녀들이 사울 일행을 사무엘에게 안내해 줍니다. 11~13절을 보시겠습니다.

11 그들이 성읍을 향한 비탈길로 올라가다가 물 길으러 나오는 소녀들을 만나 그들에게 묻되 선견자가 여기 있느냐 하니

12 그들이 대답하여 이르되 있나이다 보소서 그가 당신보다 앞서 갔으니 빨리 가소서 백성이 오늘 산당에서 제사를 드리므로 그가 오늘 성읍에 들어오셨나이다

13 당신들이 성읍으로 들어가면 그가 먹으러 산당에 올라가기 전에 곧 만나리이다 그가 오기 전에는 백성이 먹지 아니하나니 이는 그가 제물을 축사한 후에야 청함을 받은 자가 먹음이니이다 그러므로 지금 올라가소서 곧 그를 만나리이다 하는지라

유대인 성읍은 작은 언덕이나 산꼭대기에 집들이 세워져 있고 저지대에 있는 우물까지 내려와 물을 퍼내는 것은 소녀들의 매일의 일과였습니다. 보통 새벽이나 저녁에 했던 것 같아요. 또 「산당」에서 제물을 축사한다고 했는데 이는 아마도 사무엘이 자신의 마을 라마에 쌓은 제단일 것입니다. 여기까지 읽어오면서 우리가 한 가지 기묘하게 느끼는 것은 동행한 사환도 소녀들도 잘 아는 선견자 사무엘에 대해서 사울은 전혀 몰랐다는 사실입니다. 그리고 드디어 숩 땅으로 인도되어 하나님의 참된 목적을 성취하기 위해 사무엘로부터 기름 부음을 받으려는 그때 사울은 집으로 되돌아가고자 했던 점입니다. 그것이 무엇을 의미하는지 확정할 수는 없지만 뭔가 우리 마음에 걸리는 것입니다. 그때 저쪽에서 마침 산당으로 올라가려고 사무엘이 마주 나왔습니다. 드디어 사울과 사무엘이 만납니다. 클라이맥스에 접어든 참입니다. 사실 사무엘에게는 사전에 하나님으로부터의 계시가 있었는데 그 계시는 하나님이 선택한 왕에 관한 계시입니다. 16절을 보세요.

내일 이맘 때에 내가 베냐민 땅에서 한 사람을 네게로 보내리니 너는 그에게 기름을 부어 내 백성 이스라엘의 지도자로 삼으로 그가 내 백성을 블레셋 사람들의 손으로 구원하리라 내 백성의 부르짖음이 내게 상달되었으므로 내가 그들을 돌보았노라 하셨더니

하나님은 사울을 이스라엘의 왕으로 세우셨습니다. 하나님이 의도한 왕의 사역이 16절에 적혀 있습니다. 첫째, 이스라엘 백성의 지도자가 되는 것이고, 둘째 이스라엘 백성을 블레셋 사람들의 손에서 구하는 것이며 셋째, 그들의 부르짖음이 하늘에 닿았기 때문에 여호와께서 이스라엘 백성을 돌보시듯이 왕도 돌보는 것입니다. 여기서 히브리어를 보면 집요할 정도로 「내 백성」이 강조되고 있습니다. 「내 백성의 지도자로 삼고」,「내 백성을 블레셋 사람들의 손으로 구원하리라」, 「내 백성을 돌보았다」는 것입니다. 즉 그것은 하나님과 이스라엘의 언약관계가 이전과도 다르지 않다는 것입니다. 백성은 왕의 백성이 아니라 왕정정치라고 해도 결코 왕족의 이익을 위해서 이루어지는 것이 아니라 어디까지나 언약공동체의 평안과 안녕을 위해서 이루어져야 합니다. 내용은 신정정치와 전혀 다르지 않다는 것입니다.

그후 사울과 동행한 사환은 준비된 축연에 주빈으로 초대되어 제사장만 먹을 수 있는 넓적다리와 그것에 붙은 것이 나와 환영을 받게 되는데 18절에서 사울은 처음 만난 사무엘에게 다가가 묻고 있습니다.

사울이 성문 안 사무엘에게 나아가 이르되 선견자의 집이 어디인지 청하건대 내게 가르치소서 하니

그러자 사무엘은 사울에게 대답합니다. 19,20절을 보시기 바랍니다.

19 사무엘이 사울에게 대답하여 이르되 내가 선견자이니라 너는 내 앞서 산당으로 올라가라 너희가 오늘 나와 함께 먹을 것이요 아침에는 내가 너를 보내되 네 마음에 있는 것을 다 네게 말하리라

20 사흘 전에 잃은 네 암나귀들을 염려하지 말라 찾았느니라 온 이스라엘이 사모하는 자가 누구냐 너와 네 아버지의 온 집이 아니냐 하는지라

암나귀는 찾았다고 적혀 있습니다. 어떻게 찾았는지 기브아의 집으로 돌아왔는지, 아니면 다른 사람이 찾아냈는지는 적혀 있지 않습니다. 이제 아무래도 상관없다는 느낌이에요. 그보다 저자의 관심은 하나님의 목적인 사울에게 기름을 붓는데 쏠려 있습니다. 20절을 주의 깊게 살펴보면 사울에게 기름을 붓는 의미에 대해 이해할 수 있습니다.

..온 이스라엘이 사모하는 자가 누구냐 너와 네 아버지의 온 집이 아니냐..

라는 말씀으로 이스라엘의 기대는 사울에게 쏠리고 있었습니다. 즉 사울은 전 이스라엘의 소망으로 왕이 되었다는 것입니다. 사울의 이름의 뜻은 「간구한 자」입니다. 사람들의 간구에 따라 요구된 자라는 뜻입니다. 그런데 사울과 사무엘의 이름은 소리가 비슷하네요. 원래 사무엘이라는 이름의 뜻도 사울과 같은 뜻으로 히브리어의 「샤알」이라는 말에서 유래되었습니다. 복습인데 1장 20절과 1장 27,28절에 사무엘의 이름의 유래가 적혀 있었습니다. 보시죠.

1장

20 한나가 임신하고 때가 이르매 아들을 낳아 사무엘이라 이름하였으니 이는 내가 여호와께 그를 구하였다 함이더라

20절에는 한나가 여호와께 구하여서 얻은 아이이기 때문에 「구했다(샤알)」는 의미에서 사무엘이라고 이름 붙였다고 적혀 있습니다. 또 27,28절을 보면

27 이 아이를 위하여 내가 기도하였더니 내가 구하여 기도한 바를 여호와께서 내게 허락하신지라

28 그러므로 나도 그를 여호와께 드리되 그의 평생을 여호와께 드리나이다 하고 그가 거기서 여호와께 경배하니라

한나는 하나님께 구한 사무엘을 하나님께 이 구절에서 사무엘의 이름의 유래는 「하나님이 원하시니 맡긴(샤알)자, 드려진 자」라는 뜻이 됩니다. 그러므로 사울과 사무엘 두 사람을 나란히 하여 보면 사울이 사람들로부터 바라던 자, 간구한 자라면 사무엘은 하나님께서 바라신 자, 맡겨진 자였다고 말할 수 있을 것입니다. 결국 사울의 기름부음의 의미는 이 세상 사람들이 요구한 왕으로서의 기름부음이었다는 것입니다. 한편 다윗의 기름 부음의 기사를 살펴보겠습니다. 16장 7절을 보시기 바랍니다.

여호와께서 사무엘에게 이르시되 그의 용모와 키를 보지 말라 내가 이미 그를 버렸노라 내가 보는 것은 사람과 같지 아니하니 사람은 외모를 보거니와 나 여호와는 중심을 보느니라 하시더라

다윗의 기름부음에 있어서는 외모나 키높이에 눈을 돌리지 않고 인간이 보는 것처럼 외모를 보지 않고 중심을 보신다고 하셨습니다. 사울은 바로 주변국에서 세워지는 왕 같으며 배은망덕한 백성들의 요구를 하나님께서 일단 들어주셨다고 해석하는 것이 타당하다는 것입니다. 그것은 처음부터 사울과 그 집안이 왕의 혈통으로 세워졌다는 것이 아니라는 것이고 하나님의 영원한 계획은 다윗을 통해서, 그리고 다윗의 자손을 통해서 메시아(기름부음받은자)가 태어나게 된다는 것이었습니다. 여기서 우리는 하나님의 영원한 성정과 섭리를 찬양할 수 있습니다.

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