2023年11月05日「四千人の給食 사천 명을 먹이시다」

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四千人の給食 사천 명을 먹이시다

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 8章1節~9節

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聖句のアイコン聖書の言葉

8:1そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。
8:2「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。
8:3空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」
8:4弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」
8:5イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。
8:6そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。
8:7また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。
8:8人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。
8:9およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 8章1節~9節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

ユダヤ人にとって異邦人とは汚れた民でありました。例えば当時の異邦人は豚肉をおいしそうに食べていましたが、そのような姿は、食物規定を守らない罪深い者として、ユダヤ人の目には映っていました。ところが、イエス様の一行は今、異邦人の住む地を巡りながら、ギリシャ人が多く住んでいるデカポリス地方を通り抜けています。そして、多くの群衆がイエス様の後に従って来ました。これは、おそらく先週見ました、「耳が聞こえず、舌の回らない人」が癒された奇跡を目撃した人々や、その出来事に関係した友人たちが、地域一帯の人々に言い広めたからだと思われます。大勢の群衆に囲まれて、主イエスは、今朝、お読みした御言葉にあるように、七つのパンと少しの魚によって、四千人の群衆を満腹にし、さらに残りを集めたら七つの籠がいっぱいになる、という奇跡を行いました。これと類似した出来事が、マルコの6章30節以下にも書かれています。五つのパンと二匹の魚によって、五千人の人々を養われ、残りを集めたら十二籠にいっぱいになったという奇跡です。私たちは便宜的に、マルコ6章に書かれている奇跡を「五千人の給食」、そして、今朝のマルコ8章に書かれている奇跡を「四千の給食」と呼んでいきたいと思います。

【1】. 弟子たちの盲目

五千人の給食と、四千人の給食の内容が、あまりにも類似しているため、ある神学者は、最初は一つの物語だったが、語り継がれるうちに少しずつ変形していき、ついに、まるで別の出来事であるかのように書かれてしまったのではないか、と見立てています。そして、弟子たちの反応に注目すると、五千人の給食と四千人の給食において、同じように不服そうな反応を見せていますが、その弟子たちの反応こそ、元来一つの物語であったことの証拠だと考えています。8:4節をご覧ください。

“弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」”

続いて、五千人の給食の箇所を調べてみましょう。マルコ6:35~37をご覧ください。

“そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。”

このように五千人の給食の方は、イエス様との対話形式になっており、詳細に書かれていますが、書かれている内容はほぼ同じです。もし、五千人の給食と四千人給食が同じ出来事ではなく、二つが別々の出来事であるのなら、弟子たちのこのような反応は果たしてあり得るだろうか?と問題視するのです。少し前に、五千人の給食において、あのようなセンセーショナルな奇跡を体験したにも関わらず、弟子たちの反応は、あまりにも鈍感で、愚か過ぎると言うのです。そんな馬鹿な話はないだろうと言うのです。ところが、聖書は二つの出来事がそれぞれ別々の出来事であることを、はっきりと示しています。8:19~21をご覧ください。イエス様が弟子たちに次のように質問しています。

“わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。”

この箇所のイエス様と弟子たちの対話を見るなら、イエス様も弟子たちも、二つの奇跡が別々の出来事であることを認めていることが、見て取れます。従って、マルコの福音書は、私たちの目には信じられないほど、全く馬鹿げているように見えますが、それほどまでに、弟子たちの鈍感さ、弟子たちの愚かさ、弟子たちの頑なさが、強調されているということになります。逆に言いますと、神の恵みがなければ、私たちは決してイエス様のことを正しく理解することはできないということになるでしょう。弟子たちと同じように私たちも、しばしば、聖書に対し、神様の御言葉に対し、頑なで、不信仰で、鈍感な態度を取ってしまうことがあるかもしれません。日々祈りつつ、聖霊の照明によって、私たちの心の目を開いてくだるように、また、私たちの心の耳を開いてくださるように、祈る者とならせていただきましょう。

【2】. 異邦人をも憐れんでくださるメシア

1~3節をご覧ください。

“そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」”

「もう三日もわたしと一緒にいる」と言われたイエス様の御言葉に注目してください。三日間とは、決して短い時間ではありません。この三日間、イエス様は群衆と何をしていたのでしょうか。そのことについて、聖書には具体的に書かれていませんが、おそらく、異邦人の人々にも、神の国の福音をお語りになったのではないでしょうか。なぜなら、先週、私たちが見ました「耳が聞こえず、舌の回らない人が癒された奇跡」とは、神の国の到来が、異邦人地域にまで知らされることになったということを象徴しているからです。もちろん、デカポリスの地域には、ユダヤ人も住んでいました。従いまして、「ユダヤ人にも異邦人にも分け隔てなく」、神の国の到来が宣べ伝えられるようになったという意味であります。それから、「群衆がかわいそうだ(スプラングニゾマイ)」と言われたイエス様の御言葉に注目してください。この御言葉は、腹わたが揺さぶられるように、激しく動揺し、居ても立っても居られないという意味です。イエス様の感情を表す時にのみ使用される重要な言葉であり、五千人の給食の時にも、同じ言葉が使われています。群衆がお腹を空かしていることに、イエス様は居ても立っても居られなくなったのです。そこには、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと関係ありません。たとえ異邦人であっても、イエス様は顧みてくださり、その顧みは、霊的な部分に限定されず、肉的な部分にも、つまり私たちの実生活の部分にも及ぶということです。五千人の給食の時と異なる点と言えば、五千人の給食では、弟子たちの側から、群衆のことを心配し、その日の夕暮れに解散させるよう提案していますが、四千人の給食では、三日経ったのに、弟子たちは依然として群衆のお腹の状況には無関心であったということです。恐らく弟子たちは異邦人の置かれている苦境を、冷ややかに眺めていただけだったのでしょう。ユダヤ人の感覚では同胞のイスラエルと異邦人を同じ土俵に並べる時、どうしてもこのような偏見というか、態度の違いが出て来てしまうのです。人々の苦境の中で、イエス様の側から「群衆がかわいそうだ。…空腹のままに帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう」と切り出しました。恐らくその空腹感において、そのハングリーさにおいて、五千人の給食の時より、今回の方がひどかったに違いありません。一人当たりの食べた量を考えるなら、今回の四千人の給食の方が圧倒的に多かったはずです。イエス様は五千人の給食の時と同じように、異邦人の群衆に対しても、ご自身が、飼い主のいない羊のように、苦しんでいる者たちの牧者であることを、お示しくださいました。5~8節をご覧ください。

“イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。”

さて、ここでイエス様は四千人の給食の奇跡を行われていますが、一体、奇跡がどのように起こったのか具体的には描写されていません。そのことは五千人の給食の時と同じです。「七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂いた」というのは、当時、ユダヤの社会において、食前に、家長である父親が天に感謝の祈りを捧げた慣習に過ぎません。これから食事を取るため、イエス様が代表して祈られたということです。ですから、一体、奇跡がどのように起こったのかはっきりしない訳であります。ただ、奇跡が起こったことの手がかりとして、弟子たちが、この驚くべき奇跡を実際に目撃し、この奇跡に直接参与したということがあります。イエス様から無尽蔵のように、パンと魚が直接渡されました。そして、実際に奇跡が起こったことを証明するかのように、人々が満腹になり、残ったパン屑を集めると、七籠になったということが、最後に付け加えられています。この言葉によって、人々のひどい空腹が満たされて、苦境に置かれた状況において、奇跡的な神様の養いが与えられたことが立証されるのであります。

8節の「籠(スプリダス)」という言葉は、五千人の給食の時に集めた籠とは、別の単語が使われています。日本語の翻訳では同じ言葉ですが、韓国語の聖書ではきちんと訳し分けられていました。つまりどういうことかと言いますと、五千人の給食の時には、小さなバスケット(コピヌース)のようなものを意味しますが、四千人の給食では、その中に、人が入ることもできるほどの大きな「籠(スプリダス)」を意味します。使徒言行録9:25に、この「籠(スプリダス)」が出て来ますので調べてみましょう。

“そこで、サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁づたいにつり降ろした。”

ここに書かれているように、サウロつまりパウロは、弟子たちによってダマスコの町から救出される際、籠に乗せられて助け出されました、とあります。それほど大きなものであるということです。五千人の給食と、四千人の給食において、一見すると「12籠」と「7籠」ということで、五千人の給食の方が残りが多いように感じますが、よく調べると四千人の給食において、人々がどんなにたくさんの食事をしたのかが分かって来るのです。また、この「12」と「7」という数字は、ユダヤ人にとって象徴的な数字であるため、イエス様の奇跡に、象徴的な意味が込められていると主張する神学者もいます。例えば、12という数字は、イスラエル十二部族を象徴しており、7という数字は、全世界の民族を表す数字であるということ、或いは、初代教会においてギリシャ人キリスト者に仕えるために立てられた「七人の執事」を象徴している、という考え方です。五千人の給食とはイスラエルを養われる奇跡であり、四千人の給食とは異邦人を養われる奇跡であったという事です。そのような意味が、もしかしたら、「12」と「7」に込められているのかもしれませんが、はっきりしたことは分かりません。いずれにしても、異邦人の地域、デカポリスでなされた四千人の給食の奇跡を通して、イエス様はユダヤ人だけでなく、異邦人に対しても、腹わたが揺さぶられるような、憐れみの感情を持たれ、ご自身が、飼い主のいない羊たちの牧者であることをお示しくださったのです。ご自身が、単に精神面だけではなく、肉体的な実生活においても養いを与えてくださるメシアであることをお示しくださいました。私たちはそのことに思いを向けたいと思います。ヨハネの福音書を見ると、五千人の給食の奇跡を体験した後、ユダヤ人は、主イエスを自分たちの王に担ぎ上げようとしましたが(ヨハ6:15)、四千人の給食を体験した異邦人の間には、そのような動きは全く見られませんでした。そして、先週見ましたように、耳が聞こえず、舌の回らない人が癒された奇跡の後に、「この方のなさったことはすべて、すばらしい」と証言したこともそうですが、神の恵みと憐れみに対し、信仰によって応答している異邦人の姿が浮き彫りにされています。神の憐れみに積極的に答えていくのは、ユダヤ人ではなく、むしろ異邦人であったということが、マルコ福音書の中に暗示されているのです。もっと言えば、「主イエスとは一体誰なのか?」という、マルコ福音書に一貫された重大テーマに対し、「このお方は神の子である」と応答したのは、弟子たちを代表したペトロではなく、異邦人の百人隊長であったという事も例として挙げられるでしょう。

【結論】

本日の説教をまとめさせていただきます。イエス様は、地上での生涯の間、ご自身の働きをイスラエルに限定されましたが、それにも関わらず、四千人の給食の奇跡がここに記されているということは、異邦人である私たちにとってどれほど大きな慰めでしょうか。本格的な異邦人宣教は、使徒言行録の中で異邦人の使徒パウロによってなされて行きますが、異邦人伝道が本格的に始まる前に、イエス様は異邦人に対しも、同じく、憐れみの心を示してくださったのです。そして、神様は、今日も異邦人である私たちを顧みられ、心を注いでくださり、憐れみの御手を伸ばしてくださっています。私たちは、この神の憐れみに、信仰によって、積極的に応答していく者とならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

사천 명을 먹이시다

2023년 11월 5일 센겐다이교회 주일설교

마가복음 8장 1~9절

서론

유대인에게 있어서 이방인은 부정한 백성이었습니다. 예를들면 당시의 이방인들은 돼지고기를 맛있게 먹었습니다만 그러한 모습은 음식규정을 지키지 않는 죄 많은 자로서 유대인의 눈에는 비쳤습니다. 그런데 예수님의 일행은 지금, 이방인이 사는 땅을 돌면서 헬라인들이 많이 살고 있는 데가볼리지방을 통과하고 있습니다. 그리고 많은 무리가 에수님의 뒤를 쫓아왔습니다. 그것은, 아마도 저번주 살펴 본 「귀 먹고 말 더듬는 자」가 치유된 기적을 목격한 사람들이나 그 기적에 관계했던 친구들이 지역일대의 사람들에게 말하고 퍼뜨렸기 때문이라고 생각합니다. 많은 무리에 둘러싸여 주 예수님은 오늘 아침 읽은 말씀처럼 일곱 개의 떡과 물고기 두어마리로 사천 명의 무리를 배부리게 먹이시고 남은 것을 모으니 일곱 개의 광주리가 가득 차는 기적을 행하셨습니다. 이와 유사한 사건이 마가복음 6장 30절 이하에도 기록되어 있습니다. 다섯 개의 떡과 두 마리의 물고기로 오천 명의 사람들을 먹이시고, 남은 것은 모았더니 열 두 바구니에 가득 찬 기적입니다. 우리는 편하게 마가복음 6장에 적혀 있는 기적을 「오천 명을 먹이신 기적」 그리고 오늘 아침 마가복음 8장에 적혀 있는 기적을 「사천 명을 먹이신 기적」이라고 부르고자 합니다.

(1) 아직도 깨닫지 못한 제자들

오천 명을 먹이신 기적과 사천 명을 먹이신 기적의 내용이 너무 유사하기 때문에 어떤 신학자는 처음에는 하나의 이야기였으나 구전되면서 조금씩 변형되어 마침내 다른 기적인 것처럼 쓰여진 것은 아닌가라고 주장하고 있습니다. 그리고 제자들의 반응에 주목해보면, 오천 명을 먹이신 기적과 사천 명을 먹이신 기적에 있어서 똑같이 불복하는 것 같은 반응을 보이고 있는데 그 같은 제자들의 반응이야말로 원래 하나의 이야기였다는 증거라고 생각하는 것입니다. 8장 4절을 참조하십시오.

제자들이 대답하되 이 광야 어디서 떡을 얻어 이 사람들로 배부르게 할 수 있으리이까

이어서 오천 명을 먹이신 기적에 관한 구절을 찾아보겠습니다. 마가복음 6장 35~37절을 보시기 바랍니다.

35 때가 저물어가매 제자들이 예수께 나아와 여짜오되 이 곳은 빈 들이요 날도 저물어가니

36 무리를 보내어 두루 촌과 마을로 가서 무엇을 사 먹게 하옵소서

37 대답하여 이르시되 너희가 먹을 것을 주라 하시니 여짜오되 우리가 가서 이백 데나리온의 떡을 사다 먹이리이까

이렇게 오천 명을 먹이신 기적은 예수님과의 대화형식으로 되어 있고 자세히 적혀 있지만 적혀 있는 내용은 거의 같습니다. “만약 오천 명을 먹이신 기적과 사천 명을 먹이신 기적이 같은 일이 아니라 두 기적이 별개의 일이라면 제자들의 이런 반응은 과연 있을 수 있을까요?”라고 문제 삼는 것입니다. 얼마 전에 오천 명을 먹이신 기적에서 그런 센세이셔날 한 기적을 겪었음에도 제자들의 반응은 너무나 둔감하고 어리석다는 것입니다. 그런 바보 같은 얘기는 없을 거라는 것입니다. 그런데 성경은 두 사건이 각각 별개의 사건임을 분명히 보여줍니다. 8장 19~21절을 참조하시기 바랍니다. 예수님이 제자들에게 다음과 같이 질문하고 있습니다.

19 내가 떡 다섯 개를 오천 명에게 떼어 줄 대에 조각 몇 바구니를 거두었더냐 이르되 열둘이니이다

20 또 일곱 개를 사천 명에게 떼어 줄 때에 조각 몇 광주리를 거두었더냐 이르되 일곱이니이다

21 이르시되 아직도 깨닫지 못하느냐 하시니라

이 구절의 예수님과 제자들의 대화를 본다면 예수님도 제자들도 두 기적이 별개의 사건임을 인정하고 있음을 알 수 있습니다. 따라서 마가복음은 우리 눈에는 믿을 수 없을 정도로 완전히 어이없어 보이지만 그 정도로 제자들의 둔감함, 제자들의 어리석음, 제자들의 완강함이 강조되고 있는 셈이 됩니다. 반대로 말하면 하나님의 은혜가 없다면 우리는 결코 예수님을 올바르게 이해할 수 없다는 것이 될 것입니다. 제자들과 마찬가지로 우리도 종종 성경에 대해 하나님의 말씀에 대해 완강하고 불신앙이며 둔감한 태로를 취할 수 있을지도 모릅니다. 날마다 기도하면서 성령의 조명으로 우리 마음의 눈을 뜨게 하고, 또 우리 마음의 귀를 열어 주실 수 있도록 기도하는 자가 되게 합시다.

(2) 이방인도 불쌍히 여기는 메시아

1~3절을 보시기 바랍니다.

1 그 무렵에 또 큰 무리가 있어 먹을 것이 없는지라 예수께서 제자들을 불러 이르시되

2 내가 무리를 불쌍히 여기노라 그들이 나와 함께 있은 지 이미 사흘이 지났으나 먹을 것이 없도다

3 만일 내가 그들을 굶겨 집으로 보내면 길에서 기진하리라 그 중에는 멀리서 온 사람들도 있느니라

「그들이 나와 함께 있은 지 이미 사흘이 지났으나」라는 예수님의 말씀에 주목해 주세요. 사흘이라는 기간은 결코 짧은 시간이 아닙니다. 지난 사흘 동안 예수님은 무리와 무엇을 하고 계셨을까요? 그 일에 대해서 성경에는 구체적으로 적혀 있지 않지만 아마 이방인들에게도 하나님 나라의 복음을 말씀하신 것이 아닐까요? 왜냐하면 지난 주 우리가 본 「귀 먹고 말 더듬는 자가 치유된 기적」이란 하나님 나라의 도래가 이방인 지역에까지 알려지게 되었다는 것을 상징하기 때문입니다. 물론 데가볼리 지역에는 유대인도 살고 있었습니다. 따라서 「유대인에게도 이방인에게도 구분 없이」하나님 나라의 도래가 선포되고 전해지게 되었다는 뜻입니다. 그리고 「무리를 불쌍히 여기노라 (스플랑크니조마이) 」라는 예수님의 말씀에 주목하시기 바랍니다. 이 말씀은 화가 나도록 심하게 동요하여 안절부절 못한다는 뜻입니다. 예수님의 감정을 나타낼 때만 사용되는 중요한 말이며, 오천 명을 먹이신 기적의 때에도 같은 말이 사용되고 있습니다. 무리가 배고픈 것에 예수님은 안절부절 못하게 된 것입니다. 거기에는 유대인이든 이방인이든 상관 없습니다. 비록 이방인일지라도 예수님은 보살펴 주시고, 그 보살핌은 영적인 부분에 국한되지 않고 육적이 부분에도 즉 우리의 실생활 부분에도 미친다는 것입니다. 오천 명을 먹이신 기적 때와 다른 점은 오천 명을 먹이신 기적에서는 제자들 쪽에서 무리를 걱정해 그날 해질녘 해산시키자고 제안하지만 사천 명을 먹이신 기적의 때에는 사흘이 지났는데도 제자들은 여전히 무리의 공복 상황에는 무관심했다는 것입니다. 아마도 제자들은 이방인이 처한 곤경을 냉랭하게 바라보고 있었을 뿐이었을 것입니다. 유대인의 감각으로는 동포 이스라엘과 이방인을 한 줄에 나란히 놓을 때 아무래도 이런 편견이랄까 태도의 차이가 생기게 되는 것입니다. 사람들의 곤경 속에서 예수님 편에서 「내가 무리를 불쌍히 여기노라… 그들을 굶겨 집으로 보내면 길에서 기진하리라」라고 말문을 여셨습니다. 아마 그 공복감에 있어서 그 배고픔에 있어서 오천 명을 먹이셨을 때보다 이번이 더 심했을 것입니다. 일 인당 먹은 양을 생각한다면 이번 사천 명을 먹이신 기적이 압도적으로 많았을 것입니다. 예수님께서는 오천 명을 먹이신 기적의 때와 마찬가지로 이방인 무리에 대해서도 자신이 주인 없는 양처럼 고통받는 자들의 목자임을 보여주셨습니다. 5~8절을 보시기 바랍니다.

5 예수께서 물으시되 너희에게 떡 몇 개나 있느냐 이르되 일곱이로소이다 하거늘

6 예수께서 무리를 명하여 땅에 앉게 하시고 떡 일곱 개를 가지사 축사하시고 떼어 제자들에게 주어 나누어 주게 하시니 제자들이 무리에게 나누어 주더라

7 또 작은 생선 두어 마리가 있는지라 이에 축복하시고 명하사 이것도 나누어 주게 하시니

8 배불리 먹고 남은 조각 일곱 광주리를 거두었으며

자, 여기서 예수님은 사천 명을 먹이시는 기적을 행하고 계신데 도대체 기적이 어떻게 일어났는지 구체적으로 묘사되어 있지 않습니다. 그 일은 오천 명을 먹이신 기적의 때와 같아요. 「떡 일곱 개를 가지사 축사하시고 떼어 제자들에게 주어」라는 것은 당시 유대 사회에서 식전에 가장인 아버지가 하늘에 감사의 기도를 드렸던 관습일 뿐입니다. 앞으로 식사를 하기 위해 예수님이 대표로 기도하셨다는 것입니다. 그래서 도대체 기적이 어떻게 일어났는지 확실하지 않은 것입니다. 다만 기적이 일어났다는 단서로 제자들이 이 놀라운 기적을 실제로 목격하고 이 기적에 직접 참여했다는 것에 있습니다. 예수님으로부터 수없이 많은 양의 떡과 물고기가 직접 전달되었습니다. 그리고 실제로 기적이 일어났다는 것을 증명하듯 사람들이 배가 부르고 남은 조각을 모으자 일곱 광주리가 되었다는 것이 마지막에 덧붙여져 있습니다. 이 말씀을 통해 사람들의 극심한 배고픔이 채워지고 곤경에 처한 상황에서 기적적인 하나님의 보살핌이 주어졌음을 입증하는 것입니다.

8절의 「광주리(스푸리스)」라는 말은 오천 명을 먹이실 때 남은 것을 모은 바구니와는 다른 단어가 사용됩니다. 일본어 성경에는 같은 말로 번역이 되었지만 한국어 성경에는 제대로 번역되어 있습니다. 즉 무슨 말이냐면 오천 명을 먹이실 때는 작은 바구니(코피노스)같은 것을 뜻하는데 사천 명을 먹이실 때는 그 안에 사람이 들어갈 수도 있을 정도로 큰 「광주리(스푸리스) 」를 의미합니다. 사도행전 9장 25절에 이 「광주리(스푸리스)」가 나오니까 알아볼까요?

그의 제자들이 밤에 사울을 광주리에 담아 성벽에서 달아 내리니라

여기에 적혀 있듯이 사울 즉 바울은 제자들에 의해 다마스코 마을에서 구출될 때 바구니에 실려 구출되었다고 합니다. 그만큼 크다는 거죠. 오천 명을 먹이실 때와 사천 명을 먹이심에 있어서 언뜻 보면 「열두 바구니」 「일곱 광주리」라고 하니까 오천 명을 먹이실 때의 남은 조각이 더 많은 것 같지만 자세히 살펴보면 사천 명을 먹이실 때에 사람들이 얼마나 많은 식사를 했는지 알 수 있는 것이죠. 또 이 「열둘」「일곱」이라고 하는 숫자는 유대인에게 있어서 상징적인 숫자이기 때문에 예수님이 행하신 기적에 상징적인 의미가 포함되어 있다고 주장하는 신학자도 있습니다. 예를 들어 「열둘」이라는 숫자는 이스라엘 열두 부족을 상징하고 「일곱」이라는 숫자는 전 세계 민족을 나타내는 숫자라는 것, 혹은 초대 교회에서 헬라인 그리스도인을 섬기기 위해 세워진 일곱 집사를 상징한다는 생각입니다. 오천 명을 먹이셨다라는 것은 이스라엘을 먹여 살리는 기적이었고 사천 명을 먹이셨다는 것은 이방인을 먹여 살리는 기적이었다고 합니다. 그런 의미가 어쩌면 「열 둘」「일곱」이라는 숫자에 담겨 있는지도 모르지만 확실한 것은 알 수 없습니다. 어쨌든 이방인의 지역 데가볼리에서 이루어진 사천 명을 먹이신 기적을 통해 예수님께서는 유대인뿐만 아니라 이방인에 대해서도 폐부 깊은 곳에서 솟구쳐 오르는 연민과 긍휼의 뜨거운 마음을 가지시고 자신이 주인 없는 양들의 목자임을 보여주신 것입니다. 자신이 단순히 정신적인 면뿐만 아니라 육체적인 실생활에서도 먹이시는 메시아임을 보여 주셨습니다. 우리는 그것에 생각을 돌리고 싶습니다. 요한복음을 보면 오천 명을 먹이신 기적을 체험한 후 유대인들은 주 예수를 자신들의 왕으로 세우려고 했지만(요한복음 6장 15절) 사천 명을 먹이신 기적을 체험한 이방인들 사이에는 그런 움직임이 전혀 보이지 않았습니다. 그리고 지난주에 보셨듯이 귀 먹고 말 더듬는 사람이 치유된 기적 뒤에 「그가 모든 것을 잘하였도다」라고 증언한 것도 그렇지만, 하나님의 은혜와 연민에 대해서 믿음에 의한 응답을 하고 있는 이방인의 모습이 부각되고 있습니다. 하나님의 긍휼하심에 적극적으로 대답해 가는 것은 유대인이 아니라 오히려 이방인었다는 것이 마가복음 속에 암시되어 있는 것입니다. 더 말하면 「주 예수는 도대체 누구인가? 」라고 하는 마가복음의 일관된 중대한 주제에 대해 「이 분은 하나님의 아들이시다」라고 응답한 것을 제자들을 대표한 베드로가 아니라 이방인의 백부장이었다는 것도 예로 들 수 있을 것입니다.

결론

오늘 설교를 정리하겠습니다. 예수님께서는 지상에서의 일생 동안 자신의 사역을 이스라엘로 한정하셨지만 그럼에도 불구하고 사천 명을 먹이신 기적이 여기에 기록되어 있다는 것은 이방인이 우리에게 얼마나 큰 위로인가요. 본격적인 이방인 선교는 사도행전 안에서 이방인 사도로 부르심을 받은 바울에 의해 이루어지는데 이방인 전도가 본격적으로 시작되기 전에 예수님께서는 이방인에 대해서도 마찬가지로 긍휼의 마음을 보여주신 것입니다. 그리고 하나님께서는 오늘도 이방인인 우리를 돌아보시고 마음을 쏟아부시고 연민의 손길을 뻗치고 계십니다. 우리는 이 하나님의 긍휼하심에 믿음으로 적극적으로 응답해 가는 사람이 되도록 합시다

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