2023年10月08日「お前はテーベにまさっているのか 네가 어찌 노아몬보다 낫겠느냐」

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お前はテーベにまさっているのか 네가 어찌 노아몬보다 낫겠느냐

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ナホム書 3章1節~19節

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聖句のアイコン聖書の言葉

3:1災いだ、流血の町は。町のすべては偽りに覆われ、略奪に満ち/人を餌食にすることをやめない。
3:2鞭の音、車輪の響く音/突進する馬、跳び駆ける戦車。
3:3騎兵は突撃し/剣はきらめき、槍はひらめく。倒れる者はおびただしく/しかばねは山をなし、死体は数えきれない。人々は味方の死体につまずく。
3:4呪文を唱えるあでやかな遊女の/果てしない淫行のゆえに/彼女がその呪文によって諸民族を/淫行によって国々をとりこにしたゆえに
3:5見よ、わたしはお前に立ち向かうと/万軍の主は言われる。わたしは、お前の裾を顔の上まで上げ/諸国の民にお前の裸を/もろもろの王国にお前の恥を見せる。
3:6わたしは、お前に憎むべきものを投げつけ/お前を辱め、見せ物にする。
3:7お前を見る者は皆、お前から逃げて言う。「ニネベは破壊された/誰が彼女のために嘆くだろうか。」お前を慰める者はどこを探してもいない。
3:8お前はテーベにまさっているか。ナイルのほとりに座し、水に囲まれ/海を砦とし、水を城壁としていたあの町に。
3:9クシュはその力/エジプトには限りない力があり/プト人とリビア人もテーベを助けていた。
3:10彼女もまた捕らえられ/捕囚として連れ去られた。乳飲み子すら、すべての街角で投げ捨てられ/貴族たちはくじで分けられ/大いなる者も皆、鎖につながれた。
3:11お前もまた、酔いつぶれて我を失う。お前もまた、敵を避けて逃げ場を求める。
3:12お前の要塞はどれも/初なりの実をつけたいちじくの木だ。揺さぶれば、実が食べる者の口に落ちる。
3:13見よ、お前のうちにいる兵士は/敵にとって女のようだ。お前の国の門は広く開かれ/かんぬきは火で焼き尽くされる。
3:14籠城に備えて水をくみ、要塞を堅固にせよ。泥の中に入って、粘土を踏み/れんがの型を固く取れ。
3:15その所で、火はお前を焼き尽くし/剣はお前を断つ。火はいなごが食い尽くすように/お前を食い尽くす。いなごのようにお前は数を増せ。移住するいなごのように数を増せ。
3:16お前は空の星よりも商人の数を多くした。しかし、いなごは羽を広げて飛び去るのみ。
3:17お前を守る部隊は、移住するいなごのように/お前の将軍たちは、群がるいなごのように/寒い日には城壁の間に身をひそめ/日が昇ると飛び去り/どこへ行くのかだれも知らない。
3:18アッシリアの王よ/お前の牧者たちはまどろみ/貴族たちは眠りこける。お前の兵士たちは山々の上に散らされ/集める者はいない。
3:19お前の傷を和らげるものはなく/打たれた傷は重い。お前のうわさを聞く者は皆/お前に向かって手をたたく。お前の悪にだれもが/常に悩まされてきたからだ。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ナホム書 3章1節~19節

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【序】

ニネベの町の不当な残忍性に対し、神が必ず審判されるだろうという預言がナホム書であります。地上のどのような権力であれ、権力とは必ず腐敗をもたらすのが世の常であります。人は一度権力を持つと、すぐにそれを乱用するようになるものです。権力を持ち、高慢になり、自分が神であるかのように振る舞い、罪人が本当に帰るべき神様を失ってしまった悲惨な末路が、ニネベへの託宣としてナホム書に描かれています。前回と同じように裁きの内容が続き、少し心が重たいかもしれませんが、本日も私たちはナホム書を通して恵みに与っていきたいと思います。

【1】. ニネベの罪

1~3節には、アッシリアの首都ニネベがどのように神に敵対したのかが書かれています。ご覧ください。

“災いだ、流血の町は。町のすべては偽りに覆われ、略奪に満ち/人を餌食にすることをやめない。鞭の音、車輪の響く音/突進する馬、跳び駆ける戦車。騎兵は突撃し/剣はきらめき、槍はひらめく。倒れる者はおびただしく/しかばねは山をなし、死体は数えきれない。人々は味方の死体につまずく。”

ニネベはまさに簡単に人の血を流してしまう、流血の町でありました。2~3節は、そのニネベの残虐さがスタッカートを利かせてテンポ良く書かれています。「鞭の音、車輪の響く音、突進する馬、跳び駆ける戦車、騎兵は突撃し、剣はきらめき、槍はひらめき」、「倒れる者はおびただしく、しかばねは山をなし、その数は数え切れず、人々はその死体につまずくほど」でありました。このように、アッシリアは情けをかけず、圧倒的な戦力にものを言わせて、敵を完膚なきまでに滅ぼしたのです。その残忍性は悪魔的でありました。一部の注解書は、2節と3節はニネベの町が破壊される様子として解釈されていますが、私たちは、この箇所をアッシリアが周辺諸国をどのように残忍に征服したのか、そのことについて書かれているものと読んでいます。続いて4節からは、ニネベの町があでやかな遊女にたとえられています。遊女とたとえるのは、ニネベが守護神アッシュールや、戦争の女神イシュタルを率先して拝み、そして征服した人々にもそれらに仕えるよう誘惑したからです。因みにヘブライ語やギリシア語では、都市が女性名詞にあたりますので、代名詞になると「彼女は」という表現になります。偶像の神々に仕えるよう、誘惑するニネベに対し、神様の特別な憤りを見て取ることが出来ます。4~7節をご覧ください。

“呪文を唱えるあでやかな遊女の/果てしない淫行のゆえに/彼女がその呪文によって諸民族を/淫行によって国々をとりこにしたゆえに 見よ、わたしはお前に立ち向かうと/万軍の主は言われる。わたしは、お前の裾を顔の上まで上げ/諸国の民にお前の裸を/もろもろの王国にお前の恥を見せる。わたしは、お前に憎むべきものを投げつけ/お前を辱め、見せ物にする。お前を見る者は皆、お前から逃げて言う。「ニネベは破壊された/誰が彼女のために嘆くだろうか。」お前を慰める者はどこを探してもいない。”

5節に注目すべき言葉が出て来ます。「見よ、わたしはお前に立ち向かうと万軍の主は言われる」です。実はこの言葉は2:14にも出て来ました。あでやか美しい都ニネベは、偶像を拝むために、完全に主ヤハウェに敵対しているのです。主なる神は、偶像に仕えるよう誘惑する遊女ニネベに、恥を与えると言っています。それはスカートの裾を顔の上までめくり上げ、お前の裸を晒すというのです。さらには、憎むべきもの、つまり「汚物」を投げつけ、お前を辱め、見せ物にすると言います。旧約聖書の中には、神様の審判とは、「恥を受けること」として、よく描写されていますが、イエス様も私たちの罪の代わりに十字架にかけられ罰せられる際に、裸で、見せ物にされ、恥をお受けになりました。このように神の審判を受けるということと、恥を受けること、この二つには密接な関係があります。それとは逆に、神の救いとは、誇りを回復してくださることと密接な関係があります。今、もし、キリスト者がこの世において辱められているなら、後に必ず主なる神によって私たちキリスト者の誇りが回復されるということに、私たちは目を留めつつ、希望を持って待ち望みたいと思います。

【2】. お前はテーベにまさっているか

3:8節以降は、既にアッシリア帝国によって滅ぼされたはずの上エジプトのテーベと、アッシリアが比較されています。テーベとは、「ノ(都)・アモン」とも呼ばれています。「ノ」が都という意味ですので、ノ・アモンとは、「アモンの都(つまり太陽神アモンの都)」という意味です。このテーベ或いはノ・アモンは、長らくエジプトの首都であり、上エジプトのナイル川沿いに位置していました。現在この場所に、ルクソール神殿やカルナック神殿の遺跡が発見され、エジプトの観光名所となっています。続いて8~10節をご覧ください。

“お前はテーベにまさっているか。ナイルのほとりに座し、水に囲まれ/海を砦とし、水を城壁としていたあの町に。クシュはその力/エジプトには限りない力があり/プト人とリビア人もテーベを助けていた。彼女もまた捕らえられ/捕囚として連れ去られた。乳飲み子すら、すべての街角で投げ捨てられ/貴族たちはくじで分けられ/大いなる者も皆、鎖につながれた。”

「お前はテーベにまさっているか」という質問は、一見すると馬鹿げているように見えます。なぜなら、アッシリアは「その通りです」と答えることが出来るからです。アッシリア帝国がテーベを征服しました。しかし、預言者が語っているのは、アッシリア帝国とエジプト王国との相対的な力を比較して質問しているのではありません。そうではなく、「人間的な力は神の憤りの前には無に等しい」ということを告知しているのです。「いくら強大な人間の力であっても、神の憤りの前では、全く為す術もないということに気づかないのか」という事です。

恐らくテーベの都のその偉大さは、ナホムが生きていた当時、人々に伝説的なものとして受け入れられていたのではと思われます。テーベもニネベと同じように、堀と運河によって城壁を持ち、天然の地形が難攻不落の都市を形成していました。しかし、テーベの横を流れるナイル川は被造物の祝福の中で、最も大きな祝福として考えられていて、そのナイル川の上に、エジプトの信仰と安全の基礎を置いた都市がテーベでありました。クシュとはエチオピアのことで、当時のエジプトはこのクシュ人による王朝でした。西はリビアと、東はプトと、同盟関係を結んでいます。そのような偉大な都テーベでありますが、アッシリアの侵略によって乳飲み子は投げ捨てられ、貴族たちは物品のようにくじによって分配され、有力者も皆、鎖につながれて辱められながら連行されて行きました。それはアッシリアの決まったやり方であり、そして、そのやり方に対し、国々が憎悪感を抱いていたことも預言者は知っていたに違いありません。今や、神の前に低く遜らないなら、ニネベも全く同じように神の憤りによって辱められると預言者は警告しているのです。11~13節をご覧ください。

“お前もまた、酔いつぶれて我を失う。お前もまた、敵を避けて逃げ場を求める。お前の要塞はどれも/初なりの実をつけたいちじくの木だ。揺さぶれば、実が食べる者の口に落ちる。見よ、お前のうちにいる兵士は/敵にとって女のようだ。お前の国の門は広く開かれ/かんぬきは火で焼き尽くされる。”

イチジクの木をわっさわっさと揺さぶると、おいしい実が食べる者の口に落ちて来るように、バビロンとメディの連合軍がニネベに攻め上がる時、ニネベの人々も簡単に敵の手に落ちて行くと言います。ニネベの兵士は、心が折れて気弱になり、要塞のかんぬきは、火で焼き尽くされると言います。当時、栄華を極めていたニネベの人々にとっては、とても信じられないことでありましょう。預言者はさらにニネベを嘲るように続けます。14~17節をご覧ください。

“籠城に備えて水をくみ、要塞を堅固にせよ。泥の中に入って、粘土を踏み/れんがの型を固く取れ。その所で、火はお前を焼き尽くし/剣はお前を断つ。火はいなごが食い尽くすように/お前を食い尽くす。いなごのようにお前は数を増せ。移住するいなごのように数を増せ。お前は空の星よりも商人の数を多くした。しかし、いなごは羽を広げて飛び去るのみ。お前を守る部隊は、移住するいなごのように/お前の将軍たちは、群がるいなごのように/寒い日には城壁の間に身をひそめ/日が昇ると飛び去り/どこへ行くのかだれも知らない。”

ニネベがいくら籠城に備えて水を蓄えても、いくられんがを作って要塞を堅固にしても、結局は食い尽くす火によって、無駄な努力に終わります。それはまるで、イナゴの被害に遭った後のように、すべてが食い尽くされてしまうのです。それと同時に、イナゴの強欲さや、イナゴの四方に飛び去って消える、そのはかなさ、その軽さを、アッシリアの商人と、アッシリアを守る部隊と、アッシリアの将軍にたとえています。あの重厚に見えたアッシリアの軍隊は、イナゴのように飛び去って行く、薄っぺらなものに過ぎないと言うのです。最後に18~19節をご覧ください。

“アッシリアの王よ/お前の牧者たちはまどろみ/貴族たちは眠りこける。お前の兵士たちは山々の上に散らされ/集める者はいない。お前の傷を和らげるものはなく/打たれた傷は重い。お前のうわさを聞く者は皆/お前に向かって手をたたく。お前の悪にだれもが/常に悩まされてきたからだ。”

18節の牧者たちとは、アッシリアの指揮官のことを指しています。要するに、指揮官たちや貴族たちは怠惰になり、敵の攻撃の前に何の役にも立たないだろうと言っているのです。ニネベに再び人が集められることはなく、町は回復されることもありません。実際、現在に至るまで、バグダッドの北部にあるニネベの跡地は、荒地のままであり、歴史がそのことを証明しています。興味深いことは、19節において、預言者はアッシリアの滅びとその傷の深さ、その悲惨さに対し、少しも同情していないという点です。例えば、ヨナ書の場合は、最後にニネベの人々が悔い改めて、「神が大いなる都、ニネベを惜しまずにいられるだろうか。」とニネベの人々に寄り添った語り方がなされています。聖書は、私たちに悲しむ者と共に共に悲しみ、共に苦しむことを勧めていますが、ここでは、一切それが見られません。むしろ、ニネベの滅亡を人々が手をたたいて喜んでいると伝えているのです。

これは一体どうことでしょうか。アッシリアの滅亡とは、言ってみれば、最後の審判の予表に他ならないということを示しているのだと思います。そして、万軍の主の熱情のゆえに、契約を誠実に果たされる、主の熱情のゆえに、この出来事が必ず起こらなければならないことを、私たちに伝えているのだと思います。歴史には初めがあり、終わりがあります。歴史とは決して円を循環するように、時間が永遠に巡り巡るものではありません。春夏秋冬が永遠に続くのではありません。歴史は直線のように、その最初と最後があり、最初とは神によって時間が創造された時、最後とは天地が滅びる日、「終末」でございます。「主が再臨される日」とも言います。従いまして、歴史とは、そのプロセスの中に、終末に向かって前進していくという、神の目的、神の意図が込められているのです。それは同時に、神の国の完成に向かっていく神の目的、神の意図でもあります。今朝、私たちはアッシリアの滅亡を通して、それは最後の審判を予表し、歴史には終わりがあるということを学びました。その日は、怒るのに遅い神様が、ついに罪と悪に対し審判を下される日であり、罪と悪の支配によって悩まされていた者たちが、完全に開放される時なのです。その時、神に依り頼む者たちは、手をたたいて、神を喜び、神の栄光を褒め称えるのです。

【結論】

「お前はテーベにまさっているか」という質問は、今日に生きる私たちにも、同じく語り掛けられています。私たちは自らの罪を告白し、主に立ち返らなければなりません。人間の力に依り頼み、自分たちの繁栄と、富と、武力を誇示しても、そのようなものは終わりの日の、神の憤りの前には無に等しいのであります。私たちは主なる神様を避けどころとし、神様の保護に依り頼み、決して人間的な野望を抱くのではなく、神様によって許されているそれぞれの持ち分に満足しながら、御言葉に従順する歩みを重ねてまいりましょう。日々の営みの中で、ただ私たちは、主の憐れみに力づけられ、サタンと悪の力の攻撃を防御し、そしてついに、信仰の戦いを終えた後、イエス様が私たちのために天に備えていてくださっている幸いな安息に入れられる日が来ることに信じつつ、日々の営みを重ねてまいりたいと願う者であります。

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네가 어찌 노아몬보다 낫겠느냐

2023년 10월 8일 센겐다이 교회 주일설교

나훔 3장 1~19절

서론

니느웨 성읍의 부당한 잔인성에 대해 하나님께서 반드시 심판 하실 것이라는 예언이 나훔서 입니다. 지상의 어떤 권련이든 권력이라는 것은 반드시 부패를 초래하기 마련입니다. 사람은 한번 권력을 가지면 바로 그것을 남용하게 되는 법입니다. 권력을 갖고 도도해지고 자신이 신인 것처럼 행동하며 죄인이 진정 돌아가야 할 하나님을 잃어버리고 마는 비참한 말로가 니느웨에 대한 신탁으로 나훔서에 묘사되어 있습니다. 지난번과 마찬가지로 심판의 내용이 계속 이어져 조금 마음이 무거울 수도 있지만 오늘도 우리는 나훔서를 통해 은혜를 받고 싶다고 생각합니다.

(1) 니느웨의 죄

1~3절에는 앗수르의 수도 니느웨가 어떻게 하나님에게 대적했는지가 적혀 있습니다. 보시기 바랍니다.

1 화 있을지저 피의 성이요 그 안에는 거짓이 가득하고 포악이 가득하며 탈취가 떠나지 아니하는도다

2 휙휙 하는 채찍 소리, 윙윙 하는 병거 바퀴 소리, 뛰는 말, 달리는 병거,

3 충돌하는 기병, 번쩍이는 칼, 번개 같은 창, 죽임 당한 자의 떼, 주검의 큰 무더기, 무수한 시체여 사람이 그 시체에 걸려 넘어지니

니느웨는 그야말로 아무렇지도 않게 사람의 피를 흘려 버리는 유혈의 성읍이었습니다. 2,3절은 그 니느웨의 잔학함이 스타카토를 살려 템포 좋게 쓰여져 있습니다. 「채찍 소리 병거 바퀴 소리, 뛰는 말, 달리는 병거, 충돌하는 기병, 번쩍이는 칼, 번개 같은 창」, 「죽임 당한 자의 떼, 주검의 큰 무더기, 무수한 시체여 사람이 그 시체에 걸려 넘어지니」의 정도였습니다. 이처럼 앗수르는 자비없는 압도적인 전력으로 적을 철저히 멸망시킨 것입니다. 그 잔인성은 악마적이었습니다. 일부 주해서는 2,3절은 니느웨 성읍이 파멸되는 모습으로 해석하고 있는데 우리들은 이 구절을 아시리아가 주변 국가들을 어떻게 잔인하게 정복했는지에 대해 쓰고 있는 것으로 읽고 있습니다. 계속해서 4절부터는 니느웨 마을이 화려한 유녀에 비유되고 있습니다. 유녀라고 비유하는 것은 니느웨가 수호신 아슈르와 전쟁의 여신 이슈타르를 솔선해서 숭배하고 정복한 사람들에게도 이를 섬기도록 유혹했기 때문입니다. 덧붙여서 히브리어나 그리스어에서는 도시가 여성 명사에 해당하기 때문에 대명사가 되면 「그녀는」이라는 표현이 됩니다. 우상의 신들을 섬기도록 유혹하는 니느웨에 대한 하나님의 특별한 진노를 알아차릴 수 있습니다. 4~7절을 보시기 바랍니다.

4 이는 마술에 능숙한 미모의 음녀가 많은 음행을 함이라 그가 그의 음행으로 여러 나라를 미혹하고 그의 마술로 여러 족속을 미혹하느니라

5 보라 내가 네게 말하노니 만군의 여호와의 말씀에 네 치마를 걷어 올려 네 얼굴에 이르게 하고 네 벌거벗은 것을 나라들에게 보이며 부끄러운 곳을 뭇 민족에게 보일 것이요

6 내가 또 가증하고 더러운 것들을 네 위에 던져 능욕하여 너를 구경 거리가 되게 하리니

7 그 때에 너를 보는 자가 다 네게서 도망하며 이르기를 니느웨가 황쳬하였도다 누가 그것을 위하여 애곡하며 내가 어디서 너를 위로할 자를 구하리요 하리라

5절에 주목할 만한 말이 나옵니다. 「만군의 여호와의 말씀에 … 네 벌거벗은 것을 나라들에게 보이며 부끄러운 곳을 뭇 민족에게 보일 것이요」라는 말입니다. 사실 이 말은 표현은 다를지라도 2장 13절(만군의 여호와의 말씀에 내가 네 대적이 되어 네 병거들을 불살라 연기가 되게하고..)에도 나왔습니다. 밝고 아름다운 도시 니느웨는 우상을 섬기히 위해 완전히 주 야훼에게 대적하고 있는 것입니다. 주 하나님은 우상을 섬기도록 사람을 유혹하는 니느웨에게 수치심을 주신다고 합니다. 그것은 치마를 얼굴 위까지 걷어올려 네 벌거벗은 것을 드러낸다는 것입니다. 심지어 가증하고 더러운 것들, 즉 「오물」을 던저 능욕하고 구경거리로 만들겠다고 하십니다. 구약성경 속에는 하나님의 심판이란 「부끄러움을 받는 것」으로 자주 묘사되어 있는데 예수님께서 우리의 죄를 대신 지고 십자가에 못 박혀 형벌을 받으실때 벌거벗은 채 구경거리가 되고 망신을 당하셨습니다. 이렇게 하나님의 심판을 받는다는 것과 부끄러움을 받는 것, 이 둘 사이에는 밀접한 관계가 있습니다. 그와는 반대로 하나님의 구원이란 긍지를 회복시켜 주시는 것과 밀접한 관계가 있습니다. 지금 만약 그리스도인이 이 세상에서 욕을 당하고 있다면 나중에 반드시 주님에 의해 우리 그리스도인의 긍지가 회복될 것이라는 것에 기억하고 희망을 가지고 기다리고 싶습니다.

(2) 네가 어찌 노아몬보다 낫겠느냐

3장 8절 이후에는 이미 앗수르 제국에 의해 멸망당했을 상이집트의 테베와 앗수르가 비교되고 있습니다. 테베란 「노(都)아몬」이라고도 불립니다. 「노(都)」가 도읍지라는 뜻이기 때문에 노아몬은 「아몬의 도읍지(즉 태양신 아몬의 도읍지」라는 뜻입니다. 이 테베 혹은 노아몬은 오랫동안 이집트의 수도이자 상 이집트 나일 강변에 위치해 있었습니다. 현재 이곳은 룩소르 신전과 카르낙 신전 유적이 발견되어 이집트의 관광명소가 되고 있습니다. 이어서 8~10절을 보시기 바랍니다.

8 네가 어찌 노아몬보다 낫겠느냐 그는 강들 사이에 있으므로 물이 둘렸으니 바다가 성루가 되었고 바다가 방어벽이 되었으며

9 구스와 애굽은 그의 힘이 강하여 끝이 없었고 붓과 루빔이 그를 돕는 자가 되었으나

10 그가 포로가 되어 사로잡혀 갔고 그의 어린 아이들은 길 모퉁이 모퉁이에 메어침을 당하여 부서졌으며 그의 존귀한 자들은 제비 뽑혀 나뉘었고 그의 모든 권세자들은 사슬에 결박되었나니

「네가 어찌 노아몬보다 낫겠느냐」라는 질문은 언뜻 보기에 터무니없어 보입니다. 왜냐하면 앗수르 입장에서는 “맞습니”다라고 대답할 수 있기 때문입니다. 앗수르 제국이 노아몬(테베)를 정복했습니다. 그러나 선지자가 말하고 있는 것은 앗수르 제국과 이집트 왕국의 상대적인 힘을 비교하여 질문하는 것이 아닙니다. 그게 아니라 「인간적인 힘은 하나님의 진노 앞에서는 아무 힘도 없다」라는 것을 고지하고 있는 것입니다. 아무리 막강한 인간의 힘이라도 하나님의 진노 앞에서는 아무것도 전혀 할 수 없다는 것을 깨닫지 못하는가 하는 것입니다.

아마도 테베 수도의 그 위대함은 나훔이 살아있을 당시 사람들에게 전설적인 것으로 받아들여지지 않았을까 생각됩니다. 테베도 니느웨와 마찬가지로 해자(동물이나 외부인, 특히 외적으로부터의 침입을 방어하기 위해 고대부터 근세에 이르기까지 성의 주위를 파 경계로 삼은 구덩이)와 운하로 성벽을 이뤄 천연 지형이 난공불락의 도시를 형성했습니다. 그래서 테베 옆을 흐르는 나일강은 피조물의 축복 가운데 가장 큰 축복으로 여겨졌고, 그 나일강 위에 이집트 신앙과 안전의 기초를 둔 도시가 테베였습니다. 구스란 에티오피아를 말하며, 당시 이집트는 이 구스인에 의한 왕조였습니다. 서쪽으로는 리비아와 동쪽으로는 붓과 동맹관계를 맺고 있었습니다. 그런 위대한 도읍지이지만 앗수르의 침략으로 어린 아이들은 메어침을 당하여 부서졌고 존귀한 자들은 물품처럼 제비 뽑혀 나뉘었고 모든 권세자들은 사슬에 결박되어 망신을 당하며 끌려갔습니다. 그것은 앗수르의 정해진 방식이며 그 방식에 대해서 나라들이 증오감을 품고 있었다는 것을 선지자도 알고 있었을 것입니다. 이제 하나님 앞에 몸을 낮추지 않는다면 니느웨도 똑같이 하나님의 진노에 의해 부끄러움을 당할 것이라고 선지자는 경고하고 있는 것입니다. 11~13절을 보시기 바랍니다.

11 너도 술에 취하여 숨으리라 너도 원수들 때문에 피난처를 찾으리라

12 네 모든 산성은 무화과나무의 처음 익은 열매가 흔들기만 하면 먹는 자의 입에 떨어짐과 같으리라

13 네 가운데 장정들은 여인 같고 네 땅의 성문들은 네 원수 앞에 넓게 열리고 빗장들은 불에 타도다

무화과 나무를 흔들흔들 흔들기만 하면 익은 열매가 먹는 자의 입에 떨어지듯 바빌론과 메대 연합군이 니느웨로 쳐들어 올 때 니느웨 사람들도 쉽게 적의 손에 떨어진다고 말합니다. 니느웨 병사들은 마음이 꺽이고 여인 같고 성문들은 넓게 열리고 빗장들은 불에 탄다고 묘사되어 있습니다. 당시 영화를 누렸던 니느웨 사람들에게는 도저히 믿을 수 없는 일이겠지요. 예언자는 더욱 니느웨를 비웃듯이 계속 말합니다. 14~17절을 보세요.

14 너는 물을 길어 에워싸일 것을 대비하며 너의 산성들을 견고하게 하며 진흙에 들어가서 흙을 밟아 벽돌 가마를 수리하라

15 거기서 불이 너를 삼키며 칼이 너를 베기를 느치가 먹는 것 같이 하리라 네가 느치 같이 스스로 많게 할지어다 네가 메뚜기 같이 스스로 많게 할지어다

16 네가 네 상인을 하늘의 별보다 많게 하였으나 느치가 날개를 펴서 날아감과 같고

17 네 방백은 메뚜기 같고 너의 장수들은 큰 메뚜기 떼가 추운 날에는 울타리에 깃들였다가 해가 뜨면 날아감과 같으니 그 있는 곳을 알 수 없도다

니느웨가 아무리 성안에서 적을 막으려고 물을 비축하며 대비해도, 아무리 벽돌을 만들어 요새를 튼튼히 해도 결국은 불에 의해 삼켜져 헛된 노력으로 끝납니다. 그것은 마치 메뚜기의 피해를 입은 후처럼 모든 것이 먹혀 치움을 당하는 것입니다. 그와 동시에 메뚜기의 탐욕과 메뚜기가 휙 재빠르게 날아가 사라져 버리는 것과 같은 그 덧없음, 그 가벼움을 앗수르 상인과 앗수르를 지키는 부대와 앗수르 장군에 비유하고 있습니다. 그 막강해 보였던 앗수르 군대는 메뚜기처럼 날아가 사라져 버리는 하찮은 것에 불과하다는 것입니다. 마지막으로 18,19절을 보시겠습니다.

18 앗수르 왕이여 네 목자가 지고 네 귀족은 누워 쉬며 네 백성은 산들에 흩어지나 그들을 모을 사람이 없도다

19 네 상처는 고칠 수 없고 네 부상은 중하도다 네 소식을 듣는 자가 다 너를 보고 손뼉을 치나니 이는 그들이 항상 네게 행패를 당하였음이 아니더냐 하시니라

18절의 목자는 앗수르의 지휘관을 말합니다. 요컨대 지휘관들이나 귀족들은 나태해져 적의 공격 앞에 아무런 도움이 되지 않을 것이라고 말하고 있는 것입니다. 니느웨에 다시 사람이 모이는 일도 없고, 성읍은 회복되지도 않습니다. 실제로 현재에 이르기까지 바그다드 북부에 있는 니느웨의 터는 황무지로 남아 있어 역사가 그 사실을 증명하고 있습니다. 흥미로운 것은 19절에서 선지자가 앗수르의 멸망과 그 상처의 깊이, 그 비참함에 대해서 조금도 동정하지 않는다는 점입니다. 예를 들어 요나서의 경우는 마지막에 니느웨의 사람들의 회개를 종용하며 「하물며 이 큰 성읍 니느웨에는 좌우를 분변하지 못하는 자가 십이만여 명이요 가축도 많이 있나니 내가 어찌 아끼지 아니하겠느냐」라고 니느웨의 사람들에게 다가가는 말씀이 있었습니다. 성경은 우리에게 슬퍼하는 자와 함께 슬퍼하고 함께 고통을 나눌 것을 권하지만 여기서는 일절 그것을 볼 수 없습니다. 오히려 니느웨의 멸망을 사람들이 손뼉을 치며 기뻐한다고 전하고 있는 것입니다.

이것은 도대체 어떻게 된 일일까요? 앗수르의 멸망은 말하자면 최후의 심판의 예표나 다름없다는 것을 보여주는 것이라고 생각합니다. 그리고 만군의 주의 열정 때문에, 언약을 성실히 이행하시는 주님의 열정 때문에 이 일이 반드시 일어나야 함을 우리에게 전하고 있다고 생각합니다. 역사에는 시작이 있고 끝이 있습니다. 역사라는 것은 결코 원을 순환하듯이 시간이 영원히 도는 것이 아닙니다. 봄 여름 가을 겨울이 영원히 지속되는 것이 아닙니다. 역사는 직선처럼 그 처음과 끝이 있고 처음이란 하나님에 의해 시간이 창조되었을 때, 마지막이란 천지가 멸망하는 날 「종말」입니다. 「주가 재림하시는 날」이라고도 합니다. 따라서 역사란 그 과정 속에 종말을 향해 전진해 나가겠다는 하나님의 목적, 하나님의 의도가 담겨 있는 것입니다. 그것은 동시에 하나님 나라의 완성을 향해 가는 하나님의 목적, 하나님의 의도이기도 합니다. 오늘 아침 우리는 앗수르의 멸망을 통해 그것은 최후의 심판을 예견하고 역사에는 끝이 있다는 것을 배웠습니다. 그날은 진노하시기에 더딘 하나님이 마침내 죄와 악에 대해 심판을 내리는 날이며 죄와 악의 지배로 인해 괴로워하던 자들이 완전히 해방되는 날입니다. 그때 하나님을 의지하는 자들은 손뼉을 치고 하나님을 기뻐하며 하나님의 영광을 찬양하는 것입니다.

결론

「네가 어찌 노아몬보다 낫겠느냐」는 질문은 오늘 살아있는 우리들에게도 마찬가지입니다. 우리들은 스스로의 죄를 고백하고 주께 돌아가야 합니다. 인간의 힘에 의지해 자신들의 번영과 부와 무력을 과시해도 그런 것들은 끝날 하나님의 분노 앞에는 아무것도 아닙니다. 우리는 주님을 피할 곳으로 삼고 하나님의 보호에 의지하며 결코 인간적 야망을 품지 말고 하나님께서 허락하시는 각자의 몫에 만족하면서 말씀에 순종하는 걸음을 걸어갑시다. 하루 하루의 삶 가운데서 오직 우리는 주님의 긍휼하심에 힘입어 사탄과 악의 힘의 공격을 방어하고 마침내 믿음의 싸움을 마친 후 예수님께서 우리를 위해 하늘에 예비해주신 복된 안식에 들어갈 수 있는 날이 올 것을 믿으며 하루 하루의 믿음의 걸음을 계속해서 나아가고 싶다고 소원하는 자로 살아갑시다.

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