2023年09月17日「主は熱情の神 질투하시는 하나님」

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主は熱情の神 질투하시는 하나님

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ナホム書 1章1節~8節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:1ニネベについての託宣。エルコシュの人ナホムの幻を記した書。
1:2主は熱情の神、報復を行われる方。主は報復し、激しく怒られる。主は敵に報復し/仇に向かって怒りを抱かれる。
1:3主は忍耐強く、その力は大きい。主は決して罰せずにはおられない。その道はつむじ風と嵐の中にあり/雲は御足の塵である。
1:4主は海を叱って、乾かし/すべての川を干上がらせられる。バシャンとカルメルは衰え/レバノンの花はしおれる。
1:5山々は主の御前に震え/もろもろの丘は溶ける。大地は主の御前に滅びる/世界とそこに住むすべての者も。
1:6主の憤りの前に、誰が耐ええようか/誰が燃える御怒りに立ち向かいえようか。主の憤りが火のように注がれると/岩も御前に打ち砕かれる。
1:7主は恵み深く、苦しみの日には砦となり/主に身を寄せる者を御心に留められる。
1:8みなぎる洪水で逆らう者を滅ぼし/仇を闇に追いやられる。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ナホム書 1章1節~8節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

ナホム書はアッシリア帝国の首都ニネベに対する預言であり、間もなくニネベが滅亡するという神の託宣です。ニネベという都は、イラクの北方に位置し、現在のモスルの近くにありました。当時アッシリア帝国と言えば、中近東の獅子(ライオン)として、誰もが恐れる強大な国家でありましたから、まさかニネベが滅びるとは、誰も予想することは出来ませんでした。当時のアッシリアの統治の仕方は、征服した町を徹底的に破壊し、見せしめとして残虐な殺戮を行い、そして居住民を他の場所へ強制移住させるという、典型的な武断統治がなされていました。この無断統治を前に、北イスラエルも既にアッシリアによって滅ぼされ、イスラエルの10部族は歴史からその姿を消されていました。アッシュールバニパルが王になると、更に力を増し、破竹の勢いによって、BC.663年、上エジプトのテーベ(ノ・アモン)を陥落させます。ところが、BC.627にアッシュールバニパルが死ぬと、その後わずか15年後のBC.612年に、ニネベは、メディア・バビロニア連盟によって陥落させられてしまいます。抜粋のプリントに表がありますから参考にしてください。このようにしてナホムの預言が見事に的中するのです。泣く子も黙るアッシリアに、一体何が起こったのでしょうか。ナホム書の預言とは一次的にはアッシリアに対する警告でありますが、同時に、当時のアッシリアとは、悪の象徴として描かれていて、アッシリアがついに主に滅ぼされることにより、罪と悪を決して罰せずにはおられない、神の公義が語られているのです。

【1】. 主は熱情の神

預言者ナホムの活動期間は、上エジプトのテーベが陥落したBC.663年から、ニネベが陥落させられるBC.612年の間と考えられています。1節を見ますとナホムは、エルコシュの出身であると書かれていますが、このエルコシュという場所がどこにあるのか、正確には分かっていません。二つの説を挙げてみますと、一つの説は、ベート・ジブリーンという町で、今日のエルサレム南西に位置します。伝承によると、そこがエルコシュだと信じられており、預言者ミカの出身地でもありました。もう一つの説は、ガリラヤのカファルナウムです。カファルナウムとは、「ナホムの村」という意味ですが、ナホムとは、「慰め」、「慰める者」という意味です。ですから、ナホムという名前が入っている「慰めの村」カファルナウムこそ、ナホムの出身地ではないかと推測されています。しかし、はっきりしたことは分かっていません。「慰める者」が書いた、このナホム書ですが、慰めとはおよそ正反対の、報復と裁きについて語り始められます。本日聖書箇所である1:2~3節途中までご覧ください。

主は熱情の神、報復を行われる方。主は報復し、激しく怒られる。主は敵に報復し/仇に向かって怒りを抱かれる。主は忍耐強く、その力は大きい。主は決して罰せずにはおられない。

ここで強調されている言葉は、三度出て来る「報復」という言葉であります。ヘブライ語の語順を見れば、更にはっきりと分かりますが、主が激しい怒りと共に「報復者、復讐する者」であることが紹介されています。従って、このナホム書は、冒頭から、読む者に大変重苦しい雰囲気を伝えるのです。確かにアッシリア帝国は、周辺諸国から非常に恐れられていた国であり、その民は野蛮で残虐非道でした。この国が亡びることになった時、人々は皆、喜びました。しかし、神様は罪を赦される神ではなかったのでしょうか。愛に満ち溢れた神ではなかったのでしょうか。主は、ニネベをなぜ、報復されるのでしょうか、その理由として挙げることができるのは、2節の冒頭の「主は熱情の神」という言葉です。新しい翻訳では、「主は妬む神」と翻訳されています。「主は妬む神」。実は、この表現は旧約聖書に何度も出て来まして、神ご自身の契約に対する信実さを表す言葉でございます。二か所参考までに取り上げてみましょう。出エジプト記34:14、申命記6:15をご覧ください。抜粋のプリントをご覧ください。

出エジプト記34:14

あなたはほかの神を拝んではならない。主はその名を熱情といい、熱情の神である。

申命記6:15

あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、地の面から滅ぼされないようにしなさい。

このように見てまいりますと、報復の理由、神が復讐されるその理由とは、神と契約関係にある、神の民イスラエルを妬むほど、熱情的に愛しているが故に、イスラエルの敵に火のような怒りをもって報復されるということになります。誓いによって神とイスラエルが、契約関係にあるのです。それでは「神と契約関係にある」とは、一体どういう意味でしょうか。ひと言でいえば、イスラエルが「選びの民」であるということですが、この「選民思想」という考え方は、少し誤解を招いてしまう恐れがありますので、違う表現で説明したいと思います。神と契約関係にあるという事は、神様がご自身の主権を持って、ご自身の民を贖ってくださるという事です。主が贖われるご自身の民とは、信仰の民です。この信仰の民は、当時のアッシリアと全く変わらない罪人ではありますが、その罪を取り除いてくださり、神の贖いの御業を通して、神の国に招いてくださっているという事です。ですから、信仰に生きる神の民は、アッシリアの中にもいますし、その反対に、イスラエルの中にも神の贖いの御業を拒絶し、敵対する不信仰な権勢は存在する訳です。表面的な人種によって契約の民と、悪を象徴するアッシリアが、区別されているのではありません。信仰の民こそが神ご自身の民であり、神の贖いの御業を拒絶し、敵対する権勢がアッシリアなのです。主は、この敵対する権勢に対して「妬む神」として、燃える怒りと共に立ち向かわれるのです。

1:3節には、「主は忍耐強い」という言葉があります。直訳すると「怒るのに遅い」という意味です。実はこの言葉も、主のご性質を表す時によく用いられる言葉です。まず私たちが思い出したいことは、ナホムの時代から100年遡った過去において、神様は既に、ニネベに預言者を送られていたという事実です。預言者ヨナをニネベに送り、罪深いニネベの民に対し、神の裁きを警告しました。すると、人々はヨナの言葉に耳を傾け、悔い改めに導かれたのです。先ほど、アッシリアの中にも信仰に生きる民がいると申しましたが、まさに、1世紀前のニネベの民は、悔い改めて神を信じ、救いが与えられたのでありました。今回も同じようにナホムを通して、裁きの警告が与えられているのですが、今回は、ナホムの警告に耳を傾けず、最終的にメディア・バビロニア連盟を通して、神の裁きが実現されます。このナホムの警告は、もちろん当時のアッシリアだけに語られているのではありません。終末の審判を予表するものとして、現代の私たちにも同じように語られているのです。ですから私たちは、ナホム書を読む時に、アッシリアとは、あくまで悪の象徴であり、終末において、罪と悪を裁く、その警告として読むべきであります。神は、罪人を機械的に裁く訳ではありませんが、つまり、怒るのに遅い方であり、悔い改めるのを忍耐強く待っておられますが、いつか必ず、最後の審判の日がやって来ます。神は決して、罪をそのまま見過すのではなく、罰せずにはおられない義なるお方だからです。

【2】. 混沌を支配し、被造物を統治される主

続いて3節の後半から5節までご覧ください。ここでは、被造物を統治されている主の主権について書かれています。

その道はつむじ風と嵐の中にあり/雲は御足の塵である。主は海を叱って、乾かし/すべての川を干上がらせられる。バシャンとカルメルは衰え/レバノンの花はしおれる。山々は主の御前に震え/もろもろの丘は溶ける。大地は主の御前に滅びる/世界とそこに住むすべての者も。

嵐と雲、海と川、これらは、いずれも混沌を象徴するものであり、人々に大変恐れられていました。少し余談になりますが、バビロンの人々にとっても「混沌」は神として、大変恐れられていました。バビロンの人々の信仰によれば、この混沌の中からバアル神が生まれ、そして、このバアルによって大地に命が注ぎ込まれると信じられていました。時々、聖書学者の中に、バビロニアの創造神話(神統記)と、聖書が、類似しており、聖書はバビロニアの創造神話から多大な影響を受けているのではないかと主張する人がいます。確かにバビロンの人々のイメージや表現を借りて、所々に聖書に取り入れられたのは事実かもしれませんが、その思想は全く異なるものです。旧約聖書では、神は混沌の中から生まれるのではなく、混沌が存在する以前に、既におられたと主張するからです。創世記1:1~5aの御言葉をご覧下さい。

初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。

このように、旧約聖書において混沌が存在する以前に、神様が既におられたことが語られています。そして、混沌を象徴する海、水、川、嵐、これらはバアルの威厳の表すのではなく、これらを完全に支配することにより、全被造物は、主なる神によって無から創造され、主によって支えられていることが主張されているのです。主は混沌を支配し、そして光が闇から区別されているように、常に混沌に敵対し、混沌を区別する姿として描かれています。4節を見ますと、「主は海を叱って、乾かし」という言葉が出て来ますが、これは出エジプトの際、葦の海を渡って来たイスラエルを思い起こさせます。神は、恐ろしい海から、乾いた地を現れさせ、エジプトのファラオの軍隊の追撃からイスラエルを守ってくだり、救い出してくださいました。あの出来事には、大変象徴的な意味が含まれていると思います。混沌から乾いた地を起こし、混沌を完全に支配する主の姿であります。新約聖書でも同じように、海に対する主の主権が描かれています。例えば、マルコによる福音書には、イエス様がガリラヤの海に対し、嵐が静まるようにお命じになったり、或いは海の上を歩いて来られた出来事が書かれていました。このように聖書の中で、主なる神は、混沌を象徴する海を、完全に支配しておられる方として表されているのです。

4節後半には、「バシャン、カルメル」という言葉が出てまいります。当時、バシャンとカルメルは大変肥沃な土地でありました。この豊かな土地も、主がお怒りになると荒れた地と化してしまいます。このように主なる神は、ご自身の被造世界に対し、絶対的な主権を持っておられることが分かります。

5節の「もろもろの丘は溶ける。大地は主の御前に滅びる」という言葉は、終末における火による裁きを、私たちに思い起こさせます。その日、怒るのに遅い神の審判が、ついに完全に下されるのですが、審判と同時に、その日は、神の贖いが完成する日でもあります。その日、死もなく、悲しみも、嘆きも、痛みもない新しい天と新しい地が、神のもとから下ってくるのです。2ペトロ3:11~13をご覧ください。

このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。

ペトロの手紙には、終末の裁きの様子と、神の贖いの完成について語られています。その日、主を信じない者たちにとっては、永遠の滅びに入れられる、恐ろしい審判の日であります。ナホム書も、裁きの警告を通して、主の恵みを信じるようにと、招きを与えているのです。最後に6節~8節をご覧ください。

主の憤りの前に、誰が耐ええようか/誰が燃える御怒りに立ち向かいえようか。主の憤りが火のように注がれると/岩も御前に打ち砕かれる。主は恵み深く、苦しみの日には砦となり/主に身を寄せる者を御心に留められる。みなぎる洪水で逆らう者を滅ぼし/仇を闇に追いやられる。

神様は罪を憎まれるお方です。主が忍耐されている今この時に、悔い改めイエス・キリストの十字架の贖いを通して、罪を赦していただかなければなりません。神の御前に立つことができるように汚れと腐敗を洗い清めていただかなければなりません。7節に「主は恵み深く」という言葉がありますが、この恵み深いという言葉は、ヘブライ語で「トーブ」という言葉です。つまり「主は良い方、慈しみ深い方」という意味です。良いお方、慈しみ深いお方である主イエスを信じ、この方に依り頼むなら、主は、まさに私たちの苦しみの日の砦となり、主に身を寄せる者たちを御心に留め、顧みてくださるのです。

【結論】

神は罪を裁き、ご自身の民、即ちイエス・キリストの中にいる者たちの救いを完成させようとなされます。この神の契約に対する熱情こそが、信仰の民イスラエルにとって、絶大な慰めとして迫って来たに違いありません。さらに、混沌さえ支配する神の絶対的な主権は、信仰の民イスラエルに、「主こそ神、主の他に神はいない」という、その告白に導いてくださったことでしょう。やがての日に、主の長い忍耐が終わり、主イエスを信じない罪を審判するために、イエス様が再臨されます。その日は、主を信じない者たちにとっては、永遠の滅びに入れられる、恐ろしい審判の日でありますが、同時に、主に依り頼む者たちとっては、神の贖いが完成する究極の希望の日であります。この約束を必ず成就される熱情の神に、私たちは身を寄せて、信仰の営みを重ねてまいりましょう。

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질투하시는 하나님

2023년 9월 17일 센겐다이교회 주일설교

나훔 1장 1~8절

서론

나훔서는 앗수르 제국의 수도 니느웨에 대한 예언으로 곧 니느웨가 멸망할 것이라는 하나님의 신탁입니다. 니느웨라는 도시는 이라크 북쪽에 위치하고 있으며 현재의 모술 근처에 있습니다. 당시 앗수르 제국하면 중동의 사자로서 누구나 두려워하는 막강한 국가였기 때문에 설마 니느웨가 멸망하리라고는 아무도 예상하지 못했습니다. 당시 앗수르의 통치방식은 정복한 마을을 철저히 파괴하고 본보기로 잔학한 살육을 자행하며 거주민들을 다른 곳으로 강제 이주시키는 전형적인 무단통치가 이루어졌습니다. 이 무단통치를 앞두고 북이스라엘도 이미 앗수르에 의해 멸망당했고 이스라엘의 열 부족은 역사에서 자취를 감췄습니다. 아슈르 바니팔(유다, 이스라엘, 이집트, 소아시아 키프로스 등 오리엔트 지역을 평정한 신 앗수르 제국 사르곤 왕조의 제 4대 왕)이 왕이 되자 더욱 힘을 실어 파죽지세로 BC 663년 상 이집트의 테베를 함락시킵니다. 그런데 BC 627년에 아슈르 바니팔이 죽자 불과 15년 뒤인 BC 612년에 니느웨는 메데 바빌론의 연맹에 의해 함락되고 맙니다. 이렇게 해서 나훔의 예언이 훌륭하게 적중하는 것입니다. 우는 아이도 울음을 그치게 하는 앗수르에 도대체 무슨 일이 일어난 것일까요. 나훔서의 예언이란 일차적으로는 앗수르에 대한 경고이지만, 동시에 당시 앗수르란 악의 상징으로 그려져 있어서 앗수르가 마침내 주님에 의해 멸망함으로써 죄와 악을 결코 벌하지 않을 수 없다는 하나님의 공의가 이야기되고 있는 것입니다.

(1) 질투하시는 하나님

선지자 나훔의 활동기간은 상 이집트의 테베가 함락한 BC 663년에서 니느웨가 함락되는 BC 612년 사이로 생각됩니다. 1절을 보면 나훔은 엘고스 사람이라고 쓰였습니다만 이 엘고스라고하는 장소가 어디에 있는지는 정확하게는 알 수 없습니다. 두가지 설이 있는데 살펴보자면 한가지 설은 베이트 지브린이라는 마을로 오늘날 예루살렘 남서쪽에 위치합니다. 전승에 따르면 그곳이 엘고스라고 믿어지고 있으며 선지자 미가의 출신지이기도 합니다. 또 다른 설은 갈릴리의 가버나움입니다. 가버나움이란 「나훔 마을」이라는 뜻인데 나훔은 「위로」, 「위로하는 자」라는 뜻입니다. 그래서 나훔이라고 하는 이름 들어있는 「위로의 마을」이라는 가버나움이야말로 나훔의 출신지가 아닌가 추측되고 있습니다. 하지만 확실한 것은 모릅니다. 「위로하는 자」가 쓴 이 나훔서인데요, 위로와는 거의 반대되는 보복과 재판에 대해서 이야기를 시작합니다. 오늘 성경구절 부분인 1장 2,3절 중간까지 읽어보시죠.

2 여호와는 질투하시며 보복하시는 하나님이시라 여호와는 보복하시며 진노하시되 자기를 거스르는 자에게 여호와는 보복하시며 자기를 대적하는 자에게 진노를 품으시며

3 여호와는 노하기를 더디하시며 권능이 크시며 벌 받을 자를 결코 내버려두지 아니하시느니라 …

여기서 강조되고 있는 단어는 세번 나오는 「보복」이라고하는 단어입니다. 히브리어의 어순을 보면 더욱 분명히 알수 있는데 주께서 진노하심과 동시에 「보복자, 보복하시는 하나님」이심이 소개 되어 있습니다. 그래서 이 나훔서는 첫머리부터 읽는 사람에게 매우 무겁고 울적한 분위기를 전달하는 것입니다. 확실히 앗수르 제국은 주변 국가들이 매우 두려워했던 나라이며 그 백성은 야만적이며 잔학무도했습니다. 이 나라가 망하게 되었을 때 모두 기뻐했습니다. 그러나 하나님은 죄를 용서하시는 분이 아니셨나요? 사랑으로 가득 찬 하나님이 아니셨나요? 주님이 왜 니느웨에게 보복하시는지 그 이유로 들 수 있는 것은 2절 첫머리에 「여호와는 질투하시는 하나님」이라는 말씀입니다. 「질투하시는 하나님」이라는 표현은 사실 구약성경에 여러 번 나오고 하나님 자신의 언약에 대한 믿음을 나타내는 말입니다. 두 곳을 참고로 살펴보겠습니다. 출애굽기 34장 14절과 신명기 6장 15절을 참조하시기 바랍니다. 발췌한 프린트도 함께 보시겠습니다.

출애굽기 34장

14 너는 다른 신에게 절하지 말라 여호와는 질투라 이름하는 질투의 하나님임이니라

신명기 6장

15 너희 중에 계신 너희의 하나님 여호와는 질투하시는 하나님이신즉 너희의 하나님 여호와께서 네게 진노하사 너를 지면에서 멸절시키실까 두려워하노라

이렇게 보면 보복의 이유, 하나님이 보복하시는 그 이유는 하나님과 언약 관계애 있는 하나님의 백성 이스라엘에 대해 질투할 정도로 열정적으로 사랑하기 때문에 이스라엘의 적에게 붙같은 분노로 보복을 하신다는 것입니다. 맹세에 의해 하나님과 이스라엘이 언약 관계에 있는 것입니다. 그렇다면 「하나님과 언약 관계에 있다」는 것은 대체 무슨 뜻일까요? 한마디로 이스라엘이 「선택받은 백성, 선민」이라는 것에 있는데 이 「선민사상」이라는 생각은 조금 오해를 살 수 있기 때문에 다른 표현으로 설명해 드리도록 하겠습니다. 하나님과 언약 관계에 있다는 것은 하나님께서 자신의 주권을 가지고 자신의 백성을 속죄해 주신다는 것입니다. 주께서 속죄하시는 자신의 백성이란 신앙의 백성입니다. 이 신앙의 백성들은 당시 앗수르와 전혀 다르지 않은 죄인이기는 하지만 그 죄를 제거해주시고 하나님의 속죄의 역사를 통해 하나님 나라로 초대해 주신다는 것입니다. 그래서 믿음 가운데 사는 하나님의 백성들은 앗수르 안에도 있고 그 반대로 이스라엘 안에도 하나님의 속죄의 역사를 거절하고 적대하는 불신앙의 권세도 존재하는 것입니다. 표면적인 인종에 따라 언약의 백성과 악을 상징하는 앗수르가 구별되는 것은 아닙니다. 신앙의 백성이야말로 하나님 자신의 백성이며, 하나님의 속죄의 역사를 거절하고 적대하는 권세가 앗수르인 것입니다. 주님은 이 적대적인 권세에 대해 「질투하는 하나님」으로 진노하심과 함께 맞서는 것입니다.

1장 3절에는 「여호와는 노하기를 더디하시며」라고 하는 단어가 나옵니다. 직역하면 「오래 참다」라는 뜻입니다. 사실 이 말도 주님의 성품을 나타낼 때 많이 쓰이는 말입니다. 먼저 우리가 기억하고 싶은 것은 나훔의 시대로부터 100년을 거슬러 올라간 과거에 하나님께서는 이미 니느웨에 선지자를 보내셨다는 사실입니다. 선지자 요나를 니느웨로 보내 죄 많은 니느웨 백성들에게 하나님의 심판을 경고하셨습니다. 그러자 사람들은 요나의 말에 귀를 기울이고 회개로 이끌렸습니다. 아까 앗수르 안에서도 신앙에 사는 백성들이 있다고 했는데, 바로 한 세기 전 니느웨 백성들은 회개하고 하나님을 믿고 구원을 받은 것입니다. 이번에도 마찬가지로 나훔을 통해 심판의 경고가 주어졌는데 이번에는 나훔의 경고에 귀를 기울이지 않고 최종적으로 메대 바빌론의 연맹을 통해 하나님의 심판이 실현됩니다. 이 나훔의 경고는 물론 당시 앗수르에서만 이야기 되고 있는 것은 아닙니다. 종말의 심판을 예견하는 것으로서 현대를 사는 우리에게도 똑같이 말씀하고 계시는 것입니다. 그러므로 우리는 나훔서를 읽을 때 앗수르란 어디까지나 악의 상징이며 종말에서 죄와 악을 심판하신다는 그 경고로 읽어야 합니다. 하나님은 죄인을 기계처럼 심판하시는 것은 아니지만, 즉 노하기를 더디하시고 회개하기를 인내심을 가지시고 기다리시지만 언젠가 반드시 최후의 심판의 날이 찾아옵니다. 하나님은 결코 죄를 그냥 지나치지 않고 벌하지 않을 수 없는 의로운 분이시기 때문입니다.

(2) 혼돈을 지배하시고 피조물을 통치하시는 하나님

이어서 3절의 후반부터 5절까지 읽어 보시죠. 여기에서는 피조물을 통치하고 있는 주의 주권에 대해 쓰여져 있습니다.

3 …여호와의 길은 회오리바람과 광풍에 있고 구름은 그의 발의 티끌이로다

4 그는 바다를 꾸짖어 그것을 말리시며 모든 강을 말리시나니 바산과 갈멜이 쇠하며 레바논의 꽃이 시드는도다

5 그로 말미암아 산들이 진동하며 작은 산들이 녹고 그 앞에서는 땅 곧 세계와 그 가운데에 있는 모든 것들이 솟아오르는도다

회오리바람과 광풍, 구름, 바다와 강, 이것들은 모두 혼돈을 상징하는 것으로 사람들이 매우 두려워했습니다. 조금 여담이지만 바빌론 사람들에게도 「혼돈」은 신으로서 매우 두려운 대상이었습니다. 바빌론 사람들의 신앙에 따르면 이 혼돈 속에서 바알신이 태어나고 그리고 이 바알로 인해 대지에 생명이 쏟아질 것으로 믿었습니다. 가끔 성경학자들 중에 바빌론의 창조신화와 성경이 유사하기 때문에 성경은 바빌론 창조신화로부터 지대한 영향을 받지 않았느냐고 주장하는 사람이 있습니다. 확실히 바빌론 사람들의 이미지와 표현을 빌려 곳곳에 성경에 도입한 것은 사실일지도 모르지만 그 사상은 완전히 다른 것입니다. 구약성경에는 하나님은 혼돈 가운데 태어난 것이 아니라 혼돈이 존재하기 이전에 이미 계셨다고 기록되어 있습니다. 창세기 1장 1~5a절의 말씀을 참조하십시오.

1 태초에 하나님이 천지를 창조하시니라

2 땅이 혼돈하고 공허하며 흑임이 깊음 위에 있고 하나님의 영은 수면 위에 운행하시니라

3 하나님이 이르시되 빛이 있으라 하시니 빛이 있었고

4 빛이 하나님이 보시기에 좋았더라 하나님이 빛과 어둠을 나누사

5 하나님이 빛을 낮이라 부르시고 어둡을 밤이라 부르시니라…

이처럼 구약성경에서 혼돈이 존재하기 이전에 하나님이 이미 계셨음을 이야기하고 있습니다. 그리고 혼돈을 상징하는 바다, 물, 강, 폭풍 이것들은 바알의 위엄을 나타내는 것이 아니라 이를 완전히 지배함으로써 전체 피조물은 주 하나님에 의해 무에서 창조되고 주님에 의해서 지배받고 있다는 것이 주장되고 있습니다. 주님은 혼돈을 지배하시고, 그리고 빛이 어둠으로부터 구별되듯이 항상 혼돈에 적대하며 혼돈을 구별하는 모습으로 그려져 있습니다. 4절을 보면 「주는 바다를 꾸짖어 그것을 말리시며」라는 말이 나오는데 이는 출애굽 때 홍해 바다를 건넌 이스라엘 백성을 떠올리게 합니다. 하나님은 무서운 바다에서 마른 땅을 드러내게 하시고 애굽의 파라오 군대의 추격으로부터 이스라엘을 지켜주시고 구해주셨습니다. 그 사건에는 매우 상징적인 의미가 포함되어 있다고 생각합니다. 혼돈에서 마른 땅을 드러내게 하시고 혼돈을 완전히 지배하는 주님의 모습입니다. 신약성경에서도 마찬가지로 바다에 대한 주님의 주권이 그려져 있습니다. 예를 들어 마가복음서에는 예수님께서 갈릴리 바다에 폭풍이 잠잠해 지라고 명령하시거나 또는 바다 위를 걸어오신 일들이 적혀 있습니다. 이처럼 성경에서 주 하나님은 혼돈을 상징하는 바다를 완전히 지배하고 계신 분으로 표현되어 있는 것입니다.

4절 후반에는 「바산과 갈멜」이라는 단어가 나옵니다. 당시 바산과 갈멜은 매우 비옥한 땅이었습니다. 이 풍요로운 땅도 주님의 진노를 받으면 거친 땅으로 변해버립니다. 이렇게 주 하나님은 자신의 피조세계에 절대적인 주권을 가지고 계신다는 것을 알 수 있습니다.

5절의 「산들이 진동하며 작은 산들이 녹고 그 앞에서는 땅 곧 세계와 그 가운데에 있는 모든 것들이 솟아오른다」는 말은 종말의 불에 의한 심판을 우리에게 상기시킵니다. 그날 오래 참으시는 하나님의 심판이 마침내 완전히 내려 지는데 심판과 동시에 그날은 하나님의 속죄의 역사가 완성되는 날이기도 합니다. 그날 죽음도 없고 슬픔도 탄식도 아픔도 없는 새로운 하늘과 새 땅이 하나님 곁에서 내려오는 것입니다. 베드로후서 3장 11~13절을 참조하시기 바랍니다.

11 이 모든 것이 이렇게 풀어지리니 너희가 어떠한 사람이 되어야 마땅하냐 거룩한 행실과 경건함으로

12 하나님의 날이 임하기를 바라보고 간절히 사모하라 그 날에 하늘이 불에 타서 풀어지고 물질이 뜨거운 불에 녹아지려니와

13 우리는 그의 약속대로 의가 있는 곳인 새 하늘과 새 땅을 바라보도다

베드로의 서신에는 종말의 때의 심판의 모습과 예수님의 속죄의 완성에 대해 이야기하고 있습니다. 그 날 주님을 믿지 않는 자들에게는 영원한 멸망에 들어가는 무서운 심판의 날입니다. 나훔서도 심판의 경고를 통해 주의 구원을 믿으라고 초대하고 있는 것입니다. 마지막으로 6~8절을 보세요.

6 누가 능히 그의 분노 앞에 서며 누가 능히 그의 진노를 감당하랴 그의 진노가 불처럼 쏟아지니 그로 말미암아 바위들이 깨지는도다

7 여호와는 선하시며 환난 날에 산성이시라 그는 자기에게 피하는 자들을 아시느니라

8 그가 범람하는 물로 그 곳을 진멸하시고 자기 대적들을 흑암으로 쫓아내시리라

하나님은 죄를 미워하시는 분입니다. 주께서 참으시고 계시는 지금 이때가 회개하고 예수 그리스도의 십자가의 속죄를 통해 죄의 용서함을 받을 때입니다. 하나님 앞에 설 수 있도록 더러움과 부패를 씻김을 받지 않으면 안됩니다. 7절에 「주님은 선하시며」라는 말이 있는데 이 선하시다라는 말은 히브리어로 「토브」라는 말입니다. 즉, 「주님은 선하시고 인자하신 분」이라는 뜻입니다. 선하시고 인자하신 분이신 주 예수님을 믿고 이분에게 의지한다면 주께서는 바로 우리들의 환난 날에 산성이 되시고 주께 피하는 자들을 마음속에 간직하여 주시고 보살펴 주시는 것입니다.

결론

하나님은 죄를 심판하시고, 자신의 백성, 곧 예수 그리스도 안에 있는 자들의 구원을 완성하십니다. 이 하나님의 언약에 대한 열정이야말로 믿음의 백성 이스라엘에게 절대적인 위로로 다가왔을 것입니다. 더욱이 혼돈마저 지배하는 하나님의 절대적인 주권은 믿음의 백성 이스라엘에게 「주님이야말로 하나님이시며 주님 외에는 다른 신은 없다」는 고백으로 인도하셨을 것입니다. 이윽고 그 날에 주님의 오래 참으심이 끝나고 주 예수님을 믿지 않는 죄를 심판하기 위해 예수님이 재림하십니다. 그 날은 주님을 믿지 않는 자들에게는 영원한 멸망에 들어가는 무서운 심판의 날이지만 동시에 주님께 의지하는 자들에게는 하나님의 속죄의 역사가 완성되는 궁극적인 희망의 날입니다. 이 약속을 반드시 성취하시는 질투하시는 하나님께 우리들은 몸을 의지하여 믿음의 걸음을 걸어갑시다.

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