2023年09月03日「神の言葉、人の言い伝え 하나님의 말씀과 장로들의 전통」

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神の言葉、人の言い伝え 하나님의 말씀과 장로들의 전통

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 7章1節~13節

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7:1ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。
7:2そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。
7:3――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
7:4また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――
7:5そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
7:6イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。
7:7人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』
7:8あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
7:9更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。
7:10モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。
7:11それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、
7:12その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。
7:13こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 7章1節~13節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

ユダヤの社会には神の律法と、それを垣根のように取り巻く「昔の人の言い伝え」がありました。この「昔の人の言い伝え」というのは、文字通り、口で伝えられた規範でしたが、後にユダヤ教のタルムードとして文書化され、現在においてもそれを手にすることが出来ます。当初、この言い伝えは、民にしっかりと律法を守らせる目的で作られました。紀元前1世紀の有名なラビである、ラビ・アキバによると、「昔の人の言い伝えとは、律法の垣根のようなもの」と表現しています。つまり、律法の周辺に少し大きめに、余裕を持って、垣根を張るかのように規則を設けることで、うっかり律法に触れたり、律法を破ったりすることのないようにということです。この、言い伝えさえ守っていれば、自分は神の律法を守っていると考えたのです。ところが、その論理が破綻していることが、本日の箇所で明らかにされます。教会においても御言葉を守るために、御言葉を大切にするために、色々な伝統が受け継がれます。よき伝統を大切にすることはいいことですが、ひとたび、その伝統を守ることが第一優先になって、神の律法がないがしろにならないように注意する必要がございます。

【1】. ファリサイ派と律法学者たちの質問

さて、7:1節を見ますと、「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、」と書かれています。エルサレムには神殿があり、宗教と政治の中心地でありました。ユダヤのの最高議会サンヘドリンには、二大派閥があり、一つはファリサイ派及び律法学者たち、そして、もう一つはサドカイ派です。サドカイ派は、大祭司を輩出することが許された貴族階級でありました。一方、ファリサイ派と律法学者は、イスラエルの民に寄り添いながら律法を教えていましたので、民から尊敬され、指示されていました。このエルサレムの二大派閥の一つであり、実質的なイスラエルの宗教指導者である、ファリサイ派と律法学者が、イエス様のもとにやって来たのです。実は、エルサレムから宗教指導者がやって来たのは、今回が初めてではありません。以前にも、イエス様のもとにやって来ては、論争が繰り広げられました。聖書を戻って確認してみたいと思います。マルコ3:22をご覧ください。

エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。

当時、イエス様の教えと、その宣教の働きは、ヘロデの耳にも届くくらいでしたので、イエス様は大変有名人になっていたと思われます。そのようなイエス様の教えと働きは、ファリサイ派と律法学者たちにとって、全く受け入れ難いものでありました。それは自分たちが熱心に教え伝えている「昔の人の言い伝え」を真っ向から否定するからであります。ファリサイ派と律法学者たちにとって、イエス様は自分たちの権威と秩序を揺るがす危険分子として映っていたのかもしれません。一方で、受け入れ難いと思っていたのは、イエス様にとっても同じことです。6章の五千人の給食において、大勢の群衆が飼い主のいない羊のような有様でいるのをイエス様は深く憐れまれましたが、本来のイスラエルの牧者である宗教指導者こそ、民に神の律法を教える責任あったはずです。ファリサイ派、律法学者こそ、民に神の御言葉を食べさせる責任があったはずなのです。しかし彼らは、自分たちの面子を保つために、人間の言い伝えを熱心に伝えるあまり、大勢の群衆が飼い主のいない羊のような状態で放置されていたからです。1~2節をご覧ください。

ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。

食事の前に手を洗うこと、この掟は衛生面からでなく、宗教的・儀式的な側面から定められていました。この掟は、旧約聖書のどこに書かれているのかと言うと、実は、どこを探しても、そのような掟は見当たりません。それもそのはず、この掟は、律法を取り囲む垣根として、人間によって定められたものだからです。3~4節は、ギリシア人の読者のために分かりやすいように、著者マルコによって補足説明がなされています。「汚れた手」で食べることが、なぜ論争点になったのかの説明であります。ファリサイ派の人々は、自らが汚れることを極度に嫌っていたのですが、その汚れは食物を通して、或いは人々との接触を通して、自分に招き入れることがあると考えていました。ですから、手洗いの儀式を通して、聖められるとし、「昔の人の言い伝え」を徹底的に守っていたのです。

話しは変わりますが、ギリシア語で「食事をする」という表現は、冠詞がついてない「パン(単数)を食べる」と表現します。ところが、2節の「食事をする」という表現の「パン」という言葉に注目しますと、定冠詞がついており、さらに複数形になっています。直訳すると「あの、諸々のパンを食べる者がいるのを見た」となります。つまり、「あの諸々のパン」とは、五千人の給食の「パン」のことを指している可能性があります。ですから聖書の翻訳によっては、ここは「食事をする」ではなく、「パンを食べる」と直訳されている聖書もございます。もし、五千人の給食のパンのことを指しているなら、荒れ野において、人々が手を洗うことはできなかったのは当然でしょう。とんだ難癖ということになります。そのことを問題視している可能性があるのです。

【2】.神の言葉、人の言い伝え

イエス様は彼らの質問に対して直接答えることはなさらず、旧約聖書のイザヤ書の御言葉を引用しながら、人間の言い伝えを優先することで、神の言葉を無にしていることに対して、叱責の言葉を語られました。7:6~9節をご覧ください。

イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。

ファリサイ派の人々と律法学者たちの関心は、神様の目に自分がどう映るかではなく、人間の目に自分がどう映るかにありました。彼らは、先祖の言い伝えを順守していると胸を張りながら、それが免罪符のようになって、神の律法を破っていたのです。「口先で神様を敬っていましたが、心は遠く離れている」とはそのことです。また、「昔の人の言い伝え」という言葉が、8節において「人間の言い伝え」と言い換えられています。さらに9節において「自分の言い伝え」と言い換えられています。イエス様によって、このように言い換えられたのは、それが、決してモーセを通して与えられた神の掟ではないという事を強調しているのだと思います。このような理由から、イエス様は彼らを指して「偽善者」という厳しい言葉を使われたのであります。彼らのプライドは大変傷つけられたことでしょう。しかし、傷つけられたことに思いを寄せるのではなく、なぜ、イエス様がそこまで厳しい言葉を語られたのか、その点に思いを向けるべきであります。続く10~13節において、イエス様は、十戒の御言葉(出エジプト記20:12)と出エジプト記21:17の二つの御言葉を引用しながら、彼らが神の掟を破っていることを立証していきます。10~13節をご覧ください。

モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

十戒の「あなたの父と母を敬え」という戒めには、もし、両親が年老いて経済的に貧しい状態になったなら、その子どもたちは自分のできることをもって、親をサポートすべきであるという意味が含まれています。それが「敬え」ということの具体的な適用であるということです。しかし、「言い伝え」によると、もし子どもたちが、私が持っているこの財産は、神へのささげものとします!と誓ったなら、その誓いが優先されるとしました。神へのささげ物は神聖なものであって、両親をサポートすることより優先度が高いと解釈したのかもしれません。あるいは、一度誓った誓いは取り消すことができないと考えのかもしれません。こうして「言い伝え」は自分の親を経済的に支えたくないと考える人たちにとっての抜け道となり、律法を無にする口実となってしまったのです。

それでは、良い目的のために設けられた「言い伝え」が、なぜ、律法を破る口実となってしまったのでしょうか。論理が破綻してしまったファリサイ派の人々と律法学者たちは「こんなはずではなかったのに!」と思ったことでしょう。自分たちはイスラエルの牧者として働いていると思っていたのですが、いつの間にか、神様に対する愛は冷え、羊に御言葉を食べさせるどころか、自分たちの「言い伝え」を押し付けるのに一生懸命だったという事に気付かされたのです。

一体どこから間違ってしまったのでしょうか。第一に考えられることは、人間の作った戒めや、人間が作った規範は、決して神の御言葉の上に来てはならないし、来ることもできないという事です。当初、そのような規範は、神の御言葉をより良く守るためのものとして定められ、良き伝統として引き継がれていきましたが、それがどんな時にでも、無条件的に大切だと考える時に、神の御言葉の抜け道として逆に作用してしまうこともあるのです。私たち改革派教会は、前文を付したウェストミンスター信仰告白と、大小教理問答を、信仰規準として採用しています。もしかしたら他派の教派の人々は、「改革派教会は、聖書以外にも、このような規範を持っている」と批判するかもしれません。そして、「自分たちは聖書だけを持っている。」「自分たちは聖書のみである!」と言ってくるかもしれません。しかし、聖書を解釈する上で、信仰告白や教理はどうしても必要となってきます。「聖書のみ」と語ることは簡単ですが、それだけでは個人の恣意的な解釈に委ねられ、いとも簡単に間違った解釈や、異端の思想に陥ってしまうのです。ですから、歴史の中で、もまれながら生まれて来た信仰告白や、信条というものは、大変大きな霊的遺産であり、これを簡単に捨てるわけにはいかないのであります。ただ、聖書以外のすべての信仰告白や規範は、あくまでも相対的なものですから、それらが御言葉よりも重要視されないように気をつけなければならないということです。教会の伝統や、決まり事もこれと全く同じです。どんなに素晴らしい伝統や決まり事であっても、御言葉が第一の絶対的な規範となること(ラテン語:ノルマ・ノルマンス)、そして、御言葉の下で人間がつくった規範や伝統が絶えず吟味されるべきこと(ラテン語:ノルマ・ノルマタ)、このことが大切なのです。

第二に考えられることは、律法が制定された目的を私たちははっきり知らなければならないということです。ここを見失うなら、間違った方向に行ってしまいます。律法の戒めの中で最も大切な戒めは何かという質問に対し、イエス様は、神を愛し、隣人を愛することだと答えられました。神は律法を、愛を成就させるために与えられたということです。マルコ12:28~31をご覧ください。

彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

神を愛し、隣人を愛すること、これにまさる掟はありません。律法とは、愛によって収斂されるのであります。ですから、もし、神様に対する愛が冷えていると感じたとき、隣人に対し愛が冷えていると感じた時は、もう一度原点である御言葉にもどらなければならないのです。イスラエルの民に神の律法が与えられた目的とは、日々の営みを通して、愛を成就していくことです。律法を守っていく時に、共同体の中に愛の実が結ばれて行くこと、そのことを神様は願っておられるのです。

【結論】

イエス様は、ファリサイ派と律法学者たちの質問に対し、神の言葉、人の言い伝えを慎重に区別しながら、人の言い伝えが神の御言葉の上に来た時の問題点を指摘されました。そして、律法とは愛に収斂されていくという実践的な解釈を示してくださいました。愛は律法を全うします。私たちの日々の営みが、主日礼拝の中で唱えている十戒を通して、愛の実を豊かに結んでいくものとなるように、祈り求めていきましょう。そして、お互いにお互いのことをとりなし、手を取り合って、主の弟子の道を共に歩んでいく私たちとならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

하나님의 말씀과 장로들의 전통

2023년 9월 3일 센겐다이교회 주일설교

마가복음 7장 1~13절

서론

유대 사회에는 하나님의 계명과 그것을 울타리처럼 둘러싼 「장로들의 전통」이 있었습니다. 이 「장로들의 전통」이라고 하는 것은, 문자 그대로 입으로 전해진 규범이었지만 나중에 유대교 탈무드로 문서화되어 현재에도 그 내용을 알 수 있습니다. 당초 이 전통은 백성들이 제대로 계명을 지키도록 하기 위한 목적으로 만들어졌습니다. 기원전 1세기의 유명한 랍비인 랍비 아키바에 따르면 「장로들의 전통이란 계명의 울타리와 같다」라고 표현했습니다. 즉 계명 주변에 조금 더 크게, 여유롭게 울타리를 치는 것처럼 규칙을 설정함으로써 무심코 계명을 건들거나 계명을 범하는 일이 없도록 하라는 것입니다. 이 전통만 지킨다면 자신은 하나님의 계명을 지키고 있다고 생각한 것입니다. 그런데 그 논리가 파탄이 났다는 것이 오늘 시점에서 밝혀집니다. 교회에서도 말씀을 지키기 위해, 말씀을 소중히 하기 위해 여러 전통이 계승되고 있습니다. 좋은 전통을 소중히 여기는 것은 좋지만 일단 그 전통을 지키는 것이 최우선이 되어 하나님의 계명이 소홀이 되지 않도록 주의할 필요가 있습니다.

(1) 바리새인들과 서기관들의 질문

자, 7장 1절을 보면 「바리새인들과 서기관 중 몇이 예루살렘에서 와서」라고 적혀 있습니다. 예루살렘에는 신전이 있어 종교와 정치의 중심지였습니다. 유대의 최고 의회 산헤드린에는 양대 파벌이 있으며 하나는 바리새파및 서기관들, 그리고 다른 하나는 사두개파입니다. 사두개파는 대제사장을 배출하는 것이 허용된 귀족 계급이었습니다. 반면 바리새인과 서기관들은 이스라엘 백성들에게 다가가 계명을 가르쳤기 때문에 백성들의 존경과 지지를 받았습니다. 이 예루살렘의 양대 파벌 중 하나이자 실질적인 이스라엘 종교지도자인 바리새인과 서기관이 예수님께 온 것입니다. 사실 예루살렘에서 종교 지도자가 온 것은 이번이 처음은 아닙니다. 이전에도 예수님께 와서는 논쟁이 벌어졌습니다. 성경을 열고 확인해 보도록 하겠습니다. 마가복음 3장 22절을 참조하시기 바랍니다.

예루살렘에서 내려온 서기관들은 그가 바알세불이 지폈다 하며 또 귀신의 왕을 힘입어 귀신을 쫓아낸다 하니

당시 예수님의 가르침과 그 선교의 사역은 헤로데의 귀에도 닿을 정도였기 때문에 예수님은 매우 유명한 사람이 되어 있었다고 생각됩니다. 그런 예수님의 가르침과 사역은 바리새인들과 서기관들에게 전혀 받아들이기 힘든 것이었습니다. 그것은 자신들이 열심히 가르치고 전하는 장로들의 전통을 정면으로 부정하기 때문입니다. 바리새인과 서기관들에게 예수님은 자신들의 권위와 질서를 뒤흔드는 위험분자로 비쳐졌을지도 모릅니다. 한편으로 받아들이기 어렵다고 생각했던 것은 예수님에게도 마찬가지입니다. 6장의 오천 명을 먹이신데 있어서는 많은 무리가 목자없는 양 같은 모습으로 있음을 보시고 깊은 연민을 느끼셨지만 본래 이스라엘 목자인 종교 지도자들이야말로 백성들에게 하나님의 계명을 가르칠 책임이 있었을 것입니다. 바리새인과 서기관들이야말로 백성들에게 하나님의 말씀을 먹일 책임이 있었다는 것입니다. 그들은 자신들의 체면을 유지하기 위해 장로들의 전통을 열심히 전달한 나머지 많은 무리가 주인없는 양과 같은 상태로 방치되어 있었기 때문입니다. 1,2절을 보시기 바랍니다.

1 바리새인들과 또 서기관 중 몇이 예루살렘에서 와서 예수께 모여들었다가

2 그의 제자 중 몇 사람이 부정한 손 곧 씻지 아니한 손으로 떡 먹는 것을 보았더라

식사 전에 손을 씻는 것, 이 명령은 위생적인 면에서가 아니라 종교적・의식적인 측면에서 정해져 있었습니다. 이 명령은 구약성경의 어디에 쓰여 있냐하면, 사실 어디를 찾아 보아도 그런 계명을 찾을 수 없습니다. 그도 그럴 것이 이 명령은 계명을 둘러싼 울타리로서 인간에 의해 정해진 것이기 때문입니다. 3,4절은 그리스인 독자들을 위해 이해하기 쉽도록 저자 마가에 의해서 보충 설명이 되어 있습니다. 부정한 손 곧 씻지 아니한 손으로 먹는 것이 왜 논쟁점이 되었는지에 대한 설명입니다. 바래새인들은 스스로 부정해지는 것을 극도로 싫어 했는데 그 부정함은 음식을 통해서 혹은 사람들과의 접촉을 통해서 자신들에게 미칠 수 있다고 생각했습니다. 그래서 손 씻기 의식을 통해 거룩해질 수 있다면서 「장로들의 전통」을 철저히 지켰던 것입니다.

이야기가 바뀌지만 그리스어로 「식사를 하다」라는 표현은 관사가 붙어 있지 않은 「떡(단수)을 먹다」라고 표현합니다. 그런데 2절의 「떡 먹는 것」이라는 표현의 떡이라는 말에 주목을 하면 정관사가 붙어 있고 또 복수형으로 되어 있습니다. 직역하면 “저, 많은 사람이 떡을 먹는 것을 봤다”가 됩니다. 즉, “저 많은 사람의 떡”이라는 것은 오천 명이 먹은 「떡」을 가리키고 있을 가능성이 있습니다. 그래서 성경 번역에 따라서는 이 부분은 「식사를 하다」가 아니라 「떡을 먹다」라고 직역하는 성경도 있습니다. 만약 오천 명이 먹은 「떡」을 지칭한다면 광야에서 사람들이 손을 씻지 못하는 것은 당연하겠지요. 엉뚱한 트집을 잡고 있는 것입니다. 그것을 문제삼고 있을 가능성이 있습니다.

(2) 하나님의 말씀, 장로들의 전통

예수님은 그들의 질문에 직접 대답하지 않고 구약성경 이사야서의 말씀을 인용하면서 장로들의 전통을 우선시함으로 하나님의 말씀을 저버리는 데 대해 질책의 말씀을 하셨습니다. 7장 6~9절을 참조하시기 바랍니다.

6 이르시되 이사야가 너희 외식하는 자에 대하여 잘 예언하였도다 기록하였으되 이 백성이 입술로는 나를 공경하되 마음은 내게서 멀도다

7 사람의 계명으로 교훈을 삼아 가르치니 나를 헛되이 경배하는도다 하였느니라

8 너희가 하나님의 계명은 버리고 사람의 전통을 지키느니라

9 또 이르시되 너희가 너희 전통을 지키려고 하나님의 계명을 잘 저버리는도다

바리새인과 서기관들의 관심은 하나님 눈에 자신이 어떻게 비치느냐가 아니라 인간 눈에 자신이 어떻게 비치느냐에 있었습니다. 그들은 장로의 전통을 준수한다고 가슴을 펴면서 그것이 면죄부처럼 되어 하나님의 계명을 어기고 있었던 것입니다. 「입술로는 나를 공경하되 마음은 내게서 멀도다」라는 것은 그 말입니다. 또 「사람의 계명」이라는 말이 8절에서는 「사람의 전통」이라고 바꾸어 말하고 있습니다. 또한 9절에서 「너희 전통」이라고 바꾸어 말하고 있습니다. 예수님에 의해서 이렇게 바꿔 말할 수 있었던 것은 그것이 결코 모세를 통해 주어진 하나님의 계명이 아니라는 것을 강조하는 것이라고 생각합니다. 이러한 이유로 예수님은 그들을 가리켜 「위선자」라는 엄한 말을 쓰셨습니다. 그들의 자존심이 많이 상했을 것입니다. 그러나 상처받은 것에 대해 생각할 것이 아니라 왜 예수님께서 그렇게까지 엄격한 말씀을 하셨는지 그 점에 마음을 돌려야 합니다. 이어지는 10~13절에서 예수님은 십계명 말씀(출애굽기 20장 12절)과 출애굽기 21장 17절 두 말씀을 인용하면서 그들이 하나님의 계명을 어기고 있음을 입증해 나가십니다. 10~13절을 보세요.

10 모세는 네 부모를 공경하라 하고 또 아버지나 어머니를 모욕하는 자는 죽임을 당하리라 하였거늘

11 너희는 이르되 사람이 아버지에게나 어머니에게나 말하기를 내가 드려 유익하게 할 것이 고르반 곧 하나님께 드림이 되었다고 하기만 하면 그만이라 하고

12 자기 아버지나 어머니에게 다시 아무 것도 하여 드리기를 허락하지 아니하여

13 너희가 전한 전통으로 하나님의 말씀을 페하며 또 이같은 일을 많이 행하느니라 하시고

십계명의 「네 부모를 공경하라」는 계명에는 만약 부모가 늙어 경제적으로 가난한 상태가 되었다면 그 자녀들은 자신이 할 수 있는 일을 가지고 부모를 도와야 한다는 의미가 담겨 있습니다. 그것이 「공경하라」는 것의 구체적인 적용이라는 것입니다. 하지만 「전통」에 따르면 만약 자녀들이 “내가 가진 이 재산은 하나님께 바치는 것으로 하겠습니다”라고 맹세했다면 그 맹세가 우선이라고 했습니다. 하나님께 드리는 것은 신성한 것이라 부모를 돕는 것 보다 우선순위가 높다고 해석 했을지도 모릅니다. 혹은 한번 한 맹세는 취소할 수 없다고 생각했을지도 모릅니다. 그리하여 「전통」은 자신의 부모를 경제적으로 지원하고 싶지 않다고 생각하는 사람들에게 피할 길이 되고 계명을 저버리는 구실이 되어 버린 것입니다.

그렇다면 좋은 목적을 위해 마련된 「전통」이 왜 계명을 어기는 빌미가 되었을까요? 논리가 파탄나버린 바리새인들과 서기관들은 “이럴리가 없는데!”라고 생각했을 것입니다. 자신들은 이스라엘의 목자로서 일하고 있다고 생각했는데 어느새 하나님에 대한 사랑은 식었고 양에게 말씀을 먹이기는 커녕 자신들의 「전통」을 강요하는 데 열심이었다는 것을 깨닫게 된 것입니다.

도대체 어디서부터 잘못된 걸까요? 첫 번째로 생각할 수 있는 것은 인간이 만든 훈계나 인간이 만든 규범은 결코 하나님의 말씀 위에 서서는 안 되고 설 수도 없다는 것입니다. 처음에는 그런 규범들이 하나님의 말씀을 더 잘 지키기 위한 것으로 정해지고 좋은 전통으로 이어졌지만, 그것이 어떤 때는 무조건적으로 중요하다고 생각할 때 하나님의 말씀을 피할 길이 되어 역으로 작용해버리는 경우도 있습니다. 우리 개혁파 교회는 웨스트민스터 신앙고백과 크고 작은 교리 문답을 신앙규준으로 채택하고 있습니다. 어쩌면 다른 교파 사람들은 개혁파 교회는 성경 이외에도 이런 규범을 가지고 있다고 비판할지도 모릅니다. 그리고 “우리는 성경만을 가지고 있다.” “우리는 성경뿐이다!”라고 말할지도 모릅니다. 그러나 성경을 해석하는 데 있어서 신앙고백이나 교리는 어떻게든 필요하게 됩니다. 「성경만」이라고 말하기는 쉽지만 그것만으로는 개인의 자의적인 해석에 맡겨져 아주 쉽게 잘못된 해석이나 이단의 사상에 빠지게 됩니다. 그래서 역사 속에서 갈등을 겪으면서 태어난 신앙고백이나 신조라는 것은 굉장히 큰 영적 유산이기 때문에 이를 쉽게 버릴 수는 없는 것입니다. 다만 성경 이외의 모든 신앙고백이나 규범은 어디까지나 상대적인 것이기 때문에 그것들이 말씀보다 중요시되지 않도록 조심해야 한다는 것입니다. 교회의 전통이나 정해지는 규칙도 이와 똑같습니다. 아무리 훌륭한 전통이나 정해진 규칙이라 할지라도 말씀이 제일의 절대적인 규범이 되는 것(라틴어: 노르마 노르망스), 그리고 말씀하에 인간이 만든 규범과 전통을 끊임없이 음미해야 하는 것(라틴어: 노르마 노르마타) 이것이 중요합니다.

두 번째로 생각할 수 잇는 것은 계명이 제정된 목적을 우리는 분명히 알아야 한다는 것입니다. 이것을 잃어버린다면 잘못된 방향으로 가버립니다. 율법의 계명 중 가장 중요한 계명이 무엇이냐는 질문에 예수님은 하나님을 사랑하고 이웃을 사랑하는 것이라고 대답하셨습니다. 하나님은 율법을 사랑을 성취시키기 위해 주셨다는 것입니다. 마가복음 12장 28~31절을 참조하십시오.

28 서기관 중 한 사람이 그들이 변론하는 것을 듣고 예수께서 잘 대답하신 줄을 알고 나아와 묻되 모든 계명 중에 첫째가 무엇이니이까

29 예수께서 대답하시되 첫째는 이것이니 이스라엘아 들으라 주 곧 우리 하나님은 유일한 주시라

30 네 마음을 다하고 목숨을 다하고 뜻을 다하고 힘을 다하여 주 너의 하나님을 사랑하라 하신 것이요

31 둘째는 이것이니 네 이웃을 네 자신과 같이 사랑하라 하신 것이라 이보다 더 큰 계명이 없느니라

하나님을 사랑하고 이웃을 사랑하는 것, 이보다 나은 계명은 없습니다. 계명이란 사랑에 의해서 집약되는 것입니다. 그러므로 하나님에 대한 사랑이 식었다고 느꼈을 때, 이웃에 대해 사랑이 식었다고 느꼈을 때는 다시 원점인 말씀으로 돌아가야 하는 것입니다. 이스라엘 백성들에게 하나님의 계명이 주어진 목적은 일상의 삶을 통해 사랑을 성취해 나가는 것입니다. 계명을 지켜나갈 때 공동체 안에 사랑의 열매가 맺어져 가기를 하나님은 바라고 계신 것입니다.

결론

예수님은 바리새인들과 서기관들의 질문에 하나님의 말씀과 사람의 전통을 신중하게 구별하면서 사람의 전통이 하나님의 말씀 위에 서 있을 때의 문제점을 지적하셨습니다. 그리고 계명이란 사랑으로 집약되어 간다는 실천적인 해석을 제시해주셨습니다. 사랑은 율법을 완성합니다. 우리의 일상생활이 주일예배 가운데 주창하고 있는 십계명을 통해 사랑의 열매를 풍요롭게 맺어 나갈 수 있도록 기도합시다. 그리고 서로의 손을 잡고 주님의 제자의 길을 함께 걸어가는 우리가 되도록 합시다.

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