2023年08月27日「湖上を歩くイエス 바다 위를 걸으시는 예수님」

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湖上を歩くイエス 바다 위를 걸으시는 예수님

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 6章45節~56節

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聖句のアイコン聖書の言葉

6:45それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。
6:46群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。
6:47夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。
6:48ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。
6:49弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
6:50皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
6:51イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。
6:52パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。
6:53こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。
6:54一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、
6:55その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。
6:56村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 6章45節~56節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

ガリラヤ湖で弟子たちが漕ぎ悩むという事件は、以前にも出てまいりました。マルコ4:35以降です。その時は嵐のような突風に襲われて、舟が水浸しになるほどでした。前回の箇所で、イエス様は舟の艫の方に寝ておられ、弟子たちから起こされると、彼らの願い通り嵐を静められました。弟子たちはこれを見て、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と非常に恐れながら、互いに言いました。今朝お読みした箇所は、「いったい、この方はどなたなのだろう」という弟子たちの質問に対する、イエス様が答えであると言えるかもしれません。つまり、本日の箇所は、神が弟子たちにご自身を啓示すること、イエス・キリストにおいて、神が顕現されることが、書かれているのです。神がご自身を啓示されること、これはどんなに大きな恵みでしょうか。神を知ることが、私たちの救いであります。そして、神が、ご自身について啓示してくださらないなら、人は決して神を知ることはできません。まさに、私たちの救いとは、神ご自身の顕現に、神ご自身の啓示にかかっているのです。弟子たちにおいて、まだ、神の顕現が信仰として結ばれる、その時期ではありませんが、弟子たちの心に焼き付いたその体験は、五旬節以降に信仰として結実されていくのであります。

【1】. 海の高波を踏み砕かれるイエス

さて、イエス様は、人里離れた場所で、五つのパンと二匹の魚の奇跡により、五千人以上の群衆を食べさせた後、すぐに弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ行かせました。「人里離れた場所」、すなわち「荒れ野」というのが、おそらくガリラヤ湖の東岸であると考えられますから、ガリラヤ湖の東岸からガリラヤ湖の北岸のベトサイダへ向かったということでありましょう。ガリラヤ湖の面積は、日本の琵琶湖の約1/4ほどです。弟子たちの中には漁師もいて、彼らにとっては、ガリラヤ湖は自分たちの庭でしたから、多少の嵐や風には驚かなかったことでありましょう。また、弟子たちは、宣教訓練のため、二人ずつ組になってイエス様から派遣され、実際に悪霊を追い出したり、病人を癒したりしました。自分たちを通して、主イエスの福音宣教の働きに参与させていただいていたのです。ですから、今や、ちょっとやそっとの奇跡では、簡単には驚かなかったはずです。そのような弟子たちが、本日の箇所において、神の顕現に遭遇し、恐れ驚いたと書かれているのです。

週報の抜粋のプリントの地図をご覧ください。ガリラヤ湖の北岸にベトサイダを確認することができるでしょうか。そのベトサイダの西にカファルナウムがあり、その下にゲネサレト平原があります。ガリラヤ湖の東岸から出発して、舟が実際に岸に上がったのは、ベトサイダではなく、ガリラヤ湖の西岸のゲネサレトとあります。風に悩まされて、そこまで方向が狂い、流されて行ったという事です。この時、イエス様は弟子たちと一緒に舟には乗らず、祈るために山へ行かれました。山で祈ることによって、父なる神様と親密な交わりを持ちたかったのだと思います。その山から、イエス様が湖を見下ろすと、舟が依然として漕ぎ悩んでいるのが見えました。時刻は、既に夜が明ける頃、つまり三時から六時までの時間帯であります。6:48~49節をご覧ください。

ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。

弟子たちは、湖(海)の上を歩いて、誰かがこちらにやって来るのを見ました。聖書で、海というのは「竜の住み家」であり、「死者の領域」であって、大変恐れられています。恐ろしいガリラヤの海の上を歩いて来れる人間などいませんから、幽霊だと思い大声で叫んだのです。旧約聖書には、神は、恐ろしい海でさえ、その手に治めておられると主張されています。例えば、ヨブ9:8には次のように書かれています。

ヨブ9:8

神は自ら天を広げ、海の高波を踏み砕かれる。

イエス様はまさに、海までも治めておられるお方であるかのように、湖の上を歩いて来られました。それでは、イエス様は弟子たちを心配され、湖の上を歩いて弟子たちの所に行き、風を静め、弟子たちを救出されたのかと言うと、必ずしも、そう単純には読み取ることができません。奇妙な言葉が挿入されているからです。48節に「そばを通り過ぎようとされた」とございます。並行記事であるマタイによる福音書には「そばを通り過ぎようとされた」という言葉は書かれていませんが、なぜかマルコ福音書には、この言葉が挿入されています。イエス様のこの行動は、苦境に陥っている弟子たちに対して、あまりにも冷たく、あまりにも無情な行動として見えてきます。ですから、この不可解な言葉の解釈を巡り、様々な意見が出されました。例えば、主語をイエス様から弟子たちに変更させて、「弟子たちには、イエス様が通り過ぎ去るように見えた」という解釈です。しかし、これは強引な解釈だと思います。おそらく、この不可解な言葉が、本日与えられた聖書箇所の意味を知る上で、鍵となってくるのだと思います。つまり、本日の記事は、単純に「奇跡による救出記事」ではなく、イエス様の神としての「自己啓示の記事」であり、「神の顕現についての記事」なのであります。聖書の中で、神がご自身を表され、顕現される時、人間は決まって、その場で倒れたり、恐れおののいたりします。神が顕現される時、罪人である人間には、到底、それに耐えきれないのです。もし人間が、神を直接見たなら死んでしまうでしょう。ヨハネの福音書には次のように書いてあります。1:18をご覧ください。

いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

身近な例で例えますと、太陽を想像してみてください。私たちは太陽をまともに見ることは出来ませんね。しかし、黒いフィルターで太陽を遮るときに、この時初めて太陽を観察することができます。逆説のように聞こえますが、太陽を遮る時、太陽を観察することができるのです。同じように、私たち罪びとには、神を見ることはできません。しかし、神がご自身を遮るようにする時に、初めて神が人間に顕されるのです。出エジプト記3:2には、燃える柴の木を前にして、取ったモーセの行動に注目してみましょう。出3:2をご覧ください。

神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。

ここで、燃え続けている柴の木、それ自体が神ではありませんが、モーセは柴の木を通して、神と交わり、そして神を見たと思い、思わず顔を覆ってしまったのです。しかし、モーセは実際、神を見たのではなく、柴の木を通して、「遮られた神」を見たのであります。神と罪人の間には計り知れない断絶がありますが、それでもなお、神は人間に認識できるように自ら遜られ、ある時は柴の木となり、ある時はエルサレムの神殿となり、ある時は人間の姿、或いは、主の御使いとなって、罪人である私たちと交わりを与えてくださるのです。ですから、人間は神を直接見るのではなく、ただ、その陰、その後ろ姿だけを見ることが許されているのです。であるならば、神が人を通り過ぎようとされるのは、つまり、その後ろ姿だけを見せられるのは、神の顕現であり、なんとかしてご自身を人間に顕そうとする神の愛の証拠であると言えるのではないでしょうか。神が自らを顕すためには、その大いなる栄光と威厳に満ちた仕方ではなく、人間のレベルにまで遜ってくださるのです。神は私たちの弱い理解力のために、人間に分かる言語で、何度も何度も、たどたどしく語ってくださり、しるしと御言葉によって、弟子たちを取り扱うようにされるのです。旧約聖書には何か所か、「通り過ぎようとされる神」について書かれていますが、特に出エジプト33:19~23をご覧ください。

主は言われた。「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」更に、主は言われた。「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」

この時、神様はモーセを岩の裂け目に隠してくださり、それは、あたかもフィルターで太陽を遮るかのようにしながら、モーセにご自身を顕してくださいました。イエス様が弟子たちを通り過ぎようとされたのも、これと同じだと思われます。海の上を歩いて来られた神であるご自身を、遮ることによって、弟子たちにご自身を顕わされているのです。

【2】. 神の顕現

弟子たちがおびえている中で、語りかけてくださったイエス様の御言葉に注目してみましょう。50節をご覧ください。

皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。

イエス様は、弟子たちに三つの言葉を語りました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」です。特にこの二番目に語られた「わたしだ」という言葉は、ギリシア語で、「エゴーエイミー(I am)」すなわち、ヤハウェの御名であります。この名前は、直訳すると、「私はある」という意味ですが、大変不思議なお名前です。主は一体どのようなお方なのでしょうか。第一に、主なる神は、ご自身の被造物を通して、完全に説明し尽くされることはありません。主は被造物をはるかに超越されているからです。例えば「主は光である」と言った時、一面、これは正しいと言えますが、しかし、「主の光を灯して、パンを探しに行こう」という文章が論理的に成り立ちます。ところが、実際、主にとっては、パンでさえ、ご自身であるのです。つまり「主はパンである」と言った時、これも正しいと言えるのです。あるいは「主はぶどうの木である」「主は羊の門である」「主は岩である」これらも、全て正しいと言えるでしょう。神によって造られた被造物は、たとえどんなものであれ、神の栄光を現しているからです。だからと言って、被造物の中から何か一つを限定し、それを持って神を説明することは出来ません。一つを選択するときに、他のものが否定されるからです。何か一つを限定するのではない「わたしはある」という言葉は、そのことを表しているのだと思います。一つに限定されないことです。旧約聖書の中で、ご自身の名をイスラエルの民に啓示された、不思議な名前=ヤハウェというお方が、まさにイエス様ご自身であるということを、本日の箇所は主張しているのだと思います。これは、以前、一回目に弟子たちがガリラヤ湖で、嵐に遭遇した時に「いったい、この方はどなたなのだろう」と驚いて言った弟子たちの質問の答えであります。イエス様は、弟子たちの質問に対し、「私はある」「私は、主ヤハウェだ。安心しなさい、恐れることはない」と答えてくださっているのです。「私は、天地万物を創造した主である。」「私は、アブラハムを通してイスラエル民族を形成し、モーセを通してイスラエルに律法を与えた主ヤハウェである。安心しなさい、恐れることはない」と弟子たちの質問に答えてくださっているのです。ところが、弟子たちには、そのことを全く理解することができませんでした。「わたしだ」という言葉を神の御名「ヤハウェ」として受け止めたのではなく、言葉その通りに受け取ったのであります。そのようなマルコの洞察が51~52節に明らかにされています。ご覧ください。

イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。

「驚いたこと」が否定的に書かれています。湖上を歩く奇跡によって、神が弟子たちに顕現されたにも関わらず、風をも、海をも、治める神的な力の根源は、一体どこから来ているのだろうかと、弟子たちは驚いているのです。主イエスが神であられるということを、どうしても受け入れられないのです。それは五千人の給食の奇跡においても同様でありました。

【結論】

神ご自身の顕現を垣間見た弟子たちにおいて、恐れと共に、これまでの親しみのある先生イエス様から、超自然的な神の子としての認識の転換が迫られました。しかし、まだ弟子たちには、その認識の転換を乗り越えることはできませんが、この時の記憶は恐れと共に、弟子たちの心に焼き付けられたことでしょう。神は何度も何度も忍耐強く、御言葉としるしを通して、ご自身を啓示されます。御言葉としるしを通して、弟子たちの目線に合わせて、顕現されるのです。ここに神の愛が示されています。弟子たちにおいて、その一つ一つはおどろきを持って記憶されますが、やがてその驚きは、信仰として結実されていくことでしょう。弟子たちの信じるイエス様とは、そして、私たちが信じているイエス様とは、死の領域を治められ、「わたしはある」と宣言され、いつも変わらずに共にいてくださるお方であります。このお方が私たちの神様なので、私たちは安心し、恐れることなく歩むことが出来るのです。このお方こそ、旧約聖書に約束された、来るべきメシアであり、神ご自身であられるのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

바다 위를 걸으시는 예수님

2023년 8월 27일 센겐다이교회 주일설교

마가복음 6장 45~56절

서론

갈릴리 바다에서 제자들이 힘겹게 노 젓는 사건은 이전에도 나왔습니다. 마가복음 4장 35절입니다. 그때는 폭풍 같은 큰 광풍이 일어 배가 물바다가 될 정도였습니다. 그때 예수님은 고물에서 베개를 배고 주무시고 계셨고 제자들이 깨우자 그들의 소원대로 광풍을 잠잠하게 하셨습니다. 제자들은 이 광경을 보고 도대체 「그가 누구이기에 바람과 바다도 순종하는가」하고 무척 두려워하며 서로 말했습니다. 오늘 아침에 읽은 부분은 「도대체 이 분은 누구신가」라는 제자들의 질문에 대한 예수님의 대답이라고 할 수 있을지도 모릅니다. 즉 오늘의 부분은 하나님이 제자들에게 자신을 계시하는 것, 예수 그리스도가 하나님이심을 나타내는 것이 적혀 있습니다. 하나님께서 자신을 계시하시는 것, 이것이 얼마나 큰 은혜인가요? 하나님을 아는 것이 우리들의 구원입니다. 그리고 하나님이 자신을 계시하여 주시지 않는다면 사람은 결코 하나님을 알 수 없습니다. 바로 우리의 구원이란 하나님 자신의 나타내심, 하나님 자신의 계시하심에 달려 있는 것입니다. 제자들에게 아직 하나님의 나타나심이 믿음으로 맺어지는 그 시기는 아니지만 제자들의 마음속에 스며든 그 체험은 오순절 이후 믿음으로 결실을 맺어 가는 것입니다.

(1) 바다의 높은 파도를 짓밟는 예수님

예수님은 빈 들에서 떡 다섯개와 물고기 두 마리로 오천 명을 먹이시는 놀라운 기적을 행하신 후에 곧바로 제자들을 굳이 배애 태워 건너편 벳새다로 보내셨습니다. 「한적한 곳」, 즉 「광야」라고 하는 것이 아마도 갈릴리 바다의 동쪽 해안일 것으로 생각되기 때문에 갈릴리 호수의 동쪽 해안에서 갈릴리 호수의 북쪽 해안인 벳새다로 향했다는 것이지요. 갈릴리 바다의 면적은 일본의 비와 호수의 약 1/4 정도의 크기입니다. 제자들 중에는 어부도 있고, 그들에게 갈릴리 바다는 자신들의 정원과도 같았기 때문에 약간의 풍랑이나 바람에는 놀라지 않았을 것입니다. 또 제자들은 선교훈련을 위해 두 사람씩 짝을 지어 예수님으로부터 파송되어 실제로 귀신을 쫓아내기도 하고 병자를 치유하기도 했습니다. 자신들이 주 예수님의 복음선교 사역에 참여 하고 있었던 것입니다. 그래서 이제 약간의 기적으로는 쉽게 놀라지 않았을 것입니다. 그런 제자들이 오늘 그 자리에서 하나님의 나타나심을 보고 두렵고 놀랐다고 쓰여져 있는 것입니다.

주보에 있는 발췌 프린트를 보시기 바랍니다. 갈릴리 바다 북쪽 해안에 벳새다를 확인하실 수 있을까요? 그 벳새다 서쪽에 가버나움이 있고 그 아래에 게네사렛 평원이 있습니다. 갈릴리 바다의 동쪽 해안에서 출발하여 배가 실제로 해안으로 올라간 것은 벳새다가 아니라 갈릴리 바다의 호수의 서쪽 해안 게네사렛이라고 합니다. 바람에 밀려서 거기까지 방향이 틀어져서 떠내려갔다는 것이죠. 이때 예수님은 제자들과 함께 배를 타지 않고 기도하기 위해 산에 가셨습니다. 산에서 기도하시면서 아버지 하나님과 친밀한 교제를 갖고 싶으셨던 것 같습니다. 그 산에서 예수님이 호수를 내려다보니 배에서 여전히 힘겹게 노를 젓고 있는 제자들의 모습을 보실 수 있었습니다. 시각은 이미 날이 밝을 무렵, 즉 3시부터 6시까지의 시간대입니다. 6장 48,49절을 참조하십시오.

48 바람이 거스르므로 제자들이 힘겹게 노 젓는 것을 보시고 밤 사경쯤에 바다 위로 걸어서 그들에게 오사 지나가려고 하시매

49 제자들이 그가 바다 위로 걸어 오심을 보고 유령인가 하여 소리 지르니

제자들은 바다 위를 걸어서 누군가가 다가오는 것을 보았습니다. 성경에서 바다라는 것은 용이 사는 곳이고 죽은 사람의 영역이라 생각해서 매우 두려워했습니다. 무서운 갈릴리 바다 위를 걸어올 수 있는 인간은 없기 때문에 유령이라고 생각하고 큰 소리로 외친 것입니다. 구약성경에는 하나님은 그 두려운 바다조차 그 손으로 다스리고 계신다고 주장되어 있습니다. 예를 들어 욥기 9장 8절에는 다음과 같이 기록되어 있습니다.

그가 홀로 하늘을 펴시며 바다 물결을 밟으시며

예수님은 바로 바다까지도 다스리고 계신 분인 것처럼 바다위를 걸어오셨습니다. 그러면 예수님은 제자들을 걱정하셔서 바다 위를 걸어 제자들에게 가셔서 바람을 가라앉히고 제자들을 구출하셨느냐 하면 반드시 그렇게 단순하게 읽을 수는 없습니다. 기묘한 말이 삽입되어 있기 때문입니다. 48절에 「지나가시려고 하시매」라고 쓰여 있습니다. 병행 기사인 마태복음에는 「지나가시려고 하시매」라고는 쓰여 있지 않지만 어째서인지 마가복음에는 이 말이 삽입되어 있습니다. 예수님의 이 행동은 곤경에 처한 제자들에게 너무 차갑고 너무 무심한 행동으로 보입니다. 그래서 이 기묘한 말의 해석을 놓고 다양한 의견이 나왔습니다. 예를 들어 주어를 예수님에서 제자들로 변경시켜서 “제자들에게는 예수님이 지나가시는 것처럼 보였다”라는 해석입니다. 하지만 이것은 억지해석이라고 생각합니다. 아마 이 기묘한 말씀이 오늘 주어진 성경 구절의 의미를 알 수 있는 열쇠가 될 것이라고 생각합니다. 즉 오늘의 기사는 단순히 「기적에 의한 구출기사」가 아니라 예수님이 하나님으로서의 「자기 계시기사」이며, 「하나님의 나타내심에 대한 기사」인 것입니다. 성경 속에서 하나님께서 자신을 계시하시고 나타내실 때 인간은 으례 그 자리에서 쓰러지거나 두려워합니다. 하나님이 자신을 나타내실 때 죄인인 인간은 도저히 그것을 감당할 수 없습니다. 만약 인간이 하나님을 직접 본다면 죽고 말것입니다. 요한복음에는 다음과 같이 쓰여 있습니다. 1장 18절을 참조하시기 바랍니다.

본래 하나님을 본 사람이 없으되 아버지 품 속에 있는 독생하신 하나님이 나타내셨느니라

친숙한 예로 들어보면 태양을 상상해 보시기 바랍니다. 우리는 태양을 제대로 바라 볼 수가 없습니다. 하지만 검은 필터로 태양을 가리고 나서야 비로서 태양을 제대로 관찰할 수 있습니다. 역설처럼 들리지만 태양을 가릴 때 태양을 관찰할 수 있는 거죠. 마찬가지로 우리 죄인들은 하나님을 볼 수 없습니다. 그러나 하나님이 자신을 가릴 때에야 비로서 하나님이 인간에게 나타나는 것입니다. 출애굽기 3장 2절에는 불타는 떨기나무를 앞에 두고 취한 모세의 행동에 주목해 봅시다. 출애굽기 3장 2절을 봐 주세요.

여호와의 사자가 떨기나무 가운데로부터 나오는 불꽃 안에서 그에게 나타나시니라 그가 보니 떨기나무에 불이 붙었으나 그 떨기나무가 사라지지 아니하는지라

여기서 계속 타오르는 떨기나무, 그 자체가 하나님은 아니지만, 모세는 떨기나무를 통해 하나님과 교제하고 하나님을 봤다고 생각했습니다. 하지만 모세는 실제로 하나님을 본 것이 아니라 떨기나무를 통해 「가린 하나님」을 본 것입니다. 하나님과 인간 사이에는 헤아릴 수 없는 단절이 있습니다만 그래도 하나님은 인간이 인식할 수 있도록 스스로 낮추시어 어떨 때는 떨기나무로 나타나시고 어떨 때는 예루살렘 신전이 되고 어떨 때는 인간의 모습 혹은 하나님의 사자가 되어 죄인인 우리들과 교제해 주시는 것입니다. 그래서 인간은 하나님을 직접 보는 것이 아니라 오직 그 그늘, 그 뒷모습만을 보는 것이 허용되고 있는 것입니다. 그렇다면 하나님이 사람을 지나가려고 하는 것은, 곧 그 뒷모습만을 보여 주시는 것은 하나님의 나타내심이며 어떻게든 자신을 인간에게 드러내려는 하나님의 사랑의 증거라고 할 수 있지 않을까요? 하나님께서 스스로를 드러내기 위해서는 그 위대한 영광과 위엄이 넘치는 방법으로서가 아니라 인간의 수준에까지 내려오시는 것입니다. 하나님은 우리들의 부족한 이해력 때문에 인간이 알 수 있는 언어로 몇 번이고 몇 번이고 더듬더듬 말씀해 주시고 표적과 말씀으로 제자들을 다루고 계시는 것입니다. 구약성경 여러 군데에는 지나가려고 하는 하나님에 대해 기록되어 있습니다. 특히 출애굽기 33장 19~23절을 참조하세요.

19 여호와께서 이르시되 내가 내 모든 선한 것을 네 앞으로 지나가게 하고 여호와의 이름을 네 앞에 선포하리라 나는 은혜 베풀 자에게 은혜를 베풀고 긍휼히 여길 자에게 긍휼을 베푸느니라

20 또 이르시되 네가 내 얼굴을 보지 못하리니 나를 보고 살 자가 없음이니라

21 여호와께서 또 이르시기를 보라 내 곁에 한 장소가 있으니 너는 그 반석 위에 서라

22 내 영광이 지나갈 때에 내가 너를 반석 틈에 두고 내가 지나도록 내 손으로 너를 덮었다가

23 손을 거두리니 네가 내 등을 볼 것이요 얼굴은 보지 못하리라

(2) 하나님의 나타내심

제자들이 겁에 질려 있는 가운데 이야기 해 주신 예슈님의 말씀에 주목해 봅시다. 50절을 보세요.

그들이 다 예수를 보고 놀람이라 이에 예수께서 곧 그들에게 말씀하여 이르시되 안심하라 내니 두려워하지 말라 하시고

예수님은 제자들에게 세 가지 말씀을 하셨습니다. 「안심하라 내니 두려워하지 말라」입니다. 특히 이 두 번째로 언급된 「내니」라고 하는 단어는 그리스어로 「에고 에이미 (I am) 」 즉 야훼의 이름입니다. 이 이름은 직역하면 「나는 스스로 있는 자」라는 뜻인데 굉장히 신기한 이름입니다. 주님은 도대체 어떤 분이실까요? 첫번 째로 주 하나님은 자신의 피조물을 통해서 완전히 설명될 수 없습니다. 주님은 피조물을 완전히 초월하고 계시기 때문입니다. 예를 들면 「주님은 빛이시다」라고 말할 때 일면 이것은 옳다고 할 수 있는데 「주의 빛을 밝혀서 떡을 찾으러 가자」라고 하는 문장이 논리적으로 이루어집니다. 그런데 실제 주님에게 있어서는 떡조차 자신인 것입니다. 즉, 「주님은 떡이시다」라고 했을 때 이것도 맞다고 할 수 있습니다. 「주님은 반석이시다」 이것들도 모두 맞다고 할 수 있겠죠. 아니면 「주님은 포도나무이다」 「주님은 양의 문이시다」 「주님은 바위이시다」 이것들도 모두 맞다고 할 수 있겠습니다. 창조주에 의해 만들어진 피조물은 비록 어떤 것이라도 하나님의 영광을 나타내고 있기 때문입니다. 그렇다고 피조물 중에서 무엇인가 하나를 한정하고 그것을 가지고 하나님을 설명할 수는 없습니다. 하나를 선택할 때 다른 것이 부정되기 때문입니다. 뭔가 하나를 한정하는 것이 아닌 「나는 스스로 있는 자」라는 말은 그것을 나타내는 것이라고 생각합니다. 한 가지로 한정되지 않는 것입니다. 구약성경 속에서 자신의 이름을 이스라엘 백성들에게 계시하신 기묘한 이름=야훼라는 분이 바로 예수님 자신이라는 것을 오늘 부분은 주장하고 계시는 것 같습니다. 이것은 이전에 첫 번 째로 제자들이 갈릴리 바다에서 광풍을 만났을 때 「그가 누구이기에 바람과 바다도 순종하는가」하고 놀라서 한 제자들의 질문에 대한 답입니다. 예수님은 제자들의 질문에 「나는 스스로 있는 자」「안심하라 내니 두려워하지 말라」라고 대답해주시는 것이죠. 「나는 천지 만물을 창조한 창조주이다」 「나는 아브라함을 통해서 이스라엘 민족을 형성하고 모세를 통해 이스라엘에 율법을 준 주 야훼이다 안심하라, 두려워할 것 없다」라고 제자들에게 대답해 주고 계시는 것입니다. 그런데 제자들은 그 사실을 전혀 이해할 수 없었습니다. 「내니」라고 하는 단어를 하나님의 이름 「야훼」로서 받아들이는 것이 아니라 그 단어 그대로 받아들인 것입니다. 그런 마가의 통찰이 51,52절에 나타나 있습니다.

보시죠.

51 배에 올라 그들에게 가시니 바람이 그치는지라 제자들이 마음에 심히 놀라니

52 이는 그들이 그 떡 떼시던 일을 깨닫지 못하고 도리어 그 마음이 둔하여졌음이러라

「심히 놀라니」이 일이 부정적으로 쓰여져 있습니다. 바다 위를 걸으시는 기적에 의해서 하나님이 제자들에게 나타내셨음에도 불구하고 바람도 바다조차도 다스리는 신적인 능력의 근원은 도대체 어디에서 온 것일까하고 제자들은 놀라고 있는 것입니다. 주 예수님이 하나님이시라는 것을 도저히 받아들일 수 없는 것입니다. 그것은 오천 명을 먹이신 기적에서도 마찬가지였습니다.

결론

하나님 자신의 나타내심을 엿볼 수 있었던 제자들에게 두려움과 함께 그동안 친숙한 스승 예수님으로부터 초자연적인 하나님의 아들로서의 인식 전환이 요구되었습니다. 그러나 아직 제자들에게는 그 인식의 전환을 극복할 수는 없지만 이때의 기억은 두려움과 함께 제자들의 마음에 각인되었을 것입니다. 하나님은 몇 번이고 인내심을 가지고 말씀과 표적을 통해 자신을 계시하십니다. 말씀과 표적을 통해서 제자들의 눈높이에 맞게 나타내신 것이죠. 여기에 바로 하나님의 사랑이 나타나 있습니다. 제자들에게 있어서 그 나타내심은 하나하나 놀라움을 가지고 기억되지만 머지않아 그 놀라움은 믿음으로 결실을 맺어 가는 것입니다. 제자들이 믿는 예수님이란, 그리고 우리가 믿는 예수님이란 죽음의 영역을 다스리시고 「나는 스스로 있는 자」라고 선언하시고 항상 변함없이 함께 해 주시는 분입니다. 이분이 우리의 하나님이기 때문에 우리는 안심하고 두려워하지 않고 인생을 걸어 갈 수 있는 것입니다. 이분이야말로 구약성경에 약속된 오셔야 할 메시아요, 하나님 자신이신 것입니다.

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