2023年08月13日「洗礼者ヨハネの死 세례 요한의 죽음」

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洗礼者ヨハネの死 세례 요한의 죽음

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 6章14節~29節

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聖句のアイコン聖書の言葉

6:14イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」
6:15そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。
6:16ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。
6:17実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。
6:18ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。
6:19そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。
6:20なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。
6:21ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、
6:22ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、
6:23更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。
6:24少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。
6:25早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。
6:26王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。
6:27そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、
6:28盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 6章14節~29節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 イエス様から十二人の弟子たちが組にして派遣され、弟子たちを通して、悪霊追い出しや病のいやしなどがなされると、瞬く間にイエス様の名はガリラヤ地方一帯に知れ渡りました。その評判はヘロデ王の耳にも入りました。マルコによる福音書はこの時点で、サンドイッチ構造の形を取りながら14~29節まで、ヘロデによって斬首された洗礼者ヨハネの死について言及を始めます。洗礼者ヨハネと言えば、救い主イエス・キリストのために道を備えるため、神様から遣わされた人物であり、イエス様の先駆者としての人生を歩んだ人物です。マルコ1:14~15には次のように書かれています。抜粋のプリントをご覧ください。

“ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。”

ここに書いてありますように、イエス様は、洗礼者ヨハネが捕らえられた後に、バトンを譲り受けたかのようにして、福音宣教を始めたということが分かります。そして、本日の箇所では、捕らえられたヨハネが、その後どうなったのかが語られているのですが、一体なぜこの時点で、既に死んでいるヨハネを回顧しつつ、紹介しているのでしょうか。洗礼者ヨハネの死を通して、イエス様の運命、そしてさらには弟子たちの運命を暗示しようとしているのでしょうか。本日はそのことを念頭に置きながら聖書を読み進めていきたいと思います。

【1】. ヨハネの投獄

 さて、洗礼者ヨハネを憎んでいたのは、ヘロデよりむしろ妻のへロディアでありました。彼女がヨハネを憎んだのは、ヨハネによって、自分たちの結婚を、律法では許されない結婚(不倫)だと非難されたからです。17~19節をご覧ください。

“実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。”

ヘロデという人物は、ヘロデ・アンティパスのことです。ヘロデ・アンティパスとヘロデ・フィリポは、共に父、ヘロデ大王の子どもであり、二人は異母兄弟でありました。ヘロデ大王にはたくさんの子どもたちがいて、その何人かは父親によって殺されましたが、そのヘロデ大王が死ぬと、ローマのアウグストゥスはユダヤ王国を大きく三つに分割し、それぞれヘロデ大王の三人の息子たちに統治させるようにしました。週報の抜粋のプリントをご覧ください。三つの分割地とは、ユダヤ・サマリア地方と、ガリラヤ・ペレア地方と、トラコン地方です。ユダヤ・サマリア地方には、アルケラオスが領主として立てられました。ガリラヤ・ペレア地方にはヘロデ・アンティパスが、トラコン地方にはフィリポが立てられました。ここで、フィリポという名が出て来ますが、「フィリポ」という名の子どもは、トラコン地方の領主フィリポと、ヘロデ・フィリポの二人がいるために混同しないように注意が必要です(フィリポという名の子供が二人いた)。17節のへロディアと結婚していたフィリポとは、ヘロデ・フィリポであって、領主フィリポではないということです。聖書に戻りまして、ヘロデ・アンティパスとへロディアの不倫による結婚、それによるアンティパスの前妻との離縁は、姦淫の罪に該当しました。たとえ、ヘロデとへロディアにイドマヤ人の血が流れているからと言って、ユダヤ教に改宗し、ユダヤ人となった以上、王であれ、妃であれ、律法は守らなければなりません。洗礼者ヨハネが、姦淫の罪を公に批判したため、癇に障り、へロディアの怒りは殺意へと変わっていきます。ところが、へロディアはヨハネを殺すことができないでいました。その理由は、20節に書かれています。ご覧ください。

“なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。”

ヘロデが、捕らえ投獄したヨハネに、実際会ってみると、そこにおいて驚くべき出会いが起こりました。ヘロデはヨハネの教えを聞いて「非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」と書かれています。ヘロデは、ヨハネの語る教え、つまり福音に、感銘を受けていたのです。その言葉は彼がこれまで聞いたことのないものでありました。ヨハネの語る言葉によって、それまで全く知らなかった新しい世界が目の前に開けて来たのでしょう。その新しい世界は、決してすぐに喜んでそこに飛び込んでいけるようなものではありません。彼を非常に当惑させるような世界です。そこに一歩でも足を踏み入れたなら、自分がこれまで通りではいられなくなる、これまで築き上げてきたもの、今、その手で握りしめているものを、手放さなければならなくなる、そのような当惑を抱かせるような新しい世界が、ヨハネの語る言葉によって、目の前に提示され、ヘロデの心は揺さぶられたのであります。しかし、驚くべきことに、ヘロデは洗礼者ヨハネを恐れ、保護しながらも、彼自身、ヨハネの教えを喜んでいたということであります。ある説教者の解釈では、この時「ヨハネは愛を込めて懇ろに罪を指摘し、悔い改めることを求めた」のではないか、と言います。神様が私たちを罪から解放してくれる、その神の愛によって、悔い改めを語ったのだと思われるのです。

【2】.ヨハネとイエス

 そんな中、へロディアにとって絶好の機会が訪れました。ヘロデ王の誕生日の祝宴に、へロディアの娘が踊りを披露し、その踊りが王と祝宴に招かれた客を大いに喜ばせたと言うのです。へロディアの娘とは、サロメのことで、当時12~14歳の少女であったと考えられており、おそらく、その踊りは、性的で、なまめかしい踊りであったと考えられています。ヘロデは酒に酔った勢いで、少女サロメに「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と誓いを立てました。少女は母親にそそのかされて、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願い出ました。少女の願いを聞いた時、26節で、ヘロデ王は、非常に心を痛めたとあります。しかし、自ら誓ったことでもあり、そして、もしその願いを断って、牢に閉じ込められている、つまらない囚人を恐れているのだと、客の前で恥をかくことを恐れたのでしょうか、ヘロデはヨハネの首をはねるように命じて、自身の権力と権威を客の前に示したのでありました。間もなくして、祝宴の席に、洗礼者ヨハネの首が持ち込まれるという恐ろしい光景が広がっていきます。結局、ヘロデ王は、へロディアの狡猾さに操られ、ヘロデ自らの意向に反しながら、正しく、聖なる人、ヨハネを殺害してしまったのです。これは、後に、ユダヤの祭司や律法学者たちに操られ、総督ピラトが、自らの意向に反しながら、正しく、聖なる人、イエスを殺害した出来事と大変類似しています。洗礼者ヨハネの死とは、まさにイエス様の死を暗示しているかのように見えて来るのであります。

【3】. 洗礼者ヨハネの死の意味

 ヘロデはこのようにして、洗礼者ヨハネを殺してしまったのですが、なぜ、この過去の話しを、弟子たちの派遣の話しの間に挟み込んでいるのでしょうか。その理由は、ヘロデの言葉である「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」を、ここに入れるためであると思われます。14~16節をご覧ください。

“イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。”

人々はイエス様について、「ダビデの子、メシアである」という考えに、至ることはありませんでしたが、イエス様について三つの見解を持っていました。第一に、洗礼者ヨハネの蘇りであり、だから奇跡を行う力が、彼に働いているという見解です。第二に、彼はエリヤだという見解です。旧約聖書のマラキ書3:23を見ると、エリヤが再び遣わされると書かれているからです。人々は、この預言の御言葉を暗記していたのかもしれません。第三に、昔の預言者のような預言者であるという見解です。これも、旧約聖書の申命記18:15に、モーセのような預言者を再び送ると書いてあるからです。人々は、この律法の御言葉を暗記していたのかもしれません。彼らは、旧約聖書の知識があり、明らかに洗礼者ヨハネと、主イエスを預言者として認めていましたが、その預言者の語る御言葉には、聞き従わず、無視し続けたということが見て取れます。なぜなら洗礼者ヨハネは明らかに、「わたしよりも優れた方が、後から来られる」と証言していたからです。マルコ1:7をご覧ください。

“彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。”

このことは、昔からイスラエルにおいて繰り返されてきた罪でもありますが、人々は預言者を預言者として認めるものの、その預言者だと考えた人々の御言葉には、聞き従うことはなかったのです。

主イエスについて様々な憶測が飛び交う中で、ヘロデ王は「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言いました。洗礼者ヨハネは生前に、いかなる奇跡も行いませんでしたが、それにも関わらず、ヘロデは、主イエスを通して、洗礼者ヨハネの姿をはっきりと見ているのです。マルコ福音書は、実に、この言葉を伝えようとして、過去の出来事である洗礼者ヨハネの死を回顧しているように読み取れるのです。「あのヨハネが、生き返ったのだ」という驚きの言葉が、私たち読者の心に響いてくるようです。因みに、マルコ福音書の最後を見ますと、やはり、「イエスキリストの復活」についての若者の証言によって、福音書が閉じられています。16:6をご覧ください。

“若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。”

この証言を聞いて、女の弟子たちは驚嘆するのでありますが、これがマルコ福音書の最後でございます。16:9以降は後の時代に追加された文章だからです。16章の女の弟子たちの驚きと、ヘロデ王の驚きが重なっています。ですから、洗礼者ヨハネの死とは、まさに、この後に起こる主イエスの十字架の死を暗示していると言えるのであります。もっと言えば、その後に起こる主イエスの弟子たちの殉教の死さえも暗示していると言えるでしょう。しかし、ここが重要ですが、単に、死で終わるものではありません。死の向こう側に「復活」があるということが主張されているのです。従いまして「あのヨハネが、生き返ったのだ」というヘロデ王の言葉は、ある真理の一面を表していると言えるのです。洗礼者ヨハネは、地上を歩み、悔い改めの福音を語り、牢に捕らえられ、そして、殉教の死をもって、生涯を終えました。あまりにもあっけなく、軽い死のように見えてきます。しかし、神の目から見る時、そのヨハネの生涯は、まさに最初から最後まで主イエスの先駆者としての尊い歩みでありました。主イエスは、洗礼者ヨハネが歩んだように、悔い改めの福音を語り、捕らえられ、メシアとして十字架の死を遂げるのです。ところが死んで葬られた後、三日目に復活が起こりました。死の力は、キリストの勝利に飲み込まれたのであります。この世における生が全てではない、死の向こう側に永遠の世界がある、復活は、永遠の命への入り口であり、キリストの弟子たちは、この幸いな復活に与っているということがヘロデ王の言葉から暗示されているのです。私たちの信じている数々の聖書の約束は、この世において必ずしも成就されるものではないでしょう。生きているうちに、信じている約束の全てを直接、見ることはかなわないでしょう。しかし、聖書は次のようにキリスト者を励ましています。ヘブライ書11:13をご覧ください。

“この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。”

この人たちは、信仰によって目に見えないものを確かに享受したのでありますが、それはこの世においてではなかったということです。キリスト者は、この世において、よそ者であり、仮住まいの者でありますが、幸いな復活が約束されていて、この世の生を全うした後、イエス・キリストにある、栄光に輝く、永遠の命を享受する者となるということが約束されているのです。

【結論】

 洗礼者ヨハネの死について、一見するとあまりにもあっけなく、軽い死のように考えるかもしれませんが、神様の目から見る時、それは尊い死でありました。なぜなら、ヨハネはキリストの先駆者としての人生を歩み、その生涯はキリストの十字架の死と復活を暗示するものであったからです。いみじくも、ヘロデ王が「あのヨハネが、生き返ったのだ」と語ったように、この世の生がすべてではなく、死の向こうに永遠の世界があり、キリスト者は、イエス・キリストにある幸いな復活に与っているのです。ですから、ヨハネがこの世で生かされている間、たとえ牢の中でも福音を語り続けたように、私たちもキリストの弟子として、命が許されている限り、福音を宣べ伝えてく者たちとならせていただきましょう。言葉を通して、行いを通して、隣人に愛を持って語っていく者たちとならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

세례 요한의 죽음

2023년 8월 13일 센겐다이교회 주일설교

마가복음 6장 14~29절

서론

예수님으로부터 열두 제자들이 조를 지어 파송되어 제자들을 통해 더러운 귀신이쫓겨나고 병의 치유 등이 이루어지자 순식간에 예수님의 이름은 갈릴리 지방 일대에알려졌습니다. 그 평판은 헤롯 왕의 귀에도 들어갔습니다. 마가복음은 이 지점에서샌드위치 구조의 형태를 취하면서 14~29절까지 헤롯에 의해 참수된 세례 요한의죽음에 대해 언급하기 시작 합니다.

세례 요한 하면 구세주 예수 그리스도를 위해 길을 준비하기 위해서 하나님께서보내신 인물이자 예수님의 선구자로서의 삶을 걸었던 인물입니다. 마가복음 1장14,15절에는 다음과 같이 적혀 있습니다. 발췌한 프린트를 봐주세요.14 이에 예수의 이름이 드러난지라 헤롯 왕이 듣고 이르되 이는 세례 요한이 죽은 자가운데서 살아났도다 그러므로 이런 능력이 그 속에서 일어나느니라 하고15 어떤 이는 그가 엘리야라 하고 또 어떤 이는 그가 선지자니 옛 선지자 중의 하나와같다 하되여기 쓰여 있듯이 예수님은 세례 요한이 붙잡힌 후에 바톤을 물려받은 것처럼 복음선교를 시작했다는 것을 알 수 있습니다. 그리고 오늘의 부분에서는 붙잡힌 요한이 그후 어떻게 되었는지 이야기하고 있는데, 도대체 왜 이 시점에서 이미 죽은 요한을회고 하면서 소개하고 있는 것일까요. 세례 요한의 죽음을 통해 예수님의 운명,그리고 심지어 제자들의 운명을 암시하려는 것일까요? 오늘은 그 점을 염두에 두면서성경을 읽어 나가도록 하겠습니다.

(1) 요한의 투옥

그런데 세례 요한을 미워했던 것은 헤롯보다 오히려 아내 헤로디아였습니다. 그녀가요한을 미워한 것은 요한에 의해 자신들의 결혼이 율법상 허용되지 않는결혼(불륜)이라고 비난받았기 때문입니다. 17~19절을 보십시오.17 전에 헤롯이 자기가 동생 빌립의 아내 헤로디아에게 장가 든 고로 이 여자를위하여 사람을 보내어 요한을 잡아 옥에 가두었으니

18 이는 요한이 헤롯에게 말하되 동생의 아내를 취한 것이 옳지 않다 하였음이라

19 헤로디아가 요한을 원수로 여겨 죽이고자 하였으되 하지 못한 것은헤롯이라는 인물은 헤롯 안디바를 말합니다. 헤롯 안디바와 헤롯 빌립은 모두 아버지헤롯 대왕의 자녀였고 두 사람은 이복형제였습니다. 헤롯 대왕에게는 많은 자녀들이있었고, 그 중 몇몇은 아버지에 의해 죽었는데, 그 헤롯 대왕이 죽자 로마의아우구스투스는 유대 왕국을 크게 세개로 분할하고 각각 헤롯 대왕의 세 아들들에게통치하게 했습니다. 주보에 있는 발췌 프린트를 봐 주십시오. 세 개의 분할지는 유대,사마리아 지방과 갈릴리, 페레아 지방과 트라코니티스 지방입니다. 유대 사마리아지방에는 아르켈라오스가 영주로 세워졌습니다. 갈릴리 페레아 지방에는 헤롯 안디바가 트라코니티스. 지방에는 빌립이 세워졌습니다. 여기서 빌립이라는 이름이나오는데 이 「빌립」이라는 이름의 아들은 트라코니티스지방의 영주 빌립과 헤롯 빌립두 명이 있기 때문에 혼동하지 않도록 주의가 필요합니다. 17절에서 헤로디아와결혼했던 빌립은 헤롯 빌립이고 트라코니티스지방의 영주 빌립이 아닙니다. 성경으로돌아와서 헤롯 안디바와 헤로디아의 불륜에 의한 결혼, 그로 인한 안디바의 전처와의이혼은 간음죄에 해당했습니다. 비록 헤롯과 헤로디아에게 이두메(에돔)인의 피가흐르고 있다고 해도 유대교로 개종하여 유대인이 된 이상 왕이든 왕비든 율법은지켜야 합니다. 세례자 요한이 간음 죄를 공개적으로 비판했기 때문에 짜증이 나고헤로디아의 분노는 살의로 변해갑니다. 그런데 헤로디아는 요한을 죽이지 못하고있었습니다. 그 이유는 20절에 적혀 있습니다. 보시죠.헤롯이 요한을 의롭고 거룩한 사람으로 알고 두려워하여 보호하며 또 그의 말을 들을때에 크게 번민을 하면서도 달갑게 들음이러라헤롯이 체포해서 투옥시킨 요한을 실제로 만나보니 거기에서 놀라운 만남이일어났습니다. 헤롯은 요한의 가르침을 듣고 그의 말을 들을 때에 「크게 번민을하면서도 달갑게 들음이러라」고 쓰여져 있습니다. 헤롯은 요한이 말하는 가르침, 즉복음에 감명을 받고 있었습니다. 그 말은 그가 지금까지 들어본 적이 없는것이었습니다. 요한이 하는 말로 인해 그동안 전혀 몰랐던 새로운 세계가 눈 앞에펼쳐졌을 것입니다. 그 새로운 세계는 결코 즉시 기꺼이 그곳에 뛰어들 수 있는 것이아닙니다. 그를 매우 당혹스럽게 하는 세계입니다. 거기에 한 발짝이라도 발을디딘다면 자신이 지금까지 해 왔던 것들, 지금 그 손에 움켜쥐고 있는 것들을 내려놓아야 하는 그런 당혹감을 안겨줄 새로운 세계가 요한이 말하는 말에 의해 눈앞에제시 되고 헤롯의 마음을 흔들었을 것입니다. 그러나 놀랍게도 헤롯은 세례자 요한을두려워하면서도 보호하고 그 자신이 요한의 가르침을 기뻐했다는 것입니다. 한설교자의 해석으로는 이때 요한은 사랑을 담아 간곡히 죄를 지적하고 회개할 것을요구하지 않았을까라고 말합니다. 하나님이 우리를 죄로부터 해방시켜 주시는 그하나님의 사랑으로 회개를 말했을 것이라 생각됩니다.

(2) 요한과 예수

그러던중, 헤로디아에게 절호의 찬스가 찾아왔습니다. 헤롯 왕의 생일 축하연에헤로디아의 딸이 춤을 추면서 그 춤이 왕과 축하연에 초대받은 손님들을 크게 기쁘게했다고 합니다. 헤로디아의 딸이란 살로메를 말하며 당시 12~14세의 소녀였을것으로 추정되며, 아마도 그 춤은 성적이고 요염한 춤이었을 것으로 생각됩니다.헤롯은 술에 취한 김에 소녀 살로메에게 「무엇이든지 네가 원하는 것을 내게 구하라내가 주리라」라고 말하며 「네가 내게 구하면 내 나라의 절반까지라도 주리라」라고맹세했습니다. 소녀는 어머니의 부추김으로 「세례 요한의 머리를 소반에 얹어 곧 내게주시기를 원하옵나이다」라고 청했습니다. 소녀의 청을 들었을 때 26절에서 보면 헤롯왕이 심히 근심했다라고 쓰여 있습니다. 그러나 자기가 맹세를 했고 그 청을 거절하면감옥에 갇혀 있는 하찮은 죄수를 두려워한다고 손님들 앞에서 창피를 당할까봐두려웠을까요, 헤롯은 요한의 목을 치라고 명령하고 자신의 권력과 권위를 손님들앞에 보여주었습니다. 곧 축하연 자리에 세례 요한의 목이 반입되는 무서운 광경이펼쳐집니다. 결국 헤롯 왕은 헤로디아의 교활함에 조종되어 헤롯 왕의 자신의 뜻과는달리 바르고 거룩한 사람 요한을 살해하고 말았습니다. 이는 나중에 유대의제사장이나 율법학자들에게 조종되어 총독 빌라도가 자신의 뜻과는 달리 옳고 거룩한사람, 예수를 살해한 사건과 매우 유사합니다. 세례 요한의 죽음이란 바로 예수님의죽음을 암시하는 것처럼 보이는 것입니다.

(3) 세례 요한의 죽음의 의미

헤롯은 이렇게 세례 요한을 죽여 버렸는데, 왜 이 과거 이야기를 제자들의 파송이야기 사이에 끼워 넣었을까요? 그 이유는 헤롯의 말인 「내가 목 벤 요한 그가살아났다 」를 여기에 넣기 위해서라고 생각됩니다. 14~16절을 보시기 바랍니다.

14 이에 예수의 이름이 드러난지라 헤롯 왕이 듣고 이르되 이는 세례 요한이 죽은 자가운데서 살아났도다 그러므로 이런 능력이 그 속에서 일어나느니라 하고

15 어떤 이는 그가 엘리야라 하고 또 어떤 이는 그가 선지자니 옛 선지자 중의 하나와같다 하되

16 헤롯은 듣고 이르되 내가 목 벤 요한 그가 살아났다 하더라

사람들은 예수님에 관해서 「다윗의 자손, 메시야다」라는 생각에는 미치지 못했지만예수님에 관해서 세가지 견해를 가지고 있었습니다. 첫째로 세례 요한이 다시살아났다는 것이며, 그래서 그런 능력이 그 속에서 일어난다는 견해입니다. 둘째 그는엘리야라는 견해입니다. 구약성경의 말라기 4장 5절을 보면 엘리야를 너희에게보낸다고 기록되어 있기 때문입니다. 사람들은 이 예언의 말씀을 암기하고있었을지도 모릅니다. 그들은 구약성경의 지식이 있고 분명히 세례 요한과 주 예수를예언자로서 인정했지만 그 예언자가 하는 말씀은 듣지 않고 계속 무시했다는 것을 알수 있습니다. 왜냐하면 세례 요한은 분명히 자기 보다 나은 분이 나중에 오신다고증언했기 때문입니다. 마가복음 1장 7절을 참조하십시오.그가 전파하여 이르되 나보다 능력 많으신 이가 내 뒤에 오시나니 나는 굽혀 그의신발끈을 풀기도 감당하지 못하겠노라이는 예로부터 이스라엘에서 반복되어 온 죄이기 하지만, 사람들은 예언자를예언자로서 인정하지만 그 예언자라고 생각한 사람들의 말에는 귀담아 듣고 따르지않았습니다.주 예수에 관해서 갖가지 억측이 난무하는 가운데 헤롯 왕은 「이는 세례 요한이 죽은자 가운데서 살아났도다 」라고 말했습니다. 세례 요한은 생전에 어떠한 기적도 행하지않았지만, 그럼에도 불구하고 헤롯은 주 예수를 통해 세례 요한의 모습을 똑똑히 보고있는 것입니다. 마가복음은 실로 이 말씀을 전하고자 과거의 일인 세례 요한의 죽음을회고하는 것처럼 읽혀집니다. 「저 세례 요한이 살아났구나」라는 놀라운 말이 우리독자들의 마음을 울리는 것 같습니다. 덧붙여서 마가복음의 끝을 보면 역시 예수그리스도의 부활에 대한 청년들의 증언으로 복음서가 닫혀 있습니다. 16장 6절을참조하십시오.청년이 이르되 놀라지 말라 너희가 십자가에 못 박히신 나사렛 예수를 찾는구나 그가살아나셨고 여기 계시지 아니하니라 보라 그를 두었던 곳이니라이 증언을 듣고 여자 제자들은 몹시 놀라 떠는데 이것이 마가복음의 마지막입니다.16장 9절이후에는 후대에 추가된 문장이기 때문입니다.

16장의 여자 제자들의 놀라움과 헤롯 왕의 놀라움이 겹쳐져 있습니다. 그래서 세례요한의 죽음이란 바로 이 후에 일어날 주 예수님의 십자가 죽음을 암시한다고 할 수있습니다. 더 말하면 그 후에 일어날 주 예수 제자들의 순교의 죽음조차도 암시하고있다고 할 수 있습니다. 하지만 순교의 죽음의 암시도 중요하지만 단순히 죽음으로끝나는 것이 아닙니다. 죽음의 건너편에 「부활」이 있다는 것이 주장되고 있는것입니다. 따라서 「저 요한이 살아났구나」라는 헤롯 왕의 말은 어떤 진리의 일면을나타낸다고 할 수 있습니다. 세례 요한은 지상에서의 생애가운데 회개의 복음을선포하고 사로잡혀 감옥에 투옥되고 그리고 결국에는 순교의 죽음으로 생을마감했습니다. 너무나 어이없고 가벼운 죽음처럼 보입니다. 그러나 하나님의 눈으로볼 때 그 요한의 생애는 바로 처음부터 끝까지 주 예수님의 선구자로서의 고귀한발검음었습니다. 주 예수님은 세례 요한이 했던 것처럼 회개의 복음을 말씀하시고잡히시고 메시아로서 십자가의 죽음을 성취하셨습니다. 그런데 죽으시고 장사된 후사흘 만에 부활하셨습니다. 죽음의 힘은 그리스도의 승리에 삼켜져 버렸습니다. 이세상의 삶이 전부가 아닌 죽음 너머에 영원한 세계가 있고 부활은 영원한 생명으로가는 입구이며 그리스도의 제자들은 이 영광된 부활에 참여하고 있다는 것이 헤롯왕의 말에 암시되어 있는 것입니다. 우리가 믿는 수많은 성경 약속들이 이 세상에서반드시 성취되는 것은 아닐 것입니다. 살아있는 동안에 믿고 있는 모든 약속이실현되는 것을 직접 보는 것은 이루어지지 않을 것입니다. 그러나 성경은 다음과 같이그리스도인을 격려하고 있습니다. 히브리서 11장 13절을 참조하십시오.이 사람들은 다 믿음을 따라 죽었으며 약속을 받지 못하였으되 그것들을 멀리서 보고환영하며 또 땅에서는 외국인과 나그네임을 증언하였으니이 사람들은 믿음을 가지고 죽었습니다. 약속되어진 것을 다 손에 쥐지는 못했지만그럼에도 불구하고 믿음의 눈으로 본 것을 기쁨의 환성을 지르며 자신들이지상에서는 외국인이며 나그네임을 공개적으로 표현한 것입니다.이 믿음의 선진들은 믿음에 의해 보이지 않는 것을 분명히 누렸는데 그것은 이 세상에있어서가 아니었다는 것입니다. 그리스도인은 이 세상에서 외국인이며 나그네이지만복된 부활이 약속되어 있고 이 세상의 삶을 다한 후 예수 그리스도께 있는 영광스럽게빛나는 영원한 생명을 누리는 자가 될 것이라고 약속되어 있습니다.

결론

세례 요한의 죽음에 대해 언뜻 보기에는 너무 어이없고 가벼운 죽음처럼 생각될지모르지만 하나님이 눈으로 볼 때는 그것은 참으로 고귀한 죽음이었습니다. 왜냐하면요한은 그리스도의 선구자로서의 삶을 걸었고, 그 생애는 그리스도의 십자가의죽음과 부활을 암시하는 것이었기 때문입니다. 공교롭게도 헤롯 왕이 「저 요한이살아났구나」라고 말했듯, 이 세상의 삶이 전부가 아니라 죽음 너머에 영원한 세계가있고 그리스도인은 예수 그리스도 안에 있는 영광된 부활이 약속되어 있는 것입니다.그러므로 요한이 이 세상에서 살아 있는 동안 비록 감옥 안에서도 복음을 계속선포했듯이 우리도 그리스도의 제자로서 생명이 허락되는 한 복음을 선포하고 전하는자들이 됩시다. 말을 통해 행실을 통해, 이웃에게 사람을 가지고 이야기해 나가는자들이 되도록 합시다.

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