2023年08月06日「カナンの女の信仰 가나안 여인의 믿음」

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カナンの女の信仰 가나안 여인의 믿음

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マタイによる福音書 15章21節~28節

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聖句のアイコン聖書の言葉

15:21イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。
15:22すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。
15:23しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」
15:24イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。
15:25しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。
15:26イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、
15:27女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
15:28そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 15章21節~28節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

主イエスは、ガリラヤ地方の北あるティルスとシドンの地方に退かれました。ティルスとシドンとは、巻末の地図6をご覧になれば分かりますように、シリア・フェニキア地方の港町であり、貿易が盛んな裕福な町でありました。BC.4世紀にアレキサンダー大王によって、ギリシャに併合されてからは、ギリシャ化された地域でもありました。イエス様がそこへ退かれたのは、異邦人に伝道するためではありません。ガリラヤで御言葉を語り始めてから、いくつかの問題が起こってきたため、その問題を回避するために、ここにやって来たのであります。その問題とは、第一に、エルサレム当局から来た、宗教指導者たちの憎悪と妬みを避けるためでありました。第二に、熱狂的な群衆の間違った期待を避けるためでありました。イエス様は、ガリラヤの地から追いやられるかのようにして、このティルスとシドンの地方に来たのであります。すると、その地方のカナン人の女がイエス様の前にやって来ました。

【1】. 主よ、ダビデの子よ

21~22節をご覧ください。

“イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。”

フェニキアのシドンと言えば、北イスラエルにバアルの預言者とアシェラの預言者を匿った張本人イゼベルの故郷でもありました。マルコ7:26の並行記事を見ますと、この「女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」と書かれています。マタイによる福音書では、「カナン人」と書かれています。マルコが異邦人向けに書かれた福音書であり、マタイがユダヤ人向けに書かれた福音書であることを考えれば、このような表記の違いが生じたことを理解することができます。「カナン人」とは、イスラエルがカナンに定住する前に住んでいた原住民です。昔、偶像崇拝のため、著しく腐敗したカナン人は、ヨシュアの率いるイスラエルによって、根絶やしにされるはずの民族でありました。しかし、そこから免れた一部のカナン人が、フェニキア地域に残存したのです。ですから「カナン人」と聞いただけで、ユダヤ人は軽蔑し、汚れた民として神経をとがらせたに違いなかったのであります。

カナンの女は、娘が悪霊にひどく苦しめられ、最後のたのみの綱として、主イエスの前にやって来ました。22節に「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ、と書かれています。この叫んだという言葉の時制は、未完了形であるため、何度も反復し、継続したことが伝わってきます。そして、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」という叫びは、大変ユダヤ的な願いであります。特に「ダビデの子」という言葉は、ユダヤ人の思想に深く刻まれているメシア思想を表す表現であり、当時ガリラヤ地方において噂になっていたイエス様に対し「メシア、すなわち、救い主」として告白しているのです。イエス様は、まさに、この告白をご自身の民、イスラエルから聞きたかったのではないでしょうか。ところが、異邦人の地においてこの告白を聞くことになったのです。余談ですが、マタイの福音書の中には「ダビデの子」という言葉が比較的多く用いられています。福音書の冒頭にも「ダビデの子」という言葉が出て来ます。その言葉の中に、メシアの到来の喜びが満ちているようです。本日の15章では、カナンの女が、自らの信仰告白として「主よ、ダビデの子よ」と救いを求めているのです。

【2】. イスラエルの家の失われた羊のところへ

ところが、主イエスは女に何もお答えにならず、沈黙されました。23節をご覧ください。

“しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」”

弟子たちは、女がしつこく叫び続けるために、「追い払ってください」と言っています。この「追い払ってください」という言葉は、「自由にする」と解釈できる言葉でもありますから、23節は「女の要望をかなえてあげて、早く去らせてください。しつこくつきまといますから」という意味なのかもしれません。女がイエス様に食い下がる中、イエス様は一言、口を開きました。大変そっけない一言であります。24節をご覧ください。

“イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。”

私たちの理解にも苦しむ一言であります。この言葉を、女に対して言われたのか、弟子たちに対して言われたのか、目的語が定かでないため正確には分かりませんが、両者に言われたのだと思います。その言葉は、主イエスの父なる神の御心に対する従順と、神のイスラエルに対する信実さを表しています。以前、十二弟子を、短期宣教のため派遣するときにも同じようなことを言われました。10:5-6をご覧ください。

“イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。”

「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と、弟子たちにも同じことを言っています。弟子たちが主イエスから派遣されたように、主イエスも、父なる神から、「イスラエルの失われた羊のところ」へ派遣されているのです。イエス様は地上における働きを、イスラエルの民に制限させ、ご自身のことをメシアとして受け入れる最初の機会は、ユダヤ人のものでなければならないと考えました。父なる神が、エルサレムから全世界の人々に救いのメッセージが提示されることを希望されたからであります。父なる神が、アブラハムを通して、全世界に祝福が拡がるように希望されたからです。イエス様は、ご自身の使命をはっきり自覚し、そして父なる神の御心を行われたのであります。

【3】. 絶望の中からの祈りと叫び

しかし、女にとってはこのイエス様の一言は、自分の叫びに対する拒絶として響いて来ます。25節で、女は、さらにイエス様の前にひれ伏し「主よ、どうかお助けください」と言っています。短い言葉ですが、そこには女の切なさがあり、深き淵からの、祈りのような叫びのように聞こえてきます。この時、女は孤独の中で、誰にも理解されずに、たった一人で苦悩と闘っていました。私たちが人生の中で経験する苦悩というのも、しばしば孤独であり、その苦悩の深みは、誰にも理解されず、共有されないものでございます。そして人は、絶望に直面して初めて、自分の罪深さ、自分の無能さに直面するのだと思います。そしてその中で真の信仰へと導かれていくのではないでしょうか。イエス様は女の切なる祈りのような叫びでさえ、拒絶されました。26節において「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになります。このお言葉は、一種の比喩であります。ですが取り方によっては、非常に残酷な言葉のように聞こえてきます。「子供たちのパン」とありますが、「子供たち」とは、選民イスラエルを指しています。「パン」とは、「救い」のことでしょう。子犬と言えばギリシャ人にとっては、ペットの犬を思い浮かべるかもしれませんが、ユダヤ人にとって犬とは、相手を軽蔑するときに使う用語であり、異邦人を呼ぶときに「犬」という言葉を使っていました。マタイ福音書7:6には次のような御言葉があります。

“神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」”

このようなユダヤ人の考え方、価値観を理解しているならば、イエス様の比喩は少しかわいそうにも思えてくるような感じがいたします。ところがカナンの女は、このイエス様の比喩を正確に理解しました。普段、イエス様を取り囲んでいる弟子たちが、イエス様の比喩を中々理解できないのとは対照的です。その上で、女は次のように答えています。27節をご覧下さい。

“女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」”

「主よ、ごもっともです。」と言っています。女は、自分自身が軽蔑される対象であり、主に顧みられる資格のないこと、主人の食卓に着く資格のないことを十分に承知していました。「汚れた民族の子孫である私など、主の恵みに与る資格の全くないものです」ということです。「食卓」という言葉が使われていますので、本日も聖餐式がありますが、霊的な意味で取るなら「私など、救われて、天の祝宴に連なる資格の全くないものです」ということです。そして、自分がユダヤ人から軽蔑される犬であることを謙虚に認めながら、そして、救いを意味する「パン」をいただけるとは主張せず、「食卓から落ちるパン屑」なら、いただくことができるのではないかと主張しているのです。というのは、選民イスラエルは、パンを拒絶し、食卓の下にパン屑をこぼしていたからです。主イエスは、ご自身の使命とイスラエルの民に対して誠実でありましたが、むしろ選民イスラエルが主イエスを拒絶し、このティルスとシドンの地へ立ち退かせたという経緯がありました。カナンの女が、イエス様一行の後を追って、しつこく叫び続けた行為とは、まさに子犬のように、食卓から落ちるパン屑をこいねがう、謙虚な祈りであり、その祈りに裏打ちされた謙虚な信仰だったのです。イエス様は女の信仰の大きさに喜ばれ、次のようにお答えになりました。28節です。

“そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。”

イエス様は最後に、「あなたの信仰は立派だ」「あなたの信仰は大きい」と、女の信仰を賞賛され、娘の病気を癒されました。ここで起こっていることは、故郷のナザレで起こったことと全く正反対のことであります。イエス様は、ナザレの人々が不信仰だったので、あまり奇跡をなさいませんでしたが、今朝の御言葉では、カナンの女の大きな信仰が、イエス様の想定外の奇跡を行わせたのです。イエス様はカナンの女の信仰を喜ばれ、彼女の願い通り、娘の病気を癒されました。この女の謙虚さに、まさに信仰の要素が凝縮されているのだと思います。信仰とは、そもそも神様から与えられる恵みであり、自分が救われる価値のないことを徹底的に認めること、自分自身の貧しさを知る事であります。果たして、救われる価値のある人が一人でもいるでしょうか。果たして、天の祝宴に連なる資格のある人が一人でもいるでしょうか。そのような人は一人もいません。たとえ選民イスラエルであっても、彼らに資格があって、何か人より優れているから、人より力があるから、選ばれたのではなく、神の一方的な憐れみにより、信仰によって救いに与ることができるのです。ですから私たちは、あの人の信仰は大きい、あの人の信仰は小さいなどと評価することは出来ないのです。信仰とは、自分のレベルを他人に誇るというようなものではないからです。それにも関わらず、聖書には、神の家族の中で、信仰が成長すること、信仰には大小があり、幼い乳飲み子たちと、信仰の母たち、信仰の父たちについて言及されています。弟子たちはしばしば、信仰の薄い者たちと、叱責されました。従いまして信仰とは、成長し、増大するものであるということが分かります。信仰とは、自分が貧しいことを一層深いところで知ること、自分が救われる価値のないことを一層深いところで知ることであります。間違っても信仰とは、セルフイメージを高く保つことではありません。いつでも笑顔を絶やさず、人々に好感を持たれる自分を演出することでもありません。セルフイメージが低くても良い、自分のみじめさ、貧しさを認めても良い。犬と呼ばれるような者であっても良い。「ごもっともです」と言って良いのです。そもそも、私たちは神の御前に、全く資格のない者なのです。神から遠く離れ、望みもなく、滅びて当然の者たちでありました。しかし、今朝の御言葉から学ぶことは、そのような者たちであっても、卑屈にならず、いじけず、神に求めることが許されているということ。そして、神はそのような私たちの全存在を受け止めてくださり、憐れんでくださるということではないでしょうか。

【結論】

信仰とは、主イエス様を知ることであり、主イエスの似姿に変えられることであると同時に、自分自身の貧しさを知ることであります。信仰は恵みによって、上から与えられるものでありますが、同時に、孤独の中で、誰にも理解されない深い苦悩と絶望を通して、成長し、増大するものであります。カナンの女は、孤独と苦難と嘲りの中で、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と謙虚になりつつも、最後まであきらめることをしませんでした。救われる資格がなくとも、人々には受け入れられず、孤独の中で深い絶望の中に置かれていても、救い主は私を受け入れてくださっていること、そのことに依り頼みながら、私たちは歩ませていただきましょう。惨めさを甘んじ、周囲の嘲りや、軽蔑さえも甘んじ、さらには、神が私たちの祈りに、しばしの間、沈黙されることがあったとしても、なお、神に求めていくことが許されているということを覚えつつ、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と、粘り強く祈る者たちとならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

가나안 여인의 믿음

2023년 8월 6일 센겐다이교회 주일설교

마태복음 15장 21~28절

서론

주 예수님은 갈릴리 지방의 북쪽에 있는 두로와 시돈 지방으로 물러나셨습니다. 두로와 시돈은 지도를 보시면 알 수 있듯이 시리아 페니키아 (수로보니게) 지방의 항구도시이자 무역이 활발한 부유한 마을이었습니다. BC. 4세기 알렉산더 대왕에 의해서 그리스에 합병되고 나서 그리스화 된 지역이기도 했습니다. 예수님이 그곳으로 물러나신 것은 이방인에게 전도하기 위해서가 아닙니다. 갈릴리에서 말씀을 전하신 이후 몇 가지 문제가 발생했기 때문에 그 문제를 피하기 위해 이곳에 오신 것입니다. 그 문제는 첫째, 예루살렘 당국에서 온 종교 지도자들의 증오와 질투를 피하기 위해서였습니다. 둘째, 열광적인 무리의 잘못된 기대를 피하기 위해서였습니다. 예수님은 갈릴리 땅에서 쫓겨나듯 이 두로와 시돈 지방에 오신 것입니다. 그러자 그 지방의 가나안 여인이 예수님 앞에 찾아왔습니다.

(1) 주 다윗의 자손이여

21,22절을 보시기 바랍니다.

21 예수께서 거기서 나가사 두로와 시돈 지방으로 들어가시니

22 가나안 여자 하나가 그 지경에서 나와서 소리 질러 이르되 주 다윗의 자손이여 나를 불쌍히 여기소서 내 딸이 흉악하게 귀신 들렸나이다 하되

페니키아의 시돈이라고 하면 북이스라엘에 바알 선지자와 아세라 선지자를 숨겨둔 장본인 이세벨의 고향이기도 했습니다. 마가복음 7장 26절 병행기사를 보면 「그 여자는 헬라인이요 수로보니게 족속이라」수로보니게는 시리아와 페니키아의 합성어입니다. 마태복음에는 「가나안 여자」라고 적혀 있습니다. 마가복음이 이방인을 위해서 쓰여진 복음서이고 마태복음이 유대인을 위해서 쓰여진 복음서임을 생각하면 이런한 표기의 차이가 생겼음을 이해할 수 있습니다. 「가나안 사람」이란 이스라엘이 가나안에 정착하기 전에 살았던 원주민입니다. 옛날 우상숭배 때문에 심하게 부패한 가나안 사람들은 여호수아가 이끄는 이스라엘에 의해 근절되었어야 할 민족이었습니다. 그러나 그곳에서 벗어난 일부 가나안인들이 수로보니게 지역에 잔존하고 있었던 것입니다. 그래서 가나안 사람이라고만 들어도 유대인들은 경멸하고 부정한 백성으로 여겨 신경을 곤두세웠을 것입니다.

가나안 여자는 딸이 흉악하게 귀신이 들려 심하게 시달려 최후의 방법으로 주 예수님 앞으로 찾아 왔습니다. 22절에 주 다윗의 자손이여 「나를 불쌍히 여기소서 내 딸이 흉악하게 귀신 들렸나이다」라고 소리 질렀다고 적혀져 있습니다. 이 소리 질렀다고 하는 단어의 시제가 미완료형이기 때문에 몇번이나 반복해서 계속해서 소리 질렀다는 것을 알 수 있습니다. 그리고 「주 다윗의 자손이여 나를 불쌍히 여기소서」라는 외침은 매우 유대적인 간청이었습니다. 특히 「다윗의 자손」이라고 하는 단어는 유대인의 사상에 깊이 새겨져 있는 메시아 사상을 나타내는 표현으로 당시 갈릴리 지방에서 소문난 예수님에 대해서 「메시아, 즉 구원자」로서 고백하고 있는 것입니다. 예수님은 바로 이 고백을 자신의 백성, 이스라엘로부터 듣고 싶었던 것이 아닐까요. 그런데 이방인의 땅에서 이 고백을 듣게 된 것입니다. 여담이지만 마태복음에서 「다윗의 자손」이라는 말이 비교적 많이 쓰이고 있습니다. 복음서 첫머리에도 「다윗의 자손」이라는 단어가 나옵니다. 그 단어 속에 메시아 도래의 기쁨이 가득한 것 같습니다. 오늘의 15장에서는 가나안 여인이 자신의 신앙고백으로 「주 다윗의 자손이여」라고 구원을 청하고 있는 것입니다.

(2) 이스라엘 집의 잃어버린 양에게

그런데 주 예수님은 여자에게 아무 대답도 하지 않으시고 침묵하셨습니다. 23절을 보세요.

예수는 한 말씀도 대답하지 아니하시니 제자들이 와서 청하여 말하되 그 여자가 우리 뒤에서 소리를 지르오니 그를 보내소서

제자들은 여자가 끈질기게 소리를 지르기에 「보내소서」라고 말하고 있습니다. 이 「보내소서」라는 말은 「자유케 하다」라고 해석 할 수 있는 말이기도 하니까 23절은 “여자의 요청을 들어주고 빨리 보내버리세요. 끈질기게 따라다닐 테니까요”라는 뜻일지도 모릅니다. 여자가 예수님을 물고 늘어지는 가운데 예수님은 입을 여시고 한마디 말씀하셨습니다. 매우 쌀쌀맞는 한마디입니다. 24절을 보세요.

예수께서 대답하여 이르시되 나는 이스라엘 집의 잃어버린 양 외에는 다른 데로 보내심을 받지 아니하였노라 하시니

우리가 이해하기도 힘든 한마디입니다. 이 말을 여자에게 하신 것인지 제자들에게 하신 것인지 목적어가 확실하지 않기 때문에 정확하게는 모르겠지만 양쪽에게 하신 말이라고 생각합니다. 그 말씀은 주 예수님의 아버지 되신 하나님의 뜻에 대한 순종과 하나님의 이스라엘에 대한 신실함을 나타내고 있습니다. 이전에 열두 제자를 단기 선교를 위해 파송할 때도 같은 말씀을 하셨습니다. 마태복음 10장 5,6절을 참조하십시오.

5 예수께서 이 열둘을 내보내시며 명하여 이르시되 이방인의 길로도 가지 말고 사마리아인의 고을에도 들어가지 말고

6 오히려 이스라엘 집의 잃어버린 양에게로 가라

「이스라엘 집의 잃어버린 양에게로 가라」고 제자들에게도 똑같은 말씀을 하고 계십니다. 제자들이 주 예수로부터 파송된 것처럼 주 예수님도 하나님 아버지로부터 「이스라엘 집의 잃어버린 양」에게로 파송되고 있는 것입니다. 예수님은 지상에서의 일을 이스라엘 백성으로 제한시키시고 자신을 메시아로서 받아들이는 첫 번째 기회는 유대인의 것이어야 한다고 생각하셨습니다. 하나님 아버지께서 예루살렘에서 전 세계 사람들에게 구원의 메시지가 제시되기를 원하셨기 때문입니다. 하나님 아버지께서 아브라함을 통해 전 세계에 축복이 퍼지길 원하셨기 때문입니다. 예수님은 자신의 사명을 분명히 자각 하시고 하나님 아버지의 뜻을 행하셨습니다.

(3) 절망 가운데서의 기도와 부르짖음

그러나 여자에게 있어서는 이 예수님의 한 마디는 자신의 부르짖음에 대한 거절로 울려 오는 것입니다. 25절에서 여자는 심지어 예수님 앞에 엎드려 절하며 말하기를 「주여 저를 도우소서」라고 말합니다. 짧은 말이지만 거기에는 여자의 절박함이 있고 깊은 심령에서 나오는 기도와 같은 외침처럼 들려옵니다. 이 때 여자는 고독 속에서 아무에게도 이해받지 못하고 혼자 고뇌와 싸우고 있었습니다. 우리가 인생에서 겪는 고뇌라는 것도 종종 고독하고 그 고뇌의 깊이는 누구에게도 이해되지 않고 공유되지 않는 것입니다. 그리고 사람은 절망에 직면해야만 자신의 깊은 죄의 본성, 자신의 무능에 직면한다고 생각합니다. 그리고 그 안에서 진정한 믿음으로 인도되지 않을까요? 예수님은 여인의 간절한 기도 같은 부르짖음 조차도 거절하셨습니다. 26절에서 「자녀의 떡을 취하여 개들에게 던짐이 마땅하지 아니하니라」라고 대답하셨습니다. 이 말씀은 일종의 비유입니다. 하지만 받아들이기에 따라서는 매우 잔혹한 말처럼 들려옵니다. 「자녀의 떡」이라고 되어 있는데 「자녀」란 선민 이스라엘을 말합니다. 「떡」은 「구원」을 말하는 것이겠죠. 개라고 하면 그리스인에게 있어서는 애완견을 떠올릴 수 있을지도 모르겠지만 유대인에게 있어서는 개는 상대방을 경멸할 때 쓰는 용어로 이방인을 부를 때 「개」라는 말을 사용했습니다. 마태복음 7장 6절에는 다음과 같은 말씀이 있습니다.

거룩한 것을 개에게 주지 말며 너희 진주를 돼지 앞에 던지지 말라 그들이 그것을 발로 밟고 돌이켜 너희를 찢어 상하게 할까 염려하라

이런 유대인의 사고방식, 가치관을 이해한다면 예수님의 이 비유는 조금 불쌍하기도 합니다. 그런데 가나안 여인은 이 예수님의 비유를 정확하게 이해했습니다. 평소 예수님을 둘러싸고 있는 제자들이 예수님의 비유를 좀처럼 이해하지 못하는 것과는 대조적입니다. 그리고 여인은 다음과 같이 대답하고 있습니다. 27절을 보세요.

여자가 이르되 주여 옳소이다마는 개들도 제 주인의 상에서 떨어지는 부스러기를 먹나이다 하니

「주여 옳소이다」라고 말합니다. 여자는 자기 자신이 경멸받는 대상이며 주께 돌보심을 구할 자격이 없다는 것, 주인의 상에 앉을 자격이 없다는 것을 충분히 알고 있었습니다. “부정한 민족의 후손인 저 같은 건 주님의 은혜를 받을 자격이 전혀 없습니다”라는 것입니다. 「상」이라는 말이 쓰이고 있기 때문에 오늘도 성찬식이 있는데 영적인 의미로 취한다면 “저 같은 것은 구원을 받아서 하늘의 연회에 참석할 자격이 전혀 없습니다.”라는 것입니다. 그리고 자신이 유대인들로부터 경멸받는 개임을 겸허히 인정하면서 그리고 구원을 뜻하는 「떡」을 달라고 주장하지 않고 「상에서 떨어지는 부스러기」라면 받을 수 있지 않겠느냐고 주장하는 것입니다. 선민인 이스라엘 백성은 떡을 거절하고 상 밑에 떡 부스러기를 떨어뜨렸기 때문입니다. 주 예수께서는 자신의 사명과 이스라엘 백성에 대하여 신실하셨으나 오히려 선민 이스라엘이 주 예수를 거절하고 이 두로와 시돈 땅으로 물러나시게 한 경위가 있습니다. 가나안 여인이 예수님의 일행의 뒤를 쫓아 끈질기게 계속해서 부르짖은 행위란 바로 개처럼 상에서 떨어지는 떡 부스러기를 간절히 바라는 겸허한 기도요, 그 기도에 뒷받침된 겸손한 믿음이었던 것입니다. 예수님은 여인의 큰 믿음을 보시고 기뻐하시면서 다음과 같이 대답하셨습니다. 28절입니다.

이에 예수께서 대답하여 이르시되 여자여 네 믿음이 크도다 네 소원대로 되리라 하시니 그 때로부터 그의 딸이 나으니라

예수님은 마지막으로 「네 믿음이 훌륭하다」 「네 믿음이 크도다」라고 여인의 믿음을 칭찬하시고 딸의 병을 치유하셨습니다. 여기서 일어나고 있는 일은 고향 나사렛에서 일어난 일과 정반대의 일입니다. 예수님은 나사렛 사람들이 불신했기 때문에 별로 기적을 행하지 않으셨지만 오늘 아침 말씀으로는 가나안 여인의 큰 믿음이 예수님의 예상밖의 기적을 이루게 한 것입니다. 예수님은 가나안 여인의 믿음을 기뻐하시고 그녀의 소원대로 딸의 병을 치유하셨습니다. 이 여자의 겸손함에 바로 믿음의 요소가 응축되어 있다고 생각합니다. 믿음은 애초에 하나님께서 주시는 은혜이며, 자신이 구원받을 가치가 없음을 철저히 인정하는 것, 자신의 가난을 아는 것입니다. 과연 구원받을 가치가 있는 사람이 한 명이라도 있을까요? 과연 하늘 잔치에 참석할 자격이 있는 사람이 한 명이라도 있을까요? 그런 사람은 한 명도 없습니다. 비록 선민 이스라엘이라 할지라도 그들은 자격이 있고 무엇인가 남보다 뛰어나기 때문에, 남보다 힘이 있기 때문에 선택된 것이 아니라 하나님의 일방적인 긍휼하심에 의해, 믿음으로 구원을 받을 수 있는 것입니다. 그래서 우리는 저 사람의 믿음은 크다, 저 사람의 믿음은 작다 등으로 평가할 수 없습니다. 믿음이란 자신의 수준을 남에게 자랑하는 것이 아니기 때문입니다. 그럼에도 성경에는 하나님의 가족안에서 믿음이 성장하는 것, 믿음에는 크고 작은 것이 없으며 어린 젖먹이들과 믿음의 어머니들, 믿음의 아버지들에 대해 언급되어 있습니다. 제자들은 종종 믿음이 얕은 자들이라는 질책을 받았습니다. 따라서 믿음이란 성장하고 증대하는 것임을 알 수 있습니다. 믿음은 자신이 가난하다는 것을 더욱 깊이 깨닫고, 자신이 구원받을 가치가 없다는 것을 더욱 깊이 깨닫는 것입니다. 틀린 말이라도 믿음이란 셀프이미지를 높게 가지는 것이 아닙니다. 언제나 미소를 잃지 않고 사람들에게 호감을 주는 모습을 연출하는 것도 아닙니다. 셀프이미지가 낮아도 좋다, 자신의 비참함, 가난을 인정해도 된다. 개라고 불리우는 사람이어도 좋다. 「옳소이다」라고 말해도 괜찮습니다. 원래 우리는 하나님 앞에 전혀 자격이 없는 자들입니다. 하나님으로부터 멀리 떠나 희망도 없고 망해야 마땅한 자들이었습니다. 그러나 오늘 아침 말씀에서 배우는 것은 그런 자들도 비굴해하지 않고 주눅들지 않으며 하나님께 구하는 것이 허락된다는 것, 그리고 하나님께서는 그런 우리의 전 존재를 받아주시고 불쌍히 여기신다는 것이 아닐까요?

결론

믿음이란 주 예수님을 아는 것이며, 주 예수님의 형상을 닮아 가는 것과 동시에 자신의 가난함을 아는 것입니다. 믿음은 은혜에 의해서 위에서부터 내려오는 것이지만 동시에 고독한 가운데 누구에게도 이해받지 못하는 깊은 고뇌와 절망을 통해서 성장하고 증대하는 것입니다. 가나안 여인은 고독과 고난과 조롱속에서 「주여 옳소이다만은 개들도 제 주인의 상에서 떨어지는 부스러기를 먹나이다」라며 겸손해 하면서도 끝내 포기하지 않았습니다. 우리들은 구원받을 자격이 없다하더라도, 사람들에게 받아들여지지 않고 고독한 가운데 깊은 절망 가운데 놓여져 있다하더라도 구원자께서는 나를 받아주시고 있음을, 그것에 의지하며 걷는 자가 됩시다. 비참함을 달게 받고 주위의 조롱과 경멸마저도 달게 받아 들이며 심지어 하나님이 자신의 기도에 한동안 침묵하시는 상황이 있더라도 하나님께 요구하는 것이 허용된다는 것을 기억하면서 「주여 옳소이다만은 개들도 제 주인의 상에서 떨어지는 부스러기를 먹나이다」라고 끈질기게 기도하는 자들이 되도록 합시다.

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