2023年07月30日「十二弟子の派遣 열두 제자의 파송」

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十二弟子の派遣 열두 제자의 파송

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 6章6b節~13節

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聖句のアイコン聖書の言葉

6:6bそれから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。
6:7そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、
6:8旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、
6:9ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
6:10また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。
6:11しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
6:12十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。
6:13そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 6章6b節~13節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 神の国の拡がりは弟子たちによって拡大されて行きます。本日の箇所には、十二弟子の派遣について書かれていますが、十二弟子を派遣するということは、当初十二人を任命したイエス様の目的でもありました(3:14)。イエス様は、やがてこの十二人を派遣するために、十二人をお立てになられたのです。教会は使徒の土台の上に立てられていますから、十二人が立てられた目的とは、それはすなわち、教会の目的でもあり、教会の存在理由でもあると言えるでしょう。教会とは、イエス様によって派遣されるために、世に散らされて宣教するために立てられたのです。人々に福音を証しし、信仰に導くために教会は立てられたのです。それでは、その宣教の業は、人間の計画通り進捗するのでしょうか。言い換えるなら、弟子たちの派遣による神の国の拡がりは、人間の計画通り進捗するのでしょうか。教会史に目を向けるなら、そうではないということが分かってきます。教会は迫害の中で、道が閉ざされ、そこから逃げるかのようにして、福音が広がっていったからです。本日の内容も、イエス様が生まれ故郷ナザレで受け入れられず、しょうがなくナザレの村を囲むようにしながら、宣教したというのが背景にございます。神の国の拡大は、イエス様に対する迫害や拒絶を通して、神様の不思議なご計画の中で、進捗して行ったのです。そのことは、イエス様の代理人として遣わされる弟子たちにおいても同じことが当てはまるでしょう。その師匠が迫害されているのに、弟子たちが良い待遇を期待することは出来ません。教会の拡がりの歴史とは、まさにキリストの弟子たちへの迫害と拒絶によって、散らされた歴史であると言うこともできるのです。

【1】. マルコによる福音書の鳥瞰図

 さて、ここでマルコによる福音書の鳥瞰図を確認したいと思います。抜粋のプリントをご覧ください。マルコ福音書は、イエス様の公生涯についてのみ記述されており、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになる場面から始まっています。そのため、イエス様の受肉やマリアの受胎告知、或いはイエス様の幼少期については、何も書かれていません。洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになる部分(1:1~15節)を、マルコ福音書の序論として考えるなら、1:16~3:12節まで、「イエス様のガリラヤ宣教」について書かれている部分を、第一段落として考えることができます。続く3:13~8:26を、「弟子たちの養育について」、「弟子訓練について」書かれている第二段落として考えることができます。本日の箇所も、弟子訓練の一環として、十二弟子を派遣する内容ですが、この第二段落は、さらに二つに分けることができます。前半部分を3:13~6:6a節まで、後半部分を6:6b~8:26節までとして理解することができます。プリントの説明はそこまでですが、この第二段落の後半部分の特徴は、弟子たちが二人ずつペアになって派遣され、宣教に出て行くのですが、その記事の中に、洗礼者ヨハネの福音宣教が、サンドイッチ構造によって挟まれていることです。洗礼者ヨハネも、神の国が到来したため、福音を宣べ伝えました。ヨハネが福音を宣べ伝えたと言いますと、もしかしたら意外に思われる方もおられるかもしれませんが、ルカによる福音書3:18には次のように書かれています。

“ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。”

洗礼者ヨハネは、福音を告げ知らせたと言うのです。それではそのヨハネが伝えた福音とは何だったのかと言いますと、「メシアの到来と、罪の赦しを得るために悔い改めを勧めること」であります。ヨハネの宣教の働きは、ヨルダン川においても、そして、ヘロデ・アンティパスによって捕らえられ後、その獄中の中においてもなされたことでしょう。そして実は、イエス様も、洗礼者ヨハネの伝えた福音を、そのまま踏襲しているということに気づかされます。マルコ福音書1:15に次のように書かれているからです。ご覧ください。

“「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。”

「悔い改めて福音を信じなさい。」洗礼者ヨハネの伝えた福音と、イエス様が伝えた福音が全く同じであることに、私たちは気づかされるのです。さらに言えば、十二弟子が伝えた福音もやはり、同じものでありました。本日の6:12に書かれているように、「悔い改めさせるために宣教した」のであります。このように見る時、弟子たちの宣教の記事の中に、サンドイッチの構造によって洗礼者ヨハネの殉教の死が挟まれているのは、弟子たちが福音宣教において受けることになる、迫害と拒絶を暗示しているかのように見えるのであります。その迫害と拒絶とは、まさに師匠であるイエス様の歩んで行かれた道でもありました。

【2】. 所持品と旅先での指示

 それでは本文を見てまいります。7節をご覧ください。

“そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、”

イエス様は弟子たちを一人で、派遣されたのではなく「二人ずつ組にして」派遣されたとあります。これは、使節を派遣する際における、昔からの慣例であったと思われます。特にユダヤ教においては、二人の証しによって、使節の証しの正当性が立証されるということがありました。申命記19:15には、次のような御言葉があります。そのままお聞きください。

“いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。”

ですから、二人であるなら、彼らが伝える福音が真実であることが立証されるのです。また、二人ずつ組にするなら、互いに信仰を励まし合い、互いに助け合い、万一、拒絶された場合でも互いに慰めることができたと思われます。このように教会の働きとは、単独の働きではなく、仲間と共にする働き、仲間と共にするチームワークの営みなのであります。また、7節には、主イエスが弟子たちに、汚れた霊に対する権能を授けられたと書かれています。主イエスの権能が授けられたために、弟子たちを通して、あたかも主イエスがされたような驚くべき業をなしていくことができました。そして、13節を見ると、驚くべきことに「そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」とございます。悪霊を追い出す働き、病人を癒す働きとは、まさにイエス様が、これまで御言葉を教えながら、なされてきた奇跡でありました。弟子たちは、二人ずつ組になり派遣されて、主イエスがなされた業と全く同じ業をしているのです。今や有名人となった主イエスの代理人である弟子たちによる、その業と、その教えを通して、ガリラヤの人々は、あたかも主イエスご自身が、自分たちの所に来て下さり、御言葉を語り、驚くべき奇跡をなしているような錯覚を覚えたに違いありません。ところで13節に「油を塗った」という描写がございます。これは実際に油を塗った訳ではないと思われます。確かにオリーブ油が医薬品として用いられていたという記録もありますが(ルカ10:34)、イエス様は病をいやす時、直接触れて癒されたり、或いは言葉のみで癒されたりしたからです。油を塗って癒されたことは書かれていません。また、旧約聖書において「油」は聖霊の恵みを表すために用いられる象徴的な言葉でありました。ですから、「油を塗った」というのは、神の祝福が注がれた象徴的な表現であったと考えられます。従って、13節は「神の恵みにより、多くの病人を癒した」という意味だと思われます。続いて8~9節です。

“旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。”

杖一本と、履物を履く以外には何も持って行ってはならないと書かれています。ただ、この箇所も、イエス様の弟子たちが宣教に出て行く際の、普遍的なルールが書かれていると解釈すべきではないと思います。というのは、イエス様と一緒に最後の晩餐を食べた後、本格的に弟子たちが派遣されるのですが、その時、イエス様は弟子たちに次のように指示されたからです。ルカ22:35~36をご覧ください。

“それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。”

逆のことが言われているわけです。ですから、マルコ6:8~9節は、文字通りそのまま受け止めるのではなく、「パンも、袋も、また帯の中に金も持たず」というその命令は、イエス様だけに依り頼んで、出て行きなさいということを言っていると思われます。あるいは、ここでの派遣は、長旅ではなく、短期的な訓練としての派遣であったため、旅の準備のために、いろいろと万全に準備してから出るのではなく、急いで出発しなさい!という「緊急性」が語られているのかもしれません。続いて10~11節をご覧ください。

“また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」”

イエス様は、弟子たちにある村に入ったら、一つの家に留まり、そこを拠点として宣教するように命じられました。これは、言い換えれば、良い待遇や、居心地の良さを求めて、家から家へと渡り歩いてはならないという戒めです。なぜなら、それは自分の工夫や自分の知恵によって、道を切り開こうとすることであって、主の導きに従順し、委ねることではないからです。しかし、もし、弟子たちが遣わされた場所で、人々から迎え入れられず、自分たちの宣教の言葉に耳を傾けようとしない場合は、そこを出て行き、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落しなさいと、お命じになりました。敬虔なユダヤ人は、自分たちが異邦人の習慣や異邦人の文化から分離されているということを示すために、異邦人の都市や、その領土を通ってきた後、必ず自分たちの履物から埃を払い落しました。そのことを念頭に置くなら、このイエス様の命令は、その地域に住むユダヤ人たちが、もし、主の代理として派遣された十二弟子を迎え入れず、その言葉に耳を傾けないのなら、「異邦人や異教の人々であるかのように扱いなさい!」つまり「あなた方はユダヤ人であっても、霊的には、異邦人と変わらないと、宣言せよ!」ということになります。大変強烈なメッセージです。これは何を意味するのでしょうか。福音が語られるなら、その福音を聞く側にも責任が伴うということが語られているのではないでしょうか。もし、弟子たちによって福音が語られるなら、そのメッセージは聞く側にとって、救いと裁きの両方に関連しているということです。ルカによる福音書12:47には次のような御言葉があります。

“主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。”

従いまして、福音を聞いた者たちには、その責任が伴うのであります。主の日の裁きにおいて、御言葉があまり語られなかったソドムやゴモラの方が、御言葉がよりたくさん語られたエルサレムやガリラヤより、はるかに耐えやすいのであります(マタ10:15)。ですから、御言葉を語る弟子たちは、万一、彼らの言葉が拒絶されたとしても、忠実に主イエスの教えを伝えたなら、非難されるには当たりません。福音を語る弟子たちには、その福音を忠実に伝えることの責任だけが問われるのです。逆に言えば、世の流行に合わせて、聞く側のニーズに合わせて、教えの内容を勝手に変えたりしてはならないという事です。教会が語る言葉は、救い主により罪の赦しを得るために、悔い改めを勧めることであり、それは、洗礼者ヨハネが語り、主イエスが宣言し、教会が使徒たちから継承した教えなのであります。

【結論】

 十二人は、二人ずつ組になって出て行き、イエス様から命じられた通りのことを致しました。すると多くの悪霊を追い出すことができ、多くの病人が癒すことができました。しかしマルコ福音書は、信仰に入った人々の数については沈黙しています。弟子たちの宣教の働きは、期待していたよりも大きくはなかったのでしょうか。この点に関しても、弟子たちは、彼らの師であり、先生である主イエスに似ていると言わざるを得ません。私たち教会の使命は、主イエスから派遣された者として、神の国の到来を告げ知らせ、罪の赦しを得るために悔い改めを勧めることであります。たとえ、その結果が、私たちが予想したものではなく、歓迎されず、むしろ迫害と拒絶に遭ったとしても、私たち教会は、イエス様から派遣されていることを信じ、忠実に福音を伝えていくのであります。そして、宣教の働きは、神様の不思議なご計画の中で、進捗されていくことを信じつつ、神様に全てを委ね、歩んでいく者とさせていただきましょう。また、弟子たちが二人ずつ組になって出て行ったように、私たちも、互いに励まし合い、互いに助け合い、互いに祈り合いながら、まだ救われていない配偶者のために、まだ救われていない家族、隣人のために、宣教の営みを続けてまいりましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

열두 제자의 파송

2023년 7월 30일 센겐다이교회 주일설교

마가복음 6장 6b~12절

서론

하나님 나라의 확장은 제자들에 의해서 확대되어 갑니다. 오늘의 구절에는 열두 제자의 파송에 대해서 쓰여져 있는데, 열두 제자를 파송한다는 것은 당초 열두 사람을 임명한 예수님의 목적이기도 했습니다(3장 14절). 예수님은 이윽고 이 열두 사람을 파송하기 위하여 열두 사람을 세우신 것입니다. 교회는 사도의 토대 위에 세워져 있기 때문에 열두 사람이 세워진 목적은 곧 교회의 목적이기도 하고 교회의 존재 이유이기도 하겠지요. 교회란 예수님에 의해 파송되기 위해, 세상으로 흩어져 선교하기 위해 세워진 것입니다. 사람들에게 복음을 증명하고 믿음으로 인도하기 위해 교회는 세워졌습니다. 그렇다면 그 선교사역은 인간의 계획대로 진척되는 것일까요? 다시 말해 제자들의 파송에 의한 하나님 나라의 확장은 인간의 계획대로 진행되는 것일가요? 교회사로 눈을 돌려 보면 그렇지 않다는 것을 알게 됩니다. 교회는 박해 속에서 길이 막혀 그 박해에서 도망치듯 복음이 퍼져 나갔기 때문입니다. 오늘의 내용도 예수님이 태어난 고향 나사렛에서 받아들여지지 않고 어쩔 수 없이 나사렛 마을을 에워싸듯 선교를 했다는 것이 배경입니다. 하나님 나라의 확대는 예수님에 대한 박해와 거절을 통해 하나님의 불가사이한 계획 속에서 진행되어 온 것입니다. 그 일은 예수님의 대리인으로 보내시는 제자들에게도 마찬가지일 것입니다. 그 스승이 박해받고 있는데 제자들이 좋은 대우를 받을 것이라고 기대할 수는 없습니다. 교회 확장의 역사란 바로 그리스도의 제자들에 대한 박해와 거절로 전세계로 흩어진 역사라고 할 수도 있습니다.

(1) 마가복음서의 조감도

자, 여기서 마가복음서의 조감도를 확인해 보고 싶습니다. 발췌한 프린트를 보시기 바랍니다. 마가복음은 예수님의 공생애에 대해서만 기술되어 있으며, 예수님이 세례자 요한으로부터 세례를 받는 장면으로 시작됩니다. 그렇기 때문에 예수님의 성육신이나 마리아의 수태고지, 혹은 예수님의 어린 시절에 대해서는 아무것도 적혀 있지 않습니다. 세례자 요한으로부터 세례를 받는 부분(1장 1~15절)을 마가복음의 서론으로 생각한다면 1장 16~3장 12절까지가 예수님의 「갈릴리 선교」에 대해 쓰여져 있는 부분을 첫 번째 단락으로 생각할 수 있습니다. 이어지는 3장 13~8장 26절을 「제자들의 양육에 대하여」,「제자훈련에 대하여」쓰여져 있는 두번 째 단락으로 생각할 수 있습니다. 오늘의 내용도 제자훈련의 일환으로서 열두 제자를 파송하는 내용입니다만 이 두번 째 단락은 두가지로 더 나눌 수 있습니다. 앞부분을 3장 13~6장 6a절까지, 뒷부분을 6장 6b~8장26절까지로 이해할 수 있습니다. 프린트 설명은 거기까지인데요. 이 두 번째 단락의 뒷부분의 특징은 제자들이 둘씩 짝을 지어 파송되어 선교를 나가는데 그 기사 속에 세례자 요한의 복음선교가 샌드위치 구조에 의해 끼워져 있다는 것입니다. 세례자 요한도 하나님의 나라가 도래했다고 복음을 전했습니다. 요한이 복음을 전했다고 하면 혹시 의외라고 생각하실 분이 계실지도 모르지만 누가복음 3장 18절에는 다음과 같이 기록되어 있습니다.

또 그밖에 여러 가지로 권하여 백성에게 좋은 소식을 전하였으나

세례자 요한은 좋은 소식을 알렸다고 합니다. 그러면 그 요한이 전한 좋은 소식이 무엇이었냐 하면 「메시야의 도래와 죄의 용서를 얻기 위해 회개를 권하는 것」입니다. 요한의 선교활동은 요단 강에서도 그리고 헤롯 안디바에 의해 체포된 후 그 옥중에서도 이루어졌을 것입니다. 그리고 사실 예수님도 세례자 요한이 전한 복음을 그대로 답습하고 계시다는 것을 깨닫게 됩니다. 마가복음 1장 15절에 다음과 같이 적혀 있기 때문입니다. 보시죠.

이르시되 때가 찼고 하나님의 나라가 가까이 왔으니 회개하고 복음을 믿으라 하시더라

「회개하고 복음을 믿으라」 세례자 요한이 전한 복음과 예수님이 전한 복음이 똑같다는 것을 우리는 깨닫게 되는 것입니다. 더욱이 열두 제자가 전한 복음 역시 마찬가지였습니다. 오늘 6장 12절에 쓰여져 있듯이 「회개시키기 위해 선교한 것」입니다. 이렇게 볼 때 제자들의 선교 기사 속에 샌드위치 구조에 따라 세례자 요한의 순교의 죽음이 끼어 있는 것은 제자들이 복음 선교에서 받게 될 박해와 거절을 암시하는 것처럼 보입니다. 그 박해와 거절이란 바로 스승이신 예수님이 걸어가신 길이기도 했습니다.

(2) 소지품과 여행을 위한 지시

그럼 본문을 살펴보도록 하겠습니다. 7절을 보세요.

열두 제자를 부르사 둘씩 둘씩 보내시며 더러운 귀신을 제어하는 권능을 주시고

예수님은 제자들을 한명씩 파송하신 것이 아니라 「둘씩 둘씩 조를 지어」파송하셨습니다. 이는 사절을 파견할 때 오랜 관례였던 것으로 보입니다. 특히 유대교에서는 두 사람의 증거에 의해 사절의 증거의 정당성이 입증되는 경우가 있었습니다. 신명기 19장 15절에는 다음과 같은 말씀이 있습니다. 보시겠습니다.

사람의 모든 악에 관하여 또한 모든 죄에 관하여는 한 증인으로만 정할 것이 아니요 두 증인의 입으로나 또는 세 증인의 입으로 그 사건을 확정할 것이며

그러므로 두 사람이라면 그들이 전하는 복음이 진실임이 입증되는 것입니다. 또한 두 사람씩 짝을 이룬다면 서로 신앙을 격려하고 서로 도우며 만일 거절당했을 경우에도 서로 위로할 수 있었을 것으로 생각됩니다. 이처럼 교회의 사역이란 단독적인 일이 아니라 성도가 함께 하는 일, 성도가 함께하는 팀워크의 일입니다. 또 7절에는 주 예수께서 제자들에게 더러운 귀신을 제어하는 권능을 주셨다고 적혀 있습니다. 주 예수의 권능을 받았기 때문에 제자들을 통해 마치 주 예수께서 하신 것과 같은 놀라운 역사를 이루어 나갈 수 있었습니다. 그리고 13절을 보면 놀랍게도 「많은 귀신을 쫓아내며 많은 병자에게 기름을 발라 고치더라」라고 합니다. 귀신을 쫓아내는 일, 병자를 치유하는 사역이란 바로 예수님께서 그동안 말씀을 가르치시면서 하신 기적이었습니다. 제자들은 두 사람씩 짝을 지어 파송되어 주 예수께서 하신 사역과 똑같은 사역을 하고 있는 것입니다. 이제 유명인사가 된 주 예수의 대리인인 제자들에 의한 그 사역과 그 가르침을 통해 갈릴리 사람들은 마치 주 예수님께서 자신들에게 오셔서 말씀을 하시고 놀라운 기적을 이루고 있는 것 같은 착각을 했을 것입니다. 그런데 13절에 「기름을 발랐다」라고 하는 묘사가 있습니다. 이것은 실제로 기름을 바른 것은 아닌 것 같습니다. 확실히 올리브 기름이 의약품으로 사용되었다는 기록도 있지만(누가복음 10장 34절) 예수님은 병을 고치실 때 직접 만지시고 고치시거나 말씀만으로 치유하셨기 때문입니다. 기름을 바르시고 치유하셨다는 기록은 없습니다. 또한 구약성경에서 「기름」은 성령의 은혜를 나타내기 위해 사용되는 상징적인 말이었습니다. 그래서 「기름을 발랐다」는 것은 하나님의 축복이 담기 상징적인 표현이었다고 생각됩니다. 따라서 13절은 「하나님의 은혜로 많은 병자를 치유했다」는 뜻으로 보입니다. 이어서 8,9절을 보시겠습니다.

8 명하시되 여행을 위하여 지팡이 외에는 양식이나 배낭이나 전대의 돈이나 아무 것도 가지지 말며

9 신만 신고 두 벌 옷도 입지 말라 하시고

지팡이 하나와 신발을 신는 것 외에는 아무것도 가져가지 말아야 한다고 적혀 있습니다. 다만 이 부분도 예수님의 제자들이 선교를 나갈 때 보편적인 룰이 적혀 있다고 해석해서는 안 된다고 생각합니다. 왜냐하면 예수님과 함께 최후의 만찬을 한 후 본격적으로 제자들이 파송되는데, 그때 예수님은 제자들에게 다음과 같이 지시하셨기 때문입니다. 누가복음 22장 35,36절을 참조하십시오.

35 그들에게 이르시되 내가 너희를 전대와 배낭과 신발도 없이 보내었을 때에 부족한 것이 있더냐 이르되 없었나이다

36 이르시되 이제는 전대 있는 자는 가질 것이요 배낭도 그리하고 검 없는 자는 겉옷을 팔아 살지어다

반대의 말씀을 하고 계십니다. 그러므로 마가복음 6장 8,9절은 문자 그대로 받아들일 것이 아니라 「양식이나 배낭이나 전대의 돈이나 아무 것도 가지지 말며」라는 그 명령은 예수님만 의지하고 나가라는 것을 말하는 것으로 보입니다. 혹은 이곳에서의 파송은 긴 여행이 아니라 단기적인 훈련으로서의 파송이었기 때문에 여행 준비를 위해 여러 가지로 준비하고 만전을 기하고 나갈 것이 아니라 서둘러 출발하라는 「긴급성」이 거론되고 있을지도 모릅니다. 이어서 10,11절을 보시겠습니다.

10 또 이르시되 어디서든지 누구의 집에 들어가거든 그 곳을 떠나기까지 거기 유하라

11 어느 곳에서든지 너희를 영접하지 아니하고 너희 말을 듣지도 아니하거든 거기서 나갈 때에 발 아래 먼지를 떨어버려 그들에게 증거를 삼으라 하시니

예수님은 제자들에게 어떤 마을에 들어가면 한 집에 머물며 그곳을 거점으로 선교하라는 명령을 하셨습니다. 다시 말하면 좋은 대우나 편안함을 찾아 이 집에서 저 집으로 옮겨 다니면 안된다는 훈계입니다. 그것은 자신이 궁리하거나 자신의 지혜로 길을 트려는 것이지 주의 인도에 순종하고 맡기는 것이 아니기 때문입니다. 그러나 만일 제자들이 보내진 곳에서 사람들로부터 영접받지 못하고 자신들의 선교의 말에 귀를 기울이려 하지 않는다면 그곳을 나가 그들에게 증거로 발 아래 먼지를 떨어버리라고 명하셨습니다. 독실한 유대인들은 자신들이 이방인의 관습이나 이방인의 문화로부터 분리되어 있다는 것을 보여주기 위해 이방인 도시나 그 영토를 지나 온 후 반드시 자신들의 신발에서 먼지를 떨어버렸습니다. 그것을 염두에 둔다면, 이 예수님의 명령은 그 지역에 사는 유대인들이 만일 주님을 대신하여 파송된 열두 제자를 영입하지 않고 그 말에 귀를 기울이지 않는다면, 「이방인이나 이교도의 사람처럼 취급하라! 」즉 「당신들은 유대인이라 할지라도 영적으로는 이교도인들과 다를바 없다라고 선언하라!」는 것입니다. 굉장히 강렬한 멧세지입니다. 이것은 무엇을 의미할까요? 복음이 전해질 때 그 복음을 듣는 쪽에도 책임이 따른다는 얘기가 되지 않을까요? 만약 제자들에 의해 복음이 전해진다면 그 메시지는 듣는 쪽에 구원과 심판 모두와 관련이 있다는 것입니다. 누가복음 12장 47절에는 다음과 같은 말씀이 있습니다.

주인의 뜻을 알고도 준비하지 아니하고 그 뜻대로 행하지 아니한 종은 많이 맞을 것이요

따라서 복음을 들은 자들에게는 그 책임이 따르는 것입니다. 주님이 오시는 날 심판대에 섰을 때 말씀을 별로 듣지 못했던 소돔이나 고모라가 말씀이 더 많이 선포되어진 예루살렘이나 갈릴리보다 휠씬 견디기가 쉽습니다(마태복음 10장 15절). 그러므로 말씀을 전하는 제자들은 만일 그들의 말이 거절 당하더라도 충실하게 주 예수님의 가르침을 전했다면 비난 받을 필요가 없습니다. 복음을 말하는 제자들에게는 그 복음을 충실히 전달하는 것에 대한 책임만 요구됩니다. 반대로 말하면, 세상의 흐름에 맞게, 듣는 쪽의 요구에 맞게 성경의 가르침의 내용을 마음대로 바꾸거나 해서는 안 된다는 것입니다. 교회가 전할 복음은 구원자에게 죄의 용서를 얻기 위해 회개를 권하는 것이고, 그것은 세례자 요한이 말하고 주 예수가 선언하고 교회가 사도들로부터 계승한 가르침입니다.

결론

열두 사람은 두 사람씩 짝을 지어 나가 예수님께서 명령하신 대로 했습니다. 그러자 많은 귀신들을 쫓아내고 많은 병자들을 치유할 수 있었습니다. 그러나 마가복음은 믿음에 들어간 사람들의 수에 대해서는 침묵하고 있습니다. 제자들의 선교활동은 기대했던 것보다 크지 않았다는 것일까요. 이 점에 관해서도 제자들은 그들의 스승이자 선생이신 주 예수를 닮았다고 말하지 않을 수 없습니다. 우리 교회의 사명은 주 예수께서 파송하신 자로서 하나님의 나라의 도래를 알리고 죄를 용서받기 위해 회개를 권하는 것입니다. 비록 그 결과가 우리가 예상한 것이 아니라 환영받지 못하고 오히려 박해와 거절을 당하더라도 우리 교회는 예수님께서 파송해 주신 것을 믿고 충실히 복음을 전해 나가는 것입니다. 그리고 선교의 일은 하나님의 불가사의한 계획 속에서 진척되어 갈 것을 믿으면서 하나님께 모든 것을 맡기고 걸어가는 자가 됩시다. 또한 제자들이 둘씩 짝을 지어 나갔듯이 우리도 서로 격려하고 서로 돕고 서로 기도하며 아직 구원받지 못한 배우자를 위해 아직 구원받지 못한 가족, 이웃을 위해 선교의 사역을 이어갑시다.

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