2023年07月16日「タリタ、クム 달리다굼」

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タリタ、クム 달리다굼

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 5章21節~43節

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聖句のアイコン聖書の言葉

5:21イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
5:22会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、
5:23しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
5:24そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
5:25さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。
5:26多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。
5:27イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。
5:28「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。
5:29すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
5:30イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
5:31そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
5:32しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。
5:33女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。
5:34イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
5:35イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
5:36イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
5:37そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。
5:38一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、
5:39家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
5:40人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。
5:41そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。
5:42少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。
5:43イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 5章21節~43節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 本日も先週に引き続き、同じ聖書箇所から御言葉に聞いてまいります。ゲラサ地方から、ガリラヤ湖の対岸にあるガリラヤ地方に戻って来ると、大勢の群衆がイエス様のそばに集まってきました。その群衆の中に会堂長ヤイロと12年間出血の止まらない女がいました。社会的な地位のある会堂長ヤイロと12年間出血の止まらない女との共通点は、一見全くないように思われますが、この箇所を一気に読んでみますと、両者において「汚れ」という共通点が浮かび上がってきます。第一に出血の止まらない汚れた女です。レビ記15:25~27には

“もし、生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており、生理期間中と同じように汚れる。この期間中に彼女が使った寝床は、生理期間中使用した寝床と同様に汚れる。また、彼女が使った腰掛けも月経による汚れと同様汚れる。また、これらの物に触れた人はすべて汚れる。その人は衣服を水洗いし、身を洗う。その人は夕方まで汚れている。”

と書かれています。第二にヤイロの娘の死体です。民数記19:11には

“どのような人の死体であれ、それに触れた者は七日の間汚れる。”

と書かれています。死んでしまったヤイロの娘の方がはるかに汚れているということが分かります。主イエスは、私たちの罪と汚れの問題をどのように取り扱ってくださるのか、そして主イエスに対して、私たちはどのような信仰を持つべきかという観点から、本日も御言葉の恵みに与っていきたいと思います。

【1】. 恐れることはない、ただ信じなさい

 さて、会堂長ヤイロはイエス様を見ると、足もとにひれ伏し、しきりに願い出ました。「わたしの幼い娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」この願いを聞いたイエス様は、弟子たちと共にヤイロの家に向かいました。その一行がヤイロの家に向かうのを妨げるような形で、12年間出血の止まらない汚れた女が、後ろからイエス様の服を触るという事件が起こりました。この時イエス様は、弟子たちでさえ全くばかげていると思われる質問をしたのであります。「わたしの服に触れたのはだれか」。このように群衆がイエス様に押し迫っているのに、この質問は一体何なのでしょうか。ヤイロの立場から考えてみると、一刻を争っているこの時、汚れた女による足止めは、イライラと、焦る気持ちを最高潮に鬱積させたに違いありません。しばらくイエス様がこの女と話していると、会堂長の家から使いが知らせを持ってやって来ました。35~36節をご覧ください。

“イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。”

この知らせを聞いた時、ヤイロの心の内は、どうだったでしょうか。不思議なことに、ヤイロについての個人的な描写が23節以降、全く出て来ませんので、読者である私たちが想像するしかありません。ただ、36節の「恐れることはない。ただ信じなさい」という言葉の時制が、現在形になっているため、「恐れ続けるな、信じ続けなさい」というニュアンスを受け取ることができます。したがって、ヤイロはこの時、実際にパニックに陥り、恐れていたと推測することができるのです。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」という言葉が、次第にヤイロに重くのしかかり、深い絶望と諦めに導いたことでありましょう。「娘が死んだ」「恐れていた死がついに娘を飲み込んでしまった」「もうダメだ。取り戻すことはできない。」ヤイロは、自分の娘を治すことができるという信仰によって、イエス様の前にひれ伏したのですが、その夢もついに絶たれてしまったのです。

ところで、36節の「イエスはその話をそばで聞いて」と翻訳されている箇所ですが、一部の英語の聖書(rsv)を見ますと、「イエスはその言葉を無視しながら(拒絶して)」と翻訳されています。大変興味深い翻訳だと思いましたが、この翻訳の違いは、どうやら写本の違いから生じているようです。一部の写本には(A, D)、確かに「その話をそばで聞いて」と書かれていますが、信頼できる有力な写本では(ℵ, B, W)、「その言葉を無視して、拒絶して」となっているため、最近の注解書は「その言葉を無視しながら(拒絶して)」という翻訳を支持しているようです。つまり、イエス様は群衆の声を無視し、拒絶したということです。そして、ペトロとヤコブとヨハネの他は誰もついてくることをお許しにならず、娘の両親と共に、家の中に入って行きました。会堂長の家は、人々が大声で泣きわめき、騒いでいました。この人々は、泣き女や、笛を吹く者たち(マタ9:23)と考えられます。当時、オリエント地方においては葬儀の際、必ずこのように、職業として、悲しみ、泣きわめく人々がいたようです。特にヤイロは、その地域において要人の一人と思われますから、地域の人々は、彼の遺族に敬意を表すため、そして彼の娘の死という悲しい現実を少しでも紛れさせ、泣き声を通して、慰めを与えるために、盛大に泣き叫んだと思われます。ところがイエス様は泣き叫んでいる人々に対して「なぜ、騒ぐのか」とたしなめました。39~40節をご覧ください。

“家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。”

イエス様は「子供は死んだのではない。眠っているのだ。」と言われました。これは一体どういう意味でしょうか。聖書には死んだ者のことを「眠っている」と比喩する箇所がいくつかございます。イエス様も、ヤイロの娘が既に息を引き取ったことをもちろん理解していました。もし、一時的に意識を失っているのなら、やがて起きるかもしれませんが、娘は完全に死んでいるのです。だからこそ、人々はこの言葉を聞いて主イエスをあざ笑ったのであります。今日においても、同じように、この世の人々は、主イエスの主張をあざ笑うことでしょう。この世の人々からしてみれば、主イエスの主張と、復活を信じているキリスト者が、大変愚かに見えるからであります。もし、私たちの信仰とこの世が衝突し、この世が私たちの信仰をあざ笑うということを体験するなら、私たちはイエス様が、その言葉を拒絶して進んで行かれたように、私たちも、世の嘲りと嘲弄を拒絶し、御言葉に堅く立たなければならないということを覚えたいと思います。イエス様は、あざ笑う人々を外に追い出し、子供の両親と、三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれました。そして、あたかも眠っている娘を起こされるように、次のように囁かれ、娘の霊を呼び戻されたのであります。41~42節をご覧ください。

“そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。”

先ほども言いましたが、民数記によれば、死体に触れるならその人も汚れるとあるため、ユダヤ教において死体に触れることは、タブー視されていました。ところが、イエス様は、子供の手を取られ、それから「タリタ、クム」という言葉を発せられました。「タリタ、クム」とはアラム語であり、41節の著者マルコの注意書きのように「少女よ、起きなさい」という意味です。当時、イエス様をはじめとして、イスラエルの人々はアラム語を使っていました。アラム語とヘブライ語は、かなり似た言語でありますが、イスラエルの人々は、昔バビロンに捕囚によって連行されて以来、ヘブライ語を使わなくなり、大部分がこのアラム語を使うようになっていました。話が逸れてしまいましたが、この時、部屋の中にいる三人の弟子たちと娘の両親は皆、イエス様の動向に目を見張っていたと思います。イエス様はその場を完全に制圧するように、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい(タリタ、クム)」と言うと、すぐに、死んでいたはずの少女が起き上がって、歩き出しました。その奇跡を見た人々はあまりにも驚き、我を忘れたのであります。いかに驚いたのかが記されています。この驚きはマルコ福音書の最後にイエス様が復活された時に驚いたあの驚きと同じようなものだったと思います。「恐れることはない、ただ信じ続けなさい」と言われた理由が、まさにこのサプライズにあったということです。

【2】. この奇跡の意味

 イエス様は娘を復活させると、43節に書いてありますように、娘の両親と、三人の弟子たちに、このことを誰にも知らせないようにと厳しく命じられました。そうは言っても、外で待っている人々に、この娘の復活の奇跡はすぐに明らかになったはずです。なぜ、イエス様はそんなことを言われたのでしょうか。私はこの言葉が大変重要だと思っています。この奇跡を直接見た者たちが、この奇跡を心に大事に納め、それを何度も思い巡らせるように、という意味から、「誰にも知らせないよう」にとイエス様は命じられたのだと思います。それはあたかも、イエス様の母マリアが、受胎告知の知らせを、み使いたちから告げられ、さらにその後、羊飼いたちの不思議な訪問の出来事を、心に納めて思い巡らせたように、であります。ルカ2:15~19をご覧ください。

“天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。”

復活の奇跡を見た娘の両親も、そして三人の弟子たちも、この奇跡を心に納め、何度も何度も思い巡らせたに違いありません。本日の聖書箇所には娘を甦らせていただいたヤイロの個人的な描写があまりにも少ないので、ヤイロがこの奇跡をどのように受け止めたのか、私たちには分かりませんが、きっと、ヤイロ自身もこの奇跡が何を意味するのか、そして、自分が救いを求めたイエスというお方が一体何者なのか、この時点では、まだ、はっきりとは分からなかったのだと思います。それは三人の弟子、ペトロとヤコブとヨハネにとっても同じことです。ただ、マリアが、み使いのお告げと羊飼いたちの不思議な訪問を心に納め、それを思い巡らせたように、ヤイロにおいても、そして弟子たちにおいても、「タリタ、クム」という御言葉と、その後に起こった衝撃的なサプライズを何度も何度も思い巡らせたのだと思います。そして主イエスが十字架に掛けられ、復活され、天に昇られた後に、初めてこの奇跡の意味を悟り、弟子たちは人々に語り始めたのだと思います。つまり、ペトロがマルコに語り、マルコが聖書として書き残したのです。ですから、十字架と復活を知っている私たちは、ヤイロの娘の復活の奇跡を、イエス・キリストの復活の光の中で読むべきであります。この奇跡を通して、私たちに、復活の信仰を持つようにということを勧めているのではないでしょうか。私たちは救い主であるイエス・キリストに、単なる、病と苦難からの救いの信仰を持つだけではなく、もっと大きな信仰を持つように勧められているのです。すなわち、それは、イエス・キリストが、死の力に勝利されたこと、イエス・キリストにあって死は、もはや何の力も及ぼすことが出来ないことです。イエス様が復活の初穂であられるように、私たちもキリストにあって復活することになるということです。いつの日か、私たちも「タリタ、クム」という言葉を聞いて、永遠に生きる日が来るのです。ヤイロの娘の奇跡は、古い自分に死に、新しい命への目覚めがあるという私たちの信仰を、すなわち復活の信仰を、奮い立たせてくれるのです。イエス様が、死んだ娘の手を取られたのは、12年間、出血の止まらない汚れた女が、イエス様の服に触れて癒されたのと同じ理由からでありましょう。私たちの罪と死と汚れの一切を、イエス様が十字架上において引き受けてくださいました。イエス・キリストに死と汚れが転嫁され、私たちに義と救いと復活の命が転嫁されたのです。救い主イエス・キリストにあって、私たちは死に勝利し、救い主イエス・キリストにあって、私たちに神の国が到来したのであります。今はまだ目に見えませんが、信仰によってそのことを受け止めることができるのです。

【結論】

 私たちの日々の現実は、年を重ね、次第に衰えていく弱い肉体と向き合いながら生きていく日々であります。現在、病や痛みに苦しみ、悩まされながら生きておられる人もおられます。私たちの人生の最後には大変恐ろしい死が待ち受けています。死というのは、生きている私たちの中で、誰も体験したことがないので、一層恐ろしく感じます。しかし、イエス様は死に打ち勝ってくださり、私たちに生まれ変わりと、永遠の命を約束してくださいました。いつの日か主イエスにある私たちに、「タリタ、クム」と語ってくださることでしょう。私たちは、この信仰に堅く立って、この世の嘲りや、嘲弄に、恐れることなく信じ続けるように励まされながら、イエス様と共に歩ませていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

달리다굼

2023년 7월 16일 센겐다이교회 주일설교

마가복음 5장 21~43절

서론

오늘도 저번 주에 이어서 같은 성경 본문에서 말씀을 들으려고 합니다. 거라사 지방에서 갈릴리 바다의 건너편 갈릴리 지방으로 돌아오자 많은 군중이 예수님 곁에 모여 들었습니다. 그 군중 속에 회당장 야이로와 12년간 출혈이 멈추지 않는 여자가 있었습니다. 사회적 지위가 있는 회당장 야이로와 12년간 출혈이 멈추지 않는 여자의 공통점은 언뜻 보기에 전혀 없는 것 같지만 이 부분을 한번에 읽어보면 양쪽 모두에게 「부정함」이라는 공통점이 나타납니다. 첫째 출혈이 멈추는 않는 부정한 여자입니다. 레위기 15장 25~27절에는

25 만일 여인의 유출이 그의 불결기가 아닌데도 여러 날이 간다든지 그 유출이 그의 불결기를 지나도 계속되면 그 부정을 유출하는 모든 날 동안은 그 불결한 때와 같이 부정한즉

26 그의 유출이 있는 모든 날 동안에 그가 눕는 침상은 그에게 불결한 때의 침상과 같고 고가 앉는 모든 자리도 부정함이 불결한 때의 부정과 같으니

27 그것들을 만지는 자는 다 부정한즉 그의 옷을 빨고 물로 몸을 씻을 것이며 저녁까지 부정할 것이요

라고 적혀 있고 게다가 죽어버린 야이로의 딸은 훨씬 부정해져 있다는 것을 알 수 있습니다. 주 예수님께서는 우리의 죄와 부정함의 문제를 어떻게 처리해 주실 것인가, 그리고 주 예수에 대해서 우리들은 어떤 믿음을 가져야만 하는가 하는 관점에서 오늘도 말씀의 은혜를 받고자 합니다.

(1) 두려워하지 말고 믿기만 하라

그런데 회당장 야이로는 예수님을 보자 발밑에 엎드려 간곡히 구하였습니다. 「내 어린 딸이 죽게 되었사오니 오셔서 그 위에 손을 얹으사 그로 구원을 받아 살게 하소서」이 간구를 들은 예수님은 제자들과 함께 야이로의 집으로 향하셧습니다. 그 일행이 야이로의 집으로 향하는 것을 방해하는 형태로 12년간 혈루병을 앓은 부정한 여자가 뒤에서 예수님의 옷을 만지는 사건이 일어났습니다. 이때 예수님은 제자들조차 완전히 우스꽝스럽다고 생각되는 질문을 하신 것입니다. 「누가 내 옷에 손을 대었느냐」이렇게 군중이 예수님께 밀려와 있는 상황에서 이 질문은 도대체 무슨 의미일까요? 야이로의 입장에서 생각해보면 일각을 다투고 있는데 이때 부정한 여자로 인한 발이 붙잡혀 버린 이 상황은 짜증과 초조함을 최고조로 올려 울적하게 만들었음이 틀림이 없습니다. 잠시 예수님이 이 여자와 말씀을 나누고 계실 때 회당장의 집에서 심부름꾼이 소식을 가지고 왔습니다. 35,36절을 보시기 바랍니다.

35 아직 예수께서 말씀하실 때에 회당장의 집에서 사람들이 와서 회당장에게 이르되 당신의 딸이 죽었나이다 어찌하여 선생을 더 괴롭게 하나이까

36 예수께서 그 하는 말을 곁에서 들으시고 회당장에게 이르시되 두려워하지 말고 믿기만 하라 하시고

이 소식을 들었을 때 야이로의 마음은 어땠을까요? 희안하게도 야이로에 대한 개인적인 묘사가 23절 이후 전혀 나오지 않기 때문에 독자인 우리가 상상할 수밖에 없습니다. 다만 36절의 「두려워하지 말고 믿기만 하라」는 말의 시제가 현재형으로 되어 있기 때문에 「계속해서 두려워하지 마라, 계속해서 믿으라」는 뉘앙스를 받을 수 있습니다. 따라서 야이로는 이때 실제로 공황상태에 빠졌고 두려워했다고 추측할 수 있는 것입니다. 「당신의 딸이 죽었나이다 어찌하여 선생을 더 괴롭게 하나이까」라는 말이 점차 야이로를 더 깊은 절망과 체념으로 이끌었을 것입니다. ‘딸이 죽었다’ ‘두려워했던 죽음이 마침내 딸을 삼키고 말아버렸다’ ‘이제는 안된다. 되돌릴 수 없다’야이로는 자신의 딸을 살릴 수 있다는 믿음에 따라 예수님 앞에 엎드려 있다가 그 꿈도 마침내 산산히 부서져 버리고 말았습니다.

그런데 36절의 「예수께서 그 하는 말을 곁에서 들으시고」라고 번역되어 있는 부분인데, 일부 영어 성경(RSV)을 보면 「예수는 그 말을 무시하면서 (거절하고)」라고 번역되어 있습니다. 매우 흥미로운 번역이라고 생각했지만, 이 번역의 차이는 아무래도 사본의 차이에서 발생하는 것 같습니다. 일부 사본에는 (A, D) 과연「그 이야기를 옆에서 들으시고」라고 쓰여져 있지만 믿을 수 있는 유력한 사본에서는 (ℵ, B, W), 「그 말을 무시하고, 거절하고」라고 적혀있기 때문에 최근의 주해서에는 「그 말을 무시하면서(거절하고) 」라는 번역을 지지하고 있는 것입니다. 즉, 예수님은 군중의 목소리를 무시하고 거졀하셨다는 것입니다. 그리고 베드로와 야곱과 요한외에는 아무도 따라오는 것을 허락하지 않고 아이의 부모와 함께 집안에 들어가셨습니다. 회당장의 집은 사람들이 큰 소리로 통곡하고 떠들고 있었습니다. 이 사람들은 통곡하는 여자나 피리를 부는 자들(마태복음 9장 23절)로 여겨집니다. 당시 오리엔트 지방에서는 장례식 때 반드시 이처럼 직업적으로 슬퍼하고 통곡을 하는 사람들이 있었던 것 같습니다. 특히 야이로는 그 지역의 주요 인사 중 한 명으로 여겨지기 때문에 지역 사람들은 그의 유족에게 경의를 표하기 위해, 그리고 그의 딸이 죽었다는 슬픈 현실을 조금이나마 달래고 그 울음을 통해 위로를 주기 위해 성대하게 통곡했다고 생각됩니다. 그런데 예수님은 통곡을 하는 사람들에 대해 「너희가 어찌하여 떠들며 우느냐」고 나무라셨습니다. 39,40절을 보십시오.

39 들어가서 그들에게 이르시되 너희가 어찌하여 떠들며 우느냐 이 아이가 죽은 것이 아니라 잔다 하시니

40 그들이 비웃더라 예수께서 그들을 다 내보신 후에 아이의 부모와 또 자기와 함께 한 자들을 데리시고 아이 있는 곳에 들어가사

예수님은 「이 아이가 죽은 것이 아니라 잔다」라고 말씀하셨습니다. 이게 도대체 무슨 뜻일까요? 성경에는 죽은 자를 잠자고 있다고 비유하는 대목이 여럿 있습니다. 예수님도 야이로의 딸이 이미 숨을 거둔 것을 물론 이해하고 있었습니다. 만약 일시적으로 의식을 잃고 있는 것이라면 얼마 안 있어 깨어날지도 모르지만 딸은 완전히 죽어 있는 것입니다. 그렇기 때문에 사람들은 이 말씀을 듣고 주 예수를 비웃었던 것입니다. 오늘날에도 마찬가지로 이 세상 사람들은 주 예수님의 주장을 비웃을 것입니다. 이 세상 사람들 입장에서 보면 주 예수님의 주장과 부활을 믿는 그리스도인이 매우 어리석어 보이기 때문입니다. 만약 우리의 믿음과 이 세상이 충돌하고 이 세상이 우리의 믿음을 비웃는다는 것을 체험한다면, 우리는 예수님이 그 비웃음을 거절하고 전진하신 것처럼 우리도 이 세상의 조롱과 비웃음을 다 거절하고 말씀 가운데 굳게 서있지 않으면 안된다는 것을 기억하고 싶다고 생각합니다. 예수님은 비웃는 사람들을 다 내보신 후에 아이의 부모와 세 제자만 데리고 아이가 있는 곳으로 들어가셨습니다. 그리고 마치 잠든 딸을 깨우듯이 다음과 속삭여 딸의 영혼을 다시 불러들인 것입니다. 41,42절을 보세요.

41 그 아이의 손을 잡고 이르시되 달리다굼 하시니 번역하면 곧 내가 네게 말하노니 소녀야 일어나라 하심이라

42 소녀가 곧 일어나서 걸으니 나이가 열두 살이라 사람들이 곧 크게 놀라고 놀라거늘

아까도 살펴보았지만 민수기에 따르면 시체를 만지면 그 사람도 더러워진다고 하기 때문에 유대교에서 시체를 만지는 것은 금기시되었습니다. 그런데 예수님은 아이의 손을 잡으시고 나서 「달리다굼」이라는 말을 하셨습니다. 「달리다굼」이란 아람어이며 41절에 저자 마가가 번역한 것처럼 「소녀야 일어나라」라고 하는 의미입니다. 당시 예수님을 비롯하여 이스라엘의 사람들은 아람어를 사용하고 있었습니다. 아람어와 히브리어는 상당히 비슷한 언어이지만 이스라엘 사람들은 옛날 바빌론에 포로로 끌려간 이후 히브리어를 사용하지 않게 되었고 대부분 이 아람어를 사용하게 되었습니다. 이야기가 벗어났지만 이때 방안에 있는 세 제자들과 아이의 부모는 모두 예수님의 말에 눈이 휘둥그레졌을 것입니다. 예수님은 그 자리를 완전히 제압하듯 「소녀여, 나는 너에게 말한다. 일어나라 (달리다굼)」고 말씀하시자 곧 죽었던 소녀가 일어나 걷기 시작했습니다. 그 기적을 본 사람들은 너무나 놀라 넋을 잃었습니다. 얼마나 놀랐는지가 기록되어 있습니다. 이 놀라움은 마가복음 끝에 예수님이 부활하실 때 놀랐던 그 놀라움과 같은 것이었다고 생각합니다. 「두려워하지 말고 그저 믿으라」라고 말씀하신 이유가 바로 이 서프라이즈에 있었다는 거죠.

(2) 이 기적의 의미

예수님은 아이를 부활시키려고 43절에 쓰여 있듯이 아이의 부모와 세명의 제자들에게 이 일을 아무도 알지 못하게 하라고 많이 경계하셨습니다. 그렇다고 해도 밖에서 기다리고 있던 사람들에게 이 아이의 부활의 기적은 곧 밝혀졌을 것입니다. 왜 예수님은 그런 말씀을 하셨을까요? 저는 이 말이 매우 중요하다고 생각합니다. 이 기적을 직접 본 자들이 이 기적을 마음속에 간직하고 그것을 여러 번 되새기라는 의미에서 「아무도 알지 못하게 하라」고 예수님은 명령하신 것 같습니다. 그것은 마치 예수님의 어머니 마리아가 수태고지 소식을 천사들로부터 전해 듣고 그 후 목자들의 놀라운 방문 사건을 마음에 새기어 생각한 것처럼 말입니다. 누가복음 2장 15~19절을 참조하십시오.

15 천사들이 떠나 하늘로 올라가니 목자가 서로 말하되 이제 베들레헴으로 가서 주께서 우리에게 알리신 바 이 이루어진 일을 보자 하고

16 빨리 가서 마리아와 요셉과 구유에 누인 아기를 찾아서

17 보고 천사가 자기들에게 이 아기에 대하여 말한 것을 전하니

18 듣는 자가 다 목자들이 그들에게 말한 것들을 놀랍게 여기되

19 마리아는 이 모든 말을 마음에 새기어 생각하니라

부활의 기적을 본 아이의 부모도, 그리고 세 제자들도 이 기적을 마음에 새기고 몇 번이고 되새겼을 것입니다. 오늘 성경 구절에는 딸이 되살림을 받은 야이로의 개인적 묘사가 너무 적어서 야이로가 이 기적을 어떻게 받아들였는지 우리는 알 수 없지만 분명 야이로 자신도 이 기적이 무엇을 의미하는지, 그리고 자신이 구원을 간구한 예수라는 분이 도대체 누구인지 이 시점에서는 아직 확실하게 알지 못했을 것입니다. 그것은 세 제자 베드로와 야곱과 요한에게도 마찬가지입니다. 다만 마리아가 천사들의 전갈과 목자들의 놀라운 방문을 마음에 새기어 생각했듯이 야이로에게도 그리고 제자들에게도 「달리다굼」이라는 말씀과 그 뒤에 일어난 충격적인 서프라이즈를 몇 번이고 몇 번이고 되풀이해서 떠올렸을 것이라고 생각합니다. 그리고 주 예수님이 십자가에 못박히신 후 부활하시고 하늘로 올라가신 후에야 비로서 이 기적의 의미를 깨닫고 제자들은 사람들에게 말하기 시작했다고 생각합니다. 즉 베드로가 마가에게 말하고 마가가 성경으로 남긴 것입니다. 그러므로 십자가와 부활을 알고 있는 우리는 야이로의 딸의 부활의 기적을 예수 그리스도의 부활의 빛 속에서 읽어야 합니다. 이 기적을 통해 우리에게 부활의 신앙을 갖도록 권하고 있는 것은 아닐까요. 우리는 구원자이신 예수 그리스도에게 단순히 병과 고난으로부터의 구원을 구하는 신앙을 가질 뿐만 아니라 더 큰 신앙을 가지도록 권유를 받고 있습니다. 즉 그것은 예수 그리스도가 죽음의 힘에 승리하신 것, 예수 그리스도에게 죽음은 더 이상 아무런 힘도 미칠 수 없다는 것입니다. 예수님이 부활의 첫 이삭이듯 우리도 그리스도를 만나 부활하게 된다는 것입니다. 언젠가 우리도 「달리다굼」이라는 말을 듣고 영원히 살 날이 올 것입니다. 야이로의 딸의 기적은 예전의 자신에 죽고 새로운 생명에 대한 깨어남이 있다는 우리의 믿음을, 즉 부활의 신앙을 북돋아 주는 것입니다. 예수님이 죽은 아이의 손을 잡은 것은 12년간 출혈이 멈추지 않는 부정한 여자가 예수님의 옷을 만지고 치유된 것과 같은 이유에서일 것입니다. 우리의 죄와 죽음과 부정함의 일체를 예수님께서 십자가 위에서 맡아 주셨습니다. 예수 그리스도께 죽음과 부정함이 전가되고 우리에게 의와 구원과 부활의 생명이 전가된 것입니다. 구원자 예수 그리스도를 만나 우리에게 하나님의 나라가 도래한 것입니다. 지금은 아직 눈에 보이지 않지만 믿음에 의해서 그것을 받아들일 수 있는 것입니다.

결론

우리의 매일의 현실은, 나이를 먹고 점점 쇠약해져가는 약한 육체와 마주하며 살아가는 나날입니다. 현재 병이나 통증에 시달리고 고통가운데 살고 계신 분도 계십니다. 우리 인생의 마지막에는 매우 무서운 죽음이 기다리고 있습니다. 죽음이란 살아있는 우리 중 누구도 겪어본 적이 없기 때문에 더욱 두렵게 느껴집니다. 그러나 예수님은 죽음을 이겨내 주시고 우리에게 거듭남과 영원한 생명을 약속해 주셨습니다. 언젠가 주 예수 안에 있는 우리에게 「달리다굼」이라고 말해 주실 것입니다. 우리는 이 믿음에 굳게 서서 이 세상의 비웃음과 조롱을 두려워하지 않고 계속 믿음가운데 격려 받으며 예수님과 함께 걸어갑시다.

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