2023年07月09日「私の服に触れたのは誰か 누가 내 옷에 손을 대었느냐」

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私の服に触れたのは誰か 누가 내 옷에 손을 대었느냐

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 5章21節~43節

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聖句のアイコン聖書の言葉

5:21イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
5:22会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、
5:23しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
5:24そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
5:25さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。
5:26多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。
5:27イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。
5:28「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。
5:29すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
5:30イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
5:31そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
5:32しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。
5:33女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。
5:34イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
5:35イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
5:36イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
5:37そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。
5:38一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、
5:39家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
5:40人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。
5:41そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。
5:42少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。
5:43イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 5章21節~43節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 ゲラサ地方で悪霊に取りつかれた男に、イエス様との出会いによって劇的な解放をもたらした後、イエス様は再び舟に乗ってガリラヤ地方へ戻ってまいりました。既に主イエスの噂はガリラヤ中に十分に広まっていましたから、岸に渡られると、たちまち大勢の群衆がそばに集まってきました。この群衆の中にヤイロという人物と、12年間出血の止まらない女がいたのであります。本日はこの二人の物語です。ヤイロという人物は、会堂の係りの者(ルカ4:20)ではなく、会堂の最高管理人であり、社会的な地位がありました。その地域の要人の一人であります。一方、12年間出血の止まらない女は、社会的には全く地位がありません。一見、何の共通点もないように思われますが、この二つの物語が、サンドイッチのような構造になって、一つの物語の中にもう一つの物語が挟まっています。マルコの福音書には、しばしばこのようなサンドイッチ構造による語り方がなされているのですが、私たちは、この二つの物語を切り離さないで、二つの物語がどのような関係にあるのか、どのような共通点を持っているのか、という事を意識しながら、読み進めて行きたいと思います。ただ、余りにも分量が多いため、本日と次週の二回に渡って、同じ聖書箇所から御言葉に聞いていきたいと思っています。

【1】. 会堂長ヤイロと出血の女

 さて、42節を見るとわかりますが、ヤイロには12歳になる娘がいました。12歳の女性なら、イスラエルではそろそろ花嫁として嫁ぐ年齢に差し掛かります。しかし、そんな年頃の娘が今にも死にそうだというのです。ヤイロの娘の12歳と、出血の止まらない女が苦しんだ12年間、この「12」という数字に着目してください。ユダヤ人にとって、「12」という数字は特別な数字であります。それは、イスラエル12部族を意味するからです。この二つの物語は、まさにイスラエルが死に瀕し、為す術もなく、絶望的な状況にあるということが暗示されているかのようにも見えてくるのです。因みに、ヤイロという名前の意味には、「生かす」とか「輝かす」という意味があるそうです。本来、会堂において、聖書を開き、御言葉が語られ、会堂において「人々が生かされ」、「人々が輝く」という業がなされるべきでしたが、皮肉なことに、間もなく成人式を迎えようとしている、自分の娘を、ヤイロは生かすことも、輝かすこともできなかったのであります。もしかしたら、これまでにヤイロ自身が管理している会堂で、イエス様が説教したことを直接聞いたり、病の癒しや悪霊追い出しの業を直接見たりしたこともあったのかもしれません。しかし、ヤイロはこれまでイエス様の足元にひれ伏すことはありませんでした。それは彼が、会堂長という社会的に一目置かれた立場にあったことと関係していると思われます。おそらく彼は自分の社会的立場に自負心を持ちながら、主イエスと距離を保ちつつ、客観的に彼の働きを見ていたのでしょう。しかし、今や、自分の娘が死にかけているという危機に直面し、自分の力ではどうすることもできないと悟ると、なりふり構わず、主イエスの足もとにひれ伏しながら救いを求めたのです。5:22~24節をご覧ください。

“会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。”

23節で、「そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」とありますが、この箇所のギリシア語を直訳すると、「娘は救われ、生きるでしょう。」となります。「助かる」ではなく、「救われる」という言葉が使用されています。この絶望的な状況の中から「救い」を求めて、ヤイロはイエス様のもとにやって来て、ひれ伏したのです。そして主イエスは、そのような絶望の中にある一人ひとりに、救い主として仕えてくださるお方なのです。イエス様は、早速、ヤイロの家に訪問することにしたしました。ただ、イエス様が救い主として仕えてくださるのは、ヤイロに対してだけではありません。群衆の中にいたもう一人の女性、12年間出血の病に苦しみ、絶望的な状況に置かれている女にも、同じように仕えてくださいました。彼女は医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます病状が悪化するだけでありました。ある資料によりますと、当時の医者によって処方された薬というのは、例えば、狐の頭蓋骨、カエルの肝臓、ネズミの頭などと書かれていました。当時の医学は、今日のように発展していなかったため、医者はせいぜい迷信的な治療を進めたり、奇妙な薬を処方するだけだったと考えられます。ですからそのような薬に、効き目がなかったとしても、特に驚くことではありませんでした。医者にひどく苦しめられたこの女は、さらにもう一つの深刻な問題をも抱えていました。それは、この女が、イスラエルの共同体から疎外されていたと考えられることです。なぜなら、旧約聖書の律法に、出血の病にある者は宗教的に汚れた者として、人々と接触してはならないと規定されているからです。レビ記15:25~27をご覧ください。

“もし、生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており、生理期間中と同じように汚れる。この期間中に彼女が使った寝床は、生理期間中使用した寝床と同様に汚れる。また、彼女が使った腰掛けも月経による汚れと同様汚れる。また、これらの物に触れた人はすべて汚れる。その人は衣服を水洗いし、身を洗う。その人は夕方まで汚れている。”

レビ記に書かれているように、おそらくこの女は、普通の共同体生活をすることが許されず、孤独な生涯を送っていたのでしょう。そのような時にイエス様の噂を聞いて、何とか救い出してほしいという願いを持って、群衆に紛れ込み、こっそりとイエス様に近づいたのです。5:27~28節をご覧ください。

“イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。”

28節に「服にでも触れればいやしていただける」とありますが、この箇所のギリシア語も直訳すると、「服にでも触れれば救ってもらえる」となります。先ほどのヤイロの言葉と同じように、女もやはり絶望的な状況に置かれていて、なりふり構わず、救いを求めているのが分かります。ですからこの二つの物語に共通する点を挙げるなら、それは絶望に置かれている人が、そこから何とか「救い出してほしい」という、藁をもつかむ思い、そのような切迫した思いであったという事であります。

【2】. 女の信仰

 女は後ろから、イエス様の許しなく、癒しを得ようとしました。救いへの強い渇きが、女にあったというのはよくわかりますが、この女の信仰は、イエス様のことをまるで、魔術師のように考え、服にでも触れれば救ってもらえる、或いは何か神秘的な力によっていやされると信じていたということが見て取れます。神の全能の力を利用しようとしているのです。万が一、癒されたなら、誰にも気づかれず、ひそかにその場から立ち去ろうとしていたのかもしれません。皆さんは、この女の信仰をどのように思われるでしょうか。聖人の服に恵みが宿るという考え方は、中世のローマカトリック教会においても見られました。聖人の服や遺品が収集され、大切に保管されましたが、そのような服や遺品に、何かの恩恵や神秘的な力が宿っていると考えられていたからです。聖書の御言葉に立ち返ることを旗印とした宗教改革者、カルヴァンの注解書を見ると、この女の信仰について、「悪く、誤謬に満ちたもの」として一蹴しています。ところが、そのような問題だらけの信仰を持って近づいた女に対して、なぜか癒しが与えられたのです。30~32節をご覧ください。

“イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。”

イエス様は、自分の内から力が出て行ったことに気づかれ、振り返り「わたしの服に触れたのはだれか」と言われました。このイエス様の質問は、弟子たちにとって、大変堅苦しく、融通性の欠けた、愚かな質問のように聞こえました。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか」。そんなことにいちいちこだわらないでください!といった感じです。しかし、イエス様はなお、辺りを見回しておられます。普通の触り方ではない、確かに、救いへのひたむきな渇きを持って触った者がいる、その人を探すためです。すると、33節に書かれているように、女が「自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話し」出しました。この時、この女の告白によって、女とイエス様との間に、人格的な出会いが生じたのであります。女とイエス様との間に人格的な交わりが始まったのであります。もし、このイエス様との人格的な出会いがなく、そのまま立ち去ってしまったなら、女は生涯、間違った信仰に、つまり神の力を利己的に利用しようとする悪い信仰にとどまっていたことでしょう。逆に言えばイエス様は、そのような信仰にとどまることを、善しとはされなかったのであります。病の癒し自体根本的な解決ではない、ご自身との人格的な出会いを持つこと、ご自身との人格的な交わりを持つこと、これこそ、真の救いであるため「わたしの服に触れたのはだれか」と質問されたのであります。女は人々の前で12年間、患っていた出血の病のこと、そして、そこから救われたいという願いを主イエスにぶつけて、その服に触れた時、癒しが起こったことについて、真実を告白いたしました。イスラエル共同体から裁かれても当然である身の上を、ありのまま告白しました。私たちも公に信仰告白をすることによって、イエス様との出会いと、交わりが始められるのです。イエス様は女の告白を聞かれ、女の信仰を褒めるかのように、次のように語られました。34節をご覧ください。

“イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」”

「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と言っています。女の信仰というのは、確かに大変利己的であり、御言葉からの信仰ではなく、自己主導権を持った、自分の考えから出てきた信仰でありました。しかし、考えてみると、最初から立派な信仰を持って、信仰生活を始める人なんて誰一人いないと思うのであります。私自身、これまでの信仰の歩みを振り返ってみると、最初からきちんとした御言葉の信仰を持っていたわけではなく、初めは間違った仕方の信仰の持ち方でありました。具体的に話そうとすれば、全く恥ずかしい限りであります。そのことは皆さんもおそらく同じだと思うのです。しかし、イエス様との人格的な交わりの中で、そのような私たちの信仰をも受け入れてくださり、恵みを後ろから盗み取るような仕方ではなく、最終的には、主イエスの前にひれ伏し、告白するように導いてくださるのです。間違った信仰が修正され、御言葉に従順するように導いてくださるのです。

【結論】

 「あなたの信仰があなたを救った」とイエス様が言われたその理由は、女とイエス様との交わりの中で、女の汚れがイエス様に転嫁され、女の罪と咎がイエス様に転嫁されたが故に、イエス様はご自身の福音を語ってくださったということでありましょう。イエス・キリストは、まさに私たちの罪のため、私たちの咎のため、私たちに代わりに刑罰をお受けになり、十字架にかかって死んでくださいました。私たちの信仰の本質とは、このイエス・キリストとの人格的な出会い、このイエス様との人格的な交わり、そのものなのであります。

私たちの中に絶望的な状況に置かれている人はいるでしょうか。今、置かれている状況から、救われたいと切に願っている人はいるでしょうか。イエス様の服を後ろから触った人が誰だったのか、考えて見てください。利己的で、自己主導権を持った、間違った信仰の女でありました。しかし、そのような信仰でさえ、イエス様は、そこから切なる叫びを聞かれ、救い主として仕えてくださるのであります。イエス様は、ご自身との出会いを与えてくださり、交わりを始めてくださり、正しく堅固な信仰へと私たちを導いてくださるお方なのであります。このイエス様に信頼し、私たちは主イエスの足もとにひれ伏し、日々、自らの信仰を告白する歩みを重ねて行く者たちとなるように願う者であります。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

누가 내 옷에 손을 대었느냐

2023년 7월 9일 센겐다이교회 주일설교

마가복음 5장 21~43절

서론

거라사 지방에서 더러운 귀신들린 남자에게 극적인 해방을 가져다 주신 후 예수님께서는 배를 타고 갈릴리 지방으로 돌아왔습니다. 이미 주 예수님의 소문은 갈릴리 안에 넓게 퍼져 있었으므로 해안으로 건너가시자 많은 군중이 금세 곁에 모여들었습니다. 이 군중 속에 야이로라는 인물과 12년간 출혈이 멈추지 않는 여자가 있었습니다. 오늘은 이 두 사람의 이야기입니다. 야이로라는 인물은 회당의 관계자(누가복음 4장 20절) 가 아니라 회당의 최고 관리인이며 사회적 지위가 있었습니다. 그 지역의 중요인사 중 한 명입니다. 반면 12년간 출혈이 멈추지 않는 여자는 사회적으로 내세울만한 지위가 없습니다. 언뜻 보기에는 아무런 공통점이 없는 것 같지만 이 두 이야기가 샌드위치와 같은 구조로 되어 하나의 이야기 속에 또 하나의 이야기가 끼어 있습니다. 마가복음에는 종종 이런 샌드위치 구조에 의한 이야기가 나오는데, 우리는 이 두 이야기를 분리하지 않고 두 이야기가 어떤 관계에 있는지, 어떤 공통점을 가지고 있는지 의식하면서 읽어나가도록 하겠습니다. 다만 워낙 분량이 많기 때문에 오늘과 다음 주 두 차례에 걸쳐 같은 성경 부분에서 말씀을 듣고자 합니다.

(1) 회당장 야이로와 혈루병 여인

자 42절을 보면 알 수 있습니다만, 야이로에게는 12살이 된 딸이 있었습니다. 12세 여성이라면 이스라엘에서는 슬슬 신부로 시집갈 나이에 접어들었습니다. 그런데 그런 연령대의 딸이 금방이라도 죽을 것 같은 상황이라는 것입니다. 야이로의 12세의 딸과 출혈이 멈추지 않는 여자가 고통받은 12년 동안이라는 이 「12」라는 숫자에 주목하시기 바랍니다. 유대인에게 이 「12」라는 숫자는 특별한 의미의 숫자입니다. 그것은 이스라엘의 12부족을 의미하기 때문입니다. 이 두 이야기는 바로 이스라엘이 죽음에 직면해 어쩔 수 없이 절망적인 상황에 처해 있다는 것을 암시하는 것처럼 보이기도 합니다. 덧붙여서 야이로라는 이름의 뜻에는 「살리다」라든가 「빛나게 하다」라는 의미가 있다고 합니다. 원래 회당에서는 성경이 펼쳐지고 말씀을 전해지고 회당에서 「사람들이 소생되고 사람들이 빛나는」 것 같은 역사가 일어나야 하는데 아이러니하게도 곧 성인식을 맞이하려는 자신의 딸을 야이로는 살릴 수도, 빛낼 수도 없었습니다. 어쩌면 지금까지 야이로 자신이 관리하고 있는 회당에서 예수님이 설교한 것을 직접 듣거나 병의 치유나 더러운 귀신을 몰아내는 역사를 직접 보기도 했을지도 모릅니다. 그러나 야이로는 지금까지 예수님의 발밑에 없드린 적이 없었습니다. 그것은 그가 회당장이라는 사회적으로 중요한 위치에 있었던 것과 관련이 있다고 생각됩니다. 아마도 그는 자신의 사회적 위치에 자부심을 가지면서 주 예수님과 거리를 유지하면서 객관적으로 예수님의 사역을 보았을 것입니다. 그러나 이제는 자신의 딸이 죽어가는 위기에 처했고, 자신의 힘으로는 어쩔 수 없음을 깨닫자 체면불구하고 주 예수님 발치에 엎드려 구원을 청한 것입니다. 5장 22~24절을 참조하십시오.

22 회당장 중의 하나인 야이로라 하는 이가 와서 예수를 보고 발 아래 엎드리어

23 간곡히 구하여 이르되 내 어린 딸이 죽게 되었사오니 오셔서 그 위에 손을 얹으사 그로 구원을 받아 살게 하소서 하거늘

24 이에 그와 함께 가실새 큰 무리가 따라가며 에워싸 밀더라

23절에서 「그로 구원을 받아 살게 하소서」라고 되어 있는데 이 부분의 그리스어를 직역하면 「딸은 구원을 받고 살 것입니다」가 됩니다. 「살아나다」가 아니라 「구원을 얻는다」라는 단어가 사용되고 있습니다. 이 절망적인 상황 속에서 「구원」을 찾아 야이로는 예수님께 와서 엎드린 것입니다. 그리고 주 예수는 그런 절망 속에 있는 한 사람 한 사람에게 구원을 베풀어 주시는 분입니다. 예수님은 즉시 야이로의 집에 방문하시기로 했습니다. 다만 예수님이 구원을 베풀어 주시는 것은 야이로에 대해서만은 아닙니다. 군중 가운데에 있던 또 한 사람의 여성, 12년간 혈루병에 시달리며 절망적인 상황에 처한 여자에게도 똑 같이 구원을 베풀어 주셨습니다. 그녀는 의사한테 이런 저런 치료법으로 심하게 시달렸고 전 재산을 탕진해도 아무런 차도도 없이 점점 병세가 악화될 뿐이었습니다. 한 자료에 따르면 당시 의사가 처방한 약이라는 것은 예를 들어 여우 두 개골, 개구리 간, 쥐의 머리 등이라고 적혀 있었습니다. 당시 의학이 오늘날처럼 발전하지 않았기 때문에 의사는 기껏해야 미신적인 치료를 진행하거나 기묘한 약을 처방할 뿐이었다고 생각됩니다. 그래서 그런 약이 효과가 없었다고 해도 특별히 놀랄 일은 아니었습니다. 의사에게 심하게 시달린 이 여자는 또 하나의 심각한 문제도 안고 있었습니다. 그것은 이 여자가 이스라엘 공동체에서 소외되어 있었다고 생각되는 것입니다. 왜냐하면 구약성경의 율법에 출혈병을 앓고 있는 자는 종교적으로 부정한 자로서 사람들과 접촉해서는 안 된다고 규정되어 있기 때문입니다. 레위기 15장 25~27절을 보시기 바랍니다.

25 만일 여인의 피의 유출이 그의 불결기가 아닌데도 여러 날이 간다든지 그 유출이 그의 불결기를 지나도 계속되면 그 부정을 유출하는 모든 날 동안은 그 불결한 때와 같이 부정한즉

26 그의 유출이 있는 모든 날 동안에 그가 눕는 침상은 그에게 불결한 때의 침상과 같고 그가 앉는 모든 자리도 부정함이 불결한 때의 부정과 같으니

27 그것들을 만지는 자는 다 부정한 즉 그의 옷을 빨고 물로 몸을 씻을 것이며 저녁까지 부정할 것이요

레위기에 적혀 있듯이 이 여자는 평범한 공동체 생활을 하는 것이 허락되지 않고 고독한 생애를 보내고 있었을 것입니다. 그럴 때 예수님의 소문을 듣고 어떻게든 구원을 받았으면 좋겠다라는 바람으로 군중을 헤집고 슬그머니 예수님께 다가간 것입니다. 5장 27,28절을 참조하십시오.

27 예수의 소문을 듣고 무리 가운데 끼어 뒤로 와서 그의 옷에 손을 대니

28 이는 내가 그의 옷에만 손을 대어도 구원을 받으리라 생각함일러라

28절에 「옷에만 손을 대어도 구원을 받으리라」라고 쓰여 있습니다만 이 구절의 그리스어도 직역하면 「옷에라도 닿으면 구원 받을 수 있다」가 됩니다. 아까 야이로의 말과 마찬가지로 여자 역시 절망적인 상황에 처해 있어서 체면이고 뭐고 제쳐두고 얼마나 절실히 구원을 청하는지를 알 수 있습니다. 그렇기 때문에 이 두 이야기에 공통되는 점을 꼽자면, 그것은 절망에 처한 사람이 거기서 어떻게든 「구원받고 싶다」라고 하는 지푸라기라도 잡는 심정, 그런 절박한 마음이었다는 것입니다.

(2) 여자의 신앙

여자는 뒤에서 예수님의 허락없이 치유를 얻으려고 했습니다. 구원에 대한 강한 갈증이 여자에게 있었다는 것은 잘 알겠지만 이 여자의 신앙은 예수님을 마치 마술사처럼 생각하고 옷이라도 만지면 구원받을 수 있거나 뭔가 신비로운 힘에 의해 치유된다고 믿었다는 것을 알 수 있습니다. 하나님의 전능하신 힘을 이용하고자 하는 것입니다. 만일 치유가 되었다면 아무도 눈치 채지 못하게 몰래 그 자리를 떠나려고 했을지도 모릅니다. 여러분은 이 여자의 신앙을 어떻게 생각하실까요? 성인의 옷에 은혜가 깃들어 있다는 생각은 중세 로마 카톨릭 교회에서도 볼 수 있었습니다. 성인의 옷과 유품이 수집되어 소중히 보관 되었는데, 그러한 옷과 유품에 어떤 은혜와 신비로운 힘이 깃들어 있다고 여겼기 때문입니다. 성경 말씀으로 되돌아가는 것을 기치로 한 종교개혁자 칼빈의 주해서를 보면 이 여자의 신앙에 대해 나쁘고 오류로 가득 찬 신앙이라고 일축하고 있습니다. 그런데 그런 문제투성이의 신앙을 가지고 접근한 여자에 대해 웬일인지 치유가 일어났습니다. 30~32절을 보십시오.

30 예수께서 그 능력이 자기에게서 나간 줄을 곧 스스로 아시고 무리 가운데서 돌이켜 말씀하시되 누가 내 옷에 손을 대었느냐 하시니

31 제자들이 여짜오되 무리가 에워싸 미는 것을 보시며 누가 내게 손을 대었느냐 물으시나이까 하되

32 예수께서 이 일 행한 여자를 보려고 둘러 보시니

예수님은 그 능력이 자기에게서 나간 것을 스스로 아시고 돌아보며 「누가 내 옷에 손을 대었느냐」라고 말씀하셨습니다. 이 예수님의 질문은 제자들에게 있어서 매우 딱딱하고 융통성 없고 어리석은 질문처럼 들렸습니다. 제자들이 대답합니다.「무리가 에워싸 미는 것을 보시며 『누가 내게 손을 대었느냐』고 물으십니까」그런 것을 일일이 따지지 마십시오! 이런 식입니다. 그러나 예수님은 여전히 주위를 둘러보고 계십니다. 보통의 만짐이 아닌 확실히 구원에 대한 한결같은 갈증을 가지고 만진 자가 있는 그 사람을 찾기 위해서입니다. 그러자 33절에 적혀 있는 것처럼 「여자가 자기에게 이루어진 일을 알고 두려워하여 떨며 와서 그 앞에 엎드려 모든 사실을 여쭈니」라고 고백 했습니다. 이때 이 여자의 고백으로 인해 여자와 예수님 사이에 인격적인 만남이 생긴 것입니다. 만약 이 예수님과의 인격적 만남이 없이 그냥 떠나버렸다면 여자는 평생 잘못된 신앙에, 즉 하나님의 힘을 이기적으로 이용하려는 나쁜 신앙에 머물렀을 것입니다. 반대로 말하면 예수님은 그런 신앙에 머무르는 것을 좋게 여기지 않으셨습니다. 병의 치유 자체가 근본적인 해결이 아닌 자신과의 인격적인 만남을 갖는 것, 자신과의 인격적인 교제를 갖는 것, 이것이야말로 진정한 구원이기 때문에 「누가 내 옷에 손을 대었느냐」라고 질문을 하셨던 것입니다. 여자는 사람들 앞에서 12년 동안 혈루병을 앓았던 것, 그리고 거기서 구원받고 싶다는 소망을 가지고 주 예수님께 부딪쳐 그 옷을 만졌을 때 치유가 일어난 일에 대해 진실을 고백했습니다. 이스라엘 공동체로부터 재판을 받아도 당연한 처지를 있는 그대로 고백했습니다. 우리는 공개적으로 신앙고백을 함으로써 예수님과의 만남과 교제가 시작되는 것입니다. 예수님은 여자의 고백을 듣고 여자의 믿음을 칭찬하시듯 다음과 같이 말씀 하셨습니다. 34절을 보십시오.

34 예수께서 이르시되 딸아 네 믿음이 너를 구원하였으니 평안히 가라 네 병에서 놓여 건강할지어다

「딸아 네 믿음이 너를 구원했다」고 말씀하십니다. 여자의 믿음이라는 것은 확실히 매우 이기적이었고 말씀으로부터의 믿음이 아니라 자기 주도권을 가진 자신의 생각에서 나온 믿음이었습니다. 그러나 생각해보면 처음부터 훌륭한 믿음을 가지고 신앙생활을 시작하는 사람은 아무도 없다고 생각합니다. 제 자신의 지금까지의 믿음의 행보를 되돌아보면 처음부터 제대로 된 말씀의 신앙을 가지고 있었던 것이 아니라 처음에는 잘못된 믿음을 갖는 방식이었습니다. 구체적으로 얘기하자면 너무 부끄럽기 짝이 없습니다. 그건 아마 여러분도 마찬가지일겁니다. 그러나 예수님과의 인격적인 교제 가운데 그런 우리의 믿음도 받아들여 주시고 은혜를 뒤에서 몰래 훔치는 방식이 아니라 결국 주 예수님 앞에 엎드려 고백하도록 이끌어 주시는 것입니다. 잘못된 믿음이 수정되고 말씀에 순종하도록 이끌어 주시는 것입니다.

결론

「네 믿음이 너를 구원했다」라고 예수님이 말씀하신 그 이유는 여자와 예수님과의 교제 속에서 여자의 부정함이 예수님께 전가되고 여자의 죄와 허물이 예수님께 전가되었기 때문에 예수님께서는 자신의 복음을 말씀해 주셨다는 것일 것입니다. 예수 그리스도는 바로 우리의 죄를 위해, 우리의 허물을 위해 우리를 대신하여 형벌을 받으시고 십자가에 못 박혀 돌아가셨습니다. 우리 신앙의 본질이란 이 예수 그리스도와의 인격적인 만남, 이 예수님과의 인격적인 교제 그 자체입니다.

우리 중에 절망적인 상황에 처해있는 사람이 있을까요? 지금 처한 상황에서 구원 받기를 간절히 바라는 사람이 있을까요? 예수님 옷을 뒤에서 만진 사람이 누구였는지 생각해 보세요. 이기적이고 자기 주도권을 가진 잘못된 믿음을 가진 여자였습니다. 그러나 그런 믿음조차도 예수님은 거기서 간절한 외침을 듣고 구원을 베풀어 주시는 것입니다. 예수님은 자신과의 만남을 허락하여 주시고 교제를 시작해 주시고 바르고 견고한 믿음으로 우리를 이끌어 주시는 분입니다. 이 예수님을 신뢰하며 우리는 주 예수님의 발치에 엎드려 날마다 자신의 믿음을 고백하는 삶을 살아가는 자들이 되기를 원하는 사람들입니다.

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