2023年06月24日「(講壇交換)十字架を背負い従いなさい 십자가를 지고 나를 따를 것이니라」

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(講壇交換)十字架を背負い従いなさい 십자가를 지고 나를 따를 것이니라

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マタイによる福音書 16章21節~28節

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聖句のアイコン聖書の言葉

16:21このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
16:22すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
16:23イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
16:24それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
16:25自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。
16:26人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
16:27人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。
16:28はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 16章21節~28節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

本日の箇所で、イエス様は「わたしについて来たい者は、自分を捨てて、自分の十字架を背負い、わたしに従いなさい」という強烈な御言葉を弟子たちに語られました。聖書の中には暗唱聖句として掲げたい、たくさんの素晴らしい御言葉がありますが、本日の、この御言葉は、できれば聞きたくなく、聞いても、そのままやり過ごしたい御言葉の一つではないでしょうか。この御言葉はペトロだけではなく、弟子たちに語られたとありますから、今日、キリストの弟子である私たち全員に語られている御言葉として、受け止めていきたいと思わされました。

【1】. ペトロ、主をいさめる

さて、21節の冒頭には、「このときから」とございます。このときとは、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と、イエス様に立派な信仰告白をしてからということです。従って、私たちの信仰生活と、「自分の十字架を背負い、イエス様に従う」こととの間に、おそらく切っても切れない密接な関係があるのではと推測されるのであります。イエス様は、この時を待っていたかのように、まずご自身の受難について語り始められました。エルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになることを、公に語り始めたのです。それは、父なる神のご計画であり、永遠から、メシアの働きとして定められていたものでありました。しかし、そうは言っても、全き神であられるイエス様は、同時に、私たちと同じ全き人間でもありますから、心の中では、できればそのようなことは避けたいという思いもあったことでしょう。実際、ゲツセマネの園での祈りにおいて、そのことが明らかにされています。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られました。イエス様にとって、父なる神の御心に従順に歩むこと、永遠の神のみ旨を成就させること、それは常に困難の連続であり、誘惑の連続であったという事がわかります。そんな中、ペトロはイエス様をわきへお連れし、いさめ始めました。16:22節をご覧ください。

すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」

ペトロがこのように言うのも無理もないことでした。というのは、当時の人々が、来るべきメシアに抱いていた期待というのは、ローマ帝国の支配下にあったイスラエルを解放し、イスラエルの国を勃興させてくださるお方、敵を打ち負かし、イスラエルに栄光もたらしてくださるお方であったからです。ペトロもそのような考えを持って、イエス様をわきへ連れて行き、いさめ始めたのだと思われます。

この「いさめ始めた」というギリシア語は、「しかりつける」、「叱責する」という意味です。隣の頁のマタイ17:18に「イエスがお叱りになると」とありますが、全く同じ単語が使われています。なんと、ペトロはイエス様をしかりつけているのです。「そんなことがあってはならない」「そんなこと起こるはずがないではないか」と、イエス様のお言葉を否定し、叱責しました。「たとえ神の御心であっても、私がそれを許さない」と言い換えることができるかもしれません。神様の御心より、人間的な考えを優先し、人間的な考えを上に置いているのです。

そんなペトロに対し、イエス様は23節で「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われました。「わたしの邪魔をする者」とは、ギリシア語を見ますと、「私を躓かせるもの」「倒れるようにするもの」という意味です。少し前、立派な信仰告白をして、あなたは岩であると褒められたペトロが、その直後に、あなたは私を躓かせる石ころだと言われ、さらには「サタン」呼ばわりされてしまいました。大変強いお言葉です。思い起こせば、イエス様が、公生涯を始める際、荒れ野において40日40夜、断食をされた後、サタンがやって来て、サタンから聞いた誘惑の言葉が思い起こされるのです。あの時、サタンはイエス様に、「そんなに大変なら、神様のご計画など放棄してしまいなさい、苦難を避けて楽な道に進みなさい」と誘惑しました。この世のすべての栄華を見せた後、「もし、わたしを拝むなら、これを全てあなたに差し上げましょう」と迫ってきました。「退け、サタン」、イエス様はこのように言われましたが、ペトロの言葉の背後にも、同じように隠れたサタンの誘惑を聞かれたのだと思います。

【2】. わたしたちの信仰生活とは

それからイエス様は、弟子たちに向かって冒頭で紹介した、大切な教えを語られます。24~25節をご覧ください。

それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。

この文章で、まず最初に、「自分を捨て」とあります。これは「自分を否定して」という意味です。私たちは誰でも自分のことが一番好きですね。自分のことに執着し、自分第一で考えてしまうものです。自分を否定するとは、そういった考え方を放棄しなさいということです。次に「自分の十字架を背負って」とありますが、これは、当時、極刑であった十字架刑のことを暗示しています。十字架刑に処せられる人が自らの刑場まで背負っていった十字架の、横木のことを指しています。十字架の縦の木は刑場に既に突き刺さっていて、十字架の横木を自ら背負わされ、見せしめとされ、人々の前に行進するように強要されました。自分が死に行くための行進ですから、この道には往路はあっても、復路はありません。一方通行の道であります。この道を、人々から嘲られ、辱められながら進んで行き、最後に待っているのは、死であります。このような歩みは、私たちにはとてもできないし、したくもありません。ところが、イエス様は、この恐ろしい教えを、何もここで初めて言われたのではなく、何度も何度も繰り返し語っていたと思われるのです。これに類似する御言葉が4つの福音書、全てにおいて、確認することが出来ますし(マタ10:38~39、16:24~25、マルコ8:34~37、ルカ9:23~25、14:26~27、17:33、ヨハ12:25)、さらに言えば、一つの福音書の中で異なる状況において、この御言葉が複数回、語られているからです。例えば、マタイ10:38~39をご覧ください。p.19上

また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

繰り返し語られているこの教えは、まさに弟子たちに要求されている信仰生活の営みと、切っても切れない密接な関係があると考えることが出来るのです。もちろん、これは、私たちに殉教の死を遂げなさいと要求しているのではありません。この教えの意味は、神様を最優先にして人生を歩むときに、或いは、神の国とその義を第一にして人生を歩むときに、そこで受けることになる苦難をも甘んじなさいという意味です。皆様も経験があるかと思いますが、自分がキリスト者であることを公けにした時に、或いは、日曜日は礼拝を献げるため、仕事に出ることが出来ないなどと言った時に、周りから白い目で見られたり、理不尽な扱いを受けたことはないでしょうか。キリスト者として生きようとする時に、どうしても周囲との摩擦を感じたり、周囲との軋轢を感じるものです。しかし、イエス様のゆえに、それらの苦難に甘んじるなら、それこそ、まさに自分の十字架を背負った信仰生活の営みであり、それこそ、まさに永遠の命に至る道であると言うのです。信仰生活とは、決して言葉で一度イエス・キリストに対し、信仰告白をし、それっきり教会に来なくなるというものではありません。人それぞれ担うべき十字架は異なりますけれども、キリストの弟子であれば誰であれ、イエス様が苦難を通して栄光に入れられたように、キリスト者も、自分の十字架を背負い、自我に死んで、苦難や辱めに甘んじることによって、栄光に入れられるのであります。

ある牧師が、90歳の誕生日を迎えられた長老に対し、「長老おめでとうございます」とメッセージを送ったそうです。すると長老からこの牧師に次のような言葉が返ってきました。「先生、90歳の誕生日のメッセージを感謝します。私自身この日が与えられるとは考えてもおりませんでした。主の御心を感謝しますが、地上の生活が終わる日が近づいていることも確かです。どうぞ、主に祈ってください。その最後の日まで、私の、イエス・キリストへの信仰が崩れないようにどうぞ祈ってください」。と言われたそうです。この長老の言葉から、たとえ、長老さんであっても信仰生活を続けることは大変難しいということが分かります。

【3】. 信仰生活を支えて下さるキリスト

イエス様は、弟子たちに、ただ苦労だけを担いなさいと言っているのではありません。もしこの世において、キリストの苦難に少しでも共に参与するのなら、その報いを必ず受けることになると保障してくださいました。16:27~28節をご覧ください。

人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

もし、イエス様による何の助けもなく、何の支えもなく、キリストの弟子だからという理由で、「キリストに従い続けなさい」、「人々から嘲られ、辱められても、なお、苦難に甘んじなさい」と言うのなら、弟子たちにとって、信仰生活の営みを続けることは、不可能であったことでしょう。誰もそのような営みを続けることなんて出来ないのです。イエス様は、弟子たちの信仰がなくならないように、それぞれの十字架を背負った営みが、必ず報われますと、それぞれの信仰生活の営みが必ず励ましと慰めを受けるだろうと、約束しておられるのです。

それでは、28節の「ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる」という、このお言葉は、これは一体、どういう意味なのでしょうか。ここの解釈は大変難しいと言われています。弟子たちは、最初「人の子がその国と共に来る」とは、単純に主イエスの再臨される時期について語られていると考えました。つまり、自分たちが生存しているうちに、間もなくイエス様は再臨されるに違いないと考えたのです。ところが、いくら待ってもイエス様はいっこうに再臨されません。そのため28節について、別の解釈が出てきました。ある神学者は、「人の子がその国と共に来る」時とは、AD.70年のユダヤ戦争における、エルサレム神殿の陥落のことを言っているのではないかと解釈します。70年のユダヤ戦争の中で、ユダヤの宗教指導者である、長老、祭司長、律法学者たちは、神殿の中に籠城しました。しかし最後には、エルサレム神殿はローマ軍によって完全に破壊され、その中にとどまっていた人々は餓死したり、殺されたり、捕虜にされたりしました。一方、イエス様の弟子たちは、イエス様の御言葉通り、山へ逃げたため、(デカポリスの)ペラの町に逃げたために、命を落とすことはなかったのです。これが一つの解釈です。また、ある神学者は、「人の子がその国と共に来る」時とは、ペンテコステの日に起こった、聖霊降臨のことをおっしゃっているのではないかと解釈します。ルターやカルヴァンの解釈です。聖霊が降臨し、教会が誕生した時に、神の国が力強く臨みました。弟子たちの間で驚くべき奇跡がなされるようになり、福音伝道が一気に前進しました。弟子たちは、この時、神の国の前味ではありますが、人の子がその国と共に来るのを、確かにその目で見て、その国の到来を味わうことが出来たのであります。このように解釈が分かれますが、私は二番目の解釈、つまり聖霊降臨のことを言っているのだと思います。神様は、私たちが苦難や艱難に耐え忍び、最後まで、自分の十字架を背負って、イエス様に従っていくことができるように、聖霊によって守り導いてくださるお方であり、私たちの行いに応じて報いてくださるお方なのです。

【結論】

私たちの信仰生活とは、自分を捨て、自分の十字架を背負い、自我に死んでいく道であります。嘲りと恥ずかしめを甘んじながら、主に従っていく道であります。これは、到底、人間の力で成し遂げられるものではありません。そして、誰もが、十字架を負いたくない、自分だけ損をするのは嫌だ、と拒絶するものです。しかし、この道は、神様によって支えられ、神様の恵みによって守り導かれる道でもあり、私たちが後で振り返った時に、ちゃんと自分の十字架を背負って歩いていたという事に気づかされるのだと思います。それだけではありません。十字架の先には栄光があります。イエス様も十字架の苦難の後に復活し、高く挙げられました。同じようにイエス様が再臨される時、私たちは、悲しみも、涙も、痛みもない義の宿る世界に入れられ、栄光の輝きの中で主と共に永遠に生きるようにされるのです。私たちも主イエスと同じように、十字架と復活の道のりを経て、十字架の後に高く挙げられるのです。その時、「私のような弱い人間が、神の恵みによって、イエス様の苦難に参与させていただいた、これは何と光栄なことだったのか」と、後で気づかされることでありましょう。私たちの信仰の営み、これは、私たちを支えてくださる神様の業なのであります。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

십자가를 지고 나를 따를 것이니라

2023년 6월 25일 강단교환 오오미야교회 주일설교

마태복음 16장 21~28절

서론

오늘의 구절에서 예수님은 「누구든지 나를 따라오려거든 자기를 부인하고 자기 십자가를 지고 나를 따를 것이니라」라는 강렬한 말씀을 제자들에게 말씀하셨습니다. 성경가운데는 암송성구로 열거하고 싶은 많은 훌륭한 말씀들이 있습니다만, 오늘의 이 말씀은 가능하면 듣고 싶지 않고, 들어도 깊이 생각하지 않고 들어도 그냥 넘어가고 싶은 말씀 중 하나가 아닐까요. 이 말씀은 베드로뿐만 아니라 제자들에게 하신 말씀이니 오늘날 그리스도의 제자인 우리 모두에게 하시는 말씀으로 받아들여야 겠습니다.

(1) 베드로, 주님을 붙들고 항변하다

자, 21절 첫머리에는 「이 때로부터」라고 나와 있습니다. 이 때는 베드로가 「주는 그리스도시요 살아 계신 하나님의 아들이시니이다」라고 예수님께 훌륭한 신앙고백을 하고 난 후라는 것입니다. 따라서 우리의 믿음생활과 「자신의 십자가를 지고 예수님을 따른다」라는 것의 사이에 아마도 뗄레야 뗄 수 없는 없는 밀접한 관계가 있지 않을까 추측되는 것입니다. 예수님은 마치 이 때를 기다리고 계셨던 것 처럼 먼저 자신의 수난에 대해 말씀하시기 시작하셨습니다. 예루살렘에 가셔서 장로, 제사장, 율법학자들로부터 많는 수난을 받고 죽임을 당하고 삼일만에 부활하게 될 것이라고 공개적으로 말하시기 시작한 것입니다. 그것은 아버지되신 하나님의 계획이며, 영원 전부터 메시야로서의 사역으로 정해진 것이었습니다. 그러나 그렇게 말해도 완전한 하나님이신 예수님은 동시에 우리들과 똑같은 육신을 가진 인간이기도 하니까 마음속으로는 가능하면 그런 일을 피하고 싶다는 생각도 있으셨을 것입니다. 실제로 겟세마네 동산에서의 기도에서 그 사실을 알 수 있습니다. 예수님은「아버지여 만일 아버지의 뜻이어든 이 잔을 내게서 옮기시옵소서 그러나 내 원대로 마옵시고 아버지의 원대로 되기를 원하나이다」라고 기도하셨습니다. 예수님께 있어서 아버지되신 하나님의 뜻에 순종해서 걷는 것, 영원한 하나님의 뜻을 성취하는 것, 그것은 항상 어려움의 연속이자 유혹의 연속이었음을 알 수 있습니다. 그러던 중 베드로는 예수님을 붙들고 항변하기 시작했습니다. 16장 22절을 참조하여 주십시오.

베드로가 예수를 붙들고 항변하여 이르되 주여 그리 마옵소서 이 일이 결코 주께 미치지 아니하리이다

베드로가 이렇게 말하는 것도 무리가 아니었습니다. 왜냐하면 당시 사람들이 오실 메시야에게 가졌던 기대는 로마제국의 지배하에 있던 이스라엘을 해방시키고 이스라엘 나라를 발흥시켜 주시는 분, 적을 물리치고 이스라엘에 영광을 가져다 주시는 분이었기 때문입니다. 베드로도 그런 생각을 가지고 예수님을 붙들고 항변하기 시작한 것으로 보입니다.

이 「항변하다」라고 하는 그리스어는 「혼내다」 「질책하다」라는 뜻입니다. 옆 페이지 마태복음 17장 18절에 예수께서 「꾸짖으시니」라고 나와있는데 똑같은 단어가 사용되고 있습니다. 세상에.. 베드로는 예수님을 꾸짖고 있는 것입니다. “그런 일은 없어야 한다” “그럴리가 없지 않느냐”며 예수님의 말씀을 부정하고 질책했습니다. “설령 하나님의 마음일지라도 내가 그것을 용납할 수 없다”라고 바꿔 말할 수 있을지도 모릅니다. 하나님의 마음보다 인간적인 생각을 우선시하고 인간적인 생각을 위에 두고 있는 것입니다. 그런 베드로에게 예수님은 23절에서 「사탄아 내 뒤로 물러 가라 너는 나를 넘어지게 하는 자로다 네가 하나님의 일을 생각하지 아니하고 도리어 사람의 일을 생각하는도다」라는 말씀을 하셨습니다. 「넘어지게 하는 자」라는 그리스어를 보면 「나를 실패하게 하는 것」, 「쓰러지게 하는 것」이라는 뜻입니다. 얼마 전 훌륭한 신앙고백을 하고 「너는 베드로라 내가 이 반석 위에 내 교회를 세우리니」라는 칭찬을 들었던 베드로가 그 직후에 너는 나를 넘어지게 하는 돌맹이라고 심지어는 「사탄」이라는 소리까지 들었습니다. 굉장히 강한 말씀입니다. 상기하면 예수님께서 공생애를 시작하실 때 광야에서 40일 40일 밤 금식을 하신 후 사탄이 찾아와 사탄에게서 들었던 유혹의 말씀이 생각나는 것입니다. 그때 사탄은 예수님께 그렇게 힘들면 하나님의 계획 따위는 포기해 버려라, 고난을 피해 편안한 길로 가라고 유혹했습니다. 이 세상의 모든 영화를 보여준 뒤 「내게 엎으려 경배하면 이 모든 것을 네게 주리라」라고 바짝 다가왔습니다. 「사탄아 물러가라」예수님은 이렇게 말씀하셨는데 베드로의 말 뒤에도 똑같이 숨어 있는 사탄의 유혹을 들으셨다고 생각합니다.

(2) 우리의 신앙생활이란

그런 다음 예수님은 제자들을 향해 첫머리에 소개한 소중한 가르침을 말씀하십니다. 24,25절을 보시기 바랍니다.

24 이에 예수께서 제자들에게 이르시되 누구든지 나를 따라오려거든 자기를 부인하고 자기 십자가를 지고 나를 따를 것이니라

25 누구든지 제 목숨을 구원하고자 하면 잃을 것이요 누구든지 나를 위하여 제 목숨을 잃으면 찾으리라

이 문장에서 제일 먼저 「자기를 부인하라」라고 나와 있습니다. 이것은 「자신을 부정하라」라는 뜻입니다. 우리는 누구나 자신을 제일 좋아합니다. 자신의 일에 집착하고 자기를 먼저 우선적으로 생각하게 되는 것입니다. 자신을 부정한다는 것은 그런 사고방식을 포기하라는 것입니다. 다음에 「자기 십자가를 지고」라고 되어 있는데 이는 당시 극형이었던 십자가 처형을 암시하고 있습니다. 십자가형에 처해질 사람이 자신의 형장까지 짊어지고 간 십자가형에 쓰여질 가로 나무를 가리킵니다. 십자가의 세로 나무는 형장에 이미 꽂혀 있어서 십자가형에 쓰여질 가로 나무를 스스로 짊어지고 본보기가 되어 사람들 앞으로 행진하도록 강요받았습니다. 자신이 죽기 위한 행진이기 때문에 이 길에는 가는 길은 있어도 돌아오는 길은 없습니다. 일방통행길 입니다. 이 길을 사람들에게 비웃음을 받으며 욕을 먹으며 나아가 마지막으로 기다리는 것은 죽음입니다. 이런 걸음은 우리가 도저히 할 수 없고 하고 싶지도 않습니다. 그런데 예수님은 이 무서운 가르침을 여기서 처음 말씀하신 것이 아니라 몇 번이고 반복해서 말씀하셨을 것으로 생각됩니다. 이와 유사한 말씀을 4복음서 전부에서 확인할 수 있고(마태복음 10장 38,39절, 16장 24,25절, 마가복음 8장 34~37절, 누가복음 9장 23~25절, 14장 26,27절, 17장 33절, 요한복음 12장 25절) 더 나아가 한 복음서 안에서 다른 상황에서 이 말씀이 여러 차례 나오고 있기 때문입니다. 예를 들면 마태복음 10장 38,39절을 보시기 바랍니다.

38 또 자기 십자가를 지고 나를 따르지 않는 자도 내게 합당하지 아니하니라

39 자기 목숨을 얻는 자는 잃을 것이요 나를 위하여 자기 목숨을 잃는 자는 얻으리라

반복되는 이 가르침은 바로 제자들에게 요구되고 있는 믿음생활의 영위와 뗄래야 뗄 수 없는 밀접한 관계가 있다고 생각할 수 있습니다. 물론 이것은 우리에게 순교의 죽음을 이루라고 요구하고 있는 것은 아닙니다. 이 가르침의 의미는 하나님을 최우선으로 하여 삶을 살 때 혹은 하나님의 나라와 그 의를 첫째로 하여 삶을 살 때 거기서 받게 될 고난도 감수하라는 뜻입니다. 여러분도 경험이 있겠지만 자신이 그리스도인임을 공개적으로 밝혔을 때, 혹은 일요일은 예배를 드려야 하기 때문에 일하러 나갈 수 없다고 말했을 때 주위에서 눈총을 받거나 불합리한 대우를 받은 적은 없었는지 궁금합니다. 그리스도인으로 살려고 할 때 아무래도 주변과의 마찰을 느끼거나 주위와의 알력을 느끼게 마련입니다. 그러나 예수님 때문에 그 고난들을 감내한다면 그것이야말로 바로 자신의 십자가를 짊어진 신앙생활의 영위이며 그야말로 영원한 생명에 이르는 길이라는 것입니다. 신앙생활이란 결코 말로 한 번 예수 그리스도에게 신앙고백을 하고 그 이후로 교회에 오지 않아도 되는 것 같은 것은 아닙니다. 사람마다 짊어져야 할 십자가는 다르지만, 그리스도의 제자라면 누구나 예수님이 고난을 통해 영광에 들어가신 것 처럼 그리스도인도 자신의 십자가를 지고 자아에 죽고 고난과 모욕을 감수함으로써 영광에 들어가는 것입니다. 어느 목사님이 90번째 생일을 맞은 장로에게 “장로님 생신 축하드립니다”라고 메시지를 보냈다고 합니다. 그러자 장로에게서 이 목사님에게 다음과 같은 대답이 왔습니다. “목사님, 90세 생일 축하 메시지 감사합니다. 저 자신도 이날을 맞이하리라고는 생각지도 못했습니다. 하나님의 은혜에 감사하지만 이 지상에서의 생활이 끝나간다고 하는 것은 확실합니다. 그 마지막 날까지 저의 예수 그리스도에 대한 신앙이 무너지지 않도록 아무쪼록 하나님께 기도해 주십시오.”라고 말했다고 합니다. 이 장로님의 말을 통해 비록 장로라고 할 지라도 신앙생활을 계속한다는 것은 매우 어렵다는 것을 잘 알 수 있습니다.

(3) 신앙생활을 지탱해 주시는 그리스도

예수님은 제자들에게 오직 고생만 짊어지라고 말씀하시는 것이 아닙니다. 만약 이 세상에서 그리스도의 고난에 조금이라도 함께 참여한다면 그 보답을 반드시 받게 될 것이라고 보장해주셨습니다. 16장 27,28절을 참조하십시오.

27 인자가 아버지의 영광으로 그 천사들과 함께 오리니 그 때에 각 사람이 행한 대로 갚으리라

28 진실로 너희에게 이르노니 여기 서 있는 사람 중에 죽기 전에 인자가 그 왕권을 가지고 오는 것을 볼 자들도 있느니라

만약 예수님의 도움도 없고 아무런 도움 없이 “그리스도의 제자이기 때문에 그리스도를 계속해서 따르고 사람들에게 조롱당하고 욕을 먹더라도 여전히 고난을 감수하라”고 말한다면 제자들에게 신앙생활을 이어간다는 것은 불가능했을 것입니다. 아무도 그런 일을 계속 할 수 없습니다. 예수님은 제자들의 믿음이 없어지지 않도록, 각각의 십자가를 짊어진 믿음의 행위가 반드시 격려와 위로를 받을 것이라고 약속하고 계십니다. 그렇다면 28절의 「여기 서 있는 사람 중에 죽기 전에 인자가 그 왕권을 가지고 오는 것을 볼 자들도 있느니라」는 이 말씀은 도대체 무슨 뜻일까요? 이 곳의 해석은 매우 어렵다고 합니다. 제자들은 처음에 「인자가 그 왕권을 가지고 온다」는 것은 단순히 주 예수님께서 재림하시는 시기를 말하는 것이라고 생각했습니다. 즉, 자신들이 생존해 있는 동안 곧 예수님은 재림하실 것임에 틀림없다고 생각한 것입니다. 그런데 아무리 기다려도 예수님은 결코 재림하시지 않으셨습니다. 그래서 28절에 대해서 다른 해석이 나왔습니다. 한 신학자는 「인자가 그 왕권을 가지고 오는」 때란 AD.70년의 유대 전쟁 가운데 유대의 종교 지도자인 장로, 제사장, 율법학자들은 성전안에서 농성했습니다. 그러나 마지막으로 예루살렘 성전은 로마군에 의해 완전히 파괴되었고, 그 안에 머물러 있던 사람들은 굶어 죽거나 죽임을 당하거나 포로로 잡혔습니다. 반면 예수님의 제자들은 예수님의 말씀대로 산으로 도망쳤기 때문에 (데카폴리스의) 펠라 마을로 도망쳤기 때문에 목숨을 잃지는 않았습니다. 이것이 하나의 해석입니다. 또 어떤 신학자는 「인자가 그 왕권을 가지고 오는」 때란 펜테코스테의 날 일어난 성령강림을 말씀하시는 게 아닌가 해석합니다. 루터와 칼빈의 해석입니다. 성령이 강림하고 교회가 탄생했을 때 하나님 나라가 강한 능력으로 임했습니다. 제자들 사이에서 놀라운 기적이 이루어지게 되면서 복음전도가 단숨에 전진했습니다. 제자들은 이때 하나님의 나라의 맛보기에 불과했지만 「인자가 그 왕권을 가지고 오는」것을 분명히 눈으로 보고 그 나라의 도래를 맛볼 수 있었습니다. 이렇게 해석이 나뉘는데 저는 두 번째 해석, 즉 성령강림을 말하는 것이라고 생각합니다. 하나님은 우리가 고난과 환난을 견디고 끝까지 자신의 십자가를 지고 예수님을 따라갈 수 있도록 성령에 의해 보호하여 주시고 인도하여 주시는 분이며 우리의 믿음의 행위에 응하여 보답해 주시는 분입니다.

결론

우리의 신앙생활이란 자신을 버리고 자신의 십자가를 지고 자아에 죽어가는 길입니다. 조롱과 부끄러움을 감수하면서 주를 따라가는 길입니다. 이것은 도저히 인간의 힘으로 이루어질 수 있는 것이 아닙니다. 그리고 누구나 십자가를 지고 싶지 않다, 자신만 손해 보는 것은 싫다며 거절하는 것입니다. 하지만 이 길은 하나님의 은혜에 의해서 지켜지고 인도되는 길이기도 하며 우리가 나중에 돌아봤을 때 확실히 자신의 십자가를 지고 걸었다는 것을 깨닫게 되는 것이라고 생각합니다. 그뿐만이 아닙니다. 십자가의 끝에는 영광이 있습니다. 예수님도 십자가의 고난 후 부활하시고 높이 들림을 받으셨습니다. 마찬가지로 예수님이 재림하실 때 우리는 슬픔도 눈물도 아픔도 없는 의로운 세상에서 영광의 빛 가운데서 주님과 함께 영원히 살게 되는 것입니다. 우리도 주 예수님과 마찬가지로 십자가와 부활의 길을 거쳐 십자가 뒤에 있는 영광으로 높이 들림을 받을 것입니다. 그때 “나 같은 약한 인간이 하나님의 은혜로 예수님의 고난에 참여한 것이 얼마나 영광스러운 일이었는가”를 나중에 깨닫게 될 것입니다. 우리 믿음의 행위, 이것은 우리를 지탱해주시는 하나님의 역사입니다.

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