2019年03月10日「目を覚ましていなさい」

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目を覚ましていなさい

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マタイによる福音書 24章37節~51節

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聖句のアイコン聖書の言葉

37人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。
38洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。
39そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。
40そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
41二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
42だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。
43このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。
44だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
45「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。
46主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。
47はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。
48しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、
49仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。
50もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、
51彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 24章37節~51節

原稿のアイコン日本語メッセージ

聖書の中には「目を覚ましていなさい」という勧めが、何度も出てきます。なぜ私たちが目を覚ましていなければならないのかと言いますと、終末が間もなく差し迫っているからです。それでは、その終末とはいつなのでしょうか。時間については、36節にも書いてある通り、聖書は沈黙しています。これは例えば、本日の箇所のように、終末は私たちが考えているより、ずっと早く来ると48節で、イエスさまは譬えの中で語っています。しかしそうかと思えば、今度は反対に、25章の十人のおとめの譬えでは、終末は私たちが考えているより、ずっと遅くなるために思わず眠りこけてしまう者も出るとあります。結局、再臨の事実そのものは強調されていますが、再臨の時間については、聖書は沈黙しているということです。時間が明らかにされていないからこそ、キリスト者はいつでも目を覚ましている必要があるのです。

因みに、この「目を覚ましていなさい」という勧めの言葉は、福音書以外に目を転じても、例えばパウロ書簡に二回、ヨハネの黙示録に二回、ペトロの手紙に一回、出てきます。その中で二か所だけ調べてみましょう。1ペトロ5:8をご覧ください。(p434)

身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。

またヨハネの黙示録16:15をご覧ください。(p471)

―見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。―

イエスさまは「目を覚ましていなければならない」理由として、人の子の再臨が「ノアの箱舟」の時と同じようだからだと言います。ノアの箱舟の事件を過去の歴史事件として経験している私たちは、或いはソドムとゴモラの火の硫黄の審判を過去の歴史事件として経験している私たちは、永遠に、この美しい地球環境に守られた、楽しい地上の生活が続くと考えてはなりません。過去の歴史を学ぶことによって、将来、必ず神の審判の日があることを悟らなければなりません。マタイ24章37-39に戻りましょう。

人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。

洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。

そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。

ノアの箱舟の時は、どうだったでしょうか。ノアが箱舟に入るその瞬間まで人々は食べたり、飲んだり、娶ったり、嫁いだりしていました。つまり、現在のこの楽しくて、愉快な生活が千年、万年と永遠に変わらずに続くだろうと信じていたのです。しかし、箱舟の扉が閉じられたその日に、神の審判が始まり40日40夜の大雨と大洪水が起きました。彼らは、地上における安寧とその楽しみを享受しながら、洪水が襲って来て、一人残らずさらわれるまで、何も気づかなかったと書かれています。それでは、神の審判の前兆は、全くなかったのでしょうか。いいえ、そんなことはありませんでした。ノアが約100年かけて巨大な箱舟を作り上げるのを彼らは日々、確かに目にしながらも、何も感じないで霊の目は眠りこけていたということです。ノアがまもなく洪水が起こるために、あらゆる種類の動物を雄と雌、つがいにして箱舟の中に入れているのを確かに目撃していたにもかかわらず、相変わらず彼らはそれが何を意味するのか悟ることができませんでした。ひたすら自分たちの事だけに、食べたり、飲んだり、娶ったり、嫁いだりすることだけに明け暮れていたのです。イエスさまが再び来られる日もまさにこれと同じようになるということです。40-41節をご覧ください。

そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。

二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。

ラッパの号令と共に天使によって、神の民は召集され引き上げられます。神の民は救われて、そして天のイエスさまのもとへ導かれるのです。一方で、捨て置かれた者たちは、神の恐ろしい審判がどのように下ってくるのかそこで待っている人々です。

このように神の御子が、私たちから離れておられるのは、イエスさまが復活された後、あの幸いな天の安息に迎え入れられたからです。王の王、主の主として天の父の右の座にお座りになりました。ですから私たちが日々イエスさまと共に、イエスさまの頸木に結ばれて、この世を歩むことができるのは、聖霊の働きによるのであって、実際イエスさま御自身は、私たちから遠く離れておられるのです。それは先に行って、私たちのために永遠の安息の場所を備えてくださるためなのです。ですから私たちは、この世にあっては、袋ももたず、二枚目の下着ももたず、履物も杖も一つしか持たないで、身軽な旅人の状態で、天にある真の至聖所に巡礼する旅人として、イエス様の身元に巡礼するものとして生きていくのです。つまり天国以外に、この世のどのような場所にも、安息できる場所を探し求め、そこに執着してはならないということです。私たちの安息は天にあり、イエスさまの御許にあるからです。それでは、目を覚ますとは一体どういうことでしょうか。42-46節を見ると、そのことが具体的に説明されています。ご覧ください。

だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。

このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。

だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。

主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。

42節の「目を覚ましていなさい」という勧めの言葉は、44節で「用意していなさい」という言葉に言い換えられているのが分かります。イエスさまは比喩として二人の僕について話されますが、この僕たちは二人ともリーダーシップがあったのでしょうか、主人からある仕事を委ねられました。つまり、「時間通りに使用人たちに食事を与えさせる」仕事です。中間管理職のような立場です。ですから、用意するというのは、主人から委ねられた仕事を「忠実に守り行う」僕であり、「いつ主人が帰って来ても、主人に喜ばれるように」、用意している僕のことです。皆さんは犬を飼ったことがありますでしょうか。私は飼ったことがありませんが、犬は何時でも主人の帰りを期待しながら待っていますね。ですから家の主人が帰宅して、そのような忠実な犬を見ると本当に安堵し、うれしくなると思います。同じように、イエスさまの場合も、再び戻って来られた時に僕の忠実な姿を見ることが出来たなら、その喜びは大変大きく、イエスさまご自身が、逆に僕たちに仕え、足を洗ってくれたり、主の食卓を調えてくださるに違いありません。そして神さまは、この「幸いな僕」に対し、さらに大きなものを任せることでしょう。主人の全財産を僕に相続させて、それを管理させるようになるのです。一方、悪い僕はどうでしょうか。48-49節をご覧ください。

しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、

仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。

悪い僕とは、主人の帰宅は遅いと勝手に思い込み、食事を与えるどころか、使用人を殴り始め、酒飲みどもを呼んで、あたかも自分がこの家の主人であるかのように、彼らと一緒に食べたり飲んだりし始めました。

この二人の僕は、同じように能力があり、リーダーシップがあり、表面だけ見たら全く同じように見えるのですが、なぜ、一方は、忠実な僕となり、そして一方は悪い僕となったのでしょうか。その差は、恐らく主人に対する愛ではないかと思います。つまり忠実な僕が主人の帰りを用意して、言い付けをしっかり守ることができたのは、主人を愛するが故であったからでしょう。イエスさまを愛しているので、イエスさまの再臨を心から期待しながら、粘り強く待ち続けることができたのです。悪い僕は、自分の利益しか考えていなかったために、自分に任せられた財産や、使用人たちの人数だけに関心が行ってしまい、主人に対する愛はありませんでした。そして、主人の顔も見たくないし、帰ってくることを期待もしないし、むしろ、主人ができれば、このまま帰って来なければいいと、心のどこかで思っていたのでしょう。

この比喩に出て来る悪い僕とは、当時のユダヤの宗教指導者たちであったと考えられます。ですから教会の牧師や長老、役員はよくよく自分自身に適用してへりくだらなければなりません。ユダヤの宗教指導者は神に対する愛など一切なく、偽善者のように表面だけ繕いながら、神さまから委ねられた神殿、神さまから委ねられた祭りの儀式、文字面だけの律法、そのようなものだけを握りしめて、本来しなければならない、イスラエルの民に「時間通りに使用人たちに食事を与えさせる」事を怠ってしまったのです。例えば、着物の房を長くしたり、大通りの四辻で祈祷を捧げたり、民の神殿税を自分たちの個人的な収入としたり、生贄として捧げられた生贄の肉を自分たちが食べる物として奪い取ったり、異邦人の庭に両替商を営む場所を斡旋し、その見返りに場所代を受け取ったりしました。表向きは神殿を守っているように見せかけて、内面においてたくさんの罪を犯してきたのです。ですから彼らのゆくすえはとは、50-51節に書かれている通りです。

その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、

彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

みなさん、私たちはご結婚をされて、もうずいぶんと時間が経ちますね。ちょっとここで新婚当時のことを思い出してみてください。夫が仕事から帰ってくるのを妻は家でワクワクしながら待っています。一日中、夫のことを考えながら、夫が帰宅する前に大好物の夕食を準備します。作ったことのない料理でも挑戦します。どうやって料理するのか分からない時は、実家に電話しながら「お母さんこの料理の作り方はどうするの」と聞くことでしょう。とにかく夫が帰宅するのに合わせてパニックになります。でも妻は一切疲れることはありません。それは、夫を愛しているからです。愛しているからこそ、準備し、用意しても疲れることがないのです。この心持ちこそ、イエスさまの来られるのを待ち望む新婦の心だと思います。イエスさまを愛しているなら、目を覚まし、用意して待ち続けることが出来るのです。

ですから、この忠実な賢い僕にとって、主の日が、イエスさまの再臨される日が、少しも怖いことではありません。心の底から期待しつつ、「マラナタ、主よ来たりませ!」と真実に祈ることが出来るのです。神さま、まだ伝道が出来ていないので、まだ来ないでくださいと心の中で思っている人は、実はこの世が与える楽しみと、安息に固執して眠りこけているのかもしれません。死は信者にとって、イエスさまに遭いまみえる日なのに、どうして恐れることがあるでしょうか。死は確かに悲しいものでありますが、必要以上に恐れるのは、私たちの側にイエスさまとお会いする用意ができていないからかもしれません。目を覚ましている忠実で賢い僕は、この地上において生を全うするその日を、感謝をもってお迎えすることが出来るのです。まさにその日が今日であっても、喜んで受け入れることが出来るのです。これがイエスさまを愛する者たちの個人的終末論です。

それでは、イエスさまを愛する者が用意することとして、ユダヤの宗教指導者に適用しましたが、これを私たちに一人ひとりに適用するならどうなるでしょうか。イエスさまは私たちにも、色々なものを任せてくださいました。第一に健康が挙げられるでしょう。主から与えられ、主に任せられた健康を「時に適って分かち合わなければ」なりません。健康を通して兄弟姉妹に仕えるべきです。時間もそうです。積極的に教会の集会に共に集まり、聖徒と共に祈り、共に交わらなければなりません。信仰とは、知識ではなく、愛の奉仕によって裏打ちされるものです。財産もそうです。時に適って、お金が必要な人に財産を分かち合わなければなりません。それが献金です。私たちが献金するのは、目を覚ましていること、主の日を用意することなのです。賜物や才能もそうです。主から与えられた賜物や才能を、時に適って必要な人々に分かち合わなければなりません。それこそ、私たちが主を愛する姿勢であり、イエスさまの再臨を待ち望む準備なのです。

私たちは、自分たちの事だけに没頭して、食べたり、飲んだり、娶ったり、嫁いだりしながら眠りこけていてはなりません。この世にあっては旅人として、私たちはイエスさまを愛し、毎日目を覚まし、準備している、忠実な賢い僕として主の再臨を待ち望みましょう。

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