2023年06月04日「義の道を知っていながら 의의 도를 안으면서」

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義の道を知っていながら 의의 도를 안으면서

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説教
川栄智章 牧師
聖書
ペトロの手紙二 2章17節~22節

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聖句のアイコン聖書の言葉

2:17この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗闇が用意されているのです。
2:18彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。
2:19その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです。
2:20わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。
2:21義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。
2:22ことわざに、/「犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る」また、/「豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る」と言われているとおりのことが彼らの身に起こっているのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙二 2章17節~22節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 人は、誰に仕えるのか、誰を自分の主人として持つのかによって、人生の終着駅が180度、異なって来ます。そして、誰も二人の主人に同時に仕えることはできないと、イエス・キリストははっきりと言われました。私たちは、イエス・キリストと出会い、イエス・キリストを知り、この方に生涯をかけて従順にし、仕えて行くのであります。ところが、初代教会の群れの中から、そのことを拒む人々が現れて来ました。偽教師たちと呼ばれる人々です。本日も2ペトロ2章の御言葉から、恵みにあずかりたいと願っています。

【1】. 滅亡の奴隷なのか、キリストの奴隷なのか

 17節をご覧ください。

“この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗闇が用意されているのです。”

ここで、偽教師たちを「干上がった泉」のようであり、「嵐に吹き払われる霧」のようであると言っています。どちらも見せかけとは異なり、中身のないものという意味です。荒れ野の中で旅人が泉を見つけたと思って、胸を躍らせながらそこに近づいていきます。ところが、その泉から水が湧き出ていないことが分かるとどうでしょうか。大変がっかりさせられます。或いは、霧や雲が現れると、大地を潤すために間もなく雨がもたらされるのだろうと期待します。ところが、突風が吹いて霧は追い払われ、それが恵みの雨をもたらすものでは、全然なかったということが明るみになると、やはり失望させられるのです。偽教師たちはまさに「干上がった泉」のようであり、「嵐に吹き払われる霧」のようで、決して私たちの霊の渇きを満たしてくれるのではなく、単に肉の欲やみだらな楽しみによって、人々を誘惑し、罠に陥れようとするだけなのであります。ペトロは、そのような彼らに対し、深い暗闇が用意されていると語りました。「深い暗闇」とは、聖書の他の箇所で、火の池である「ゲヘナ」と呼ばれることもあり、「永遠の命」と、対照的な言葉であります。この「深い暗闇」とは、光であられるイエス様から最も遠く離れた場所、或いは、子羊の婚宴の食卓から最も遠く離れた場所ということであり、悪魔とその手下たちが共に放り込まれる場所であります。マタイによる福音書22:12~13とヨハネの黙示録22:15の二か所の御言葉を調べてみましょう。

“王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』”

“犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。”

人生の終着駅が「深い暗闇」なのか、或いは「永遠の命」なのか、このことは私たちにとって最も大きな関心事だと言えるのではないでしょうか。イエス様なしで人生の終着駅に一人で立っている姿なんて、とても想像することはできません。私たちは、深い暗闇に放り出されないように、決して偽教師たちの罠に陥らず、目を覚ましていなければなりません。続いて、2:18~19節をご覧ください。

“彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです。”

偽教師たちは自由を与えると約束します。彼らの巧妙な罠とは、「自由」に関する罠であると言えるのです。迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを「罪を犯させる自由へ」、導いて行きます。迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちとは、14節の「心の定まらない人々」を指していると思われます。恐らく偽教師たちは、次のように彼らの教えを魅力的に語り掛けていたのではないでしょうか。「あなたは、主イエスによって自由にされたのだから、いくら罪を犯しても、赦されている。」「あなたの心に思いついたことは、自由に、何でもしなさい。主が共におられるから。」いかにも自分たちが霊的であるかのように装い、「自由」という誰にでも歓迎される言葉を用いて、心の定まらない人々を誘惑するのです。

聖書には、「イエス・キリストにある真理が、あなた方を自由にする(ヨハ8:32)」と書かれていますが、これは、罪からの自由であって、罪を犯すことの自由ではありません。繰り返しますが、罪を犯さない自由であって、罪を犯すことを免除することではありません。もし、人が罪を犯し、自分の欲のままに歩むなら、その人は瞬く間に罪の奴隷、欲望の奴隷になり、やがて滅亡に至るのです。従って、真の自由を得るためには、キリストの僕にならなければなりません。19節に、「滅亡の奴隷」という言葉がございます。偽教師たちについて、この言葉が使われています。奴隷という言葉のギリシア語は「ドゥロス」が使われていまして、全く同じ単語が、2ペトロ1:1に、「イエス・キリストの僕」と翻訳されているところで使われています。「僕」というと、それほど悪いイメージを持ちませんが、実は「ドゥロス」、奴隷という言葉が使われているのです。すなわち、ペトロは、「滅亡の奴隷」になるのか、それとも「イエス・キリストの奴隷」になるのか、二つに一つだと言っているようであります。もし、自由に罪を犯し続け、罪と欲望の奴隷になるなら、その終着駅である「滅亡」に至ることでしょう。もし、キリストの奴隷となって、キリストに仕え、キリストに服従するなら、永遠の命に至ることでしょう。

【2】. 自分たちに伝えられた聖なる掟

 続いて20~21節をお読みします。

“わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。”

果たして、自分は偽教師の教えに惑わされていないだろうか?偽教師の罠に陥っていないだろうか?と、自分自身を吟味する時、心配になってきます。そのことを点検するためには、「聖なる掟」から積極的に離れようとしているのか、それとも、「聖なる掟」をしっかり握りしめているのかを吟味していただければと思います。「聖なる掟」とは、何かと言うと、簡単に言えば十戒です。せんげん台教会の礼拝の中で必ず告白していますね。もし、この十戒を積極的に犯しているということであれば、要注意です。マルコ福音書7:9~12をご覧ください。

“更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。”

これは、イエス様が、ファリサイ人・律法学者に向けた警告です。コルバン:神のへの供え物だと言えば、父、母に対して何もしないで済むと、勝手に言い伝えを守っていたと言うことです。注目していただきたいのは、イエス様の「よくも神の掟をないがしろにしたものである」と言う言葉です。つまり掟とはモーセの十戒を指していることが分かります。十戒の教えをどれだけ、大切にしているのか、そのことによって、自分が偽教師の教えに惑わされているのかどうか、客観的に判断することが出来るのです。また、十戒は「神様を愛し、隣人を愛すること」(マタ22:37~39)という一言によって要約できますから、十戒を大切にするなら、キリスト者は自然と高い倫理基準を持ちながら、愛がその教会のトレードマークになるのです。十戒を大切にし、愛が教会のトレードマークになるのです。一方で、もし十戒を軽んじるなら、どうでしょうか。キリスト者でありながら、倫理道徳が腐敗し、愛の共同体ではなく、人を躓かせるような、傲慢と高ぶりの共同体になってしまうことでしょう。

さらに、イエス様は神の掟について、新しい掟をあなた方に与えると弟子たちに教えられました。ヨハネ13:34をご覧ください。

“あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。”

新しい掟とは、何かと言いますと、「イエス様が私たちを愛してくださったように、互いに愛し合うこと」です。イエス様が私たちの罪をその身に負ってくださったように、相手を裁かないで、愛によって、互いに赦し合い、破れ口を互いに覆い合いなさいということです。教会には必ず躓きが起こりますが、その都度、「互いに愛し合い、互いに赦し合うこと」が大切になって来るのです。結局、ペトロの言う21節の「聖なる掟」というのは、十戒であり、同時にキリストの新しい掟であるということが分かります。私たちは、この掟を軽んじてはいないでしょうか。この掟から離れ去ってはいないでしょうか。もちろん、私たちは自分の力で神の掟を守ることなど、到底できません。神の聖なる掟、聖なる律法は、有機体のようなものであって、一つでもそれを破るなら、律法全体を破ったことと等しくなります。私たちは、とても自力では神の掟を守ることはできず、むしろ罪を日々、犯してしまう弱い者です。しかし、自分の犯した罪に敏感になり、神の御前に日々、それを告白し、イエス・キリストによる清めをいただくことが、どれほど大切であるのか悟るべきです。やがての日に、私たちはイエス・キリストの血潮によって、義の衣を着せられ、律法を全て従順したものとして認められ、神の家族、神の養子として受け入れられるのです。それとは逆に、自らの罪には鈍感となり、神の御前に出て告白することを敬遠し、キリストの御前に跪くことを、かたくなに拒否しているのなら、もう既に黄色信号が灯っています。私たちは、自分の罪に敏感になれるように、そして罪から離れ、キリストの僕、キリストの奴隷として歩んでいくことができるように、祈り求めてまいりましょう。

【3】. 義の道を知っていながら

 2:22節において、当時、よく知られていたと思われる諺を用いて、偽教師たちの姿が映し出されています。22節をご覧ください。

“ことわざに、/「犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る」また、/「豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る」と言われているとおりのことが彼らの身に起こっているのです。”

犬と豚は、ユダヤ人の大変忌み嫌う動物でありました。豚は儀式上、汚れた動物であり、また、犬は異邦人に対して、その侮蔑心を顕わにするために、犬と呼んでいました。22節の二つの諺は、犬と豚の本能的な行動を取り上げており、その共通している点は、元の汚れに戻って来るということです。これと同じように偽教師たちも、彼らの元々の汚れに戻ってくるだろうと言っているのです。偽教師たちは、たとえ主を告白しても、聖霊の支配の中で、その人が内側から変えられることはありません。聖霊を受けていないため、信仰生活の営みを通して、聖霊の実が結ばれて来ないのです。彼らは、「主よ、主よ」と呼びながら、自身の霊的な装いをアピールするかもしれませんが、彼らは、義の道を単に知識的に知っているだけに過ぎないのです。彼らは聖霊によって、古い自分に死んで、新しく生まれ変わってはいないため、しばらくすると、再び過去の汚れた生き方に戻って行くということを、この二つの諺は、生々しく表現しているのです。最後にマタイによる福音書7:22~23に書かれているイエス様の警告を見てみましょう。

“かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』”

この御言葉によれば、偽教師たちが大勢出て来るということが分かります。彼らは、御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろと行いますから、恐らく偽教師であることを外見で判断することは不可能だと思われます。しかし、それら一つ一つの業が、聖霊による業でなく、神の法に適合しない、不法の業であって、意味がないのです。わたしたちは、聖なる掟を大切にしながら、私たちの信仰生活を、どうか聖霊が導いてくださり、私たちを通して聖霊の実が豊かに結ばれていくようにお祈りいたしましょう。

【結論】

 私たちは、イエス様と出会い、イエス様を人格的に知るようになり、イエス様を、主であり、救い主として仰いでいます。もはや私たちは、以前のような罪と欲望の奴隷ではなく、イエス様に買い取られ、主人がイエス様に替えられました。イエス様の僕として、伝えらえた聖なる掟を大切にし、日々御前に悔い改めの告白と、切なる祈りを捧げながら、罪の赦しをいただき、キリストの前に跪く歩みを献げてまいりましょう。そして、信仰によって、互いに愛し合い、互いに赦し合う、愛の共同体を建て上げていく者たちとならせていただきましょう。

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의의 도를 안으면서

2023년 6월 4일 센겐다이 교회 주일 설교

베드로후서 2장 17 ~22

서론

사람은 누구를 섬기느냐 누구를 자신의 주인으로 가지느냐에 따라서 인생의 종착역이 180도 달라집니다. 그리고 아무도 두 주인을 동시에 섬길 수 없다고 예수 그리스도는 분명히 말씀하셨습니다. 우리는 예수 그리스도를 만나 예수 그리스도를 알게 되고 평생 순종하고 섬기는 것입니다. 그런데 초대 교회 무리 중에서 그 일을 거부하는 사람들이 나타났습니다. 거짓 선생들이라고 불리우는 사람들입니다. 오늘도 베드로후서 2장의 말씀을 통해서 은혜를 말씀을 듣고자 합니다.

(1) 멸망의 노예인가 그리스도의 노예인가

17절을 보시기 바랍니다.

17 이 사람들은 물 없는 샘이요 광풍에 밀려 가는 안개니 그들을 위하여 캄캄한 어둠이 예비되어 있나니

여기서 거짓 선생들을 「물 없는 샘」과 같고 「광풍에 밀려가는 안개」와 같다고 합니다. 둘 다 겉치레와 알맹이가 없는 것이라는 뜻입니다. 광야에서 나그네가 샘을 발견했다고 생각하고 뛰는 가슴을 안고 그곳으로 뛰어갑니다. 그런데 그 샘에선 물이 솟아나지 않는다는 것을 알게 되면 어떨까요? 매우 실망스럽겠지요. 또는 안개나 구름이 나타나면 대지를 적시는 비가 곧 올 것이라고 기대합니다. 그런데 광풍이 불면서 안개는 밀려가고 그것이 단비를 가져오는 것이 전혀 아니었다는 것이 밝혀지면 역시 실망을 하게 됩니다. 거짓 선생들은 그야말로 「물없는 샘」이요 「광풍에 밀려가는 안개」 같아서 결코 우리 영혼의 갈증을 채워주는 것이 아니라 단순히 음란으로써 육체의 정욕 중에서 유혹할 뿐입니다. 베드로는 그런 그들에게 캄캄한 어둠이 예비되어 있다고 말합니다.

「캄캄한 어둠」이란 성경의 다른 곳에서 불의 연못인 「게헤나」라고 불리기도 하는데, 「영원한 생명」과 대조되는 말입니다. 이 「캄캄한 어둠」이란 빛이신 예수님으로부터 가장 멀리 떨어진 곳, 혹은 어린양의 혼인의 식탁에서 가장 멀리 떨어진 곳으로 악마와 그 졸개들이 함께 던져지는 곳입니다. 마태복음 22장 12,13절과 요한계시록 22장 15절 두 말씀을 살펴 보겠습니다.

마태복음 22장

12 이르되 친구야 어찌하여 예복을 입지 않고 여기 들어왔느냐 하니 그가 아무 말도 못하거늘

13 임금이 사환들에게 말하되 그 손발을 묶어 바깥 어두운 데에 내던지라 거기서 슬피 울며 이를 갈게 되리라 하니라

요한계시록22장

15 개들과 점술가들과 음행하는 자들과 살인자들과 우상 숭배자들과 및 거짓말을 좋아하며 지어내는 자는 다 성 밖에 있으리라

인생의 종착역이 「캄캄한 어둠」인지 아니면 「영원한 생명」인지 이 일은 우리에게 가장 큰 관심사라고 할 수 있지 않을까요? 예수님 없이 인생의 종착역에 혼자 서 있는 모습은 도저히 상상할 수 없습니다. 우리는 캄캄한 어둠에 던져지지 않도록 결코 거짓 선생들의 함정에 빠지지 않도록 깨어 있어야 합니다. 이어서 2장 18,19절을 보시죠.

18 그들이 허탄한 자랑의 말을 토하며 그릇되게 행하는 사람들에게서 겨우 피한 자들을 음란으로써 육체의 정욕 중에서 유혹하는도다

19 그들에게 자유를 준다 하여도 자신들은 멸망의 종들이니 누구든지 진 자는 이긴 자의 종이 됨이라

거짓 선생들은 자유를 주겠다고 약속 합니다. 그들의 교묘한 함정은 「자유」 에 관한 것입니다. 광야의 생활에서 겨우 벗어난 사람들을 「죄를 지을 수 있는 자유」로 이끌어 갑니다. 광야의 생활에서 겨우 벗어난 사람들이란 14절의 「굳세지 못한 영혼들」을 가르키는 것으로 보입니다. 아마도 거짓 선생들은 다음과 같이 그들의 가르침을 매력적으로 말하고 있던 것이 아닐까요. “당신은 예수님에 의해서 자유를 얻었으니 아무리 많은 죄를 지어도 용서 받는다” “당신의 마음속에 생각나는 것은 자유롭게 무엇이든 하라. 주님이 함께 하신다”자뭇 자신들이 영적인 것처럼 가장하고, 「자유」라는 누구에게나 환영 받고 귀를 즐겁게 해주는 말을 사용하여 굳세지 못한 영혼들을 유혹하는 것입니다.

성경에는 「진리를 알지니 진리가 너희를 자유롭게 하리라」 (요한복음 8장 32절)라고 쓰여 있는데 이는 죄로부터의 자유이지 죄를 지을 수 있는 자유가 아닙니다. 다시 말하지만 죄를 짓지 않을 자유이지 죄를 짓는 것을 면제하는 것이 아닙니다. 만약 사람이 죄를 짓고 자기 욕심대로 간다면 그 사람은 순식간에 죄의 노예, 욕망의 노예가 되고 마침내 멸망에 이르게 됩니다. 그러므로 진정한 자유를 얻기 위해서는 그리스도의 노예가 되어야 합니다. 19절에「멸망의 종」 이라는 말이 있습니다. 거짓 선생들에 대해서 이 말이 사용되고 있습니다. 종이라는 말에는 그리스어의 「둘로스」가 쓰이고 있는데 똑같은 단어가 베드로후서 1장 1절에 「예수 그리스도의 종」이라고 번역되어 쓰여져 있습니다. 한국어 성경, 영어 성경에는 「둘로스」가 종으로 번역되어 있습니다. 사실 「종」이라고 하면 그정도로 나쁜 이미지는 가지지 않지만 실은 「둘로스」라는 그리스어는 「노예」라는 뜻이 더 정확한 번역입니다. 즉 베드로는 멸망의 노예가 될 것인지 아니면 예수 그리스도의 노예가 될 것인지 둘 중의 하나라고 말하는 것 같습니다. 만약 자유롭게 죄를 짓고 죄와 욕망의 노예가 된다면 그 종착역인 멸망에 이를 것입니다. 만약 그리스도의 노예가 되어 그리스도를 섬기고 그리스도에게 복종한다면 영원한 생명에 이를 것입니다.

(2) 우리들에게 전해진 거룩한 명령

이어서 20,21절을 보십시오.

20 만일 그들이 우리 주 되신 구주 예수 그리스도를 앎으로 세상의 더러움을 피한 후에 다시 그 중에 얽매이고 지면 그 나중 형편이 처음보다 더 심하리니

21 의의 도를 안 후에 받은 거룩한 명령을 저버리는 것보다 알지 못하는 것이 도리어 그들에게 나으니라

과연 자신은 거짓 선생의 가르침에 현혹되어 있지는 않은가? 거짓 선생의 함정에 빠지지는 않았을까? 라고 자신을 음미해 볼 때 걱정이 됩니다. 이를 점검하기 위해서는 「거룩한 명령」에서 자신이 적극적으로 벗어나려고 하는지 아니면 「거룩한 명령」을 꽉 붙들고 있는지를 음미해 보시면 좋겠습니다. 「거룩한 명령」이 무엇인가 하면 간단히 말해서 십계명입니다. 센겐다이 교회의 예배 중에 꼭 고백하고 있습니다. 만약 이 십계명을 적극적으로 어기고 있다면 주의해야 합니다. 마가복음 7장 9~12절 말씀을 보시기 바랍니다.

마가복음 7장

9 또 이르시되 너희가 너희 전통을 지키려고 하나님의 계명을 잘 저버리는도다

10 모세는 네 부모를 공경하라 하고 또 아버지나 어머니를 모욕하는 자는 죽임을 당하리라 하였거늘

11 너희는 이르되 사람이 아버지에게나 어머니에게나 말하기를 내가 드려 유익하게 할 것이 고르반 곧 하나님게 드림이 되었다고 하기만 하면 그만이라 하고

이것은 예수님이 바리새인 율법학자들을 향한 경고입니다. 고르반이라는 (하나님께 드리는 제물이라고 하면 아버지 어머니께 아무것도 하지 않아도 된다) 마음대로의 전통을 만들어 지켰다는 것입니다. 주목해 주셨으면 하는 것은 예수님의 「하나님의 계명을 잘 저버리는도다」는 말씀입니다. 즉 계명이란 모세의 십계명을 가리키는 것을 알 수 있습니다. 십계명의 가르침을 얼마나 소중히 여기는지, 그로 인해 자신이 거짓 선생의 가르침에 현혹되어 있는지 아닌지 객관적으로 판단할 수 있는 것입니다. 또한 십계명은 「하나님을 사랑하고 이웃을 사랑하는 것」 (마태복음 22장 3739절) 이라는 한마디로 요약할 수 있으니 십계명을 소중히 여긴다면 그리스도인은 자연스럽게 높은 윤리기준을 가지면서 사랑이 그 교회의 트레이드마크가 되는 것입니다. 십계명을 소중히 여기고 사랑이 교회의 트레이드마크가 되는 것입니다. 한편, 만약 십계명을 가볍게 여긴다면 어떨까요? 그리스도인이면서 윤리도덕이 부패하여 사랑의 공동체가 아니라 사람을 넘어지게 하는 교만하고 오만한 공동체가 되어버리고 마는 것입니다.

게다가 예수님은 하나님의 계명에 대해 새로운 계명을 너희에게 주겠다고 제자들에게 가르치셨습니다. 요한복음 13장 34절을 보시기 바랍니다.

34 새 계명을 너희에게 주노니 서로 사랑하라 내가 너희를 사랑한 것 같이 너희도 서로 사랑하라

새 계명이 무엇인가 하면 「예수님이 우리를 사랑해 주신 것처럼 우리도 서로 사랑하는 것」입니다. 예수님께서 우리의 죄를 그 몸에 지신 것처럼 상대방을 심판하지 말고 사랑으로 서로 용서하며 찢어진 구멍을 서로 덮으라는 것입니다. 교회에는 반드시 여러가지 문제들이 일어나지만 그때마다 「서로 사랑하고 서로 용서하는 것」이 중요합니다. 결국 베드로가 말하는 21절의 「거룩한 명령」이라는 것은 십계명이자 그리스도의 새 계명임을 알 수 있습니다. 우리는 이 계명을 가볍게 여기고 있는 것은 아닐까요? 이 계명에서 벗어나진 않았을까요? 물론 우리는 스스로의 힘으로 하나님의 규칙을 지킨다는 것은 도저히 할 수 없습니다. 하나님의 거룩한 명령, 거룩한 율법은 유기체와 같아서 하나라도 어긴다면 율법 전체를 어긴 것과 같습니다. 우리는 도저히 자력으로는 하나님의 규칙을 지킬 수 없고 오히려 죄를 날마다 저지르는 약한 자입니다. 그러나 자신이 저지른 죄에 민감해지고 하나님 앞에 날마다 그것을 고백하며 예수 그리스도의 보혈로 정함을 받는 것이 얼마나 중요한지 깨달아야 합니다. 예수님께서 재림하시는 날 우리는 예수 그리스도의 보혈에 의해 의로운 옷이 입혀지고 예수 그리스도로 말미암아 율법을 모두 순종한 것으로 인정받아 하나님의 가족, 하나님의 양자로 받아들여지는 것입니다. 그와는 반대로 자신의 죄에는 둔감하여 하나님 앞에 나와 고백하기를 꺼리고 그리스도 앞에 무릎 꿇기를 완강히 거부한다면 이미 황색불이 켜져 있는 것입니다. 우리는 자신의 죄에 민감할 수 있도록, 그리고 죄에서 벗어나 그리스도의 종, 그리스도의 노예로 살아갈 수 있도록 기도를 드립시다.

(3) 의의 도를 안 후에

2장 22절에 당시 잘 알려져 있었다고 생각되는 속담을 이용하여 거짓 선생들의 모습이 그려져 있습니다. 22절을 보시기 바랍니다.

22 참된 속담에 이르기를 개가 그 토하였던 것에 돌아가고 돼지가 씻었다가 더러운 구덩이에 도로 누웠다 하는 말이 그들에게 응하였도다

개와 돼지는 유대인들이 몹시 싫어하던 동물이었습니다. 돼지는 儀式上 더러운 동물이었고 또 개는 이방인에 대해서 그 모멸감을 드러내기 위해서 개라고 불렀습니다. 22절의 두 속담은 개와 돼지의 본능적인 행동을 다루고 있으며 그 공통점은 원래의 더러움으로 돌아온다는 것입니다. 이와 마찬가지로 거짓 선생들도 그들의 원래의 더러움으로 돌아온다는 것입니다. 거짓 선생들은 설령 주님을 고백하더라도 성령의 다스림 가운데 그 사람이 내면에서부터 변하지는 않은 것입니다. 성령이 내주하시지 않기 때문에 신앙생활의 영위를 통해 성령이 열매가 맺어지지 않는 것입니다. 그들은 「주여, 주여」라고 부르며 자신을 영적으로 포장해서 어필할지는 모르지만, 그들은 의의 도를 단순하게 지식적으로 아는 것에 지나지 않는 것입니다. 그들은 성령에 의해 옛 자아가 죽고 거듭나지 않았기 때문에 잠시 후 다시 과거의 더러운 삶으로 돌아 간다는 것을 이 두 속담은 생생하게 표현하고 있는 것입니다. 마지막으로 마태복음 7장 22,23절에 쓰여있는 예수님의 경고를 살펴보겠습니다.

22 그 날에 많은 사람이 나더러 이르되 주여 주여 우리가 주의 이름으로 선지자 노릇 하며 주의 이름으로 귀신을 쫓아 내며 주의 이름으로 많은 권능을 행하지 아니하였나이까 하리니

23 그 때에 내가 그들에게 밝히 말하되 내가 너희를 도무지 알지 못하니 불법을 행하는 자들아 내게서 떠나가라 하리라

이 말씀에 따르면 거짓 선생들이 많이 나온다는 것을 알 수 있습니다. 그들은 하나님의 이름으로 예언하고, 하나님의 이름으로 악령을 쫓아내고, 하나님의 이름으로 여러가지 기적을 행하기 때문에 아마도 겉모습으로 거짓 선생을 판단하는 것은 매우 어렵다고 생각합니다. 그러나 그것들 하나하나의 역사가 성령에 의한 역사가 아니라 하나님의 법에 적합하지 않은 불법의 역사이기에 의미가 없습니다. 우리들은 거룩한 명령을 소중히 여기면서 우리의 신앙생활을 부디 성령께서 인도해 주시고 우리를 통해 성령의 열매가 풍성하게 맺어져 가도록 기도합시다.

결론

우리는 예수님과 만나 예수님을 인격적으로 알게 되었고 예수님을 주이자 구원자로 앙망하고 있습니다. 이제 우리는 예전과 같는 죄와 욕망의 노예가 아니라 예수님께 사들여 져서 우리의 주인이 예수님으로 바뀌었습니다. 예수님의 노예로서 받은 거룩한 명령을 소중히 여기고 날마다 하나님 앞에서 회개의 고백과 간절한 기도를 드리며 죄를 용서받고 그리스도 앞에 무릎을 꿇고 삶을 드립시다. 그리고 믿음으로 인해서 서로 사랑하고 서로 용서하는 사랑의 공동체를 만들어가는 자들이 되도록 합시다.

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