2023年05月28日「聖霊が降臨する約束 성령 강림의 약속」

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聖霊が降臨する約束 성령 강림의 약속

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
使徒言行録 1章1節~11節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:1-2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。
1:3イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
1:4そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。
1:5ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
1:6さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。
1:7イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
1:8あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
1:9こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
1:10イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、
1:11言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
1:11日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 1章1節~11節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 本日はペンテコステ記念礼拝です。4/9に、私たちせんげん台教会はイースター記念礼拝を捧げましたが、それから、ちょうど七週目にあたります。本日お読みした使徒言行録1章も、場所はエルサレムで、過ぎ越しの祭りを終えて、間もなく、五旬節の祭りの準備に入ろうとしている、そんな時期でありました。五旬節の祭りとは、「七週祭」とも呼ばれ、ギリシア語では「ペンテコステ」と言い、小麦の収穫をお祝いするお祭りでありました。この祭りは、過ぎ越しの祭りを捧げて、最初の安息日を迎えてから、50日を数える祭りであるため(レビ23:15-16)、必ず週の初めの日、すなわち日曜日になるように設定されていました。この五旬節の祭りは、過ぎ越しの祭りとは異なり、美味しい食事を食べることが許されたので、その日は大変喜ばしく、陽気な祭りになったと言われています。申命記16:10~11には、この祭りについて次のように制定されています。

“そして、あなたの神、主のために七週祭を行い、あなたの神、主より受けた祝福に応じて、十分に、あなたがささげうるだけの収穫の献げ物をしなさい。こうしてあなたは、あなたの神、主の御前で、すなわちあなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所で、息子、娘、男女の奴隷、町にいるレビ人、また、あなたのもとにいる寄留者、孤児、寡婦などと共に喜び祝いなさい。”

奴隷や寄留者、孤児ややもめと共に喜びなさいとありますが、この奴隷や寄留者、孤児ややもめとは、まさにイスラエルがエジプトから解放される前の状態を象徴しているようです。あなた方も、以前はエジプトの地で奴隷であったのだから、そのような者たちと共に喜び祝いなさいと、神様は五旬節の祭りを制定されたのです。この五旬節の日曜日に、聖霊が降臨するという神の約束が成就するのですが、それでは、聖霊降臨と、奴隷や寄留者、孤児ややもめと共に喜ぶということが、どのような関係にあるのか、そのことを中心に、本日の御言葉から恵みに与りたいと願っています。

【1】. 四十日にわたり

 1章3節をご覧ください。

“イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。”

イエス様は、復活した後、40日にわたって弟子たちに現れました。この40日間に、何をなされたのかと言うと、第一に、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって示されたということです。もし、イエス様の十字架と復活の事件の前であれば、弟子たちにとって、主イエスの復活の意味を正しく理解することが難しかったのでしょう。十字架と復活の事件を通して、初めて、ご自身の十字架と復活の意味について、正確に語ることができたのだと思います。そのような意味で、この40日の期間というのは、弟子たちにとって非常に重要な時間だったと思われます。第二に、「神の国」について話されました。「神の国」、これは、福音書の中でも語り続けられてきた、重要なテーマであります。これも十字架と復活と切り離せない内容でありますが、「神の国について話された」とは、過ぎ越しの日に、罪のないお方、神の子イエス様が、犠牲に捧げられ、十字架に架けられることにより、イエス様を信じる全ての者に罪の赦しが与えられるということ、また、イエス様ご自身が死んだ者たちの「復活の初穂」となられたということを教えられたのではないかと思います。イエス様の復活の身体を見て、触って、やがては、自分たちも復活の身体が与えられるということを、弟子たちは確信することができたのではないでしょうか。第三に、イエス様は聖霊の降臨の約束を想起させました。4~5節をご覧ください。

“そして、食事を共にしているとき、彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れず、私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼(バプテスマ)を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって洗礼(バプテスマ)を受けるからである。」”

イエス様はエルサレムを離れず、聖霊を待ちなさいと言われました。聖霊とは、イエス・キリストを証しする神の御霊です。時々この聖霊について、「聖霊様は謙虚なお方で、自己主張を一切なされず、ただイエス・キリストのみを証しする」というふうに説明されたりいたします。また、聖霊は、イエス・キリストが天に昇られてから派遣される「もう一人の弁護者」とも呼ばれています。弟子たちはこのことを聞いて1:6節で、「イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時なのでしょうか」と、イエス様に尋ねています。この弟子たちの質問は、イエス様の再臨が未だに来ていないことを知っている私たちの目から見ると、あまりにも性急で、愚かな質問のように見えます。弟子たちの心の中に、「いよいよメシアによる神政国家が実現し、自分たちがその右大臣、左大臣になるのだ」というような野望があるのではないかと、思わず勘ぐってしまいます。しかし、旧約聖書には、聖霊降臨が、世の終りのしるしとして描かれているため(ヨエル3:1~5、エゼ39:25~29)、弟子たちのこの質問は、ごく自然なものであったと考えられます。むしろ、私たちは、この弟子たちの質問に対し、イエス様は一切否認されなかったということに目を留めたいと思います。「その時や時期について、あなた方の知るところではない」と言いながらも、いつの日か、それが成就するだろうと、イエス様は暗黙的に認定されているのです。6~8節をご覧ください。

【2】. 神の国と聖霊の降臨

 “さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」”

この聖霊降臨の約束の御言葉を最後に、イエス様は天に上げられました。続いて9~11節をご覧ください。

“こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」”

この40日の間、イエス様は忽然とお姿を現わしたり、消したり、なさったので、イエス様が何も言わず、密かに、天に昇って行かれることも十分にあり得たのではと考えられます。ところが、秘密裏に昇天されたのではなく、弟子たちの目の前で昇天されました。すなわちイエス様の昇天には、あるメッセージが込められていたと考えられます。そのメッセージとは再臨についてです。天に上げられる時、イエス様は雲に覆われましたが、聖書の中で「雲」とは、神様の顕現と栄光を現しています。ですから、雲に覆われたということは、イエス様が特別な神の栄光の現れの中に、引き上げられたことを意味します。この状況は、恐らく、弟子たちの心に、大変インパクトを与えるメッセージとして記憶に残ったことでしょう。自分たちと共に生活されたお方は、復活され、今、まさに、人の身体で、天におられる神のもとへ引き上げられたということです。イエス様が、神の栄光に覆われて、引き上げられたということは、キリストがついに、神の国に王として即位し、神の右に着座され、その統治が始まったということを意味しています。ヘブライ書の2:7~8には、次のような御言葉がございます。ご覧ください。

“あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け、すべてのものを、その足の下に従わせられました。”

またフィリピ書の2:6~9には、次のような御言葉がございます。

“キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。”

このキリストによる統治は目には見えない、霊的なものでありますが、やがての日に、その統治は目に見える形で訪れることでしょう。

弟子たちは、イエス様がもう肉眼では見えなくなってしまっても、空をじっと眺め続けていました。すると、「白い服を着た二人の人がそばに立って」弟子たちに語り掛けます。この「白い服を着た」と言う表現は、天使に対して使われる表現方法であります(ルカ24:4、使徒10:30)。つまり、二人の天使が現れて、弟子たちに語り掛けたということです。「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」、すなわち、イエス様が再臨される時、天に昇って行かれたのと同じ有様で、雲に乗って天から来られるだろうと言っているのです。天使たちの言葉は、イエス様ご自身の教えとも一致します。イエス様は、ご自身の再臨について「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る(ルカ21:27)」だろうと、何度も弟子たちにお教えになりました。やがての日、イエス・キリストは力と栄光を帯びて、雲に乗ってやって来るでしょう。その時、神の国を完成させ、誰の目にもはっきりとわかるように、神の国が臨むことでしょう。神の国は、2000年前、キリストの初臨と共に既に霊的に建て上げられました。しかし、やがて、キリストが再臨される日に、目に見える形態を付与され、新しい天と新しい地として、力と栄光をもってこの地に臨むのです。私たちは、神の国の「既に」と「未だ」という教理について、これまで何度か学んでまいりましたが、五旬節に起こった聖霊の降臨とは、まさに神の国の「既に」と「未だ」を私たちに教えてくれるものであります。私たちは、聖霊を与えられ、信仰によって既に神の国の到来を味合うことが出来ます。信仰によってキリストの支配を喜び、キリストの平安が豊かに臨んでいます。神の国は、イエス様の初臨と共に既に到来しているのです。しかし未だ、神の国は目には見えません。私たちの真の国籍がある、天を眺めながら、この地上において、私たちは寄留者のように、旅人のように過ごしているのであります。未だ、神の国は力を持って到来していません。イエス様が着座しておられる天を仰ぎつつ、やがて受けることになる天の嗣業を、私たちは信仰の目によって眺めながら、歩んでいるのです。

従いまして、イエス様の言われた「聖霊のバプテスマ」というのは、地の果てにまで、イエス様の証人となるための、「上からの力」、「上からの賜物」であるということが分かります。聖霊が降臨する前に、その場で、即、キリストが再臨し、救いが完成されても、全然おかしくありませんが、その場合、神の民は御国に入れられ、神の民に属さないそれ以外の者たちは審判による滅びが待ち受けているのです。そうなると、異邦人や、神の民に属さない者たちの救われる機会が、極端に少なかったということになってしまいますね。神様は、全ての人々に救いの御手を差し伸べたいという思いを持っておられるのだと思います。だからこそ、恵みが自分たちだけに留まるのではなく、聖霊を降臨させ、ご自身の弟子たちを通して、サマリアの人々にも、異邦人の人々にも、そして、まだ福音を聞いたことのない、地の果てに住む人々にも、恵みが行き届くようにされたのだと思います。五旬節の日に聖霊を降臨させ、罪の奴隷であった異邦人が、福音を受け入れ、共に神様を喜ぶようにされるのです。

【結論】

 イエス様が昇天された後、弟子たちはエルサレムに集まって共に祈りました。そして、間もなく五旬節の日に、聖霊の降臨を体験することになりました。その日を境にして、旧約のイスラエルから、新約の教会が誕生したのであります。これまで主イエスが、ご自身の人格とご自身の働きの中で神の真理を明らかにされましたが、その日を境にして、聖霊に満たされた教会による御言葉の解き明かしと、聖霊によって生み出された聖書によって、神の真理が宣言されるようになったのです。その日を境にして、福音の光がエルサレムだけに留まらず、これまで全く相手にされなかった奴隷や寄留者、孤児ややもめのような異邦人にも、福音の光が照らさるようになりました。その日を境にして、キリスト教は、もはやユダヤ教の一派ではなく、ユダヤ人だけの宗教でもない、ローマ帝国を席巻するような世界宗教になって行きました。五旬節の聖霊降臨は、神の恵みが、異邦人にも分かち合われ、大変喜ばしい出来事となったのです。今、神の国の完成に向けて、聖霊による宣教の御業が前進しています。間もなくキリストの再臨が迫っている中で、私たちは五旬節における聖霊の降臨を心から喜び、福音をまだ聞かされていない人々に、大胆に福音を宣べ伝えていく者とならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

성령 강림의 약속

2023년 5월 28일 센겐다이교회 주일설교

사도행전 1장 1~11

서론

오늘은 성령 강림 기념예배입니다. 4월 9일 저희 센겐다이교회에서는 부활절 기념예배를 드렸습니다. 그로부터 정확히 7주째에 해당합니다. 오늘 읽은 사도행전 1장의 장소는 예루살렘으로 유월절 축제를 마치고 곧 오순절 축제 준비에 들어가려고 하는 그런 시기였습니다. 오순절 축제는 「칠칠절」이라고 불리며 그리스어로는 「펜테코스테」라고 하여 밀 수확을 축하하는 축제였습니다. 이 축제는 유월절 축제를 드리고 첫 안식일을 맞이한 후 50일을 헤아리는 축제이기 때문에 (레위기 23장 15,16절) 반드시 주초, 즉 일요일이 되도록 설정되어 있었습니다. 이 오순절 축제는 유월절 축제와는 달리 맛있는 식사를 할 수 있기 때문에 그날은 매우 기쁘고 쾌활한 축제가 되었다고 합니다. 신명기 16장 10 ~11에는 이 축제에 대해 다음과 같이 제정되어 있습니다.

10 네 하나님 여호와 앞에 칠칠절을 지키되 네 하나님 여호와께서 네게 복을 주신 대로 네 힘을 헤아려 자원하는 예물을 드리고

11 너와 네 자녀와 노비와 네 성중에 있는 레위인과 및 너희 중에 있는 객과 고아와 과부가 함께 네 하나님 여호와께서 자기의 이름을 두시려고 택하신 곳에서 네 하나님 여호와 앞에서 즐거워할지니라

노비나 객과 고아나 과부와 함께 즐거워하라고 하는데 이 노비나 객, 고아, 과부란 바로 이스라엘이 애굽에서 해방되기 전의 상태를 상징하는 것 같습니다. 너희도 예전에는 애굽 땅에서 노예였으니 그런 자들과 함께 즐거워하고 축하하라고 하나님은 오순절 축제를 제정하신 것입니다. 이 오순절 일요일에 성령께서 강림하신다는 하나님의 약속이 성취되는데, 그러면 성령 강림과 노비와 객과 고아와 과부와 함께 즐거워하는 것이 어떤 관계가 있는지를 중심으로 오늘의 본문 말씀을 살펴보고 은혜를 받고자 합니다.

(1) 사십 일에 걸쳐

1장 3절을 보십시오.

3 그가 고난 받으신 후에 또한 그들에게 확실한 많은 증거로 친히 살아 계심을 나타내서 사십 일 동안 그들에게 보이시며 하나님 나라의 일을 말씀하시니라

예수님은 부활하신 후 사십 일에 걸쳐 제자들에게 나타나셨습니다. 이 사십 일동안 무엇을 하셨냐하면 첫째 자신이 살아있다는 수많은 증거를 제시하셨다는 것입니다. 만약 예수님의 십자가와 부활의 사건 전이라면 제자들은 주 예수님의 부활의 의미를 제대로 이해하기 어려웠을 것입니다. 십자가와 부활의 사건을 통해 비로소 자신의 십자가와 부활의 의미에 대해 자세하게 말씀하실 수 있었던 것 같습니다. 그런 의미에서 이 사십 일의 기간은 제자들에게 매우 중요한 기간이었다고 생각됩니다. 둘째「하나님 나라」에 대해서 말씀하셨습니다. 「하나님 나라」이것은 복음서 속에서도 계속 이야기되어 온 중요한 주제입니다. 이것도 십자가와 부활과 뗄 수 없는 내용이지만 「하나님 나라에 대해서 말씀하셨다」라는 것은 유월절에 죄가 없으신 분, 하나님의 아들 예수 그리스도가 희생의 제물로 바쳐져 십자가에 달리심으로 예수님을 믿는 모든 사람들이 죄사함을 받았다는 것 또 예수님 자신이 죽은 사람들의 「부활의 첫 이삭」이 되신것을 가르치시지 않았나 생각합니다. 예수님의 부활의 몸을 보고 만지고 마침내는 자신들도 부활의 몸이 주어진다는 것을 제자들은 확신 할 수 있지 않았을까요. 셋째 예수님은 성령 강림 약속을 상기시키셨습니다. 4,5절을 보시죠.

4 사도와 함께 모이사 그들에게 분부하여 이르시되 예루살렘을 떠나지 말고 내게서 들은 바 아버지께서 약속하신 것을 기다리라

5 요한은 물로 세례를 베풀었으나 너희는 몇 날이 못되어 성령으로 세례를 받으리라 하셨느니라

예수님은 예루살렘을 떠나지 말고 성령을 기다리라고 하셨습니다. 셩령이란 예수 그리스도를 증거하는 하나님의 영입니다. 가끔 이 성령에 대해 「성령님은 겸손하신 분으로 자기주장을 일절 하시지 않고 그저 예수 그리스도를 증거하신다」는 식으로 설명되곤 합니다. 또한 성령은 예수 그리스도가 하늘로 올라가신 후 파견되는 「또 다른 보혜사」라고도 합니다. 제자들은 이 말을 듣고 1장 6절에서 「이스라엘 나라을 회복하심이 이 때니이까」라고 예수님께 묻고 있습니다. 이 제자들의 질문은 예수님의 재림이 아직 오지 않았음을 아는 우리 눈으로 볼 때 너무 성급하고 어리석은 질문처럼 보입니다. 제자들의 마음속에 「드디어 메시아에 의한 신정국가가 실현되어, 우리들이 그 우대신(우의정) 좌대신(좌의정)이 될 것이다」라는 야망이 있는 것은 아닌지 무의식중에 생각해버리게 됩니다. 그러나 구약 성경에는 성령 강림이 세상의 종말의 표시로 묘사되어 있기 때문에 (요엘 3장 15절, 에스겔 39장 25~29절) 제자들의 이 질문은 지극히 자연스러웠을 것으로 생각됩니다. 오히려 우리는 이 제자들의 질문에 예수님은 일절 부인하지 않으셨다는 것을 눈여겨 봐야 하겠습니다. 「때와 시기는 아버지께서 자기의 권한에 두셨으니 너희가 알 바 아니오」라고 말씀하시면서도 언젠가 그것이 성취될 것이라고 예수님은 암묵적으로 인정하고 계시는 것을 알 수 있습니다. 6~8절을 보시기 바랍니다.

6 그들이 모였을 때에 예수께 여쭈어 이르되 주께서 이스라엘 나라를 회복하심이 이 때니이까 하니

7 이르시되 때와 시기는 아버지께서 자기의 권한에 두셨으니 너희가 알 바 아니요

8 오직 성령이 너희에게 임하시면 너희가 권능을 받고 예루살렘과 온 유대와 사마리아와 땅 끝까지 이르러 내 증인이 되리라 하시니라

이 성령 강림의 약속의 말씀을 끝으로 예수님은 하늘로 올라가셨습니다. 이어서 9~11절을 보시기 바랍니다.

9 이 말씀을 마치시고 그들이 보는데 올려져 가시니 구름이 그를 가리어 보이지 않게 하더라

10 올라가실 때에 제자들이 자세히 하늘을 쳐다보고 있는데 흰 옷 입은 두 사람이 그들 곁에 서서

11 이르되 갈릴리 사람들아 어찌하여 서서 하늘을 쳐다보느냐 너희 가운데서 하늘로 올려지신 이 예수는 하늘로 가심을 본 그대로 오시리라 하였느니라

이 사십 일간, 예수님은 홀연히 모습을 드러내기도 하고 사라지시기도 하셨기 때문에 예수님이 아무도 모르게 하늘로 올라가시는 일도 충분히 가능하지 않았을까 생각됩니다. 그런데 비밀리에 승천하신 것이 아니라 제자들의 눈앞에서 승천하셨습니다. 즉 예수님의 승천에는 어떤 멧세지가 담겨 있다고 생각됩니다. 그 멧세지는 재림에 관한 것입니다. 하늘에 올려질 때 예수님은 구름으로 뒤덮였습니다. 성경에서 「구름」이란 하나님의 현현과 영광을 나타내고 있습니다. 그러므로 구름으로 뒤덮였었다는 것은 예수님이 특별한 하나님의 영광의 현현가운데 끌어올려졌음을 의미합니다. 이 상황은 아마도 제자들의 마음에 큰 임팩트를 주는 멧세지로 기억에 남았을 것입니다. 자신들과 함께 생활하신 분이 부활하시고 지금 바로 사람의 몸으로 하늘의 계신 하나님의 품으로 끌어올려졌다는 것입니다. 예수님이 하나님의 영광으로 뒤덮힌 가운데 하늘로 올려졌다는 것은 그리스도가 마침내 하나님 나라에 왕으로 즉위하여 하나님의 오른쪽에 착석하시고 그 통치가 시작되었다는 것을 의미합니다. 히브리서 2장 7,8절에는 다음과 같은 말씀이 있습니다. 같이 읽어보시죠.

7 그를 잠시 동안 천사보다 못하게 하시며 영광과 존귀로 관을 씌우시며

8 만물을 그 발 아래에 복종하게 하셨느니라 하였으니 만물로 그에게 복종하게 하셨은즉 복종하지 않는 것이 하나도 없어야 하겠으나 지금 우리가 만물이 아직 그에게 복종하고 있는 것을 보지 못하고

또 빌립보서의 2장 6~9절에는 다음과 같은 말씀이 있습니다.

6 그는 근본 하나님의 본체시나 하나님과 동등됨을 취할 것으로 여기지 아니하시고

7 오히려 자기를 비워 종의 형체를 가지사 사람들과 같이 되셨고

8사람의 모양으로 나타나사 자기를 낮추시고 죽기까지 복종하셨으니 곧 십자가에 죽으심이라

9 이러므로 하나님이 그를 지극히 높여 모든 이름 위에 뛰어난 이름을 주사

이 그리스도에 의한 통치는 눈에 보이지 않는 영적인 것이지만, 머지않아 그 통치는 모든 사람들이 확실히 인식하게 되는 가시적인 형태로 찾아올 것입니다.

제자들은 예수님이 이제 육안으로는 보이지 않는데도 계속 하늘을 바라보고 있었습니다. 그러자「흰 옷 입은 두 사람이 그들 곁에 서서」제자들에게 말을 건넵니다. 이 「흰 옷 입은」이라는 표현은 천사에게 쓰이는 표현방식입니다 (누가복음 24장 4절, 사도행전 10장 30절) . 즉 두 천사가 나타나 제자들에게 말을 걸었다는 것입니다. 「너희 가운데서 하늘로 올려지신 이 예수는 하늘로 가심을 본 그대로 오시리라 하였으니라」즉 예수님이 재림하실 때 하늘로 올라가신 것과 같은 모양으로 구름을 타고 하늘에서 오실 것이라고 말하는 것입니다. 천사들의 말은 예수님 자신의 가르침과도 일치합니다. 예수님은 자신의 재림에 대해 「그 때에 사람들이 인자가 구름을 타고 능력과 큰 영광으로 오는 것을 보리라」고 여러 번 제자들에게 가르치셨습니다. 머지않아 예수 그리스도는 힘과 영광을 띠고 구름을 타고 오실 것입니다. 그때 하나님 나라를 완성하고 누구의 눈에도 분명히 알 수 있게 하나님 나라가 임할 것입니다. 하나님의 나라는 2000년 전 그리스도의 초림과 함께 이미 영적으로 세워졌습니다. 그러나 곧 그리스도께서 재림하시는 날에 가시적인 형태를 부여받아 새로운 하늘과 새 땅으로서 힘과 영광을 가지고 이 땅에 임하게 됩니다. 우리들은 하나님 나라의 「이미」와「아직」이라는 교리에 대해 지금까지 여러 번 배워왔지만, 오순절에 일어난 성령 강림이란 바로 하나님 나라의 「이미」와「아직」을 우리에게 가르쳐 주는 것입니다. 우리는 성령을 받을 수 있고 믿음으로 그리스도의 통치를 기뻐하며 그리스도의 평안이 풍성하게 임하는 가운데 거할 수 있습니다. 하나님 나라는 예수님의 초림과 함게 이미 도래한 것입니다. 그러나 아직도 하나님 나라는 눈에 보이지 않습니다. 우리의 진정한 국적이 있는 하늘을 바라보며 이 땅 위에서 우리는 객처럼 나그네처럼 지내고 있습니다. 아직 하나님 나라는 능력을 가지고 도래하지 않은 상태입니다. 예수님이 앉아 계신 하늘을 우러러 보면서 곧 받게 될 하늘의 유업을 우리는 믿음의 눈으로 바라보며 걷고 있는 것입니다.

따라서 예수님께서 말씀하신 「성령 세례」라고 하는 것은 땅끝까지 예수님의 증인이 되기 위한 「위로부터의 능력」「위로부터의 은사」라는 것을 알 수 잇습니다. 성령이 강림하기 전에 그 자리에서 곧 그리스도가 재림하여 구원이 완성되어도 전혀 이상하지 않지만, 그럴 경우 하나님의 백성은 하나님 나라에 들어가고 하나님의 백성에 속하지 않는 다른 자들에게는 심판에 의한 멸망이 기다리고 있는 것입니다. 그렇게 되면 이방인이나 하나님의 백성에 속하지 않는 자들이 구원을 받을 기회가 극단적으로 적다는 것이 되고 맙니다. 하나님은 모든 사람들에게 구원의 손길을 내밀고 싶은 마음을 가지고 계신다고 생각합니다. 그렇기 때문에 은혜가 자신들에게만 머무르는 것이 아니라 성경을 강림시키시고 자신의 제자들을 통해 사마리아 사람들에게도, 이방인들에게도, 그리고 아직 복음을 듣지 못한 땅 끝에 사는 사람들에게도 은혜가 골고루 전달될 수 있게 되었다고 생각합니다. 오순절 날 성령 강림으로 인해서 예수님의 제자들을 통해서 사마리아 사람들에게도 이방인들에게도 그리고 아직 복음을 듣지 못한 땅 끝에 사는 사람들에게도 은혜가 골고루 전달될 수 있게 되었다고 생각합니다. 오순절 날 성령이 강림하시고 죄의 노예였던 이방인이 복음을 받아들이고 함께 하나님으로 인해 즐거워하는 것입니다.

결론

예수님이 승천하신 후 제자들은 예루살렘에 모여 함께 기도했습니다. 그리고 곧 오순절 날 성령 강림을 체험하게 되었습니다. 그날을 기점으로 구약의 이스라엘에서 신약의 교회가 탄생한 것입니다. 그동안 주 예수님께서 자신의 인격과 자신의 사역 가운데서 하나님의 진리를 밝히셨으나 그날을 경계로 성령으로 충만한 교회에 의한 말씀에 대한 해석과 성령으로 말미암아 태어난 성경에 의해 하나님의 진리가 선포되게 된 것입니다. 그날을 기점으로 복음의 빛이 예루살렘에만 머물지 않고 그동안 전혀 상대하지 않았던 노비나, 객, 고아나 과부 같은 이방인에게도 복음의 빛이 비춰지게 되었습니다. 그날을 기점으로 기독교는 더 이상 유대교의 일파가 아니며 유대인만의 종교도 아닌 로마 제국을 석권하는 세계 종교가 되어 갔습니다. 오순절 성령 강림은 하나님의 은총이 이방인에게도 전해지면서 매우 기쁜 일이 된 것입니다. 지금 하나님 나라의 완성을 위해 성령에 의한 선교의 사역이 전진하고 있습니다. 곧 그리스도의 재림이 임박한 가운데 우리는 오순절 성령의 강림을 진심으로 기뻐하며 복음을 아직 듣지 못한 사람들에게 담대하게 복음을 전파하고 전하는 자가 되도록 합시다.

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