2023年05月21日「義の道を捨てたバラム 바른 길을 떠난 발람의 길」

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義の道を捨てたバラム 바른 길을 떠난 발람의 길

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ペトロの手紙二 2章9節~16節

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聖句のアイコン聖書の言葉

2:9主は、信仰のあつい人を試練から救い出す一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます。
2:10特に、汚れた情欲の赴くままに肉に従って歩み、権威を侮る者たちを、そのように扱われるのです。彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。
2:11天使たちは、力も権能もはるかにまさっているにもかかわらず、主の御前で彼らをそしったり訴え出たりはしません。
2:12この者たちは、捕らえられ、殺されるために生まれてきた理性のない動物と同じで、知りもしないことをそしるのです。そういった動物が滅びるように、彼らも滅んでしまいます。
2:13不義を行う者は、不義にふさわしい報いを受けます。彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています。彼らは汚れやきずのようなもので、あなたがたと宴席に連なるとき、はめを外して騒ぎます。
2:14その目は絶えず姦通の相手を求め、飽くことなく罪を重ねています。彼らは心の定まらない人々を誘惑し、その心は強欲におぼれ、呪いの子になっています。
2:15彼らは、正しい道から離れてさまよい歩き、ボソルの子バラムが歩んだ道をたどったのです。バラムは不義のもうけを好み、
2:16それで、その過ちに対するとがめを受けました。ものを言えないろばが人間の声で話して、この預言者の常軌を逸した行いをやめさせたのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙二 2章9節~16節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 イエス様は弟子たちに「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。(ルカ6:39)」と言われました。よく訓練された盲導犬は、目が不自由な主人の善きガイドであり、友人でもあります。盲導犬は、主人が障害物を避けるのを助け、最後の目的地まで安全に道案内してくれるでしょう。しかし、もし目が不自由な人が、盲人を道案内したらどうなるでしょうか。恐らく道に迷ったり、障害物に当たったり、交通事故を引き起こしてしまうかもしれません。イエス様は偽りの教師を盲人に譬え、私たちが偽りの教師によって導かれることが、どれほど恐ろしいことであるかを教えているのです。聖書はかつて、イスラエルの共同体の中に偽預言者が現れたように、今日においても、必ず偽教師が現れるだろうと警告します。自分の死が間近に迫っていたペトロも、教会の兄弟姉妹に残す言葉として、他でもなく、偽教師たちに関する警告を語ったということを私たちは重く受け止めたいと思います。

【1】. 高慢な偽教師たち

 2:10節をご覧ください。

“特に、汚れた情欲の赴くままに肉に従って歩み、権威を侮る者たちを、そのように扱われるのです。彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。”

ペトロは偽教師たちについて語っています。偽教師たちの姿が10節の「権威を侮る者たち」に、重ねられています。この「権威を侮る者たち」とは、先週見ましたように、ロトの時代で言うなら、ロトの家を取り囲んだ、あの同性愛者たちのことです。彼らは、ロトと、ロトと共にいた御使いたちの権威を侮る者たちであり、大胆で、高ぶった者たちでした。少し、旧約聖書の内容を思い浮かべて見たいと思います。御使いたちがソドムとゴモラの町を視察に来た時の状況が、創世記19:1~2に書かれています。ご覧ください。

“二人の御使いが夕方ソドムに着いたとき、ロトはソドムの門の所に座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって迎え、地にひれ伏して、言った。「皆様方、どうぞ僕の家に立ち寄り、足を洗ってお泊まりください。そして、明日の朝早く起きて出立なさってください。」彼らは言った。「いや、結構です。わたしたちはこの広場で夜を過ごします。」”

創世記のこの個所で、ロトは、ソドムに住んでいて、御使いたちが現れた時、裁判が開かれる町の「門の所に座っていた」と書かれています。つまり、ロトはそこでそれなりの重要な人物であったということが見て取れます。この後ロトの家を囲んだ男たちは、自分の身の程をわきまえず、ロトと、そして栄光ある御使いたちをそしってはばからなかったのです。続いてペトロの手紙に戻りまして2:11~12節をご覧ください。

“天使たちは、力も権能もはるかにまさっているにもかかわらず、主の御前で彼らをそしったり訴え出たりはしません。この者たちは、捕らえられ、殺されるために生まれてきた理性のない動物と同じで、知りもしないことをそしるのです。そういった動物が滅びるように、彼らも滅んでしまいます。”

ペトロは、偽教師たちを動物に譬えながら、滅びの宣告をしています。大変厳しい言葉が続きます。私たちも、偽教師たちの傲慢と高ぶりを反面教師にして学ばせていただきましょう。舌というのは、罪を犯す器官であります。私たちは日々、この舌によって、多くの言葉の罪を犯すことを知らなければなりません。かく言う私も、「自分は何と傲慢な者なのか」と反省させられることが、実にしばしば、ございます。自分自身の言動を思い出しては、よく後悔します。アウグスティヌスは、罪の本質とは、神のように高くなろうとする高ぶりであると言いました。人間の罪と、人間の高ぶりは切っても切れない関係であると言います。ですから私たちは、日々、「私の高慢を取り除いて下さい。私を謙遜な者、主を畏れる者、そして御使いたちのように、自分の舌を制御する者に変えて下さい」と祈るべきです。万一、ある人を非難したいという思いが生じても、相手を口汚くそしることは、なるべく慎みましょう。場合によっては、私たちは知りもしないことをそしっているということにもなりかねません。へりくだり、なるべく罪を犯さないようにし、一切の裁きを神様に委ねるべきであります。

【2】. 義の道を捨てたバラム

 続いて13~14節をご覧ください。ここには、偽教師たちによって結ばれる実が顕わにされている決定的な箇所であります。

“不義を行う者は、不義にふさわしい報いを受けます。彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています。彼らは汚れやきずのようなもので、あなたがたと宴席に連なるとき、はめを外して騒ぎます。その目は絶えず姦通の相手を求め、飽くことなく罪を重ねています。彼らは心の定まらない人々を誘惑し、その心は強欲におぼれ、呪いの子になっています。”

ここには何が書いてあると申しますと、簡単に言えば、愛餐において、性的な不品行が横行してしまったということです。初代教会においてパンを裂く聖餐式は、最初、宴席の食事の中で行われていました。つまり「愛餐」という形で、聖餐式が執り行われていたのです。ところが14節に「その目は絶えず姦通の相手を求め」とありますように、この主の食卓の中で、不品行が起こっていました。愛餐の席で売春行為が、レイプが、行われていたのです。これは見すごすことができない由々しき事態です。そのような経緯もあって、聖餐式が、初代教会の愛餐の中から抽出されて、現代のシンプルな儀式の形によって、後の時代に伝えられたと考えられています。この主の食卓における不品行ですが、実はイスラエルの歴史の中でも、これと全く同じような事件が、ベオルの子バラムをめぐり繰り広げられていました。15~16節をご覧ください。

“彼らは、正しい道から離れてさまよい歩き、ボソルの子バラムが歩んだ道をたどったのです。バラムは不義のもうけを好み、それで、その過ちに対するとがめを受けました。ものを言えないろばが人間の声で話して、この預言者の常軌を逸した行いをやめさせたのです。”

最初に旧約聖書には、「ベオルの子バラム」とあるのに、なぜペトロの手紙では、「ボソルの子バラム」となっているのかということですが、これは、ペトロのガリラヤ訛りの故であろうと考えられています。ペトロはひどい訛りがあり、彼の発音を聞くと、誰でも、ガリラヤ出身であることが分かったほどでありました(マタ26:73)。ですから、ベオルの子もボソルの子も同じことを意味しています。「バラムが歩んだ道」とは、偽教師たちの歩む道を指しています。ユダヤ人の伝承や常識において、ベオルの子バラムは、「悪質な偽預言者」の典型でありました。その理由が何なのか、聖書にはっきりとは書かれていませんが、民数記の22~26章の記述の中で、それとなくほのめかされています。

民数記22章からの背景は、申命記と少し似ています。イスラエルの民がエジプトを出てから、荒れ野で40年過ごし、新しい世代になった頃、モーセに率いられて北上する場面であります。その際、イスラエルの民はヘシュボンの王シホンと、バシャンの王オグを撃ち破りました。当時ヘシュボンとバシャンと言えば、アモリ人の強大国であって、まさか、荒れ野を放浪しているイスラエルに、負かされるとは誰にも想像できませんでした。そのような奇跡的な大勝利がイスラエルにもたらされたのです。そのため、モアブの王は、恐れをなし、ミディアンの長老たちと連合し、ベオルの子バラムに、イスラエルの民を呪ってほしいと要請しようとしたのです。民数記22:7~13をご覧ください。(旧約p.251)

“モアブとミディアンの長老たちは占いの礼物を携えてバラムの所に行き、バラク(モアブの王)の言葉を伝えた。バラムは彼らに言った。「今夜はここに泊まりなさい。主がわたしに告げられるとおりに、あなたたちに伝えよう。」モアブの長たちは、バラムのもとにとどまった。神はバラムのもとに来て言われた。「あなたのもとにいるこれらの者は何者か。」バラムは神に答えた。「モアブの王、ツィポルの子バラクがわたしに人を遣わして、『今ここに、エジプトから出て来た民がいて、地の面を覆っている。今すぐに来て、わたしのために彼らに呪いをかけてもらいたい。そうすれば、わたしはこれと戦って、追い出すことができるだろう』と申しました。」神はバラムに言われた。「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。この民を呪ってはならない。彼らは祝福されているからだ。」バラムは朝起きると、バラクの長たちに言った。「自分の国に帰りなさい。主は、わたしがあなたたちと一緒に行くことをお許しになりません。」”

このようにバラムは、一度はモアブとミディアンの人々に断って、国に帰ってもらいました。ところが、再び、今度は前よりも偉い人たちが来て、「あなたを大いに優遇しますから、イスラエルの民に呪いをかけてほしい」と要請されると、バラムは、既に主の御心を知っているはずなのに、きっぱり断らず「(22:19)今夜はここにとどまって、主がわたしに、この上何とお告げになるか、確かめさせてください」などと返答したのです。報酬が、喉から手が出るほど欲しかったのでしょう。お金を着服しながら、なおかつ、神に従順できる方法が見つかるのでは、とバラムは考えたのであります。とにかく、モアブとミディアンの要請を受け入れ、ロバに乗ってモアブの王の所に向かうことにしました。ところがその道中で、ロバがこれ以上、前に進まなくなります。何と、ロバの目の前に、主の御使いが剣を手にして立ち塞がっているではありませんか。しかし、バラムには見えません。バラムは三度もロバを打ち、前進するように命じました。するとロバが口を開きしゃべり出しました。「わたしがあなたに何をしたというのですか。三度もわたしを打つとは。」ロバが人間の声でしゃべるという奇妙なことが起こりました。ペトロは、偽教師たちを理性のない動物と同じだと言いましたが、まだ、ロバの方が、バラムより物事をよく分かっていたということが、ここに暗示されています。結果的に、バラムは、イスラエルを呪うことをやめさせられました。バラムは、主の、イスラエルの民に対する信実が、何をしても変わらないということを知ると、今度はイスラエルの民を誘惑し、モアブやミディアンの娘たちと不品行を行わせ、逆にイスラエルの民の方から、主を離れ、豊穣の神、不品行の神、バアル神を拝むように扇動していきました。即ち、先ほど見て来たように、主の食卓において、行われていたような罪(2:14)が、バラムを通して奨励されたのです。

イスラエルの民は誘惑され、瞬く間に、ミディアン人、モアブ人との姦淫の罪の中に陥って行きました。恐らく彼らにとって、罪の感覚はなかったことでしょう。大地である女性に男性が精子を降らせることは、あたかも大地に雨が降って、命がもたらされる自然の理に適っており、それは豊かさをもたらせる儀式として、喜んで受け入れられたのです。すると主の怒りがイスラエルに下り、扇動された多くの民が滅ぼされてしまいました。民数記25章1~9をお読みします。

“イスラエルがシティムに滞在していたとき、民はモアブの娘たちに従って背信の行為をし始めた。娘たちは自分たちの神々に犠牲をささげるときに民を招き、民はその食事に加わって娘たちの神々を拝んだ。イスラエルはこうして、ペオルのバアルを慕ったので、主はイスラエルに対して憤られた。主はモーセに言われた。「民の長たちをことごとく捕らえ、主の御前で彼らを処刑し、白日の下にさらしなさい。そうすれば、主の憤りはイスラエルから去るであろう。」モーセはイスラエルの裁判人たちに言った。「おのおの、自分の配下で、ペオルのバアルを慕った者を殺しなさい。」そのとき、モーセとイスラエルの人々の共同体全体が臨在の幕屋の入り口で嘆いているその目の前に、一人のイスラエル人がミディアン人の女を連れて同胞のもとに入って来た。祭司アロンの孫で、エルアザルの子であるピネハスはそれを見ると、共同体の中から立ち上がって、槍を手に取り、そのイスラエル人の後を追って奥の部屋まで行き、この二人、すなわちイスラエル人とその女を共に突き刺した。槍は女の腹に達した。それによって、イスラエルを襲った災害は治まったが、この災害で死んだ者は二万四千人であった。”

バラムは主の御心を知りつつも、主を畏れず、イスラエルの人々を誘惑し、不品行を行わせたのであります(参照 民31:16、黙2:14)。ペトロの時代の偽教師たちも、バラムのように欲が深く、うそ偽りで民を食い物にする状況が見られました。従って、次のようなことを言いながら、不品行を奨励したということが、容易に想像できるのです。「主ヤハウェと主の民の間には、きわめて強固な契約があるから、不品行や偶像崇拝程度で、その契約は揺さぶられることはないだろう」。偽教師たちの根本的な問題は、「主を畏れていなかった」、「主の御言葉を侮った」、このことに尽きるのだと思います。

【結論】

 私たちは神様を本当の意味で、畏れているでしょうか。私たちは、自分の都合の良い神様を勝手に作り出してはなりません。優しくて、気前が良く、愛なる神様を、勝手に神様に投影してはなりません。主の裁きである再臨は必ず到来いたします。その再臨の日まで暗闇を照らす灯として、私たちには御言葉が既に与えられています。十戒の第七戒に、姦淫してはならないと書いてあるなら、姦淫はしてはならないのであります。自分の配偶者以外に性の関係を持つのは罪であります。そうであるなら、婚前交渉というものが、どれほど相手を傷つけ、神様を傷つけることなのかを私たちは悟るのです。十戒の第一戒に、私をおいて他に神があってはならないと書いてあるなら、主以外に、何ものにもすがってはならないし、頼みとしてもなりません。おみくじを引いたり、占いをしてみたり、お守りを身につけることも罪であります。私たちは、罪から離れ、神様を心から畏れ、偽教師たちの教えに警戒し、御言葉に堅く立つ者として歩ませていただきましょう。

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바른 길을 떠난 발람의 길

2023년 5월 21일 센겐다이교회 주일설교

베드로후서 2장 9~16절

서론

예수님은 제자들에게 「맹인이 맹인을 인도할 수 있느냐 둘이 다 구덩이에 빠지지 아니하겠느냐(누가복음6장39절)」고 말씀하셨습니다. 잘 훈련된 안내견은 눈이 불편한 주인의 좋은 가이드이자 친구이기도 합니다. 안내견은 주인이 장애물을 피하는 것을 돕고 마지막 목적지까지 안전하게 길을 안내해 줄 것입니다. 그러나 만약 앞을 잘 보지 못하는 사람이 맹인의 길 안내를 하면 어떻게 될까요? 아마도 같이 길을 잃거나 장애물에 부딪히거나 교통사고를 일으킬지도 모릅니다. 예수님은 거짓 선생를 맹인에 비유하며 우리가 거짓 선생의 인도를 받은 것이 얼마나 무서운 일인지 가르치고 계십니다. 성경은 과거 이스라엘 공동체 안에 거짓 선지자가 나타났듯이 오늘날에도 반드시 거짓 선생이 나타날 것이라고 경고합니다. 자신의 죽음이 임박했던 베드로도 교회의 형제자매에게 남길 말로 다름아닌 거짓 선생들에 관한 경고를 했다는 것을 우리는 무겁게 받이들이고자 합니다.

(1) 교만한 거짓 선생들

2장 10절을 참조하십시오.

10 특별히 육체를 따라 더러운 정욕 가운데서 행하며 주관하는 자를 멸시하는 자들에게는 형벌할 줄 아시느니라 이들은 당돌하고 자긍하며 떨지 않고 영광 있는 자들을 비방하거니와

베드로는 거짓 선생들에 대해 이야기하고 있습니다. 거짓 선생들의 모습이 10절의 「주관하는 자를 멸시하는 자들」에 덧씌어져 있습니다. 이 「주관하는 자를 멸시하는 자들」이란 지난 주에도 보셨듯이 롯 시대로 말한다면 롯의 집을 에워싼 그 동성애자들을 말합니다. 그들은 롯과 롯과 함께 있던 천사들의 주관하는 권위를 멸시하는 자들이었고 대담하고 교만한 자들이었습니다. 잠깐 구약성경의 내용을 떠올려보도록 하겠습니다. 천사들이 소돔과 고모라의 마을을 시찰하러 왔을 때의 상황이 창세기 19장 1,2절에 쓰여 있습니다. 보시기 바랍니다.

1 저녁 때에 그 두 천사가 소돔에 이르니 마침 롯이 소돔 성문에 앉아 있다가 그들을 보고 일어나 영접하고 땅에 엎드려 절하며

2 이르되 내 주여 돌이켜 종의 집으로 들어와 발을 씻고 주무시고 일찍이 일어나 갈 길을 가소서 그들이 이르되 아니라 우리가 거리에서 밤을 새우리라

창세기의 이 부분에서 롯은 소돔에 살고 있고 천사들이 나타났을 때 재판이 열리는 마을의 「성문에 앉아 있다가」라고 적혀 있습니다. 즉, 롯은 거기서 나름대로 중요한 인물이었다는 것을 알 수 있습니다. 이후 롯의 집을 에워싼 남자들은 거기서 그쳐야 할 행동의 한계를 모르고 롯과 그리고 영광스러운 천사들을 욕보이기를 주저하지 않았습니다. 이어서 베드로의 서신서로 돌아가서 2장 11,12절을 보시기 바랍니다.

11 더 큰 힘과 능력을 가진 천사들도 주 앞에서 그들을 거슬러 비방하는 고발을 하지 아니 하느니라

12 그러나 이 사람들은 본래 잡혀 죽기 위하여 난 이성 없는 짐승 같아서 그 알지 못하는 것을 비방하고 그들의 멸망 가운데서 멸망을 당하여

베드로는 거짓 선생들을 이성 없는 짐승에 비유하면서 멸망을 선고하고 있습니다. 매우 엄격한 말이 계속 됩니다. 우리도 거짓 선생들의 오만과 교만함을 반면교사로 삼아 배워야 하겠습니다. 혀라는 것은 죄를 짓는 기관입니다. 우리는 날마다 이 혀로 인해 많은 말의 죄를 짓는다는 것을 알아야 합니다. 이렇게 말하는 저도 ‘나는 얼마나 교만한 사람인가’하고 반성하게 될 때가 참 많이 있습니다. 제 자신의 언동을 떠올리고는 후회를 많이 합니다. 아우구스티누스는 죄의 본질은 하나님처럼 높아지려는 교만함에 있다고 말했습니다. 인간의 죄와 인간의 교만은 끊을래야 끊을 수 없는 관계라고 일컬어집니다. 그래서 우리는 날마다 ‘저의 교만함을 없애주십시오. 저를 겸손한 자, 주님을 경외하는 자, 그리고 천사들처럼 자신의 혀를 제어할 수 있는 사람으로 바꾸어 주십시오’라고 기도해야 합니다. 만일 어떤 사람을 비난하고 싶다는 생각이 생기더라도 상대방을 험담하는 것은 삼갑시다. 경우에 따라서는 우리는 알지도 못하면서 비난하고 있는 것일 수도 있습니다. 겸손하게 되도록, 죄를 짓지 않도록 하고 일체의 심판을 하나님께 맡겨야 합니다.

(2) 바른 길을 떠난 발람의 길

이어서 13,14절을 보시기 바랍니다. 거짓 선생들에 의해 맺어지는 열매가 드러나는 결정적인 부분입니다.

13 불의의 값으로 불의를 당하며 낮에 즐기고 노는 것을 기쁘게 여기는 자들이니 점과 흠이라 너희와 함께 연회할 때에 그들의 속임수로 즐기고 놀며

14 음심이 가득한 눈을 가지고 범죄하기를 그치지 아니하고 굳세지 못한 영혼들을 유혹하며 탐욕에 연단된 마음을 가진 자들이니 저주의 자식이라

여기에는 무엇이 쓰여 있는가 말씀드리자면 간단히 말해서 애찬(愛餐)을 할 때 성적인 음란행위가 횡행하고 말았다는 것입니다. 초대교회에서 빵을 떼는 성찬식은 처음에는 연회석의 식사 가운데 행해졌었습니다. 그런데 14절에 「음심이 가득한 눈을 가지고 범죄하기를 그치지 아니하고」라고 나와 있듯이 이 주의 식탁 안에서 성적인 음란행위가 일어나고 있었습니다. 애찬 자리에서 매춘 행위가, 강간이 행해지고 있었던 것입니다. 이것은 간과할 수 없는 이유가 되는 사태입니다. 그런 연유로 성찬식이 초대 교회의 애찬 속에서 추출되어 현대의 심플안 의식 형태로 후대에 전해졌다고 생각됩니다. 이 주의 식탁에서의 성적인 음란행위이지만 사실 이스라엘 역사속에서도 이와 똑같은 사건이 브올의 아들 발람을 둘러 싸고 벌어지고 있었습니다. 15,16절을 보시기 바랍니다.

15 그들이 바른 길을 떠나 미혹되어 브올의 아들 발람의 길을 따르는도다 그는 불의의 삯을 사랑하다가

16 자기의 불법으로 말미암아 책망을 받되 말하지 못하는 나귀가 사람의 소리로 말하여 이 선지자의 미친 행동을 저지하였느니라

「발람의 길」이란 거짓 선생들이 걸어가는 길을 말합니다. 유대인의 전승과 상식에서 브올의 아들 발람은 「악질적인 거짓 선지자」의 전형이었습니다. 그 이유가 무엇인지 성경에 분명하게 적혀 있지는 않지만 민수기의 22~26장의 기술 가운데 은근히 암시되어 있습니다.

민수기 22장의 배경은 신명기와 조금 비슷합니다. 이스라엘 백성들이 출애굽을 하고 나서 광야에서 40년을 지내다가 새로운 세대로 교체 되었을 무렵 모세에 이끌려 북상하는 장면입니다. 그 때 이스라엘 백성들은 헤스본 왕 시혼과 바산 왕 옥을 격파했습니다. 당시 헤스본과 바산이라고 하면 아모리인의 강대국이었기에 설마 광야를 방랑하고 있는 이스라엘에게 패할 거라고는 아무도 상상하지 못했습니다. 그런 기적적인 대승리를 이스라엘이 이룬 것입니다. 그래서 모압의 왕은 두려움을 느끼고 미디안 장로들과 연합하여 브올의 아들 발람에게 이스라엘 백성을 저주해 달라고 요청하려고 했습니다. 민수기 22장 7~13절을 참조하십시오.

7 모압 장로들과 미디안 장로들이 손에 복채를 가지고 떠나 발람에게 이르러 발락의 말을 그에게 전하매

8 발람이 그들에게 이르되 이 밤에 여기서 유숙하라 여호와께서 내게 이르시는 대로 너희에게 대답하리라

9 하나님이 발람에게 임하여 말씀하시되 너와 함께 있는 이 사람들이 누구냐

10 발람이 하나님께 아뢰되 모압 왕 십볼의 아들 발락이 내게 보낸 자들이니이다 이르기를

11 보라 애굽에서 나온 민족이 지면에 덮였으니 이제 와서 나를 위하여 그들을 저주하라 내가 혹 그들을 쳐서 몰아낼 수 있으리라 하나이다

12 하나님이 발람에게 이르시되 너는 그들과 함께 가지도 말고 그 백성을 저주하지도 말라 그들은 복을 받은 자들이니라

13 발람이 아침에 일어나서 발락의 귀족들에게 이르되 너희는 너희의 땅으로 돌아가라 여호와께서 내가 너희와 함께 가기를 허락하지 아니하시느니라

이렇게 발람은 한 번은 모압과 미디안 장로들을 거절하고 고국으로 돌아가게 했습니다. 그런데 다시 이번에는 전보다 더 높은 지위의 사람들이 와서 발람을 크게 우대할테니 이스라엘 백성들에게 저주를 내려 달라고 요청하자, 발람은 이미 하나님의 마음을 알고 있으면서도 단호히 거절하지 않고 「그런즉 이제 너희도 이 밤에 여기서 유숙하라 여호와께서 내게 무슨 말씀을 더하실는지 알아보리라 (민수기 22장 19절) 」라고 대답했습니다. 복채를 목구멍에서 손이 나올 정도로 원했던 것입니다. 돈을 착복하면서, 게다가 하나님께 순종할 수 있는 방법을 찾을 수 있지 않을까 하고 발람은 생각했습니다. 어쨌든 모압과 미디안의 요청을 받아들여 당나귀를 타고 모압 왕에게로 향하기로 했습니다. 그런데 그 가는 길에서 당나귀가 더 이상 앞으로 나가지 않게 됩니다. 세상에, 당나귀 눈에 주의 천사가 검을 들고 가로막고 있는 것이 아니겠습니까? 하지만 발람에게는 보이지 않습니다. 발람은 세 번이나 당나귀를 채찍질하고 전진하라고 명령했습니다. 그러자 당나귀가 입을 열고 말하기 시작했습니다. 「내가 당신에게 무엇을 하였기에 나를 이 같이 세 번을 때리느냐 (민수기 22장 28절) 」당나귀가 사람처럼 말을 하는 기적이 일어났습니다. 베드로는 거짓 선생들이 이성이 없는 동물과 같다고 말했지만 당나귀가 발람보다 사물을 잘 알고 있었다는 것이 여기에 암시되어 있습니다. 결과적으로 발람은 이스라엘을 저주하는 것을 그만두게 되었습니다. 발람은 하나님의 이스라엘 백성에 대한 신실함이 무엇을 해도 변하지 않는다는 것을 알게 되자 이번에는 이스라엘 백성들을 유혹하여 모압이나 미디안 딸들과 성적인 음란행위를 하게 하고 역으로 이스라엘 백성쪽에서 하나님을 떠나서 풍요의 신, 음란의 신, 바알 신을 섬기도록 선동해 나갔습니다. 즉 앞서 살펴본 바와 같이 주님의 식탁 가운데서 행해지던 죄 (베드로후서 2장 14절)가 발람을 통해서 장려된 것입니다.

이스라엘 백성들은 유혹을 받자 순식간에 미디안인, 모압인과의 간음죄 속으로 빠져들었습니다. 아마도 그들에게 죄의식은 없었을 것입니다. 대지로 비유되는 여자에게 남자가 정자를 내리게 하는 것은 마치 대지에 비가 내려서 생명을 가져다 주는 자연의 이치에 부합하며, 그것은 풍요로움을 가져다주는 의식으로 기꺼이 받아들여진 것입니다. 그러자 하나님의 분노가 이스라엘에게 내려졌고 선동된 많은 백성들이 멸망하고 말았습니다. 민수기 25장 1~9을 읽어보시겠습니다.

1 이스라엘이 싯딤에 머물러 있더니 그 백성이 모압 여자들과 음행하기를 시작하니라

2 그 여자들이 자기 신들에게 제사할 때에 이스라엘 백성을 청하매 백성이 먹고 그들의 신들에게 절하므로

3 이스라엘이 바알브올에게 가담한지라 여호와께서 이스라엘에게 진노하시니라

4 여호와께서 모세에게 이르시되 백성의 수령들을 잡아 태향을 향하여 여호와 앞에 목매어 달라 그리하면 여호와의 진노가 이스라엘게게서 떠나리라

5 모세가 이스라엘 재판관들에게 이르되 너희는 각각 바알브올에게 가담한 사람들을 죽이라 하니라

6 이스라엘 자손의 온 회중이 회막 문에서 울 때에 이스라엘 자손 한 사람이 모세와 온 회중의 눈앞에 미다안의 한 여인을 데리고 그의 형제에게로 온지라

7 제사장 아론의 손자 엘르아살의 아들 비느하스가 보고 회중 가운데에서 일어나 손에 창을 들고

8 그 이스라엘 남자를 따라 그의 막사에 들어가 이스라엘 남자와 그 여인의 배를 꿰뚫어서 두 사람을 죽이니 염병이 이스라엘 자손에게서 그쳤더라

9 그 염병으로 죽은 자가 이만 사천 명이었더라

발람은 하나님의 마음을 알면서도 하나님을 경외하지 않고 이스라엘 사람들을 유혹하여 성적인 음란행위를 저지르게 하였습니다(참조 민수기 31장 16절과 요한계시록 2장 14절). 베드로 시대의 거짓 선생들도 발람처럼 욕심이 많고 거짓으로 백성들을 속여 먹잇감으로 삼는 상황을 볼 수 있었습니다. 따라서 다음과 같은 말을 하면서 음란행위를 장려했다는 것을 쉽게 상상할 수 있습니다. “주 야훼와 주의 백성 사이에는 극히 견고한 언약이 있으니까 음란행위나 우상숭배 정도로 언약은 깨지지 않을 것이다.” 거짓 선생들의 근본적인 문제는 「하나님을 경외하지 않았다」 「주의 말씀을 깔보았다」 이것으로 결론 지을 수 있는 것입니다.

결론

우리는 하나님을 진정한 의미로 경외하고 있을가요? 우리는 자신이 편한대로 하나님을 마음대로 만들어내서는 안됩니다. 하나님은 우리를 사랑하시기 때문에 자상하시고, 선심이 좋으시며 무조건적으로 사랑해주신다고 멋대로 하나님의 모습을 투영해서는 안됩니다. 주님의 심판은 반드시 도래합니다. 그 재림의 날까지 어둠음 밝히는 들불로서 우리에게는 말씀이 이미 주어졌습니다. 십계명의 제 7계명에 간음해서는 안 된다고 쓰여 있다면 간음을 해서는 안 되는 것입니다. 자신의 배우자 이외에 성관계를 갖는 것은 죄입니다. 그렇다면 혼전 성교라는 것이 얼마나 상대방에게 상처를 주고 하나님께 상처를 주는 일인지 우리는 깨들을 수 있습니다. 십계명의 제 1계명에 나를 두고 다른 신이 있어서는 안된다고 쓰여 있다면, 주님 이외에는 그 어떤 것에도 의지해서도 안 되고 부탁해도 안되는 것입니다. 운수를 점치는 점쾌를 뽑거나 점을 보거나 부적을 몸에 지니는 것도 죄입니다. 우리는 죄에서 벗어나 하나님을 진심으로 경외하며 거짓 선생들의 가르침을 경계하며 말씀 가운데 굳게 서는 자로 걸어갑시다.

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