2023年05月14日「偽教師に気を付けよ 너희 중에도 거짓 선생들이 있으리라」

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偽教師に気を付けよ 너희 중에도 거짓 선생들이 있으리라

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ペトロの手紙二 2章1節~9節

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聖句のアイコン聖書の言葉

2:1しかし、民の間には偽預言者も現れました。同じように、あなたがたの間にも偽教師が現れることでしょう。彼らは滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を否定して、自らの身に速やかな滅びを招いています。
2:2しかも、多くの人が彼らの放縦を見倣い、そのために真理の道がそしりを受けるのです。
2:3彼らは欲に駆られ、噓偽りであなたがたを食い物にします。この者たちに対する裁きは、昔から滞りなく行われており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。
2:4神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きに向けて閉じ込められました。
2:5また神は、古い世界を容赦せず、不敬虔な者たちの世界に洪水を引き起こし、ただ、義を説いていたノアたち八人だけを守られました。
2:6また、ソドムとゴモラの町を罰し、灰にして滅ぼし尽くし、不敬虔な行いをしようとする者たちへの見せしめとされました。
2:7しかし神は、不道徳な者たちの放縦な振る舞いに悩まされていた正しい人ロトを救い出されました。
2:8なぜなら、この正しい人は、彼らの間に住んでいたとき、その不法な行いを見聞きして、日々正しい心を痛めていたからです。
2:9主は、敬虔な人々を試練から救い出す一方、正しくない者たちを、裁きの日まで懲らしめのもとに置くことを心得ておられるのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙二 2章1節~9節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 前回の説教で、全ての暗闇を追い払う明けの明星とは、ダビデの子キリストであることを確認いたしました。審判は再臨するキリストの手の中にあり、その日、悪しき者たちに究極的な審判が下されるのです。本日の箇所も、終わりの日の審判について書かれています。連続講解説教をしていない場合ですと、この個所は、大変厳しい言葉が続くため、聴衆の気分を損ねるのではないかということで、読み飛ばしてしまうこともあるかもしれません。説教で、牧師が神の審判を説くことを躊躇する気持ちは、私にも良く理解できます。このような教えを通して、恐怖心を植え付け、人々を支配しようとするのは、カルト宗教が信者をマインドコントロールする常套手段だからです。しかし、だからと言って、反対に、神は愛なのだから、すべての人が救われるだろうと言いながら、偽りの平和を約束するのは、偽預言者の典型的な手法でありました(エレ6:14)。聖書には、終わりの日の審判について、明確に書かれていますから、私たちは、神の審判の確実性を、決して縮小してはならないと思います。とりわけ、私のような御言葉を伝える教師という立場は、神の御前に厳しくその責任を問われますので、自戒するように、本日の御言葉に耳を傾けて行きたいと思わされました。本日もご一緒に2ペトロの手紙の御言葉を通して神様の恵みに与っていきたいと思います。

【1】. 偽教師たちの特徴

 ペトロは2章の冒頭で「かつて、イスラエルの民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも…」と語り始めます。すなわち偽教師の問題は、何もペトロの時代に、始まったことではないと言うのです。神の民の歴史において、旧約の時代でも新約の時代でもいつでも見られたことである。従って、この問題は、私たちが生きている今、この時にも、同じように起こってくるに違いないと、読み進めていくべきであります。1~3節には偽教師の特徴について書かれています。ご覧ください。

かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします。このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません。

偽教師という言葉が出て来ます。彼らは、異端をひそかに持ち込んで来るということです。「異端」という言葉を聞くと、これは、古代信条を否定する教え、すなわち、ニケア信条の「三位一体」や、カルケドン信条の「キリストの二性一人格」などの信条を否定する人々と考えてしまいますが、ペトロの時代に「異端」という言葉にそのような意味は含まれていませんでした。現代の言葉で言えば、「違った教え」程度のものでした。しかし、決してこの「違った教え」を侮ることは出来ないのであります。なぜなら、この「違った教え」をひそかに、ばれないように持ち込む、その究極的目的は、主を拒否することだからです。「主を拒否する」とは、どういう意味でしょうか。通常、聖書で、「主イエス・キリスト」書かれている時、「主」という言葉は、「キューリオス」というギリシア語が使われますが、2:1では、キューリオスではなく、「デスポテス」(つまり、支配者、主人)という言葉が使われています。「主を拒否する」とは、イエス・キリストの支配を拒否するということになります。もし、私たちが主から贖われたと信じるなら、罪の奴隷であった私たちが高価なその血潮の値で買い取られたと信じるなら、私たちはイエス・キリストが、私たちの新しい主人になってくださったと告白することができるでしょう。そして、その延長線上に、ペトロやパウロの告白のように、「私は主の僕、主のドゥロス(奴隷)です」という告白が出て来るのだと思います。イエス様は、十字架上で流されたご自身の血潮によって、罪の奴隷状態にあるこの私を買い戻してくださり、この私と人格的な関係を結んでくださいました。ですから、キリスト者は自然に「私は、主のもの、主の僕」という告白が出て来るのです。キリスト者は自然にイエス様に献身して行くのです。ところが偽教師たちは、その主イエスとの人格的な関係を理解することも、受け入れることも出来ません。主イエスが自らの主人であることを拒否し、むしろ自分が主人となって、イエス様の教えを利用しようとするのです。このような目的が根底にあるのです。続いて偽教師たちの特徴ですが、これは彼らの生活を通して結ばれたり、或いは彼らの生活から垣間見ることのできる「みだらな振る舞い(性的な乱れ)」が、第一の特徴であります。第二に、彼らは欲が深く、うそ偽りによって、信じる民を食い物にするということが起こります。例えば、独善的な偽教師が、自らの権威をいよいよ高めるために、自身の霊的体験を強調したり、神秘的な業を強調したりするケースは、現在においてもしばしば見られることですが、もし、その動機が自分たちの欲であり、うそ偽りによって、民を食い物にしているのなら、彼らによって聖書の教えは、かえって世の人々から軽んじられ、世の人々から呆れられるという状況が起こっているのです。だからと言って、私たちは、早まって「あの教会は、偽りの教会だ」。「あの牧師は偽教師だ」と断罪するようなことは、慎重になるべきだと思います。神様は、終わりの日の審判において偽教師たちを容赦なく裁かれることでしょう。私たちは、偽教師の特徴をよく心に刻み付け、私たち自身が、彼らに騙されないように、気を付けるようにと、聖書は語っているように思われます。

【2】. 審判の三つの例

 続いて4~8節には、神は、偽教師たちと不道徳な者たちを決して容赦しないということを、三つの例を挙げながら説明しています。一つ目の例は、罪を犯した天使たちの裁きについてです。4節をご覧ください。

神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込められました。

天使たちの裁きについては、聖書の中にそれほど詳しく言及されていないので、ここで細かく論じることは避けたいと思いますが、ただ、一つ言えることは、罪を犯した天使たちは、堕落してサタンや悪霊になったということと、そして彼らは縄で縛られ、最後の審判まで地獄に閉じ込められているということです。すなわち、彼らの働きは神様によって制御されているということであります。

続いて二つ目の例を見て行きましょう。ノアの時代の裁きです。5節をご覧ください。

また、神は昔の人々を容赦しないで、不信心な者たちの世界に洪水を引き起こし、義を説いていたノアたち八人を保護なさったのです。

最初の天使たちの裁きにおいて、罪を犯した者は誰も神の審判から免れることができませんでしたが、二番目のノアの裁きにおいては、審判から免れる人々が現れたということが書かれています。ノアとノアの妻と、そして三人の息子たちとその妻たち。わずか八人でありますが、御言葉に従って方舟に入った人々は、審判から免れたということであります。もう一つ私たちが目を留めたいことは、5節において、ノアという名前の前に「義を説いていた」という修飾語が付け加えられている点であります。創世記の記事には、ノアが義を説いていたという描写はどこにもありません。ただ、ノアが非常に巨大な方舟を建造したこと、恐らくこの建造に長い年月がかかったということが推測されるのです。その期間、ノアと共に生きていた人々から「なぜ、こんな所に、こんな大きな方舟を建造しているのか」と質問されたことでしょう。ノアは、「神様が間もなく、洪水の審判を全地に下されるので、そのために方舟を建造しているのだ」と、神様の御言葉をそのまま語る以外に方法はなかったに違いありません。人々から嘲られ、人扱いされ、最終的に相手にされなくなっても、ノアは御言葉を信じ、箱舟の建造は進行していきました。ついに完成し、その方舟の中へ入ると、40日40夜の大雨が天から降り(創7:11)、全地に大洪水がもたらされたのです。私たちもノアの時と同じように、私たちの信仰をあざ笑う人々の中で生きています。そのような中で、忍耐強く方舟を完成させたノアの信仰に見倣って、私たちも自らの信仰を世に現わし、福音を証しして行くべきだと思います。

三つ目の例は、ロトを巡ってソドムとゴモラの町の裁きです。ここで言及されている大切なことは、6節にあるように、ソドムとゴモラの審判が、それから後の不信心な者たちへの見せしめとなったということ、つまり終わりの日の審判の型になったということです。最後の審判は、火による審判であると言うことができるのです(黙20:15)。また、もう一つ目を留めたいことは、7節においてロトが「正しい人」、「義人」として助け出されたという点であります。ロトは意思が弱く、ソドムとゴモラの慣習にすっかりなじんでしまい、そして天使から、町が滅びるので、すぐにこの町を出て行くようにと促されても、ぐずぐずしながら、中々、そこから出ることができなかったということが、創世記に描かれていると私たちは思い込んでいます。ところが、実はロトは自分の住んでいた町に心痛め、町の文化、しきたりに抵抗していたという証拠もあるのです。それは、二人の御使いが、ソドムとゴモラの罪悪がどれくらいに達したのか、それを確かめるために、夕方、ソドムとゴモラの町の門に訪れた時のことでした。門から歩いて行ける所に住んでいたロトは、彼らをお客さんとして接待し、丁重に自分の家に迎え入れ、今晩はぜひ泊まっていくようにと勧めました。その時、同性愛者の町の人々がロトの家を取り囲んで、今夜、訪問した連中を引き渡すようにと要求されたのです。この時、ロトは彼らの要求には応じませんでした。創世記19:3~9をご覧ください。

しかし、ロトがぜひにと勧めたので、彼らはロトの所に立ち寄ることにし、彼の家を訪ねた。ロトは、酵母を入れないパンを焼いて食事を供し、彼らをもてなした。彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた。「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」ロトは、戸口の前にたむろしている男たちのところへ出て行き、後ろの戸を閉めて、言った。「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。実は、わたしにはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから。」男たちは口々に言った。「そこをどけ。」「こいつは、よそ者のくせに、指図などして。」「さあ、彼らより先に、お前を痛い目に遭わせてやる。」そして、ロトに詰め寄って体を押しつけ、戸を破ろうとした。

たとえ、ロトが代案として提案した「代わりに自分の娘たちを与えましょう」という提案が、たとえ、私たちの常識を超えていて、ドン引きする内容であっても、ロトはソドムとゴモラのやり方に賛同することなく、よそ者でありながら、人々に指図していたことが見て取れるのです。この「指図して」という言葉ですが、ヘブライ語を直訳すると、「裁判官(ショーフェート)のように取り仕切る」と書かれています。裁判が開かれる門の近くに住んでいたロトは、まさに、ソドムとゴモラの人々の中から、よこしまな行為を見聞きして、正しい心を痛めながら、彼らに対し裁判官のように取り仕切っていたということでありましょう。第二ペトロに戻りまして、2:6~8をご覧ください。

また、神はソドムとゴモラの町を灰にし、滅ぼし尽くして罰し、それから後の不信心な者たちへの見せしめとなさいました。しかし神は、不道徳な者たちのみだらな言動によって悩まされていた正しい人ロトを、助け出されました。なぜなら、この正しい人は、彼らの中で生活していたとき、毎日よこしまな行為を見聞きして正しい心を痛めていたからです。

このように見て来ますと、ロトも、そして、ノアも、神の民として、生きづらいこの世の中を、神様の御言葉を信じて精一杯生きたということが見えて来るのです。この世と妥協することなく、ノアは義を説く預言者のように、ロトは土地の人に正しく生きるよう勧める裁判官のように、神の審判のその日まで、それぞれの置かれている戦いを全うしたということが見えて来るのです。

【結論】

 神様の御言葉を握りしめて生きようとする時、私たちはこの世との軋轢や摩擦を避けることができないでしょう。キリスト者であるゆえに、理不尽な取扱いを受けることもあるかもしれません。しかし、ノアとロトが最終的には、自分たちの置かれている試練や誘惑から助け出されたように、キリスト者も、今現在の試練や誘惑から必ず助け出されるのであります。そして、ノアとロトの信仰の歩みが、その営みが、彼らと同じ世代の不道徳な者たちに対して、神の審判の預言であったように、私たちキリスト者の日々の営みとは、世の人々に対し、やがての日に神の審判が容赦なく下されるだろうというメッセージにもなるのです。キリスト者は周囲で起こる様々な罪深いことのために悩まされ、心痛め、苦難を経験するかもしれませんが、いつか、キリストが再臨される日に、神が全ての物事を正しくされるという約束の中で、勇気を失わず御言葉を信じて歩み続けることができるのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

너희 중에도 거짓 선생들이 있으리라

2023년 5월 14일 센겐다이교회 주일 설교

베드로후서2장 1~9

서론

지난 설교에서 모든 어둠을 쫓는 샛별은 다윗의 자손 그리스도임을 확인하였습니다. 심판은 재림하는 그리스도의 손안에 있으며, 그날 악한 자들에게 궁극적인 심판이 내려지는 것입니다. 오늘 부분도 마지막 날의 심판에 대해 쓰여져 있습니다. 연속 강해설교를 하지 않고 이 본문만 다룬다면 이 부분은 매우 엄격한 말이 계속 되기 때문에 청중의 기분을 상하게 할까 봐 다루지 않고 뛰어 넘어 갈 수도 있습니다. 그런이유로 설교에서 목사가 하나님의 심판을 말하기를 주저하는 마음을 저도 잘 이해합니다. 이러한 가르침을 통해 공포심을 심어주고 사람들을 지배하려는 것은 컬트 종교가 신자를 마인드 컨트롤하는 상투적인 수단이기 때문입니다. 그러나 그렇다고 반대로 하나님은 사랑이시니 모든 사람이 구원을 받을것이라며 거짓 평화를 약속하는 것은 거짓 선지자의 전형적인 수법이었습니다.

(예레미야 6장 14절). 성경에는 종말의 심판에 대해 명확하게 적혀 있기 때문에 우리는 하나님 심판의 확실성을 결코 축소해서는 안 된다고 생각합니다. 특히 저와 같이 말씀을 전하는 교사라는 입장은 하나님 앞에 엄중히 그 책임을 지게 되므로 신중히 오늘의 말씀에 귀를 기울이고자 했습니다. 오늘도 함께 베드로후서의 서신서를 통해 하나님의 은혜에 참여하고 싶습니다.

(1) 거짓 선생들의 특징

베드로는 2장 첫머리에서 「거짓 선지자들이 일어났었나니 이와 같이 너희 중에도 거짓 선생들이 있으리라…」라고 이야기하기 시작합니다. 즉 거짓 선생의 문제는 특별히 베드로 시대에 시작된 것이 아니라는 것입니다. 하나님의 백성의 역사에서 구약의 시대든 신약의 시대든 언제든 볼 수 있었던 일이라는 것입니다. 따라서 이 문제는 우리가 살고 있는 지금, 이 때에도 똑같이 일어날 것임에 틀림이 없다고 생각하며 읽어나가야 합니다. 1~3절에는 거짓 선생의 특징에 대해 적혀 있습니다. 보세요.

1 그러나 백성 가운데 또한 거짓 선지자들이 일어났었나니 이와 같이 너희 중에도 거짓 선생들이 있으리라 그들은 멸망하게 할 이단을 가만히 끌어들여 자기들을 사신 주를 부인하고 임박한 멸망을 스스로 취하는 자들이라

2 여럿이 그들의 호색하는 것을 따르리니 이로 말미암아 진리의 도가 비방을 받을 것이요

3 그들이 탐심으로써 지어낸 말을 가지고 너희로 이득을 삼으니 그들의 심판은 옛적부터 지체하지 아니하며 그들의 멸망은 잠들지 아니하느니라

거짓 선생이라는 말이 나옵니다. 그들은 이단을 몰래 들여온다는 것입니다. 이단이라는 말을 들으면 이는 고대 신조를 부정하는 가르침, 즉 니케아 신조의 「삼위일체」나 칼케돈 신조의 「그리스도의 二性一人格」등의 신조를 부정하는 사람들로 생각하게 되는데 베드로시대에 「이단」이라고 하는 단어에는 그런 의미가 포함되어 있지 않았습니다. 현대적인 말로 바꾼다면 「다른 가르침」정도의 것이었습니다. 그러나 결코 이 「다른 가르침」을 무시할 수 없는 것입니다. 왜냐하면 이 「다른 가르침」을 은밀하게 들키지 않도록 가져오는 그 궁극적인 목적은 주님을 부인하는 것이기 때문입니다. 「주를 부인하고」는 무엇을 의미할까요? 보통 성경에서 「주 예수 그리스도」라고 쓰여 있을 때 「주」라는 말은 「큐리오스」라는 그리스어가 쓰이는데, 2장 1절에서는 「큐리오스」가 아니라 「데스포티스 (즉 지배자, 주인) 」이라는 말이 쓰입니다. 「주를 부인하고」라는 것은 예수 그리스도의 지배를 거부하는 것입니다. 만약 우리가 주님으로부터 속죄받았다고 믿는다면, 죄의 노예였던 우리가 고귀한 보혈의 값으로 사들여졌다고 믿는다면, 우리는 예수 그리스도께서 우리의 새 주인이 되어 주셨다고 고백할 수 있을 것입니다. 그리고 그 연장선상에 베드로나 바울의 고백처럼 「나는 주님의 종이며 주님의 도로시 (노예)입니다」라는 고백을 할 수 있는 것입니다. 예수님은 십자가 위에서 흘리신 자신의 보혈에 의해서 죄의 노예 상태에 있던 우리들을 도로 사주시고 우리와 인격적인 관계를 맺어 주셨습니다. 그래서 그리스도인은 자연스럽게 “나는 주님의 소유, 주님의 종”이라는 고백이 나오는 것입니다. 그리스도인은 자연스럽게 예수님께 헌신해 가는 것입니다. 그런데 거짓 선생들은 그 주 예수와의 인격적인 관계를 이해할 수도 받아들일 수도 없습니다. 주 예수가 자신의 주인이기를 거부하고 오히려 자신이 주인이 되어 예수님의 가르침을 이용하려는 것입니다. 이런 목적이 뿌리 깊숙히 있는 것입니다. 이어서 거짓 선생들의 특징인데, 이것은 그들의 생활을 통해 나타나거나 또는 그들의 생활에서 엿볼 수 잇는 “추잡한 행동(문란한 성생활)”이 첫 번째 특징입니다. 둘째, 그들은 욕심이 많고 거짓말로 인해 믿는 자를 먹잇감으로 삼는 일이 일어납니다. 예를 들어 독선적인 거짓 선생이 자신의 권위를 드디어 드러내어 높이기 위해서 자신의 영적체험을 강조하거나 신비적인 사역을 강조하는 경우는 현재에도 흔히 불 수 있는데, 만약 그 동기가 자신들의 욕심이고 거짓으로 백성을 먹잇감으로 삼는다면 그들에 의해 성경의 가르침은 오히려 세상 사람들로부터 업신여김을 받으며 우습게 여김을 당하는 일이 벌어지는 것입니다. 그렇다고 우리는 성급하게 “저 교회는 거짓 교회다!” “저 목사는 거짓 선생이다!”라고 단죄하는 것은 신중해야 한다고 생각합니다. 하나님은 마지막 날 심판에서 거짓 선생들을 사정없이 재판하실 것입니다. 우리는 거짓 선생의 특징을 잘 마음에 새기고 우리 자신이 그들에게 속지 않도록 조심하라고 성경은 말하고 있는 것처럼 보입니다.

(2) 심판의 세 가지 예

이어서 4~8 절에는 하나님은 거짓 선생들과 범죄한 자들을 결코 용서하지 않는다는 것을 세 가지 예를 들면서 설명하고 있습니다. 첫 번째는 죄를 지은 천사들의 심판에 관한 것입니다. 4절을 보세요.

4 하나님이 범죄한 천사들을 용서하지 아니하시고 지옥에 던져 어두운 구덩이에 두어 심판 때까지 지키게 하셨으며

범죄한 천사들의 심판에 대해서는 성경에 그리 자세히 언급되어 있지 않기 때문에 여기서 세세하게 논하는 것은 피하고 싶지만, 단 한 가지 말할 수 있는 것은 죄를 지은 천사들은 타락하여 사탄이나 악령이 되었다는 것과 그리고 그들은 밧줄로 묶이어 마지막 심판때까지 지옥에 갇혀 있다는 것입니다. 즉 그들의 악한 일은 하나님에 의해 제한 받고 있다는 것입니다.

이어 두 번째 예를 살펴보겠습니다. 노아시대의 심판입니다. 5절을 보세요.

5 옛 세상을 용서하지 아니하시고 오직 의를 전파하는 노아와 그 일곱 식구를 보존하시고 경건하지 아니한 자들의 세상에 홍수를 내리쳤으며

최초의 천사들의 심판에 있어서 죄를 지은 자는 누구도 하나님의 심판에서 벗어날 수 없었지만 두 번째 노아의 심판에 있어서는 심판으로 부터 벗어나는 사람들이 나타났다는 것이 적혀 있습니다. 노아와 노아의 아내와 그리고 세 아들들과 그 아내들 겨우 여덟 명이지만 말씀에 따라 방주에 들어간 사람들은 심판을 면했다고 합니다. 또 하나 우리가 눈여겨보고 싶은 것은 5절에서 노아라는 이름 앞에 「의를 전파하는」라는 수식어가 덧붙여져 있다는 점입니다. 창세기 기사에는 노아가 「의를 전파했다」라는 묘사는 어디에도 없습니다. 다만 노아가 매우 거대한 방주를 건조했다는 것, 아마도 이 건조에 오랜 세월이 걸렸다는 것을 짐작할 수 있습니다. 그 기간 노아와 함께 살았던 사람들로부터 “왜 이런 곳에 이렇게 큰 배를 건조하고 있느냐”는 질문을 받았을 것입니다. 노아는 하나님께서 곧 홍수 심판을 온 땅에 내리시니 그래서 배를 건조하는 것이라고 하나님의 말씀을 그대로 전하는 수밖에 달리 도리가 없었을 것입니다. 사람들로부터 조롱당하고 미친 사람 취급을 받아 결국 따돌림을 당하게 되어도 노아는 말씀을 믿고 방주 건조를 진행해 나갔습니다. 마침내 완성이 되어 그 방주안으로 들어가니 40일 40일 밤의 폭우가 하늘에서 내려 (창세기 7장 11절) 온 땅에 대홍수가 쏟아졌습니다. 우리도 노아 때와 마찬가지로 우리의 믿음을 비웃는 사람들 속에서 살고 있습니다. 그런 가운데 인내심을 갖고 방주를 완성한 노아의 믿음을 본받아 우리도 스스로의 믿음을 세상에 드러내고 복음을 증명해 나가야 한다고 생각합니다.

세 번째 예는 롯을 둘러싸고 소돔과 고모라 마을에 대한 심판입니다. 여기서 언급되고 있는 중요한 것은 6절에 나와 있듯이 소돔과 고모라의 심판이 그 후 경건하지 아니한 자들에게 본이 되었다는 것, 즉 마지막 날 심판의 본보기가 됐다는 것입니다. 마지막 심판은 불에 의한 심판이라고 할 수 있습니다(요한계시록 20장 15절). 또 하나 주의 깊게 보고 싶은 것은 7절에서 롯이 「의로운 사람」으로 구출되었다는 점입니다. 롯은 의지가 약해 소돔과 고모라의 관습에 젖어들어 익숙해 졌고 그리고 천사가 마을이 망하니 당장 이 마을을 떠나라고 재촉해도 우물쭈물하면서 좀처럼 그곳에서 나올 수 없었다는 것이 창세기에 그려져 있다고 우리는 믿고 있습니다. 그런데 사실 롯은 자신이 살던 동네를 마음 아파하고 마을의 문화 관습에 저항했다는 증거도 있습니다. 그것은 두사람의 천사가 소돔과 고모라의 죄악이 어느 정도에 이르렀는지 확인하기 위해서 저녁에 소돔과 고모라 마을의 문을 방문했을 때의 일이었습니다. 문에서 걸어갈 수 있는 곳에 살던 롯은 이들을 손님으로 접대하고 정중하게 자신의 집으로 맞아들여 오늘 밤 꼭 자고 가라고 권했습니다. 그때 동성애자인 동네 사람들이 롯의 집을 에워싸고 오늘 밤 방문한 사람들을 넘기라는 요구를 한 것입니다. 이때 롯은 그들의 요구에 응하지 않았습니다. 창세기 19장 3~9절을 참조하십시오.

3 롯이 간청하매 그제서야 돌이켜 그 집으로 들어오는지라 롯이 그들을 위하여 식탁을 베풀고 무교병을 구우니 그들이 먹으니라

4 그들이 눕기 전에 그 성 사람 곧 소돔 백성들이 노소를 막론하고 원근에서 다 모여 그 집을 에워싸고

5 롯을 부르고 그에게 이르되 오늘 밤에 네게 온 사람들이 어디 있느냐 이끌어 내라 우리가 그들을 상관하리라

6 롯이 문 밖의 무리에게로 나가서 뒤로 문을 닫고

7 이르되 청하노니 내 형제들아 이런 악을 행하지 말라

8 내게 남자를 가까이 하지 아니한 두 딸이 있노라 청하건대 내가 그들을 너희에게로 이끌어 내리니 너희 눈에 좋을 대로 그들에게 행하고 이 사람들은 내 집에 들어왔은즉 이 사람들에게는 아무 일도 저지르지 말라

9 그들이 이르되 너는 물러나라 또 이르되 이자가 들어와서 거류하면서 우리의 법관이 되려 하는도다 이제 우리가 그들보다 너를 더 해하리라 하고 롯을 미치며 가까이 가서 그 문을 부수려고 하는지라

비록 롯이 대안으로 제시한 「…남자를 가까이 하지 아니한 두 딸이 있노라… 너희에게로 이끌어 내리니…」라는 제안이 비록 우리의 상식을 뛰어 넘어서 깜짝 놀라게 하는 내용이라 할지라도 롯은 소돔과 고모라의 방식에 동참하지 않고 외지인이면서도 사람들에게 지도했음을 알 수 있는 것입니다. 이 “법관이 되려 하는도다”라는 말인데 히브리어를 직역하면 “사사 (쇼페이트) 처럼 다스린다”라고 적혀 있습니다. 재판이 열리는 문 근처에 살던 롯은 바로 소돔과 고모라 사람들의 불법한 행실을 보고 듣고 의로운 심령이 상하면서 그들에게 법관처럼 취급받고 있었다는 것이지요. 베드로후서로 돌아가서 2장 6~8을 보세요.

6 소돔과 고모라 성을 멸망하기로 정하여 재가 되게 하사 후세에 경건하지 아니한 자들에게 본을 삼으셨으며

7 무법한 자들의 음란한 행실로 말미암아 고통 당하는 의로운 롯을 건지셨으니

8 (이는 이 의인이 그들 중에 거하여 날마다 불법한 행실을 보고 들으므로 그 의로운 심령이 상함이라)

9 주께서 경건한 자는 시험에서 건지실 줄 아시고 불의한 자는 형벌 아래에 두어 심판 날까지 지키시며

이렇게 보니까 롯도, 그리고 노아도 하나님의 백성으로 살기 힘든 이 세상을 하나님의 말씀을 믿고 열심히 살았다는 것을 알 수 있습니다. 이 세상과 타협하지 않고 노아는 의를 전파하는 예언자처럼 롯은 이 땅의 사람에게 바르게 살라고 권하는 법관처럼 하나님의 심판의 그날까지 각자 처한 싸움을 완수했다는 것을 볼 수가 있는 것입니다.

결론

하나님의 말씀을 붙들고 살려고 할 때 우리는 이 세상과의 알력과 마찰을 피할 수 없을 것입니다. 그리스도인이기 때문에 불합리한 대우를 받을 수도 있습니다. 그러나 노아와 롯이 궁극적으로는 자신들이 처한 시련과 유혹에서 건짐을 받았듯이 그리스도인도 현재의 시련과 유혹에서 반드시 건짐을 받을 것을 것입니다. 그리고 노아와 롯의 믿음의 걸음이 그들과 같은 세대의 불경건한 자들에게 하나님 심판의 본보기 였던 것처럼 우리 그리스도인의 믿음 을 지키며 사는 일상적인 삶이란 곧 세상 사람들에게 하나님의 심판이 가차없이 내려질 것이라는 메시지가 되기도 합니다. 그리스도인은 주위에서 일어나는 여러 죄 많은 일들 때문에 괴로워하고 마음 아파하며, 고난을 겪을 수 있지만 언젠가 그리스도가 재림하시는 날, 하나님께서 모든 일은 바르게 하시겠다는 약속 가운데 용기를 잃지 않고 말씀을 믿고 계속 걸을 수 있는 것입니다.

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