2023年05月07日「暗いところに輝く灯 어두운 데를 비추는 등불」

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暗いところに輝く灯 어두운 데를 비추는 등불

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ペトロの手紙二 1章12節~21節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:12従って、わたしはいつも、これらのことをあなたがたに思い出させたいのです。あなたがたは既に知っているし、授かった真理に基づいて生活しているのですが。
1:13わたしは、自分がこの体を仮の宿としている間、あなたがたにこれらのことを思い出させて、奮起させるべきだと考えています。
1:14わたしたちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです。
1:15自分が世を去った後もあなたがたにこれらのことを絶えず思い出してもらうように、わたしは努めます。
1:16わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。
1:17荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。
1:18わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。
1:19こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。
1:20何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。
1:21なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙二 1章12節~21節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 ユダヤ人であれば、終わりの日にメシアが来られ、神の民イスラエルを救い出してくれることは、誰もが信じていました。メシアとはヘブル語であり、ギリシア語でキリストのことです。終わりの日に、メシアの力に満ちた来臨によって、虐げられていた者たちに解放が与えられ、悪しき者たちに公正な裁きを下し、メシアによる完全なる統治がもたらされるということを信じていました。このメシア信仰は、イエス様の初臨を通して、霊的に実現されましたが、神の国は、からし種のようであって、それが畑にまかれても、人の目には確認できないほど、小さなものでありました。神の国は、パン種のようであって、パン生地に投入されると誰も気づかないほどでありました。しかし、それがあまりにも小さく、目に見えないものだからと言って、それが存在しないということではありません。神の国はこの地に確かに訪れましたが、それは人々の目には分からない仕方で訪れたのであります。信仰によってでしか味わうことができない仕方で訪れたのであります。そして、やがての日に、誰の目にも明らかなように神の国は、力に満ちて来臨することになるでしょう。その日とは、イエス様の再臨の日であります。ところが、この再臨信仰を、「巧みな作り話」だと嘲る人々が現れ、主イエスの再臨を真向から否定する人々が現れたのであります。2ペトロ3章4節を見ると、「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」と書かれています。この声は、キリスト教を迫害する勢力から上がったのではなく、キリスト者の中から、兄弟姉妹の中から、上がって来たのでありました。ペトロは、そのような偽りの教えに対し、キリストの再臨が必ずあるということを反論していきます。本日も、2ペトロの手紙の御言葉を通して恵みに与っていきたいと思います。

【1】. ペトロのエクソドス

 12~15節をご覧ください。

“従って、わたしはいつも、これらのことをあなたがたに思い出させたいのです。あなたがたは既に知っているし、授かった真理に基づいて生活しているのですが。わたしは、自分がこの体を仮の宿としている間、あなたがたにこれらのことを思い出させて、奮起させるべきだと考えています。わたしたちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです。自分が世を去った後もあなたがたにこれらのことを絶えず思い出してもらうように、わたしは努めます。”

「仮の宿(ギリシア語で、スケノマ)」という言葉がでてきますね。これは「幕屋」とか、「テント」とも訳される言葉であります。ユダヤ人の三大祭りである、仮庵の祭りの「仮庵」に相当する言葉であります。聖書の中で、「幕屋を脱ぐ」、「仮庵を離れる」という表現は、この身体を去って、神の御許に行く、つまり天に召されることを意味しています。また、15節において「自分が世を去った後」とありますが、この「去る」という言葉は、ギリシア語でエクソドスという言葉が使われています。「最期とか、脱出(出て行くこと)」という意味ですが、イエス様が、所謂「変貌山」において、ご自分の十字架の死を、エクソドスと表現されたことが思い起こされます。ルカ9:30~31をお読みします。そのままお聞きください。

“見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後のことについて話していた。”

変貌山において、三人の弟子たち、ペトロとヤコブとヨハネが、イエス様の栄光に包まれた変貌を目撃し、その時、既に数世紀前に死んだはずの「モーセとエリヤ」が、イエス様と一緒に語り合っていました。この時、何について語りあっていたのかと言うと、ルカ福音書によれば、エルサレムで遂げようとしておられる最後「エクソドス」について語っていたというのです。イエス様が十字架に架かり、この世を去られることについて語っていたのです。これと全く同じように、ペトロの語っているエクソドスという言葉は、間もなく自分がこの世を去り、イエス様の御許に行くということを語っているのです。そして、自らの死が近づいている中で、「これらのことをあなた方に思い出させたいのです」と、遺言のようにペトロは語ってるわけです。それでは、「これらのこと」とは、何かと言いますと、ペトロがこれまで語ってきたことです。第一に、やがての日に神の本性に与るという約束が与えられていること、第二に、この世において、キリスト者は恵みによって聖化されるべき事、第三に、この世の営みを全うし仮庵を脱いだなら、天に新たな住まいが備えられていることであります。ペトロはこれらのことを、思い起こさせるように、今、また、語っているのです。

【2】. ペトロの論駁_神から誉れと栄光をお受けになったメシア・イエス

 ところで、ペトロにとって、キリスト者の中から、信仰の兄弟姉妹の中から、キリストの再臨を否定する人々が現れたという事実は、恐らく大きなショックであったに違いありません。彼らはキリストの再臨を否定し、倫理道徳に対し放縦で、好き放題な生活をしていました。正しい生活をしなくても大丈夫と考えました。終わりの日の裁きなどないと考えるなら、自然にそのような営みになるものです。彼らの主張とは、使徒たちが主イエス・キリストの力に満ちた来臨について、作り話をしていると言うのであります。言い換えれば、十字架で死んだナザレ人イエスを、使徒たちが勝手に神話化している、盛っていると言うのです。それに対しペトロは、実際に自分が目撃したことと、実際に耳に聞いたこと、その歴史的事実を通して反論しています。16~18節をご覧ください。

“わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。

私は、最初なぜこの個所が、主の再臨を論証することになるのだろうかと思いました。一体、このペトロの体験が、主の再臨とどのように関係があると言うのでしょうか。色々と調べさせていただき、私の考えは次の通りでございます。変貌山におけるペトロの体験は、決して「作り話」ではないということが非常に重要だということです。もし作り話でないのなら、非常にうまく出来過ぎているからです。福音書によれば、あの変貌山において、イエス様の「顔の様子が変わり(ルカ9:29)」「顔は太陽のように輝き(マタ17:2)」、「服は光のように白くなった(マタ17:2)」、「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった(マコ9:3)」と書かれています。これらの証言は、復活を否定する人々にとっては、「ナザレの大工であるイエスを神格化するための言葉に過ぎないもの」、「目撃者の頭の中でそのように解釈したことであって、実際にイエスという男に、そのような変化が起きた訳ではない」と考えていました。歴史的事実ではないと言うのです。ところがペトロは、自分が目撃者の張本人として、この啓示が、決して比喩や、自分の私的解釈ではなく、客観的に起こった事実であると証言しているのです。あの変貌山において、モーセとエリヤが現れたということも驚きですが、これまで弟子たちと共に生活してきたイエス様が、とても身近な存在であったイエス様が、輝くような栄光に包まれたことに、何より驚かされたに違いありません。ペトロはこの事件のことを、主イエスから、復活の時まで口留めされていましたが、忘れようと思っても、決して忘れることのできない衝撃的な事件でありました。変貌の事件は、比喩や、私的解釈によるものではなく、証言した通り歴史的事実なのであります。この点が非常に重要です。そして、その次に荘厳な栄光の雲の中から「声」が聞こえてきました。神ご自身の声であります。“これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。”この御言葉は、旧約聖書の二か所からの引用でもあります。詩編2:7とイザヤ42:1です。詩編2:6~7をご覧ください。

“聖なる山シオンで/わたしは自ら、王を即位させた。」主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。”

この詩編の御言葉は、御子が王として任職される任職式の御言葉として知られていました。もう一つはイザヤ42:1です。ご覧ください。

“見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。”

このイザヤ書の御言葉は、メシアとしての召命の御言葉として知られていました。詩編とイザヤ書の御言葉が説明しているのは、イスラエルを贖い出すメシアとは、第一に神の子であり、そして同時に王であって、国々への裁きは、メシアの手の中にあるということです。イスラエルの民は旧約聖書のこれらの御言葉によって、メシア信仰をつちかうようにされ、メシアを待望するように至ったのですが、その御言葉がちょうど、イエス様の変貌のタイミングで天から語られたのです。再臨を否定する者たちは、なんという脚色だろうか、タイミング良すぎるだろうと言ってこの天からの声を否定しますが、ペトロは確かに聞いたのです。この啓示は事実であり、啓示の意味することは、イエスこそ、イスラエルの待望のメシアであり、その方は、父である神から誉れと栄光をお受けになったこと、そして、力に満ちた再臨によって、虐げられていた者たちを解放し、悪しき者たちに公正な裁きを下されるということを示しているのです。

【3】. ペトロの論駁_神的起源を持つ預言

 再臨を否定する第二の主張は、そもそも、旧約聖書の預言そのものが、預言者たちの勝手な解釈であり、神話を仕立て上げようとする、自分たちの意思の投影ではないか、ということでありました。旧約聖書の権威さえ、退けようとしました。これに対するペトロの反論を見る前に、まず19節の「明けの明星(つまり金星のこと)」が、聖書の中で何を意味しているのかを理解しなければなりません。明けの明星は、ギリシア語で、「光を持ってくる者」「光の創始者」という意味があります。このヒントで察する人もいるかもしれませんが、聖書で「明けの明星」とは、ダビデの子キリストを指しています。再臨のキリストは、明けの明星としてすべての闇を追い払うのです。民数記24:17をご覧ください。

“わたしには彼が見える。しかし、今はいない。彼を仰いでいる。しかし、間近にではない。ひとつの星がヤコブから進み出る。ひとつの笏がイスラエルから立ち上がり/モアブのこめかみを打ち砕き/シェトのすべての子らの頭の頂を砕く。”

続いてヨハネの黙示録22:16をご覧ください。

“わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。”

ですから1:19節の「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで」とは、メシアが再臨する時まで、という意味になります。力に満ちたメシアが再臨する日、その日、全ての啓示が完成され、神の国が、誰の目にもわかるように実質的に到来することになるでしょう。それまで、暗いところに輝く灯として、預言の御言葉に留意しなさいとペトロは言っているのです。旧約聖書の預言とは、聖霊に導かれて神の言葉を語ったものであり、それは人からではなく、神的な起源を持っているからです。20~21節をご覧ください。

“何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。”

20節の「自分勝手な解釈…」という言葉をめぐって、翻訳が難しい箇所です。「自分勝手な解釈」という言葉が、読者側の解釈なのか、或いは、預言者側の解釈なのか、二通り読み方が存在しています。文脈から判断しますと、読者である私たちが自分勝手に解釈するということではなくて、預言者側の解釈として理解するのが正しいと思われます。すなわち、旧約聖書に記述された預言の言葉は、何一つ預言者自身の勝手な解釈ではない、人間の意思によってもたらされた解釈ではないということです。それは、聖霊によって導かれた神からの言葉であり、預言は神的な起源を持っているのであります。実際、預言者たちは、神の代弁者の役割を担っていたということです。私たちには旧約聖書と新約聖書が与えられていますが、この旧・新約聖書に、真理について余すところなく書かれていて、これ以上何も付け加える必要はないのです。この神の御言葉こそ、暗闇を照らす灯なのです。

私の妻は、母に会うために韓国に行っています。認知症の末期である義理の母は、自分の娘が目の前で自分の名前を呼んでも、誰なのかわからず、視線を合わせることもできず、時々、訳の分からない言葉をつぶやいたりします。そんな母親を見て、妻は戸惑いと恐怖を感じ、数日間、ひどく落ち込んでいたようです。頭では、間もなく母は、仮の宿の体を脱いで、天国に出発し、イエス様の御許に行くということを信じていますが、実際、以前の母親の姿はそこになく、子供と心通わせて会話することもできない絶望的な現実を、ただ眺めることしかできないというのは、とても辛いと話していました。しかし、これまで導いてくださった神様のことを黙想する中で、今や暗闇の中に入ろうとする母親のことを、御言葉を堅く握りしめてイエス様と一緒に眺める勇気が出て来たと言っていました。イエス様こそ、神の御言葉こそ、暗闇を照らす光なのであります。

【結論】

 主イエスが初臨され、神の国は確かに到来致しましたが、その到来は目には見えず、霊的なものでありました。神の国は、からし種のようであり、パン種のようであります。しかし、やがての日に、主イエスの力に満ちた再臨によって、公正な裁きがもたらされ、王の王、主の主として、メシアによる完全なる統治をもたらされることでしょう。私たちはその日を待ち望みつつ、この世にあっては、暗いところに輝く灯である神の御言葉に信頼しながら、心奮い立たされて、歩ませていただく者とならせていただきましょう。

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어두운 데를 비추는 등불(성경)

2023년 5월 7일 센겐다이 교회 주일설교

베드로후서 1장 12~21절

서론

유대인이라면 마지막 날 메시아가 와서 하나님의 백성 이스라엘을 구원해주실 것이라는 것을 믿었습니다. 메시야는 히브리어이며 그리스어로 그리스도를 말합니다. 마지막 날 메시야의 권능의 재림에 의해서 억눌려 있는 자들이 해방되고 악인들에게 공정한 심판이 내려지며 메시야에 의한 완전한 통치가 이루어질 것이라고 믿었습니다. 이 메시아 신앙은 예수님의 초림을 통해 영적으로 실현되었는데 하나님의 나라는 겨자씨와 같아서 그것이 밭에 뿌려져도 사람의 눈에는 그것을 확인 할 수 없을 정도로 작습니다. 하나님의 나라는 누룩과 같아서 반죽에 넣어도 알아차리지 못할 정도입니다. 하지만 그것이 너무 작고 눈에 보이지 않는 것이라고 해서 그것이 존재하지 않는다는 것은 아닙니다. 하나님의 나라는 이 땅에 분명히 찾아왔지만, 그것은 사람들이 보기에는 알 수 없는 방식으로 찾아온 것입니다. 믿음의 눈으로만 알 수 있는 방법으로 찾아온 것입니다. 그리고 머지않아 어느 누구의 눈에도 보이듯이 드러나 하나님의 나라는 위엄과 권능의 힘으로 임할 것입니다. 그날은 예수님의 재림의 날입니다. 그런데 이 재림 신앙을「교묘히 꾸며낸 이야기」라고 비웃는 사람들이 나타났고, 주 예수님의 재림을 정면으로 부정하는 사람들이 나타난 것입니다. 베드로후서 3장 4절을 보면 「주께서 강림하신다는 약속이 어디 있느냐 조상들이 잔 후로부터 만물이 처음 창조될 때와 같이 그냥 있다 하니」라고 쓰여져 있습니다. 이 목소리는 기독교를 박해하는 세력에서 나온 것이 아니라 그리스도인 중에서 형제자매 중에서 나온 것입니다. 베드로는 그런 거짓된 가르침에 대해 그리스도의 재림이 반드시 있음을 반박해 나갑니다. 오늘도 베드로후서의 서신서의 말씀을 통해 은혜를 받고자 합니다.

(1) 베드로의 엑소더스

12~15절을 보시기 바랍니다.

12 그러므로 너희가 이것을 알고 이미 있는 진리에 서 있으나 내가 항상 너희에게 생각나게 하려 하노라

13 내가 이 장막에 있을 동안에 너희를 일깨워 생각나게 함이 옳은 줄로 여기노니

14 이는 우리 주 예수 그리스도께서 내게 지시하신 것 같이 나도 나의 장막을 벗어날 것이 임박한 줄을 앎이라

15 내가 힘써 너희로 하여금 내가 떠난 후에라도 어느 때나 이런 것을 생각나게 하려 하노라

「장막(그리스어로 스케노마)」이라는 말이 나옵니다. 이것은 「막사」라든가 「텐트」라고도 번역되는 말입니다. 유대인의 3대 축제인 초막절의 「초막」에 해당하는 단어입니다. 성경에서 「장막을 떠나다」라는 표현은 육신을 떠나 하나님의 품으로 간다, 즉 하늘로 가는 것을 의미합니다. 또 15절에서 「내가 세상을 떠난 후에라도」라고 쓰여 있는데 이 「떠나다」라는 말은 그리스어로 엑소더스라는 말이 쓰이고 있습니다.「최후라든가 탈출」이라는 뜻인데 예수님께서 이른바 「변화산」에서 자신의 십자가 죽음을 엑소더스라고 표현하셨음이 기억납니다. 누가복음 9장 30,31절을 보시겠습니다.

30 문득 두 사람이 예수와 함께 말하니 이는 모세와 엘리야라

31 영광중에 나타나서 장차 예수께서 예루살렘에서 별세하실 것을 말할새

변화산에서 세명의 제자들, 베드로와 야곱과 요한이 예수님의 영광에 휩싸인 변화를 목격했고 그 때 이미 수세기 전에 죽었던 모세와 엘리야가 예수님과 함께 이야기를 나누고 있었습니다. 이 때 무엇에 대한 이야기를 나우었냐면 누가복음에 따르면 예루살렘에서 이루고자 하시는 마지막 「액소더스」에 대해서 이야기하고 있었다고 합니다. 예수님이 십자가에 못박혀 세상을 떠나시는 것에 대해 말씀하시고 있었던 것입니다. 이와 똑같이 베드로가 말하고 있는 엑소더스라고 하는 단어는 곧 자신이 이 세상을 떠나 예수님의 품으로 간다는 것을 말하고 있는 것입니다. 그리고 스스로의 죽음이 다가오고 있는 가운데 「이런 것을 생각나게 하려 하노라」 라고 유언처럼 베드로는 말하고 있는 것입니다. 그러면 「이런 것」이란 게 뭐냐면 베드로가 지금까지 얘기해 온 것입니다. 첫째, 이윽고 그 날에 하나님의 성품에 참여한다는 약속이 주어져 있다는 것, 둘째, 이 세상에서 그리스도인들은 은혜에 힘입어 성화되어야만 한다는 것, 셋째, 이 세상에서 살다가 장막을 벗고나면 하늘에 새로운 거처가 마련되어 있다는 것입니다. 베드로는 이러한 것들을 상기시키듯이 지금 다시 말하고 있는 것입니다.

(2) 베드로의 논박–하나님으로부터 존귀와 영광을 받으신 메시아 예수님

그런데 베드로에게 있어서 그리스도인 가운데서 신앙의 형제자매 중에서도 그리스도의 재림을 부정하는 사람들이 나타났다고 하는 사실에 대해서 아마도 큰 충격을 받았음이 틀림이 없었을 것입니다. 그들은 그리스도의 재림을 부정하고 윤리 도덕에 대해 방종하고 마음대로 생활했습니다. 믿음에 합당한 생활을 하지 않아도 괜찮다고 생각했어요. 마지막 날의 심판 따위는 없다고 생각한다면 자연스럽게 그런 삶을 살게 되는 것입니다. 그들의 주장은 사도들이 주 예수 그리스도의 크신 위엄과 권능으로 임하실 재림에 대해 꾸며낸 이야기를 하고 있다는 것입니다. 바꾸어 말하면 십자가에서 죽은 나사렛 예수를 사도들이 마음대로 신화화하고 있다고 떠들어대고 있는 것입니다. 그것에 대해서 배드로는 실제로 자신이 목격한 것과 실제로 귀로 들은 것을 그 역사적인 사실을 통해서 반박하고 있습니다. 16~18절을 보세요.

16 우리 주 예수 그리스도의 능력과 강림하심을 너희에게 알게 한 것이 교묘히 만든 이야기를 따른 것이 아니요 우리는 그의 크신 위엄을 친히 본 자라

17 지극히 큰 영광 중에서 이러한 소리가 그에게 나기를 이는 내 사랑하는 아들이요 내 기뻐하는 자라 하실 때에 그가 하나님 아버지께 존귀와 영광을 받으셨느니라

18 이 소리는 우리가 그와 함께 거룩한 산에 있을 때에 하늘로부터 난 것을 들은 것이라

저는 처음에 ‘왜 이 구절이 주님의 재림을 논증하게 되는 것일까?’ 하고 생각했습니다. 도대체 이 베드로의 체험이 주의 재림과 어떤 관계가 있다는 것일까요? 여러 가지를 조사 해 보고 난 제 생각은 다음과 같습니다. 변화산에서 베드로의 체험은 결코 「지어 낸 이야기」가 아니라는 것이 매우 중요하다고 말씀드리고 싶습니다. 만약 지어 낸 이야기가 아니라면 너무 잘 만들어졌기 때문입니다. 복음서에 따르면 저 변화산에서 예수님의 「용모가 변화되고(누가복음 9장29절)」,「얼굴이 해 같이 빛나며(마태복음 17장 2절)」, 「옷이 빛과 같이 희어졌더라(마태복음 17장 2절)」,「옷이 광채가 나며 세상에서 빨래하는 자가 그렇게 희게 할 수 없을 만큼 매우 희어졌더라(마가복음 9장 3절)」이라고 기록되어 있습니다. 이러한 증언들은 부활을 부활을 부정하는 사람들에게는 나사렛 목수 예수를 신격화하기 위한 말에 불과한 것이고 목격자의 머릿속에서 그렇게 해석한 것이지 실제로 예수라는 남자에게 그런 변화가 일어난 것은 아니다라고 생각했습니다. 역사적 사실이 아니라는 거죠. 그런데 베드로는 자신이 목격자인 장본인으로서 이 계시가 결코 비유나 자신의 사적인 해석이 아니라 객관적으로 일어난 사실이라고 증언하고 있는 것입니다. 그 변화산에서 모세와 엘리야가 나타났다는 것도 놀랍지만 그동안 제자들과 함께 생활해 온 예수님이, 아주 가까운 존재였던 예수님이 빛나는 영광에 휩싸였다는 사실에 무엇보다 놀랐을 것입니다. 베드로는 이 사건을 주 예수께서 부활하실 때까지 밝히지 않으려고 했지만(마태복음 17장 9절: 이 당시의 베드로는 예수님이 변화하신 것의 의미를 이해 할 수 없었기에 예수님은 사람들에게 말하지 말라고 당부하셨다.) 잊으려고 하면 할 수록 결코 잊을 수 없는 충격적인 사건이었습니다. 변화의 사건은 비유나 사적 해석에 의한 것이 아니라 증언한 대로 역사적 사실입니다. 이 점이 매우 중요합니다. 그리고 그 다음 장엄한 영광의 구름 속에서 「소리」가 들려왔습니다. 하나님의 음성입니다. 「이는 내 사랑하는 아들이요 기뻐하는 자라」는 이 말씀은 구약성경의 두 곳에서 인용되기 했습니다. 시편 2편 7절과 이사야서 42장 1절입니다. 시편 2편 6,7절을 참조하세요.

6 내가 나의 왕을 내 거룩한 산 시온에 세웠다 하시리로다

7 내가 여호와의 명령을 전하노라 여호와께서 내게 이르시되 너는 내 아들이라 오늘 내가 너를 낳았도다

이 시편의 말씀은 하나님의 아들이 왕으로서 임직하시는 임직식 말씀으로 알려져 있습니다. 또 하나는 이사야 42장 1절입니다. 보십시오.

1 내가 붙드는 나의 종, 내 마음에 기뻐하는 자 곧 내가 택한 사람을 보라 내가 나의 영을 그에게 주었은즉 그가 이방에 정의를 베풀리라

이 이사야서의 말씀은 메시아로서의 소명의 말씀으로 알려져 있습니다. 시편과 이사야서의 말씀이 설명하고 있는 것은 이스라엘을 속죄하여 구원하시는 메시아는 첫째로 하나님의 아들이며 동시에 왕이며 나라들에 대한 심판은 메시아의 손안에 있다는 것입니다. 이스라엘 백성들은 구약성경의 이 말씀들로 인해 메시아 신앙을 유지하게 되었고 메시아를 기다리게 되었는데 그 말씀이 마침 예수님의 변화하는 타이밍에 하늘로부터 들여온 것입니다. 재림을 부정하는 자들은 무슨 각색한 이야기인가, 타이밍이 너무 절묘하지 않은가하며 이 하늘의 소리를 부정하지만 베드로는 분명히 들었습니다. 이 계시는 사실이고 계시가 의미하는 바는 예수야말로 이스라엘이 기다리고 기다리던 메시아이시며 그분은 아버지이신 하나님으로부터 존귀와 영광을 받으셨다는 것, 그리고 능력과 위엄의 재림으로 억눌리던 자를 해방시키고 악한 자들에게 정의로운 심판을 내리신다는 것을 보여주는 것입니다.

(3) 베드로의 논박– 신적 기원을 가진 예언

재림을 부정하는 두 번째 주장은 애초에 구약성경의 예언 자체가 예언자들이 사사로이 한 해석이며 신화를 세우려는 자신들의 의사의 투영이 아니냐는 것이었습니다. 구약성경의 권위마저 물리치려 했습니다. 이에 대한 베드로의 반론을 보기 전에 먼저 19절의 「샛별(즉 금성)」이 성경에서 무엇을 의미하는지 이해 해야 합니다. 샛별은 그리스어로 「빛을 가지고 오는 자」「빛의 창시자」라는 뜻이 있습니다. 이 힌트로 짐작하시겠지만 성경에서 「샛별」이란 다윗의 아들 그리스도를 가리키고 있습니다. 재림의 그리스도는 샛별로서 모든 어둠을 쫓는 것입니다. 민수기 24장 17절을 참조하세요.

17 내가 그를 보아도 이 때의 일이 아니며 내가 그를 바라보아도 가까운 일이 아니로다 한 별이 야곱에게서 나오며 한 규가 이스라엘에게서 일어나서 모압을 이쪽에서 저쪽까지 쳐서 무찌르고 또 셋의 자식들을 다 멸하리로다

이어서 요한계시록 22장 16절을 참조하십시오.

16 나 예수는 교회들을 위하여 내 사자를 보내어 이것들을 너희에게 증언하게 하였노라 나는 다윗의 뿌리요 자손이니 곧 광명한 새벽 별이라 하시더라

그러니까 1장 19절의 「날이 새어 샛별이 너희 마음에 떠오르기까지」란 메시아가 재림할 때까지라는 뜻이 됩니다. 권능의 메시아가 재림하는 날 그날 모든 계시가 완성되고 하나님 나라가 누구의 눈에도 알 수 있듯이 실질적으로도 도래하게 될 것입니다. 그 때까지 어두운 데를 밝히는 등불로서 예언의 말씀에 유의하라고 베드로는 말하고 있는 것입니다. 구약성경의 예언이란 성령의 인도를 받아 하나님의 말씀을 한 것으로 그것은 사람에게서가 아니라 신적 기원을 가지고 있기 때문입니다. 20,21절을 보시기 바랍니다.

20 먼저 알 것은 성경의 모든 예언은 사사로이 풀 것이 아니니

21 예언은 언제든지 사람의 뜻으로 낸 것이 아니요 오직 성령의 감동하심을 받은 사람들이 하나님께 받아 말한 것임이라

20절의 「사사로이 풀 것….」이라는 말은 번역이 어려운 부분입니다. 「사사로이 풀 것..」이라고 하는 단어가 독자 측의 해석인지, 아니면 예언자 측의 해석인지 두가지로 읽는 방법이 존재하고 있습니다. 문맥으로 판단하면 독자인 우리가 제멋대로 해석한다는 것이 아니라 예언자 측의 해석으로 이해하는 것이 맞다고 생각됩니다. 즉 구약성경에 기록된 예언의 말씀은 그 무엇 하나 선지자 자신이 멋대로의 해석이 아니며 인간의 의사에 의해서 풀어진 해석이 아니라는 말입니다. 그것은 성령에 의해 인도된 하나님의 말씀이며 예언은 신적 기원을 가지고 있는 것입니다. 실제로 예언자들은 하나님의 대변자 역할을 담당하고 있었다는 것입니다. 우리에게는 구약성경과 신약성경이 주어져 있는데 이 신구약 성경에 진리에 대해 남김없이 적혀 있어서 더 이상 아무것도 덧붙일 필요가 없습니다. 이 하나님의 말씀이야 말로 어두운 데를 비추는 등불입니다.

제 아내는 어머니를 만나기 위해 한국에 가 있습니다. 치매 말기인 어머니는 자신의 딸이 눈 앞에서 자신의 이름을 불러도 누군지 모르고 시선을 맞추지도 못하고 가끔 영문 모를 말을 중얼거리곤 한다고 합니다. 그런 어머니를 보고 아내는 당혹괌과 두려움을 느끼고 며칠동안 몹시 우울했던 것 같습니다. 머리로는 얼마 지나지 않아 어머니는 장막을 벗고 천국을 향해 출발해 예수님 곁으로 간다는 것을 믿지만 사실 예전의 어머니의 모습은 거기에 없고 자식과 마음을 나누고 대화할 수도 없는 절망적인 현실을 그저 바라볼 수밖에 없다는 것이 너무 힘들었다고 말했습니다. 그러나 그동안 어머니와 자신을 인도해 주신 하나님의 말씀을 묵상하는 가운데 이제 드디어 어둠 속으로 들어가려는 어머니를, 말씀을 굳게 붙잡고 예수님과 함께 바라볼 용기가 생겼다고 했습니다. 예수님이야말로 하나님의 말씀이야말로 어두움을 밝히는 빛입니다.

결론

주 예수께서 초림하시면서 하나님의 나라는 분명히 도래 했지만 그 도래는 보통 우리의 육적인 눈에는 보이지 않는 영적인 것입니다. 하나님의 나라는 겨자씨와 같고 누룩과 같습니다. 그러나 머지않아 주 예수의 권능과 위엄으로 오실 주의 재림으로 공의로운 심판이 이루어지고 왕의 왕, 주의 주로서 메시아에 의한 완전한 통치가 이루어지게 될 것입니다. 우리는 그 날을 고대하면서 이 세상에 사는 동안 어두운 데를 비추는 등불이신 하나님의 말씀을 믿으며 분발하여 걷는 자가 되도록 합시다.

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