2023年04月16日「香ばしい香り 향기로운 향기」

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聖句のアイコン聖書の言葉

4:15フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。
4:16また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。
4:17贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。
4:18わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。
4:19わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。
4:20わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
4:21キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たちに、よろしく伝えてください。わたしと一緒にいる兄弟たちも、あなたがたによろしくと言っています。
4:22すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちからよろしくとのことです。
4:23主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
フィリピの信徒への手紙 4章15節~23節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 フィリピの兄弟姉妹のパウロへの贈り物は、神へ献げられた香ばしい香りであり、神への礼拝でありました。また、フィリピの兄弟姉妹がパウロの苦しみを共に担ってくれたことは、どれほど神の国において重要な意味が持っていたことでしょうか。本日はフィリピ書の公開説教の最終回となります。ご一緒に神の御言葉に耳を傾けていきたいと願います。

【1】. パウロの共同事業者であるフィリピ教会

 最初に、パウロの宣教旅行の地図をご覧ください。パウロは第二次伝道旅行で聖霊の導きにより、小アジアからマケドニア州に渡りました。最初にフィリピ、次にテサロニケ、次にベレアと伝道していきました。ベレアからアカイア州に南下して、アテネ、コリントへと進んでいきます。4:15節に「わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りで…参加した教会は」あなた方だけだったとありますが、今、パウロがここで思い起こしている状況は、もしかしたら、フィリピを去った後、フィリピ教会から何度か受け取った贈り物のことだったのかもしれません。例えばその時の状況が、使徒の言行録18章に記されていますが、当時パウロはと言いますと、コリントにおいてテント造りをしながら生計を立てていました。そして安息日にのみ会堂に行って論じ合っていました。そこへ、シラスとテモテがマケドニアのフィリピからの贈り物を持って来たと思われます。そのためパウロは、御言葉を語ることに専念することができるようになりました。自由にコリントにおいて宣教することが許されるようになったということです。フィリピ教会は、決して豊かな教会ではなく、むしろ貧しかったと推測されますが(2コリント8:1-4)、そんなフィリピ教会からの贈り物を受け取って、パウロの宣教の働きが後押しされて行ったのです。16節には、「テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送って」くれたと書かれています。テサロニケはフィリピの隣町ですから、パウロがフィリピの教会を後にして、早速、フィリピの兄弟姉妹は、一度ならず複数回も、テサロニケのパウロのもとに贈り物を送ってくれたということです。従ってパウロのフィリピを出発してからの宣教の働きというのは、フィリピ教会とパウロ自身の共同事業であると言っても間違いではないわけです。テサロニケでの宣教の働き、ベレアでの宣教の働き、コリントでの宣教の働きは、フィリピ教会とパウロ自身の共同事業であったということです。そのようにパウロの働きを覚えてくれた教会は、フィリピ教会以外にはありませんでした。ところで、15節において、興味深い表現があります。「もののやり取りでわたしの働きに参加した教会」という言葉です。この「もののやり取り」という言葉は、当時、商取引の専門用語でありました。ですから、聖書協会共同訳では、15節を次のように翻訳しています。抜粋のプリントをご覧ください。

“フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、私が福音の宣教の初めにマケドニアから出かけて行ったとき、会計を共にしてくれた教会は、あなたがたのほかに一つもありませんでした。”

つまり「もののやり取りでわたしの働きに参加した教会」という言葉が、新しく出た聖書協会共同訳では「会計を共にしてくれた教会」に変わっています。とても大胆な翻訳だと思いますが、私はこの新しい翻訳の方が良いと思います。商取引の専門用語が使用されているという背景から「共に、パウロのビジネスに、財政的に参与してくれた」という意味です。そして、パウロのビジネスとは、もちろん御言葉を宣べ伝えること、福音宣教のことであります。使徒パウロの働きは、主の働きとして、それ自体大変尊いものでありますが、パウロを支援するフィリピの教会も、パウロと共同事業者として同じく、尊い働きに参与しているのです。

【2】. 帳簿を黒字にする実り

 17~18節は、パウロのフィリピの教会へ感謝している理由が書かれています。前にもお話ししましたが、パウロは貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っており、いついかなる場合にも対処する秘訣を持っていました。その「秘訣」というのは、イエス様の十字架と復活のことです。とにかくパウロは、イエス様に依り頼むことによって全てが満たされていたのです。ですから、パウロの感謝の理由とは、決してパウロの窮乏を救った財政的贈り物ではない!と言えば、嘘になるかもしれませんが(人間ですからそのような気持ちも多少あったかもしれません)、しかし、もっと違う理由からパウロはフィリピの教会に感謝しています。その理由とは、栄光が神に帰せられているということです。フィリピの人々の贈り物が、神の御前に受け入れられるいけにえとなり、霊的な祭事が献げられているということです。そのことにパウロは感謝しているのです。17~20節をご覧ください。

“贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。”

ここに、パウロの感謝の理由が書かれているのですが、少し細かく見ますと、やはりここにも興味深い表現があります。第一に18節の「わたしはあらゆるものを受けており、」という言葉です。この言葉は、「領収しました」という専門用語です。商売の相手に対して使う、商取引の言葉です。パウロは、フィリピの教会に対して、そして天に対して「確かに領収しました。有り余るほどです。」と領収書を発行しているのです。なぜ領収書を発行するのでしょうか。それは、フィリピからの贈り物が、天に覚えられている貸方であり、天に蓄えられた投資であるからです。天に投資をして、パウロが発行した領収書は債権のように機能しているのです。

第二に17節において、「あなたがたの益となる豊かな実を望んでいる」という言葉がございます。ここも直訳しますと「あなたがたの増益させる利子を望んでいる」となります。ですから、これを文脈から見て、聖書協会共同訳聖書のような翻訳になるわけです。17節を聖書協会共同訳聖書でご覧ください。抜粋のプリントに印刷されています。

“贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの帳簿を黒字にする実りを求めているのです。”

パウロは、フィリピ教会が送ってくれた、その贈り物が「帳簿を黒字にする実り」をもたらすものであると信じている、その贈り物がフィリピ教会に「増益させる利子」をもたらすものであると信じているということです。それでは、この帳簿を黒字にする実りということですが、これはどういうことでしょうか。パウロが今後、数年にかけてお返しをすることによって、フィリピ教会に報いるということでしょうか。そういうことではありません。或いは、逆にパウロが福音を宣べ伝えたその見返りとして、福音のいわば、伝授料として自分が受けるのが当然だと考えていたのでしょうか。そういうことでもありません。フィリピの兄弟姉妹の贈り物が、天に覚えられている、天に積まれているということです。そして神様が、その栄光の倉から、神様のやり方に従って、フィリピ教会に豊かに報いて下さると言っているのです。なぜなら、その贈り物は、香ばしい香りであり、神が喜んで受け入れてくださる生贄だからです。

【3】. 香ばしい香り

 新約聖書の中では、キリスト者の「善き業」と、「寛大な分かち合い」、この二つが神に献げられる生贄であり、神様に受け入れられる礼拝であると書かれています。言い換えてみますと、イエス・キリストが、ご自身の完全な生贄を献げられ、父なる神に完全な礼拝を捧げてくださったために、旧約の全ての犠牲祭事が成就され、廃止されました。他に一体何が、生贄として献げられるというのかと私たちは思ってしまいますが、「善き業」と、「寛大な分かち合い」、この二つだけは、神様に献げることができる霊的な祭事、新約の時代に、神様に献げることが出来る生贄として残っていると、聖書には書かれているのです。寛大な分かち合いについては本日のフィリピ書の18節に記されている通りです。善き業についてはローマ書12:1-2に記されています。ご覧ください。

“こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。”

ですから、私たちキリスト者が日々の営みの中で、「善い業」を捧げる時、或いは「寛大な分かち合い」を捧げる時、それらは、神の御前に香ばしい香りとして立ち上り、神に捧げられた生贄として喜んで受け入れられるのです。神様は普通、私たちのどのような業であれ、それ自体で聖いものとして受け入れることはできません。私たちの最善の業でさえ、誠意を尽くして捧げた慈善団体への寄付でさえ、それ自体では依然として神の御前に、汚れているものであり、受け入れられるものではないのです。旧約聖書のアベルとカインの捧げものを思い起こしてください。二人は出来る精一杯の捧げものを神の御前に献げました。カインは、土を耕す者として、土の実りである作物を主のもとに献げました。アベルは、羊を飼う者として、羊の群れの中から超えた初子を主のもとに献げました。ところが神は、アベルの献げ物を受け入れられ、カインの捧げ物を拒絶されたのです。一体何故でしょうか。これは、神様は土を耕す者なのか、羊を飼う者なのか、その職業によって人を差別したからということではありませんね。或いは作物の献げ物より羊の献げ物の方が優れているからということでもないと思います。アベルの献げ物が受け入れられたその理由は、神の恵みによって、信仰によって捧げられたからです(ヘブライ11:4)。イエス・キリストを通して、それが献げられたからです。キリストの血潮で、アベルの献げ物が聖別され、父なる神に受け入れられるように清められたが故に、神に受け入れられたのです。ですから、アベルの献げ物が神に受け入れられたというのは、アベルの功労ではなく、アベルが一生懸命したから、熱心に捧げたからということではなく、神の一方的な恵みによるとしか考えられないのであります。フィリピ教会の贈り物も、たとえ、それが自分たちの目からは素晴らしい行い、最善の行いに見えたとしても、神の目から見れば、汚れた業に過ぎません。私たち人間は、根っからの罪びとであり、私たちのどのような「善い業」でさえ、どのような「寛大な分かち合い」でさえ、それ自体では決して義なるもの、神に受け入れられるものとは見做されないからです。ところが、それがキリストを通して献げられる時に、礼拝祭事として神様に栄光が捧げられるのです。その献げ物が聖別され、香ばしい香りとして天に立ち上り、神様に覚えられるのです。それに対して、神様はご自身の栄光の倉から、神様のやり方で豊かに報いて下さるでしょう。これは信じられないようなキリスト者の特権と言えるのではないでしょうか。罪びとである私たちが、白い麻の衣を着た祭司のように、直接、神様に生贄を献げることができるからです。神様をお喜ばせすることが出来るからです。まさにキリスト者の大きな特権と言わざるを得ないでしょう。ですから、私たちキリスト者が、この世で信仰によって献げる「良き業」と「寛大な分かち合い」は、単に地上的な事柄ではないということを今日、覚えていただければと思います。イエス・キリストを通して献げられる時に、それは神の御前に香ばしい香りとして立ち上り、神様が喜んで受け入れてくださる真の祭事となるのです。天におけるその喜びを、神様が私たちに豊かに報いられないことがあるでしょうか。神の倉から、その栄光の富に応じて、私たちに必要なものをすべて満たしてくださるのです。

【結論】

 本日で、フィリピの信徒への手紙の説教を最後とさせていただきます。この手紙の最後である23節には、「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。」という挨拶で締めくくられています。「あなたがたの霊」という言葉に注目しますと、あなた方という言葉が複数形になっているのにも拘わらず、霊という言葉は単数形になっています。パウロはフィリピ教会が、主にあって一つの霊であると信仰の目で見ていたということでしょう。私たち、せんげん台教会も、頭なるイエス様に結ばれていて、キリストの体として、一つの霊でなり、一致して歩む者たちとならせていただきましょう。そして、この23節の挨拶は、手紙の冒頭の1:2においても似たような形で出てまいりました。抜粋のプリントの一番下の御言葉です。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」似たような挨拶が最初と最後に出て来ます。私たちキリスト者の歩みは、キリストの恵みによって営まれるのだということが強調されているのです。キリストの恵みによって生かされ、キリストの恵みによって日々の営みが守られ、キリストの恵みによって「善き業」と「寛大な分かち合い」を私たちは御前に献げていくことができるのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

향기로운 향기

2023년 4월 16일 센겐다이 교회 주일설교

빌립보서 4장 15-23절

서론

빌립보 교회의 형제 자매가 바울에게 보낸 선물은 하나님께 드려진 향기로운 향기이자 하나님께 드리는 예배였습니다. 또한 빌립보의 형제 자매가 바울의 어려움을 함께 짊어져 준 것은 어느 정도 하나님의 나라에서 중요한 의미가 있었을까요? 오늘은 빌립보서의 강해설교의 마지막 회입니다. 함께 하나님의 말씀에 귀를 기울이고 싶습니다.

(1) 바울의 공동 사업자인 빌립보 교회

먼저 바울의 선교여행의 지도를 보시기 바랍니다. 바울은 제 2차 전도 여행에서 성령의 인도로 소아시아에서 마게도냐주로 넘어갔습니다. 처음에 빌립보, 그 다음에 데살로니가 그 다음에 베뢰아를 전도 해 나갔습니다. 베뢰아에서 아카이아주로 남하해서 아테네, 고린도로 나아가게 됩니다. 4장 15절에 「복음의 시초에 내가 마게도냐를 떠날 때에 주고 받는 내 일에 참여한 교회가 너희외에 아무도 없었느니라」라고 하는데 지금 바울이 여기서 상기하는 상황은 어쩌면 빌립보를 떠난 후 빌립보 교회로 부터 여러 번 선물을 받았기 때문이었는지도 모릅니다. 예를 들면 그때의 상황이 사도행전 18장에 기록되어 있는데 당시 바울은 고린도에서 천막을 만드는 일을 하면서 생계를 유지하고 있었습니다. 그리고 안식일마다 회당에 가서 강론하고 있었습니다. 거기에 시라스와 디모데가 마게도냐의 빌립보로 부터의 선물을 가지고 왔다고 생각됩니다. 그래서 바울은 말씀을 전하는데 전념할 수 있게 되었습니다. 자유롭게 고린도에서 선교할 수 있게 된 것입니다. 빌립보 교회는 결코 풍족한 교회가 아니고 오히려 가난했을 것이라고 추측할 수 있습니다. (고린도 후서 8장 1-4절), 그런 빌립보 교회로부터 선물을 받고 그 선물은 바울의 선교 사역의 뒷받침이 되었던 것입니다. 16절에는 「데살로니가에 있을 때에도 너희가 한 번뿐 아니라 두 번이나 나의 쓸 것을 보내었도다」라고 기록되어 있습니다. 데살로니가는 빌립보 옆 마을이기 때문에 바울이 빌립보 교회를 떠나고 나서 곧 바로 빌립보 형제 자매는 한 번뿐이 아니라 여러 번 데살로니가의 바울에게 쓸 것을 보내 주었다는 것입니다. 따라서 바울의 빌립보를 떠난 후의 선교사역이라고 하는 것은 빌립보 교회와 바울 자신의 공동 사업이라고 해도 틀린 말이 아닙니다. 데살로니가에서의 선교 사역, 베뢰아에서의 선교 사역, 고린도에서의 선교 사역은 빌립보 교회와 바울의 공동 사업이었다는 것입니다. 그렇게 바울의 사역을 기억해준 교회는 빌립보 교회외에는 없었습니다. 그런데 15절에 흥미로눈 표현이 있습니다.

「주고 받는 내 일에 참여한 교회」라는 말입니다. 이 「주고 받는」이라고 하는 단어는 당시 상거래 전문용어였습니다. 그래서 일본의 성경협회 공동번역에서는 15절을 다음과 같이 번역하고 있습니다.

빌립보 여러분, 여러분들도 알다시피 내가 복음의 선교 초반에 마게도냐에서 떠났을 때 회계를 함께 해준 교회는 당신들 외에는 하나도 없었습니다.

즉 「주고 받는 내 일에 참여한 교회」라는 말이 새로 나온 일본의 성경협회 공동번역에서는 「회계를 함께 해준 교회」로 바뀌어 있습니다. 매우 대담한 번역이라고 생각하지만 저는 이 새로운 번역이 더 좋다고 생각합니다. 상거래 전문용어가 사용되고 있다는 배경에서 “함께 바울의 비즈니스에 재정적으로 참여해 주었다”는 뜻입니다. 그리고 바울의 사업이란 물론 말씀을 전하고 전하는 것, 복음 선교를 말합니다. 사도 바울의 일은 주님의 일로서 그 자체로 매우 고귀한 것이지만 바울을 지원하는 빌립보 교회도 바울과 공동 사업자로서 똑같이 고귀한 일에 참여하고 있는 것입니다.

(2) 장부를 흑자로 만드는 결실

17-18절은 바울의 빌립보 교회에 감사하는 이유가 적혀 있습니다. 전에도 말씀드렸지만 바울은 비천에 처할 줄도 알고 풍부에 처할 줄도 알고 있었고 언제 어떤 경우에도 자족하는 비결을 가지고 있었습니다. 그 「비결」이란 예수님의 십자가와 부활을 말합니다. 어쨌든 바울은 예수님을 의지하고 신뢰함으로 자족할 수 있었습니다. 그렇기 때문에 바울의 감사의 이유란 결코 바울의 궁핌함을 구한 재정적인 쓸 것들이 아니다! 라고 말하면 거짓말이 될 지도 모르겠지만 (인간이기에 그런 마음도 다소 있었을지도 모릅니다.) 그러나 더 다른 이유에서 바울은 빌립보 교회에 감사하고 있습니다. 그 이유는 영광이 하나님께 돌려지고 있다는 것입니다. 빌립보의 사람들로부터의 선물이 하나님 앞에 받아들여지는 제물이 되어 영적인 제사가 드려지고 있다는 것입니다. 이 일에 바울은 감사하고 있는 것입니다. 17-20절을 보세요.

17 내가 선물을 구함이 아니요 오직 너희에게 유익하도록 풍성한 열매를 구함이라

18 내게는 모든 것이 있고 또 풍부한지라 에바브로디도 편에 너희가 준 것을 받으므로 내가 풍족하니 이는 받으실 만한 향기로운 제물이요 하나님을 기쁘시게 한 것이라

19 나의 하나님이 그리스도 예수 안에서 여광 가운데 그 풍성한 대로 너희 모든 쓸 것을 채우시리라

20 하나님 곧 우리 아버지께 세세 무궁하도록 영광을 돌릴지어다 아멘

여기 바울의 감사의 이유가 적혀 있는데 조금 자세히 살펴보면 역시 여기에도 흥미로운 표현이 있습니다. 첫째 18절의 「내게는 모든 것이 있고」라는 말입니다. 이 말은 “영수했다”라는 전문용어입니다. 장사할 때 상대에 대해서 사용하는 상거래 용어입니다. 바울은 빌립보 교회에 대해서 그리고 하늘에 “분명히 영수 했습니다. 또 남을 정도로 풍족합니다”라고 영수증을 발행하고 있는 것입니다. 왜 영수증을 발행하는 걸까요? 그것은 빌립보 교회로 부터의 선물이 빌립보 교회가 바울에게 대여해 주는 것으로 하늘에 기억되는 하늘에 쌓는 투자이기 때문입니다. 하늘에 투자를 해서 바울이 발행한 영수증은 채권처럼 기능하고 있는 것입니다.

둘째, 17절에서 「너희에게 유익하도록 풍성한 열매를 구함이라」라는 말이 있습니다. 이 부분도 직역하면 “당신들의 이익을 늘릴 이자를 원한다”이 됩니다. 그렇기 때문에 이것을 문맥상으로 볼때 일본 성경협회 공동역 성경에는 이렇게 되어 있습니다.

쓸 것을 받기 위해서 말하는 것이 아닙니다. 오히려 당신들의 장부를 흑자를 남기는 결실을 구하고 있는 것입니다

바울은 빌립보 교회가 보내준 그 선물이 “장부를 흑자로 만드는 결실”을 가져올 것이라고 믿고 그 선물이 빌립보 교회에 “이익을 늘릴 이자”를 가져온다고 믿고 있는 것입니다. 그러면 그 장부를 흑자를 남기는 결실이라고 하는 것입니다만 그것은 무엇을 말하고자 함일까요? 바울이 앞으로 몇 년에 걸쳐 답례를 함으로써 빌립보 교회에 보답하겠다는 것입니까? 그런 것이 아닙니다. 혹은 반대로 바울이 복음을 전한 그 대가로 삯을 받는 것이 당연하다고 생각했을까요? 그런 것도 아닙니다. 빌립보 형제 자매가 선물을 보내 준 것이 하늘에 기억되고 있고 하늘에 쌓여 있다는 것입니다. 그리고 하나님께서 그 영광의 창고에서 하나님의 방법으로 빌립보 교회에 풍성하게 보답해 주신다고 말씀하시는 것입니다. 왜냐하면 그 선물은 향기로운 향기이며 하나님이 기꺼이 받아주시는 제물이기 때문입니다.

(3) 향기로운 향기

신약성경 속에서는 그리스도인의 “선한 일”과 “넉넉한 나눔”, 이 두 가지가 하나님께 드릴 수 있는 제물이자 하나님께 받아들여지는 예배라고 적혀있습니다. 바꾸어 말하면, 예수 그리스도께서 자신을 완전한 제물을 드리고 아버지 하나님께 완전한 예배를 드린 것으로 성취되었기에 구약의 모든 희생제사가 폐지 되었습니다. 그러면 그 밖에 대체 무엇으로 제물을 바칠 수 있을까?라고 우리들은 생각할 수 있지만 “선한 일”과 “넉넉한 나눔”이 두개 만은 하나님께 바쳐 질 수 있는 영적인 제사, 신약의 시대에 하나님께 드릴 수 있는 제물로 남아 있다고 성경에는 적혀 있습니다. 너그러운 나눔에 대해서는 오늘 빌립보서 18절에 나와 있는 바와 같습니다. 선한 일에 대해서는 로마서 12장 1-2절에 기록되어 있습니다. 보십시오.

1 그러므로 형제들아 내가 하나님의 모든 자비하심으로 너희를 권하노니 너희 몸을 하나님이 기뻐하시는 거룩한 산 제물로 드리라 이는 너희가 드릴 영적 예배니라

2 너희는 이 세대를 본받지 말고 오직 마음을 새롭게 함으로 변화를 받아 하나님의 선하시고 기뻐하시고 온전하신 뜻이 무엇인지 분별하도록 하라

그러므로 우리 그리스도인들이 일상의 삶 속에서 “선한 일”을 할 때 또는 “넉넉한 나눔”을 할 때 그것들은 하나님 앞에 향기로운 향기로 피어올라 하나님께 드려지는 제물로 기꺼이 받으시는 것입니다. 하나님은 보통 우리들의 어떠한 행위도 그 자체로는 거룩한 것으로 받으실 수 없습니다. 우리의 최선의 행위조차도 성의껏 바친 자선단체에 대한 기부조차 그 자체로는 여전히 하나님 앞에 거룩하지 못한 제물이기에 열납 받으실 수가 없는 것입니다. 구약성경의 아벨과 가인이 드린 제물을 생각해 보십시오. 두 사람은 할 수 잇는 힘껏, 드릴 수 있는 것을 하나님 앞에 드렸습니다. 가인은 흙을 경작하는 사람으로서 땅의 소산으로 제물을 삼아 주님께 드렸습니다. 아벨은 양을 치는 자로서 양때 중에서 양의 첫 새끼와 그 기름으로 드렸습니다. 그런데 하나님은 아벨의 제물은 받으시고 가인의 제물은 받지 않으셨습니다. 도대체 왜 그럴까요? 이것은 하나님이 땅을 경작하는 자인지 양을 치는 자인지 그 직업에 따라 사람을 차별했기 때문이 아니죠. 아니면 작물을 바치는 것보다 양을 바치는 것이 더 뛰어나기 때문도 아니라고 생각합니다. 아벨의 제물을 받으신 이유는 하나님의 은혜로 인해 믿음으로 드려졌기 때문입니다. (히브리서 11장 4절) 예수 그리스도를 통해 그것이 드려졌기 때문입니다. 그리스도의 피흘림으로 아벨의 제물이 성별되어 아버지 하나님께 받아들여 지도록 거룩해졌기 때문에 하나님께 열납된 것입니다. 그래서 아벨의 제물이 하나님께 받아들여진 것은 아벨의 공로가 아니고 아벨이 열심히 했고 열심으로 드렸기 때문이 아닌 하나님의 일방적인 은혜에 의한 것이라고 밖에 볼 수 없는 것입니다. 빌립보 교회가 바울에게 보낸 선물도 비록 그것이 자신들의 눈에서는 훌륭한 행실, 최선의 행실로 보였다 하더라도 하나님의 눈으로 보면 거룩하지 못한 행위에 지나지 않습니다. 우리들 인간은 근본적으로 죄인이며 우리의 어떤 “선한 일”조차도 그 어떤 “넉넉한 나눔”조차도 그 자체로는 결코 의로운 것으로 하나님께 받아들여질 수 없기 때문입니다. 그런데 그것이 그리스도를 통해 드려질 때 예배자로서 하나님께 영광이 바쳐지는 것입니다. 그 헌물이 성별되어 향기로운 향기로 하늘로 피어 올라가 하나님께 기억되는 것입니다. 그것에 대해서 하나님은 자신의 영광의 창고에서 하나님의 방식으로 풍요롭게 보답해 주실 것입니다. 이것은 믿을 수 없는 그리스도인의 특권이라고 할 수 있지 않을까요? 죄인들인 우리가 흰 세마포옷을 입은 제사장처럼 직접 하나님께 제물을 드릴 수 있기 때문입니다. 하나님을 기쁘게 해드릴 수 있기 때문입니다.

그야말로 그리스도인의 엄청난 특권이 아닐 수 없습니다. 그러므로 우리 그리스도인들이 이 세상에서 믿음으로 바칠 수 있는 “선한 일”과 “넉넉한 나눔”은 단순히 지상적인 일이 아니라는 것을 오늘 기억해 주셨으면 합니다. 예수 그리스도를 통해 드릴 때 그것은 하나님 앞에 향기로운 향기로 피어올라 하나님이 기꺼이 받아주시는 진정한 제사가 되는 것입니다. 하늘에서의 그 기쁨을 하나님이 우리에게 넘치게 보답하시지 못할 이유가 있겠습니까? 하나님의 창고에서 그 영광의 부에 따라서 우리들에게 필요한 모든 것을 채워 주실 것입니다.

결론

오늘로써 빌립보의 설교를 마칩니다. 이 편지의 마지막인 23절에는 「주 예수 그리스도의 은혜가 너희 심령에 있을지어다」라는 인사말로 끝을 맺었습니다. 「너희 심령」이라는 말에 주목하면, 너희라는 말이 복수형으로 되어 있음에도 불구하고 영이라는 말은 단수형으로 되어 있습니다. 바울은 빌립보 교회가 주 안에서 하나의 영이라는 것을 믿음의 눈으로 보고 있었다는 말이겠죠. 우리 센겐다이 교회도 머리 되시는 예수님과 연합되어 있고 그리스도의 몸으로 하나의 영이 되어 일치해서 사는 자가 되도록 합시다. 그리고 이 23절의 인사는 편지의 서두의 1장 2절에도 비슷한 형태로 나왔습니다.

2 하나님 우리 아버지와 주 예수 그리스도로 부터 은혜와 평강이 너희에게 있을지어다

이렇게 비슷한 인사가 처음과 끝에 나옵니다. 우리 그리스도인의 삶은 그리스도의 은혜로 이루어진다는 것이 강조되고 있는 것입니다. 그리스도의 은혜로 살리심을 받고 그리스도의 은혜로 하루하루의 삶이 지켜지고 그리스도의 은혜로 “선한 일”과 “넉넉한 나눔”을 우리는 하나님께 드릴 수 있는 것입니다.

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