2023年04月09日「婚礼の日が来て 혼인 기약이 이르렀고」

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婚礼の日が来て 혼인 기약이 이르렀고

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ヨハネの黙示録 19章1節~10節

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聖句のアイコン聖書の言葉

19:1その後、わたしは、大群衆の大声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。
19:2その裁きは真実で正しいからである。みだらな行いで/地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、/御自分の僕たちの流した血の復讐を、/彼女になさったからである。」
19:3また、こうも言った。「ハレルヤ。大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」
19:4そこで、二十四人の長老と四つの生き物とはひれ伏して、玉座に座っておられる神を礼拝して言った。「アーメン、ハレルヤ。」
19:5また、玉座から声がして、こう言った。「すべて神の僕たちよ、/神を畏れる者たちよ、/小さな者も大きな者も、/わたしたちの神をたたえよ。」
19:6わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ、/全能者であり、/わたしたちの神である主が王となられた。
19:7わたしたちは喜び、大いに喜び、/神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、/花嫁は用意を整えた。
19:8花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、/聖なる者たちの正しい行いである。」
19:9それから天使はわたしに、「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」と言い、また、「これは、神の真実の言葉である」とも言った。
19:10わたしは天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した。すると、天使はわたしにこう言った。「やめよ。わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネの黙示録 19章1節~10節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 イースターおめでとうございます。本日はイエス・キリストの復活をお祝いする日であります。私たちの救い主、イエス・キリストは十字架に架けられ、葬られ、三日目の日曜日に復活されました。この復活の意味とは、罪と死の支配に完全に勝利されたということです。イエス様は、その後、神の右の座に着座され、王の王、主の主として、宇宙万物を統治しておられます。とは言っても、ヨハネが生きていた当時、この世の覇権はローマ帝国が握っていました。したがって神の国の統治とは言うものの、それは目に見えないものであり、それは天の中にのみ、閉じ込められているだけなのかなと疑問を持つ方ももしかしたらおられるかもしれません。言い換えれば、この神の国の統治とは、私たちが心の中でのみ、それを理解するもの、果たしてそのようなぼんやりしたものなのか?ということです。

聖書には神の国の統治は、やがての日に、はっきり目に見える形で顕わにされると書かれています。やがての日にキリストが再臨し、神の国は完成して、神の国の統治がはっきりと顕わにされるのです。このキリストの再臨の日は、婚礼の宴会に譬えられています。イエス様と教会が一つに結ばれる結婚式でございます。結婚式において、花嫁は美しく着飾られますね。花嫁に対する美しいという称賛を誰よりも喜ぶ人は、恐らく新郎でありましょう。その日、イエス様も、教会が美しく着飾れることを心から喜んでくださるに違いありません。私たち教会はその日に備える者として、日々の営みを重ねていきたいと思わされます。本日はヨハネの黙示録19章から御言葉の恵みに与って参りたいと思います。

【1】. 歓喜のるつぼ

 使徒ヨハネが見た幻は、天において歓喜のるつぼとなっている光景でありました。この歓喜のるつぼは、花嫁の婚礼の喜びへ向けて、いよいよヒートアップしていきます。最初に19章の1~4節は、「大淫婦」が裁かれたことについての天の喜びが書かれています。大淫婦とは、他の箇所において、「大バビロン」とも表現されていますが、これはつまりイエス・キリストに反対し、対抗する全ての世俗的な勢力を意味しています。使徒ヨハネが生きていた当時は、ローマを念頭に置いて、「大バビロン」とか「大淫婦」という言葉を使ったと思われます。1~4節をご覧ください。

“その後、わたしは、大群衆の大声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。その裁きは真実で正しいからである。みだらな行いで/地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、/御自分の僕たちの流した血の復讐を、/彼女になさったからである。」また、こうも言った。「ハレルヤ。大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」そこで、二十四人の長老と四つの生き物とはひれ伏して、玉座に座っておられる神を礼拝して言った。「アーメン、ハレルヤ。」”

ハレルヤ!とは、ヘブライ語で「主を讃美せよ」、「主をほめたたえよ」という意味です。この叫び声をあげて、地上を堕落させた、あの大淫婦が裁かれたことを喜んでいます。そして、その喜びに応答するかのように、神の玉座に最も近く仕えている者たちからの掛け声が上がります。「アーメン、ハレルヤ」。神の玉座で仕えている二十四人の長老と4つの生き物とは、黙示録の4~5章にも出て来ますが、玉座近くで仕える天使的な存在であると考えられています。神様は公正な方であり、必ず真実で正しい裁きを下されるのであります。

ここまでは、神の正しい裁きについて、神の報復について、讃美が献げられているのですが、5節に移りますと新たな展開に入ります。5節で少し余談になりますが、「玉座から声がして」とありますので、神様、或いはイエス・キリストの声なのかなと思いますが、続く言葉の中に「私たちの神をたたえよ」とあるため、これは神様、或いはイエス・キリストの声ではなく、やはり、玉座の近くで仕えている4つの生き物の一つ、或いは二十四人の長老の内の一人の声ではないかと主張する学者もいます。はっきりとは分かりませんが、いずれにせよ玉座から神様から権威を受けた者の声だということです。続いて5節をご覧ください。

“また、玉座から声がして、こう言った。「すべて神の僕たちよ、/神を畏れる者たちよ、/小さな者も大きな者も、/わたしたちの神をたたえよ。」”

「小さな者も、大きな者も」という言葉から、天においていろいろな人々がいることが想像できるのではないでしょうか。私たち、せんげん台教会においても、子どもからお年寄りまで、一緒に声を合わせて神様を讃美していますね。神様を礼拝することにおいて、私たちは世代や人種を超えて、あらゆる人々が一つになることが出来るのです。すると讃美の声はさらに高まって行きます。6~7節をご覧ください。

“わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ、/全能者であり、/わたしたちの神である主が王となられた。わたしたちは喜び、大いに喜び、/神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、/花嫁は用意を整えた。」”

1節では、「大群衆の大声のような」と描写されていましたが、6節では、「大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなもの」と三つの比喩によって描写されています。つまり、その音が途方もなく大きかったと言うことなのでしょう。歓喜のるつぼがいよいよクライマックスに至ったということです。その理由は、その日、全能者であり、私たちの神である主が万物の王として、統治を始めたからです。その日はすなわち、子羊の婚礼の宴会の日であるからです。このように聖書では度々、教会がキリストの花嫁として紹介されているのです。

【2】. ユダヤの風習

 さて、細かいことですが、7節の最後の箇所で「花嫁は用意を整えた」という言葉がありますが、ここのギリシア語を見ると、「花嫁」という言葉ではなく、なぜか「妻(グネー)」という言葉が使われています。英語(KJV)と韓国語の聖書には、きちんと翻訳されていますが、この個所を直訳するなら「妻は用意を整えた」となります。この表現は当時のユダヤの風習と関係があると考えられています。当時ユダヤにおいて、女性は13歳位から結婚ができると考えられていました。マリアがヨセフと結婚した年齢も、ある注解書によれば14歳位ではないかと推測されています。普通、両親或いは、新郎によって花嫁が選ばれると、新郎は花嫁の家に誓約書や結納金(花嫁料)などを持って、結婚を申し込みます。それが受け入れられれば、二人は晴れて婚約期間に入るわけです。この婚約期間と言うのは、大体一年くらいで、結婚のための準備期間に当たりますが、この準備期間が非常に大切なものと考えられていました。なぜなら、この時、お互いが結婚のために互いのことを想い、準備をする期間となるからです。新郎は妻を迎え入れるために家を準備する期間となり、花嫁は装いを整える期間となります。この期間、二人は別居状態にあり、お互い聖別された時を送ることになりますが、祈りによって心は一つであると言えるでしょう。また、婚約期間の男女は、すでに夫婦であると考えられていました。この期間に万一、二人が婚約を破棄するということになれば、正式に離縁状を出さなければなりませんでした。イエス様のご両親であるヨセフとマリアも、婚約期間にありながら、二人は社会的には既に夫婦であると見做されていたのです。婚約期間である一年の時を経て、父親のもとで準備が整った新郎は、その新郎の父親が決定したある日の夜、花嫁を迎えに行くのですが、どうやら、この時間が正確にいつになるのかわからず、多少、遅れたり、早まったりすることがあったようです。そのため、花嫁は新郎がいつ来てもいいように準備を整えておかなければならなかったということです。いずれにせよ、夜に新郎が迎えに来て、花嫁を連れて新郎の家に到着すると、その翌日から七日間に渡って婚礼の宴会が始まりました。こうして二人は正式に結婚をしたことになるのです。このような背景がイエス様と教会の関係にもそのまま当てはまるのではないかと思います。教会はこの世において、イエス様と婚約期間を過ごしていますが、やがて主が再臨される時に、婚礼の宴会が持たれるということです。イエス様と地上の教会は既に夫婦関係となっていますが、実質的な生活は未だ始まってはおらず、天におられるイエス様と地上の教会の間には、ある意味、隔たりも存在しているのです。続いて19:8節をご覧ください。

“花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、/聖なる者たちの正しい行いである。」”

麻の衣とは、祭司が着る白い服でもあり、純潔と正しい行いを象徴しています。そして、この衣とは、8節で書かれているように「聖なる者たちの正しい行いである」ということです。この服は、大淫婦がまとっていた服とは全く対象的です。17:4に大淫婦の衣服について書かれていますのでご覧ください。

“女は紫と赤の衣を着て、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものや、自分のみだらな行いの汚れで満ちた金の杯を手に持っていた。”

それでは、私たちは果たして、聖なる者たちの正しい行いである「麻の衣」を着ているでしょうか。それとも「紫と赤の衣」を着て、忌まわしいものや、自分のみだらな行いの汚れで満ちたものを手にしているでしょうか。もし、このように質問されるなら、中々自信をもって、自分は「麻の衣」ですと答えられる人はいないのではないかと思います。自分の正しい行いに、そこまで自信が持てないからです。19:8節に書かれている、「聖なる者たちの正しい行い」とは、14章12節で語られている「信仰生活に伴う忍耐」のことを指しているのかもしれません。

“ここに、神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である。”

私たちキリスト者は、イエス様のために信仰生活を続ける時、必ず忍耐しなければならないような状況に直面します。ヨハネが生きていた当時においても、ローマによる激しい迫害がございました。そのような中で、神の掟を守り、イエス様に対する信仰を守り続けようとするならば、そこには必ず忍耐が必要となって来たのです。しかし、この戦いは私たちの力で戦うのではなく、イエス・キリストの旗印のもと勝利が保障されていて、聖霊の助けを受けながら遂行する戦いであり、この戦いは、究極的には「主の戦い」であると言えるでしょう。イエス・キリストは、既に復活を通して、罪と死の力に勝利されているからです。従いまして、「麻の衣」を着るというのは、私たちの正しい行いによって、私たちの忍耐によって、義とされ、キリストの花嫁になれるという意味ではなく、それは自分の力で得るものではない。あくまで与えられるもの、聖書に書かれているように神様から着せられるものなのです。エフェソ書2:8~10には次のような御言葉がございました。聖書教会共同訳でお読みします。

“あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなたがたの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためです。私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです。”

ここには、救いが行いによるのではない、誰も誇ることがないためであると断言されていますが、その直後に、私たちは、善い行いをするために、キリスト・イエスにあって造られたと書かれています。そして、その善い行いさえ、実は、神様によってあらかじめ準備されているということです。私たちが日々、善い行いを神様に捧げることができるのは、私たちが日々忍耐を持って信仰を守り続けることができるのは、実は、神の恵みによるものなのです。そして、やがての日に、これら、天に積まれた正しい行いが、そして、信仰を守り続けた忍耐が、花嫁を飾る、輝く「麻の衣」となるのです。

【結論】

 私たちの信仰生活の営みは、婚礼の日を待つ花嫁のようなものです。正しい行いのウェディングドレスを期待し、心ときめいて準備するのであります。この、子羊の婚礼の宴会に招かれている者たちはいかに幸いなことでしょうか。19:9節の「書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ」「これらは、神の真実の言葉である」という天使の言葉に、その幸いの重みが、ひしひしと伝わってまいります。私たちは、地上においてこの子羊の婚礼の宴会を、聖餐式を通して、その前味を味わっていますが、やがての日に、キリストが再臨し、キリストの花嫁である、私たち教会を迎えに来て下さるのです。その時が、いつになるか分かりませんが、その時、イエス・キリストの復活によってもたらされた神の国の統治を、私たちは目に見える形で、はっきりと知ることが出来るのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

혼인 기약이 이르렀고

2023년 4월 9일 센겐다이 주일설교

요한계시록 19장 1-10절

1 이 일 후에 내가 들으니 하늘에 허다한 무리의 큰 음성 같은 것이 있어 이르되 할레루야 구원과 영광과 능력이 우리 하나님께 있도다

2 그의 심판은 참되고 의로운지라 음행으로 땅을 더럽게 한 큰 음녀를 심판하사 자기 종들의 피를 그 음녀의 손에 갚으셨도다 하고

3 두 번째로 할렐루야 하니 그 연기가 세세토록 올라가더라

4 또 이십사 장로와 네 생물이 엎드려 보좌에 앉으신 하나님께 경배하여 이르되 아멘 할렐루야 하니

5 보좌에서 음성이 나서 이르시되 하나님의 종들 곧 그를 경외하는 너희들아 작은 자나 큰 자나 다 우리 하나님께 찬송하라 하더라

6 또 내가 들으니 허다한 무리의 음성과도 같고 많은 물소리와도 같고 큰 우룃소리와도 같은 소리로 이르되 할렐루야 주 우리 하나님 곧 전능하신 이가 통치하시도다

7 우리가 즐거워하고 크게 기뻐하며 그에게 영광을 돌리세 어린 양의 혼인 기약이 이르렀고 그의 아내가 자신을 준비하였으므로

8 그에게 빛나고 깨끗한 세마포 옷을 입도록 허락하셨으니 이 세마포 옷은 성도들의 옳은 행실이로다

9 천사가 내게 말하기를 기록하라 어린 양의 혼인 잔치에 청함을 받은 자들은 복이 있도다 하고 또 내게 말하되 이것은 하나님의 참되신 말씀이라 하기로

10 내가 그 발 앞에 엎드려 경배하려 하니 그가 나에게 말하기를 나는 너와 및 예수의 증언을 받은 네 형제들과 같이 된 종이니 삼가 그리하지 말고 오직 하나님께 경배하라 예수의 증언은 예언의 영이라 하더라

서론

부활절 축하합니다. 오늘은 예수 그리스도의 부활을 기념하며 축하하는 날입니다. 우리의 구세주 예수 그리스도는 십자가에 달리시고 장사된지 사흘 만인 일요일에 부활하셨습니다. 이 부활의 의미는 죄와 죽음의 권세에 대해서 완전히 승리했다는 것입니다. 예수님은 그 후 하나님 오른쪽 자리에 앉으셔서 왕의 왕, 주의 주로서 우주 만물을 통치하고 계십니다. 그렇다고 해도 요한이 살아 있을 당시 이 세상의 패권은 로마 제국이 쥐고 있었습니다. 따라서 “하나님 나라의 통치라고는 하지만 그것은 눈에 보이지 않는 것이고, 그것은 하늘 안에만 통용되는 것은 아닌가?”하고 의문을 갖는 분들도 어쩌면 계실지도 모르겠습니다. 바꿔 말하자면 “이 하나님 나라의 통치라는 것은 우리들의 마음속에서만 그것을 이해할 수 있는 그런 관념적인 것 뿐인가?” 라는 것입니다.

성경에는 하나님 나라의 통치는 머지않아 분명하게 눈에 보이는 형태로 나타난다고 적혀 있습니다. 이윽고 그리스도가 재림하시고 하나님 나라는 완성되어 하나님 나라의 통치가 뚜렷이 드러나는 것입니다. 이 그리스도의 재림의 날은 혼인 잔치에 비유되고 있습니다. 예수님과 교회가 하나로 묶이는 결혼식입니다. 결혼식에서 신부는 아름답게 차려 입습니다. 신부가 아름답다는 칭찬에 대해서 누구보다 기뻐하는 사람은 아마도 신랑일 것입니다. 그날 예수님께서도 교회가 아름답게 차려 입을 수 있기를 진심으로 바라고 기뻐하실 것이 틀림없습니다. 우리 교회는 그날을 기다리며 준비하는 자로서 매일 매일의 삶의 걸음을 걸어가야 하겠습니다. 오늘은 오한계시록 19장에서 말씀의 은혜를 받고자 합니다.

(1) 환희의 절정

사도 요한이 본 환상은 하늘에서 환희의 절정이 펼쳐지는 광경이었습니다. 이 환희의 절정은 신부의 혼인의 기쁨을 향해서 드디어 뜨겁게 끓어 올라갑니다. 처음 19장의 1-4절은 「큰 음녀」가 심판을 받은 것에 대한 하늘의 기쁨이 담겨 있습니다. 큰 음녀란 다른 구절에서는 「큰 성 바벨론」이라고도 하는데 이는 곧 예수 그리스도를 반대하고 대항하는 모든 세속적인 세력을 의미합니다. 사도 요한이 살아 있을 당시에는 로마를 염두에 두고 「큰 성 바벨론」이라든가「큰 음녀」라는 단어를 사용했을 것으로 보입니다. 1-4절을 보시겠습니다.

1 이 일 후에 내가 들으니 하늘에 허다한 무리의 큰 음성 같은 것이 있어 이르되 할레루야 구원과 영광과 능력이 우리 하나님께 있도다

2 그의 심판은 참되고 의로운지라 음행으로 땅을 더럽게 한 큰 음녀를 심판하사 자기 종들의 피를 그 음녀의 손에 갚으셨도다 하고

3 두 번째로 할렐루야 하니 그 연기가 세세토록 올라가더라

4 또 이십사 장로와 네 생물이 엎드려 보좌에 앉으신 하나님께 경배하여 이르되 아멘 할렐루야 하니

할렐루야!는 히브리어로 「주님을 찬양하라!」, 「주님을 칭송하라」라는 의미입니다. 함성을 지르며 지상을 타락시킨 그 큰 음녀가 심판받는 것을 기뻐하고 있습니다. 그리고 그 기쁨에 응답하듯 하나님의 보좌를 가장 가까이 모시고 있는 자들의 「아멘, 할렐루야」라는 구호가 올라옵니다. 하나님의 보좌에서 섬기고 있는 이십사 장로와 네 생물은 계시록 4,5장에도 나오는데 보좌 근처에서 섬기는 천사적인 존재로 여겨집니다. 하나님은 공정하신 분이시며 반드시 진실하고 바른 심판을 내리시는 것입니다.

여기까지는 하나님의 공의로운 심판에 대해 찬양이 드려지고 있는데 5절에 넘어가면 새로운 전개에 들어갑니다. 조금은 여담이 될지 모르겠지만 5절에서 「보좌에서 음성이 나서 이르시되」라고 쓰여 있기 때문에 하나님 혹은 예수 그리스도의 목소리인가 생각하실지도 모르겠습니다만 이어지는 말 중에 「다 우리 하나님께 찬송하라」라고 쓰여있기 때문에 이것은 하나님 혹은 예수 그리스도의 목소리가 아니라 역시 보좌 근처에서 섬기고 있는 네 생물 중 하나이거나 혹은 이십사 장로 중 한 사람의 목소리가 아닐까 주장하는 학자도 있습니다. 확실하게는 알 수 없지만 어쨌든 보자로부터 하나님의 권위를 받은 자의 목소리라는 것입니다. 이어서 5절을 보시죠.

5 보좌에서 음성이 나서 이르시되 하나님의 종들 곧 그를 경외하는 너희들아 작은 자나 큰 자나 다 우리 하나님께 찬송하라 하더라

「작은 자나 큰 자나」라고 하는 말씀에서 하늘에 다양한 사람들이 있음을 상상할 수 있지 않을까요? 우리 센겐다이 교회에서도 어린이부터 어른까지 함께 한목소리로 하나님을 찬양하고 있습니다. 하나님을 예배함에 있어 우리는 세대와 인종을 초월하여 모든 사람들이 하나가 될 수 있는 것입니다. 그러자 찬양의 목소리는 더욱 높아져 갑니다. 6,7절을 보십시오.

6 또 내가 들으니 허다한 무리의 음성과도 같고 많은 물소리와도 같고 큰 우룃소리와도 같은 소리로 이르되 할렐루야 주 우리 하나님 곧 전능하신 이가 통치하시도다

7 우리가 즐거워하고 크게 기뻐하며 그에게 영광을 돌리세 어린 양의 혼인 기약이 이르렀고 그의 아내가 자신을 준비하였으므로

1절에서는 「허다한 무리의 큰 음성 같은 것」이라고 묘사되어 있었지만, 6절에서는 「허다한 무리의 음성과도 같고 많은 물소리와도 같고 큰 우룃소리와도 같은 소리」라고 세 가지 비유로 묘사되어 있습니다. 즉, 그 소리가 엄청나게 컸다는 거죠. 환희의 절정이 드디어 클라이막스에 이르렀다는 겁니다. 그 이유는 그날 전능자이자 우리의 하나님이신 주님이 만물의 왕으로서 통치를 시작하셨기 때문입니다. 그날은 곧 어린 양의 혼인 잔치의 날이기 때문입니다. 이처럼 성경에서는 종종 교회를 그리스도의 신부로 소개되고 있습니다.

(2) 유대의 풍습

자, 세부적으로 7절의 마지막 부분에서 「아내가 자신을 준비하였으므로」라는 말이 있는데요. 일본어 성경에는 신부라고 번역되어 있습니다만 여기에 쓰여진 그리스어를 보면「신부」라는 단어가 아니라 「아내」라는 단어가 쓰여졌고 영어 (KJV)와 한국어 성경에는 「아내」라고 제대로 번역이 되어 있습니다. 이 부분을 직역한다면 「아내는 준비를 갖췄다」입니다. 이 표현은 당시 유대 풍습과 관련이 있다고 생각됩니다. 당시 유대에서 여성은13세 정도부터 결혼을 할 수 있다고 여겨졌습니다. 마리아가 요셉과 결혼한 나이도 한 주해서에 따르면 14세 정도가 아닐까 추측되고 있습니다. 보통 부모님 혹은 신랑에 의해 신부가 결정되면 신랑은 신부집에 서약서나 지참금등을 가지고 결혼을 신청합니다. 그것이 받아들여지면 두 사람은 정식으로 약혼 기간에 들어가는 것입니다. 이 약혼기간이라고 하는 것은 대략 1년 정도로 결혼을 위한 준비기간에 해당되는데, 이 준비기간이 매우 중요한 것으로 여겨졌습니다. 왜냐하면 이때 서로가 결혼을 위해 서로를 생각하며 준비하는 기간이 되기 때문입니다. 신랑에게는 아내를 맞아 들이기 위해 집을 마련하는 기간이 되고 신부에게는 치장을 갖추는 기간이 됩니다. 이 기간 동안 두 사람은 별거 상태에 있으면서 서로 성별된 시간을 보내게 됩니다만 기도에 의해 마음은 하나라고 할 수 있을 겁니다. 또한 약혼 기간의 남녀는 이미 부부인 것으로 생각되었습니다. 이 기간에 만일 두 사람이 약혼을 파기하게 되면 정식으로 離縁状을 보내야만 했습니다. 예수님의 부모인 요셉과 마리아도 약혼 기간에 있으면서도 두 사람은 사회적으로는 이미 부부로 간주되었던 것입니다. 약혼 기간인 1년을 지나 아버지 밑에서 준비가 된 신랑은 그 신랑의 아버지가 결정한 어느 날 밤 신부를 데리러 가는데 아무래도 이 시간이 정확히 언제가 될지 몰라 다소 늦어지거나 빨라지는 일이 있었던 것 같습니다. 그래서 신부는 신랑이 언제 와도 차질이 없도록 준비를 해 두어야 했다는 것이죠. 어쨌든 밤에 신랑이 와서 신부를 데리고 신랑의 집에 도착하면 그 다음날부터 7일간 혼인 잔치가 시작되었습니다. 이렇게 해서 두 사람은 정식으로 결혼을 올린 것이 됩니다. 이러한 배경이 예수님과 교회의 관계에도 그대로 들어맞지 않을까 싶습니다. 교회는 이 세상에서 예수님과 약혼 기간을 보내고 있는데 곧 주님이 재림하실 때 혼례 연회를 갖게 된다는 것입니다. 예수님과 지상교회는 이미 부부관계이지만 실질적인 생활은 아직 시작되지 않았고 하늘에 계신 예수님과 지상교회 사이에는 어떻게 보면 간극이 존재하고 있는 것입니다. 이어서 19장 8절을 보시겠습니다.

8 그에게 빛나고 깨끗한 세마포 옷을 입도록 허락하셨으니 이 세마포 옷은 성도들의 옳은 행실이로다

세마포 옷이라는 것은 제사장이 입는 흰 옷이기도 하며 순결과 옳은 행실을 상징합니다. 그리고 이 옷이란 8절에 쓰여져 있듯이 「성도들의 옳은 행실」이라는 것입니다. 이 옷은 「큰 음녀」가 걸치던 옷과는 완전 반대입니다. 17장 4절에 「큰 음녀」가 걸친 의복에 대해 쓰여 있으니 참조하시길 바랍니다.

그 여자는 자주 빛과 붉은 빛 옷을 입고 금과 보석과 진주로 꾸미고 손에 금 잔을 가졌는데 가증한 물건과 그의 음행의 더러운 것들이 가득하더라

그렇다면 우리는 과연 거룩한 자들의 옳은 행실인 「세마포 옷」을 입고 있을까요? 아니면 「자주 빛과 붉은 빛 옷」을 입고 가증한 물건과 음행의 더러운 것들이 가득한 잔을 손에 들고 있을까요? 만약 이렇게 질문을 받는다면 좀처럼 나는 「세마포 옷」을 입고 있다고 자신있게 대답할 수 있는 사람은 없지 않을까 생각합니다. 자신의 옳은 행실에 그렇게까지 자신감을 가질 수 없기 때문입니디. 19장 8절에 쓰여있는 「성도들의 옳은 행실」이란 요한계시록14장 12절에서 말하는 믿음생활에 수반되는 인내를 가리키는 것일지도 모릅니다.

성도들의 인내가 여기 있나니 그들은 하나님의 계명과 예수에 대한 믿음을 지키는 자니라

우리들 그리스도인들은 예수님을 위해 믿음생활을 계속할 때 반드시 인내해야 할 상황에 직면합니다. 요한이 살았던 당시에도 로마에 의한 심한 박해가 있었씁니다. 그런 가운데 하나님의 계명을 지키며 예수님에 대한 믿음을 계속 지키려 한다면 거기에는 반드시 인내가 필요한 것입니다. 그러나 이 싸움은 우리 힘으로 싸우는 것이 아니라 예수 그리스도의 깃발 아래 승리가 보장되어 있고 성령의 도움을 받으며 수행하는 싸움이며, 이 싸움은 궁극적으로 「여호와의 싸움」이라고 할 수 있습니다. 예수 그리스도는 이미 부활을 통해 죄와 죽음의 권세에 승리하셨기 때문입니다. 그러므로 「세마포 옷」을 입는다는 것은 우리의 옳은 행실에 의해, 우리의 인내에 의해, 의로 여겨지며 그리스도의 신부가 될 수 있다는 뜻이 아니며 그것은 내 힘으로 얻는 것이 아니라 어디까지나 허락되어지는 것, 성경에 쓰여 있듯이 하나님께서 입혀주시는 것입니다. 에베소서 2장 8-10절에는 다음과 같은 말씀이 있습니다. 읽어보시겠습니다.

8 너희는 그 은혜에 의하여 믿음으로 말미암아 구원을 받았으니 이것은 너희에게서 난 것이 아니요 하나님의 선물이라

9 행위에서 난 것이 아니니 이는 누구든지 자랑하지 못하게 함이라

10 우리는 그가 만드신 바라 그리스도 예수 안에서 선한 일을 위하여 지으심을 받은 자니 이 일은 하나님이 전에 예비하사 우리로 그 가운데서 행하게 하려 하심이니라

여기에는 구원이 행위에서 난 것이 아니기 때문에 누구도 자랑할 것이 없다고 단언하고 있지만 그 직후에 우리는 선한 일을 하기 위해 그리스도 예수 안에서 지으심을 받았다고 쓰여져 있습니다. 그리고 그 선한 일조차 사실 하나님에 의해 미리 준비되어 있다는 것입니다. 우리가 날마다 선한 일을 하나님께 올려드릴 수 있는 것은, 우리가 날마다 인내심을 가지고 신앙을 지킬 수 있는 것은 사실 하나님의 은혜에 의한 것입니다. 그리고 이윽고 하늘에 쌓인 옳은 행실들이 그리고 믿음을 지켜낸 인내심이 신부를 장식하는 빛나는「세마포 옷」이 되는 것입니다.

결론

우리들의 믿음생활의 걸음은 혼인의 날을 기다리는 신부와 같습니다. 옳은 행실의 웨딩드레스를 기대하고 설레임을 가지고 준비하는 것입니다. 이 어린 양의 혼인 잔치에 청함을 받은 자는 얼마나 복된 자입니까? 19장 9절의 「천사가 내게 말하기를 기록하라 어린 양의 혼인 잔치에 청함을 받은 자들은 복이 있도다」「이것은 하나님의 참되신 말씀이라」라는 천사의 말에 그 복된 무게감이 전율할 정도로 전해집니다. 우리들은 지상에서 이 어린 양의 혼인 잔치를 성찬식을 통해 미리 맛보고 있는데 이윽고 그리스도가 재림 하실 때 그리스도의 신부인 우리 교회를 마중 나와 주시는 것입니다. 그때가 언제가 될지 모르지만 그때 예수 그리스도의 부활에 의해 초래되는 하나님 나라의 통치를 우리는 눈에 보이는 형태로 확실히 알 수 있는 것입니다.

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