2023年04月02日「わたしを強めてくださる方 내게 능력 주시는 자」

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わたしを強めてくださる方 내게 능력 주시는 자

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
フィリピの信徒への手紙 4章10節~14節

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聖句のアイコン聖書の言葉

4:10さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。
4:11物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。
4:12貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。
4:13わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。
4:14それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
フィリピの信徒への手紙 4章10節~14節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 本日の10節からは、手紙の結びの部分になります。パウロは手紙を締めくくるにあたり、フィリピの人々が贈り物によって助けてくれたことを感謝しています。しかし、そのことをあまりにも強調しますと、パウロが、お金に頼っているように誤解されるかもしれません。また、これまで窮乏の中に置かれていた時は、実は不満足だったのかという風に誤解されるかもしれません。そのため、少し但し書きを入れながら、キリスト者の「満足」について語っています。本日は、このキリスト者の「満足」についてフィリピ書の御言葉から、恵みに与っていきたいと思います。最初に11節に書かれている「満足することを習い覚えた」という表現ですが、この個所のギリシア語を見ると大変奇妙な言葉が使われています。最初に「満足する」という言葉ですが、「自己充足する」、「保護を必要とせず、充足すること」という意味です。この言葉は、当時の哲学思想であった、ストア派と呼ばれる禁欲主義の人々がしばしば用いた言葉でありました。物欲に苛まれて、これも欲しい、あれも欲しいというような欲望から解放され、何も持たずとも、自分の中に全て必要な物は備えられており、それを悟ることによって心が満たされるという意味です。それから「習い覚えた」という言葉も奇妙な言葉です。これは学ぶ、覚えるという意味もありますが、ここでは「入門する」、或いは「入信儀式を行う」という表現で、用いられています。パウロは、キリスト教を止めて、ストア派に鞍替えでもしたのでしょうか。そして、自己充足する境地に至ったということなのでしょうか。大変不思議な感じを私たち読者に与えるのです。

【1】.フィリピ教会の香ばしい香り

 パウロはエパフロディトを通して受け取った贈り物を素直に喜びました。4:10節をご覧ください。

“さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。”

パウロの喜びの大きさは「ついにまた表してくれた」という言葉に現れていると思います。この個所を、直訳するなら「芽生えさせた」という意味になります。植物が冬の間、死んでいたかのように見えても、春になると大地から芽吹いて来ますね。ちょうど、今は桜が満開に咲いていますが、フィリピ教会からの贈り物は、長い冬の期間を経て、春になり、桜の花が芽吹くように、パウロに喜びと感動をもたらしたということです。しばらくの間、滞っていたように思えたフィリピの教会からの贈り物が、再びパウロにもたらされたということを喜んでいるのです。なぜ、しばらく滞っていたのか、その詳しい事情は分かりませんが、10節の後半を見ると「今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう」と言いながら、パウロはフィリピ教会のその思いだけでも汲み取っています。もしかしたら、フィリピの教会が、ことのほか貧しかったという事だったのかもしれません(2コリント8:1-4)。とにかく、どのような事情があったにせよ、今再び、フィリピの教会からの愛が芽吹くように、エパフロディトを通して贈り物がもたらされたのです。そのことをパウロは非常に喜んでいるのです。

【2】.自己充足の秘訣

 さて、パウロの喜びについてですが、この喜びは、フィリピ教会からの贈り物が監獄に繋がれている自分自身の生活を、少し楽にしてくれたからということを喜んでいるのでしょうか。どうやらそうではないようです。続いて11~12節をご覧ください。

“物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。”

11節から挿入の言葉が入っています。フィリピの兄弟姉妹に誤解を招かないようにです。パウロの喜びとは、自分の欲が満たされたために言っているのではありませんでした。後を見れば分かりますが、フィリピの兄弟姉妹の贈り物が、実は、それがそのまま、神へ献げられた香ばしい香りであり、神への礼拝であったという理由から、パウロは喜んでいるのです。さらに言えば、フィリピの兄弟姉妹がパウロの苦しみを共に担ってくれたことが、どれほど神の国において重要な意味があるのか、そのことを思って喜んでいるのです。

パウロ自身の立場から言えば、屁理屈に聞こえるかもしれませんが、フィリピからの贈り物が、届いても届かなくとも、外部の環境に左右されず「満足すること」「自己充足すること」を学んでいたのであります。12節では、パウロは二種類の状態について言及しています。

もし、貧しさの中にあるなら、もし、空腹であり、物が不足している状況に置かれたなら、私たちは不平不満で心がいっぱいになり、自分より豊かな人の生活を見ては、その人を妬んだり、つぶやいたりするのを想像できるのではないでしょうか。「神様は不公平だ。」「神様は私の祈りに耳を傾けておられないのではないか」と考えてしまうと思います。自分の惨めさの中で、心配事やイライラが絶えないのではないと思います。反対に、もし、豊かさの中にあるなら、もし、常に満腹していて、物が有り余っている状況に置かれたならどうでしょうか。私たちは、たちまち信仰そのものの危機に陥ることでしょう。なぜなら、人は普通、大変な時にこそ、危機的状況の時にこそ、神様を思い浮かべるものだからです。すべてが豊かで順調な時、神様をすぐ忘れてしまうのです。この世を見ると、お金や富に絶対的な価値を置き、「神様になど依り頼まなくても大丈夫」「神などいない」と豪語している人はたくさんいます。パウロは自分が、このような二種類の状況に置かれても、「満足すること」「自己充足すること」ができると、まるで禁欲主義のストア派にでも回心したような言い回しをしているのです。しかし、ストア派と異なる点が、次の13節に付け加えられています。13節をご覧ください。

“わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。”

パウロは、12節を受けて、いついかなる時でも満足すること、自己充足することのできる秘訣が、「わたしを強めてくださる方」にあると言うのです。その秘訣とは、その秘密とは、イエス・キリストであり、キリストの十字架と復活であると言っているのです。この点こそ禁欲主義のストア派と決定的に違う点だと言うことができるのです。ストア派の言う自己充足の秘訣とは、自分の内面の資質であったり、或いは、自分自身に宿っていて、そして万物に宿っている神の内在的な力、この力が秘訣であると主張します。ところが、パウロの場合、自己充足の秘訣は、自分の内面に宿る汎神論的な神によるのではない、それは、十字架に架けられ、三日後に復活した、イエス・キリストによるのだと言っているのです。コロサイ書1:26~27をご覧ください。

“世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。”

コロサイ書に書かれている「秘められた計画」というのは、キリストの十字架と復活のことを指しています。パウロに言わせるなら、神の秘密とは、秘められた計画とは、まさにキリストの十字架と復活なのです。このイエス・キリストに結ばれているため、もはや外部の状況や環境に左右されることはないと断言できるのです。イエス様の十字架と復活によって、私たちはすでに神の養子として迎え入れられ、絶対的な身分を与えられました。イエス様の十字架と復活によって、私たちはすでに義とされ、聖とされ、永遠の命を持つ者とされました。そのために、「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」とパウロは告白しているのです。そして、主にある私たちも、パウロと同じように、「私の喜びは、私の幸いは、外部の状況や環境に決して左右されることはない」と告白することができるのです。

【3】.福音のために、すべてのことを耐え忍ぶことができる

 ところで、13節の「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」という御言葉は、「今すぐにでも、自分がこの牢獄から釈放されることができる」「今、まさに超越的な力が働いて救いに至らせる」という意味で、語っているのでしょうか。そうではありません。時々、文脈を無視して、この個所だけを切り取って、肯定的思考(ポジティブシンキング)の重要性が語られたり致します。「もしあなたが肯定的な考えを持つなら、その考えの通りになる!」「夢を持ちなさい、夢は叶う!」という教えです。或いは、「何であれ、もしあなたが、熱心に祈るなら、全てのことが可能となるでしょう!」という教えです。これらの教えは大変魅力的ですが、パウロはそのようなことを言っているのではありません。先週、「主にあってしっかり立ちなさい」という主題でメッセージをさせていただきましたが、パウロの「わたしにはすべてが可能です」という言葉は、「福音のために、私がすべてのことを耐えられる」、「神の栄光と神の国のために、主にあって、しっかり立つことができる」という意味だと思います。わたしたちキリスト者は、今はまだ、聖化の途上に置かれており、再生されたその完全な姿を実際に目にすることはできません。しかし、もう既に、私たちの復活の命は、キリストの中に息づいているのです。もう既に、神の養子として天に迎え入れられ、義とされ、聖とされ、キリストと共に神の右の座に着座させられているのです。ですから、たとえ、人生の中でどのような試練や困難の中に置かれても、神様の摂理に目が開かれ、イエス・キリストを証しし、イエス様のために生きようとする力が与えられるのです。ある時には、自分の死に対しても、向き合う勇気が与えられるのです。いついかなる時でも、主にあってしっかり立つことができるようにされるのです。

ニューヨーク州立大学病院のリハビリテーションセンターの壁に記されている『苦難にある者たちの告白, A CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED』という詩をご紹介させていただきます。この詩は、苦難の中にある信仰者の告白として、私たちに迫って参ります。自分がリハビリを受けなければならないという人生の厳しい境遇に置かれても、神様の摂理の御手の中で、自分は守られているという信仰告白です。抜粋のプリントご覧ください。

【大きな事を成し遂げようと力を与えてほしいと神に求めたのに、慎み深く、従順であるようにと弱さを授かった。/より偉大なことができるように健康を求めたのに、より良きことができるようにと病弱を与えられた。/幸せになろうとして富を求めたのに、賢明であるようにと貧困を授かった。/世の人々の賞賛を得ようとして、権力を求めたのに、神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。/人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、あらゆることを喜べるように命を授かった。/求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた/神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。/私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。】

私たちのこの世における人生の意味は、私たちが最終的にイエス様のもとへ引き上げられ、主の御前に立つときまでは完全には明らかにされないでしょう。しかし、この詩に書かれているように、神の御前に立つ時に、初めて私たちの疑問が「イエス・キリストの十字架と復活」というキーワードによって解き明かされるのです。御前に立つ時、弱さを授かったことの意味を、病弱を与えられたことの意味を知ることになるでしょう。そして、神に献げた願いが、全て神の善しとする御心の中で聞き届けられたということを知ることになるでしょう。ジグソーパズルの最後のピースがはめられて、初めてその絵の全貌を見ることができるように、その時、私たちの祝福された人生の、真の意味を悟るようになるのです。やがての日に、私たちは、主の御前に立ち、私たちが試練や困難の中でも、主にあってしっかり立つ者として認められ、御前に歩んできた主にある営みこそが、私たちを着飾る栄光の衣となり、婚宴のために準備する聖別された花嫁の衣装となっていることに気づかされるのであります。

【結論】

 私たちは、主の御手の中で守られています。私を強めてくださる方のお蔭によって、福音のために、すべてのことを耐え忍ぶことができるのであります。私たちの日々の営みは、それは慈しみ深い神を知り、私たちの犯した全ての罪の赦しを確信し、そして私たちのためにイエス・キリストが獲得してくださった義と聖さに希望を置きながら、そこに信頼して歩みを重ねていくことであります。その営みは、試練や困難の中にあっても、聖霊の励ましと慰めの中で、主にあってしっかり立つ営みであります。そして、その営みは、やがての日に、神の前の香ばしい香りとして、私たちを着飾る栄光の衣となり、婚宴のために聖別された花嫁が衣装を整えるためのその準備であったということに気づかされるのです。ですから、私たちは「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」と告白しつつ、神の栄光と神の国のために、主にあって、しっかり立つ者とならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

내게 능력 주시는 자

2023년 4월 2일 센겐다이 주일설교

빌립보서 4장 10-14절

10 내가 주 안에서 크게 기뻐함은 너희가 나를 생각하던 것이 이제 다시 싹이 남이니 너희가 또한 이를 위하여 생각은 하였으나 기회가 없었느니라

11 내가 궁핍하므로 말하는 것이 아니니라 어떠한 형편에든지 나는 자족하기를 배웠노니

12 나는 비천에 처할 줄도 알고 풍부에 처할 줄도 알아 모든 일 곧 배부름과 배고픔과 풍부와 궁핍에도 처할 줄 하는 일체의 비결을 배웠노라

13 내게 능력 주시는 자 안에서 내가 모든 것을 할 수 있느니라

14 그러나 너희가 내 괴로움에 함께 참여하였으니 잘하였도다

서론

오늘 살펴보는10절부터는 편지를 마무리하는 부분이됩니다. 바울은 편지를 마무리함에 있어 빌립보 사람들이 보내 준 선물로 인해 도움을 받은 것에 감사하고 있습니다. 하지만 너무 강조하면 바울이 돈에 의존하는 것처럼 오해 받을 수도 있고 또 지금까지 궁핍한 처지 였을 때는 사실은 불만족스러웠나하는 식으로 오해 받을지도 모르겠습니다. 그래서 조금 단서를 써 넣음으로 그리스도인의 「자족」에 대해서 이야기 하고 있습니다. 오늘인 이 그리스도인의 「자족」에 대해 빌립보서의 말씀에서 은혜를 얻고자 합니다. 처음에 11절에 쓰여있는 「자족하기를 배웠다」라는 표현을 봤으면 좋겠습니다. 이 부분의 그리스어를 보면 굉장히 기묘한 말이 사용되고 있습니다. 첫 번째로 「자족하다」라는 단어입니다만, 「자기충족을 하다」, 「보호를 필요로 하지 않고 충족하는 것」이라는 의미입니다. 이 말은 당시 철학사상이었던 스토아파라고 불리는 금욕주의자들이 자주 사용하던 말이었습니다. 물욕에 휘둘려서 이것도 가지고 싶다, 저것도 가지고 싶다라고 하는 욕망으로 부터 해방되어 아무것도 갖지 않아도 자신안에 모든 필요한 것이 준비되어 있고 그것을 깨달음으로써 마음이 채워진다는 의미입니다. 그리고 「배웠다」라고 하는 말도 기묘한 말입니다. 이것은 배우다, 외우다라는 의미도 있지만 여기서는 「입문하다」, 또는 「입신의식을 거행하다」라는 표현으로 쓰이고 있습니다. 바울은 그리스도교를 그만두고 스토아파로 안장을 갈아타기라도 한 것일까요. 그래서 자기 충족의 경지에 이르렀다는 것일까요. 굉장히 신기한 느낌을 우리들 독자들에게 주고 있습니다.

(1) 빌립보 교회의 향기로운 향기

바울은 에바브로디도를 통해서 받은 선물을 순순히 기뻐하며 받았습니다. 4장 10절을

봐 주세요.

10 내가 주 안에서 크게 기뻐함은 너희가 나를 생각하던 것이 이제 다시 싹이 남이니 너희가 또한 이를 위하여 생각은 하였으나 기회가 없었느니라

바울의 기쁨의 크기는 「다시 싹이 남이니라」는 단어에 나타나있다고 생각합니다. 식물이 겨울 동안 죽은 것처럼 보여도 봄이 되면 대지에서 싹트게 됩니다. 마침 지금은 벚꽃이 활짝 피었지만 빌립보 교회의 헌금은 긴 겨울 기간을 거쳐 봄이 되고 벚꽃이 싹트듯 바울에게 기쁨과 감동을 안겨줬다는 것입니다. 한동안 멈춘 것 같았던 빌립보 교회의 선물이 다시 바울에게 전해졌다는 사실을 기뻐하고 있는 것입니다. 왜 잠시 멈췄었는지는 그 자세한 사정은 모르겠지만 10절 후반을 보면 「생각은 하였으나 기회가 없었느니라」라며 바울은 빌립보 교회의 그 생각을 헤아리고 있습니다. 어쩌면 빌립보 교회가 꽤 가난했었는지도 모릅니다(고린도후서 8장 14절). 어쨌든 어떤 사정이 있었든 지금 빌립보 교회의 사랑이 다시 싹을 튼 것처럼 에바브로디도를 통해서 선물을 받게 되었습니다. 그 일을 바울은 매우 기뻐하고 있는 것입니다.

(2) 자족하는 비결

그런데 바울의 기쁨에 대해서입니다만, 이 기쁨은 빌립보 교회로 부터의 선물이 감옥에 감금되어 있는 자신의 생활을 조금 편안하게 해 주었기 때문에 기뻐하고 있는 것일까요. 아무리 봐도 그런 것 같지는 않은 것 같습니다. 계속해서 11-12절을 보시겠습니다.

11 내가 궁핍하므로 말하는 것이 아니니라 어떠한 형편에든지 나는 자족하기를 배웠노니

12 나는 비천에 처할 줄도 알고 풍부에 처할 줄도 알아 모든 일 곧 배부름과 배고픔과 풍부와 궁핍에도 처할 줄 하는 일체의 비결을 배웠노라

11절부터 빌립보 교회의 형제 자매에게 오해를 사지 않도록 삽입의 말이 들어가 있습니다. 바울의 기쁨이란 자신의 욕심이 충족되었기 때문에 하는 말이 아니었습니다. 뒤를 보면 알겠지만 빌립보 형제 자매의 선물이 사실 그대로 하나님께 바쳐진 향기로운 향기이며 하나님께 드려진 예배였다는 이유로 바울은 기뻐하고 있는 것입니다. 나아가 빌립보 형제 자매가 함께 바울의 고통을 지어 준 것이 얼마나 하나님의 나라에서 중요한 의미가 있는지 그것을 생각하고 기뻐하고 있는 것입니다.

바울 자신의 입장에서 말하자면, 강변을 하는 것 처럼 들릴지도 모르겠지만 빌립보 교회로부터의 선물이 도착하든 도착하지 않든 외부 환경에 좌우되지 않고 「자족하는 것」을 배우고 있었습니다. 12절에서는 바울은 두 가지 상태를 언급하고 있습니다.

만약 가난한 가운데 있다면, 만약 굶주리고 여러가지가 부족한 상황에 있다면, 우리들은 불평불만으로 마음이 가득차서 나보다 잘 사는 사람의 생활을 보면서 그런 사람을 질투하거나 불평불만을 하는 것을 상상할 수 있지 않을까요? “하나님은 불공평해!” “하나님은 내 기도에 귀를 기울이고 계시지 않는 것이 아닌가!”라는 생각을 하게 될 것입니다. 자신의 비참함 속에서 걱정거리나 짜증이 끊이지 않는 것은 아닌가라고 생각합니다. 반대로 만약 풍요로운 가운데 있다면, 만약 항상 배부르고 물질이 남아도는 상황에 처했다면 어떨까요? 우리는 곧 믿음 자체의 위기에 빠지게 될 것입니다. 왜냐하면 사람은 보통 힘들 때일수록, 위기 상황일 때일수록 하나님을 떠올리기 마련이기 때문입니다. 모든 것이 풍요롭고 순조로울 때 하나님을 금방 잊어버리는 것입니다. 이 세상을 보면 돈이나 부에 절대적인 가치를 두고 “하나님께 부탁하지 않아도 괜찮다!” “하나님은 없다!”라고 호언하는 사람은 많이 있습니다. 바울은 자신이 이런 두 가지 상황에 놓여도 「자족할 수 있다」고 마치 금욕주의의 스토아파에라도 회심한 듯한 표현을 하고 있는 것입니다. 그러나 스토아파와 다른 점이 다음 13절에 덧붙여져 있습니다. 13절을 보세요.

13 내게 능력 주시는 자 안에서 내가 모든 것을 할 수 있느니라

바울은 12절에서 언제 어느 때라도 자족하는 것에 대한 비결이 「내게 능력 주시는 자」에게 있다고 말합니다. 그 비결은, 그 비밀은 예수 그리스도요 그리스도의 십자가와 부활이라고 말하는 것입니다. 이 점이야 말로 금욕주의 스토아파와 결정적으로 다른 점이라고 할 수 있습니다. 스토아파가 말하는 자기 충족의 비결이라는 것은 자기 내면의 자질이거나 아니면 자기 자신에 깃들어 있고 그리고 만물에 깃들어 있는 하나님의 내재적인 힘, 이 힘이 비결이라고 주장합니다. 그런데 바울의 경우 자족의 비결은 자기 내면에 깃든 범신론적 신에 의한 것이 아니라 그것은 십자가에 걸리고 삼일후에 부활하신 예수 그리스도에 의한 것이라고 말하고 있는 것입니다. 골로새서 1장 26,27절을 참조하세요.

26 이 비밀은 만세와 만대로부터 감추어졌던 것인데 이제는 그의 성도들에게 나타났고

27 하나님이 그들로 하여금 이 비밀의 영광이 이방인 가운데 얼마나 풍성한지를 알게 하려 하심이라 이 비밀은 너희 안에 계신 그리스도시니 곧 영광의 소망이니라

골로새서에 적혀있는 「감추어졌던 것」이라고 하는 것은, 그리스도의 십자가와 부활을 가르킵니다. 바울이 말하길, 하나님의 비밀이란, 감추어진 것이란 바로 그리스도의 십자가와 부활입니다. 이 예수 그리스도와 연결되어 있기 때문에 더 이상 외부의 상황이나 환경에 좌우되지 않을 것이라고 단언 할 수 있는 것입니다. 예수님의 십자가와 부활로 인해 우리는 이미 하나님의 양자로 맞아들여졌고 절대적인 신분을 부여받았습니다. 예수님의 십자가와 부활로 인해 우리는 이미 의롭고 거룩하며 영원한 생명을 가진 자로 여겨졌습니다. 그렇기 때문에 「내게 능력주시는 자 안에서 내가 모든 것을 할 수 있느니라」라고 바울은 고백 하고 있는 것입니다. 그리고 주 안에 있는 우리들도 바울과 마찬가지로 “나의 기쁨은 나의 행복은 외부의 상황이나 환경에 결코 좌우되지 않는다”라고 고백할 수 있는 것입니다.

(3) 기쁨

그런데 13절의 「내게 능력주시는 자 안에서 내가 모든 것을 할 수 있느니라」라는 말씀은 “지금 당장이라도 내가 이 감옥에서 풀려날 수 있다”, “지금 그야말로 초월적인 힘이 작용하여 구원을 받게 된다”는 뜻으로 하는 말일까요? 그렇지 않습니다. 가끔 문맥을 무시하고 이 부분만 잘라내서 긍정적인 사고의 중요성이 거론되곤 합니다. “만약 당신이 긍정적인 생각을 가진다면 그 생각대로 될 것이다!” “꿈을 가져라, 그러면 그 꿈은 이루어진다!”라는 가르침입니다. 아니면 “무엇이든, 만약 당신이 열심히 기도한다면 모든 것이 가능해질 것입니다”라는 가르침입니다. 이런 가르침들은 매우 매력적이지만 바울은 그런 말을 하고 있는 것이 아닙니다. 지난 주에 「주 안에 굳게 서라」라는 주제로 설교를 하였는데 바울의「내가 모든 것을 할 수 있느니라」라는 말은 “복음을 위해서 모든 것을 견딜 수 있다” “하나님의 영광과 하나님의 나라를 위해 주 안에 설 수가 있다”는 뜻인 것 같습니다. 우리 그리스도인들은 지금은 아직 성화에 이르는 길의 과정에 있고 성화된 그 완전한 모습을 실제로 볼 수 없습니다. 그러나 이미 우리 부활의 생명은 그리스도 안에 숨쉬고 있는 것입니다. 이미 하나님의 양자로 하늘에 받아들여졌고 의롭게 되고 거룩하게 되어 그리스도와 함께 하나님의 오른쪽 자리에 앉아있는 것입니다. 그렇기 때문에 비록 삶에서 어떤 시련이나 어려움 속에 놓이더라도 하나님의 섭리에 눈이 뜨고 예수 그리스도를 증명하며 예수님을 위해 살고자 하는 힘이 주어지는 것입니다. 어떤 때에는 자신의 죽음에 대해서도 마주할 용기가 주어집니다. 언제 어느 때든 주 안에서 굳건히 설 수 있게 되는 것입니다.

뉴욕주립대학병원 재활센터 벽에 적혀 있는 『고난을 겪는 자들의 고백』이라는 시를 소개 합니다. 이 시는 고난 속에 있는 신앙인의 고백으로서 우리에게 다가옵니다. 자신이 재활치료를 받아야 한다는 삶의 어려운 처지에 놓여도 하나님의 섭리 가운데 하나님의 손길 가운데 자신이 보호받고 있다는 신앙고백입니다.

큰 일을 이루려고 힘을 실어달라고 하나님께 청했는데 신중하라고 순종하라고 연약함을 주셨다.

보다 더 위대한 일을 할 수 있도록 건강을 구했는데 더 나은 일을 할 수 있도록 병약함을 주셨다.

행복해지려고 부를 구했는데 현명하라고 가난함을 받았다.

세상 사람들의 칭찬을 얻으려고 권력을 구했는데 하나님 앞에 무릎 꿇으라고 연약함을 받았다.

삶을 즐기려고 온갖 것들을 요구했는데 모든 것을 기뻐할 수 있게 생명을 받았다.

육적으로 구한 것은 하나도 주어지지 않았지만 원함은 하나님의 뜻 가운데서 모두 들어주셨다.

하나님의 뜻에 부합되지 않는 사람임에도 불구하고 마음 가운데 있는 것을 바르게 구하지 못함에도 불구하고 하나님의 뜻 가운데서 다 들어주셨다.

나는 누구보다도 축복받은 사람이다.

우리의 이 세상에서의 삶의 의미는 우리가 결국 예수님께로 들어 올림을 받고 주님 앞에 설 때까지는 완전히 밝혀지지 않을 것입니다. 그러나 이 시에 쓰여 있듯이 하나님 앞에 설 때 비로소 우리의 의문이 「예수 그리스도의 십자가와 부활」이라는 키워드로 풀어지는 것입니다. 하나님 앞에 설 때 약함을 받은 것의 의미를, 병약을 받은 것의 의미를 알게 될 것입니다. 그리고 하나님께 간구한 소원을 모두 하나님의 선한 섭리에 의해 들어 주셨다는 것을 알게 되겠지요. 퍼즐의 마지막 조각이 맞춰지고 나서야 처음으로 그 그림의 전모를 볼 수 있는 것처럼 그때 우리들의 축복받았던 인생의 참된 의미를 깨닫게 되는 것입니다. 그 날에 우리들은 하나님 앞에 서서 우리들이 시련과 어려움 속에서도 주 안에 굳게 서 있는 자로 인정받고 하나님 앞에서 걸어온 주 안에서의 삶의 행보가 우리들을 치장하는 영광의 옷이 되고 혼인잔치를 준비하는 거룩한 신부의 의상이 되어 있음을 깨닫게 됩니다.

결론

우리는 주님의 손 안에서 지켜지고 있습니다. 내게 능력주시는 자 덕분에 복음을 위해 모든 것을 견뎌낼 수 있습니다. 우리들의 매일의 삶의 행보는 인자하신 하나님을 알고, 우리가 지은 모든 죄의 용서를 확신하며, 그리고 우리를 위해 예수 그리스도께서 획득해 주신 의로움과 거룩함에 희망을 두고 신뢰하면서 계속해서 인생의 발걸음을 옮기는 것입니다. 그 발걸음은 시련이나 어려움 속에서도 성령의 격려와 위로 속에서 주 안에서 굳건히 서는 것입니다. 그리고 그러한 삶의 태도는 이윽고 하나님 앞에서의 향기로운 향기로 우리를 장식하는 영광의 옷이 되고, 혼인잔치를 위해 거룩하게 된 신부가 의상을 갖춰입기 위한 준비였다는 것을 깨닫게 됩니다. 그러므로 우리는 「내게 능력주시는 자 안에서 내가 모든 것을 할 수 있느니라」라고 고백하면서 하나님의 영광과 하나님의 나라를 위해 주 안에서 굳건히 서는 자가 되도록 합시다.

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