2023年03月19日「我々の国籍は天にあり 하늘에 있는 우리의 시민권」

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我々の国籍は天にあり 하늘에 있는 우리의 시민권

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
フィリピの信徒への手紙 3章16節~21節

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聖句のアイコン聖書の言葉

3:16いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。
3:17兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。
3:18何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。
3:19彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。
3:20しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
3:21キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
フィリピの信徒への手紙 3章16節~21節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 神の国の住民であるキリスト者の営みと、この世の人々の営みは歴史の中で同時進行しています。神の国とはキリストが治める国であり、この世とは罪と死の権勢が治める国であります。この二つの国は互いに交わってはいるものの、その国の統治形態と、秩序と、目的において根本から異なっているために、二つの国は、決して互いに完全に理解されることも、完全に同化されることもありません。神の民、キリスト者の国籍は天にあり、その市民権は天にあるので、この世におけるキリスト者の営みは、移民や、寄留者のようであります。それは旧約時代においても同様でありました。神の民イスラエルは、異邦人社会の中から、神様によって取り分けられていたのです。ですからイスラエルと異邦人社会は、交わりを持ちつつも、決して同化されることはなく、並行しながら、同時進行していったのであります。神の国はたとえ小さく、弱い民であっても、滅びるものではなく、神の子として、神様がその営みを責任持って守り導かれます。本日は、キリスト者の営みと、この世の営みに焦点をあてながら、フィリピ書の御言葉に耳を傾けていきたいと思います。

【1】. 教会の使徒性

 3:16-18節をご覧ください。

“いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。”

パウロは、「私に倣いなさい」と言っています。自分に倣うようにと言うことができる人はあまりいないのではないでしょうか。特に日本においては、謙遜が美徳とされていますから、なおさらであります。現代の私たちが、このような言葉をもし聞くなら違和感を覚え、彼は何か怪しいのではないか、彼はもしかしたら詐欺師ではないかと思うかもしれませんが、当時の徒弟関係において、ラビと弟子たちの間では、「私に倣いなさい」という勧めは、当たり前のように聞かれました。むしろその言葉によってフィリピの兄弟姉は、パウロ先生の愛を感じたのかもしれません。

16節の「到達したところに基づいて進むべきです」という箇所は、少し解釈の難しいところです。「進むべき」という言葉は軍事用語であり、足並みをそろえて行進するという意味です。ですからここの意味は、「与えられた啓示に基づいて行進すべきだ」という意味だと思われます。私たちの時代にはすでに新約聖書が確定されていますが、パウロの時代というのは、ちょうど使徒たちに啓示が与えられ、新約聖書が少しずつ形成されつつある時期でした。従って、使徒たちの言葉や使徒たちの手紙が、まさに、新約聖書の役割を果たしていたのです。「足並みをそろえる」という時、その基準となるものが、旧約聖書もそうですが、使徒たち自身に与えられた、上からの啓示であったと考えられるのです。ですから16節の箇所を一言で言えば、「皆が福音を自分の都合のいいように、勝手に創作するのではなく、使徒の権威に従順になり、皆足並みをそろえて、私に倣う者となりなさい。」ということだと思います。イエス様が天に昇った後、以前イエス様と共に暮らした使徒たちと、そしてパウロだけが、主イエスの福音を正しく伝えることが出来たのです。現代の教会が宣べ伝えている福音も、私が今講壇から語っている説教も、聖書の言葉でありますが、元をたどるなら、この「使徒たちの教え」なのであります。私たち教会は使徒の土台の上に建て上げられているのです。

【2】. 世の人々を恐れるよこしまな働き手

 さて、今、パウロは「よこしまな働き手」であるユダヤ主義者たちに惑わされず、私に倣いなさいと涙ながらに訴えているのですが、その理由は、「よこしまな働き手たち」の教える内容が、十字架の苦難を避けるようにそそのかし、キリストの苦難に与ることを拒否させるからです。フィリピの教会はこれまでパウロの苦しみを共に担って来ました。福音のために、イエス様のために良く走って来ました。それを台無しにするような偽りの教えが「よこしまな働き手たち」によって拡散されていたのです。ここで私たちは、一つの疑問にぶち当たります。それは、ここに出て来る放縦的な歩みをしている、よこしまな働き手とは一体だれなのかと言うことです。3:19節をご覧ください。

“彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。”

「腹を神とし」とありますが、ここの翻訳は新改訳聖書を見ると、「欲望を神とし」となっています。つまり、「腹」とは、欲望とか貪欲のことを指しています。「恥ずべきものを誇りとする」とは、道徳が退廃していく中で価値観が転倒するということですね。黒を白と言い、白を黒ということです。例えば、性的な乱れや、肉欲をそそるようなものが、かえって芸術として受け入れられてそれを誇ったり、或いは、「自分ファースト」、「自国ファースト」という言葉が、かえってキャッチコピーとして正当化されるようなことだと思います。そのような放縦的な教えをしていた「よこしまな働き手」とは誰なのか?パウロは手紙の前半で、割礼を勧めるユダヤ主義者たちを批判していましたが、ユダヤ主義者たちが律法に対してそのような放縦的な考えを持っていたということなのでしょうか。いやいや、ちょっと待ってください。ユダヤ主義者とは、律法を守ろうとする人々ですから、律法を軽んじ、道徳を退廃させ、放縦的だったというのはおかしくないでしょうか?むしろ、また別の群れがあり、そのような勝手気ままな教えをしていたということではないのか?注解書を見ても、その点については、意見が真っ二つに分かれていました。私は最初、二種類の異なる人々がいるのかなと思っていましたが、今は割礼を勧めるユダヤ主義者たちが、放縦的な考えを持っていたという考えに変わって来ました。ガラテヤ書に、次のような御言葉があるからです。ガラテヤ6:12-13をご覧ください。ガラテヤ書は、一貫してユダヤ主義者たちのことを批判しています。

“肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。”

ここには、割礼を勧める人たちについて書かれています。彼らが割礼にこだわる理由とは、「迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようと」しているということです。初代教会は、早い時期からユダヤ人による迫害に晒されていました。しかし、もし割礼を受けさせることにより、「異邦人をユダヤ教に改宗させた」とユダヤ当局に報告できるなら、彼らを喜ばすことが出来たに違いありません。つまり割礼を受けさせることが、自分たちが迫害を免れる方便であったのです。彼らは、ただ、ユダヤ当局を恐れ、ただ、人々から良く思われようとして、割礼を受けさせようとしたということが分かって来ます。ユダヤ主義者こそ、この世のことしか考えておらず、放縦的教えを広めていた張本人であったと結論づけることができるのです。ローマ書の8:5には次のような御言葉があります。

“肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。”

パウロは、この世のことしか考えていない、ユダヤ主義者たちに対し「犬ども」とか「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」という辛辣な言葉を使っています。ここから私たちが適用できることは、この世の人々が教会に対して、「なぜ私たちと同じようにしないのか」というような同調圧力をかけてくる時に、私たち教会は気を付けなければならないということです。「なぜ教会は私たちと同じようにしないのか?」この言葉に捕らわれてしまうと、結局、世の人々を恐れ、人々から良く思われることに腐心し、神の御心が分からなくなってしまうからです。戦時中、内村鑑三は天皇直々の教育勅語を前に、最敬礼をせず、教員の職を追われてしまいました。所謂、「不敬事件」であります。この事件は象徴的な事件として、宗教の自由や、当時の天皇制の在り方について、問題を投げかけてくれたと思います。世の人々が「なぜ私たちと同じようにしないのか」と迫って来ても、私たちは内村鑑三のように迫害を恐れず、天に国籍を持つものとして正しく行動しなければならないのです。

【3】. 復活の信仰

 パウロは、「我々の市民権はこの世にではなく、天にある」と主張し、フィリピの兄弟姉妹の思いを天に向けさせています。3:20-21節をご覧ください。

“しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。”

私たちの信仰とは、体の復活の信仰であります。この世の人々は、その信仰をあざ笑うかもしれません。天に着座されたイエス・キリストが、再び再臨される時、私たちの体は復活し、栄光の体をまとわせられることによって、救いが完成するのです。私たちの体は、病に冒され、罪を犯し、朽ちるべき、卑しい体でありますが、キリスト再臨の時、栄光の体をまとわされるのです。その時、死の力は完全に屈服させられます。その信仰にフィリピの兄弟姉妹が堅く立つように、パウロは語っているのです。「救いは天から来る、そうであるなら、私たちは、この世の価値観ではなく、天の価値観によって生きて行くべきだ!天に国籍があることを自覚し、この世においては移民であること、寄留者であることを認めながら生きて行くべきだ!」と。正直に申しますと、私も、日々地上のことばかり目が留まってしまいます。はっと気がついた時には、生活のこと、今後のことで、あれこれと思い悩んだり、他人を羨望の目で見てしまうことがあります。しかし、パウロの言葉にとても励まされました。パウロが言うには、キリスト者は、この世でボロをまとった王子である。ボロをまとった王子はこの世で卑しく低められているけれど、必ず本来の場所に回復されるだろう、ということだと思うのです。21節の言葉に注目してください。「同じ形に:シュモルフォス」という言葉がございます。私たちは同じ形にされると書かれています。ここが大変重要なポイントです。この言葉は、実は3:10にも出て来ました。

“わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、”

3:10に「死の姿にあやかりながら」とありますが、この「~の姿にあやかる」という言葉が、シュモルフォス(同じ形に)という言葉です。つまり、パウロは10節に呼応させるように21節において再び、「同じ形に(シュモルフォス)」という言葉を使っているのです。イエス・キリストは肉を取られ、飼い葉おけの中にお生まれになり、低められ、卑しめられ、十字架の死にまで従順になられました。しかし神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになったのです。これが私たちに示された模範です。私たちはこの道に従って行くのです。この世において、まるで、ボロをまとい、私たちの体も病に冒され、罪を犯し、朽ちるべき、卑しい体でありますが、これはキリストの十字架の死と同じ形にされているということです。この世においてキリスト者は、周りの人々と避けることのできない軋轢や摩擦を経験することになるでしょう。キリスト者であるゆえに、理不尽な取扱いを受けることもあるかもしれません。何らかの形で、この世から迫害され、移民のように、寄留者のように歩んでいるのですが、それはキリストと同じ形になって、キリストの苦しみにあずかっていることなのです。しかし、イエス様が救い主として来られる時、万物を創造し、それを治めておられる力によって、キリストの栄光の姿と同じ形にされるのであります。そうであるなら、今の苦しみは、どれほど大きな喜びでしょうか。やがて受けることになる誉れを考えるなら、今の困難や試練がどれほど光栄なことなのかと、パウロは励ましているのです。

【結論】

 私たち教会は、この地上の営みにおいて、国籍が天にあることを覚えるようにいたしましょう。国籍が天にあるということは、同時に、この世において私たちは寄留者のように移民のように肩身の狭い思いで過ごすことをも意味しますが、それは神様の御心であり、神様の喜ばれることなのです。私たちが、この世の価値観やこの世の人々の目を畏れるのではなく、救いを完成させてくださる神様を畏れて生きる時に、神様は喜ばれ、そのような教会の営みを通して、福音がこの世に告げ知らされるのです。神の国とこの世は、歴史の中で、同時進行して来ました。この世は教会を決して理解することは出来ず、従ってこの世は、神の国を迫害することになりますが、神の国の存在そのものが、教会の営みそれ自体が、世に対する福音宣教なのであります。教会はたとえ小さく、弱い民であっても、滅びるものではなく、神の子として、神様がその営みを、責任を持って守り導かれます。レントの時期を過ごしている私たちは、ぜひイエス・キリストの十字架に御苦しみを、もう一度深く心に黙想し、共に十字架を担っていく者たちとされたいと願っています。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

하늘에 있는 우리의 시민권

빌립보서 3장 16절-21절

16 오직 우리가 어디까지 이르렀든지 그대로 행할 것이라

17 형제들아 너희는 함께 나를 본받으라 그리고 너희가 우리를 본받은 것처럼 그와 같이 행하는 자들을 눈여겨 보라

18 내가 여러 번 너희에게 말하였거니와 이제도 눈물을 흘리며 말하노니 여러 사람들이 그리스도의 십자가의 원수로 행하느니라

19 그들의 마침은 멸망이요 그들의 신은 배요 그 영광은 그들의 부끄러움에 있고 땅의 일을 생각하는 자라

20 그러나 우리의 시민권은 하늘에 있는지라 거기로 부터 구원하는 자 곧 주 예수 그리스도를 기다리노니

21 그는 만물을 자기에게 복종하게 하실 수 있는 자의 역사로 우리의 낮은 몸을 자기 영광의 몸의 형체와 같이 변하게 하시리라

서론

하나님의 나라의 주민인 그리스도인의 삶과 이 세상 사람들의 삶은 역사 속에서 동시에 진행되고 있습니다. 하나님의 나라는 그리스도가 다스리는 나라이며 이 세상은 죄와 죽음의 권세가 다스리는 나라입니다. 이 두개의 나라는 같이 공존하고 있지만 그 나라의 통치형태와 질서와 목적에 있어서는 뿌리부터 다르기 때문에 두 나라는 결코 서로 완전히 이해할 수도 완전히 동화될 수도 없는 것입니다. 하나님의 백성, 그리스도인의 시민권은 하늘에 있기 때문에 이 세상에서 그리스도인의 삶이라고 하는 것은 이민자와 기류자(30일 이상 거주할 목적으로 본적지 이외의 일정한 장소에 주소 또는 거소를 정한 자)처럼 보입니다. 그것은 구약 시대에도 마찬가지 였습니다. 이스라엘은 이방인 사회 가운데서 하나님에 의해서 구별되었습니다. 그러므로 이스라엘과 이방사회는 같이 공존을 하면서도 결코 동화되지 않고 병행하면서 동시 진행해 갔던 것입니다. 하나님의 나라는 비록 작고 약한 백성이라도 멸망하는 것이 아니라 하나님의 자녀로서 하나님께서 그 삶을 책임지고 지켜 주시며 인도해 주십니다. 오늘은 그리스도인의 삶과 이 세계의 삶에 촛점을 맞추면서 빌립보서의 말씀에 귀를 기울여 보고 싶다고 생각합니다.

(1) 교회의 사도성

3장 16-18절을 보시기 바랍니다.

16 오직 우리가 어디까지 이르렀든지 그대로 행할 것이라

17 형제들아 너희는 함께 나를 본받으라 그리고 너희가 우리를 본받은 것처럼 그와 같이 행하는 자들을 눈여겨 보라

18 내가 여러 번 너희에게 말하였거니와 이제도 눈물을 흘리며 말하노니 여러 사람들이 그리스도의 십자가의 원수로 행하느니라

바울은 「나를 본받으라」고 말하고 있습니다. 나를 본받으라고 말 할 수 있는 사람이 과연 얼마나 있겠습니까? 특히 일본에서는 겸손이 미덕으로 여겨지고 있기 때문에 더욱더 그렇습니다. 현대에 사는 우리들이 이런 말을 듣는 다면 위화감을 느끼고, 그 사람을 수상하게 여기며 어쩌면 사기꾼이 아닐까 생각할지도 모릅니다만, 당시의 도제관계에 있어서는 랍비와 제자들 사이에서 「나를 본받으라」고 하는 권면은 당연한 것처럼 들렸습니다. 오히려 그 말로 인해서 빌립보의 형제 자매들은 바울의 사랑을 느꼈을지도 모릅니다.

16 절의 「어디까지 이르렀든지 그대로 행할 것이라」고 하는 구절은 조금 해석하기 어려운 부분입니다. 「행할 것이라」라고 하는 단어는 군사용어이며 발을 맞추어 행진한다는 의미입니다. 그렇기 때문에 이 의미는 「주어진 계시를 기준으로 해서 행해야 한다」라는 의미라고 생각합니다. 우리들의 시대에는 이미 신약성경이 완성되어 있지만 바울의 시대에는 단지 사도들에게 계시가 주어지고 신약성경이 조금씩 형성되고 있는 시기였습니다. 따라서 사도들의 말과 사도들의 편지가 바로 신약 성경의 역할을 하고 있었던 것입니다. 「발을 맞추다」라고 할 때 그 기준이 되는 것이 구약성경도 그렇습니다만 사도들 자신에게 주어진 위로부터의 계시였다고 생각됩니다. 그렇기 때문에 16절의 구절을 한 마디로 말한다면, 「여러분이 복음을 자신의 형편에 좋게 마음대로 만드는 것이 아니라 사도의 권위에 순종하고, 발을 맞추어서 나를 본받는 자가 되십시오」라는 말이라고 생각합니다. 예수님이 승천 하신 후, 이전에 예수님과 함께 생활했던 사도들과 그리고 바울 만이 주 예수의 복음을 바르게 전할 수 있었습니다. 현대 교회가 전파하고 있는 복음도 제가 지금 강단에서 말하고 있는 설교도 성경의 말씀이지만 거슬러 올라가 보면 이 「사도들의 가르침」인 것입니다. 우리들 교회는 사도의 기초위에 세워져 있습니다.

(2) 세상 사람을 두려워하는 사특한 일꾼

그런데 지금 바울은 「사특한 일꾼인 유대주의자들에게 휘둘리지 말고 나를 본받으라」고 눈물을 흘리며 호소하고 있습니다만, 그 이유는 「사특한 일꾼들」의 가르침의 내용이 십자가의 고난을 피하도록 꼬드기고 그리스도의 고난에 참여하는 것을 거부하기 때문입니다. 빌립보 교회는 지금까지 바울의 고난을 함께 지고 왔습니다. 복음을 위해, 예수님을 위해 잘 달려 왔습니다. 그것을 망치고 있는 거짓 가르침이 「사특한 일꾼들」에 의해서 확산 되고 있었던 것이었습니다. 여기서 우리들은 한가지 의문에 부딛칩니다. 그것은 여기에 나오는 방종적인 행동을 하는 사특한 일꾼은 도대체 누구인가라고 하는 것입니다. 3절 19절을 보십시오.

19 그들의 마침은 멸망이요 그들의 신은 배요 그 영광은 그들의 부끄러움에 있고 땅의 일을 생각하는 자라

「신은 배요」라고 쓰여 있습니다만 이 번역은 신개역성경을 보면「욕망을 하나님으로 하고」 라고 되어 있습니다. 즉, 「배」는 욕망이나 탐욕을 가리키고 있습니다. 「마땅히 부끄러워 해야 할 것을 자랑한다」란 것은 도덕이 퇴폐 해 가는 가운데 가치관이 뒤집어지는 것입니다. 검정을 흰색이라고 하고, 흰색을 검정이라고 합니다. 예를 들어 성적인 혼란이나 육의 욕심을 부추기는 것이 오히려 예술로 받아들여져서 그것을 자랑하거나 혹은 「자신 제일 주의」 「자국 제일주의」 라는 말이 오히려 캐치프레이즈로 포장되어 정당화 되는 것과 같은 것이라고 생각합니다. 그러한 방종적인 가르침으로 꼬드기는 「사특한 일꾼」은 누구입니까? 바울은 편지의 전반부에서 할례를 권하는 유대주의자들을 비판했습니다만, 유대주의자들이 율법에 대해 그런 방종적인 생각을 가지고 있었다는 것일까요? 아니요, 잠시만 기다려주십시요. 유대주의자란 율법을 지키려고 하는 사람들이기 때문에 율법을 가볍게 하고 도덕을 퇴폐시켜 방종적으로 가르켰다는 것은 이상하지 않습니까? 오히려 또 다른 무리들이 있어 그러한 자기들이 창작한 복음을 가르치고 있었다는 것은 아닌가요? 주해서를 봐도 그 점에 대해서는 의견이 완전히 두개로 나누어져 있습니다. 저는 처음에는 두 종류의 다른 사람들이 있었는지 궁금했지만 지금은 할례를 권유하는 유대주의자들이 방종적인 생각을 가지고 있었다는 생각으로 바뀌었습니다. 갈라디아서에 다음과 같은 말씀이 있기 때문입니다. 갈라디아서 6장 12,13절을 참조하시기 바랍니다. 갈라디아서는 일관되게 유대주의자들을 비판합니다.

12 무릇 육체의 모양을 내려 하는 자들이 억지로 너희에게 할례를 받게 함은 그들이 그리스도의 십자가로 말미암아 박해를 면하려 함뿐이라

13 할례를 받은 그들이라도 스스로 율법은 지키지 아니하고 너희에게 할례를 받게 하려 하는 것은 그들이 너희 육체로 자랑하려 함이라

여기에는 할례를 권하는 사람들에 대해 적혀 있습니다. 그들이 할례를 고집하는 이유는 「박해받고 싶지 않을 뿐 아니라 그 이유로 여러분들에게 무리하게 할례를 받게 하려고 한다」는 것입니다. 초대교회는 일찍부터 유대인의 박해에 노출되어 있었습니다. 그러나 할례를 받게 함으로써 「이방인을 유대교로 개종시켰다」고 유대 당국에 보고할 수 있다면 그들을 기뻐하게 할 수 있었을 겁니다. 즉 할례를 받게 하는 것이 자신들이 박해를 면할 수 있는 방편이었던 것입니다. 그들은 단지 유대 당국을 두려워하고 단지 사람들에게 잘 보이려고 할례를 받게 하려 했다는 것을 알 수 있습니다. 유대주의자들 이야말로 이 세상 밖에는 생각하지 않고 방종적 가르침을 퍼뜨리고 있었던 장본인 이었다고 결론을 내릴 수 있는 것입니다. 로마서 8장 5절에는 다음과 같은 말씀이 있습니다.

5 육신을 따르는 자는 육신의 일을, 영을 따르는 자는 영의 일을 생각하나니

바울은 이 세상만을 생각하고 있는 유대주의자들에게 「개들」이라든가 「그리스도의 십자가의 원수」라는 신랄한 단어를 사용하고 있습니다. 여기에서 우리가 적용할 수 있는 것은 이 세상 사람들이 교회에 대해 「왜 우리와 같이 하지 않는가?」라는 자신들과 동조하라는 압력을 가해 올 때 우리 교회는 조심해야 한다라는 것입니다. 「왜 교회는 우리들과 같이 하지 않는가? 」라는 말에 잡혀 버리면 결국 세상 사람들을 두려워하고 사람들한테 좋게 보이려는 육의 생각 때문에 하나님의 뜻을 알 수 없게 되어버리는 것입니다.

전쟁중, 우치무라 간조는 천왕 직의 교육칙어(1890년 일본의 천황제를 국가체제에 입각한 군국주의 교육 방침을 공표한 칙어)를 앞두고 최고의 예를 갖추지 않았기에 교직원 자리에서 쫓겨났습니다. 소위 「불경사건」입니다. 이 사건은 상징적인 사건으로서 종교의 자유와 당시의 천황제의 존재 방식에 대해 문제를 던져 주었다고 생각합니다. 세상의 사람들이 「왜 우리와 같이 하지 않는가?」라고 다가 와도 우리들은 우치무라 간조처럼 박해를 두려워하지 말고 하늘에 시민권을 가진 사람으로서 옳바르게 행동하지 않으면 안됩니다.

(3) 부활의 신앙

바울은 「우리의 시민권은 하늘에 있는지라」라고 주장하고 빌립보의 형제 자매의 생각을 하늘로 향하게 하고 있습니다. 3장 20,21절을 보십시오.

20 그러나 우리의 시민권은 하늘에 있는지라 거기로 부터 구원하는 자 곧 주 예수 그리스도를 기다리노니

21 그는 만물을 자기에게 복종하게 하실 수 있는 자의 역사로 우리의 낮은 몸을 자기 영광의 몸의 형체와 같이 변하게 하시리라

우리들의 신앙은 몸의 부활을 믿는 신앙입니다. 이 세상 사람들은 그 신앙을 비웃을지도 모릅니다. 하늘에 앉아 계신 예수 그리스도가 재림하실 때, 우리들의 몸은 부활하여, 영광의 몸의 형체와 같이 변함으로 우리의 구원이 완성되는 것입니다. 지금 우리의 몸은 병에 걸리며 죄를 짓고 썩을 것이 당연한 비천한 몸이지만 그리스도가 재림하시는 그 때 영광의 몸의 형체로 변하는 것입니다. 그 때 죽음의 힘은 완전히 굴복됩니다. 그 믿음에 빌립보의 형제 자매가 굳게 서도록 “구원은 하늘로 부터 옵니다. 그렇다면 우리들은 이 세상의 가치관이 아닌 하늘의 가치관에 의해 살아가야 합니다. 하늘에 시민권이 있음을 자각하고 이 세상에서는 이민자의 신분이라는 것, 기류자인 것을 인정하면서 살아야 합니다!”라고 바울은 말하고 있습니다. 솔직히 말하자면 저도 날마다 이 세상에서의 일에만 눈이 갑니다. 알아차렸을 때에는 생활에 관한 것, 장래의 일로 이런 저런 고민을 하거나 타인을 부러워하는 눈으로 봐 버리는 경우가 있습니다. 그러나 바울의 말에 많은 격려를 얻었습니다. 바울이 말하기를 그리스도인은 이 세상에 누더기를 걸친 왕자라는 것입니다. 누더기를 걸친 왕자는 이 세상에서는 비천한 처지로 낮은 몸 이지만 반드시 본래의 장소로 돌아가서 신분이 회복될 것을 말 한다고 생각합니다. 21절의 말씀에 주목 해 주십시요. 「형체와 같이: 쉰모르페」라고 하는 단어가 있습니다. 우리들은 「영광의 몸의 형체와 같이 변한다」고 쓰여져 있습니다. 여기가 매우 중요한 포인트인 것입니다. 이 말은 사실 3장 10절에도 나왔습니다.

내가 그리스도와 그 부활의 권능과 그 관에 참여함을 알고자 하여 그의 죽으심을 본받아

3장 10절에 「그의 죽으심을 본받아」라고 하는 단어가 있습니다만 이「~ 본받아」라고 하는 단어가 쉰모르페 (같은 모습)라고 하는 단어 입니다. 결국, 바울은 10절의 말씀에 호응하듯이 21절에서 다시 「형체와 같이: 쉰모르페」라는 단어를 사용하고 있는 것입니다. 예수 그리스도는 육체를 입으시고 말구유에서 태어나시고 낮추어지고 비천하게 여겨져 십자가에서 죽기까지 순종하셨습니다. 그러나 하나님은 그리스도를 높이 올리시고, 모든 이름위에 뛰어난 이름을 주셨습니다. 이것이 우리에게 보여주신 모범입니다. 우리들은 이 길을 따라 가야 하는 것입니다. 이 세상에서는 마치 누더기를 걸치고, 우리들의 육체도 병들고 죄를 짓고 썩어가는 비천한 몸이지만 이것은 그리스도의 십자가의 죽음과 같은 형태로 여겨지는 것입니다. 이 세상에서 그리스도인들은 주변 사람들과 피할 수 없는 갈등과 마찰을 경험하게 될 것입니다. 그리스도인이기 때문에 불합리한 취급을 받기도 합니다. 어떠한 형태로든지 이 세상에서 박해를 받고 이민자처럼 기류자처럼 살지만 그것은 그리스도와 같이 그리스도의 고난에 동참하는 것입니다. 그러나 예수님이 구원자로서 다시 오실 때 만물을 창조하시고 그것을 다스리시는 능력에 의해서 그리스도의 영광의 몸의 형체와 같이 변하는 것입니다. 그렇다면 지금의 고통은 얼마나 큰 기쁨이겠습니까? 이윽고 받게 되는 칭찬을 생각한다면 지금의 어려움과 시련이 얼마나 영광스러운가라고 바울은 격려하고 있는 것입니다.

결론

우리 교회는 이 땅에서의 삶에 있어서 시민권이 하늘에 있는 것을 기억합시다. 시민권이 하늘에 있다는 것은 동시에 이 세상에 있어서 우리들은 기류자처럼 이민자처럼 주눅이 든 것처럼 사는 것을 의미하지만 그것은 하나님의 뜻이며 하나님이 기뻐하시는 것입니다. 우리들이 이 세상의 가치관이나 이 세상 사람들의 눈을 두려워하는 것이 아니라 구원을 완성 시켜 주시는 하나님을 두려워하며 살아갈 때 하나님은 기뻐하시고 그러한 교회의 삶을 통해서 복음이 이 세상에서 계속 전해지는 것입니다. 하나님의 나라와 이 세상은 역사 속에서 동시에 진행되어 왔습니다. 이 세상은 교회를 결코 이해할 수 없으며, 따라서 세상은 하나님의 나라를 박해하게 됩니다만 하나님의 나라의 존재 그 자체가, 교회의 삶 그 자체가 세상에 대한 복음 선교인 것입니다. 교회는 비록 작고 약한 존재이지만 멸망당하는 존재가 아니라 하나님의 자녀로서 하나님께서 그 삶을 책임지시고 지켜 주십니다. 수난절의 시기를 보내고 있는 우리는 꼭 예수 그리스도의 십자가의 고통을 다시 한 번 깊게 마음에 묵상하고 함께 십자가를 지고 살아가는 사람들이 되기를 바랍니다.

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