2023年02月19日「テモテとエパフロディト 디모데와 에바브로디도」

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テモテとエパフロディト 디모데와 에바브로디도

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
フィリピの信徒への手紙 2章19節~30節

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聖句のアイコン聖書の言葉

2:19さて、わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています。
2:20テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。
2:21他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。
2:22テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。
2:23そこで、わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ、テモテを送りたいと願っています。
2:24わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています。
2:25ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、
2:26しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。
2:27実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。
2:28そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう。
2:29だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。
2:30わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
フィリピの信徒への手紙 2章19節~30節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 本日の箇所は、パウロの今後の計画と、フィリピの教会へ派遣する二人の人物について、推薦文が書かれています。パウロは現在、牢獄の中に繋がれていますが、希望を持ちつつ、福音宣教の将来について考えています。派遣する二人の人物とは、テモテとエパフロディトです。なぜ、フィリピの教会に、この二人を派遣しようとしたのかというと、この二人がフィリピ教会において模範として立つことができると、パウロは確信したからです。本日も私たちはフィリピ書の御言葉から恵みに与っていきたいと思います。

【1】. テモテについての推薦文

 最初にテモテに関する推薦文ですが、テモテの人柄は、一言で言えば、羊のように従順で献身的な人物であったと言えるでしょう。テモテは、父親がギリシア人で、母親がユダヤ人ですが、もともと母親ユニケの信仰を受け継いで育てられたとあります。そしてパウロの第二次伝道旅行の際に、ルステラにおいてパウロと出会った以来(この時、大体20歳くらいだったと考えられていますが)、パウロの伝道旅行に同伴し、そして、小アジアでの働きを効果的にするために、受ける必要のない割礼まで受けて、パウロと共に働きました。割礼を受けることによって、小アジアに散らされているユダヤ人に話を聞いてもらえるようにするためです。その後、マケドニアに渡り、パウロと共にフィリピ教会の開拓にも携わりました。ですから、テモテのことは、フィリピの兄弟姉妹の良く知るところでもありました。パウロはフィリピの教会に自分自身が直接、赴くことができないため、見通しのつき次第、テモテを派遣すると言っています。この「見通し」とは、何の見通しかと言えば、「パウロの裁判結果」についてだと思われます。現在、牢獄に繋がれていますが、ある程度、パウロの見通しがつき次第、そのことを報告するためにテモテをフィリピ教会に派遣すると言うのです。そして、パウロは自分自身も、間もなく解放されて、再びフィリピに行くことが出来ることを確信していました。それでは、パウロがなぜテモテを推薦するのか、その理由について見ていきたいと思います。20~22節をご覧ください。

テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。

ここには、テモテが「パウロと同じ思いを抱いていること」、そして、「親身になってフィリピ教会のことを心にかけていること」の二つの点が挙げられています。この二点こそ、パウロがテモテを強く推薦する理由でありました。パウロとテモテは、父と子のような関係であり、テモテがパウロの愛弟子であったということもありますが、それにしても、高くテモテが評価されすぎではないか、傍にいるテモテのことをひいきしているのではないかと、私なんかは勘ぐってしまいます。しかし、パウロの他の書簡においても、やはりテモテは同じく称賛されています。1コリ4:17には次のように書かれています。

テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。彼は、わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう。

テモテは、主にあって忠実な者と書かれています。そしてテモテを通して、キリストに結ばれているパウロの生き方を思い起こさせると書かれています。この点にテモテを推薦する理由があるのかもしれません。続いて、1テサ3:2~3をご覧ください。

わたしたちの兄弟で、キリストの福音のために働く神の協力者テモテをそちらに派遣しました。それは、あなたがたを励まして、信仰を強め、このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした。わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています。

テモテは、苦難の中でもだれ一人動揺することのない、そのような人物だと書かれています。そのことがパウロの称賛の理由ではないかと思われます。フィリピ書に戻り、22節にテモテのことを「確かな人物」と評価しています。この「確かな人物」という翻訳は、英語・韓国語の聖書などでは、「練達された人物」と訳されています。鉄が火によって精錬されるように、テモテとはパウロと一緒に苦難の中を通されて、よく練達された人物だと言うのです。パウロは福音に仕える際に奴隷のような身分になって福音に仕えてきましたが、テモテもやはり「子が父に仕えるように」低く、へりくだり、奴隷のような身分を甘んじながら、パウロと一緒に福音に仕えてきました。パウロと苦しみを共にし、その中で従順することを学んだ人物であると言えるのです。テモテの従順は、イエス様の従順に重なる従順でもありました。イエス様は生涯を通して従順を学ばれ、十字架を通して従順を成就されましたが、テモテもまさに自分の十字架を負って、練達されながら、従順を学んだのです。ですから、テモテのことをパウロは「自分と同じ思いを抱いている」と言っていますが、これは、「練達された者」という言葉に言い換えることができるのではないかと思わされるのです。

もう一つ、テモテについて、言及すべきことは、テモテにとってフィリピ教会とは、パウロと共に開拓伝道から携わった教会でありました。ですから恐らく個人的にフィリピ教会には大変思い入れがあったということです。テモテのように、フィリピの兄弟姉妹のことを大切にしている人は、テモテ以外に他に見当たらなかったのでしょう。このような確かな人物であるテモテを、フィリピ教会に送りたいと言っているのです。

教会が人を派遣する際に、例えば、「牧会能力のある有能な人を、あの教会、この教会に、人員配置すれば、教会はそれで一つにまとまる。」ですとか、「御言葉の知識がある人を、あの教会、この教会に人員配置すれば、伝道はそれで成功する。」というような単純なことではありませんね。それは、教会が一般的な組織ではなく、キリストの身体、即ち有機体であるからです。ですから、派遣される人物の賜物は重要でありますが、それにもまして、有機体として機能するために、誰がフィリピ教会に重荷を負っているのか、フィリピ教会のために日々心を砕いているのか、或いは、誰が使徒パウロと同じ思いを抱いているのか、この二点が非常に重要であるということです。このことはまた後で、触れたいと思います。

【2】. エパフロディトについての推薦文

 続いて、エパフロディトに関する推薦文です。エパフロディトという人物は、献金を携えて、フィリピ教会からパウロの下に送られ、そしてパウロの下で仕えました。ところが、そのうちにひん死の重病にかかりました。神の憐みによってその病から回復したとのことです。パウロは彼にこの書簡を持たせ、再びフィリピに送ろうとしています。25~27節をご覧ください。

ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。

パウロとエパフロディトの関係は、パウロとテモテのように特別な父子の絆の関係を結んではいませんでしたが、パウロはこのエパフロディトに対しても、惜しみない称賛を送っています。彼は「兄弟、協力者、戦友、使者、奉仕者」として紹介しています。特に最後の「奉仕者」という言葉は、「礼拝奉仕者」を指して使われる言葉です。パウロの窮乏を助けたそのエパフロディトの働きを、パウロは、神の国における「礼拝奉仕」、神に捧げられた「聖なる奉仕」として見做しているのです。それだけではありません。2:30節を見てほしいのですが、新共同訳聖書では少し分かりづらいので、新改訳2017の翻訳を週報に印刷致しました。ご覧ください。フィリピ2:30(新改訳2017)です。

彼はキリストの働きのために、死ぬばかりになりました。あなたがたが私に仕えることができなかった分を果たすため、命の危険を冒したのです。

このパウロの表現を見ますと、「キリストの働きのため」という言葉と「あなたがたが私に仕えることができなかった分」という言葉が、平行関係に置かれています。エパフロディトが命を冒してパウロに奉仕してくれたこと、それは即ち、キリストの働きのための奉仕だったということを、パウロは暗に言おうとしているのです。「冒す」という言葉、新共同訳聖書では、「かける」という言葉ですが、これは、ギャンブルの賭け事のことを意味します。エパフロディトは、自分のことよりも、イエス・キリストのことに、オールインした、全てを投じたということです。「生きるのもキリスト、死ぬことも益です」というパウロの告白を思い起こされた方もおられるのではないでしょうか。そのようなエパフロディトがひどい病にかかった時に、彼は何を心配したのかと言いますと、自分の身体の心配よりも、フィリピの兄弟姉妹に自分の病気が知られたことを心苦しく思ったとあります。この感覚は、例えば東京に上京してきた子どもが、何としても田舎にいる両親に心配をかけさせたくないという思いに近かったのではないかと思います。自分のことなんか心配してくれなくても…それよりも、逆にフィリピの兄弟姉妹を思いやるとは、なんとけなげなエパフロディトでありましょうか。彼はこのように、フィリピの兄弟姉妹のことを、日々祈りに覚えつつ、心にかけていたのです。このエパフロディトをパウロは推薦しているのです。従って、テモテとエパフロディトの二人の共通点は、第一にパウロと同じ思いを抱いていて、福音宣教に仕える主の僕、主の奴隷であるということです。第二にフィリピ教会に大変な重荷を持っているということ、日々祈りに覚えているということです。この二人のような人々をこそ、フィリピ教会に歓迎するように要求しているのです。このような人々をこそ、敬うようにと薦めているのです。テモテやエパフロディトのように低くへりくだっている人々が、キリストの身体である教会を建て上げるからです。

【3】. 有機体である教会

 さて、先ほど、教会が一般的な組織ではなく、有機体である、キリストの身体であるということを申しました。組織と有機体の違いについて少し考えてみたいと思います。この世には、会社の組織、学校の組織、サークル活動の組織など、様々な組織がありますね。ある組織では、社長の意思によってトップダウンによって物事が決められるかも知れません。ある組織では、民主主義的な手続きによって、話し合いと多数決の原理によって物事が決められるかも知れません。教会はそのどちらでもありません。教会は有機体ですから、頭がイエス様であるとしても、イエス様の命令によって全て、強制的に物事が決められていく訳ではありません。罪を犯すことも含めて、一人ひとりの自由意志が尊重されているのであります。また、教会は多数決の原理によって物事が決められる訳でもありません。これはどういうことかと言うと、例えば小指が怪我をしたと想定して下さい。身体全体が小指のけがを心配し、小指のことで心を痛めます。決して、「面倒だから、新しい機械の小指を買ってきて、それに取り換えなさい」ということにはなりませんね。同じように教会も、もし一人の魂が躓いた時、その魂のために皆が心配し、心を痛め、悲しむのであります。そこには、面倒だからという多数決の原理が働いているのではなく、有機体の原理が働いているのです。使徒パウロも、キリストの身体という、有機体の原理で物事を判断していました。最も低くへりくだっている者、最も練達されて、人々の痛みを理解でる者、つまり、パウロと同じ思いを抱いている者が、教会の導き手としての役割を担うべきだと考えていたのです。そのような者が教会で敬われるべきだと考えていたのです。

使徒言行録を読むと分かりますように、初代教会においては、長老、執事が教会の代表となり、群れが建て上げられて行きました。今日の、私たち改革派教会も聖書に忠実にあるべく、長老・執事という役員を定めています。もちろん教会を代表する役員は、教会を支配するためではなく、彼ら自身が最もへりくだって、奉仕するためであります。ですから、教会において役員を選出する時には、最もへりくだっている人を選出しなければなりません。そのようにして立てられた役員であっても、時には罪を犯すことも十分に考えられます。そのために、教会は礼拝奉仕者のために、そして教会全体に仕える役員のために、とりなしの祈りを捧げる必要があるのです。

【結論】

 パウロがフィリピ教会にテモテとエパフロディトを派遣しようとしている理由は、フィリピ教会が現在、抱えている葛藤を乗り越えて、成長していくためでありました。まずへりくだった者を、祈りと愛によって、群れをとりなしていく者を、フィリピ教会に送ろうとしています。そして派遣されたリーダーが従順の模範を見せることによって、さらに言えば、そのリーダーを通して教会全体が練達され、苦難を通して成長していくこと、このことがパウロの思いに描かれているのでは思われます。私たちせんげん台教会も、フィリピ教会のように、現在、工事中であり、途上にある教会でありますが、キリストを頭とし、聖霊による一致が与えられ、有機体として、一つの思いになって、歩んでいく者たちとならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

디모데와 에바브로디도

빌립보서 2장 19-30절

19 내가 디모데를 속히 너희에게 보내기를 주 안에서 바람은 너희의 사정을 앎으로 안위를 받으려 함이니

20 이는 뜻을 같이하여 너희 사정을 진실히 생각할 자가 이밖에 내게 없음이라

21 그들이 다 자기 일을 구하고 그리스도 예수의 일을 구하지 아니하되

22 디모데의 연단을 너희가 아나니 자식이 아버지에게 함같이 나와 함께 복음을 위하여 수고하였느니라

23 그러므로 내가 내 일이 어떻게 될지를 보아서 곧 이 사람을 보내기를 바라고

24 나도 속히 가게 될 것을 주 안에서 확신하노라

25 그러나 에바브로디도를 너희에게 보내는 것이 필요한 줄로 생각하노니 그는 나의 형제요 함께 수고하고 함께 군사 된 자요 너희 사자로 내가 쓸 것을 돕는 자라

26 그가 너희 무리를 간절히 사모하고 자기가 병든 것을 너희가 들은 줄을 알고 심히 근심한지라

27 그가 병들어 죽게 되었으나 하나님이 그를 긍휼히 여기셨고 그뿐 아니라 나를 긍휼히 여기사 내 근심 위에 근심을 면하게 하셨느니라

28 그러므로 내가 더욱 급히 그를 보낸 것은 너희로 그를 다시 보고 기뻐하게 하며 내 근심도 덜려 함이니라

29 이러므로 너희가 주 안에서 모든 기쁨으로 그를 영접하고 또 이와 같은 자들을 존귀히 여기라

30 그가 그리스도의 일을 위하여 죽기에 이르러도 자기 목숨을 돌보지 아니한 것은 나를 섬기는 너희의 일에 부족함을 채우려 함이니라

오늘의 구절은 바울의 앞으로의 계획과 빌립보 교회에 파견 할 두사람의 인물에 대한 추천문이 소개되어 있습니다. 바울은 현재 감옥에 감금되어 있으나 희망을 가지고 복음 선교의 장래에 관해서 생각하고 있습니다. 파견할 두 사람의 인물은 디모데와 에바브로디도입니다. 왜 빌립보 교회에 이 두사람을 파견하려고 하는 지는 이 두 사람이 빌립보 교회에 있어서 모범적인 영향을 끼칠 수 있다고 확신했기 때문입니다. 오늘도 우리 모두가 빌립보서의 말씀을 통해서 은혜 받기를 바랍니다.

(1) 디모데에 관한 추천문

먼저 디모데에 관한 추천문이지만 디모데의 인품은 한 마디로 양처럼 순종하고 헌신적인 인물이었다고 할 수 있습니다. 디모데는 아버지가 그리스인이고 어머니가 유대인이지만 어머니 유니케의 믿음을 계승하여 자랐다고 합니다. 그리고 바울의 제 2차 전도 여행 때, 루스텔라에서 바울을 만난 이래 (이 때 대략 20세 정도였다고 생각됩니다만) 바울의 전도여행에 동반하고 그리고 소아시아에서의 일을 효과적으로 하기 위해서 굳이 받지 않아도 될 할례까지 받고 바울과 함께 동역했습니다. 할례를 받음으로써 소아시아에 흩어져 있는 유대인에게 복음을 전하는데 용이하게 하기 위해서였습니다. 그 후 마게도냐로 건너가 바울과 함께 빌립보 교회를 개척했습니다. 그러므로 빌립보 교회의 형제자매들은 디모데에 대해서 잘 알고 있었습니다. 바울은 빌립보 교회에 자신이 직접 갈 수 없기 때문에 상황을 알게 되는 대로 디모데를 파견한다고 합니다. 이 상황이란 바울의 재판 결과에 대한 결과라고 생각됩니다. 현재 감옥에 감금되어 있습니다만 어느 정도 바울의 상황이 파악되는 대로 그 일을 보고하기 위해 디모데를 파견하고 바울 자신 스스로도 곧 풀려나서 다시 빌립보로 갈 수 있을 것이라고 확신하고 있었습니다. 그러면 바울이 왜 디모데를 추천하는지 그 이유를 살펴보고 싶습니다. 20-22절을 참조하십시오.

20 이는 뜻을 같이하여 너희 사정을 진실히 생각할 자가 이밖에 내게 없음이라

21 그들이 다 자기 일을 구하고 그리스도 예수의 일을 구하지 아니하되

22 디모데의 연단을 너희가 아나니 자식이 아버지에게 함같이 나와 함께 복음을 위하여 수고하였느니라

여기에는 디모데가 바울과 같은 생각을 품고 있는 것과 진심으로 빌립보 교회를 염두에 두고 있다는 두 가지 이유가 있습니다. 이 두 가지는 바울이 디모데를 강하게 추천하는 이유였습니다. 바울과 디모데는 아버지와 아들과 같은 관계이며 디모데가 바울의 사랑하는 제자였다는 이유도 있습니다. ‘아무리 그래도 너무 추겨세우는 것은 아닌가? 편애하는 것은 아닌가?’하는 생각이 저는 들기도 합니다. 그러나 바울의 다른 서신을 보면 역시 디모데를 마찬가지로 칭찬하고 있습니다. 고린도전서 4장 17절에는 다음과 같이 쓰여져 있습니다.

이로 말미암아 내가 주 안에서 내 사랑하고 신실한 아들 디모데를 너희에게 보내었으니 그가 너희로 하여금 그리스도 예수 안에서 나의 행사 곧 내가 각처 각 교회에서 가르치는 것을 생각나게 하리라

디모데는 주안에서 충실한 사람이라고 쓰여져 있습니다. 그리고 디모데를 통해서 그리스도께 묶여 있는 바울의 삶을 상기시켜 준다고 쓰여 있습니다. 이 점에 디모데를 추천하는 이유가 있을지도 모릅니다. 이어서 데살로니가전서 3장 2-3절을 보시겠습니다.

2 우리 형제 곧 그리스도의 복음을 전하는 하나님의 일꾼인 디모데를 보내노니 이는 너희를 굳건하게 하고 너희 믿음에 대하여 위로함으로

3 아무도 이 여러 환난 중에 흔들리지 않게 하려 함이라 우리가 이것을 위하여 세움 받은 줄을 너희가 친히 알리라

디모데는 고난 속에서도 흔들리지 않는 그런 인물이라고 쓰여 있습니다. 이런 점이 바울이 칭찬하는 이유가 아닐까 생각됩니다. 다시 빌립보서로 돌아 오면 22절에 디모데를 확실한 인물이라고 평가하고 있습니다. 확실한 인물이라고 하는 번역은 영어, 한국어의 성경에서는 연단 받은 인물이라고 번역되어 있습니다. 철이 불에 의해서 단련되듯이 디모데는 바울과 함께 고난을 통과하여 잘 연단된 인물이라고 합니다. 바울은 복음선교를 할 때 복음을 위해 노예의 신분인 것처럼 자신을 낮추었습니다만 디모데도 역시 자식이 아버지를 섬기는 것처럼 자신을 낮추어 순종하고 자신의 처지에 만족하며 바울과 함께 복음선교를 했습니다. 바울과 고난을 함께 나누며, 그 가운데 순종을 배운 인물이라고 말 할 수 있겠습니다. 디모데의 순종은 예수님의 순종과 겹치는 순종이었습니다. 예수님은 평생에 걸쳐 순종을 배우셨고 십자가를 통해서 순종를 성취하셨지만 디모데도 바로 자신의 십자가를 지고 연단되는 과정을 통해서 순종을 배웠습니다. 그렇기 때문에 바울은 디모데가 자신과 같은 생각을 품고 있다고 말합니다. 이 말은 연단 받은 사람이라고 하는 단어로 바꿔 말할 수가 있지 않을까 생각합니다.

또 하나, 디모데에 관해서 언급해야 할 것은 디모데에게 있어 빌립보 교회는 바울과 함께 개척한 교회였습니다. 그러므로 아마도 개인적으로 빌립보 교회에 대해서 각별한 생각이 있었을 것입니다. 디모데 처럼 빌립보 교회의 형제 자매의 일을 소중히 여기는 사람은 디모데 이외에는 찾을 수 없었을 것입니다. 이런 확실한 인물인 디모데를 빌립보 교회에 보내고 싶다고 바울은 말합니다.

교회가 사람을 파견할 때에, 예를 들면 목회 능력이 있는 유능한 사람을 저 교회, 이 교회에 인원 배치하면 교회는 그것으로 깔끔하게 정리가 된다라든가 말씀의 지식이 있는 사람을 저 교회 이 교회에 인원 배치하면 전도는 문제 없이 성공한다라고 하는 단순한 문제가 아닙니다. 이것은 교회가 일반적인 조직이 아니라 그리스도의 몸, 즉 유기체이기 때문입니다. 그러므로 파견되는 인물의 은사도 중요하지만, 그럼에도 불구하고 유기체로서 기능하기 위해서 누가 빌립보 교회의 짐을 지고 있는지 빌립보 교회를 위해 매일 세심하게 마음을 쓰는지 또는 누가 사도 바울과 같은 마음을 품고 있는가 이 두 가지가 매우 중요하다는 것을 알 수 있습니다. 이 것은 나중에 다시 살펴보겠습니다.

(2) 에바브로디도에 관한 추천문

이어서 에바브로디도에 관한 추천문입니다. 에바브로디도라고 하는 인물은 빌립보 교회의 헌금을 가지고 와서 바울을 섬겼습니다. 그런데 그런 와중에 중병에 걸려버리고 말았습니다.

하지만 하나님의 자비로 그 병에서 회복되었던 것입니다. 바울은 그에게 이 서신을 맡겨서 다시 빌립보 교회로 보내려고 합니다. 25-27절을 참조하십시오.

25 그러나 에바브로디도를 너희에게 보내는 것이 필요한 줄로 생각하노니 그는 나의 형제요 함께 수고하고 함께 군사 된 자요 너희 사자로 내가 쓸 것을 돕는 자라

26 그가 너희 무리를 간절히 사모하고 자기가 병든 것을 너희가 들은 줄을 알고 심히 근심한지라

27 그가 병들어 죽게 되었으나 하나님이 그를 긍휼히 여기셨고 그뿐 아니라 나를 긍휼히 여기사 내 근심 위에 근심을 면하게 하셨느니라

바울과 에바브로디도의 관계는 바울과 디모데와 같은 특별한 부자의 유대 관계를 맺지는 않았지만, 바울은 이 에바브로디도에게도 아낌없는 칭찬을 하고 있습니다. 그는 형제, 협력자, 전우, 사역자, 봉사자로 소개합니다. 특히 마지막 봉사자라는 말은 예배 봉사자를 가리키는 말입니다. 바울의 곤궁함을 돕는 에바브로디도의 사역을 바울은 하나님의 나라에서 예배 봉사, 하나님께 바쳐진 거룩한 봉사로 바라보고 있습니다. 그뿐만이 아닙니다. 2장 30절을 봐주시면 좋겠습니다.

30 그가 그리스도의 일을 위하여 죽기에 이르러도 자기 목숨을 돌보지 아니한 것은 나를 섬기는 너희의 일에 부족함을 채우려 함이니라

이 바울의 표현을 보면 「그리스도의 일을 위하여」 라는 말과 「나를 섬기는 너희의 일에 부족함」라는 말이 평행 관계에 놓여 있습니다. 에바브로디도가 「목숨을 걸고 바울에게 봉사해 준 것」이 즉, 「그리스도의 일을 위한 봉사였다는 것」을 바울은 하고 있는 것입니다. 「자기 목숨을 돌보지 않았다」는 말에서 「돌보지 않았다」는 말은 「목숨을 걸다」라는 말입니다. 이 「걸다」는 도박에서의 「배팅」을 의미합니다. 에바브로디도는 자신보다 「예수 그리스도에게 모든 것을 걸었고 올인했다」는 의미입니다. 모든 것을 던졌다는 것입니다. 「이는 내게 사는 것이 그리스도니 죽는 것도 유익함이라」는 바울의 고백을 연상시키는 분도 계실 것 같습니다. 그러한 에바브로디도가 중한 병에 걸렸을 때에 그는 무엇을 염려했는가 하면, 자신의 건강에 대한 염려 보다도 빌립보의 형제 자매에게 자신의 병이 알려져 그들에게 걱정을 끼쳤다는 것이었습니다. 이 마음은 예를 들어 토쿄에 상경해 있는 자녀가 고향에 계신 부모님에게 어떻게 해서든 걱정을 끼치고 싶지 않다는 마음과 같을 것입니다. 자신을 걱정해 주기를 바라지 않고 오히려 빌립보의 형제 자매를 배려한다는 것은 얼마나 헌신적인 성품의 에바브로디도입니까? 그는 이처럼 빌립보의 형제자매를 날마다 기도 할 때 기억하면서 마음에 담고 있었던 것이었습니다. 이러한 에바브로디도를 추천 하고 있습니다. 따라서 디모데와 에바브로디도 두 사람의 공통점은 첫째로 바울과 같은 생각을 품고 복음선교를 하는 주님의 종, 주님의 노예라는 것입니다. 둘째로 빌립보 교회에 큰 부담을 가지고 있다는 것, 날마다 기도할 때 기억한다는 것입니다. 이 두 사람과 같은 사람들을 빌립보 교회에서 환영하여 맞이할 것을 요구하고 있는 것입니다. 이런 사람들을 존귀하게 여기도록 권고하고 있는 것입니다. 디모데와 에바브로디도처럼 자신을 낮추고 겸손한 사람들이 그리스도의 몸인 교회를 세우기 때문입니다.

(3) 유기체인 교회

그럼 좀전에 교회가 일반적인 조직이 아니고 유기체라는 그리스도의 몸이라고 말씀드렸습니다. 조직과 유기체의 차이점에 대하여 조금 생각해 보고 싶습니다. 이 세계는 사회의 조직, 학교의 조직, 서클의 활동 조직등 여러가지 유형의 조직이 있습니다. 어떤 조직에서는 사장의 이상에 의해서, 톱 다운에 의해서 일이 결정되어질지도 모르겠습니다. 어떤 조직에서는 민주주의적인 절차에 의해서 또는 논의를 거쳐 다수결의 원칙에 의해서 일이 결정될 지도 모르겠습니다. 교회는 그 어느 쪽도 아닙니다. 교회는 유기체이기 때문에 머리가 예수님이라고 하더라도 예수님의 명령에 의해서 모든 것이 강제적으로 일이 결정되어지는 것이 아닙니다. 죄를 짓는 것을 포함해서, 한 사람 한 사람의 자유의지가 중요한 것입니다. 또 교회는 다수결의 원칙에 의해서 일이 결정되는 것도 아닙니다. 이것이 무슨 말인가 하면, 예를 들어 새끼 손가락이 상처를 입었다고 가정해 보십시다. 몸 전체가 새끼 손가락의 상처를 염려하게 되고 마음을 아파 합니다. 결코 “귀찮으니까 다른 기계의 새끼 손가락을 사와서 교체 해버리자”고 말할 수 없는 것입니다. 마찬가지로 교회도 만약 한 사람의 영혼이 아파하면 그 영혼을 위해서 염려하고 아파하며 슬퍼하는 것입니다. 거기에는 귀찮다고 하는 다수결의 원칙이 적용되는 것이 아닌 유기체라는 원칙이 적용되는 것입니다. 사도 바울도 그리스도의 몸이라고 하는 유기체의 원칙으로 교회의 일을 판단하고 있습니다. 좀 더 겸손한 사람, 좀 더 연단되어져 사람들의 아픔을 이해 할 수 있는 사람 즉, 바울과 같은 생각을 품고 있는 사람이 교회의 리더로서의 역할을 수행할 수 있다고 생각한 것입니다. 그러한 사람이 교회에서 존중 받아야 마땅하다고 생각하고 있는 것입니다.

사도행전을 읽어보면 알 수 있지만, 초대교회에 있어서는 장로 집사가 교회의 대표가 되고 공동체가 세워져 갔습니다. 오늘의 우리들 개혁파교회도 성경에 충실하게 장로 집사라고 하는 임원을 정하고 있습니다. 물론 교회를 대표하는 임원은 교회를 지배하는 것이 아니라 그들이 먼저 누구보다 겸손하게 자신을 낮추고 봉사하기 위함입니다. 그렇기 때문에 교회에 있어서 임원을 선출할 때는 누구보다도 자신을 낮추는 사람을 선출하지 않으면 안됩니다. 그렇게 해서 세워진 임원이라고 해도, 때로는 죄를 저지를 수도 있습니다. 그렇기 때문에 교회는 예배 봉사자를 위해서 그리고 교회 전체를 위해 섬기는 임원을 위해서 중보기도를 해야 할 필요가 있습니다.

(4) 결론

바울이 빌립보 교회에 디모데와 에바브로디도를 파견하려고 했던 이유는 빌립보 교회가 현재, 품고 있는 갈등을 초월하여 성장하기 위함이었습니다. 먼저 자신을 낮추는 사람을, 기도와 사랑으로 공동체를 중보할 사람을 빌립보 교회에 보내려고 하는 것입니다. 그리고 보냄을 받은 리더가 순종의 모범을 보이는 것에 의해서, 더 설명 해 보자면 그 리더를 통해서 교회전체가 연단을 받고, 고난을 통해 성장하는 것을 바울이 염두에 두고 있다고 생각합니다. 우리 센겐다이 교회도, 빌립보 교회처럼 현재 공사중인 과정에 있는 교회이지만, 그리스도를머리로 해서 성령에 의한 일치를 이루고 유기체로서 한 뜻을 품고 함께 걸어가는 성도들이 되기를 바랍니다.

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