2023年02月12日「自分の救いを達成せよ 두렵고 떨림으로 너희 구원을 이루라」

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自分の救いを達成せよ 두렵고 떨림으로 너희 구원을 이루라

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
フィリピの信徒への手紙 2章12節~18節

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聖句のアイコン聖書の言葉

2:12だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。
2:13あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。
2:14何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。
2:15そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、
2:16命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。
2:17更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。
2:18同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
フィリピの信徒への手紙 2章12節~18節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 私たちがイエス・キリストを信じて洗礼を受けた時、或いは信仰を告白した時に、「私は救われた」と言います。それは何も間違っていませんが、だからと言って、それは救いの完成に至ったということではありません。イエス様を心に信じたので、あとは自動的に、神様が、ありのままの私を天国に連れて行ってくださる!ということではありません。私たちが救いの完成に至るために、信仰を持った後、まだまだ、踏み進むべき道、神の備えて下さるプロセスがあります。こんなことを言うと、「信仰を持った後、あとは自分の力でゴールに向かって階段を上っていかなければならないのだろうか?」と、疑問を持つかもしれませんが、そうでもありません。なぜなら、救いは一から十まで、全て神様が備えてくださるものだからであり、既に信仰によって救われているからです。それでは、本日の箇所にありますように「自分の救いを達成せよ」という言葉は何なのでしょうか。これは、神様が私たちに思いと願いを与え、聖化へと導き、最終的に完成に至らせるという意味です。神様が私たちをして、救いのプロセスを完成してくださるのです。従って、救いというのは神様の恵み100%でありますが、同時に私たちの従順が100%でもあると、言うことができるのです。神の恵みと私たちの従順はコインの裏表のようなものであります。

【1】. 内住する神

 12節の冒頭には、「だから、わたしの愛する人たち」という言葉で始まっています。パウロはフィリピの兄弟姉妹を心から愛していました。パウロはフィリピの兄弟姉妹を、彼らが何か魅力的であるから、自分と何らかの共通する点があるから、愛しているのではありません。無条件的な愛、恐らく神から来る愛だと思われます。1:8節には次のように書かれていました。

わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。

ですから、パウロは、フィリピの兄弟姉妹を心から愛していたということです。ほとんど自分のことのように愛していました。そのような関係から、フィリピの人々に「自分の救いを達成せよ」という勧めを与えているのです。12~13節をご覧ください。

だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。

「恐れおののきつつ」という言葉がありますね。この言葉は当然、神様に対する恐れです。神の与えて下さる救いがあまりにも素晴らしいため、その恵みが、私にはあまりにも不釣り合いなため、恐れおののくのです。大河ドラマなどで「身に余る光栄にございます」というセリフが出て来ますが、あんな感じだと思います。恐れおののきつつとは、「心から感謝しながら」「身に余る光栄にございます」という意味です。この言葉はまた、後で説明いたします。人それぞれ違いがありますが、恐らく、クリスチャンになった最初の変化は、私たちの願い事が以前とは違うようになったということではないでしょうか。例えば、以前は流行の最先端を行く、こんなファッション、あんなファッションに関心がありました。しかし、イエス様を信じた後、世の流行にはそれほど関心がなくなったということが起こらなかったでしょうか。或いは、以前は世界中旅行して見聞を深めたいという関心がありました。しかし、イエス様を信じた後、見聞を深めるのもいいけど、もっと聖書のことを、神様のことを知りたいという思いが、起こらなかったでしょうか。皆様がイエス様を信じ告白してから、神の霊である聖霊が、皆さまの心に内住しておられます。この聖霊が、私たちの内側から働きかけ、御心のままに願うようにされ、神の御心を行うように導いて下さるのです。続いて14~16節をご覧ください。

【2】. 神の愛

 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。

14節に「不平や理屈を言わず」という言葉がありますね。不平は分かりますが、理屈とは何でしょうか。私もよく理屈をこねくり回す方ですが、要するに自分の正しさを主張することですね。「俺はこのことをちゃんとやっている。あいつが出来ていないから。」と自己義認することでもあります。英語の聖書では、「口論する」と訳されていました。この「不平や理屈」という言葉は、旧約時代、出エジプトをしたイスラエルの民が約束の地へ向けて、荒れ野を旅する中にあって、神様につぶやいた状況を思い起こさせてくれます。出エジプト記16:2~3をご覧ください。

荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。イスラエルの人々は彼らに言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」

イスラエルの民は出エジプトをして間もなく、モーセとアロンに不平を述べ立てたとあります。この時、神様はイスラエルの不平を聞き入れられて、すぐに天からマナを降らせ、イスラエルが荒れ野において飢えることがないように養って下さいました。続いて、民数記11:5-6をご覧ください。

エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない。」

私もにんにくが好きで、健康のために食べるようにしています。イスラエルの民も強烈な匂いのあるニンニクや玉葱が忘れられなかったのでしょう。この時は、神様はイスラエルの不平を聞き入れられて、すぐに天からうずらを降らせ、民が吐き気を催すほどに肉を食べさせてくださいました。このように、イスラエルの民とは、根っから不平を言ったり、言い争ったりする民であることが描写されています。それでも神様は最後まであきらめずに、イスラエルを愛して下るのです。なぜなら、神様の愛とは無条件の愛だからです。申命記7:7~8には次のように書かれています。

主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

神さまはイスラエルが他の国々と比べて成熟しているから、他の国々と比べて強くて大きいから、イスラエルを愛しているのではないということです。無条件の愛を持ってイスラエルを愛してくださる、その愛は私たちにも同様に注がれているのです。

イスラエルの民が約束の地に向けて荒れ野を旅したように、私たちも現在、天の御国に向かって、巡礼の旅を続けていますが、果たして、私たちは神の御前に、「新約時代の私たち教会は、決して旧約のイスラエルのようではない、そのような不平や理屈を言う民ではない」と言い切ることが出来るでしょうか。「不平を言うこと」、「理屈を言うこと」は、私自身、大変身に覚えがある行動です。恐らく皆様にとってもそうだと思います。そのような私たちを神様は、愛して下さり、忍耐してくださり、関わりを持って下さり、そして「命の言葉をしっかり保つ」ようにしてくださるのです。16節の「命の言葉をしっかり保つ」とありますが、これは、御言葉を一字一句しっかり暗記すること、或いは、教師のように聖書の御言葉を丸ごと説明できる才能があるということとは、ちょっと、違うと思います。神の御言葉とは、単なる知識ではないからです。そういう意味で、聖書の学びとか、聖書研究によって知識を蓄えるだけなら、それによって私たちが高慢になることもありますから、よくよく注意しなければなりません。神の御言葉とは、もっとダイナミックで躍動感があり、私たちの願いを変化させ、私たちの指向を変化させ、私たちの習慣や、私たちの態度を変化させる力を持っています。ですから、「命の言葉をしっかり保つ」とは、むしろ、私自身が御言葉に捉えられること、従順によって御言葉に捉えられた人生を生きるということだと思います。この御言葉の中で、神の働きが現れ、この御言葉に私たちがひれ伏す時、神の力が明らかにされ、そして、この御言葉に従順する時、私たちの営みが、とがめられることのない清い者として、輝くことが出来るのです。「命の言葉をしっかり保つ」とは、イエス・キリストに似た者にされるということに言い換えることができるのではないかと思います。

【3】. パウロの喜び

 さて、パウロは、17節以降で、たとえ自分が死に至っても、たとえ福音のために殉教しても、フィリピの兄弟姉妹と共に喜び続けると語っています。生きようが死のうが、神の御名が崇められ、あなた方のための礼拝に少しでも役立てば本望である、と言っているのです。この時のパウロの言葉遣いは、大変独特な言葉遣いとなっています。自分自身の死を、「注ぎの供え物」として捧げられる犠牲に譬え、そしてフィリピの兄弟姉妹の従順な営みを、「礼拝」に譬えています。17節をご覧ください。

さらに、たとえ、あなたがたの信仰のいけにえと奉仕の上に、私が供え物として注がれることになったとしても、私は喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。

「注ぎの供え物」とは、あまり聖書に詳しく出て来ませんが、とにかく、血が祭壇に注がれることを意味しています。フィリピの兄弟姉妹の奉仕、フィリピの兄弟姉妹の日々の営み、それ自体が神に捧げられる礼拝と考えていて、その際に真っ先に注がれる血こそ、パウロ自身の殉教の死であると言っているのです。パウロは、フィリピの兄弟姉妹の日々の営みとは、礼拝であると言っており、そしてその際に真っ先に捧げられる血が、注ぎの供え物としての私の死であると言っているのです。パウロは他の書簡でも、「自分を神に喜ばれる生ける供え物として献げなさい。」と命じていますが、パウロが言うには、私たちキリスト者の日々の営みは、それ自体が礼拝だと言っているのです。そして神礼拝の中で最も大切な要素とは、まさに「従順」であると言えるでしょう。1サムエル15:22をご覧ください。

サムエルは言った。「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。

また、ウェストミンスター大教理問答91には次のようにあります。

問:神が人間に求めておられる義務は、何ですか。

答:神が人間に求めておられる義務は、啓示された神のご意思に服従することです。

このように従順することが、聖書において、そして教理問答において強調されているのであります。従順という言葉は、私たちがあまり良いイメージを持たない言葉だと思います。宗教カルトの問題が報道され「盲目的従順」という言葉がありますが、聖書の言う従順とは、指導者に対し「イエスマン」になれということでは決してありません。あくまでも神様に、神の御言葉に従順することであります。聖霊の声に従順することであります。私たちは従順することより、むしろ治めること、支配すること、利用することの方が、価値があるように考えてしまうのだと思います。なぜなら、学校や社会を通してそのように学んできたからです。しかし、考えてほしいのは、イエス様が十字架の死を通して私たちに示してくださった模範とは、一体何だったでしょうか。それは、まさに従順でありました。イエス様はその生涯を通して私たちに従順の模範を示してくださったのです。私たちの礼拝の営みにおいて最も大切な要素も、やはり従順であります。従順によって神の恵みを享受することが出来、従順によって私たちが救いの完成に導かれるからです。神様は最後まであきらめずに、私たちを愛して下り、私たちの内側から働きかけてくださり、私たちをして、救いのプロセスを完成してくださるのです。その理由は、従順のこの報いがあまりにも大きいからです。先週の説教でも申し上げましたが、オセロゲームが一つ一つ反転されるように、従順によって低くへりくだることの報いがあまりにも大きいのであります。従順の先に与えられた栄光が、さんさんと光輝いているからであります。この不思議な神様のご計画を讃美しつつ、神様を喜び、おそれおののきながら、神の恵みを従順によって享受する私たちとならせていただきましょう。

【結論】

 従順は神の恵みを受け取るための唯一の手段であると言えるでしょう。私たちは、日々、戒めを破り、御言葉に服従することのできない罪深い民であります。しかし神様は、最後まであきらめずに、私たちを愛してくださり、イエス様の歩まれた従順の完成を、私たちの人生を通して成し遂げようとされるのです。この神の恵みを心から感謝し、身に余る光栄ですと、喜んで受け取る私たちとならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

두렵고 떨림으로 너희 구원을 이루라

빌립보서 2장 12-18절

12 그러므로 나의 사랑하는 자들아 너희가 나 있을 때뿐 아니라 더욱 지금 나 없을 때에도 항상 복종하여 두렵고 떨림으로 너희 구원을 이루라

13 너희 안에서 행하시는 이는 하나님이시니 자기의 기쁘신 뜻을 위하여 너희에게 소원을 두고 행하게 하시나니

14 모든 일을 원망과 시비가 없이 하라

15 이는 너희가 흠이 없고 순전하여 어그러지고 거스리는 세대 가운데서 하나님의 흠 없는 자녀로 세상에서 그들 가운데 빛들로 나타내며

16 생명의 말씀을 밝혀 나의 달음질이 헛되지 아니하고 수고도 헛되지 아니함으로 그리스도의 날에 내가 자랑할 것이 있게 하려 함이라

17 만일 너희 믿음의 제물과 섬김 위에 내가 나를 전제로 드릴지라도 나는 기뻐하고 너희 무리와 함께 기뻐하리니

18 이와 같이 너희도 기뻐하고 나와 함께 기뻐하라

우리들이 예수 그리스도를 믿고 세례를 받을 때, 또는 신앙고백을 할 때에 “나는 구원 받았다!”라고 말합니다. 그것은 틀린 대답이 아닙니다만 그렇다고 해서 그 고백으로 구원이 완성되는 것은 아닙니다. 예수님을 마음으로 믿었다고 해서 나머지는 자동적으로 하나님이 있는 그대로의 나를 천국으로 데려가시는 것이 아닙니다. 우리들이 구원의 완성에 이르기까지 신앙을 가진 후에 아직도 걸어가야할 하나님이 준비해두신 과정이 있습니다. 이런 말을 하면 “신앙을 가진 후에는 자신의 힘으로 결승점을 향해서 계단을 올라가야만 하는 건가?”라고 의문을 가질지도 모르겠습니다만 그런 것은 아닙니다. 왜냐하면 하나에서 열까지 전부 하나님이 준비해주셨기 때문에 이미 신앙에 의해서 우리는 구원을 받은 것입니다. 그럼 오늘의 본문에 나와있는 것처럼 “두렵고 떨림으로 너희 구원을 이루라”는 말씀은 무엇을 말하는 걸까요? 이것은 하나님이 우리들에게 생각과 소원을 주시고 성화로 이끄시고 최종적으로 구원의 완성에 이르게 하신다는 의미입니다. 하나님이 우리로 하여금 우리의 구원의 과정을 완성해 주시는 것입니다. 따라서 구원이라고 하는 것은 100% 하나님의 은혜로 받지만 동시에 우리들의 순종이 100%여야 한다는 것이라고 말씀드리고 싶습니다. 하나님의 은혜와 우리들의 순종은 동전의 양면과 같은 것입니다.

(1) 내재하시는 하나님

12절의 서두에는 “그러므로 나의 사랑하는 자들아”라고 하는 말로 시작하고 있습니다. 바울은 빌립보의 형제 자매를 마음으로 부터 사랑하고 있습니다. 바울은 빌립보의 형제 자매를 그들이 뭔가 매력적이고 자신과 어떤 공통점이 있어서 사랑하는 것이 아닙니다. 무조건적인 사랑, 하나님으로부터 온 사랑이라고 생각합니다. 빌립보서1장 8절에는 다음과 같이 쓰여있습니다.

내가 예수 그리스도의 심장으로 너희 무리를 얼마나 사모하는지 하나님이 내 증인이시니라

그렇기때문에, 바울은 빌립보의 형제자매를 마음으로부터 사랑하고 있었다는 것입니다. 자신을 사랑하는 것처럼 사랑했습니다. 그러한 관계에서 빌립보의 사람들에게 “자신의 구원을 두렵고 떨림으로 이루라”라고 하는 권면을 하고 있는 것입니다. 12-13절을 보아 주십시오.

12 그러므로 나의 사랑하는 자들아 너희가 나 있을 때뿐 아니라 더욱 지금 나 없을 때에도 항상 복종하여 두렵고 떨림으로 너희 구원을 이루라

13 너희 안에서 행하시는 이는 하나님이시니 자기의 기쁘신 뜻을 위하여 너희에게 소원을 두고 행하게 하시나니

“두렵고 떨림으로”라는 단어가 있네요. 이 단어는 당연히 하나님에 대한 두려움입니다. 하나님이 주시는 구원이 너무나도 감격스럽기 때문에 그 은혜가 자신에게는 너무나도 황송해서 드는 두려움입니다. 대하드라마의 시대극을 보면 “성은이 망극하옵나이다”라는 대사가 나옵니다만 그런 느낌이라고 생각합니다. 두렵고 떨림이라는 것은 “마음으로부터 감사하면서”,“황송합니다”라는 의미입니다. 이 단어는 또 나중에 설명을 하겠습니다. 사람마다 차이가 있지만 아마도 크리스챤이 된 후 첫 번째 변화는 우리들의 소원하는 일이 이전과는 달리진 것 아닐까요? 예를 들면, 이전에는 유행의 최첨단을 따라 이런 패션, 저런 패션에 관심이 있었습니다. 그러나 예수님을 믿은 후에는 세상의 유행에는 그다지 관심이 없어지는 변화가 일어나지 않았을까요? 혹은 이전에는 세계를 여행해 견문을 넓히고 싶다는 관심이 있었지만 예수님을 믿은 후에는 견문을 넓히는 것도 좋지만 성경을 더 알고 하나님에 대해서 더 알고 싶다는 생각이 들지 않습니까? 여러분이 예수님을 믿고 고백하고 나면 하나님의 영인 성령이 여러분의 마음에 내주하십니다. 이 성령이 우리 안에서 일하시며 하나님이 기뻐하시는 뜻을 위하여 행할 수 있도록 인도해 주시는 것입니다. 계속해서 14-16절을 보아 주세요.

(2) 하나님의 사랑

14 모든 일을 원망과 시비가 없이 하라

15 이는 너희가 흠이 없고 순전하여 어그러지고 거스리는 세대 가운데서 하나님의 흠 없는 자녀로 세상에서 그들 가운데 빛들로 나타내며

16 생명의 말씀을 밝혀 나의 달음질이 헛되지 아니하고 수고도 헛되지 아니함으로 그리스도의 날에 내가 자랑할 것이 있게 하려 함이라

14절에 “원망과 시비가 없이 하라”는 말씀이 있습니다. 원망은 알겠지만 시비는 무엇을 말하는 것일까요? 저도 잘 시비를 따지지만 요컨대 자신의 정당함을 주장하는 것을 말합니다. “나는 이것을 제대로 하고 있어. 그 사람이 제대로 못하니까 이런 거야”라고 자기는 의롭다고 인식하는 것을 말합니다. 영어 성경에는 “논쟁하다”라고 번역되어져 있습니다. 이 원망과 시비라는 말은 구약시대 출애굽을 한 이스라엘 백성이 약속의 땅을 향해 광야를 여행하는 가운데서 하나님께 원망한 상황을 생각나게 해 줍니다. 출애굽기 16장 2-3절을 참조하십시오.

2 이스라엘 자손 온 회중이 그 광야에서 모세와 아론을 원망하여

3 이스라엘 자손이 그들에게 이르되 우리가 애굽 땅에서 고기 가마 곁에 앉아 있던 때와 떡을 배불리 먹던 때에 여호와의 손에 죽었더라면 좋았을 것을 너희가 이 광야로 우리를 인도해 내어 이 온 회중이 주려 죽게 하는도다

이스라엘 백성은 출애굽을 하고 나서 얼마 지나지 않아 모세와 아론을 원망했습니다. 이때 하나님은 이스라엘의 원망을 들으시고 즉시 하늘에서 만나를 내리셨고 이스라엘이 광애에서 굶주리는 일이 없게 해 주셨습니다. 계속해서 민수기 11장 5-6절을 보아 주십시오.

5 우리가 애굽에 있을 때에는 값없이 생선과 오이와 참외와 부추와 파와 마늘을 먹은 것이 생각나거늘

6 이제는 우리의 기력이 다하여 이 만나 외에는 보이는 것이 아무 것도 없도다 하니

저도 마늘을 좋아해서 건강을 위해서 먹고 있습니다. 이스라엘 백성들도 강렬한 냄새가 나는 마늘이나 부추와 파가 그리워졌던 것이겠죠. 이때는 하나님은 이스라엘의 원망을 들으시고 즉시 하늘에서 메추라기를 떨어 뜨려 주셔서 백성들이 토할 지경에 이르기까지 고기를 먹게 해 주셨습니다. 이처럼 이스라엘 백성은 뿌리부터 원망하고 싸우는 백성인 것으로 묘사되어 있습니다. 그래도 하나님은 최후까지 포기하지 않으시고, 이스라엘을 사랑해서 주십니다. 하나님의 사랑이란 무조건적인 사랑인 것입니다. 신명기 7장 7-8절에는 다음과 같이 쓰여져 있습니다.

7 여호와께서 너희를 기뻐하시고 너희를 택하심은 너희가 다른 민족보다 수효가 많기 때문이 아니니라 너희는 오히려 모든 민족 중에 가장 적으니라

8 여호와께서 다만 너희를 사랑하심으로 말미암아, 또는 너희의 조상들에게 하신 맹세를 지키려 하심으로 말미암아 자기의 권능의 손으로 너희를 인도하여 내시되 너희를 그 종 되었던 집에서 애굽 왕 바로의 손에서 속량하셨나니

하나님은 이스라엘이 다른 민족보다 수효가 많기 때문에, 다른 민족과 비교해서 강하기 때문에 이스라엘을 사랑하는 것이 아닙니다. 무조건적인 사랑을 가지고 이스라엘을 사랑해 주시고 그 사랑은 지금 우리들에게도 똑같이 부어지고 있습니다.

이스라엘 백성이 약속의 땅을 향해서 광야를 여행한 것처럼 우리들도 현재, 하나님 나라를 향해서 순례의 여행을 하고 있습니다만 과연 우리들은 하나님 앞에서 “신약시대의 우리들 교회는 결코 구약의 이스라엘 같이 하지 않습니다. 우리는 그런 원망과 시비를 말하는 사람들이 아닙니다”라고 딱 잘라서 말할 수 있는 것일까요? “원망을 하고” “시비를 하는 것”은 제 자신도 그렇다는 생각이 드는 단어입니만 여러분에게 있어서도 그럴 것이라고 생각합니다. 그러한 우리들을 하나님은 사랑해 주시고 인내하여 주시고 우리의 삶에 관여 해 주시고 “생명의 말씀을 밝혀”주시는 것입니다.

16절에 “생명의 말씀을 밝혀”라는 단어는 성경 말씀을 한 글자 한 문장 정확히 암기하는 것, 또는 목사처럼 성경 말씀을 설명할 수 있는 능력이 있다는 것과는 조금 다른 의미라고 생각합니다. 하나님의 말씀은 단순한 지식이 아니기 때문입니다. 그런 의미에서 성경공부, 성경연구를 통해 지식이 늘고 우리가 교만해 질 수도 있기 때문에 주의를 해야 할 부분입니다. 하나님의 말씀은 다이나믹한 역동성이 있어서 우리들의 소원을 변화시키고, 우리들이 지향하는 바를 변화시키고 우리들의 습관과 우리의 태도를 변화시키는 힘을 가지고 있습니다. 그러므로 “생명의 말씀을 밝혀”는 오히려 우리들 자신이 말씀에 사로잡히는 것, 순종으로 말씀에 사로잡힌 삶을 사는 것이라고 생각합니다. 이 말씀 가운데 하나님의 역사가 나타나고, 이 말씀에 우리가 엎드릴 때, 하나님의 능력이 드러나고, 이 말씀에 순종할 때, 우리의 삶이 흠이 없고 순전한 빛을 내는 하나님의 자녀로서 살 수 있는 것입니다. “생명의 말씀을 밝혀”라는 것은 예수 그리스도를 닮은 사람이 되어 가는 것이라고 바꿔 말할 수 있지 않을까 생각합니다.

(3) 바울의 기쁨

그럼 바울은 17절 이후에 예를 들어 자신이 죽음에 이른다 하더라도, 예를 들어 복음을 위하여 순교를 하게 돼도 빌립보 형제 자매와 함께 계속해서 기뻐할 것이라고 말하고 있습니다. 살든지 죽든지 하나님의 이름이 높임을 받으시고 형제 자매의 예배를 위한 전제로 자신을 드릴지라도 기뻐한다라고 말하고 있습니다. 이때 바울의 말은 매우 독특한 말입니다. 자기자신의 죽음을 “전제로 드린다”고 바쳐지는 희생제물로 비유하고 빌립보의 형제 자매의 순종하는 삶을 예배에 비유하고 있습니다. 17절을 보시겠습니다.

17 만일 너희 믿음의 제물과 섬김 위에 내가 나를 전제로 드릴지라도 나는 기뻐하고 너희 무리와 함께 기뻐하리니

「전제」라는 말은 성경에는 자세하게 설명되어 있지 않지만 피가 제단에 부어지는 것을 의미합니다. 빌립보의 형제 자매의 봉사, 빌립보의 형제 자매의 매일의 삶의 모습, 그 자체가 하나님께 드려지는 예배라고 생각해서 그때 제일 먼저 제단에 완전히 부어지는 피야 말로 바울 자신의 순교의 죽음이라고 말합니다. 바울은 빌립보의 형제 자매의 매일의 삶의 태도는 예배이며 제단에 제일 먼저 부어진 피는 자신의 죽음이라고 말하고 있는 것입니다. 바울은 다른 편지에서도 “자신을 하나님이 기뻐하시는 거룩한 산 제물로 바치라”라고 명하고 있습니다만, 바울이 말하기는 우리들 그리스도인의 매일의 삶의 태도는 그 자체가 예배라고 말하고 있는 것입니다. 그리고 하나님을 예배하는데 무엇보다 중요한 요소는 그야말로 「순종」에 있습니다. 사무엘 상 15장 22절을 보시길 바랍니다.

22 사무엘이 이르되 여호와께서 번제와 다른 제사를 그의 목소리를 청종하는 것을 좋아하심 같이 좋아하시겠나이까 순종이 제사보다 낫고 듣는 것이 숫양의 기름보다 나으니

또 웨스터민스터 대교리문답91는 다음과 같습니다.

문 : 하나님께서 사람에게 요구하시는 의무는 무엇입니까?

답 : 하나님께서 사람에게 요구하시는 의무는 그의 계시된 뜻에 순종하는 것입니다.

이처럼 순종하는 것이 성경에서 그리고 교리문답에서 강조되어 있습니다. 순종이라고 하는 단어는 우리들에게 별로 좋은 이미지를 주지 못하는 단어라고 생각합니다. 종교의 컬트 문제가 보도 되면 「맹목적 순종」이라는 단어가 등장합니다만, 성경이 말하는 순종이라는 것은 지도자에 대해 「예스맨」이 되라는 것이 절대 아닙니다. 하나님께, 하나님의 말씀에 순종하는 것입니다. 성령의 음성에 순종하는 것입니다. 우리들은 순종하는 것 보다도 오히려 지배하는 것, 이용하는 쪽이 가치가 있는 것처럼 생각되어집니다. 왜냐하면 학교나 사회에서 그렇게 배워왔기 때문입니다. 그러나 생각해보아야 할 문제는 예수님이 십자가의 죽음을 통해서 우리들에게 보여주신 모범은 도대체 무엇이었을까요? 그것은 바로 순종입니다. 예수님은 그 생애를 통해서 우리들에게 순종의 모범을 보여주신 것입니다. 우리들의 예배의 태도에 있어서 무엇보다 중요한 요소는 역시 순종입니다. 순종에 의해서 하나님의 은혜를 누릴 수 있으며, 순종함으로 우리의 구원의 완성으로 인도하심을 받을 수 있기 때문입니다. 하나님은 마지막까지 포기하지 않으시고 우리들을 사랑해 주시고, 우리 안에서 일하셔서 우리로 하여금 우리의 구원의 과정을 완성시켜 주십니다. 그 이유는 순종의 보상이 너무 크기 때문입니다. 지난 주 설교에서도 말씀드렸습니다만 오델로 게임이 하나 하나 반전되듯이 순종을 하고 낮아지고 겸손해지는 것에 대한 보상이 참으로 크고 위대합니다. 순종의 앞에 주어진 영광이 눈부시게 빛나고 있기 때문입니다. 이 희한한 하나님의 계획을 찬양 하면서 하나님을 기뻐하며 두렵고 떨림으로 하나님의 은혜를 순종함으로 누리는 자녀가 되십시다.

(4) 결론

순종은 하나님의 은혜를 받는 유일한 수단이라고도 할 수 있습니다. 우리들은, 매일 계명을 어기고, 말씀에 순종하는 것이 몹시 어려운 죄성을 가지고 있습니다. 그러나 하나님은 마지막까지도 포기하지 않으시고, 우리들을 사랑해 주시고 예수님이 걸으신 순종의 완성을 우리들의 삶을 통해서 완성해 가시려고 하시는 것입니다. 이 하나님의 은혜를 진심으로 감사하고 황송하게 여기며 기쁨으로 받는 우리들이 되기를 바랍니다.

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