2023年01月22日「心を洗え 마음을 정결케 하라」

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心を洗え 마음을 정결케 하라

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マタイによる福音書 15章1節~20節

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聖句のアイコン聖書の言葉

15:1そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。
15:2「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」
15:3そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。
15:4神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。
15:5それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、
15:6父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。
15:7偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。
15:8『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。
15:9人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている。』」
15:10それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。
15:11口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」
15:12そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。
15:13イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。
15:14そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」
15:15するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。
15:16イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。
15:17すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。
15:18しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。
15:19悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。
15:20これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 15章1節~20節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

食事の前に手を洗わない、それは当時のユダヤの社会において自分自身が清くないと言っているのと同じことでした。汚れはユダヤ人の忌み嫌うことです。汚れた人は神殿の聖所からも、ユダヤ人の共同体からも遠ざけられ、神との交わりからも絶たれることになります。従いまして、あらゆる時と場所において清さを保たなければならないという強い思いが、ファリサイ派の人々の心を支配していたのです。

ご存じのようにこの掟は、衛生面からではなく、宗教的・儀式的な面から定められていて、清めと汚れに関するものですが、そもそも「食事の前に手を洗いなさい」という掟は、どこにあるのでしょうか。実は、このような掟は旧約聖書の律法を探しても、どこにも見当たりません。強いて言うなら、祭司が祭儀を執り行う際、手と足を洗うようにという規定がありますが(出30:17~21です。関心がある方は後でお調べください。)、その規定を「昔の人の言い伝え」(直訳すると「長老たちによる言い伝え」)として、ユダヤ人全般に食前に手を洗うように適用しようとしたのであります。当時、会堂で熱心に、律法や、この「言い伝え」なるものを教えていたファリサイ派と律法学者たちは、民から尊敬され、支持されていました。なぜなら、祭司の系列であるサドカイ派は、時の政治権力と結び付いていたため、ファリサイ派と律法学者の方が、よほど純粋に宗教的敬虔さを持っていると人々は見ていたからです。ファリサイ派と律法学者は、なぜ、このような言い伝えを作ったのかと言えば、民に律法をしっかり守らせようとする動機からでありました。律法に触れる危険があるところを、少し大きめに、余裕を持って、言ってみれば律法の周辺に垣根を張るかのように規則を設けたのです。それによって、律法に触れたり、律法を破ったりすることのないようにということです。このように最初の動機は良かったのですが、そのことが結果的に、人間中心の規則となってしまい、神様の御心から大きくかけ離れてしまいました。

【1】. 人間の戒め

さて、1節を見ると、「ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った」とあります。エルサレムからガリラヤ地方まで、その距離は約170キロ。現在であれば車で三時間もあれば移動できる距離ですが、当時は歩いて、4日かかっただろうと言われています。彼らは何をしに来たのかと言えば、イエス様の評判が広まるにつれ、これ以上無視できなくなり、このまま置いておけば、自分たちの権威と名声に傷がつくと考えたため、エルサレムの当局からわざわざ調査団をガリラヤに派遣したのであります。その目的は、イエス様の問題点を指摘し、イエス様をつぶすためでありました。彼らはイエス様に質問します。2~3節をご覧ください。

「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。

ここで、イエス様は、ファリサイ派の人々と律法学者の質問には答えていません。逆に、当時のラビたちがよくするように質問によって質問に答えています。「あなたたちは、昔の人の言い伝えを守っていないと私を咎めるが、なぜもっと大切な神の律法を破っているのですか」と言っているのです。つまり、ファリサイ派の人々と律法学者は、先祖の言い伝えを順守していると胸を張りながら、それが免罪符のようになって神の律法を破っていたのです。彼らはエルサレムからはるばるイエス様を指導する目的で来たのですが、逆に聖書の御言葉を通して、警告を受けるはめになりました。7~9節をご覧ください。

偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている。』」

この御言葉はイザヤ書からの引用です。これを聞いたファリサイ派の人々と律法学者たちは、彼らの自負心とプライドを傷つけられたに違いありません。誰よりも自分たちが聖書の御言葉に明るいと思っていましたが、逆に聖書の御言葉によって警告されたからです。このことを、私たちに適用するなら、私たちは、自分の知恵や知識によって高ぶったり、自負心などを持つことなど、一切できないということです。いくら私たちが勉強し、知識を蓄え、自分は知恵ある者だと思っても、神の御前において罪人に過ぎず、何も分かっていない幼子同然だからです。そのことをわきまえながら、日々「主よ、私は罪深い人間です。どうぞ、御言葉の灯によって私の心を照らしてください。あなたに全てを委ねる中で、神の御心と神の知恵を悟る者とさせてください。」とへりくだって祈るべきであります。

【2】. 心の洗い清め

「手の洗い」について、論争が振りかけられましたので、そのついでにイエス様は大切な真理を弟子たちにお教えになりました。それは、清めのためには「手の洗い」が重要なのではなく、「腐敗してしまった心の洗い」が重要だと言うのであります。10~11節をご覧ください。

それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」

イエス様がここで言われていることは、ユダヤ人にとって極めて衝撃的な内容でした。口に入るものは人を汚すことはないと言われたからです。このお言葉は、彼らが熱心に守ってきた所謂、食物規定を否定するかのようにも聞こえるからです。この衝撃的なお言葉のために、弟子たちはイエス様に近寄り「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と進言したのも無理はないことでした。ユダヤ人であれば、誰でも律法に書かれた食物規定を大切に守って来ました。レビ記11章、申命記14章に、その具体的な内容が書かれています。もちろん、ユダヤ人であるイエス様も弟子たちもこの食物規定を大切に守って来たはずです。そのことは、使徒言行録10章において、ペトロがイエス様の復活後も、いまだに食物規定を守っており、その夢の中で、「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」と言ったペトロの言葉から推測されます。ですから、イエス様は十字架に架かられ、復活し、律法の本当の意味を回復されたという意味において、初めて食物規定を廃止されますが、十字架に架かられる前の、この時点では、食物規定を否定するために語ったのではなく、食前の手洗いについて、「昔の人の言い伝え」について反論していると思われます。イエス様は、心配する弟子たちに次のように答えています。14節をご覧ください。

そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。

ここで、イエス様はファリサイ派の人々を指して盲人と言っていますね。盲人とは、光を見たことのない人のことです。実はイエス様こそ、世に来られた真の光でありますが、ファリサイ派の人々はイエス様との人格的な出会いを経験していない、イエス様を自らの救い主として受け入れていないという意味です。光を見たことがない人が、どうして光の下へ、道案内することができるのかと言っているのです。そこで弟子たちを代表するかのようにペトロが質問しました。「そのたとえを説明してください」。そのたとえとは、11節の「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」というお言葉を指しています。イエス様は律法の食物規定を否定するために語ったのではないとすると、このペトロの質問には何と答えられたのでしょうか。続く16~20節をご覧ください。

イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」

イエス様の論点は、罪と汚れに焦点が当てられています。まず最初に、理解しなければならないことは、手を洗わずに食事をしたときに、罪と汚れがその人本人に伝染することはないということを教えています。聖書が主張するのは、まさにこの点でありまして、万物は神様の被造物でありますから、そもそも他の動物と比べて、より罪深い動物などというものは存在しません。神の被造物は全て聖いのであります。むしろ、罪と汚れは人間の「心」から発生し、人間の心を通して万物に波及していったと考えるべきです。アダムとエバが罪を犯した時のことを思い起こしてください。彼らが神の律法を破ったことが罪なのであって、善悪の知る木の、その果実に罪の性質とか、罪の菌のようなものが入っていてそれが伝染したということではありません。罪は心から生じるのです。人間の心こそ、「悪意、殺人、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口」など、全ての悪い思いと汚れの温床であり、罪が生み出される根源なのです。人が清められるためにはまず、この心において洗い清めを受けなければならないのです。

しかし、人間は自分が罪人であることや、自分が汚れていることを、光である神に照らしてもらわないと認識することさえできません。従って、人間を聖くするのは、専ら神さまの御業であって、人間の行いによるのではないということが分かります。人間にはその汚れさえ認識できないのですから。罪からの聖めとは、私たちの罪の為に十字架に架かられ、復活してくださったイエス・キリストの恵みによる以外にはありません。聖霊によって、私たちがキリストの血によって洗い清められたという霊的な事実を、心の深い部分で、信じ、受け入れられるようになるのです。この信仰によって、初めて私たちは心の洗い清めを受けることができるのです。旧約聖書において、心の洗い清めを「心の割礼」という言葉で表現されています。申命記30:6をご覧ください。

あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる。

心に割礼を受けて、上からの恵みにより心が洗い清められて、初めて、神を愛し、神に仕え、人々に仕えることが出来るのです。

【3】. 旧約の食物規定の意味

それではなぜ、旧約聖書には、ある動物は聖く、ある動物が汚れているという「食物規定」が与えられたのでしょうか。それはイスラエルを異教の人々から区別するためでありました。自分たちを区別するためです。異教の人々が美味しそうに食べる豚肉ですが、イスラエルの民はあえて食べることをしませんでした。汚れた動物として区分されていたからです。異教の人々が血の滴る牛肉、血の滴る羊の肉など食べる時、イスラエルの民はあえて食べることをしません。血抜きをしなければ、食べることが許されなかったからです。このように周囲の異教の民が当然のようにしていることを、イスラエルの民には許されなかった、それは自分たちが神の民として区別されており、神の宝の民であるというアイデンティティを、はっきり自覚させるためであったと考えられます。イスラエルの民は依然として罪深い者でありますが、神様がその罪を赦してくださったことを覚えるために食物規定を守ったのです。依然として弱い者、頑なな者でありますが、神様が恵みによって罪を贖ってくださり、きれいにしてくださり、既に神に受け入れられていることを覚えるために、食物規定を守ったのです。言い換えるなら、自分たちが聖なる民であるという、その主の約束に堅く立つため、神との関係が和解されたという信仰に生きるために、食物規定を守ったのであります。

【結論】

食物規定を守りながら信仰に生きた旧約の民と同じように、律法が回復された新約時代に生きる私たちにも、やはり信仰が要求されています。もちろん食物規定を、守るということではありませんが、真の光であるイエス様に出会い、心を洗い清めていただくことです。イエス・キリストを信じ、受け入れるならば、生ける命の水がそこから湧き出るようになるでしょう。しかし、私たちはこの世で生きる限り、依然として罪人であることに変わりません。天の都に入れられる日まで、この地上にあって罪との戦い、信仰に堅く立ち続けることの戦いに置かれています。ですから、再び、自分の口から悪い思いや、罪深さが出て来てしまったと思った時、或いは自分の口から人を傷つける言葉が出て来てしまったと思った時、どうぞ、その時には罪を御前に告白し、心から悔い改め、赦しを希いましょう。また、自分はしっかり守っている、自分は何かをやり遂げたという考えは、それが自分の義となりやすいのが人間の弱さであります。自分の熱心さが義の基準となり、他人を見下してしまい、互いに愛し合うことが難しくなるものです。このような変質してしまった心、律法の教える愛の道からかけ離れた心は、人間の力では中々気づきません。御言葉によって自分を照らしていただいて、初めて気づくことが出来るでしょう。私たちは日々聖書を開き、神様との交わりを通して、日々心を洗っていただく者とさせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

마음을 정결케 하라

2023년 1월 22일 센겐다이 교회 주일 설교

마태복음 15장 1-20절

1 그 때에 바리새인과 서기관들이 예루살렘으로부터 예수께 나아와 이르되

2 당신의 제자들이 어찌하여 장로들의 전통을 범하나이까 떡 먹을 때에 손을 씻지 아니하나이다

3 대답하여 이르시되 너희는 어찌하여 너희의 전통으로 하나님의 계명을 범하느냐

4 하나님이 이르셨으되 네 부모를 공경하라 하시고 또 아버지나 어머니를 비방하는 자는 반드시 죽임을 당하리라 하셨거늘

5 너희는 이르되 누구든지 아버지에게나 어머니에게 말하기를 내가 드려 유익하게 할 것이 하나님께 드림이 되었다고 하기만 하면

6 그 부모를 공경할 것이 없다 하여 너희의 전통으로 하나님의 말씀을 폐하는도다

7 외식하는 자들아 이사야가 너희에 관하여 잘 예언하였도다 일렀으되

8 이 백성이 입술로는 나를 공경하되 마음은 내게서 멀도다

9 사람의 계명으로 교훈을 삼아 가르치니 나를 헛되이 경배하는도다 하였느니라 하시고

10 무리를 불러 이르시되 듣고 깨달으라

11 입으로 들어가는 것이 사람을 더럽게 하는 것이 아니라 입에서 나오는 그것이 사람을 더럽게 하는 것이니라

12 이에 제자들이 나아와 이르되 바리새인들이 이 말씀을 듣고 걸림이 된 줄 아시나이까

13 예수께서 대답하여 이르시되 심은 것마다 내 하늘 아버지께서 심으시지 않은 것은 뽑힐 것이니

14 그냥 두라 그들은 맹인이 되어 맹인을 인도하는 자로다 만일 맹인이 맹인을 인도하면 둘이 다 구덩이에 빠지리라 하시니

15 베드로가 대답하여 이르되 이 비유를 우리에게 설명하여 주옵소서

16 예수께서 이르시되 너희도 아직까지 깨달음이 없느냐

17 입으로 들어가는 모든 것은 배로 들어가서 뒤로 내버려지는 줄 알지 못하느냐

18 입에서 나오는 것들은 마음에서 나오나니 이것이야말로 사람을 더럽게 하느니라

19 마음에서 나오는 것은 악한 생각과 살인과 간음과 음란과 도둑질과 거짓 증언과 비방이니

20 이런 것들이 사람을 더럽게 하는 것이요 씻지 않은 손으로 먹는 것은 사람을 더럽게 하지 못하느니라

서론

식사전에 손을 씻지 않는다는 것은 당시의 유대인 사회에 있어서 자기자신이 정결하지 않다는 것을 말하는 것과 같은 일이었습니다. 더러움은 유대인이 싫어하는 것이었습니다. 정결치 못한 사람은 신전의 성소로부터 유대인의 공동체에서 멀어지게 되고 하나님과의 교제에서도 끊어지게 됩니다. 그렇기 때문에 모든 때와 장소에서 정결함을 유지해야 한다는 강한 생각이 바리새인들의 마음을 지배하고 있었습니다.

아시다시피 이 규례는 위생적인 이유에서가 아니고 종교적, 의식적인 면에서 규정되어져 있어 정결함과 더러움에 관한 것이었습니다만 원래부터 “식사하기 전에는 손을 씻으십시오”라고 하는 규례는 어디에 있는 것입니까? 실은 이런 규례는 구약성경의 율법을 찾아봐도 어디에도 없습니다. 굳이 말하자면 제사장이 제의를 집행할 때 손과 발을 씻도록 하는 규례가 있습니다만 (출애굽 30장 17-24절입니다. 관심이 있는 분은 나중에 찾아보시길 바랍니다.) 그 규례를 「장로들의 전통」으로 만들어 유대인 전체적으로 식전에 손을 씻도록 적용하려고 했던 것입니다. 당시 회당에서 열심히 율법과 이 전통을 가르치고 있던 바리새파와 율법학자들은 백성으로부터 존경받고 지지를 받고 있었습니다. 왜냐하면 제사장의 계열인 사두개파는 당시의 정치권력과 결탁되어 있었기 때문에 바리새파와 율법학자쪽이 더 순수한 종교적 경건함을 가지고 있다고 사람들은 보고 있었기 때문입니다.

바리새파와 율법학자는 왜 이런 전통을 만들었는가 하면 백성들이 율법을 제대로 지키게 하려는 동기때문이었습니다. 율법에 근접할 위험이 있는 부분에 대해서, 조금 확대해서 말하자면 율법의 주변에 울타리를 치는 것처럼 규례를 마련한 것입니다. 그렇게 해서 율법을 건드리거나 율법을 어기거나 하지 않도록 하기 위함이었습니다. 이와 같이 최초의 동기는 좋았는데 그것이 결과적으로 인간 중심의 규정이 되어 버려 하나님의 뜻에서 크게 벗어나고 말았습니다.

(1) 인간의 가르침

그런데 1절을 보면 바리새파 사람들과 율법학자들이 예루살렘에서 예수께로 와서 말했다고 합니다. 예루살렘에서 갈릴리 지방까지의 거리는 약 170km로 현재라면 차로 3시간정도면 이동할 수 있는 거리입니다만 당시는 걸어서 4일 정도 걸렸을 것이라고 합니다. 그들은 무엇을 하러 그 멀리서 부터 왔을까요? 예수님의 평판이 퍼질수록 더 이상은 무시할 수가 없게 되어 이대로 두면 자신들의 권위와 명성에 위협이 된다고 생각했기 때문에 예루살렘 당국이 일부러 조사단을 파견한 것입니다. 그 목적은 예수님의 문제점을 지적하고 예수님을 무너뜨리기 위한 것이었습니다. 그들은 예수님께 질문합니다. 2-3절을 참조하여 주십시오.

2 당신의 제자들이 어찌하여 장로들의 전통을 범하나이까 떡 먹을 때에 손을 씻지 아니하나이다

3 대답하여 이르시되 너희는 어찌하여 너희의 전통으로 하나님의 계명을 범하느냐

여기서 예수님은 바리새인들과 율법학자들의 질문에 대답하지 않았습니다. 반대로 당시의 랍비들이 그렇게 잘 하듯이 받은 질문에 대해서 대답하는 대신에 다시 질문으로 답을 하고 있습니다. “너희들은 장로들의 전통을 지키지 않는다고 나를 추궁하고 있지만 너희는 왜 더 중요한 하나님의 율법을 어기고 있느냐?”라고 말씀하십니다. 즉 바리새파 사람들과 율법학자는 조상의 말씀을 준수하고 있다고 가슴을 펴고 그것이 면죄부처럼 되어 하나님의 율법을 깨고 있었던 것이었습니다. 그들은 예루살렘에서 부터 예수님을 지도할 목적으로 헐레벌떡 왔지만 반대로 성경의 말씀을 통해 경고를 받기 시작했습니다. 7-9절을 보아 주십시오.

7 외식하는 자들아 이사야가 너희에 관하여 잘 예언하였도다 일렀으되

8 이 백성이 입술로는 나를 공경하되 마음은 내게서 멀도다

9 사람의 계명으로 교훈을 삼아 가르치니 나를 헛되이 경배하는도다 하였느니라 하시고

이 말씀은 이사야서에서 인용한 말씀입니다. 이것을 들은 바리새파의 사람들과 율법 학자들은 자신들의 자부심과 자존심에 상처를 입었음에 틀림이 없었습니다. 누구보다도 자신들이 성경의 말씀에 밝다고 생각했는데 반대로 성경 말씀으로 경고를 받았기 때문이었습니다. 이것을 우리들에게 적용을 한다면 우리는 자신의 지혜나 지식에 의해서 교만해지거나 자부심을 가진다는 것은 일절 할 수 없습니다. 아무리 우리가 공부하고, 지식을 축척하고 자신은 지혜로운 사람이라고 생각해도 하나님 앞에서는 죄인에 불과하며 아무것도 모르는 어린아이와 같기 때문입니다. 그 사실을 깨닫고 날마다 “주님. 저는 죄 많은 인간입니다. 제발, 말씀의 빛으로 제 마음을 비추어 주십시오. 주님께 모든 것을 의탁하고 하나님의 마음과 지혜를 깨닫게 하여 주십시오.”라고 겸손하게 기도해야 합니다.

(2) 마음의 정결

손 씻기에 대해 논쟁이 시작된 김에 예수님은 소중한 진리를 제자들에게 가르치셨습니다. 그것은 정결을 위해서는 손 씻기가 중요한 것이 아니라 부패해버린 마음의 정결이 중요하다는 말씀이셨습니다. 10-11절을 보아 주십시오.

10 무리를 불러 이르시되 듣고 깨달으라

11 입으로 들어가는 것이 사람을 더럽게 하는 것이 아니라 입에서 나오는 그것이 사람을 더럽게 하는 것이니라

예수님께서 여기서 말씀하신 것은 유대인에게는 매우 충격적인 내용이었습니다. 입으로 들어가는 것은 사람을 더럽히지 않는다고 말씀하셨기 때문입니다. 이 말은 그들이 열심히 지켜온 소위, 음식에 대한 규례를 부정하는 것처럼 들렸기 때문이었습니다.

이 충격적인 말을 들은 제자들은 예수님께 가까이 다가가 “바리새파 사람들이 이 말씀을 듣고 불쾌해 하고 있는 것을 알고 계십니까?”라고 말한 것도 무리는 아닙니다.

유대인이라면 누구나 율법에 적힌 음식에 대한 규례를 소중히 지켜 왔습니다. 레위기 11장, 신명기 14장에 그 구체적인 내용이 적혀 있습니다. 물론 유대인인 예수님도 제자들도 이 음식에 대한 규례룰 소중히 여기며 지켜 왔을 것입니다.

그것은 사도행전 10장에서 베드로가 예수님의 부활 후에도 여전히 음식에 대한 규례를 지키고 있으며 꿈에서 “주여. 말도 안됩니다. 정결하지 않은 것, 더러운 것은 아무것도 먹은 적이 없습니다.”라고 말한 베드로의 말에서 추측할 수 있습니다. 그러므로 예수님은 십자가에 못 박힌 후에 부활하고 율법의 진정한 의미를 회복하셨다는 의미에서 처음으로 음식에 대한 규례를 폐지하시지만 십자가에 못박히시기 전의 이 시점에서는 음식에 대한 규례를 부정하시기 위해서 말씀하신 것이 아니라 식전의 손 씻기에 관한 장로의 전통에 대해서 반론하고 있다고 생각됩니다. 예수님은 걱정하는 제자들에게 다음과 같이 대답하십니다. 14절을 참조하여 주십시오.

14 그냥 두라 그들은 맹인이 되어 맹인을 인도하는 자로다 만일 맹인이 맹인을 인도하면 둘이 다 구덩이에 빠지리라 하시니

여기서 예수님은 바리새파 사람들을 가리켜 맹인이라고 말하고 있네요. 맹인이란 빛을 본 적이 없는 사람입니다. 실은 예수님이야말로 세상에 온 진정한 빛이지만, 바리새파 사람들은 예수님과의 인격적인 만남을 경험하지 않은 예수님을 자신의 구세주로 받아들이지 않고 있다는 의미입니다. 빛을 본 적이 없는 사람이 어떻게 해서 빛으로 가는 길 안내를 할 수 있느냐라고 말씀하고 있는 것입니다. 거기서 제자들을 대표하는 것처럼 베드로가 입으로 들어가는 것이 사람을 더럽게 하는 것이 아니라 입에서 나오는 그것이 사람을 더럽게 하는 것이라는 11절의 비유를 설명해 달라고 요청합니다. 예수님이 율법의 음식에 대한 규례를 부정하기 위해 말씀한 것이 아니라고 한다면 이 베드로의 질문에는 무엇이라고 대답하셨습니까?

다음으로 이어지는 16-20절을 참조하십시오.

16 예수께서 이르시되 너희도 아직까지 깨달음이 없느냐

17 입으로 들어가는 모든 것은 배로 들어가서 뒤로 내버려지는 줄 알지 못하느냐

18 입에서 나오는 것들은 마음에서 나오나니 이것이야말로 사람을 더럽게 하느니라

19 마음에서 나오는 것은 악한 생각과 살인과 간음과 음란과 도둑질과 거짓 증언과 비방이니

20 이런 것들이 사람을 더럽게 하는 것이요 씻지 않은 손으로 먹는 것은 사람을 더럽게 하지 못하느니라

예수님의 논점은 죄와 더러움에 초점을 맞추고 계십니다. 우선 이해해야 하는 것은 손을 씻지 않고 식사를 할 때 죄와 더러움이 그 사람에게 전염되지 않는 다는 것을 가르치십니다. 성경이 주장하는 것은 바로 이 점이었고 만물은 하나님의 피조물이기 대문에 원래 다른 동물에 비해서 더 죄 많은 동물이라는 것은 존재하지 않습니다. 하나님의 피조물은 모두 거룩합니다. 오히려 죄와 더러움은 인간의 마음에서 발생하여 인간의 마음을 통해 만물에 파급되어 갔다고 생각해야 합니다. 아담과 하와가 죄를 지었을 때를 기억하십시오. 그들이 하나님의 율법을 깨뜨린 것이 죄인 것이고, 선악을 아는 나무의 그 과실에 죄의 성질이라든지 죄의 균과 같은 것이 들어 있고 그것을 먹었기 때문에 죄인이 된 것이 아닙니다. 죄는 마음에서 발생하는 것입니다. 인간의 마음이야말로 악의, 살인 간음, 음란한 행위, 도둑질과 거짓 증언과 비방등 모든 나쁜 생각과 더러움의 온상이며 죄가 만들어지는 근원입니다. 사람이 깨끗하게 되기 위해서는 우선 이 마음이 정결함을 받아야 하는 것입니다.

하지만 인간은 자신이 죄인이라는 것과 자신이 더러워진 것을 빛되신 하나님께서 밝혀주시지 않으면 인식할 수 조차 없는 존재입니다. 그러므로 인간을 거룩하게 만드는 것은 하나님만이 하실 수 있는 하나님의 역사이며 인간의 어떠한 행위에 의한 것이 아니라는 것을 알 수 있습니다. 인간은 자신의 힘으로는 그 더러움조차 인식할 수가 없기 때문입니다.

죄로부터의 거룩함은 우리의 죄를 위하여 십자가에 못박혀 부활하신 예수 그리스도의 은혜로 밖에는 얻을 수 없습니다. 성령으로 우리가 그리스도의 피로 씻김을 받았다는 영적인 사실을 마음의 깊은 부분에서 믿고 받아들이게 되는 것입니다. 이 사실을 믿음으로 인해서 비로서 우리는 마음의 정결함을 받게 되는 것입니다. 구약성경에서 마음의 정결함을 받는 것을 마음의 할례라는 말로 표현하고 있습니다. 신명기 30장 6절을 참조하여 주십시오.

신명기 30장 6절

네 하나님 여호와께서 네 마음과 네 자손의 마음에 할례를 베푸사 너로 마음을 다하여 뜻을 다하여 네 하나님 여호와를 사랑하게 하사 너로 생명을 얻게 하실 것이며

마음의 할례를 받아 하늘로부터의 은헤로 인해 마음의 정결함을 받고 나서야 하나님을 사랑하고 하나님을 섬기고 사람들을 섬길 수가 있는 것입니다.

(3) 구약의 음식에 대한 규례의 의미

그러면 왜 구약에서는 어떤 동물은 정결하고 어떤 동물은 정결하지 않다는 규례가 주어진 것일까요? 그것은 이스라엘을 이교도를 믿는 이방인과 구별하기 위해서입니다. 이교도 사람들이 맛있게 먹는 돼지고기를 이스라엘 백성은 일부러 먹지 않았습니다. 정결하지 못한 동물로 구분되어 있었기 때문입니다. 이교도 사람들이 피가 떨어지는 쇠고기나 양고기등을 먹을 때 이스라엘 백성들은 일부러 먹지 않았습니다. 피를 빼지 않으면 먹을 수 없었기 때문입니다. 이와 같이 주변의 이교도의 백성이 당연히 하고 있는 것이 이스라엘 백성에게는 허락되지 않았다는 것은 그들이 하나님의 백성으로 구별되고 하나님의 보물과 같은 백성이라는 정체성을 분명하게 각인시키기 위한 것이었다고 생각됩니다. 이스라엘 백성은 여전히 죄 많은 자이지만 하나님께서 그 죄를 용서해 주신 것을 기억하기 위해 음식에 대한 규례를 지킨 것이었습니다. 여전히 약한자, 완고한 자이지만 하나님의 은혜로 죄사함을 받고 정결케 해주시고 이미 하나님께 받아들여졌다는 사실을 기억하기 위해서 음식에 대한 규례를 지켰습니다. 바꾸어 말하면 자신이 거룩한 백성이라는 그 주님의 약속에 굳게 서기 위해 하나님과의 관계가 화해되었다는 믿음으로 살기 위해 음식에 대한 규례를 지키는 것입니다.

결론

음식에 대한 규례를 지키면서 믿음으로 산 구약의 백성과 마찬가지로 율법이 회복된 신약시대에 사는 우리에게도 역시 믿음이 요구되고 있습니다. 물론 음식에 대한 규례를 지킨다는 것은 아니지만, 진정한 빛인 예수님을 만나 마음이 정결케 됨을 받은 것입니다. 예수 그리스도를 믿고 받아들인다면 살아있는 생수가 솟아나게 될 것 입니다.

그러나 우리들은 이 세상에서 살아가는 동안 여전히 죄를 짓는다는 사실에는 변함이 없습니다. 하늘의 도성에 들어가는 그날까지 이 지상에서 죄와의 싸움, 믿음에 굳게 서는 싸움을 해야 합니다. 그러므로 나쁜 생각으로 자신의 입으로 죄를 지었을때마다 혹은 자신의 말로 사람에게 상처를 주는 말을 했을때 반드시 하나님께 고백하고 진심으로 회개를 하고 용서를 구해야 합니다. 또한 자신은 잘 지키고 자신이 무엇인가를 해냈다는 생각은 그 것이 자신의 의가 되기 쉬운 것이 인간의 연약함입니다. 자신의 열심이 의의 기준이 되어 타인을 자신보다 아래로 여겨 서로 사랑하는 것이 어려워지는 것입니다. 이러한 변질해버린 마음, 율법이 가르치는 사랑의 길에서 벗어난 마음은 인간의 힘으로는 좀처럼 깨닫지 못합니다. 말씀이 비추어 주셔야 비로서 깨닫게 되는 것입니다. 우리는 매일 성경을 펼쳐 하나님과의 교제를 통해 날마다 마음이 정결케 됨을 받는 성도로서 살아갑시다.

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