2023年01月15日「福音にふさわしい生活 복음에 합당한 생활」

問い合わせ

日本キリスト改革派 千間台教会のホームページへ戻る

福音にふさわしい生活 복음에 합당한 생활

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
フィリピの信徒への手紙 1章27節~30節

音声ファイルのアイコン音声ファイル

礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。

聖句のアイコン聖書の言葉

1:27ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、
1:28どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。
1:29つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。
1:30あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
フィリピの信徒への手紙 1章27節~30節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

獄中の中にいるパウロは、フィリピの兄弟姉妹のために祈りつつ、この手紙を書いています。パウロが特にフィリピの人々のために強く訴えていることは、共同戦線を張るということだと思います。共同戦線というのは、武力によるものではなく、霊的なものであって、福音の信仰のための共同戦線という意味です。現在、福音の信仰のために戦っているパウロ自身と同じ戦いを、実は、フィリピの兄弟姉妹も共に霊的に戦っているということ、そのことに目が開かれるようにと、祈りつつ手紙を書いているのであります。

【1】. 天の都の市民として、福音に与っている市民として

この共同戦線のためにパウロが主張する最も重要なことは、「福音に相応しい生活を送りなさい」ということでありました。「生活を送りなさい」というギリシア語に注目しますと、市民権(ポリテイア)という言葉の語根を持つ動詞(ポリテュオマイ)が使われていて、直訳しますと「~市民に相応しく生活するように」となっています。ポリスが都市、ポリテイアが市民権、そしてここで使われている動詞ポリテュオマイが「~市民に相応しく生活する」ということです。小ローマと呼ばれたフィリピに住んでいる人々は、自分たちがローマの市民権を持っていることに大変誇りを持っていましたから、この言葉はフィリピの兄弟姉妹にとって大変分かりやすい説明であったに違いありません。あなた方がローマ市民であることに誇りを持っているのと同じように、天の都の市民であることを誇りに思いなさい。天の都の市民として、福音に与っている市民として、それに相応しく生活しなさいとパウロは言うのです。

それでは、「福音に相応しく」、と言いますが、「福音」とはそもそも何でしょうか。福音とは、今も昔も変わりません。洗礼を受けられた方、信仰を告白された方なら、誰でも信じている内容です。今から2,000年前にイエス・キリストが十字架に架かられ、血潮を流し、死なれたことが、私たちの罪のためであったということです。そして、その福音を信じる全ての人々の罪が、神の御前に赦され、神の家族として受け入れられ、天の嗣業を相続することができるようにされたということです。言い換えれば十字架のイエス・キリストを、救い主として信じるということですね。この、今も昔も変わらない紋切り型の言葉でありますが、この言葉は聖書を通して聞く度に、新しい悟りが与えられ、この言葉を改めて信じる度に、新しい力が与えられるのです。ですから十字架の福音は、古くて、同時に新しい言葉であると言えるでしょう。ところが、世の人々の多くは、この十字架の福音をどうしても信じることが出来ません。「なぜ、あのように惨めに処刑された人間が、救い主であり得るのか。十字架で殺された人物を救い主だなんて、全く愚かな話だ。確かに道徳的な教えをしてくれたかもしれないが、結局、志し半ばで、不慮の死を遂げた男を、自分の救い主だなんて、信じたくても信じることが出来ない!」と、このように考えるのであります。十字架の福音とは、世の人々にとっては、いかにも愚かなものですが、信じる人々にとっては、まさに神の力なのです。パウロが言っているのは、この十字架の福音を巡る、信仰の戦いについてであります。27~28節の途中までをご覧ください。

ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。

28節を見ますと、どうやらフィリピの教会には反対者からの脅威があったこと、そして教会の内部に分裂・分派の問題があったということが推測されます。反対者とは具体的に誰なのか書かれていないため、はっきり分かりませんが、この反対者が誰であれ、外からの迫害や攻撃に遭った時に、もし、教会の内側に分裂、分派などがあるなら、信仰の戦いを続けることは難しくなるでしょう。もし、教会の内側に分裂、分派などがあるなら、求心力である信仰の火が消され、信仰を持ち続けること自体、愚かな事として思えてしまうでしょう。ですから、パウロは、一つの霊によってしっかり立ち、一つの心で戦うようにと勧めています。

一つの霊によって立つ、これは「聖霊による一致が与えられる」という意味だと思います。信徒の間にも色々な価値感があり、それぞれ多様性があることは、神の国が持つ豊かさ、多様性の現れであると言えます。しかし、そのような多様性の中にあっても、一つの霊が全ての聖徒に注がれているため、一致が与えられるのです。どんなに多様性があっても、聖霊によって聖徒たちは一致することができるのです。この神の霊による一致は、聖徒一人ひとりの、心の一致をもたらし、ついには分裂・分派の問題が大変、小さな問題として、些細でくだらない問題として、映ってくるのだと思います。また、「しっかり立ち」という言葉ですが、この言葉は軍事用語であり、よく競技において戦う意味で用いられました。「砦に配置された兵士のごとく断固として立つ」というような意味です。ですから「一つの霊によってしっかり立ち、一つの心になって」という言葉を聞いたフィリピの兄弟姉妹は、もしかしたら、ローマ兵たちが盾を持ちながら戦場に出て行き、隊を組んできちんと並んで戦っている姿を思い浮かべたのかもしれません。外からの迫害に対し、霊的な共同戦線を張りながら、信仰の戦いを戦い抜くことが勧められているのです。

【2】. キリストのために苦しみ

さて、28節の続きの部分を聖書協会共同訳で見ると、少し翻訳が変更されています。こちらの良い訳だと思いましたので、プリントいたしました。ご覧ください。

…このことは、彼らには滅びのしるし、あなたがたには救いのしるしです。これは神によることです。

パウロは、この世での福音の信仰のための戦いを、あなた方には救いのしるしであり、世の人々にとっては滅びのしるしであると言っています。これはどういうことかと言いますと、間もなくあなた方は救われ、間もなく世の人々は滅ぼされるだろうということではありません。ここで言う「救い」と「滅び」とは、この世において起こる現象ではなく、むしろ終末的な現象であります。分かりやすく考えるなら、個人の終末として考えてください。死んだ後のことを言っているのです。この世における福音の戦い、信仰の戦いとは、死後に、天の都に引き上げられるしるし、証拠だと言うのです。そして、この世において神の福音に戦いを挑み、聖徒を迫害し、苦しめる反対者たちは、死後、神によって滅ぼされるしるし、証拠だと言うのです。従って、神の民は、この世において、反対者たちから苦しめられるのであり、そのことは神のご計画の範囲内のことであるとパウロは言っているのです。いよいよパウロの言っていることが難しくなってきました。引き続き29節をご覧ください。

つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。

信仰とは、神様から恵みによって与えられた賜物でありますが、それと同じようにパウロは、キリスト者がキリストのために苦しむことも、神様から恵みとして与えられていると言うのです。こんなことを聞くと、私たちは、「神の豊かな祝福を受けるために、幸いな人生を享受するために、イエス様を信じたはずではなかったのか?」と思われるでしょう。確かにその通りでございます。それではパウロの言っていることはどういう意味でしょうか。パウロは、現在、獄中に捕らえられ、キリストのために苦難に遭っています。そうであるなら、「自分はこのように苦しんでいるが、あなた方は、私のような苦しみに遭わないように」と助言をするのが普通ではないでしょうか。親心から「あなた方は、同じ轍を踏んではならない、自分と同じ失敗をしてはならない」と人生の処世術を語ってくれるべきではないでしょうか。しかし、パウロはここで、人生の処世術をフィリピの兄弟姉妹に語るのではなく、キリストのための苦難や試練も恵みとして与えられていると言うのです。苦難や試練が、なぜ恵みなのでしょうか。実は、キリスト者が苦難に遭うということは、聖書の中で一貫して語られている主張であります。例えば、2テサロニケ1:5~7をご覧ください。

これは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠です。あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです。神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。

続いて、1テサロニケ3:3をご覧ください。

このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした。わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています。

似たような聖句を上げようとするなら切りがありませんが、このように聖書は一貫して、この世においてキリスト者は苦難に遭うだろうと語っているのです。なぜなら、それはイエス・キリストが苦難を通して栄光に入れられたからであります。キリストの弟子であるキリスト者も、やはり苦難を通して、信仰の戦い、福音の戦いを通して、栄光に入れられるように神様に導かれるのです。キリスト者が福音のために理不尽な苦難を神の力によって耐え忍ぶ時、それは、福音が真理であることの証しとなることでしょう。それは、イエス・キリストが十字架に架かられ、死なれたことが、どのように尊いことだったのか、世の人々に弁明することになるでしょう。イエス・キリストの流された血潮が、どれほど価値があり、その血によって贖われた人々には、罪の赦しと、希望が与えられていることを、世に宣べ伝えることになるのです。迫害の中で霊的な戦いを、忍耐強く共同戦線によって戦い抜くキリスト者お一人おひとりの姿を通して、ある人々に何らかの影響を及ぼし、いつの日か、それがいつになるか分かりませんが、彼らがこれまで信じてきた常識や価値観というものが揺さぶられ、神の力によって悔い改めに導かれ、救いの招きに導かれるのであります。信仰の戦い、福音の戦いとは、まさにこのような戦いです。この戦いにフィリピの兄弟姉妹も霊の一致によって参与するように、いや実際に、あなた方は既に参与しているのだ、それを堅く立ち続けるようにと、パウロは励ましているのであります。

インターネットでメッセージを聞いておりましたら、アメリカの教会で実際にあった出来事が証しされていました。テキサスにあるセントメリーズチャーチという教会がありまして、教会員が700名くらいの大きな教会ですが、ある会員の一人が天に召され、その時、彼の全ての遺産を教会に献金するということが遺言に残されていたことが明らかになりました。その遺産というのは、何と6,000万ドル、1ドル100円で計算するなら60憶円にもなりました。この大金を教会に献金したのです。当時の牧師と教会指導者たちは、その献金を受け取った後で悩みました。そして教会員とも相談した挙句、2,900万円だけ受け取り、残ったお金は、近隣の教会に分かち合ったり、慈善団体に寄付したりして、全て分かち合ったと言うのです。この話を聞いて、私はせっかく大口の献金をいただいたのに、もったいないことをするなーと思いました。しかし、その教会の牧師は、次のように言うのです。「突然生じたお金は、教会を分裂させたり、会員が献金を通して、働きに参与すべきその義務を放棄してしまったり、或いは今置かれている霊的な戦いを担って行くことが出来なくなるのでは、と恐れ、私たちの教会はその献金を所持しないように致しました。」と言うのです。ある日、大金を手にした教会が、その大金に甘んじて喜んだのではなく、信仰の戦いが弱まることを恐れ、必要最低限のお金だけを受け取って、残りは全て放棄したのです。

【結論】

私たちがもし、今、苦難に遭っていないなら、もし成功しているのなら、もし平穏に歩んでいるなら、どうぞ苦難や試練に遭っている兄弟姉妹を覚え、彼らの苦しみを共に分かち合い、彼らのためにとりなしの祈りを捧げて下さい。成功していること、平穏に歩んでいることを、ただ神様に感謝し、そのことを自慢したり、誇りに思ってはなりません。私たちがもし、福音のために苦難に遭っているなら、それは惨めに感じるかもしれませんが、そのことを決して恥じることはありません。それは、恵みとして神から与えられた、キリストのための苦しみであり、信仰の戦いに共に参与させていただいていると考えるべきです。モーセは成人したとき、ファラオの娘の子と言われるのを拒んで、罪のはかない楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐げられるほうを選び、キリストのゆえに受ける辱めをエジプトの宝にまさる富と考えました(ヘブル11:24-26)。モーセはエジプトの王子という地位を放棄し、神の民と共に辱めを受けることに身を投じたのであります。パウロが獄中で戦っている信仰の戦い、モーセが身を投じて参与した信仰の戦い、その信仰の戦いへ私たちも一つになって共に参与すること、これこそまさに福音にふさわしい生活なのです。霊の一致により、信仰の戦いに堅く立ち続けることこそ、イエス・キリストを証しし、福音の力を証しする歩みなのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

복음에 합당한 생활

빌립보서 1장 27-30절

27 오직 너희는 그리스도의 복음에 합당하게 생활하라 이는 내가 너희에게 가 보나 떠나 있으나 너희가 한마음으로 서서 한 뜻으로 복음의 신앙을 위하여 협력하는 것과

28 무슨 일에든지 대적하는 자들 때문에 두려워하지 아니하는 이 일을 듣고자 함이라 이것이 그들에게는 멸망의 증거요 너희에게는 구원의 증거니 이는 하나님께로부터 난 것이라

29 그리스도를 위하여 너희에게 은혜를 주신 것은 다만 그를 믿을 뿐 아니라 또한 그를 위하여 고난도 함께 하려 하심이라

30 너희에게도 그와 같은 싸움이 있으니 너희가 내 안에서 본 바요 이제도 내 안에서 듣는 바니라

옥중에 감금되어 있는 바울은 빌립보 교회의 형제 자매를 위해 기도하며 이 편지를 쓰고 있습니다. 바울이 특히 빌립보 교인들에게 강하게 전하고자 했던 것은, 「공동전선」을 펼치는 것이었다고 생각합니다. 「공동전선」이라고 하는 것은 무력에 의한 것이 아니고 영적인 문제로 복음의 신앙을 위한 공동전선의 의미입니다. 현재 감옥에서 복음의 신앙을 위해서 싸우고 있는 바울 자신과 같은 싸움을 사실은 빌립보 교회의 형제 자매도 함께 영적싸움를 하고 있다는 것에 눈이 뜨이길 바라는 심정으로 기도하며 편지를 쓰고 있는 것입니다.

(1) 천국시민으로서 복음을 받은 시민으로서

이 공동전선을 펼치기 위해서 바울이 주장하는 가장 중요한 것은 “복음에 합당한 생활을 살라”라는 것입니다. 이 “생활을 살라”라고 하는 헬라어에 주목을 해보면 시민권 (폴리테이아)이라고 하는 단어의 어근을 가지는 동사 (폴리튜오마이)가 사용되었습니다.

폴리스가 도시, 폴리테이아가 시민권, 그리고 여기에서 사용되어진 동사 폴리튜오마이가 「~시민으로서 합당하게 살도록」인 것입니다. 소 로마라고 불리워졌던 빌립보시에 살고 있던 사람들은 자신들이 로마의 시민권을 가지고 있다는 것을 자랑스럽게 생각하고 있었기 때문에 이 단어는 빌립보의 형제 자매들에게 아주 알기 쉬운 설명이었음에 틀림이 없습니다. 여러분들이 로마의 시민인 것을 자랑스럽게 생각하는 것처럼 천국시민이라는 것을 자랑스러워 하라고 말하고 있는 것입니다. 천국시민권을 가진 자로서 복음이 맡겨진 시민으로서 합당한 생활을 하라고 바울은 권면을 하고 있는 것입니다.

그러면 「복음에 합당한」 이라고 말하고 있는 이 「복음」이라는 것은 무엇입니까? 복음이라는 것은 오늘도 예전에도 변하지 않습니다. 세례를 받은 성도, 신앙고백을 한 성도는 누구라도 믿고 있는 내용입니다.

지금부터 2000년 전에 예수그리스도가 십자가에 못 박히고 피를 흘리고 죽으신 것이 우리들의 죄를 위해서 였다는 것입니다. 그리고 그 복음을 믿는 모든 사람들의 죄가 하나님께 용서받고 하나님의 자녀가 되고 하늘의 유업을 상속을 받을 수 있는 신분이 되었다는 것입니다. 바꿔 말하면 십자가의 예수 그리스도를 구원자로 믿는 것입니다. 지금도 옛날에도 변하지 않는 진리이지만 이 단어를 성경을 통해서 들을 때 마다 새로운 깨달음을 얻고 새로운 힘을 공급받는 것입니다. 그렇기 때문에 십자가상의 사건은 예전에 있었던 일이었으나 동시에 현재에도 살아 움직이는 것입니다.

그러나 세상의 많은 사람들은 이 십자가의 복음을 노력해도 믿을 수가 없습니다. “왜 저렇게 비참하게 십자가에서 처형을 당한 사람이 구원자인가? 참혹한 십자가에서 처형당한 사람이 구원자라니 너무나 어리석은 주장이 아닌가? 확실히 도덕적인 가르침을 전하기는 했지만 결국 뜻한바를 이루지 못하고 생각치도 못한 죽음의 결말을 맞은 사람을 내 인생의 구원자로 믿으라니 믿으려고 해도 믿을 수가 없어”라고 말하는 것입니다. 십자가의 복음은 세상 사람들에게는 어리석게 보이지만 믿는 자에게는 그야말로 하나님의 능력입니다. 바울이 말하고 있는 것은 이 십자가의 복음을 둘러싼 복음의 싸움에 대한 것입니다.

27절을 보아 주십시요.

항상 그리스도의 복음에 합당한 생활을 하라. 그러면 내가 너희에게 가 보니 떠나 있으나 나는 다음과 같은 말을 듣게 될 것이다라고 말하고 있습니다. 여러분들은 하나의 영에 의해서 굳게 서서 한 마음으로 복음의 신앙을 위해서 함께 싸우고 어떤 일이 있어도 흔들리지 말라고 말하고 있습니다.

28절을 보면 빌립보교회에 반대자로 부터의 어떠한 위협이 있었고 교회 안에서의 분열 분쟁의 문제가 있었다는 것을 추측해 볼 수 있습니다. 반대자가 구체적으로 누구 였는지는 써 있지 않기 때문에 확실히는 모르겠지만 이 반대자가 누구이던지 간에 밖으로 부터의 박해와 공격을 받았을 때 만약 교회 안에서의 분열, 분쟁이 발생한다면 한 마음으로 신앙의 싸움을 한다는 것은 어려워집니다. 만약 교회안에서 그런 일이 발생한다면 구심력의 원동력인 신앙의 불꽃이 꺼지고 믿음을 계속 가진다는 것 자체가 어리석게 보일 수 있기 때문입니다. 그렇기 때문에 바울은 한마음으로 서서 한 뜻으로 복음의 신앙을 위하여 협력하라고 말하는 것입니다.

한마음으로 선다는 것은 「성령에 의한 일치」를 의미한다고 생각합니다. 성도들 사이에서도 여러가지 가치관이 틀리고 각각의 다양성이 있다는 것은 하나님 나라의 풍부함에 대한 표시라고 말할 수 있겠습니다. 그러나 같은 성령이 내주하는 성도들은 어떤 다양성이 있더라도 성령에 의해서 일치할 수 있는 것입니다. 이 성령에 의한 일치는 성도 한 사람 한 사람의 마음의 일치를 가져오고 결국에는 분열 분쟁을 일으키는 여러 문제가 아주 사소한 문제처럼 여겨지게 되는 것입니다. 또 「한마음으로 서서」라는 단어는 군사용어입니다. 경기를 함에 있어서도 자주 사용되는 단어입니다. 「요새에 배치된 군사처럼 단호하게 서서」라는 의미입니다.

그렇기 때문에 「한마음으로 서서 한 뜻으로」 라는 단어를 들은 빌립보 교회의 형제 자매는 어쩌면 로마의 군사들이 전쟁터에 가서 방패를 들고 정렬을 맞춰 걸으며 싸우는 장면을 연상했을지도 모르겠습니다. 외부로부터의 박해에 대해서 영적인 공동전선을 펼치면서 신앙의 싸움을 하도록 바울은 권면하는 것입니다.

(2) 그리스도를 위해 받는 고난

그럼 28절을 보시길 바랍니다.

28 무슨 일에든지 대적하는 자들 때문에 두려워하지 아니하는 이 일을 듣고자 함이라 이것이 그들에게는 멸망의 증거요 너희에게는 구원의 증거니 이는 하나님께로부터 난 것이라

바울은 이 세상에서 복음의 신앙을 위한 싸움이 너희에게는 구원의 증거이고 세상 사람들에게는 멸망의 증거라고 말하고 있습니다. 이것이 무슨 의미일까요?

얼마 지나지 않아서 너희들은 구원을 받고 세상사람들은 멸망할 것이다라는 의미가 아닙니다. 여기서 말하는 구원과 멸망은 이 세상에서 살아있는 동안에 일어나는 현상이 아니고 오히려 종말적인 현상을 말합니다. 간단하게 한 개인의 종말에 일어나는 일이라고 생각해 보십시오. 죽은 뒤의 일을 말하고 있는 것입니다.

이 세상에서 사는 동안에 있을 복음의 싸움, 신앙의 싸움은 죽음 이후에 하늘나라에 들어간다는 증표이며 증거라는 것입니다. 그리고 이 세상에서 복음을 대적하고 성도를 박해하고 괴롭히는 반대자들은 죽은 후에 하나님에 의해 멸망을 당한다는 증표이며 증거라는 것입니다. 따라서 하나님의 백성은 이 세상에서 반대자들로부터 박해를 받는 것이고 그런 상황은 하나님의 계획의 범위 가운데 일어나는 것이라고 바울은 말하고 있는 것입니다.

점점 더 바울의 말이 어려워지고 있습니다. 29절을 보십시다.

29 그리스도를 위하여 너희에게 은혜를 주신 것은 다만 그를 믿을 뿐 아니라 또한 그를 위하여 고난도 함께 하려 하심이라

믿음이라는 것은 하나님의 은혜로 받은 선물입니다. 그것과 동시에 바울은 그리스도인이 그리스도를 위해서 고난을 받는 것도 하나님의 은혜로 받은 선물이라고 말을 합니다.

이런 말을 들으면 우리는 “하나님의 복을 받고 행복한 인생을 향유하기 위해서 예수님을 믿은 것이 아닌가?”라고 생각할 수 있습니다. 확실히 하나님은 우리에게 복을 주시겠다고 하셨습니다. 그러면 바울은 무슨 말을 하고 있는 것입니까?

바울은 현재 감옥에 감금되어 있고 그리스도를 위한 고난을 겪고 있습니다. 그렇다면 “나는 이렇게 고생을 하고 있지만 여러분은 저처럼 고난을 겪지 않기 위해서 조심하십시요”라고 조언하는 것이 합당하지 않을까요? 부모의 마음으로 “여러분은 나와 같이 이런 고난의 길을 걸으면 안됩니다. 나와 같은 실패를 해서는 안됩니다”라고 인생의 처세술을 가르쳐야 하지 않겠습니까?

그러나 바울은 여기에서 인생의 처세술에 대해서 말하지 않고 그리스도로 인해서 받는 고난과 시련도 은혜라는 것을 말하고 있습니다. 고난과 시련이 왜 은혜입니까? 그것은 그리스도인이 고난을 겪는 것이 성경 속에서 일관되게 증언되고 있는 주장이기 때문입니다.

예를 들면 데살로니가 후 1장 5-7절을 보십시오.

5 이는 우리 복음이 너희에게 말로만 이른 것이 아니라 또한 능력과 성령과 큰 확신으로 된 것임이라 우리가 너희 가운데서 너희를 위하여 어떤 사람이 된 것은 너희가 아는 바와 같으니라

6 또 너희는 많은 환난 가운데서 성령의 기쁨으로 말씀을 받아 우리와 주를 본받은 자가 되었으니

7 그러므로 너희가 마게도냐와 아가야에 있는 모든 믿는 자의 본이 되었느니라

비슷한 구절을 열거하자면 끝이 없지만 이런 성경말씀은 일관되게 이 세상에서 그리스도인들이 고난을 겪는다는 것을 말하고 있습니다. 왜냐하면 이것은 예수 그리스도가 고난을 겪고 영광에 이르렀기 때문입니다. 그리스도의 제자인 그리스도인들도 역시 고난을 겪으며 신앙의 싸움, 복음의 싸움을 하면서 영광에 이르도록 하나님이 인도하시기 때문입니다.

믿는 자들이 복음을 위해서 받는 이해할 수 없는 고난을 하나님이 주시는 능력으로 견디고 인내할 때 그것은 복음이 진리라는 사실을 간증하는 것입니다. 그것은 예수 그리스도가 십자가에 못 박히고 죽음을 당한 것이 얼마나 고귀한 일이었는지를 세상을 향해 변증하는 것입니다. 예수님이 흘리신 보혈이 얼마나 가치가 있고 그 보혈로 인해 구속받은 사람들이 죄 용서함과 소망을 가지게 되었다는 것을 세상을 향해 증언하는 것이기 때문입니다.

박해 가운데 영적인 싸움을 인내하며 공동전선을 펼치면서 싸워 이기는 그리스도인 한 사람 한 사람의 모습이 어떤 사람에게는 영향력을 끼쳐서 그 때가 언제인지는 모르겠지만 그들이 지끔까지 믿어왔던 상식과 가치관이 흔들리고 하나님의 능력으로 회개로의 인도하심을 받아 예수님을 구원자로 믿게 되는 일이 일어나는 것입니다.

신앙의 싸움, 복음의 싸움이라고 하는 것은 이러한 싸움인 것입니다. 이러한 싸움에 빌립보의 형제 자매도 성령의 일치에 의해서 참여할 것을, 아니 그들도 실제로 이미 그 싸움에 참여하고 있으니 계속해서 굳은 마음으로 싸우라고 바울은 격려하고 있는 것입니다.

인터넷에서 들은 멧세지에 이런 내용의 간증이 있어서 잠시 소개하고자 합니다.

텍사스주에 교인이 700명정도 되는 센츄메리즈라고 하는 큰 교회가 있습니다. 성도중에 한 분이 세상을 떠나시면서 자신의 모든 재산을 교회에 헌금한다는 유언을 남겼습니다. 그 유산의 금액은 6천만불이나 되었습니다. 1달러를 100엥으로 계산하면 60억엥정도 됩니다. 이런 막대한 유산을 헌금받은 그 당시 교회의 목사와 리더들은 고민을 했습니다. 그리고 성도들과도 상의한 끝에 필요한 2900만엥만 받고 나머지는 근처의 교회들과 자선 단체와 다 나눴다는 이야기 였습니다.

저는 이 내용을 들으면서 ‘모처럼 이런 막대한 헌금을 받고서는 아까운 일을 했구나’라고 생각했습니다. 그러나 그 교회의 목사는 이렇게 말하는 것이었습니다. “갑자기 생긴 막대한 돈은 교회를 분열시킬 수 있고 성도들이 헌금을 통해서 하늘나라 사역에 참여 해야만 하는 의무를 포기 하거나 또는 생활에서 마땅히 싸워야 할 영적 싸움을 회피하게 되는 것은 아닐까 하는 두려움이 있어서 우리 교회는 그 막대한 헌금을 포기하기로 했습니다”라고 하는 것이었습니다.

막대한 큰돈을 얻은 교회가 그 큰돈이 주는 달콤함에 빠져 마땅히 싸워야 할 신앙의 싸움이 약해질 것을 두려워 해 필요한 최소한의 금액만을 받고 나머지는 포기했다는 이야기였습니다.

(3) 결론

우리들이 모든 게 형통하여 평온한 상황이라면 아무쪼록 고난을 겪고 시련 가운데 있는 형제자매를 기억하고 그들의 어려움을 함께 나누고 기도하여 주십시오. 성공한 것, 평온한 생활을 하고 있는 것을 하나님께 감사하고 자만하거나 자랑하지 마십시오.

우리들이 혹시 복음을 위하여 고난을 겪고 있다면 그것이 부끄러움을 느낄만한 상황일지도 모릅니다. 그러나 결코 부끄러워할 일이 아닙니다. 그것은 은혜로 하나님께로 부터 받은 그리스도를 위한 고난이며 신앙의 싸움에 함께 참여하는 것이라고 생각함이 마땅합니다.

모세는 히브리서 11장 24-26절의 말씀에 의하면

24 믿음으로 모세는 장성하여 바로의 공주의 아들이라 칭함 받기를 거절하고

25 도리어 하나님의 백성과 함께 고난 받기를 잠시 죄악의 낙을 누리는 것보다 더 좋아하고

26 그리스도를 위하여 받는 수모를 애굽의 모든 보화보다 더 큰 재물로 여겼으니 이는 상주심을 바라봄이라

모세는 애굽의 왕자라는 신분을 포기하고 하나님의 백성과 고난을 함께 하기 위해 받은 수모를 모든 보화보다 더 큰 재물로 여겼다고 말씀은 증거하고 있습니다.

바울이 감옥에서 감내하고 있는 신앙의 싸움, 모세가 몸을 던져서 참여한 신앙의 싸움, 이 신앙의 싸움에 우리도 함께 참여 하는 것이야말로 복음에 합당한 생활인 것입니다. 영의 일치에 의한 신앙의 싸움을 계속하는 것이야말로 예수 그리스도를 증거하고 복음의 능력을 증거하는 것입니다.

関連する説教を探す関連する説教を探す