2023年01月01日「道なき道を進む 길 없는 길을 전진하다」

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道なき道を進む 길 없는 길을 전진하다

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
フィリピの信徒への手紙 1章9節~18節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:9わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、
1:10本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、
1:11イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。
1:12兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。
1:13つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、
1:14主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。
1:15キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。
1:16一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、
1:17他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。
1:18だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
フィリピの信徒への手紙 1章9節~18節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 2023年は、元日に新年礼拝を迎えることが出来ました。今年も、主にあって皆様のご健康が守られ、それぞれの祈りの答えが得られるよう、お祈り申し上げます。

パウロが投獄されたことによって、恐らくフィリピの教会の兄弟姉妹の中に激震が走ったことでしょう。それは福音宣教に大変大きな損失を与えてしまったと言うことができるかもしれません。フィリピの兄弟姉妹の中で、すっかり意気消沈し、希望を失ってしまった者は、一人や二人ではなかったのではないでしょうか。「これ以上福音を宣べ伝えれば、我々の身も、この先どうなるかわかったものではない」「キリスト教徒であることは、そもそも我々に何の役に立つのだろうか?」「教会は本当に神のものであるのだろうか?」というような疑念を感じた信者もいたことでしょう。パウロは、フィリピ教会からの支援を持って来てくれたエパフロディトに、この書簡を持たせて送り返し、フィリピ教会への感謝と、励ましと、勧めを書くと同時に、パウロ自身の近況などについても報告しています。この状況にあってパウロはフィリピの教会にどのような言葉をしたためたのでしょうか。

本日の箇所から、いよいよフィリピ書の本論に入って行きますが、その冒頭で、パウロは特にフィリピの兄弟姉妹に対する三つのとりなしの祈りを語っています。「あなた方のためにこのように祈っていますよ」ということです。パウロのこの祈りとは、この書簡の主題を一貫するものであります。本日はパウロの三つの祈りの中で、第一の祈りを中心に御言葉の恵みに与りたいと思います。

【1】. パウロの祈り

 9~11節をご覧ください。

 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

ここは、パウロのフィリピ教会に対する、三つの祈りが挙げられています。一つ目に「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」そして、二つ目に「キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者とな」ること、そして、三つ目に「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受け」ることです。

この三つの祈りの課題を、さらに一言で要約してみるならどうなるでしょうか。第一の祈りの課題は、「愛がますます豊かになり」という言葉が出て来ます。愛とは聖書の中で最も重要な言葉ですね。「神は愛です。」「信仰、希望、愛の中で、一番優れているのは愛です。」と聖書にあります。しかし、私たちが一般的に「愛」という言葉を使う時、その意味は漠然としているように思います。「とにかく愛すればいいんでしょ!」ということで、甚だしくは、ペットに対する愛情まで含まれてしまいます。このように愛という意味が、漠然としているため、教会の中では「愛」という言葉が、間違って実践されないように、聖書によってさらに規定される必要があると思われます。パウロはイエス様を知る前に、彼なりに神様のことを愛していましたが、教会を迫害していました。確かに神様を愛する愛を持っていましたが、それは盲目的な愛であり、ダマスコにおいて復活の主と出会い、回心するまでは、間違った愛を実践していたということになります。従って、愛とは、9節に書かれている通り「知る力、見抜く力によって」規定されなければならないということになります。さらに言えば、愛とは、10節にあるように「本当に重要なことを見分けられるように」ならなければならないということでございます。従って、パウロの第一の祈りの課題は、愛がその根底にあるのですが、一言で要約するなら「重要なことを見分けられるように」ということでしょう。第二の祈りの課題は、終末に向けての祈りの課題となりますが、「キリストの日に備えられるように」、キリストの再臨に備えられるように。第三の祈りの課題も、やはり終末に向けての祈りの課題となりますが、「義の実を結ぶように」ということだと思います。ある注解書によりますと、パウロのこの三つの祈りの課題が、実は、この書簡の三つの大きな主題であると主張されていました。大変するどい指摘だと思いました。一つ目の祈りの課題、つまり「重要なことを見分けられるように」という祈りについては、この後一緒に見ることになりますが、1:12~2:11において論じられています。二つ目の祈りの課題、つまり「キリストの日に備えられるように」という祈りについては、2:12~2:30において論じられています。三つ目の祈りの課題、つまり「義の実を結ぶように」という祈りについては、3:1~4:9において論じられているということです。

【2】. パウロの監禁を起点として

 さて、第一の祈りの課題である「重要なことを見分けられるようになること」ということでありますが、この言葉の語源は、「偽造貨幣を区分する」という意味があるようです。偽コインと本物のコインを区別すること、そのような洞察が主にあって与えられるようにということです。12節をご覧ください。

兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。

パウロは自身が牢獄に繋がれたことが、かえって神のご計画の中で「福音の前進」に役立ったということを主張しています。このような新しい発見、このような重要なことを見分けられるような悟りが、フィリピの兄弟姉妹にも与えられるようにとパウロは願っているのです。「前進」という言葉は、軍事用語でありまして、軍隊の行進を促すように、先駆者が道なき道を進んでいくという意味です。それでは、パウロが牢獄に繋がれることによってなぜ福音が前進したというのでしょうか。それは、パウロが監禁されていることが、ローマ軍の兵営全体に、主にあって知れ渡ったからだと言います。パウロという一風変わった囚人がいて、彼が監禁されている間、兵士と交わりが起こり、その交わりが兵士とその家族に福音を広めていくきっかけを提供したということでしょう。パウロがどこに監禁されていたのか?エフェソなのか、カイサリアなのか、ローマなのか、それは、はっきり分かりませんが、どこであれ、監禁を起点として、その場所において、キリスト教は多くの人々の注目を浴びるようになったということです。さらに、その場所のキリスト者に変化が現れてきました。最初はフィリピの兄弟姉妹と同じように意気消沈したに違いありませんが、聖霊によって勇気と確信が与えられて、牢獄に閉じ込められている人が、あのように勇敢に主を宣べ伝えているのに、外にいる自分たちが、このままの状態にいて、いいのだろうか!そんなはずはないという感じで、恐れることなく御言葉を語るようになったのです。パウロの監禁を起点として、周囲のキリスト者に物事の考え方、物事の捉え方において変化がもたらされたのです。出来事の背後に隠れている主のご計画に目が留まり、主の視点で、その置かれている状況を見分けられるようになった。彼らは出来事の意味を見分けられるようになり、いよいよ主に献身し、福音を宣べ伝える歩みへと駆り立てられたのでありました。そのことをパウロはフィリピの兄弟姉妹に報告しているのです。

ところで、福音を宣べ伝えるのに当たって、このように善意からする者もいれば、反対にねたみと争いの念に駆られてする者もいるとパウロは指摘しています。15~17節をご覧ください。

キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。

パウロの監禁について全てのキリスト者が一致して心を痛めていた訳ではなかったということが分かります。中には、パウロのリーダーシップを喜ばないキリスト者がいて、パウロの監禁をむしろ喜んだ人々もいたというのです。「そうだろ、そうだろ。パウロは本物の使徒でないから宣教が失敗に終わり、監禁されることになったんだ。これからは自分たちの時代だ。自分たちが教会のリーダーとして福音宣教を担って行こう!」というような、「ねたみ」と「党派心」を動機とし、パウロの監禁を、パウロを出し抜くチャンスだと考え、この機会にパウロを失墜させ、自分たちの利益を求めて福音を伝えたというのです。ただ、彼らの語るメッセージそのものが間違っているということではありませんでした。その動機が何であれ「キリストが宣べ伝えられている」という事実に、パウロは目を向けています。そして、この事実に対してパウロは大喜びしているのです。ですから、パウロの喜びの本質とは、キリストが宣べ伝えられているということになります。自分自身が牢獄から自由にされ、命の危険から逃れることが出来たから喜ぶのではなく、自分自身が人々から認められ名誉を挽回したから喜ぶのでもなく、自分自身が経済的に豊かになり健康が守られたからでもありません。ただ、キリストが宣べ伝えられているからです。現在の状況が、福音の前進に役立っているからです。このパウロの告白にパウロの主への献身を私たちは見て取ることが出来ます。18節をご覧ください。

だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。

このような理由で、パウロはフィリピ教会に対して、「心配する必要はない」「意気消沈することはない」「むしろ喜びなさい」と励ましているのです。重要なことを見分けられるようになり、出来事の背後に隠れている主のご計画にしっかりと目を留め、パウロ自身の監禁について悲しい気持ちを持つのではなく、むしろ背後に隠された主のご計画の中で喜んでほしい、そして、あなた方もますます勇敢に御言葉を語ってほしいと言っているのです。

12節で、「福音の前進」という言葉がございました。先ほど「道なき道を進んでいく」という軍事用語であると説明いたしました。軍隊には基本的に陸・海・空軍があります。陸軍の中には工兵部隊というのがありまして、この部隊は基本的に土木作業を通してインフラを整え、兵站整備を担当する部隊であります。ローマ軍においては特に、道なき所に道を造ることが重要視されていて、工兵部隊が重要な役割を担っていたと言われます。道路を造っていくことが、それが即ちローマ帝国を拡大することを意味していました。パウロは、自分自身とフィリピの教会が置かれている状況が、まさにこの福音の前進のために工兵部隊の役割を担っていると認識しているのです。地道な土木作業を担っていると認識しているのです。しかし、このような兵站整備によって神の国が拡大されている、そのことに目を留めてほしいと願っているのです。今置かれている困難は、神の国の拡大において、福音の前進において、どれほど光栄なことだろうか。そのために喜びなさいとパウロは語っているのです。

【結論】

 世間一般の人々は、もし、キリスト教が本当に神のものであるならば、もしパウロが真実に主から遣わされた使徒であるなら、このような見苦しい屈辱的な敗北をこうむるはずがないではないかと考えることでしょう。肉の目で見るなら、指導者パウロの監禁は、教会の恥であり、私たち組織の恥辱であり、覆い隠したいものです。肉の目で見るなら、権力を持ち、栄光ある成功を収めている指導者に従っていきたいし、自分たちもそのようになりたいと人は願うものです。しかしパウロの祈りとは「本当に重要なことを見分けられるように」という祈りでありました。パウロの監禁は、当初、誰も想定できなかった現実へ展開して行くようになります。ローマ軍の兵営に福音が広まり、その地方のキリスト者一人ひとりが、口実であれ、真実であれ、キリストを宣べ伝えるようになったのです。言い換えれば、パウロの監禁を起点として、福音が前進しているのです。そして、そのパウロと苦しみを共にし、パウロを支えているフィリピ教会も、神のご計画の中で、まさに福音の前進のために、道なき道を進んで行く、その光栄ある、重要な働きを担っているのです。

私たち、キリスト者は、日々苦難や試練や困難に直面いたします。ただ、絶望の中で苦難と向き合うなら、ただ、その意味も分からずに苦しみに向き合わなければならないのなら、人はそんなに長く耐え忍ぶことは出来ないでしょう。しかし、もし、キリストにある希望の中で、そのような苦難や試練に向き合うならどうでしょうか。私自身体験したことはありませんが、きっと、聖霊によって、本当に重要なことを見分けることができ、聖霊の慰めと励ましの中で、通常の人間では到底、耐えることのできないような苦難や試練や困難を乗り越えることが出来るのだと思います。そして、何よりその歩みが喜びと感謝の歩みへと変えられていくのだと思います。私たちにも聖霊によって、今置かれている状況に拘わらず、喜びと感謝の歩みを捧げていくことができるよう、祈ってまいりましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

길 없는 길을 전진하다

빌립보서 1장 9-18절

9 내가 기도하노라 너희 사랑을 지식과 모든 총명으로 점점 더 풍성하게 하사

10 너희로 지극히 선한 것을 분별하며 또 진실하여 허물 없이 그리스도의 날까지 이르고

11 예수 그리스도로 말미암아 의의 열매가 가득하여 하나님의 영광과 찬송이 되기를 원하노라

12 형제들아 내가 당힌 일이 도리어 복음 전파에 진전이 된 줄을 너희가 알기를 원하노라

13 이러므로 나의 매임이 그리스도 안에서 모든 시위대 안과 그 밖의 모든 사람에게 나타났으니

14 형제 중 다수가 나의 매임으로 말미암아 주 안에서 신뢰함으로 겁 없이 하나님의 말씀을 더욱 담대히 전하게 되었느니라

15 어떤 이들은 투기와 분쟁으로, 어떤 이들은 착한 뜻으로 그리스도를 전파하나니

16 이들은 내가 복음을 변증하기 위하여 세우심을 받은 줄 알고 사랑으로 하나

17 그들은 나의 매임에 괴로움을 더하게 할 줄로 생각하여 순수하지 못하게 다툼으로 그리스도를 전파하느니라

18 그러면 무엇이냐 겉치레로 하나 참으로 하나 무슨 방도로 하든지 전파되는 것은 그리스도니 이로써 나는 기뻐하고 또한 기뻐하리라

2023년은 설날에 새해 예배를 맞이하게 되었습니다. 올해도 주님 안에서 여러분의 건강이 지켜지고 여러분이 기도하시는 각각의 기도에 응답을 받으시는 한해가 되기를 기도드립니다.

바울이 투옥됨에 따라 아마도 빌립보 교회의 형제 자매들 가운데 큰 동요가 있었을 것입니다. 그것은 복음선교에 매우 큰 손실을 주었다고 말할 수 있을지도 모릅니다. 빌립보 교회의 형제 자매중에서 완전히 의기소침하고 희망을 잃어버린 자는 한 두명이 아니었을 것입니다. “더 이상 복음을 전파하다가는 우리도 앞으로 어떻게 될지 알지 못하겠다” “그리스도인 이라는 것이 도대체 우리에게 어떤 이익이 있다는 것인가?” “교회는 정말로 하나님이 지켜주고 계시는 것이 맞는가?” 라는 의심을 느낀 성도도 있었을 것입니다. 바울은 빌립보 교회로 부터의 지원을 가지고 온 에바브로디도에게 이 편지를 되돌려 보내 빌립보 교회에 대한 감사와 격려와 권고를 쓰는 동시에 바울 자신의 근황등에 대해서도 보고 하고 있습니다. 이 상황에서 바울은 빌립보 교회에 어떤 말을 했을까요?

오늘의 본문에서 부터 드디어 빌립보서의 본문에 들어가지만, 그 초반에 바울은 특히 빌립보의 형제 자매에게 “여러분들을 위해서 이렇게 기도하고 있습니다”라고 세 가지 기도제목을 말하고 있습니다. 바울의 이 기도는 이 편지의 주제를 일관되게 합니다. 오늘은 바울의 세 가지 기도 가운데 첫 번째 기도의 내용을 중심으로 말씀의 은혜를 나누고자 합니다.

(1) 바울의 기도

9-11절을 보십시오.

9 내가 기도하노라 너희 사랑을 지식과 모든 총명으로 점점 더 풍성하게 하사

10 너희로 지극히 선한 것을 분별하며 또 진실하여 허물 없이 그리스도의 날까지 이르고

11 예수 그리스도로 말미암아 의의 열매가 가득하여 하나님의 영광과 찬송이 되기를 원하노라

여기에는 바울의 빌립보 교회에 대한 세 가지 기도가 포함되어 있습니다. 첫째로 “사랑을 지식과 모든 총명으로 점점 더 풍성하게 하여 지극히 선한 것을 분별 할 수 있도록” 그리고 둘째로 “그리스도의 날에 대비하여 진실되고 허물 없는 자가 되는 것”과 세번째로 “예수 그리스도로 말미암아 의의 열매를 넘칠 정도로 받는 것”입니다.

이 세 가지 기도의 제목을 한마디로 요약해 보면 어떻게 될까요? 첫 번째 기도의 제목은 “사랑이 점점 더 풍성하게 된다”라는 말이 나옵니다. 사랑은 성경에서 가장 중요한 말입니다. “하나님은 사랑이시라” “믿음 소망 사랑 가운데 가장 좋은 것은 사랑입니다”라고 성경에 쓰여져 있습니다. 그러나 우리가 일반적으로 「사랑」이라는 단어를 사용할 때 그 의미는 막역한 것처럼 생각되어집니다. “어쨌든 사랑하면 되지요?”라고 말하는 것으로 심지어는 애완동물에 대한 애정까지 포함시켜 버립니다. 이처럼 사랑이라는 의미가 막연하기 대문에 교회 안에서는 「사랑」이라는 말이 잘못 적용되지 않도록 더욱 바르게 규정될 필요가 있다고 생각합니다. 바울은 예수님을 알기 전에 그 나름대로 하나님을 사랑했지만 교회를 박해 했습니다. 확실히 하나님을 사랑하는 사랑을 가지고 있었습니다만, 그것은 맹목적인 사랑이며 다마스코에서 부활하신 주님을 만나고 회심할 때까지는 잘못된 사랑을 실천하고 있었다는 것이 됩니다. 그러므로 사랑이라는 것은 9절에 쓰여진 대로 「지식과 총명」으로 규정되지 않으면 안된다고 생각합니다. 조금 더 말하자면 사랑이란 10절에 있듯이 “지극히 선한 것을 분별할 수 있게 되어야 한다”는 것입니다. 그러므로 바울의 첫 번째 기도 제목은 사랑이 그 근원에 있습니다만 한마디로 말한다면 “지극히 선한 것을 분별할 수 있도록”이라고 말 할 수 있겠습니다. 두 번째 기도 제목은“그리스도의 날을 대비할 수 있도록”, 그리스도의 재림에 대비할 수 있도록 종말을 향한 기도제목이 되겠습니다. 세 번째 기도제목도 역시 종말을 향한 기도제목이 됩니다만 “의의 열매를 맺도록”이라고 하는 것이라 생각합니다. 한 주석에 따르면 바울의 이 세 가지 기도제목은 사실 이 편지의 세 가지의 큰 주제라고 주장하고 있습니다. 대단히 정확한 지적이라고 생각했습니다. 첫 번째 기도제목, 즉 “지극히 선한 것을 분별하도록” 이라는 기도에 대해서는1장 12-2장 11절에 있어서 논의 되고 있어서 나중에 함께 살펴보겠습니다. 두 번째 기도제목, 즉 “그리스도의 날에 대비하도록”이라는 기도에 대해서는 2장 12-30절에 논의되어 있습니다. 세 번째 기도제목, 즉 “의의 열매를 맺도록” 이라는 기도에 대해서는 3장 1절-4장 9절에서 논의되고 있습니다.

(2) 바울의 감금을 기점으로 해서

그럼 첫 번째 기도제목인 “지극히 선한 것을 분별하도록” 에 대한 것입니다만 이 말의 어원은 “위조화폐를 구분한다”라고 하는 의미가 있는 것 같습니다. “가짜 동전과 진짜 동전을 구별하는 것과 같은 통찰력을 주님으로 부터 받도록” 이라는 말입니다. 12절을 보십시다.

12 형제들아 내가 당힌 일이 도리어 복음 전파에 진전이 된 줄을 너희가 알기를 원하노라

바울은 자신이 감옥에 갇힌 것이 오혀려 하나님의 계획 안에서 「복음의 전진」에 도움이 되었다고 주장하고 있습니다. 바울의 이러한 새로운 발견, 이런 중요한 것을 구별할 수 있는 깨달음이 빌립보의 형제 자매에게도 주어지기를 바라고 있습니다. 「전진」이라는 단어는 군사용어이므로 “군대의 행진을 촉구하도록 선구자가 길이 없는 길을 전진한다”라는 의미입니다. 그렇다면 바울이 감옥에 갇힌 것으로 어떻게 복음이 전진했을까요? 그것은 바울이 감금되어 있는 것이 하나님의 계획 안에서 로마군의 병영전체에 널리 퍼졌기 때문입니다. 바울이라는 색다른 죄수가 있고 그가 감금되어 있는 동안 병사와 접촉하게 되고 그런 접촉으로 인한 교제가 병사와 그 가족에게 복음이 전해지는 계기가 되었다는 것입니다. 바울이 어디에 감금 되어져 있을까요? 에베소인지, 가이사라인지, 로마인지 그것은 분명하지 않지만 감금 장소가 어디든지 기독교는 사람들의 주목을 끌었다는 것입니다. 게다가 그 장소의 그리스도인들에게 변화가 나타났습니다. 처음에는 빌립보의 형제 자매와 마찬가지로 의기소침했을 것입니다만, 성령에 의해서 용기와 확신이 주어지고 “감옥에 갇힌 바울이 저렇게 용기있게 주님을 전하고 있는데 밖에 있는 우리들이 이대로의 상태인 것이 괜찮은 일인가? 그런 일은 있을 수 없다”는 마음으로 두려워하지 않고 말씀을 전하게 되었던 것입니다. 바울의 감금을 기점으로 해서 주위의 그리스도인에게 현실의 상황을 파악하는 방식, 사물의 본질을 파악하는 방법에 있어서 변화가 생긴 것입니다. 사건 뒤에 계신 주님의 계획에 눈이 머무르고 주님의 시점에서 처해진 그 상황을 구분 할 수 있게 되었읍니다. 그들은 사건의 의미를 구별할 수 있게 되었고 드디어 주님께 헌신하고 복음을 전파하는 행보로 나아가게 되었습니다. 이것을 바울은 빌립보의 형제 자매에게 보고하고 있습니다.

그런데 복음을 전파함에 있어서 이렇게 선의를 가지는 사람도 있지만 반대로 질투와 다툼의 마음으로 하는 자도 있다고 바울은 지적하고 있습니다. 15-17절을 봅시다.

15 어떤 이들은 투기와 분쟁으로, 어떤 이들은 착한 뜻으로 그리스도를 전파하나니

16 이들은 내가 복음을 변증하기 위하여 세우심을 받은 줄 알고 사랑으로 하나

17 그들은 나의 매임에 괴로움을 더하게 할 줄로 생각하여 순수하지 못하게 다툼으로 그리스도를 전파하느니라

그리스도를 전파하는데 질투와 다툼의 마음에 얽매이는 자도 있고 선의로 하는 자도 있습니다. 하나는 바울이 복음을 변증하기 위해 붙잡혀 있다는 것을 알고 사랑의 동기에서 그렇게 하고 있지만 다른 쪽은 자신의 이익을 도모하여 감옥에 있는 바울을 괴롭게 할 심산으로 그런 불순한 동기를 가지고 그리스도를 전하고 있다는 것입니다.

바울이 감금 당한 것에 모든 그리스도인들이 일치하여 마음을 아파한 것은 아니었다는 것을 알 수 있습니다. 그 중에는 바울의 리더십을 기뻐하지 않은 그리스도인도 있었고 바울의 감금을 오히려 기뻐한 사람들도 있었다는 것입니다. “그렇지, 그렇겠지. 바울은 진짜 사도가 아니니까 선교가 실패해서 결국에는 감옥에 갇힌 거야. 이제부터는 우리들의 시대야. 우리들이 교회의 지도자로서 복음 선교를 이끌어 가자!”라고 하는 「질투」와 「당파심」을 동기로해서 바울의 감금을 바울을 제거해 버릴 기회라고 생각하고 이 기회에 바울을 실추시켜 자신들의 이익을 위해 복음을 전하려고 했습니다. 단지, 그들이 말하는 멧세지 자체가 잘못되었다는 것이 아니었습니다. 그 동기가 무엇이든 “그리스도가 전해진다”라고 하는 사실에 바울은 눈을 돌리고 있습니다. 그리고 그 사실에 대해 바울은 기뻐하고 있습니다. 그러므로 바울의 기쁨의 본질은 그리스도께서 전파되고 있다는 것입니다. 자신이 감옥에서 자유롭게 되어 생명의 위험에서 벗어날 수 있었기 때문에 기뻐하는 것이 아니라, 자신이 사람들로부터 인정받고 명예가 회복되었기 때문에 기뻐하는 것도 아니고, 자신이 경제적으로 풍요롭게 되고 건강이 지켜졌기 때문이 아닙니다. 단지 그리스도께서 전파되고 있기 때문입니다. 현재의 상황이 복음의 전진에 도움이 되기 때문입니다. 이 바울의 고백에 바울의 주님에 대한 헌신을 우리는 볼 수 있습니다. 18절을 보십시오.

18 그러면 무엇이냐 겉치레로 하나 참으로 하나 무슨 방도로 하든지 전파되는 것은 그리스도니 이로써 나는 기뻐하고 또한 기뻐하리라

이러한 이유로 바울은 빌립보교회에게 “염려할 필요가 없다” “의기소침 할 일이 아니다” “오히려 기뻐하라”라고 격려하고 있는 것입니다. 지극히 선한 것을 구별하게 되어 사건의 배후에 숨겨져 있는 주님의 계획에 확실히 눈을 돌리고 바울의 감금에 대해 슬픈 마음을 가지는 것이 아니라 오히려 감추어진 주님의 계획 안에서 기뻐하고 여러분도 점점 더 용감하게 말씀을 전해주길 바란다고 말하고 있는 것입니다.

12절에서 「복음의 전진」이라는 말이 나왔습니다. 조금전에 “길이 없는 길을 전진해 간다”라고 하는 군사용어라고 설명했습니다. 군대에는 기본적으로 육・해・공군이 있습니다. 육군 중에는 공병 부대라고 하는 것이 있어 이 부대는 기본적으로 토목 작업을 통해 인프라를 정돈해 전투를 위한 정비를 담당하는 부대입니다. 로마군에서는 특히 길이 없는 곳에 길을 만드는 것이 중요시되고 있고 공병부대가 중요한 역할을 담당하고 있었다고 합니다. 도로를 건설하는 것, 그것이 즉 로마제국을 확대한다는것을 의미했습니다. 바울은 자신과 빌립보 교회가 놓여 있는 상황이 바로 이 복음의 전진을 위한 공병 부대의 역할을 담당하고 있다고 인식하고 있습니다. 복음의 전진을 위해서 치밀한 토목 작업을 담당하고 있다고 인식하고 있습니다. 그러므로 이런 전투를 위한 정비에 의해 하나님의 나라가 확대되고 있다는 것을 바라보면 좋겠다고 말하고 있는 것입니다. 지금 처해져있는 어려움은 하나님의 나라가 확대됨에 있어서 복음의 전진에 있어서 너무나 영광스러운 일이기 때문에 “기뻐하라”라고 바울은 말하고 있습니다.

(3) 결론

세상 일반 사람들은 “만약 그리스도교가 정말로 하나님으로 부터 온 것이라면 바울이 진실로 주님께서 보내신 사도라면 이런 보기 흉한 굴욕적인 패배를 겪을리가 없다”라고 생각했을 것입니다. 육적인 눈으로 본다면 지도자 바울의 감금은 교회의 수치이며 우리 조직의 부끄러움이며 숨기고 싶은 일입니다. 육적인 눈으로 본다면 권력을 가지고 영광스러운 성공을 거두고 있는 지도자를 따라 가고 싶고 자신들도 그렇게 되고 싶다고 사람은 바라는 것입니다. 그러나 바울의 기도는 “지극히 선한 것을 분별할 수 있도록”이었습니다. 바울의 감금은 당초 아무도 생각하지 못했던 상황으로 전개되어 가게 됩니다. 로마군의 병영에 복음이 퍼져 그 지방의 그리스도인 한 사람 한 사람이 겉치레로 하든지 참으로 하든지 그리스도를 전하게 된 것입니다. 즉 바울의 감금을 기점으로 복음이 전진하고 있는 것입니다. 그리고 그 바울과 고난을 함께하고 바울을 지지하는 빌립보 교회도 하나님의 계획 안에서 바로 복음의 전진을 위해 길이 없는 길을 나아가는 영광스럽고도 중요한 일을 담당하고 있는 것입니다.

우리 그리스도인들은 매일 여러모양의 고난과 시련과 어려움에 직면합니다. 단지 절망 속에서 고난과 마주하고 참된 그 의미도 모르고 고통을 마주해야 한다면 그 사람은 그렇게 오래 견딜 수 없을 것입니다. 하지만 만약 그리스도 안에 있는 희망 속에서 그러한 고난과 시련을 마주 보면 어떨까요? 저 자신도 체험한 적은 없지만 반드시 성령에 의해 지극히 선한 것을 구별할 수 있고 성령의 위로와 격려 속에서 보통의 인간이라면 도저히 견딜 수 없는 고난이나 시련이나 고통을 극복할 수 있다고 생각합니다. 그리고 무엇보다 그 걸음이 기쁨과 감사의 걸음으로 바뀌어 가는 것이라고 생각합니다. 우리에게도 성령에 의해 지금 놓여 있는 상황에 관계없이 기쁨과 감사의 걸음을 걸을 수 있도록 기도하며 나아갑시다.

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