2022年10月16日「モアブ契約 (モアブ―シケム契約) 모압 언약 (모압 세겜 언약)」

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モアブ契約 (モアブ―シケム契約) 모압 언약 (모압 세겜 언약)

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 29章1節~14節

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聖句のアイコン聖書の言葉

29:1モーセは、全イスラエルを呼び集めて言った。あなたたちは、主がエジプトの国で、ファラオおよびそのすべての家臣、またその全領土に対してなさったことを見た。
29:2あなたはその目であの大いなる試みとしるしと大いなる奇跡を見た。
29:3主はしかし、今日まで、それを悟る心、見る目、聞く耳をあなたたちにお与えにならなかった。
29:4わたしは四十年の間、荒れ野であなたたちを導いたが、あなたたちのまとう着物は古びず、足に履いた靴もすり減らなかった。
29:5あなたたちはパンを食べず、ぶどう酒も濃い酒も飲まなかった。それは、わたしがあなたたちの神、主であることを、悟らせるためであった。
29:6あなたたちがこの所に来たとき、ヘシュボンの王シホンとバシャンの王オグは我々を迎え撃つために出て来たが、我々は彼らを撃ち、
29:7彼らの国を占領して、ルベン人、ガド人、マナセの半部族の嗣業の土地とした。
29:8あなたたちはそれゆえ、この契約の言葉を忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちのすることはすべて成功する。
29:9今日、あなたたちは、全員あなたたちの神、主の御前に立っている。部族の長、長老、役人、イスラエルのすべての男子、
29:10その妻子、宿営内の寄留者、薪を集める者から水をくむ者に至るまでいる。
29:11それは、あなたがあなたの神、主の契約に入り、あなたの神、主が今日あなたと結ばれる呪いの誓いを交わすためであり、
29:12今日、主があなたを立てて御自分の民とし、自らあなたの神となられるためである。主がかつてあなたに告げ、先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたとおりである。
29:13わたしはあなたたちとだけ、呪いの誓いを伴うこの契約を結ぶのではなく、
29:14今日、ここで、我々の神、主の御前に我々と共に立っている者とも、今日、ここに我々と共にいない者とも結ぶのである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 29章1節~14節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 モーセの説教は本日の申命記29章から第三の説教に入ります。本日の箇所と、次回見ることになる30章には、何が書かれているのかと言いますと、モアブの地において、イスラエルの第2世代と言いましょうか、1.5世代といいましょうか、とにかく荒れ野の40年間、モーセに付き従って来た彼らと締結する契約について書かれています。神様はなぜ、人との契約に執着されるのでしょうか。契約とは、例えて言えば、男女の結婚に例えることが出来るでしょう。結婚式の日、男と女は共に誓約していただきます。まず男に対して「あなたは妻を愛し、命の限り共に生きることを誓いますか。」そして女に対して「あなたは夫を愛し、命の限り共に生きることを誓いますか。」こうして誓約を交わした男女は一つになるわけです。このようにして始まった結婚生活というものは、お互いが浮気をせず、お互いがお互いを信じる信仰によって、初めて成り立つものです。神様との契約もこれと同じです。契約とは、神と人が一つにされることですが、この一つとされる関係において、信仰が不可欠であると言うことです。相手を裏切らないこと、浮気しないこと、このことが必須なわけです。

それでは、モアブ契約とは一体何なのか、その特徴とは何なのか、40年前に結ばれたシナイ山契約とは何が違うのか、ということになりますね。先ほど、モアブ契約とは第2世代のイスラエルの民と結んだ契約だと言いましたが、正確に言いますと、彼らだけではなく、14節に「今日、ここに共にいない者とも結ぶ」とありますから、その場所にいなかった彼らの子孫を含み、さらに言えば、現代に生きる私たちをも含む、そのような時代を超えた、スケールの大きな契約の締結について、モアブ契約では教えているのだと思います。つまり、イスラエルに向かった神の契約というのが、実は時間を超えながら、今という時に、シンクロナイズドされるということです。神との契約とは、歴史において一時的なものではなく、その子孫に対しても、その子孫のまたその子供たちに対しても、時間を超え、世代を超え、主の前に立っている者においてシンクロされて締結されるということを、本日の箇所は教えてくれるのです。

【1】. 歴史の回想

 さて、1~3節には、過去の回想が書かれていますね。出エジプトをした第一世代の民は、力強い主の御手の業をまざまざと見せつけられました。エジプトに十の災いが下され、葦の海を真っ二つに割り、現れた陸地にイスラエルの民を渡らせ、そして、なおしぶとくイスラエルの後方を追いかけてくるエジプトの戦車を、海の中に沈めたのです。彼らは確かに、「その目であの大いなる試みと、しるしと、奇跡を見た」のであります。しかし、それにもかかわらず、ホレブの山(つまりシナイ山)で、契約が締結された直後に彼らは堕落してしまいました。モーセが山の頂に上っている間に、金の子牛の像を作り、これが、自分たちをエジプトから救い出してくださった神であると、偶像礼拝を始めてしまったのです。山を下りて来て、そのことを知ったモーセは、怒りの故に神様から頂いた十戒の石板を投げて、粉々にしてしまい、もう一度、ホレブの山の頂に登り、十戒の石板を授与されなければならないということになったのです。そのような背景から3節の御言葉が語られていると思われます。

“主はしかし、今日まで、それを悟る心、見る目、聞く耳をあなたたちにお与えにならなかった。”

そもそも、人間は罪びとであるため、たとえ神の力強い御業を見たとしても、たとえ神の御言葉を直接聞いたとしても、神の恵みがなければ、聖霊の働きがなければ、いっこうに、それらを悟ることが出来ないということです。このことは新約のマタイによる福音書13:14~15にも同じようなことが書かれています。ご覧ください。

“イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』”

それでは、今、モアブ契約を締結するイスラエルの民に、悟る心、見る目、聞く耳が与えられているのでしょうか。それについては、聖書は沈黙しています。果たして自分は、御言葉を悟る心が与えられているのか、見る目、聞く耳を与えられているのだろうか、そのことは神の領域に属することであり、私たちは常に御言葉に対し緊張感を持って、臨むべきであろうと思います。「私には見える」「私には分かる」という傲慢な態度は、これはファリサイ人や律法学者たちの態度であり、危険であるということですね。宗教改革者であるカルヴァンは、次のように言いました。「私たちは神様を通じて悟りを受ける前までは、常に明るい光の中にあっても盲目な者として存在している」。私たちは御言葉の前にへりくだり、「どうか神様、御言葉を聞いて悟るものとならせてください」「聖霊の働きによって私の心を照らしてください」と常に祈るべきだと思います。続いて4~5節をご覧ください。

“わたしは四十年の間、荒れ野であなたたちを導いたが、あなたたちのまとう着物は古びず、足に履いた靴もすり減らなかった。あなたたちはパンを食べず、ぶどう酒も濃い酒も飲まなかった。それは、わたしがあなたたちの神、主であることを、悟らせるためであった。”

40年間の苦難の歩み、これは神ご自身が主であることを悟らせるためであったというのです。お米が日本人の主食であるように、パンはイスラエルの人々の主食でありました。ぶどう酒や濃い酒は日没後の寒さの中で身体を温かくするのに欠かせないものだったと思われます。イスラエルの民は一体、荒れ野という厳しい自然環境の中で、パンも食べず、ぶどう酒も、濃い酒も飲まないで、どのように生き延びることが出来たのでしょうか。それは、主が、夜は火の柱によって導いてくださり、夜の寒さをしのぐことが出来たからでしょう。また、主が天からマナとウズラを降らせてくださり、主が岩から水を出してくださり、主の不思議な養いがあったからこそ、荒れ野において40年も生き延びることが出来たのです。何といっても、そのことをイスラエルの民は忘れてはなりませんでした。人間的に考えるなら全く不可能のように思われますが、神様の不思議な養いによって、荒れ野で生き延びることが出来たのです。それだけではありません。その不思議な導きによって、ヘシュボンの王シホン、バシャンの王オグという強大な敵さえも、撃ち破ることが出来たのです。神は荒れ野での40年という苦境の中で、神様と共に歩むことの幸いを悟るように、イスラエルを訓練されたということです。神様と共に歩むこと、神の恵みの契約の中に入れられること、これが私たち罪びとにとって全てであると言っても言い過ぎではないでしょう。

【2】. 今日、主の御前に立つ

 ですから、今、主の御前に立っているイスラエルの民は、主と契約を締結しなければならないということです。この契約は、かつて先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた、あの契約のことです。即ち「主がイスラエルの民をご自分の民とされ、主がイスラエルの民の神になられる」という主との関係における契約のことです。もっと言えば、先祖たちに約束したカナンの土地を与えるという、あの契約のことです。その内容は、40年前にシナイ山で結んだ契約とも何ら変わるものではありません。しかし、このモアブ契約で特に強調される点が二点あります。それは第一に、契約の対象者ですが、イスラエルの成人男子だけに限らず、戦争において普通人数に数えられない妻子を含み、さらにイスラルに寄留している異邦人までも、つまり薪を集める者から、水を汲む者までも含まれるという点です9~12節をご覧ください。

“今日、あなたたちは、全員あなたたちの神、主の御前に立っている。部族の長、長老、役人、イスラエルのすべての男子、その妻子、宿営内の寄留者、薪を集める者から水をくむ者に至るまでいる。それは、あなたがあなたの神、主の契約に入り、あなたの神、主が今日あなたと結ばれる呪いの誓いを交わすためであり、今日、主があなたを立てて御自分の民とし、自らあなたの神となられるためである。主がかつてあなたに告げ、先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたとおりである。”

ここでは、神の救いというものが、性別や人種、職業などに全く関係ないということが暗示されているのではと思われます。そして、第二に、冒頭で申し上げましたが、驚くべきことに、「今日、ここに共にいない者とも結ばれる」と書かれています。14節をご覧ください。

“今日、ここで、我々の神、主の御前に我々と共に立っている者とも、今日、ここに我々と共にいない者とも結ぶのである。”

9節から14節の間に「今日」という言葉が何度も繰り返されています。主がイスラエルの先祖たちと結ばれた契約は、今日、今ここに、主の御前に立つ者とも結ばれるのであり、そして今ここに共にいなくても、未来においてやはり、主の御前に立つ者とも、同時に結ばれるのです。これは一体何を意味するのでしょうか。これはつまり、イスラエルの民に対し、契約の更新によって、「あなた方は私の民であり、主はあなた方の神である」ということを徹底的に教えているのだと思います。そして、土地に対する約束も、カナンの地に入って終わりということではなく、その土地で「神の民らしく、契約の民らしく、生き続けよ」ということを意味するのではないでしょうか。神の救いとは、単に約束の地に入ることがゴールなのではありません。実質的にその土地において神の民、契約の民として生きることを意味しているのです。異教の地カナンで、神と共に歩みながら、戒めと掟を守って生きること、それこそ、神様が贈り物として与えて下さる「救い」なのです。

ところでヘブライ語で「契約を結ぶ(11節、13節)」という言葉は、「カラト ベリート」という言葉です。直訳すると「契約を切る」となります。これは契約に伴う呪いの条項を意味し、万が一、契約を破るならこの裂かれた動物のようになりますよということです。ですから通常であれば、契約には動物の犠牲祭事が含まれ、それを契約の当事者が一緒に食べながら契約の儀式をお祝いするという描写が出てくるのですが、妙なことにこのモアブ契約には、契約の儀式として動物の犠牲の祭事が出てきません。実はこの契約は、モアブの地で完了しているわけではなく、ヨルダン川を渡り、エバル山とゲリジム山の間のシケムにおいて、ヨシュアに導かれた民が契約の儀式を行いますが、その儀式をもって、モアブ契約が完了する、と解釈する学者がいます。私もその考え方を支持します。ヨシュア記8:30~32をご覧ください。

“そのころ、ヨシュアはエバル山にイスラエルの神、主のための祭壇を築いた。この祭壇は、主の僕モーセがイスラエルの人々に命じ、モーセの教えの書に記されたとおり、鉄の道具を使わない自然のままの石で造られた。彼らはその上で、主に焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた。ヨシュアはこの祭壇の石に、モーセがイスラエルの人々のために記した教えの写しを刻んだ。”

つまり、モアブ契約とは、前半部分はモーセによって導かれた民がヨルダン川の東側のモアブで締結し、後半部分はヨシュアによって導かれた民がヨルダン川の西側のシケムで締結したと考えられるのです。つまり、「モアブ―シケム契約」という考え方です。そのように考えるなら、なおさら、モアブ契約とは、時代を超えて、世代を超えて、シンクロナイズドされる契約更新を意味しているのではと思われるのです。契約によって、主の民とされた人々は、主に依り頼みながら、掟と戒めを守って、主の民として光を放ちつつ、生きることとなるでしょう。約束の地を征服し、その地に根付いた信仰や偶像に従うのではなく、或いは、力と権力に物を言わせて、弱い人々を支配したり、虐げたりするのではなく、むしろ公義を愛し、レビ人、やもめ、孤児、寄留者を憐れみ、施しを与える、そのような幸いな生活に、歩み行く者とされるのです。しかし、もし主に背き、御言葉をないがしろにし、カナンの地の偶像の神々に仕えて、主の恵みを恵みとして受け取ろうとしないなら、呪いが現実のものとなるでしょう。この呪いは、神の罰というよりも、むしろ神の恵みを否定することの当然の結果であると言えるのです。例えて言うと、冬の温かい部屋を想像してみてください。この部屋から木枯らしの吹く外に出れば、寒い思いをするのは当然です。この「寒い思い」とは神の罰というより、部屋を出たことの当然の帰結なのです。神様は私たちを祝福しようと創造されました。祝福は神の意思であります。神様はそのように善いお方、慈しみ深いお方です。決して、「不従順したら呪いを準備しておこう」とか「言うことを聞かないなら、罠に落ちるように待ち伏せしてやろう」などと考えるお方ではありません。神様は、イスラエルの民に、祝福を選ぶことを願っておられるのです。恵みの下に身を置き、ますます神様と共に歩むことの幸いを受け取って欲しいと願われるのです。

【結論】

 神様は、イスラエルの先祖たちと結ばれた契約を、今日、私たちにもシンクロさせて更新したいと願っておられます。今、神の御前に立っている私たちは、神様のその思いに応答し、呪いではなく、祝福を選び取りましょう。祝福とは神の契約の民として、その恵みと導きの下に自らを置き、感謝と恵みの応答の生活を送ることであります。反対に呪いとは、神との交わりを断絶し、感謝も、恵みの応答もせず、偶像の神々に仕えることです。契約更新の恵みを通して、約束の地に入れられた私たちは、恵みに応答し、イスラエルの民のように異教の地にあっても、子どもたちに主の愛を伝え、主を証しする神の民として教育し、祝福を代々継承して行く者とならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

모압 언약 (모압 세겜 언약)

2022년 10월 16일 센겐다이교회 주일설교

신명기 29장 1~15절

서론

모세의 설교는 오늘의 신명기 29장에서부터 세 번째 설교로 들어갑니다. 오늘의 구절과 다음 번에 살펴 보게 될 30장에는 무엇이 적혀 있냐하면 모압 땅에서 이스라엘의 2세대라고 할까요, 1.5세대라고 할까요. 어쨌든 광야의 40년동안 모세를 따라온 그들과 체결하는 언약에 대해서 적혀 있습니다. 하나님은 왜 사람과의 언약에 집착하시는 걸까요? 언약이란 예를 들어 말하면 남녀의 결혼에 비유할 수 있을 것입니다. 결혼식 날 남자와 여자는 함께 서약을 합니다. 먼저 남자에 대해 “당신은 아내를 사랑하고 목숨이 다 할때까지 함께 살 것을 맹세합니까?” 그리고 여자에 대해 “당신은 남편을 사랑하고 목숨이 다 할때까지 함께 살 것을 맹세합니까?” 그리고 이렇게 서약을 나눈 남녀는 하나가 되는 것입니다. 이렇게 시작된 결혼생활이라는 것은 서로가 바람을 피우지 않고 서로가 서로를 믿는 믿음에 의해서 비로서 이루어지는 것입니다. 하나님과의 언약도 이와 같습니다. 언약이란 하나님과 사람이 하나가 되는 것이지만, 이 하나로 여겨지는 관계에서 믿음이 필수적이라는 것입니다. 상대방을 배신하지 않는 것, 바람을 피우지 않는 것, 이것이 필수인 것입니다.

그렇다면 모압 언약이란 대체 무엇인지 그 특징은 무엇인지 40년 전에 맺어진 시내 산 언약과는 무엇이 다른가 하는 것입니다. 아까 모얍 언약이란 2세대의 이스라엘 백성들과 맺은 언약이라고 했는데 정확히 말하면 그들뿐만 아니라 15절에 「오늘 우리와 함께 여기 있지 아니한 자들에게까지이니」라고 쓰여져 있으니까 그 자리에 없었던 그들의 후손들도 포함하고 나아가 현대에 사는 우리들을 포함하는 그런 시대를 초월한 스케일이 큰 계약의 체결에 대해서 모압 언약에서는 알려주고 있는 것 같습니다. 즉 이스라엘을 향한 하나님의 언약이라는 것이 사실 시간을 넘어서 지금이라고 하는 때에 싱크로나이즈(영화나 방송에서 촬영과 녹음을 동시에 행하는 일) 된다는 것입니다. 하나님과의 언약이란 역사에서 일시적인 것이 아니라 그 자손에 대해서도, 그 자손의 또 그 자녀에 대해서도 시간을 초월하여 세대를 초월하여 주님 앞에 서 있는 자에 의해서 동시에 진행이 되어서 체결된다는 것을 오늘의 대목은 가르쳐 주고 있는 것입니다.

(1) 역사의 회상

자, 1~3절에는 과거에 대한 회상이 쓰여져 있습니다. 출애굽을 한 1세대 백성들은 권능의 여호와의 왼손의 능력을 똑똑히 보았습니다. 애굽에 열 가지 재앙이 내려지고 홍해 바다를 둘로 나누고 나타난 마른 땅에 이스라엘 백성을 건너게 하고, 다시 끈질기게 이스라엘 뒤를 쫓아오는 애굽의 병거를 바다 속에 가라앉히신 것입니다. 그들은 확실히 「그 큰 시험과 이적과 큰 기사를 네 눈으로 보았느니라」라는 말씀 그대로 보았습니다. 그러나 그럼에도 불구하고 호렙 산(즉 시내 산)에서 언약이 체결된 직후 그들은 타락하고 말았습니다. 모세가 산꼭대기에 있는 동안 금송아지상을 만들었고, 이것이 자신들을 애굽에서 구해주신 여호와라고 우상예배를 해 버린 것입니다. 산을 내려 오면서 그 사실을 알게 된 모세는 분노해서 여호와께서 주신 십계명의 돌판을 던져 산산조각을 내 버리고 다시 호렙 산 꼭대기에 올라 십계명의 돌판을 받아야만 했던 것입니다. 그런 배경에서 4절 말씀이 전해지고 있다고 생각됩니다.

그러나 깨닫는 마음과 보는 눈과 듣는 귀는 오늘 여호와께서 너희에게 주지 아니하셨느니라

원래 인간은 죄인이기 때문에 비록 하나님의 큰 위엄을 봤다 하더라도 설령 하나님의 음성을 직접 들었다 하더라도 하나님의 은혜가 없으면 도무지 그것들을 깨닫지 못한다는 것입니다. 이 일은 신약의 마태복음 13장 14,15절에도 같은 내용이 적혀 있습니다.

14 이사야의 예언이 그들에게 이루어졌으니 일렀으되 너희가 듣기는 들어도 깨닫지 못할 것이요 보기는 보아도 알지 못하리라

15 이 백성들의 마음이 완악하여져서 그 귀는 듣기에 둔하고 눈은 감았으니 이는 눈으로 보고 귀로 듣고 마음으로 깨달아 돌이켜 내게 고침을 받을까 두려워함이라 하였느니라

그렇다면 지금 모압 언약을 체결하는 이스라엘 백성들에게 깨닫는 마음, 보는 눈, 듣는 귀가 주어져 있을까요? 그것에 대해서는 성경은 침묵하고 있습니다. 과연 나는 말씀을 깨닫는 마음이 주어져 있는지, 보는 눈, 듣는 귀를 부여 받고 있는지 그것은 하나님의 영역에 속한 것이며 우리들은 항상 말씀에 대해서 긴장감을 가지고 임해야 할 것이라고 생각합니다. “나는 보인다” “나는 안다”라는 오만한 태도, 이것은 바리새인이나 율법학자들의 태도이고 위험하다는 것이죠. 종교개혁자인 칼뱅은 다음과 같이 말했습니다. 「우리는 하나님을 통해 깨달음을 얻기 전까지는 항상 밝은 빛 속에 있어도 장님으로 존재하고 있다」우리들은 말씀앞에 겸손히 “제발 하나님의 말씀을 듣고 깨닫게 해 주십시오” “성령님의 역사로 제 마음을 비춰주십시오”라고 항상 기도해야 한다고 생각합니다. 계속해서 5,6절을 보시기 바랍니다.

5 주께서 사십 년 동안 너희를 광야에서 인도하게 하셨거니와 너희 몸의 옷이 낡아지지 아니하였고 너희 발의 신이 헤어지지 아니하였으며

6 너희에게 떡 도 먹지 못하며 포도주나 독주를 마시지 못하게 하셨음은 주는 너희의 하나님 여호와이신 줄을 알게 하려 하심이니라

40년간의 고난의 행보, 이는 주는 우리의 하나님 여호와이신 줄을 알게 하려 하심이었다는 것입니다. 쌀이 일본인의 주식인 것처럼 떡은 이스라엘 사람들의 주식이었습니다. 포도주나 독주는 일몰 후 추위 속에서 몸을 따뜻하게 하는 데 필수적인 것이었다고 생각됩니다. 이스라엘 백성들은 도대체 광야라는 험난한 자연 환경 속에서 떡도 먹지 않고 포도주도 독주도 마시지 않고 어떻게 살아남을 수 있었을까요? 그것은 주님께서 밤에는 불기둥으로 인도해 주셔서 추위를 이겨낼 수 있었기 때문일 것입니다. 또 여호와께서 하늘에서 만나와 메추리를 내려 주시고 여호와께서 바위에서 물을 내어 주셔서 하나님이 희안하게 먹여주심으로 광야에서 살아남을 수 있었던 것입니다. 그뿐만이 아닙니다. 그 불가사의한 인도로 헤스본의 왕 시혼 바산의 왕 옥이라는 강력한 적도 물리칠 수 있었던 것입니다. 여호와 하나님은 광야에서의 40년이라는 곤경 속에서 하나님과 함께 동행하는 것의 복됨을 깨닫도록 이스라엘을 훈련하셨다는 것입니다. 하나님과 함께 하는 것, 하나님의 은혜의 언약 안에 들어갈 수 있는 것, 이것이 우리 죄인들에게 있어서 모든 것이라고 말해도 관언이 아닐 것입니다.

(2) 오늘 여호와 앞에 서다

그렇기 때문에 오늘 여호와 앞에 서 있는 이스라엘 백성은 여호와와 언약을 체결해야 한다는 것입니다. 이 언약은 일찍이 조상 아브라함, 이삭, 야곱에게 맹세하신 그 언약을 말합니다. 즉 「여호와께서 이스라엘 백성을 자신의 백성으로 여기시고, 여호와께서 이스라엘 백성의 하나님이 되신다」는 여호와와의 관계에서의 언약을 말합니다. 더 말하면 조상들에게 약속한 가나안 땅을 주시겠다는 그 언약 말입니다. 그 내용은 40년 전 시내 산에서 맺은 언약과도 아무런 차이가 없습니다. 그러나 이 모압 언약에서 특히 강조되는 점이 두 가지 있습니다. 그것은 첫째, 언약의 대상자이지만 이스라엘의 성인 남자뿐만 아니라 전쟁에서 보통 인원수로 세지 않는 유아와 아내를 포함하고 심지어 이스라엘에 객으로 있는 이방인까지도 즉 나무를 패는 자로부터 물 긷는 자까지 포함된다는 점입니다. 10~13절을 참조하십시요.

10 오늘 너희 곧 너희의 수령과 너희의 지파와 너희의 장로들과 너희의 지도자와 이스라엘 모든 남자와

11 너희의 유아들과 너희의 아내와 및 네 진중에 있는 객과 너를 위하여 나무를 패는 자로부터 물 긷는 자까지 다 너희의 하나님 여호와 앞에 서 있는 것은

12 네 하나님 여호와의 언약에 참여하며 또 네 하나님 여호와께서 오늘 네게 하시는 맹세에 참여하여

13 여호와께서 네게 말씀하신 대로 또 네 조상 아브라함과 이삭과 야곱에게 맹세하신 대로 오늘 너를 세워 자기 백성을 삼으시고 그는 친히 네 하나님이 되시려 함이니라

여기서 하나님의 구원이라는 것이 성별이나, 인종, 직업 등에 전혀 관계가 없다는 것이 암시되어 있지 않을까 생각됩니다. 그리고 두 번째는 첫머리에 말씀드렸지만 「오늘 우리와 함께 여기 있지 아니한 자에게까지이니」라고 적혀 있습니다. 15절을 보세요.

오늘 우리 하나님 여호와 앞에서 우리와 함께 여기 서 있는 자와 오늘 우리와 함께 여기 있지 아니한 자에게까지이니

10절에서 15절 사이에 「오늘」이라는 말이 여러번 반복되고 있습니다. 여호와께서 이스라엘 조상들과 맺으신 언약은 오늘날 지금 여기에 여호와 앞에 서는 자와도 맺어지는 것이고 그리고 지금 여기에 함께 있지 않더라도 미래에 있어서 역시 여호와 앞에 서는 자와도 동시에 맺어지는 것입니다. 이것은 도대체 무엇을 의미하는 것일까요? 이것은 곧 이스라엘 백성들에게 언약의 갱신을 통해 「너희들은 나의 백성이고 주 여호와는 너희의 하나님이다」라는 것을 철저히 가르치고 있다고 생각합니다. 그리고 땅에 대한 약속도 가나안 땅에 들어가서 끝이라는 것이 아니라 그 땅에서 「하나님의 백성답게, 언약의 백성답게 계속 살아가라」는 것을 의미하지 않을까요? 하나님의 구원이란 단순히 약속의 땅에 들어가는 것이 끝이 아닙니다. 실질적으로 그 땅에서 하나님의 백성, 언약의 백성으로 사는 것을 의미합니다. 이교의 땅 가나안에서 하나님과 함께 걸으며 계명과 규칙을 지키며 사는 것이 그야말로 하나님이 선물로 주시는 「구원」인 것입니다.

그런데 히브리어로 「언약을 맺다(12절, 14절)」라는 단어는 「카라트 베리트」라는 말입니다. 직역하면 「언약을 쪼개다」가 됩니다. 이것은 언약에 따른 저주의 조항을 의미하며 만일 계약을 어긴다면 이 쪼개진 동물처럼 될 것입니다. 그렇기때문에 통상이라면 언약에는 동물 희생 제사가 포함되고 그것을 언약의 당사자가 함께 먹으면서 언약 의식을 축하한다는 묘사가 나오는데 이상하게도 이 모압 언약에는 언약 의식으로 동물 희생 제사가 나오지 않습니다. 사실 이 언약은 모압 땅에서 완료된 것이 아니라 요단 강을 건너 에발 산과 그리심 산 사이에 세겜에서 여호수아가 인도한 백성들이 언약 의식을 치르는데 그 의식으로 모압 언약이 완료 된다고 해석하는 학자들이 있습니다. 저도 그 견해를 지지 합니다. 여호수아서 8장 30~32절을 보세요.

30 그 때에 여호수아가 이스라엘의 하나님 여호와를 위하여 에발 산에 한 제단을 쌓았으니

31 이는 여호와의 종 모세가 이스라엘 자손에게 명령한 것과 모세의 율법책에 기록된 대로 쇠 연장으로 다듬지 아니한 새 돌로 만든 제단이라 무리가 여호와께 번제물과 화목제물을 그 위에 드렸으며

32 여호수아가 거기서 모세가 기록한 율법을 이스라엘 자손의 목전에서 그 돌에 기록하매

즉 모압 언약이란 전반부는 모세에 의해 인도된 백성들이 요단 강 동쪽 모압에서 체결하고 후반부는 여호수아에 의해 인도된 백성들이 요단 강 서쪽 세겜에서 체결한 것으로 볼 수 있습니다. 즉 「모압-세겜 언약」이라는 생각입니다. 그렇게 생각한다면 더욱 모압 언약이란 시대를 초월하여 세대를 초월하여 싱크로나이즈되는 언약의 갱신을 의미하지 않을까 생각됩니다. 언약에 따라 여호와 하나님의 백성으로 여겨진 사람들은 여호와께 의지하면서 규칙과 계명을 지켜 여호와 하나님의 백성으로 빛을 발하며 살게 될 것입니다. 약속의 땅을 정복하고 그 땅에 뿌리내린 신앙이나 우상을 따르는 것이 아니라, 힘과 권력을 등에 업고 약한 사람을 지배하거나 괴롭히는 것이 아니라 오히려 공의를 사랑하고 레위인, 과부, 고아, 객을 불쌍히 여기고 베풀어 주는 그런 복된 생활을 살아가는 자가 되는 것입니다. 그러나 만일 여호와 하나님을 등지고 말씀을 소홀히 하고 가나안 땅 우상의 신들을 섬겨 주 여호와의 은혜를 은혜로 받아들이려 하지 않는다면 저주가 현실이 될 것입니다. 이 저주는 하나님의 벌이라기보다는 오히려 하나님의 은혜를 부정한 것의 당연한 결과라고 할 수 있습니다. 예를 들면 겨울의 따뜻한 방을 상상해 보세요. 이 방에서 초겨울의 찬 바람이 부는 밖으로 나가면 추운 것은 당연합니다. 이 「추위」는 하나님의 벌이라기보다는 따뜻한 방을 나간 것의 당연한 귀결입니다. 하나님은 우리를 축복하고자 창조하셨습니다. 축복은 하나님의 뜻입니다. 하나님은 그렇게 선하시고 인자하신 분입니다. 결코 「불순종하면 저주를 준비해 놓았다」라든가 「말을 듣지 않는다면 올무에 빠지게 매복해 있겠다」이런 생각을 하실 분이 절대로 아닙니다. 여호와 하나님은 이스라엘 백성들이 축복을 선택하기를 바라고 계십니다. 은혜 아래 몸을 두고 점점 더 하나님과 함께 동행하는 복된 인생을 받기를 바라고 원하고 계시는 것입니다.

결론

하나님은 이스라엘의 선조들과 맺으신 언약을 오늘, 우리들과도 동시에 체결 하시고 갱신하시기를 원하고 계십니다. 지금 하나님 앞에 서 있는 우리는 여호와 하나님의 그 생각에 응답하고 저주가 아닌 축복을 택합시다. 축복이란 하나님의 언약의 백성으로서 그 은혜와 인도 아해 스스로를 두고 감사와 은혜의 응답의 삶을 사는 것입니다. 반대로 저주란 하나님과의 교제를 단절하고 감사도 은혜의 응답도 하지 않고 우상의 신들을 섬기는 것입니다. 언약 갱신의 은혜를 통해 약속의 땅에 들어간 우리는 은혜에 응답하고 이스라엘 백성처럼 이교의 땅에 있더라도 자녀들에게 여호와 하나님의 사랑을 전하고 하나님을 증거하고 하나님의 백성으로 교육하고 축복을 대대로 계승해 나가는 자가 됩시다.

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