2019年04月07日「兄弟愛のわざ」

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聖句のアイコン聖書の言葉

31「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
32そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
33羊を右に、山羊を左に置く。
34そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
37すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
38いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
39いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
40そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
41それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
42お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、
43旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
44すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
45そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
46こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 25章31節~46節

原稿のアイコン日本語メッセージ

イエス様は弟子たちに終わりの日を迎えるにあたって引き続いて教訓を語っておられます。私たちは、キリストが再臨されること、終わりの日、清算の日が来ることを聖書の御言葉を通して知らされている者として、その日に備え、苦難を耐え忍び、聖く、正直に生きなければなりません。

1節を見ますと、キリストが天使たちと共に再臨される時、栄光の座に着くと宣言しています。つまり、その時になって、ようやく、キリストは王の称号を受けるということでありますが、これは、やがて天の御国が完全に完成される際に、放たれる威厳の現れの明瞭さについての御言葉と考えられます。というのは、神の国はすでに到来しており、イエス様は十字架上において罪の贖いを全うされ、復活した後、父の右に座して、そこで王として絶対的な主権によって天地を支配しておられるからです。必要によってはこの世の悪魔の働きをけん制したり、教会に保護を与えたりしています。しかし、相変わらず地上に残された私たちには罪が残っており、この世にあって無秩序と混乱の中で、罪との戦いは続いています。そのような中で、現在、私たちが信仰によってのみ、味わうことのできる天の御国とその栄光と威厳が、イエス様の再臨される時になれば、完全に現れることになるということです。私たちが、それまでに見たことのないような、はるかに明るい輝きを放ちながら、栄光の御座が高く現れることになるという意味と思われます。

キリストの国をこのように厳かな姿によって描写する理由とは、弟子たちが救いについて、現在考えているのとは、まったく異なる次元の「幸い」を仰ぎ見るようにというイエス様のお考えからです。つまり、救いとは当時の弟子たちが考えていたように一瞬にして与えられるのではないということです。聖霊によって導かれるプロセスがあります。モーセが出エジプトをして紅海を渡った後、直ちにイスラエルの民に、平安な心地よい生活が訪れたのではありませんでした。40年の荒野における訓練というプロセスを聖霊によって導かれて、約束の地に入るまで、忍耐しなければなりませんでした。同じく、私たちはイエス様の十字架を受け入れ告白したときに、救いがスタートしました。しかし、私たちが約束の嗣業、つまり天の御国の相続に導かれるまでには、やはり訓練を経なければなりません。そこには教会生活というプロセスがあります。キリストの体に結ばれて、聖霊によって導かれて、神の神殿にたて上げられなければなりません。弟子たちがこの地上の混沌の中で、苦しみと迫害の中にあって最後まで忍耐し、聖く、信実に生きるように励まそうとしておられるのです。

本日お読みした箇所では、愛の奉仕の重要性が教えられています。救いとは一瞬ではないということですから、本日の箇所で私たちの救いの根拠というものが、リストアップされた愛の奉仕に置かれているのか、と言うとそうでもありません。

昔、カトリックの修道士たちは、35~36節において書かれている慈悲深い業を6種類、具体的に上げて、つまり、①飢えていた時に食べさせること、②渇いていた時に飲ませること、③旅人に宿を貸すこと、④裸の時に着せてあげること、⑤病の時に見舞いをすること、⑥牢に閉じ込められていた時に訪ねること、この6種類の善行に対し特に注意が注がれ一生懸命励みました。ところが一方で自分たちが現在遂行している罪、つまり、姦淫や不誠実や偽りなどの罪は比重的に軽んじられ、こういった罪に対して鈍感になっていきました。大変愚かなことです。

イエス様は愛の業を勧めるにあたって、決して神を礼拝することを排除しているのではありません。つまり、モーセに授けられた十戒の二枚の石板に書かれてあるように、第一に神を正しく知り、神に礼拝を捧げることが大切であり、第二に隣人を愛することが大切です。ですから、愛の業が強調されているのは、愛の業こそ、キリストに結合された信者の聖なる生活の実であるという点を警告しているに過ぎません。愛の業とは決して救いの根拠ではなく、すでに救われている証拠に過ぎないということです。その点を踏まえながら、御言葉を読んでいきたいと思います。

34節から、左右により分けられた羊についての段落とヤギについての段落に分けられます。34~40節までが羊であり、41~45節までがヤギです。そして、34節と41節が全く同じ文体です。新共同訳には翻訳されていませんが、原文を見ると、わたしの父に祝福された人たち、の後に「来るがよい」という言葉が挿入されています。これは41節の「離れ去れ」という言葉に呼応しています。同じように40節と45節も全く同じ文体です。ですからこの二つの段落が対句のようになっています。それでは34節と41節をご覧ください。

そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、「来るがよい!」天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。

お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、

裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

私たちがこの箇所を読んで第一に驚かされることは、私たちの救いが天地創造の時からすでに用意されていたということです。なんと深淵なる恵みでしょうか。ですからこの箇所だけでも救いとは私たちの善行に根拠が置かれているのではない、そのような薄っぺらいものではないということが分かります。救いは神からただで与えられる恵みです。世のどのような激しい移り変わりも、私たちに用意された救いを奪い去ることはできません。

次に、神様が喜ばれる愛の業の性質についてですが、それは一切見返りを期待できないただで捧げる業です。つまり、腹が減って食べるものを持ち合わせていない者、ボロを着た者、旅人、そして牢に閉じ込められた者、こういった返してもらえる見込みがない人々に対して「愛の業」を施しなさいと命じておられます。もし、私たちの心の動機に、見返りを求める気持ちが少しでもあれば、それは「愛の業」ではありません。続いて37~40節をご覧ください。

すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。

いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。

いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』

そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

正しい人たちは王の言葉に驚きました。その驚きの大きさは、「いつ、そのようなことをしたというのでしょうか」という質問が三回に渡りされている所から伺うことができます。

愛の業は一切見返りを期待できませんでしたが、わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。と宣言されました。つまり、イエス様はご自身を弟子たちと極めて同等に取り扱われ、ともにおられるイエス様が、誰にも気づかれないほどに、それほどまでご自身を低くされたということです。ここにイエス様と主に従う者の特別に固く結びあわされた関係を見ることができるのです。だからこそ私たちの世に対する宣教も重要になってきます。福音を伝えて、代弁しているキリストの弟子たちを親切に施してあげることは、イエス様に親切に施すことと同じだというのです。反対にキリスト教の宣教師の必要を満たすことができないことは、即ち、イエス様の必要を満たすことができないことと同じなのです。このことに勇気をもって私たちは世に出て行き、福音を伝えることができるのです。もし地域の人々が私たちを拒絶するなら、イエス様を拒絶するのと同じことだからです。

この意味において愛の業は特に、異邦人より、信仰の家族に対してなされるべきです。ノンクリスチャンを無視しなさいということではありませんが、キリスト者が世で辱められ、侮辱を受けても、神の目には、ご自身の民がご自身の身体の一部に劣らないほど大切であるという意味からです。

さらに、もし私たちが信仰の兄弟姉妹に愛の業を施すなら、神様が私たちの小さな業に利子をつけて増し加えて、報いとして返して下さいます。かわいそうな人々を助けるに当たって、もし私たちが躊躇する心がある場合には、すぐにイエス様の姿を心に思い浮かべるようにしましょう。次にヤギたちの段落に移ります。41~43節をご覧ください。

それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。

お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、

旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』

祝福された人たちには、御国が天地創造の時から用意されていましたが、呪われた者たちには消えることのない永遠の火が、悪魔と手下のために用意されています。それに対するヤギたちの返事を見てみましょう。44節です。

すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』

この返事では、ヤギである人々がイエス様のことを「主よ、」と呼んでいます。これはつまり、彼らがこれまで羊と同じ群れに属していて、自分たちも救われて当然であると考えていたということです。

また、驚き方に注意してみますと、先ほどの正しい人たちの驚きに比べたら、とてもあっさりしています。もしかしたら彼らにとってイエス様が一つ一つ挙げられた業は、つまらないものに思われたからなのかもしれません。恐らく彼らは、「主よ、私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか」言いたかったのでしょう。そして、少なくとも実際に、イエス様が困っているのを見たら、人肌脱ぐくらいの気概は持っていました。しかし、イエス様に対してなら払う犠牲や奉仕を、つまらない者たち、取るに足らない者たちに対しては出し惜しみするという点で、彼らは打算的であり、ヤギであったということです。教会の中にもヤギはいます。ヤギと羊は最後の審判になって初めてより分けられるのです。

エゼキエル書34:17~20節をご覧ください(p1353)。

お前たち、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く。

お前たちは良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回すことは、小さいことだろうか。

わたしの群れは、お前たちが足で踏み荒らした草を食べ、足でかき回した水を飲んでいる。

それゆえ、主なる神は彼らにこう言われる。わたし自身が、肥えた羊とやせた羊の間を裁く。

教会に羊とヤギが一緒にいる限り、敬虔で信実な羊は、同じの群れの中のヤギの乱暴によって荒らされた水を飲まざる得ないこともあれば、踏みならされてぺしゃんこになった草を食べなければならない時もある。そしてヤギの角によって羊がけがをすることもあるだろうということです。しかし神様がこのように羊とヤギの区別をあえて先送りさせるのは、弟子たちが即刻的に救いの安寧に与るに違いないという考えを完全に捨てさせるためです。私たちはキリストの十字架を信じ受け入れて、スタート地点に立ちました。その後に苦難な旅路が備えられているのは、私たちがそのような中でも聖霊によって導かれ、訓練されて、私たちの群れがキリストの身体として聖なる神殿に建て上げられ、終わりの日に御国を相続させるためなのです。そのことを覚えつつ主の助けによって最後まで耐え忍ぶ者とならせていただきましょう。

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