2022年11月27日「幸いなイスラエル 이스라엘이여 너는 행복한 사람이로다」

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幸いなイスラエル 이스라엘이여 너는 행복한 사람이로다

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 33章26節~34章12節

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聖句のアイコン聖書の言葉

33:26エシュルンの神のような方はほかにはない。あなたを助けるために天を駆け/力に満ちて雲に乗られる。
33:27いにしえの神は難を避ける場所/とこしえの御腕がそれを支える。神はあなたの前から敵を追い散らし/「滅ぼし尽くせ」と言われた。
33:28イスラエルは安らかに住み/ヤコブの泉のみが絶えない/穀物と新しい酒に富み/天が露を滴らす土地に。
33:29イスラエルよ、あなたはいかに幸いなことか。あなたのように主に救われた民があろうか。主はあなたを助ける盾/剣が襲うときのあなたの力。敵はあなたに屈し/あなたは彼らの背を踏みつける。
34:1モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。ギレアドからダンまで、
34:2ナフタリの全土、エフライムとマナセの領土、西の海に至るユダの全土、
34:3ネゲブおよびなつめやしの茂る町エリコの谷からツォアルまでである。
34:4主はモーセに言われた。「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」
34:5主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。
34:6主は、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない。
34:7モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった。
34:8イスラエルの人々はモアブの平野で三十日の間、モーセを悼んで泣き、モーセのために喪に服して、その期間は終わった。
34:9ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満ちていた。モーセが彼の上に手を置いたからである。イスラエルの人々は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおり行った。
34:10イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、
34:11彼をエジプトの国に遣わして、ファラオとそのすべての家臣および全土に対してあらゆるしるしと奇跡を行わせるためであり、
34:12また、モーセが全イスラエルの目の前で、あらゆる力ある業とあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すためであった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 33章26節~34章12節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 アドベント第一主日を迎えました。次週は礼拝後に会堂清掃をして、今年も気持ち良くクリスマスをお祝いしたいと思っています。本日で申命記の最後の説教となります。申命記は、死を目前にしたモーセがイスラエルの民に対し、遺言的な祝福をすることによって閉じられています。33章の冒頭に「神の人モーセ」という表現がありますが、この「神の人」という表現は旧約聖書の中で、主に預言者たちに対して使われている言葉です。預言者サムエル、預言者エリヤ、預言者エリシャなどにも使われましたが、34:10には、「再びモーセのような預言者は現れなかった」とありますから、モーセとはまさに、預言者の中の預言者、預言者の雛形と言うことができるでしょう。このモーセの死は、イスラエルの民にとって大変重大な意味を持つものでありました。なぜこの偉大なる指導者は約束の地に入れずに死ぬことになるのか、残された自分たちの将来は一体どうなるのか、恐らく不安と動揺と混乱の中に置かれていたに違いありません。ところがモーセ自身は、全き平安に満たされていて、自分が約束の地に入れないことの無念さをこぼすようなことは、一切ありませんでした。32章の所謂、「モーセの歌」では、将来のイスラエルの破局を預言するような内容でしたが、その民に対し、憐れみや、同情心を持つというのではなく、むしろ「イスラエルよ、あなたはいかに幸いなことか」と祝福を送っています。本日は、どのような思いでモーセはイスラエルを祝福したのか黙想しつつ、御言葉の恵みに与りたいと思います。

【1】. モーセの祝福

 最初に33:26節で「エシュルン」という言葉が出て来ます。この言葉は33:5にも出て来ますが、イスラエルのことを指しており、「まっすぐな者、高潔な者」という意味です。ソロモン王にエディドヤ(主に愛された者)という愛称が付けられたように、イスラエルの民に対してもエシュルンという愛称が付けられていました。ここでは「エシュルンの神のような方は他にはない」と書かれていますが、この素晴らしい神様を王として迎えているイスラエルのような幸いな民は、他にはいないということが暗示されています。しばしば、モーセの祝福と比較されるのが、創世記49章のヤコブの十二人の息子たちへの祝福であります。このモーセの祝福とヤコブの祝福の二つが引き合いに出されますが、モーセの祝福の中には、シメオン部族の名が出て来ませんが、これは、途中で、シメオン部族がユダ部族に吸収され、一つになったためと考えられます。結果としてモーセの祝福では十一部族だけを祝福することになったと思われます。このヤコブの祝福と、モーセの祝福とを比較する時に、著しく異なる点がありますが、それは、モーセの祝福が全面的に祝福のみ前に出ているという点です。ヤコブの祝福では息子たちの問題、罪に対する審判、叱責などが含まれていますが、モーセの祝福は全面的に祝福だけが出ているという点です。因みに創世記49:3~7をご覧ください。ルベン、シメオン、レビに対する叱責が語られています。

“ルベンよ、お前はわたしの長子/わたしの勢い、命の力の初穂。気位が高く、力も強い。お前は水のように奔放で/長子の誉れを失う。お前は父の寝台に上った。あのとき、わたしの寝台に上り/それを汚した。シメオンとレビは似た兄弟。彼らの剣は暴力の道具。わたしの魂よ、彼らの謀議に加わるな。わたしの心よ、彼らの仲間に連なるな。彼らは怒りのままに人を殺し/思うがままに雄牛の足の筋を切った。呪われよ、彼らの怒りは激しく/憤りは甚だしいゆえに。わたしは彼らをヤコブの間に分け/イスラエルの間に散らす。”

このようにヤコブはルベン、シメオン、レビの悪い行いを指摘し、その審判について語っています。一方で、モーセの祝福を見るなら、いかなる過ちも言及されずに、祝福の言葉だけが語られています。これは、イスラエルの民に、何も問題がなかったということではありません。依然としてイスラエルの民には多くの罪の問題を潜在的に抱えていたと思われます。そのことは32章にある預言的な歌、「モーセの歌」を見るならば、一目瞭然でありました。それにも拘わらず、ここで、全面的にイスラエルを祝福する理由は何なのでしょうか。考えられる理由の一つとして、ヤコブの祝福は、個人的な観点から語られているが、モーセの祝福は、契約的観点から語られているということが挙げられると思います。モーセの祝福は、「神様との契約の関係から、神様はご自身の民を、究極的にはどのようにされるのか」について語られているのです。イスラエルの民には、依然として罪の問題はありました。彼らはうなじの強い民であり、弱さがあり、傷や、欠けがありました。神様に相応しくない部分がたくさんありました。それにも拘わらず、神様との契約の中にあって、神様にとって何の問題もないかのように、民に接して下さるのです。問題がないために問題を指摘しないのではなく、問題を超えて民を愛するという、神の契約に基づくその愛によってイスラエルの民に接しているのです。繰り返しますが、イスラエルに罪がないから問題がないのではなく、罪は明らかにありますが、キリストにあって、その全ての罪が覆い隠され、神の民として受け入れられているということです。そのような神様の心を、モーセはよく知っていたのでしょう。永遠の神は、イスラエルの避難所となってくださり、敵を追い散らし、共におられる神様の御腕が、イスラエルを支えて下さり、神の御腕の中にイスラエルは永遠の安息を得ることになるのです。そのことが「エシュルンの神のような方は他にはない」というモーセの言葉の中に含蓄されているのではないでしょうか。続いて29節をご覧ください。

“イスラエルよ、あなたはいかに幸いなことか。あなたのように主に救われた民があろうか。主はあなたを助ける盾/剣が襲うときのあなたの力。敵はあなたに屈し/あなたは彼らの背を踏みつける。”

モーセは遺言として「幸いなイスラエルよ」、「あなたはいかに幸いなことか」と心から語っています。この言葉は、霊的なイスラエルである、私たち、現代のキリスト者にも同じように、語りかけられています。「幸いなイスラエルよ」、「あなたはいかに幸いなことか」。この言葉は、皆さまの心にも豊かに響いて来るのではないでしょうか。私たちが、今、どのような状況に置かれていたとしても、どのような問題を抱えていたとしても、イエス・キリストにあって「幸いなイスラエルよ」と、語ってくださるのです。

【2】. 信仰によって歩む人生

 さて、34章にはモーセの死と、彼の生涯に対する評価が書かれています。モーセは自分の死さえも肯定的に受け止めていました。「志半ばで無念であるが、後のことはイスラエルの民に託す他ない」ということでは、決してありません。自分に任された全ての働きを終えて、今まで共におられた神様の懐の中に、今まさに自分も引き寄せられる喜びで満たされているのです。死を迎える直前に、神様はネボ山の頂上であるピスガの頂からモーセに、約束の地、カナンの全土をあまねく見渡すことができるようにしてくださいました。それは、まるでアブラハムに対し、カナンの地の東西南北を見渡すようにされたのと同じ仕方でありました。ピスガの頂に登り、モーセは、東は、ギレアドから、北はダンと、ナフタリの全土、中央に、エフライムとマナセの領土、そして西の地中海に至るユダの全土、南は、ネゲブおよびなつめやしの茂る町エリコの谷からツォアルまでです。何と美しい土地だったでしょうか。しかしこの時、モーセはもっと美しい約束の地を見ていたと思われます。ヘブル書11:1-2と11:24-26をご覧ください。

“信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。”

“信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。”

モーセは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりを、エジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる「天の」報いに目を向けていたからです。ですからモーセは、この時カナンの全地を眺めることを通して、まだ見ぬ、天で受けることになる相続地を、信仰によって眺めていたのではないかと思われます。イスラエルの民に約束されていたのは、乳と蜜の流れるカナンの地でありますが、実際、神様がご自身の民に与えようとされていたのは、カナンの地そのものではなく、天の相続地であって、その天の相続地を、この世で、実際に目で見て前味を味わうことができるように、そして彼らの信仰を支えるために、神様はカナンの地を与えてくださったと考えることができるからです。これから後、数百年後には、列国による捕囚によって、イスラエルはカナンの地から散らされることになりますが、それにも拘わらず、イスラエルが幸いな理由とは、やがて天で受けることになる相続地に目が注がれていたからです。モーセが喜びに満たされている理由は、まさにその点にあったのでしょう。この豊かな、言葉では言い尽くせない天の嗣業をモーセが受け取ることができるように、信仰の民イスラエルも、同じく受け取ることが出来るのです。まだ見ぬ、天の嗣業を仰ぎつつ、この世に命を与えられている間、神の共同体の中で、信仰によって歩ませていただけること、これほど大きな幸いがあるでしょうか。続いて34:5-6をご覧ください。

“主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。主は、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない。モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった。”

モーセが死んだ時、年齢は120歳でしたが、まだ目はかすまず、活力も失せていなかったとあります。どうやら、モーセは、老衰によって死を迎えたのではないようです。むしろ、主の命令によって「あなたの働きはここまでだ」というふうに、時至り、神がモーセを天に召してくださった、ということなのでしょう。イスラエルの民にとって、モーセほど偉大なる人物は現れませんでした。シナイ山において律法を授与された人物は、他でもなくモーセでありました。しかし、本当に偉大なのは、モーセと共におられる神様だということを言わんとしているのではないかと思います。モーセはどこに葬られたのか、その墓さえ分からなくなってしまいましたが、これは、モーセが偶像化されることを防ぐためであったと思われます。万一、モーセがイスラエルをカナンの地に導き入れ、カナンにおいてものすごい墓が彼のために建てられたなら、イスラエルの民はモーセを神のように拝むことになったでしょう。ですから、モーセの墓がわからなくなったのは、民の信仰にとって、むしろ良いことだったと言えるのです。モーセの墓が分からなくなったのは、モーセの働きではなく、モーセと共におられた神様の働きが前面に出るためでありました。神様はモーセといつも共におられたように、契約の民イスラエルとも共におられるお方です。そのことを忘れずに、イスラエルの民は、この後ヨシュアを指導者とし、モーセに教えていただいたように信仰によって歩み、信仰によってカナンの地を征服していかなければならないのです。

【結論】

 40年間モーセに導かれて、荒れ野を放浪したイスラエルの民は、モーセの死の問題に直面しました。いざ、カナンの地をこれから征服しようとするところで、重要な指導者を失ってしまいました。この世的に見て、後に残されたイスラエルが幸いな理由を見つけることができません。ところが、モーセは遺言の中で「幸いなイスラエルよ」、「あなたはいかに幸いなことか」と語るのです。その理由は、神様がイスラエルと共におられるからです。神様がイスラエルの罪を覆い隠され、ご自身の聖なる民として取り分けて下さるからです。神様はイスラエルを「エシュルン」と親しく呼んでくださいます。この呼称は、悔い改めても、また罪を犯し、立ち上がっても、また倒れてしまう、弱くて惨めな自分たちであるということを悟った時に、とても身の丈に合わず、分不相応であるということが分かることでしょう。それでも神様は、ご自身の民をエシュルンと呼んでくださり、そして霊的イスラエルである私たちに対しても同じように親しく呼んでくださるのです。この世において、どのような試練や苦難の中にあっても神様は、私たちと共にいて下さり、私たちの避け処となってくだり、神の力強い御腕の中で安らかに住むようにしてくださり、やがて天の嗣業へと私たちを導いてくださるからです。「幸いなイスラエルよ」、「あなたはいかに幸いなことか」というモーセの言葉は、そのことを語っているのです。

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이스라엘이여 너는 행복한 사람이로다

2022년 11월 27일 센겐다이교회 주일설교

신명기 33장 26절~34장 12절

서론

어드벤트 제 첫째 주일을 맞이했습니다. 다음주는 예배 후 교회 청소를 하고 올해도 산뜻한 기분으로 크리스마스를 축하하고자 합니다. 오늘로 신명기의 설교는 마지막을 맞이합니다. 신명기는 죽음을 눈 앞에 둔 모세가 이스라엘 백성들에게 유언적 축복을 함으로써 닫혀 있습니다. 33장 첫머리에 「하나님의 사람 모세」라는 표현이 있는데 이 「하나님의 사람 모세」라는 이 표현은 구약성경에서 주로 선지자들에게 쓰이는 말입니다. 선지자 사무엘, 선지자 엘리야 선지자 엘리사 등에도 쓰였는데 34장 10절에는 그 후에는 이스라엘에 모세와 같은 선지자가 일어나지 못하였다고 하니 모세란 바로 선지자 중의 선지자이며 선지자의 모형이라고 할 수 있을 것입니다. 이 모세의 죽음은 이스라엘의 백성에게 있어 매우 중대한 의미를 지닌 것이었습니다. 왜 이 위대한 지도자는 약속의 땅에 들어가지 못하고 죽게 되는지, 남겨진 자신들의 장래는 도대체 어떻게 될지, 아마도 불안과 동요와 혼란 속에 놓여 있었을 것입니다. 그런데 모세 자신은 한결같이 평안이 충만하고 자신이 약속의 땅에 들어가지 못하는 것을 억울하게 생각하는 말을 흘리거나 하는 것이 일절 없었습니다. 32장의 이른바 모세의 노래에서는 장래 이스라엘의 파국을 예언하는 내용이었는데 그 백성에 대해 연민이나 동정심을 갖는 것이 아니라 오히려 「이스라엘이여 넌 행복한 사람이로다 여호와의 구원을 너 같이 얻은 백성이 누구냐」라며 축복을 말하고 있습니다. 오늘은 어떤 생각으로 모세가 이스라엘을 축복했는지 묵상하면서 말씀의 은혜를 받기를 원합니다.

(1) 모세의 축복

처음 33장 26절에서 「여수룬」이라는 단어가 나옵니다. 이 단어는 33장 5절에도 나오는데 이스라엘을 가리키며 「의로운 자 고결한 자」라고 하는 의미입니다. 솔로몬 왕에게 여디디야(여호와께 사랑을 입은 자)라고 하는 애칭이 붙여진 것처럼 이스라엘 백성에 대해서도 여수룬이라고 하는 애칭이 붙었습니다. 여기서는 「여수룬의 하나님 같은 이가 없다」라고 쓰여져 있는데 이 놀라운 하나님을 왕으로서 맞이하고 있는 이스라엘과 같은 복된 백성은 또 없다는 것을 암시하고 있습니다. 종종 모세의 축복과 비교되는 것이 창세기 49장 야곱의 열두 아들들에 대한 축복입니다. 이 모세의 축복과 야곱의 축복 두 가지가 인용될 때 모세의 축복 중에는 시므온 부족의 이름이 나오지 않는데 이는 중간 시므온 부족이 유다 부족에 흡수되어 하나가 되었기 때문으로 보입니다. 결과적으로 모세의 축복으로는 열한 부족만을 축복하게 되었다고 생각됩니다. 이 야곱의 축복과 모세의 축복을 비교할 때 현저하게 다른 점이 있는데 그것은 모세의 축복이 전면적으로 축복만 말하고 있다는 점입니다. 야곱의 축복에서는 아들들의 문제, 죄에 대한 심판, 질책등이 담겨 있지만 모세의 축복은 전적으로 축복만이 나오고 나오고 있다는 점입니다. 덧붙여서 창세기 49장 3~7절을 참조하시기 바랍니다. 르우벤, 시므온, 레위에 대한 질책이 회자되고 있습니다.

3 르우벤아 너는 내 장자요 내 능력이요 내 기력의 시작이라 위풍이 월등하고 권능이 탁월하다마는

4 물의 끓음 같았은즉 너는 탁월하지 못하리니 네가 아버지의 침상에 올라 어렵혔음이로다 그가 내 침상에 올랐었도다

5 시므온과 레위는 형제요 그들의 칼은 폭력의 도구로다

6 내 혼아 그들의 모의에 상관하지 말지어다 내 영광아 그들의 집회에 참여하지 말지어다 그들이 그들의 분노대로 사람을 죽이고 그들의 혈기대로 소의 발목 힘줄을 끊었음이로다

7 그 노여움이 혹독하니 저주를 받을 것이요 분기가 맹렬하니 저주를 받을 것이라 내가 그들을 야곱 중에서 나누며 이스라엘 중에서 흩으리로다

이처럼 야곱은 르우벤, 시므온, 레위의 나쁜 행동을 지적하고 그 심판에 대해 이야기하고 있습니다. 반면 모세의 축복을 본다면 어떤 잘못도 언급하지 않고 축복의 말만 나오고 있습니다. 이것은 이스라엘 백성들에게 아무 문제가 없었다는 것이 아닙니다. 여전히 이스라엘 백성들에게는 많은 죄의 문제를 잠재적으로 안고 있었다고 생각됩니다. 그것은 32장에 있는 예언적인 노래, 「모세의 노래」를 본다면 일목요연했습니다. 그럼에도 불구하고 여기서 전면적으로 이스라엘을 축복하는 이유는 무엇일까요? 생각해볼 수 잇는 이유의 하나로 야곱의 축복은 개인적인 관점에서 이야기되고 있지만 모세의 축복은 언약적 관점에서 이야기되고 있다는 것을 들 수 있다고 생각합니다. 모세의 축복은 「하나님과의 언약의 관계에서 하나님은 자기 자신의 백성을 궁극적으로 어떻게 하실 것인가」에 대해서 이야기하고 있는 것입니다. 이스라엘 백성들에게는 여전히 죄의 문제가 있었습니다. 그들은 목이 곧은 백성들이었고 연약함이 있었고 상처가 있었고 흠이 있었습니다. 하나님께 어울리지 않는 부분이 많았습니다. 그럼에도 불구하고 하나님과의 언약 가운데에 있었고 하나님께 있어서는 아무런 문제도 없는 것처럼 자신의 백성을 대해 주시는 것입니다. 문제가 없기 때문에 문제를 지적하지 않는 것이 아니라 문제를 넘어 백성을 사랑한다는 하나님의 언약에 의거한 그 사랑으로 이스라엘 백성을 대하고 계시는 것입니다. 다시 말하지만 이스라엘에 죄가 없기 때문에 문제가 없는 것이 아니고 죄는 분명히 있지만 그리스도에게 있어서 그 모든 죄가 가려지고 하나님의 백성으로 받아들여지고 있다는 것입니다. 그런 하나님의 마음을 모세는 잘 알고 있었을 것입니다. 영원하신 하나님은 이스라엘의 피난처가 되어 주시고 적을 몰아내고 함께 계신 하나님의 팔이 이스라엘을 지탱해 주시고 하나님의 품에 이스라엘은 영원한 안식을 얻게 되는 것입니다. 그것이 「여수룬의 하나님 같은 이가 없다」는 모세의 말속에 함축되어 있는 것은 아닐까요. 이어서 29절을 보시죠.

이스라엘이여 너는 행복한 사람이로다 여호와의 구원을 너 같이 얻은 백성이 누구냐 그는 너를 돕는 방패시요 네 영광의 칼이시로다 네 대적이 네게 복종하리니 네가 그들의 높은 곳을 밟으리로다

모세는 유언으로 「이스라엘아 너는 행복한 사람이로다」라고 진심으로 말하고 있습니다. 이 말은 영적인 이스라엘인 우리들 현대의 그리스도인들에게도 똑같이 말하고 있는 것입니다. 「이스라엘아 너는 행복한 사람이로다」라는 말은 여러분들의 마음에도 풍성하게 와 닿지 않습니까? 우리가 지금 어떤 상황에 처해 있든 어떤 문제를 안고 있든 예수 그리스도께 있어서 「이스라엘아 너는 행복한 사람이로다」라고 말씀해 주시는 것입니다.

(2) 믿음을 따라 걷는 인생

자, 34장에는 모세의 죽음과 그의 생애에 대한 평가가 적혀 있습니다. 모세는 자신의 죽음조차도 긍정적으로 받아들이고 있었습니다. “억울하지만 뒷일은 이스라엘 백성에게 맡길 수밖에 없다”는 것이 결코 아닙니다. 자신에게 맡겨진 모든 사명을 마치고 지금까지 함께 하시던 하나님의 품안에 지금 바로 자신이 갈 것이라는 기쁨으로 가득 차 있는 것입니다. 죽음을 맞이하기 직전에 하나님께서는 느보 산 정상 비스가 산꼭대기에서 모세에게 약속의 땅 가나안 온 땅을 두루 바라 볼 수 있게 해주셨습니다. 그것은 마치 아브라함에게 가나안 땅의 동서남북을 바라보게 한 것과 같은 방식이었습니다. 비스가 꼭대기에 올라 모세는 동쪽으로는 길르앗에서 북쪽으로는 단과 납달리의, 전 국토 중앙으로는 에브라임과 므낫세의 영토, 그리고 서쪽으로는 지중해에 이르는 유다의 전 국토, 남쪽으로는 네겝 및 종려나무의 성읍 여리고 골짜기 평지를 소알까지 보여 주셨습니다. 얼마나 아름다운 땅이었을까요? 그러나 이때 모세는 더 아름다운 약속의 땅을 보고 있었다고 생각됩니다. 히브리서 11장 1,2절과 11장 24~26절까지를 참조하십시오.

1 믿음은 바라는 것들의 실상이요 보이지 않는 것들의 증거니

2 선진들이 이로써 증거를 얻었느니라

24 믿음으로 모세는 장성하여 바로의 공주의 아들이라 칭함 받기를 거절하고

25 도리어 하나님의 백성과 함께 고난 받기를 잠시 죄악의 낙을 누리는 것보다 더 좋아하고

26 그리스도를 위하여 받는 수모를 애굽의 모든 보화보다 더 큰 재물로 여겻으니 이는 상 주심을 바라봄이라

모세는 하나님의 백성과 함께 고난 받는 쪽을 택했고 그리스도 때문에 받는 조롱을 애굽에서 잠시 죄악의 낙을 누리는 것보다 나은 부로 여겼습니다. 받게되는 「하늘의 상」에 눈을 돌리고 있었기 때문입니다. 그래서 모세는 이때 가나안의 온 땅을 바라보는 것을 통해 아직 보지 못한 하늘에서 받게 될 상속지를 믿음에 의해 바라보았던 것이 아닐까 생각됩니다. 이스라엘 백성들에게 약속된 것은 젖과 꿀이 흐르는 가나안 땅이지만 사실 하나님께서 자신의 백성에게 주려고 하신 것은 가나안 땅 자체가 아니라 하늘의 상속지이며 그 하늘의 상속지를 이 세상에서 실제로 눈으로 미리 맛볼 수 있도록 그리고 그들의 믿음을 지탱하기 위해 하나님께서 가나안 땅을 주셨다고 생각할 수 있기 때문입니다. 앞으로 수백 년 후에는 여러 나라에 의해 포로가 되어 이스라엘은 가나안 땅에서 흩어지게 됩니다만 그럼에도 불구하고 이스라엘이 행복한 사람인 이유는 곧 하늘에서 받게 될 상속지에 관심이 쏠려 있기 때문입니다. 모세가 기쁨으로 가득 찬 이유는 바로 그 점에 있었을 것입니다. 이 풍부한 말로 다 할 수 없는 하늘의 유업을 모세가 받을 수 있듯이 믿음의 백성 이스라엘도 마찬가지로 받을 수 있는 것입니다. 아직 보지 못한 하늘의 유업을 우러러보며 이 세상에서 생명이 있는 동안 하나님의 공동체 안에서 믿음을 따라서 살아갈 수 있는 것, 이것만큼 큰 복이 있겠습니까. 계속해서 34장 5,6절을 보아주십시오.

5 이에 여호와의 종 모세가 여호와의 말씀대로 모압 땅에서 죽어

6 벳브올 맞은편 모압 땅에 있는 골짜기에 장사되었고 오늘까지 그의 묻힌 곳을 아는 자가 없느니라

모세가 죽었을 때 나이는 120세 였지만 아직 눈이 흐리지 아니하였고 기력이 쇠하지 아니하였다고 합니다. 아무래도 모세는 기력이 쇠하여 죽음을 맞이한 것은 아닌 것 같습니다. 오히려 주님의 명령에 따라 「너의 사명은 여기까지이다」라는 식으로 때가 되어 하나님께서 모세를 하늘로 불러주셨다는 것이겠지요. 이스라엘 백성에게 모세만큼 위대한 인물을 나타나지 않았습니다. 시내 산에서 율법을 수여 받은 인물을 다름 아닌 모세였습니다. 하지만 정말 위대한 것은 모세와 함께 계신 하나님이라는 것을 말하려는 것이 아닌가 싶습니다. 모세는 어디에 묻혔는지 그 무덤조차 알 수 없게 되었는데 이는 모세가 우상화되는 것을 막기 위해서 였던 것으로 보입니다. 만일 모세가 이스라엘을 가나안 땅으로 인도하고 가나안에 엄청난 무덤이 그를 위해 세워졌다면 이스라엘 백성들은 모세를 신처럼 모시고 절하게 되었을 것입니다. 그래서 모세의 무덤을 알 수 없게 된 것은 백성들의 신앙에 오히려 좋은 일이었다고 할 수 있습니다. 모세의 무덤을 알 수 없게 된 것은 모세의 사역이 아니라 모세와 함게 계신 하나님의 역사가 전면에 나섰기 때문입니다. 하나님은 모세와 함께 계신 것처럼 언약 백성인 이스라엘과 함께 계시는 분입니다. 그것을 잊지 말고 이스라엘 백성들은 이후 여호수아를 지도자로 삼고 모세에게 가르침을 받은 것처럼 믿음을 따라 걷고 믿음에 의해 가나안 땅을 정복해 나가야 하는 것입니다.

결론

40년간 모세에게 이끌려 광야를 방랑한 이스라엘 백성들은 모세의 죽음 문제에 직면했습니다. 정작 가나안 땅을 이제 정복하려고 하는데 중요한 지도자를 잃고 말았습니다. 세상적으로 볼 때 뒤에 남겨진 이스라엘이 행복한 이유를 찾을 수 없습니다. 그런데 모세는 유언에서 「이스라엘이여 너는 행복한 사람이로다 여호와의 구원을 너 같이 얻은 백성이 누구냐」라고 말하는 것입니다. 그 이유는 하나님이 이스라엘과 함께 계시기 때문입니다. 하나님이 이스라엘의 죄를 덮어주시고 자신의 거룩한 백성으로서 구별해 주셨기 때문입니다. 하나님은 이스라엘을 「여수룬」이라고 친근하게 불러 주십니다. 이 호칭은 회개해도, 또 죄를 짓고, 일어서도 또 쓰러지는 연약하고 비참한 자신이라는 것을 깨달았을 때, 그런 호칭을 받기에도 송구한 분수에 맞지 않는다는 것을 알게 될 것입니다. 그런데도 하나님께서는 자신의 백성을 「여수룬」이라고 불러주시고 그리고 영적 이스라엘인 우리에 대해서도 마찬가지로 친근하게 불러주시는 것입니다. 이 세상에 어떤 시련과 고난 속에서도 하나님께서는 우리와 함께 해 주시고 우리의 피난처가 되어 주시고 하나님의 힘찬 품안에서 편히 쉬게 해주시고 곧 하늘의 유업으로 우리를 인도해 주시기 때문입니다. 「이스라엘이여 너는 행복한 사람이로다 여호와의 구원을 너 같이 얻은 백성이 누구냐」라는 모세의 말은 그것을 말해 주고 있는 것입니다.

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