2022年11月13日「ゲラサ人に注がれた神の憐み 거라사인에게 부어진 하나님의 긍휼」

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ゲラサ人に注がれた神の憐み 거라사인에게 부어진 하나님의 긍휼

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 5章1節~20節

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聖句のアイコン聖書の言葉

5:1一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
5:2イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。
5:3この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。
5:4これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。
5:5彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。
5:6イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、
5:7大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」
5:8イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。
5:9そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。
5:10そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。
5:11ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。
5:12汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。
5:13イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。
5:14豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。
5:15彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。
5:16成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。
5:17そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。
5:18イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。
5:19イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」
5:20その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 5章1節~20節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 イエス様と弟子たちが、舟に乗って湖の向こう岸にある、ゲラサ地方にやって来ました。この地に至るまでに、イエス様と弟子たちは大変恐ろしい嵐に見舞われました。イエス様はゲラサ地方のたった一人に会うために、嵐の海をくぐりぬけて来たのです。そのたった一人とは誰であり、どのような状態の人だったのでしょうか。

5章の冒頭では、イエス様が異邦人の地ゲラサに足を踏み入れたという場面から始まっています。ゲラサという都市がどこにあるのかについて、色々と議論が分かれますが、いずれにせよ、そこは、ローマの支配するデカポリス地方でありました。デカが「十」、ポリスが「都市」ですから、デカポリスとは「十の都市」、「十の都市連合」という意味です。その中の一つがゲラサであったと思われます。このデカポリス地方には、いくつかの神殿や円形広場、野外劇場などがあり、したがって、その場所がローマによって支配された場所であるということを、私たちは随所から感じ取ることになるでしょう。

【1】汚れた場所

 イエス様が舟から降りられると、群衆が押し寄せてくるのではなく、汚れた霊に取りつかれた人がイエス様のもとにやって来ました。この人はどのような人であったのかと言うと、「墓場を住まいとしていた」と書かれています。ユダヤ人にとって墓場とは汚れた場所でした。汚れた場所において、汚れた霊に取りつかれたゲラサ人の物語です。ユダヤ人でなくとも墓場に住むというのは尋常ではない、ということが伝わってきます。お墓に供えられたものなどを、食料としていたのでしょうか。彼は大変狂暴で、これまで、何度も足枷や鎖で縛られてきましたが、その度に鎖は引きちぎられ、足枷は砕かれてしまいました。悪霊の力によって、人間業ではない、途方もない力が宿っていたのです。そして、墓場や山で叫び声をあげながら、自分自身を傷つけ、恐らく近くを通ろうとする人にも危害を加えようとしたのかもしれません。彼が人々と一緒に暮らすことができないのは、このように自分自身を傷つけ、共にいる人を傷つけ、人間関係を破壊するからだと思われます。そのような破壊的な行動を自分自身も、そして家族の人も止めることはできませんでした。誰も彼の行動を押さえることができず、縛っておくこともできなかったため、彼は人々から見放され、隔離されるようになったのです。

誰にも押さえることのできなかったこの男が、イエス様を遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、次のように言いました。7節をご覧ください。

「いと高き神の子イエス、構わないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と大声で叫んだ。

「構わないでくれ」という言葉は、口語訳聖書を見ると「あなたはわたしとなんの係わりがあるのです」となっていました。これの方が直訳に近い翻訳と思われます。分かりやすく言うと、「関係を持ちたくない!口出ししないでくれ!」ということです。イエス様が汚れた霊に対し圧倒的な権威を持っているといことが暗示されています。また、彼は、イエス様に対し「いと高き神の子」と言っています。この「いと高き神の子」という表現は、ユダヤ的な表現なのでしょうか。異邦人的な表現なのでしょうか。実は、この表現は新約聖書に度々出て来ますが、もともとは異邦人的な表現であります(創14:18-20; 民24:16; イザ14:14: ダニ3:26)。因みにマルコによる福音書1:24を見ますと、カファルナウムというユダヤ人の町で起こった「悪霊追い出し」の出来事が書かれています。そこではイエス様のことを「神の聖なる者」と呼んでいます。ご覧ください。

「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」

「聖なる者、神の聖者」、ユダヤ人であれば、普通このように表現するところであります。

イエス様が、彼に対し「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と答えました。レギオンという言葉も、ラテン語であり「軍隊、軍団」という意味です。日本的に言えば、「一個師団」ということです。この軍隊は、多い場合では6,000人位で構成されていました。そのような大勢の霊どもが、たった一人に取り付いているのです。そして、そのような大勢の霊どもであったとしても、イエス様の前では全く無力となり、恐れをなしているのです。レギオンは自分たちをこの地方から追い出さないようにしてほしいと懇願しました。ちょうど、豚の大群が餌をあさっていたので、「そこに送り込み、乗り移らせてくれ」と言うのです。デカポリスにおいて豚は、偶像崇拝をするための供え物用として飼われていました。また食用として、大変価値がありました。誰もが豚肉を食べられるわけでなく、富んだ者だけが豚肉を食べることができました。したがってローマ人にとって豚は富の象徴だったわけです。一方で、ユダヤ人にとって、豚は汚れた動物です。ですから、イエス様と弟子たちの目には、この状況というのは、律法に照らしてみる時に、汚れた墓に住む、汚れた霊に取りつかれた男が、豚の群れのすぐ近くにいた。これは、とことん汚れている状況であり、聖なる神とは、無縁の状況であったということが分かってきます。そんな場所へイエス様が訪ねて来て下さったのです。

【2】. 一人の魂

 続いて12~13節をご覧ください。

汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。

イエス様は「乗り移らせてくれ」というその要請を許可されました。霊どもが、豚に乗り移ると、二千頭ほどの豚の群れが崖に下ってなだれ込み、湖の中で次々におぼれ死にました。養豚を営む豚飼いたちは、この状況にあっけにとられてしまったことでしょう。二千頭という大変高価な豚の群れが全滅させられたからです。彼らは、逃げ出して、町や村にこの、とんでもない事件を、腹立たしく、言いふらしました。人々は何事が起ったのかと見に来ると、何と、そこに裸同然の悪霊に取りつかれた、あのみじめな男が、きちんと服を着て、正気になって座っているではありませんか。誰も押さえることのできなかったあの男が、イエス様の前に完全に正気に戻り従順にしているのです。15節には、この状況を見て、人々は「恐ろしくなった」と書かれています。この時の「恐れ」とは、汚れた霊レギオンがイエス様の前で感じた恐れと、同じものであったのでしょう。そこで、人々はイエスに「ここから出て行ってもらいたい」と言い出しました。どうかこれ以上、自分たちの領土を荒らさないでほしい、ということです。

彼らは自分たちの隣人が悪霊から解放され、再び共同体の中に戻ってくることにはほとんど関心を示しませんでした。一人の魂には全く無関心だったということです。イエス様にとっては、2,000頭という高価な豚の群より、一人の魂の解放と、回復が、大切でありました。しかし、人々は経済的損失を何より問題視したのです。そして、レギオンが言ったまさにその言葉と同じような言葉が人々の口元を通して出て来たのです。「その地方から出て行ってもらいたい」言い換えれば「我々に構わないでくれ、口出ししないでくれ」ということです。きわめて自分中心的な姿が映し出されています。隣人愛を、微塵も感じることが出来ません。この地方の人々は、墓に住んでいる制御不能の、あの男のように、悪霊には取りつかれてはいないものの、悪霊と全く同じ考え方、悪霊と全く同じ価値観を持っていたということです。このような姿は、私たちの身近においても、しばしば見られるのではないでしょうか。魂の救いに無関心で、愛の共同体を軽んじ、神様を抜きにした経済活動を優先する、現代社会の姿でもあると言えるのではないかと思います。これは何と悲しいことでしょうか。私たちはそのことを心に留めてまいりましょう。

【3】. 宣教(恵みを分かち合うこと)

 イエス様は再び舟に乗って、湖の反対側に戻ろうとした時、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行かせてくれと言いました。イエス様にお仕えしたいと言うのです。これは当然の反応だと思います。しかしイエス様はそれを許されませんでした。19~20節をご覧ください。

しかし、イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家族のもとに帰って、主があなたにしてくださったこと、また、あなたを憐れんでくださったことを、ことごとく知らせなさい。」そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことを、ことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。

汚れた霊どもと、その地の住民の要請を、聞き入れられたイエス様ですが、正気に戻った彼の要請を拒絶されました。これは一体どういうことでしょうか。イエス様は特に、ご自分に近い十二弟子たちだけに、ご自分に従って行く特権を許され、この特別の席にその人は招かれていないからということでしょうか。しかし、マルコ福音書を調べてみると分かりますが、イエス様に一緒に従ったのは、必ずしも十二弟子だけではありませんでした(2:15、10:52)。十二弟子以外の弟子たちもイエス様に従うことがあったのです。なぜ、イエス様は正気に戻った人の要請を拒絶されたのでしょうか。よく分かりませんが、弟子たちの最も重要な任務の一つである「宣教」に関係していたのかもしれません。

イエス様は19節で「主があなたにしてくださったこと、また、あなたを憐れんでくださったことを、ことごとく知らせなさい」と彼に命令し、自分の家に帰されました。しかし彼が実際に行った内容である20節に注目すると、二つの点が19節とは異なっていることに気づかれます。第一に、19節では「主があなたにしてくださったこと」とありますが、20節では「イエスが自分にしてくださったこと」に、変化しています。第二に、これは翻訳聖書では分かりづらいのですが、19節では「ことごとく伝えなさい」とありますが、20節では「ことごとく言い広めた」、ギリシア語で「ケリューソ―」という言葉に、変化しています。「ことごとく宣べ伝えた」という意味です。つまりどういうことかと言いますと、男は、イエスが主である、イエスが救い主であるという彼の信仰告白を宣べ伝えたのです。そして、人々から捨てられ、仲間外れにされ、全くの汚れの中にいた自分のことを覚えてくださり、わざわざイエス様が湖を渡って来てくださったことを宣べ伝えたのです。悪霊に取りつかれた自分を押さえることができる人は誰もいなかった、しかし、さらに力のあるお方が来られ、汚れた霊を圧倒されたということを宣べ伝えたのです。2,000頭もの豚の群れを犠牲にし、たった一人の私を憐れんでくださった主イエスの愛を宣べ伝えました。ことごとく宣べ伝えたのです。彼は弟子として認められず、一緒に同行することを拒絶されたのではなく、むしろイエス・キリストの弟子として、大切な使命を果たすために、異邦人の地デカポリスに遣わされたのです。そして実際、彼の宣教の働きは実を結び、イエス様が再びこのデカポリスに戻ってくる時には、大勢の人々が、イエス様を信じるように、霊的な雰囲気が変えられました。そのことがイエス様の後期伝道である7章31~8章9節において書かれていますが、その状況を、簡単に言いますと、デカポリスの岸辺にイエス様が足を踏み入れるや否や、人々が病人を連れてやって来て、イエス様に手を置いてくださるように願ったということです。また三日間、へんぴな所でイエス様と一緒にいた群衆に対し、4,000人の給食の奇跡を起こされ、神への感謝が捧げられたのでありました。

【結論】

 イエス・キリストは、ゲラサにおいて、汚れた霊に取りつかれた人を解放し、聖め、回復されました。嵐の中をくぐりぬけてでも、2,000頭もの豚を犠牲にしてでも、たった一人の魂を救うために、主の憐みが注がれました。たとえ人々が彼のことを忘れたとしても、イエス様は彼のことを覚えて下さるのです。イザヤ書43:4には次のような御言葉があります。

わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。

十字架を通して現れた神の愛は、私たち一人ひとりにも同じように注がれています。主イエスは私たちを値高く、貴いとおっしゃってくださり、罪の赦しと解放を与えてくださり、私たちを主イエスの弟子としてくださいました。もし、私たちがキリストの弟子として招かれたなら、その時に大切な任務が与えられたということを覚えてください。それは、神の国の到来を告げ知らせる任務です。言い換えるなら、救いの喜びを隣人に分かち合う任務です。それをどのように宣べ伝えるべきか、ということですが、悩む必要はありません。ゲラサ人の出来事のように、スリーポイントで語って下されば大丈夫です。それは、第一に、主イエスにお会いする前の自分の状態について、第二に、主イエスとの出会いがどのように起こされたのか、第三に、イエス様を心に受け入れた後、自分の身に起こった変化について、このことをことごとく語ればいいのです。イエス様との出会いを中心にしてその前後を、お一人お一人の口を通して、恵みを分かち合っていただければ大丈夫です。神様がどれほど私のことを尊い存在として考えてくださったのか、神様がどれほど私を愛してくださったのか、日々そのことを思いめぐらせて歩ませてまいりましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

거라사인에게 부어진 하나님의 긍휼

2022년 11월 13일 센겐다이교회 주일설교

마가복음 5장 1~20절

서론

예수님과 제자들이 배를 타고 바다 건너편에 있는 거라사 지방에 왔습니다. 이 땅에 이르기까지 예수님과 제자들은 매우 무서운 광풍을 겪었습니다. 예수님은 거라사 지방의 단 한 사람을 만나기 위해 광품의 바다를 뚫고 오신 것입니다. 그 단 한 사람은 누구였고, 어떤 상태의 사람이었을까요?

5장 첫머리에서는 예수님이 이방인의 땅 거라사에 발을 들여 놓으셨다는 장면으로 시작됩니다. 거라사라고 하는 도시가 어디에 있는 것인지 이런 저런 논란이 분분하지만 어쨌든 그곳은 로마가 지배하는 데가볼리 지방이었습니다. 데가가 「열」 볼리가 「도시」이기 때문에 데가볼리는 「열 개의 도시」, 「열 개의 연합도시」라는 뜻입니다. 그 중 하나가 거라사였을 것으로 보입니다. 이 데가볼리 지방에는 여러 개의 신전과 원형 광장, 야외 극장 등이 있으며 따라서 그 장소가 로마에 의해 지배되었던 곳임을 우리는 곳곳에서 느낄 수 있습니다.

(1) 더러운 장소

예수님이 배에서 내리시니 무리가 몰려오는 것이 아니라 더러운 귀신 들린 사람이 예수님에게로 왔습니다. 이 사람은 어떤 사람이었나 하면 「무덤 사이에 거처하는데」라고 쓰여져 있습니다. 유대인에게 있어 무덤이란 더러운 장소 였습니다. 더러운 곳에서 더러운 귀신 들린 거라사인의 이야기입니다. 유대인이 아니더라도 무덤에 산다는 것은 예사롭지 않다는 것이 전해집니다. 무덤에 공양되어진 것 등을 식량으로 사용하고 있었던 것일까요. 그는 매우 광포해서 지금까지 여러 번 고랑과 쇠사슬에 매였어도 그때마다 쇠사슬을 끊고 고랑을 깨뜨렸습니다. 악령의 힘에 의해서 인간의 능력이 아닌 엄청난 힘이 깃들어 있었던 것입니다. 그리고 무덤 사이에서나 산에서나 늘 소리 지르며 돌로 자기의 몸을 해치고 아마도 가까이 지나가려는 사람에게도 해를 끼치려고 했을지도 모릅니다. 그가 사람들과 함께 살지 못하는 것은 이처럼 자기 자신에게 상처를 주고 함께 있는 사람에게 상처를 주며 인간 관계를 파괴하기 때문이라고 생각됩니다. 그런 파괴적인 행동을 자기 자신도, 그리고 가족도 제어할 힘이 없었습니다. 아무도 그의 행동을 제어할 수 없었고 묶어둘 수 없었기 때문에 그는 사람들로부터 버림받고 격리되게 된 것입니다.

아무도 제어하지 못했던 이 남자가 예수님을 멀리서 보자 달려와 엎드려 이렇게 말했습니다. 7절을 보세요.

큰 소리로 부르짖어 이르되 지극히 높으신 하나님의 아들 예수여 나와 당신이 무슨 상관이 있나이까 원하건대 하나님 앞에 맹세하고 나를 괴롭히지 마옵소서 하니

「나와 당신이 무슨 상관이 있나이까」이것은 간단히 말해서 「관계를 맺고 싶지 않아! 참견하지 말아줘!」라는 것입니다. 예수님이 더러운 영에 대해 압도적인 권위를 가지고 있다는 것이 암시되고 있습니다. 또한 그는 예수님에게 「지극히 높으신 하나님의 아들」이라고 말하고 있습니다. 이 「지극히 높으신 하나님의 아들」이라는 표현은 유대적인 표현일까요? 이방인적인 표현일까요? 사실 이 표현은 신약성경에 자주 나오지만 원래는 이방인적인 표현입니다(창세기 14장 18~20절, 민수기 24장 16절, 이사야 14장 14절, 다니엘 3장 26절). 덧붙여서 마가복음 1장 24절을 보면 가버나움이라는 유대인 마을에서 일어난 더러운 귀신을 내쫓는 사건이 적혀 있습니다. 그곳에서는 예수님을 하나님의 거룩한 자라고 부르고 있습니다. 보시죠.

나사렛 예수여 우리가 당신과 무슨 상관이 있나이까 우리를 멸하러 왔나이까 나는 당신이 누구인 줄 아노니 하나님의 거룩한 자니이다

「거룩한 자」유대인이라면 보통 이렇게 표현 하는 것입니다.

예수님이 그에게 「네 이름이 무엇이냐」고 물으시자「내 이름은 군대니 우리가 많음이니이다」라고 대답했습니다. 군대는 라틴어로 레기온이라고 합니다. 일본식으로 말하면 「1개의 사단」이라는 것입니다. 이 군대는 많게는 육천 명 정도로 구성되어 있었습니다. 그런 많은 귀신들이 단 한 사람에게 달라붙어 있는 것입니다. 그리고 그런 많은 귀신들이라 할지라도 예수님 앞에서는 전혀 무력해지고 두려워하고 있는 것입니다. 군대 귀신은 자신들을 이 지방에서 내쫓지 말아달라고 간구했습니다. 마침 돼지 떼가 먹이를 먹고 있었기 때문에 「우리를 돼지에게로 보내어 들어가게 하소서」라고 간구하고 있는 것입니다. 데가볼리에서 돼지는 우상숭배를 하기 위한 제물용으로 기르고 있었습니다. 또 식용으로도 굉장한 가치가 있었습니다. 누구나 돼지고기를 먹을 수 있는 것이 아니며 여유가 있는 부유한 사람만이 돼지고기를 먹을 수 있었습니다. 따라서 로마인에게는 돼지는 부의 상징이었던 셈입니다. 한편 유대인에게 돼지는 부정한 동물입니다. 그래서 예수님과 제자들의 눈에는 이 상황이라는 것은 율법에 비추어 볼 때 더러운 무덤에서 사는 더러운 귀신에 사로잡힌 남자가 돼지 떼 바로 가까이 있었다. 이것은 매우 부정한 상황이었고 거룩한 하나님과는 무관한 상황이었다는 것을 알게 됩니다. 그런 곳에 예수님이 찾아오신 것입니다.

(2) 한 영혼

이어서 12,13절을 보시겠습니다.

12 이에 간구하여 이르되 우리를 돼지에게로 보내어 들어가게 하소서 하니

13 허락하신대 더러운 귀신들이 나와서 돼지에게로 들어가매 거의 이천 마리 되는 떼가 바다를 향하여 비탈로 내리달아 바다에서 몰살하거늘

예수님은 「들어가게 하소서」라는 그 간구를 허락하셨습니다. 귀신들이 돼지에게 들어가자 이천 마리 정도의 돼지 떼가 비탈로 내리달아 바다에서 몰살했습니다. 양돈을 운영하는 돼지 사육사들은 이 상황에 어이가 없었을 것입니다. 이천 마리라는 아주 비싼 돼지 떼가 전멸되었기 때문입니다. 치던 자들이 읍내와 여러 마을에 이 터무니없는 사건을 화가 나서 퍼뜨렸습니다. 사람들이 어떻게 되었는지를 보러 오니 군대 귀신 들렸던 자가 옷을 입고 정신이 온전하여 앉은 것을 보았습니다. 아무도 제어할 수 없었던 그 남자가 예수님 앞에서 완전히 정신을 차리고 순종하고 있는 것입니다. 15절에는 이 상황을 보고 사람들은 「두려워하더라」고 쓰여 있습니다. 이때의 「두려움」이란 더러운 군대 귀신이 예수님 앞에서 느꼈던 두려움과 같은 것이었을 것입니다. 그래서 사람들은 예수님께 「그 지방에서 떠나시기를」 간구했습니다. 제잘 더 이상 자신들의 영토를 어지럽히지 말아 달라는 것이었습니다.

그들은 자신들의 이웃이 더러운 군대 귀신으로부터 해방되어 다시 공동체 안으로 돌아오는 것에는 거의 관심을 보이지 않았습니다. 한 영혼에게는 전혀 무관심했다는 것입니다. 예수님께는 이천 마리라는 값비싼 돼지 떼보다 한 영혼의 해방과 회복이 더 중요했습니다. 하지만 사람들은 경제적인 손실을 무엇보다 문제 삼은 것입니다. 그리고 군대 귀신이 했던 바로 그 말과 비슷한 말이 사람들의 입을 통해서 나온 것입니다. 「그 지방에서 떠나시기를」바꿔 말하면, 「관계를 맺고 싶지 않아요! 참견하지 말아 주세요!」라는 것이죠. 지극히 자기중심적인 모습이 비춰지고 있습니다. 이웃사랑을 조금도 느끼지 못합니다. 이 지방 사람들은 무덤에 살고 있는 제어 불능의 그 남자처럼 더러운 귀신이 들리지는 않았지만 더러운 귀신과 똑같은 사고방식, 더러운 귀신과 똑같은 가치관을 가지고 있었다는 것입니다. 이런 모습은 우리 가까이에서도 자주 볼 수 있지 않을까요? 영혼의 구원에 무관심하고 사랑의 공동체를 가볍게 여기고 하나님 없이 경제 활동을 우선시하는 현대사회의 모습이기도 하지 않을까 싶습니다. 이게 얼마나 슬픈 일일까요? 우리는 그것을 마음에 담아둡시다.

(3) 선교 (은혜를 나누는 것)

예수님은 다시 배를 타고 바다 반대편으로 돌아가려고 할때 더러운 귀신 들렸던 자가 함께 가게 해달라고 했습니다. 예수님을 섬기고 싶다는 것입니다. 이건 당연한 반응이라고 생각합니다. 그러나 예수님은 그것을 허락하지 않으셨습니다. 13,20절을 보시기 바랍니다.

19 허락하지 아니하시고 그에게 이르시되 집으로 돌아가 주께서 네게 어떻게 큰 일을 행하사 너를 불쌍히 여기신 것을 네 가족에게 알리라 하시니

20 그가 가서 예수께서 자기에게 어떻게 큰 일 행하셨는지를 데가볼리에 전파하니 모든 사람이 놀랍게 여기더라

더러운 영들과 그 땅 주민들의 간구를 들어주신 예수님이지만 제정신으로 돌아온 그의 간구를 거절하셨습니다. 이게 도대체 무슨 일일까요? 예수님은 특히 자신과 가까운 열두 제자들에게만 자신을 따라가는 특권을 허락하시고, 이 특별한 자리에 그 사람은 초대받지 않았기 때문일까요? 그러나 마가복음서를 살펴보면 알 수 있지만 예수님을 함께 따른 것은 반드시 열두 제자만은 아니었습니다(2장 15절, 10장 52절) . 열두 제자 이외의 제자들도 예수님을 따르는 경우가 있었습니다. 왜 예수님은 제 정신이 돌아온 사람의 간구를 거절하셨을까요? 잘 모르겠지만 제자들의 가장 중요한 임무 중 하나인 선교와 관련이 있었을지도 모릅니다.

예수님은 19절에서 「주께서 네게 어떻게 큰 일을 행하사 너를 불쌍히 여기신 것을 네 가족에게 알리라 하시니」라고 그에게 명령하시고 자신의 집으로 돌려보내셨습니다. 그러나 그가 실제로 한 내용인 20절에 주목하면 두 가지 점이 19절과는 다르다는 것을 알게 됩니다. 첫째, 19절에서는 「주께서 네게 어떻게 큰 일을 행하사」라고 되어 있지만 20절에서는 「예수께서 자기에게 어떻게 큰 일 행하셨는지를」이라고 변화되어 있습니다. 둘째, 이것은 번역 성경(일본성경) 에서는 알기 어렵지만 19절에서는 「알리라」라고 되어 있습니다만 20절에서는 「전파하니」 그리스어로 「케루소」라는 말로 변화하고 있습니다. 「모조리 전하다」라고 하는 의미입니다. 즉 무슨 말이면 남자는 예수가 주님이시다, 예수가 구원자시다라는 자신의 신앙고백을 선포하고 전한 것입니다. 그리고 사람들로부터 버림받고 소외당하고 완전한 더러움 가운데 있던 자신을 기억해 주시고 일부러 예수님께서 바다를 건너오셨음을 선포하며 전한 것입니다. 더러운 귀신들린 자신을 제어 할 수 있었던 사람은 아무도 없었다. 그러나 더욱 힘있는 분이 오셔서 더러운 귀신을 제압하셨다는 것을 가족에게 알린 것 만이 아니라 데가볼리에 선포하며 전한 것입니다. 이천 마리나 되는 돼지 떼를 희생해 가며 오직 한 사람인 나를 긍휼히 여겨주신 주 예수님의 사랑을 전하고 전했습니다. 모조리 전한 것입니다. 그는 제자로 인정받지 못하고 함께 동행하기를 거절당한 것이 아니라 오히려 예수 그리스도의 제자로서 소중한 사명을 다하기 위해 이방인의 땅 데가볼리로 보내진 것입니다. 그리고 실제로 그의 선교활동은 결실을 맺었고 예수님이 다시 이 데가볼리로 돌아오실 때에는 많은 사람들이 예수님을 믿는 것으로 영적인 분위기가 바뀌었습니다. 그것이 예수님의 후기 전도인 7장 31~8장 9절에 쓰여져 있는데, 그 상황을 간단히 말하자면 데가볼리 기슭에 예수님이 발을 들여 놓으시자마자 사람들이 병자를 데리고 와서 예수님께 안수하여 주시기를 간구했다는 것입니다. 또한 사흘 동안 외딴 곳에서 예수님과 함께 있던 무리들에게 사천 명의 먹을 것을 주시는 기적을 일으켜 하나님께 감사가 올려 졌다는 것입니다.

결론

예수 그리스도는 거라사에서 더러운 귀신 들린 자를 해방시키고 거룩하게 하시고, 회복시키셨습니다. 광풍을 뚫고서라도, 이천 마리의 돼지를 희생시켜서러도 단 한 사람의 영혼을 구하기 위해 주의 긍휼하심이 부어졌습니다. 비록 사람들이 그를 잊었다 하더라도 예수님은 그를 기억해 주신 것입니다. 이사야서 43장 4절에는 다음과 같은 말씀이 있습니다.

네가 내 눈에 보배롭고 존귀하며 내가 너를 사랑하였은즉 내가 네 대신 사람들을 내어 주며 백성들이 네 생명을 대신 하리니

십자가를 통해 나타난 하나님의 사랑은 우리 개개인에게도 똑같이 부어지고 있습니다. 주 예수는 우리들을 보배롭고 존귀하다고 말씀해 주시고 죄의 용서와 해방을 주셨으며, 우리를 주 예수의 제자로 삼아 주셨습니다. 만약 우리가 그리스도의 제자로 부름 받았다면 그때 소중한 임무가 주어졌다는 것을 기억하십시오. 그것은 하나님 나라의 도래를 선포하고 전하는 임무입니다. 그것을 어떻게 선포하고 전해야 할지 고민할 필요는 없습니다. 거라사 사람의 사건처럼 쓰리 포인트로 말씀하시면 됩니다. 그것은 첫째, 주 예수님을 만나기 전의 나의 상태에 대해 둘째, 주 예수님과의 만남이 어떻게 이루어졌는지 셋째, 예수님을 마음속으로 받아 들인 후 자신에게 일어난 변화에 대해 다 이야기하면 됩니다. 예수님과의 만남을 중심으로 그 전후를 한 분 한 분의 입을 통해서 은혜를 나누시면 됩니다. 하나님께서 얼마나 나를 보배롭고 존귀한 존재로 생각해 주셨는지 하나님이 얼마나 나를 사랑해 주셨는지 날마다 그 생각을 되새기며 걸어갑시다.

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