2022年11月06日「わたしはあなたと共にいる 내가 너와 함께 하리라」

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わたしはあなたと共にいる 내가 너와 함께 하리라

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 31章14節~23節

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聖句のアイコン聖書の言葉

31:14主はモーセに言われた。「あなたの死ぬ日は近づいた。ヨシュアを呼び寄せ、共に臨在の幕屋の中に立ちなさい。わたしは彼に任務を授ける。」モーセがヨシュアと共に臨在の幕屋の中に立つと、
3:15主は雲の柱のうちに幕屋に現れられた。雲の柱は幕屋の入り口にとどまった。
3:16主はモーセに言われた。「あなたは間もなく先祖と共に眠る。するとこの民は直ちに、入って行く土地で、その中の外国の神々を求めて姦淫を行い、わたしを捨てて、わたしが民と結んだ契約を破るであろう。
3:17その日、この民に対してわたしの怒りは燃え、わたしは彼らを捨て、わたしの顔を隠す。民は焼き尽くされることになり、多くの災いと苦難に襲われる。その日民は、『これらの災いに襲われるのは、わたしのうちに神がおられないからではないか』と言う。
3:18わたしはそれでも、その日、必ずわたしの顔を隠す。彼らが他の神々に向かうことにより行ったすべての悪のゆえである。
3:19あなたたちは今、次の歌を書き留め、イスラエルの人々に教え、それを彼らの口に置き、この歌をイスラエルの人々に対するわたしの証言としなさい。
3:20わたしがその先祖に誓った乳と蜜の流れる土地に彼を導き入れるとき、彼は食べて満ち足り、肥え太り、他の神々に向かい、これに仕え、わたしを侮ってわたしの契約を破るであろう。
3:21そして多くの災いと苦難に襲われるとき、この歌は、その子孫が忘れずに唱え続けることにより、民に対する証言となるであろう。わたしは、わたしが誓った土地へ彼らを導き入れる前から、既に彼らが今日、思い図っていることを知っていたのである。」
3:22モーセは、その日、この歌を書き記してイスラエルの人々に教えた。
3:23主はヌンの子ヨシュアに命じて言われた。「強く、また雄々しくあれ。あなたこそ、わたしが彼らに誓った土地にイスラエルの人々を導き入れる者である。わたしはいつもあなたと共にいる。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 31章14節~23節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 モーセの第三の説教が申命記30章で終わり、本日の31章から結びの部分になります。この結びでは何が書かれているのかと申しますと、モーセからヨシュアへのリーダーシップの移譲と、モーセがいなくなった後、イスラエルの民に残していく律法やモーセの歌などについて書かれています。先日、所沢市民文化センターで行われました、東部中会の75周年記念信徒大会において、メインの講演が終わった後に、しばしの時間、引退牧師を送り出す時間を持ちました。それぞれ引退される先生方のご挨拶を聞いた時に、これまで神の恵みによって、召しに忠実に歩むことができたこと、しかし依然として、伝道のスピリットは衰えていないということが伝わってまいりました。本日の31章も言ってみれば、モーセの引退式、引退セレモニーのようなものです。モーセの死を堂々と表現し、そこには、モーセが神の働きを担っていく中で犯した、いかなる失敗も議論されておりません。今まさに神様がモーセを公職から退かせて、先祖たちと共に眠りにつかせようとしています。その引退セレモニーの中身に本日は耳を傾けて行きたいと思います。

【1】. ヨシュアへの移譲

 最初に14、15節をご覧ください。

主はモーセに言われた。「あなたの死ぬ日は近づいた。ヨシュアを呼び寄せ、共に臨在の幕屋の中に立ちなさい。わたしは彼に任務を授ける。」モーセがヨシュアと共に臨在の幕屋の中に立つと、主は雲の柱のうちに幕屋に現れられた。雲の柱は幕屋の入り口にとどまった。

偉大な指導者モーセの死にあたって、イスラエルの民は、彼らが見捨てられるのではなく、「主が共におられる」という神からの保証を6節で、それから8節で既に与えられていました。「主が共におられる」という約束は、聖書の中でたびたび出てまいります。マタイ福音書では特に「インマヌエルなる主」として表現されています。神様はいつでも、どこでも、ご自身の民から離れず、臨在してくださり、一緒にいて下さるということです。イスラエルの民が神の言うことを聞いた時には共にいるけれど、言うことを聞かなかった時には共におられないということではありません。いつでも、どこでも主はヨシュアと共におられ、モーセ亡き後であっても、主はイスラエルの民と共におられます。イスラエルの民が神の臨在を感じても、感じなくても、神様は共におられるのです。この神の臨在が、今まさに目に見える形で、臨在の幕屋の前に雲の柱として現れてくださいました。神の臨在を現す栄光の雲によって、ヨシュアはどれだけ励まされたことでしょうか。神の臨在というのは、簡単に言えば、子供にとって両親から来る安心感のようなものであると思います。うちの娘は小学校6年生まで私たち夫婦と一緒に寝ていました。今では、私のいびきがうるさくて一緒に寝るのを嫌がりますが、小学生の時は、必ず私たち夫婦の間に布団を敷こうといたしました。ですから修学旅行に行っても、友達の真ん中でなければ安心して寝られないと言っていました。神さまが共におられることを信じ、信頼と安心感の中で、神の導きに従っていくこと、私たちにできることは、ただそれだけなんだと思います。人それぞれ色々な人生がありますが、主の召しに従い、ただ主の導きに従って来たなら、私たちもきっとモーセのような人生の引退式を迎えることが出来るのではないでしょうか。使徒パウロは死を間近にして、次のような告白をしています。パウロの告白は、31章のモーセの思いと重なるところがあったに違いありません。2テモテ4:7~8をご覧ください。

わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。

私たちが信仰によって人生を歩むなら、必ず義の栄冠が授けられることを信じます。たとえ人々の目には愚かに見えても、信仰によってこの世の旅路を歩むなら、その人生は意味あるものとなり、神の目に価値あるものと映ることでしょう。かの日に正しい審判者である主が、私たちの人生を評価されるのです。ですから働くことができる昼間の内に、どのように働くのか、どのように歩ぶべきか、吟味しなければなりません。やがて働くことのできない夜がやって来るからです。

【2】. モーセの遺産

 モーセがいなくなった後、イスラエルの民に二つのものが残されました。第一に「律法」があげられます。この律法はモーセによって書物として書き記され、レビ人である祭司および長老の手に渡され、契約の箱の傍らに置かれるようになったと書かれています。第二にモーセが残していくものとして、「モーセの歌」があげられます。この歌の内容は32章に詳しく出て来ますが、その歌は童謡のように、小さな子供たちから大人に至るまで全てのイスラエルの民に歌われました。それでは歌の歌詞はどのような内容だったのかと申しますと、将来、イスラエルの民はきっと主ヤハウェを捨てて、契約を破り、他の神々に向かうだろう、という否定的で、暗い未来を暗示する内容でありました。16節と19~21節をご覧ください。

主はモーセに言われた。「あなたは間もなく先祖と共に眠る。するとこの民は直ちに、入って行く土地で、その中の外国の神々を求めて姦淫を行い、わたしを捨てて、わたしが民と結んだ契約を破るであろう。…

あなたたちは今、次の歌を書き留め、イスラエルの人々に教え、それを彼らの口に置き、この歌をイスラエルの人々に対するわたしの証言としなさい。わたしがその先祖に誓った乳と蜜の流れる土地に彼を導き入れるとき、彼は食べて満ち足り、肥え太り、他の神々に向かい、これに仕え、わたしを侮ってわたしの契約を破るであろう。そして多くの災いと苦難に襲われるとき、この歌は、その子孫が忘れずに唱え続けることにより、民に対する証言となるであろう。わたしは、わたしが誓った土地へ彼らを導き入れる前から、既に彼らが今日、思い図っていることを知っていたのである。」

なぜ、このようなイスラエルの民にとって耳障りな歌を残したのでしょうか。それは、いつの日か、彼らが堕落して、本当に神を捨て、異教の神々に従って行き、その中で多くの災いと苦難に直面した時に、子どもたちの歌う「モーセの歌」を通して、かつてモーセが預言した内容が本当であったということに気づかせるためであります。全知全能の神様は、遠い将来を全てお見通しで、モーセを通して語らせたことが、全て真実であったということを証言させるためです。多くの災いと悲しみと苦難を経験する中で、子供たちの童謡を聞いた時に、その歌は自分たちが子供の時にもよく歌った馴染みのある歌で、その時に、イスラエルの民は、童謡の中に隠された神様の神妙な知恵を思い知らされ、神を畏れるようになり、悔い改めに導かれるのであります。つまり、イスラエルの民を悔い改めに導くこと、彼らを赦し、回復させること、これこそ神様が「モーセの歌」を与えた目的であったということです。主とイスラエルの民の関係が、信実な交わりに入れられ、より深い交わりに入れられること、ここにこそ神様の目的があったのです。決して、神様の言うことをきちんと聞く者を祝福し、神様の言うことに聞き従わない者を呪い苦難に遭わせる、このような、因果応報的な法則を、機械的に適用させようと言っているのではありません。

インターネットで韓国のある牧師の説教を聞いておりましたら、次のような実体験を語っておられましたので、少しご紹介させていただきます。

私には(その牧師)、子どもがいますが、もう一人、一歳の男の子を末っ子に養子として迎え入れました。私はその子を自分自身の子供として育てながら、「勉強を一生懸命しなければならないよ」「親の言うことに、聞き従わなければならないよ」と従順を要求しました。確かにそう教育しましたが、それにもかかわらず養子として来た自分の息子が、もし、僕が従順しなかったら、お父さんは僕を殴るのではないか?僕を捨てるのではないか?と恐れることがなければいいんだが…と思っていました。確かに息子に対して従順を要求しますが、それでもその子が私の子供になったのは、恵みによるのです。たとえ、その子が従順しなくても、私がその子を捨てるはずがありません。

約5年前のことですが、娘が結婚することになり、先に妻が娘の所に行って、結婚式の準備を手伝い、それから結婚式の前日に、末っ子の息子を連れて娘の所に行くことにしました。ところがいざ出発する二日前に息子から電話がありました。学校で運動していて足を怪我したと言うのです。それを聞いて怒りがこみあげてきました。

もうすぐ娘の結婚式のために飛行機に乗ろうとしているのに、なんでこんな時に怪我なんかするのか!イライラする気持ちを抑えて、「どれ、怪我の状態はどうなの?深刻ではないの?」と聞くと、「ただ足が痛いだけだから大丈夫」と言いました。「お父さんはとても忙しいから一緒に行くことができないけど、近所に、教会の執事が、漢方のお医者さんをしているから、彼にお願いしてあげる。針を打ってもらいなさい。」と言うと、息子は「分かった」と言いました。早速治療を受けて、足が少し腫れていたけど、翌日もう一回、針を打てば大丈夫だろうとのことでした。帰って着た息子に「明日、もう一回針を打って、その次の日に飛行機に乗って娘の所に行こうね」と言いました。

翌日、朝早く起きたのですが、息子の部屋の明かりがまだついていました。部屋を覗いてみると、夜を徹して泣いていたようです。足が痛く、目が涙で腫れていました。「とても痛むのか?」と聞くと「痛い」と言います。「今日、あと一回針を打てば多分、大丈夫だと思う。我慢できるよね」と声をかけると「分かった」と言いました。私は教会に行って仕事をしていましたが、やはり息子のことが気になり、家に戻って息子を総合病院に連れて行きました。医者は足を見てびっくりしました。「よく我慢できましたね。足の骨が完全に折れていますよ。」普通は耐えられないだろう痛みを、その子は我慢していたのです。とても申し訳なく思いました。ギブスをつけて車に乗ったのですが、車の後部座席に息子が乗ると、私に一言、言いました。「お父さん、本当にごめんなさい。そして本当にありがとう。」

15歳の息子がそのように言ったのです。その言葉を聞いた時、私は何かに殴られたような感じがしました。私は心の中で言いました。「そういう時は、『ごめんなさい』じゃない、そういう時は、『こんな父親がいるか、教会の仕事が重要なのか、子どもが重要なのか、どっちなんだ!』、そういう時は、『足が折れてるって言ってるでしょ、それを針を打てば治るだって?いくら忙しいからとしても、僕が痛いって言っているのに、よくこんなふうにできたな!』これが正常な反応なんだ。」それを、「ごめんなさい…ありがとう…だなんて」。その時、はっと私の頭の中によぎったことは、この子は、未だに私のことを父親として考えていないのだろうか?と思ったのです。もしかしたら自分の足の痛みのために父に面倒をかけたら、父に苦労をかけたら、僕を捨てるかも…そのように考えたのだろうか?そのような考えが頭に浮かんだため、私は心がとても痛くなりました。たとえ、その子が事故に遭って、足が何度折れても、そのために、娘の結婚式に参加できなくなっても、その子は、私の子であることに変わりありません。その子に従順するように期待はしましたが、従順したから、私の子になるのではありません。その子が私の息子になったので、従順を要求するだけです。だから、「もし、きちんとできなかったら父親が自分を捨てるかもしれない」というような考えをどうかしないようにと願うだけでありました。

神様が、イスラエルの民に従順を要求することも、このお父さんとしての牧師の考え方と同じだと思います。御言葉に聞き従いなさいと言いますが、もし聞き従わないなら捨てるということではなく、聞き従わない時は、神様はまた、赦しを与え、また、回復させてくださる恵みを与えてくださるのです。そのために、イスラエルの民は生きて前進していくことが出来るのです。神様がイスラエルの民が罪を犯し、倒れる他ないということを前もって知りつつも、イスラエルが神の子供たちとして生きていけるのは、神の恵みによるのです。神の独り子イエス・キリストがエバル山において永遠の犠牲の供え物として捧げられ、私たちの全ての呪いを引き受けてくださったからです。

【結論】

 モーセは、約束の地を入ることが出来ずに自分の人生を終えることになります。念願のカナンの地に入ることは叶いませんでしたが、それでも彼は失敗者ではありませんでした。主の臨在の中で感動の引退式を迎えることが出来ました。神さまが私たちのお父さんである限り、私たちはどのような状況で人生の終着駅を迎えたとしても、それは失敗者の人生ではありません。それが、自分たちの思い描いていた人生でなかったとしてもです。なぜなら、イエス・キリストの恵みによって、神様を父として呼ぶことが許され、神様がどのような時にも、私たちと共にいて下さるからです。そして、天の約束の嗣業を眺めながら、永遠に神の子供として、歩んでいくことが許されているからです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

내가 너와 함께 하리라

2022년 11월 6일 센겐다이교회 주일설교

신명기 31장 14~23절

서론

모세의 세 번째 설교는 신명기 30장에서 마치고 오늘 살펴 볼 31장부터 끝맺음의 부분이 됩니다. 이 끝맺음의 부분에서는 무엇이 쓰여 있냐면 모세에서 여호수아에게로의 리더십 이양과 모세가 죽은 후 이스라엘 백성들에게 남겨 두고 갈 율법과 모세의 노래 등에 대해서 적혀 있습니다. 얼마 전 토코로자와 시민센터에서 진행된 동부 中会(한국의 노회에 해당) 75주년 기념 信徒대회에서 메인 강연이 끝난 후 잠시 은퇴 목사님을 환송하는 시간을 가졌습니다. 각자 은퇴하시는 목사님들의 인사를 들었을 때 그동안 하나님의 은혜로 부르심에 충실히 걸어왔던 것이 가능했던 것, 그러나 여전히 전도에 대한 열정은 식지 않았다는 것이 전해져 왔습니다. 오늘 31장도 말하자면 모세의 은퇴식, 은퇴 세레모니 같은 것입니다. 모세의 죽음을 당당히 표현하고 거기에는 모세가 하나님의 일을 감당하는 가운데 저질렀던 여러가지 실수는 거론되지 않았습니다. 지금 바야흐로 하나님께서 모세를 공직에서 물러나게 하시고 조상들과 함께 잠을 자게 하시려고 합니다. 그 은퇴 세레모니의 내용에 오늘은 귀를 기울이고자 합니다.

(1) 여호수아에게 이양

먼저 14,15절을 보시기 바랍니다.

14 여호와께서 모세에게 이르시되 네가 죽을 기한이 가까웠으니 여호수아를 불러서 함께 회막으로 나아오라

15 여호와께서 구름 기둥 가운데에서 장막에 나타나시고 구름 기둘은 장막 문 위에 머물러 있더라

위대한 지도자 모세의 죽음에 있어서 이스라엘 백성들은 그들이 버려지는 것이 아니라 여호와께서 함께 하시리라는 하나님으로부터의 보증을 6절과 그리고 8절에서 이미 받았습니다. 마태복음에서는 특히 「임마누엘 하나님」으로 표현되어 있습니다. 하나님은 언제나 어디에서나 자신의 백성을 떠나지 않고 임재해 주시고 함께해 주신다는 것입니다. 이스라엘 백성들이 하나님의 말씀을 잘 들을 때는 함께 하시지만 말을 듣지 않았을 대는 함께 계시지 않는다는 말이 아닙니다. 언제 어디서나 하나님 여호와는 여호수아와 함께 하시고 모세가 죽은 후에도 하나님 여호와는 이스라엘 백성과 함께 하십니다. 이스라엘 백성이 하나님의 임재를 느끼든 느끼지 않든 하나님은 함께 하시는 것입니다. 이 하나님의 임재가 지금 바로 눈에 보이는 형태로 임재하셔서 막사 앞에 구름기둥으로 나타나주셨습니다. 하나님 여호와의 임재를 나타내는 영광의 구름으로 인해 여호수아는 얼마나 격려받았을까요? 하나님의 임재라는 것은 간단히 말하면 아이에게 있어서 부모님의 존재가 주는 안심감 같은 것이라고 생각합니다. 제 딸은 초등학교 6학년까지 우리 부부와 함께 잤습니다. 지금은 제 코골이가 시끄러워서 같이 자는 걸 싫어하지만 초등학생 때는 꼭 저희 부부 사이에 이불을 깔려고 했어요. 그래서 수학여행을 가도 친구들 가운데가 아니면 안심하고 잘 수 없다고 했습니다. 하나님께서 함께 하시는 것을 믿고 신뢰와 안심감 가운데 하나님의 인도하심에 따라 가는 것 우리들이 할 수 있는 것은 그저 그것뿐이라고 생각합니다. 사람마다 각자의 삶이 있지만 하나님의 뜻을 따르고 오직 하나님의 인도를 따라왔다면 우리도 분명 모세와 같은 삶의 은퇴식을 맞이할 수 있지 않을까요? 사도 바울은 죽음을 앞두고 다음과 같은 고백을 했습니다. 바울의 고백은 31장 모세의 생각과 겹치는 부분이 있었음에 틀림없습니다. 디모데후서 4장 7,8절을 봐 주세요.

7 나는 선한 싸움을 싸우고 나의 달려갈 길을 마치고 믿음을 지켰으니

8 이제 후로는 나를 위하여 의의 면류관이 예비되었으므로 주 곧 의로우신 재판장이 그 날에 내게 주실 것이며 내게만 아니라 주의 나타나심을 사모하는 모든 자에게도니라

우리가 믿음으로 삶을 산다면 반드시 의의 면류관을 받을 것을 믿습니다. 비록 사람들의 눈에는 어리석게 보일지라도 믿음에 의해 이 세상의 여정을 걷는다면 그 삶은 의미있고 하나님의 눈에 가치 있는 것으로 비칠 것입니다. 어느 날 공의로운 심판자이신 하나님께서 우리의 삶을 평가하실 것입니다. 그래서 일할 수 있는 낮 동안에 어떻게 일할 것인지 어떤 삶을 살 것인지 음미해야 합니다. 머지않아 일할 수 없는 밤이 오기 때문입니다.

(2) 모세의 유산

모세가 죽은 후에 이스라엘의 백성에게 두 가지가 남겨졌습니다. 첫째, 율법을 들 수 있습니다. 이 율법은 모세에 의해 책으로 기록되어 레위인 제사장 및 장로의 손에 넘겨져 언약궤의 상자 옆에 놓이게 되었다고 적혀 있습니다. 둘째 모세가 남기고 갈 것으로 모세의 노래를 들 수 있습니다. 이 노래의 내용은 32장에 자세히 나오는데 그 노래는 동요처럼 어린 아이들부터 어른에 이르기까지 모든 이스라엘 백성들이 불렀습니다. 그 노래 가사는 어떤 내용이었냐면 장차 이스라엘 백성들은 분명 하나님 여호와를 버리고 언약을 어기고 다른 신들에게 향할 것이라는 부정적이고 어두운 미래를 암시하는 내용이었습니다. 16절과 19~21절을 보세요.

16 또 여호와께서 모세에게 이르시되 너는 네 조상과 함께 누우려니와 이 백성은 그 땅으로 들어가 음란히 그 땅의 이방 신들을 따르며 일어날 것이요 나를 버리고 내가 그들과 맺은 언약을 어길 것이라

19 그러므로 이제 너희는 이 노래를 써서 이스라엘 자손들에게 가르쳐 그들의 입으로 부르게 하여 이 노래로 나를 위하여 이스라엘 자손들에게 증거가 되게 하라

20 내가 그들의 조상들에게 맹세한 바 젖과 꿀이 흐르는 땅으로 그들을 인도하여 들인 후에 그들이 먹어 배부르고 살찌면 돌이켜 다른 신들을 섬기며 나를 멸시하여 내 언약을 어기리니

21 그들이 수많은 재앙과 환난을 당할 때에 그들의 자손이 부르기를 잊지 아니한 이 노래가 그들 앞에 증인처럼 되리라 나는 내가 맹세한 땅으로 그들을 인도하여 들이기 전 오늘 나는 그들이 생각하는 바를 아노라

왜 이스라엘 백성들에게 귀에 거슬리는 이런 노래를 남겼을까요? 그것은 언젠가 그들이 타락해서 정말로 여호와 하나님을 버리고 이교의 신들을 따라 갈 것이며 그 속에서 많은 재앙과 고난에 직면했을 때 아이들이 부르는 모세의 노래를 통해 과거 모세가 예언한 내용이 사실이었다는 것을 깨닫기 위함입니다. 전지전능하신 하나님께서는 먼 장래를 모두 내다보시고 모세를 통해 말하게 하신 것이 모두 진실이었다는 것을 증언하게 하시기 위함입니다. 많은 재앙과 슬픔과 고난을 겪으면서 아이들이 부르는 동요를 들었을 때 그 노래는 자신들이 어렸을 때에도 자주 불렀던 익숙한 노래이고 그때 이스라엘 백성들은 동요속에 숨겨진 하나님의 신묘한 지혜를 깨닫고 여호와 하나님을 경외하게 되며 회개로 인도되는 것입니다. 즉 이스라엘 백성을 회개로 인도하는 것, 그들을 용서하고 회복시키는 것, 이것이야말로 하나님께서 「모세의 노래」를 주신 목적이었다는 것입니다. 주님과 이스라엘 백성의 관계가 신실한 교제로 들어가고 더 깊은 교제에 들어가는 것, 여기에 하나님의 목적이 있었던 것입니다. 결코 하나님의 말씀을 잘 듣는 자는 축복하고 하나님의 말씀을 듣지 않는 자는 저주하여 고난에 처하게 하는 이러한 인과응보적 법칙을 기계적으로 적용시키자는 것이 아닙니다.

인터넷에서 한국의 한 목사님의 설교를 듣고 있었는데 다음과 같은 실체험을 말씀하셨기 때문에 잠깐 소개해 드리겠습니다.

제게는(그 목사) 아이가 있었지만 한 살짜리 남자 아이를 한 명 더 막내로 입양했습니다. 저는 그 아이를 나 자신의 아이로 키우면서 “공부를 열심히 해” “부모 말을 잘 들어야 해”라고 순종을 요구했습니다. 분명히 그렇게 교육을 했는데 그럼에도 불구하고 입양한 내 아들이 만약 ‘내가 순종하지 않는다면 아빠는 나를 때리지 않을까? 나를 버리지는 않을까?’하고 두려워 하지 않았으면 좋겠다라고 생각했습니다. 분명히 아들에게 순종을 요구하지만 그래도 그 아이가 내 아이가 된 것은 은혜입니다. 설사 그 아이가 순종하지 않더라도 제가 그 아이를 버릴 리가 없어요.

한 5년 전의 일인데 딸이 결혼을 하게 되면서 먼저 아내가 딸에게 가서 결혼식 준비를 도와주고 그리고 결혼식 전날 제가 막내 아들을 데리고 딸에게 가기로 했습니다. 그런데 막상 출발하기 이틀 전에 아들에게서 전화가 왔어요. 학교에서 운동하다가 다리를 다쳤다는 거죠. 그 말을 듣고 화가 치밀었어요.

곧 딸 결혼식을 위해 비행기를 타라교 하는데 왜 이럴 때 다치는지 짜증이 나는 마음을 억누르며 “어디, 다친 상태는 어때? 심각하지 않아?”라고 물었더니 “그냥 다리가 아플 뿐이니까 괜찮아”했어요. “아빠는 너무 바빠서 같이 갈 수 없지만 근처에 교회 집사님이 한의사를 하고 있으니까 그에게 부탁을 해 놓을테니 침을 맞아라”라고 말했어요. 그러자 아들은 “알았어”했어요. 빨리 치로를 받고 다리가 조금 부어 있었지만 다음날 다시 침을 맞으면 괜찮을 것이라고 생각 했습니다. 돌아온 아들에게 “내일 한 번 더 침을 맞고 그 다음날 비행기를 타고 누나한테 가자”고 했어요.

다음날 아침 일찍 일어났는데 아들 방에 불이 아직 켜져 있었어요. 방을 들여다보니 밤새 울고 있었던 것 같아요. 다리가 아파서 울었는지 눈이 부어있었어요. “많이 아프니?”라고 물었더니 “아파요”했어요. “오늘 침을 한 번 더 맞으면 아마 괜찮아질거야. 참을 수 있지?”라고 말을 하자 “알았어”라고 했어요. 저는 교회에 가서 일을 하고 있었는데 역시 아들이 신경이 쓰여 집에 돌아와 아들을 종합병원에 데리고 갔습니다. 의사는 발을 보고 깜짝 놀랐어요. “어떻게 이렇게까지 참았어요? 다리 뼈가 완전히 부러져 있어요”보통은 참을 수 없는 통증을 이 아이는 참았던 것입니다. 너무 미안했습니다. 깁스를 하고 차를 탔는데 차 뒷자석에 아들이 타자 저에게 한마디 했습니다. “아빠, 정말 미안해요. 그리고 정말 고마워요”

15살짜리 아들이 그렇게 말한 겁니다. 그 말을 들었을 때 저는 뭔가에 맞은 것 같은 느낌이 들었어요. 저는 속으로 말했습니다. ‘그럴 때는 미안해요가 아니야. 그럴 때는 어디 이런 아빠가 있어? 교회 일이 중요해? 자식이 중요해? 어느 쪽이야!’ 그럴 때는 ‘다리가 부러졌다는데 그걸 침을 맞으면 낫는다고? 아무리 바쁘다해도 내가 아프다고 말했는데 결국은 이렇게 돼 버렸잖아! 라고 말 하는게 정상적인 반응이야’ 그런 걸 ‘미안해요.. 고마워요..라니’그때 문득 제 머릿속을 스쳐간 것은, 이 아이는 아직도 나를 아버지로 생각하지 않는 걸까?라고 생각한 것입니다. ‘어쩌면 자신의 다리 통증 때문에 아버지를 귀찮게 하면, 아버지를 고생스럽게 하면 나를 버릴지도… 그러한 생각을 했다는 것일까?’그런 생각이 머리에 떠올라 저는 마음이 너무나 아팠습니다. 설사 그 아이가 사고를 당해 다리가 몇 번 부러져도 그 때문에 딸의 결혼식에 참석하지 못하게 되더라도 그 아이는 내 아이임에 틀림 없습니다. 그 아이에게 순종하기를 기대하기는 했지만 순종했기 때문에 내 아이가 되는 것은 아닙니다. 그 아이가 제 아들이 되었으니 순종을 요구할 뿐이에요. 그래서 ‘만약 제대로 하지 못하면 아버지가 나를 버릴지도 모른다’라는 생각을 제발 하지 않았으면 하는 바람뿐이었습니다.

하나님 여호와께서 이스라엘 백성들에게 순종을 요구하시는 것도 이 아버지로서의 목사님의 생각과 같다고 생각합니다. 말씀에 순종하라는데 만약 듣지 않는다면 버리겠다는 것이 아니라 듣지 않을 때 하나님은 또 용서해 주시고 또 회복시켜 주시는 은혜를 주시는 것입니다. 그러기 위해서 이스라엘 백성들은 살아서 전진해 나갈 수 있는 것입니다. 하나님 여호와께서 이스라엘 백성이 죄를 짓고 쓰러질 수밖에 없음을 미리 알면서도 이스라엘이 하나님의 자녀들로 살아갈 수 있는 것은 하나님의 은혜에 의한 것입니다. 하나님의 독생자 예수 그리스도께서 에발 산에서 영원한 희생 제물로 바쳐지시고 우리의 모든 저주를 맡아주셨기 때문입니다.

결론

모세는 약속의 땅에 들어가지 못하고 자신의 인생을 마감하게 됩니다. 염원하던 가나안 땅에 들어가지는 못했지만 그래도 그는 실패자가 아니었습니다. 하나님 여호와의 임재 속에서 감동의 은퇴식을 맞이할 수 있었습니다. 하나님이 우리 아버지이신 한 우리는 어떤 상황에서 인생의 종착역을 맞았든지 그것은 실패자의 삶이 아닙니다. 그것이 자신이 꿈꿨던 그런 삶이 아니었다 하더라도 말입니다. 왜냐하면 예수 그리스도의 은혜로 말미암아 하나님을 아버지로 부르는 것이 허락되고 하나님께서 어떤 때에도 우리와 함께 해주시기 때문입니다. 그리고 하늘의 약속의 유업을 바라보며 영원히 하나님의 자녀로 걸어가는 것이 허락되었기 때문입니다.

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