2022年10月30日「あなたは御言葉を守ることができる 네가 이를 행할 수 있느니라」

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あなたは御言葉を守ることができる 네가 이를 행할 수 있느니라

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 30章1節~14節

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聖句のアイコン聖書の言葉

30:1わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、
30:2あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、
30:3あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。
30:4たとえ天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、そこから連れ戻される。
30:5あなたの神、主は、かつてあなたの先祖のものであった土地にあなたを導き入れ、これを得させ、幸いにし、あなたの数を先祖よりも増やされる。
30:6あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる。
30:7あなたの敵とあなたを憎み迫害する者にはあなたの神、主はこれらの呪いの誓いをことごとく降りかからせられる。
30:8あなたは立ち帰って主の御声に聞き従い、わたしが今日命じる戒めをすべて行うようになる。
30:9あなたの神、主は、あなたの手の業すべてに豊かな恵みを与え、あなたの身から生まれる子、家畜の産むもの、土地の実りを増し加えてくださる。主はあなたの先祖たちの繁栄を喜びとされたように、再びあなたの繁栄を喜びとされる。
30:10あなたが、あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰るからである。
30:11わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。
30:12それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。
30:13海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。
30:14御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 30章1節~14節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 10月31日は宗教改革記念日です。本日讃美した讃美歌267番は、マルティン・ルターが作詞・作曲した曲です。この讃美歌には、神様だけに依り頼んだルターの信仰が満ち溢れています。ルターはカトリック教会から異端者とされました。いつ捕らえられ、教会から処刑されてもおかしくない状況でした。不安と恐怖の中で、神様はルターをお城の中に匿ってくださり、そしてルター不在の中でも宗教改革は着実に進展していきました。そのことだけがルターの唯一の励みだったのだと思います。ルターの死後10年後、1,555年にアウグスブルク宗教和議が結ばれました。この宗教和議によって初めて、カトリック勢力圏においてプロテスタント教会が公に認められることになりました。私たち改革派教会も、まさにこの時に認められたプロテスタント教会にルーツを持っています。今週は特に宗教改革者たちに思いを寄せつつ、感謝しながら一週間を過ごしたいと願っています。

さて、私たちは今、モーセの第三の説教に耳を傾けております。本日の箇所を読んでみると、これまでの申命記の語調とは、一変していることに、もしかしたら気づかれた方がおられるかもしれません。これまでは、約束の地カナンを前にして、祝福と呪いが置かれている、御言葉に聞き従ってあなた方は祝福を選びなさいという語調でしたが、本日の内容は、カナンに定着後、祝福と呪いがすべてイスラエルの民に臨んだ後、彼らが約束の地から追い出されたことが前提となっています。つまりイスラエルの民が失敗したことが前提となっているということです。その前提の中で、モーセによって語られているのは、救いのメッセージ、福音そのものでありました。後の世代である私たちの立場から申命記を読むなら、その後に起こるアッシリア捕囚、バビロン捕囚のことが言われているのだろうと理解することが出来ますが、モーセは、もし不従順し、失敗した民が、主のもとに立ち返るのなら、捕囚から回復されるだろうと言うのであります。たとえ天の果てに追いやられたとしても、そこから集められ、連れ戻されるだろうと預言するのです。何度罪を犯しても、主のもとに立ち返るならそれが赦される。たとえどんなに大きな罪を犯しても主の下に立ち返るなら、赦されない罪はないと語っているのです。

【1】. 悔い改めの祝福

 本文に目を向けますと、30章の1~10節までに7回も登場するキーワードが出てきます。翻訳聖書では分かりづらいのですが、その言葉とはヘブライ語の「シューブ(悔い改める)」という動詞です。この動詞の本来の意味は、立ち返る、180度Uターンする、という意味です。そこから意味が広がり、「悔い改める」、「回復させる」「生き返らせる(詩編23:3)」など多様な形で訳されています。この「シューブ」という言葉が、30章では人間に対しても、そして神様に対しても使われている点が大変興味深い点でございます。7つ具体的に見て行きましょう。1節の後半で、「あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、」とあります。この「思い起こし」という言葉がシューブですね。それから2節では、「あなたの神、主のもとに立ち返り」とあります。ここの「立ち返り」という言葉もシューブです。3節では、今度は、神様がイスラエルに対し、180度Uターンする姿を見せてくれます。シューブが二回、出てまいりますので、3節をご覧ください。

あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。

最初に、「あなたの神、主はあなたの運命を回復し」とありますが、ここの「回復し」という言葉がシューブです。捕囚状態から回復されるということです。続いて「再び集めてくださる」の「再び(反転させて)」という言葉が、やはりシューブです。イスラエルの民が神様を思い起こし、神に立ち返る時に、今度は、神様がイスラエルを捕囚から回復させてくださり、約束の地に再び集めて下さるということです。ここには、悔い改める者に対する神様の祝福が、シューブを通して語られていると言えるでしょう。悔い改めは祝福ですよということです。それでは、悔い改めが一体どのようになされるのかが6節に書かれています。

あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる。

このシューブは、主があなたとあなたの子孫の心に割礼を施されるために起こるであろうと書かれています。割礼とは、新約時代の洗礼と同じ意味です。一度死んで新しく生まれることを意味しています。イスラエルの民が心に割礼を施され、新しく生まれ変わることを体験し、その時、神に立ち返ることが出来るのです。それはまるで、ルカ福音書15章に出てくる「放蕩息子の譬え」を聞いているようであります。放蕩息子は、お父さんの相続財産を生前贈与され、家を出て行き、遠い国へ行って、そのお金で放蕩の限りを尽くしました。何もかも使い果たした時、食べるにも困り始め、ある人のもとに身を寄せたところ、そこで豚の世話をするようにさせられました。彼は豚の餌である、いなご豆でも食べてお腹を満たしたいと思いましたが、そんな時、我に立ち返って、父のことを思い起こしたのです。この時、放蕩息子に、「立ち返って父を思い起こさせた」のは、主なる神様ではないでしょうか。なぜなら私たちに人間には、悔い改める力さえ備わっていないからです。「環境が人を造る」という言葉がございますが、私たち人間は、自分を取り巻く環境が悪くなれば、それに準じて、私たち自身の心も病んでしまい、人々や周りの環境を呪ったり、さらなる悪事や犯罪を重ねてしまうものであります。自分自身の罪を見つめること、或いは立ち返って神様の御前に遜るということは、ほとんど不可能なのではないでしょうか。そんな頑な心に、主ご自身の方から訪ねて来てくださり、心の割礼を施して下さるのです。神様はご自身の民を決して放棄することはなく、主が「悔い改めの心」を与えてくださり、そして、悔い改めの祝福を備えて下さるのです。

【2】. モーセによって語られた福音

 それからシューブに再び戻りますが、8節、9節、10節にもそれぞれ一回ずつ出てきます。8節は「立ち返って」、9節は「再び」、10節は最後の「立ち返るから」です。イスラエルの民が悔い改めるなら、そこには神様によって命と幸いの道が備えられているということです。旧約聖書では、「命と幸いの道」は、イコール、「戒めと掟を守ること」であると語られています。11~14節をご覧ください。

わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

ここには「御言葉」はあなたのごく近くにあると書かれていますが、この御言葉とは、律法の言葉を指していると思われます。律法の言葉は、「天にあるものでもなく、海のかなたにあるものでもない」。恐らく、モーセがイスラエルの民のために律法の言葉を受け取ってくださったことを想起させているのではと思われます。モーセが荒れ野で律法を授かるために葦の海を渡り、イスラエルの民をエジプトから解放してくださいました。また、モーセは、シナイ山の頂上に上り、イスラエルの民のために十戒を授かるようにしてくれました。その御言葉は、今や、あなた方の近くにある、したがってあなた方はそれを行うことができると言うのです。

この言葉は、そのまま聞き流してしまいそうですが、使徒パウロの告白と矛盾してはいないでしょうか。パウロは、ローマ書の中で「義人はいない。一人もいない。」とし、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。(ロマ3:20)」と告白しました。そうすると、果たして、イスラエルの民は律法を実行することができるのでしょうか、できないのでしょうか。迷宮入りしてしまう訳です。

ローマ書の別の箇所で、パウロは本日の申命記30章の御言葉を引用し、この「律法の言葉」を福音として理解しています。どういうことかと申しますと、御言葉を守ることができ、神の御前に義とされるのは、信仰によって成されると言い換えているのです。ローマ書の10:6~8の御言葉をご覧ください。

しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。

ここでモーセの言う、戒めと掟を、パウロは「信仰による義」と、言い直しています。そして信仰によって得られる義は、キリストの福音によって、私たちに非常に近いものになったと結論付けています。戒めと掟を守ること、それは即ち、あなたの近くにある福音を信じることということです。これがパウロの申命記の解釈です。

【3】. クレジットカードの後払い

 モーセが福音を語っているということは、別の角度から見てもそのように結論づけることができるでしょう。イスラエルの民が罪を犯し、神を裏切り、契約を破った際の報酬は、呪いであり、死でありました。罪を犯した者は、当然、罪の罪責を追わなければなりません。ところが申命記30章には悔い改めるなら、再び土地を得させ、幸いにし、あなたの数を先祖よりも増やされるとあります。贖罪がないのに、赦しが語られています。ということは、神様は罪を憎んではおらず、罪に対して激しく怒られる方でもなく、罪もろとも、ありのままの私たちを、受け入れてくれるということなのでしょうか。神は正しい人を正しいとし、罪人の罪をきちんと罰する、これが義なる神様ではないでしょうか。ですから、仮にその時点で罪責に対する贖罪が、イスラエルの民に要求されなかったとしても、必ずいつの日か、イスラエルの民の非常に大きな罪の罪責に対し、きちんと精算する時が来るのでは、と思われるのです。その時とは、まさにゴルゴタの丘で、神がご自身の愛する御子、イエス・キリストを十字架刑によって、処刑された日であったのです。あの日、あのむごたらしい刑罰の中で、ひどい嘲りと辱めの中で、過去、現在、未来において、イエス・キリストを信じる、全ての人々の罪が精算されました。その深刻な罪責に対して、御子の命という非常に大きな贖い金が支払われたのです。だからこそ、イスラエルは、何度、罪を犯しても、神様に立ち返るなら、神はイスラエルを何度でも受け入れてくださり、回復して下さるのです。誤解を恐れず、分かりやすく言うなら、旧約の民にとってクレジットカードの後払いと同じようなものです。最近は、買い物をするときにカードを使用される方も多くなってきました。その際、確実に負債が発生していますが、その場では請求されず、月末に一括請求されますね。イスラエルの負債もイエス・キリストの十字架によって一括で精算されたのです。過去、現在、未来の全ての罪が精算されたので、キリストの内にある者たちは、悔い改める時に罪の赦しを受けることが出来るのです。

神とイスラエルの間には、「あなた方は私の民となり、私はあなた方の神となる」という恵みの契約が結ばれていました。しかし歴史を通して明らかにされたことは、この契約は、たとえ世代ごとに新しく更新され、繰り返し神に受け入れられたとしても、イスラエルの民は契約の道を行わず、瞬間ごとにその契約を汚してしまったということです。主を裏切り、異教の神々に仕え、契約を破り、彼らの前に置かれた祝福と呪いのうち、大概、呪いを選んでしまったという事実です。そうすると、この「恵みの契約」というのは、結局、人間の側の不従順によって、人間の側の不履行によって、破棄され、無かったものとされてしまったのでしょうか。そうではありません。確かに人間は契約に対し誠実ではなく、信実でもありませんが、神がご自身の契約を忘れず、恵みの契約は専ら、神の憐みのもとに確固たる姿をとどめているのです。なぜなら、そこには神の名による誓いが、神ご自身の存在が、かかっているため、破棄することができないからです。神はご自身の名による契約を破ることが出来ないのです。ですから、イスラエルの民は何度、罪を犯しても、神ご自身が訪ねて来てくださり、悔い改めに導かれ、イスラエルを散らされた地から、再び集められるのです。イスラエルの全ての罪は、イエス・キリストの十字架によって贖罪されているからです。

【結論】

 私たちも神様に立ち返るなら、何度でもその罪が赦されます。日々、神様に罪を犯し、「もうダメだと思っても」、悔い改めるなら、神様が状況を変えて下さるでしょう。神様に立ち返ること、それは、信仰によって神様の贈り物を受け取ることでございます。信仰によって義とされたことを信じ、信仰によって命と幸いを選び、信仰によって掟と戒めを守り行い、信仰によって愛の道に生きることであります。神様に立ち返ること、それは、全てを成し遂げてくださったイエス・キリストを信じ、キリストにすべてをお任せし、信仰によって神様の贈り物を受け取ることであります。さらに言うなら、立ち返るようにされること、神に思いを向けさせること、それさえも神様の御業であります。モーセの第三の説教の中で7回も繰り返されるシューブは、神の方から、イスラエルの民に訪ねて来てくださり、そして神がイスラエルの民を回復して下さるというものでありました。私たちの心にも、私たちの家族の心にも、そして私たちの子供たちの心にも、今日、シューブが起こされるように祈ってまいりましょう。

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네가 이를 행할 수 있느니라

2022년 10월 30일 센겐다이교회 주일설교

신명기 30장 1~14절

서론

 

10월 31일은 종교개혁 기념일입니다. 오늘 찬양한 찬송가 267장은 마틴 루터가 작사 작곡한 곡입니다. 이 찬송가에는 하나님만 의지한 루터의 믿음이 녹아 있습니다. 루터는 카톨릭으로부터 이단자로 낙인찍혔습니다. 언제 체포되어 교회로부터 처형을 당해도 이상하지 않은 상황이었습니다. 불안과 공포 가운데 하나님은 성안에 루터를 숨겨 주셨고 루터의 부재중에도 종교개혁은 착실히 진전되어 가고 있었습니다. 그것만이 루터의 유일한 격려가 아니었을까 생각해봅니다. 루터의 사후 10년후 1555년에 아우크스부르크 종교화의가 맺어졌습니다. 이 종교화의에 의해서 처음으로 카톨릭 세력권에서 프로테스탄 교회(루터파)가 공식적으로 인정받게 되었습니다. 우리 개혁파 교회도 바로 이때 인정된 프로테스탄트 교회에 뿌리를 가지고 있습니다. 이번 주는 특히 종교 개혁자들에게 감사하는 마음을 가지며 일주일을 보내었으면 합니다.

우리는 지금 모세의 세 번째 설교에 귀를 기울이고 있습니다. 오늘의 본문을 읽어 보면, 지금까지의 신명기의 어조와는 달라졌다는 것을 어쩌면 눈치채신 분이 계실지도 모르겠습니다. 지끔까지는 약속의 땅 가나안을 앞에 두고 축복과 저주가 놓여 있었습니다. “너희는 말씀에 순종하여 축복을 선택하라”라는 어조였습니다만 오늘의 본문은 가나안 정복후 축복과 저주가 모두 이스라엘 백성에게 임한 후에 그들이 약속의 땅에서 쫓겨난다고 전제하고 있는 것입니다. 즉 “이스라엘 백성이 실패한다”는 것이 전제가 되어 있다는 것입니다. 그 전제 가운데 모세가 말한 것은 「구원의 멧세지인 복음」 그 자체였습니다. 나중 세대인 우리의 입장에서 신명기를 읽는다면 그 후에 일어날 앗시리아의 포로, 바벨론의 포로생활을 말하는 것이라고 이해할 수도 있지만 모세는 만약 불순종하고 실패한 백성이 주님께 돌아오면 포로에서 회복될 것이라고 말하는 것입니다. 비록 하늘의 끝까지 쫓겨 났다고 해도 거기에서 모으시고 다시 돌아오게 하실 것이라고 예언하는 것입니다. 여러 번 죄를 지어도 주님께 돌아가면 그것이 용서되고 아무리 큰 죄를 범해도 주님께 돌아가면 용서받지 못하는 죄는 없다고 말하는 것입니다.

(1) 회개의 축복

본문에 눈을 돌려보면 30장의 1-10절까지 7번이나 등장하는 키워드의 단어가 나옵니다. 번역성경에서는 알기 어렵지만 그 단어는 히브리어의 「슈브(회개하다)」라는 동사입니다. 이 동사의 본래의 의미는 「돌아간다」 「180도 유턴한다」라는 의미입니다. 거기서부터 의미가 확대되어 「회개하다」 「회복시키다」 「소생시키다」 (시편 23편 3절) 라는 다양한 단어로 번역되었습니다. 이 슈브라고 하는 단어가 30장에서는 사람에 대해서도 하나님에 대해서도 사용되어저 있는 점이 아주 흥미롭습니다. 어떻게 7번이나 등장하는지 살펴보겠습니다. 1절의 후반부의 「네가 네 하나님 여호와로부터 쫓겨간 모든 나라 가운데서 이 일이 마음에서 기억이 나거든”에서의 「기억이 나거든」 이 단어가 슈브입니다. 그런 다음 2절에서는 「네 하나님 여호와께로 돌아와」의 「돌아와」라는 단어도 슈브입니다. 3절에서는 이번에는 하나님이 이스라엘에 대해서 180도 유턴하는 모습을 보여주십니다. 슈브가 2번 나오기 때문에 3절을 참조하십시오.

네 하나님 여호와께서 마음을 돌이키시고 너를 긍휼히 여기사 포로에서 돌아오게 하시되 네 하나님 여호와께서 흩으신 그 모든 백성 중에서 너를 모으시리니

처음에 「네 하나님 여호와께서 마음을 돌이키시고」라고 나옵니다만 여기의 「돌이키시고」라고 하는 단어가 슈브입니다. 포로상태에서 회복시키신다는 의미입니다. 계속해서 「포로에서 너를 돌아오게 하시되”의 「돌아오게」도 역시 슈브입니다. 이스라엘의 백성이 하나님을 기억하고 하나님께 돌아올 때 이번에는 하나님이 이스라엘을 포로의 신분에서 해방시켜 주시고 약속의 땅으로 다시 돌아오게 해 주신다는 말씀입니다. 여기에는 회개하는 사람에 대해서 하나님이 주시는 복이 슈브를 통해서 선언되고 있다고 할 수 있습니다. 회개한다는 것은 복이라는 말입니다. 그러면 회개는 도대체 어떻게 이루어지는지가 6절에 나와 있습니다.

네 하나님 여호와께서 네 마음과 네 자손의 마음에 할례를 베푸사 너로 마음을 다하며 뜻을 다하여 네 하나님 여호와를 사랑하게 하사 너로 생명을 얻게 하실 것이며

이 슈브는 하나님 여호와께서 너와 네 자손의 마음에 할례를 행하실때 일어날 것이라고 쓰여있습니다. 할례라는 것은 신약시대의 세례와 같은 의미입니다. 한 번 죽고 새로 태어나는 것을 의미합니다. 이스라엘 백성이 마음에 할례를 받고 새롭게 다시 태어나는 것을 체험하고 그때 하나님께 돌아올 수 있다는 것입니다.

그것은 마치 누가복음 15장에 나오는 방탕한 아들의 얘기와 같습니다. 방탕한 아들은 아버지의 상속재산을 생전에 상속받고 집을 떠나 먼나라에 가서 그 돈으로 방탕하게 살고 그 돈을 다 탕진해버렸습니다. 먹을 것 조차 해결 하지 못할 정도가 되어서 어느 사람의 밑에 들어가 일을 하게 되었는데 그 일은 돼지를 돌보는 일이었습니다. 극심한 배고픔에 그는 돼지의 먹이인 콩이라도 먹고 배를 채우자 생각했습니다. 그때 그는 아버지를 생각했습니다. 돌이켜서 아버지를 생각하게 역사하신 분은 하나님이 아닐까요? 왜냐하면 우리들 인간에게는 스스로 회개 할 힘이 없기 때문입니다. “환경이 사람을 만든다”라고 하는 말이 있는데 우리들 인간은 자신을 둘러싼 환경이 나빠지면 그에 따라 우리 자신의 마음도 병이 들어 주위의 환경을 저주하거나, 더 나쁜 악행이나 범죄를 거듭 저지르는 것입니다.

자기 자신의 죄를 바라보는 것, 혹은 돌이켜 하나님 앞에 돌아온다라는 것은 인간의 힘으로는 거의 불가능한 일이 아닐까요? 그런 굳은 마음에 주님이 직접 다가오셔서 마음의 할례를 베풀어 주시는 것입니다. 하나님은 자신의 백성을 결코 포기하지 않고 주님께서 회개할 수 있는 마음을 주시고 회개하는 복을 주시는 것입니다.

(2) 모세에 의해서 선언된 축복

다시 슈브로 돌아오면 8절, 9-10절에도 각각 1번씩 나옵니다. 8절은 「돌아와」9-10절에는 「돌아오면」 「다시」입니다. 이스라엘 백성이 회개를 하면 거기에는 하나님에 의해 생명과 복이 준비되어 있다는 말씀입니다. 구약성경에서는 「생명과 복의 길」은 바로 「계명과 규례를 행하는 것」이라고 말하고 있습니다.

11-14절을 보십시오.

11 내가 오늘 네게 명령한 이 명령은 네게 어려운 것도 아니요 먼 것도 아니라

12 하늘에 있는 것이 아니니 네가 이르기를 누가 우리를 위하여 바다를 건너가서 그의 명령을 우리에게로 가지고 와서 우리에게 들려 행하게 하랴 할 것이 아니요

13 이것이 바다 밖에 있는 것이 아니니 네가 이르기를 누가 우리를 위하여 바다를 건너가서 그의 명령을 우리에게로 가지고 와서 우리에게 들려 행하게 하랴 할 것도 아니라

14 오직 그 말씀이 네게 매우 가까워서 네 입에 있으며 네 마음에 있은즉 네가 이를 행할 수 있느니라

여기에는 말씀은 네게 매우 가까이 있다고 써 있습니다만 이 말씀이라고 하는 것은 율법을 말하고 있는 것이라고 생각되어집니다. 율법은 하늘에 있는 것이 아니고 바다 밖에 있는 것이 아니라고 기록되어 있습니다. 아마도 모세가 이스라엘 백성을 위해서 율법을 받아 온 것을 상기시키는 것이라고 생각합니다. 모세가 광야에서 율법을 받기 위해서 갈대 바다를 건너서 이스라엘 백성을 애굽에서 인도하여 내고 시내산 정상에 올라 이스라엘 백성을 위해 십계병을 받았습니다. 그 말씀은 지금은 이스라엘 백성 가까이에 있기 때문에 그들은 그것을 행할 수 있다고 말하는 것입니다.

이 말은 그냥 흘려들을 수 있지만 사도 바울의 고백과 모순된 것처럼 들리지 않습니까? 바울은 로마서에서 「의인은 한 명도 없다」라고 고백했습니다.로마서 3장 20절에 의하면 「그러므로 율법의 행위로 그의 앞에 의롭다 하심을 얻을 육체가 없나니 율법으로는 죄를 깨달음이니라」라고 말했습니다. 과연 이스라엘 백성은 율법을 실행할 수 있다는 말입니까? 없다는 말입니까? 점점 더 미궁에 빠져버리는 것 같습니다.

로마서의 또 다른 구절에서는 바울은 오늘의 신명기 30장의 말씀을 인용하여 이 「율법의 말씀」을 복음으로 이해하고 있습니다. 어떤 말인가 하면 말씀을 지킬수가 있고 하나님 앞에서 의인으로 칭함을 받는 것은 믿음으로 인해서 가능하다고 바꿔 말하고 있습니다. 로마서 10장 6-8절 말씀을 한번 살펴봅시다.

6 믿음으로 말미암는 의는 이같이 말하되 네 마음에 누가 하늘에 올라가겠느냐 하지 말라 하니 올라가겠느냐 함은 그리스도를 모셔 내리려는 것이요

7 혹은 누가 무저갱에 내려 가겠느냐 하지 말라 하니 내려가겠느냐 함은 그리스도를 죽은 자 가운데서 모셔 올리려는 것이라

8 그러면 무엇을 말하느냐 말씀이 네 입에 가까워 네 입에 있으며 네 마음에 있다 하였으니 곧 우리가 전파하는 믿음의 말씀이라

여기서 모세가 말하는 계명과 규례를 바울은 「믿음에 의한 의」라고 바꿔 말하고 있습니다. 그리고 믿음으로 얻은 의는 그리스도의 복음으로 우리들에게 굉장이 가까이 있다고 결론짓고 있습니다. 계명과 규례를 지키는 것은 그것은 즉, 여러분 가까이에 있는 복음을 믿는 것입니다. 이것이 바울의 신명기의 해석입니다.

(3) 신용카드의 후불제 처럼

모세가 복음을 말한다는 것을 다른 각도에서 보아도 그렇게 결론 내릴 수 있겠지요. 이스라엘의 백성이 죄를 짓고 하나님을 배신하고 언약을 파기했을 때의 벌은 저주와 죽음이었습니다. 죄를 범한 자는 당연히 그 죄의 책임을 져야 합니다. 그런데 신명기 30장에 회개하면 다시 땅을 돌려 받고 복을 받고 이스라엘의 수가 그들의 조상보다 늘어날 것이라고 쓰여져 있습니다. 속죄가 없는데 용서가 선언되고 있다고 하는 것은 하나님은 죄를 미워하시지 않고 죄에 대해 격렬하게 분노하시는 분도 아니고 죄를 지어도 모두 있는 그대로의 우리를 받아들여준다는 말일까요? 하나님은 옳은 사람을 옳다고 하고 죄인의 죄는 확실하게 처벌하셔야 의로운 하나님이 되시지 않습니까? 그럼으로 만일 그 시점에서 죄에 대한 속죄가 이스라엘 백성에게 요구되지 않았다하더라도 반드시 언젠가는 이스라엘 백성들의 큰 죄에 대한 벌에 대한 정산의 날이 올 것이라고 생각되어지는 것입니다. 그때는 바로 골고다의 언덕에서 하나님의 사랑하는 독생자 에수 그리스도를 십자가에 못 박으신 날이었습니다. 그날, 그 끔찍한 형벌 속에서 끔찍한 조롱과 수치 속에서 과거, 현재, 미래에 있어서 예수 그리스도를 믿는 모든 사람들의 죄가 정산되었습니다.

그 심각한 죄에 대해 독생자의 생명이라는 매우 큰 댓가 가 지급 된 것입니다. 그럼으로 이스라엘은 여러번 죄를 지어도 하나님께 돌아오면 하나님은 몇번이라도 받아들여 주시고 회복시켜 주시는 것입니다. 오해를 무릅쓰고 알기 쉽게 말하자면 구약의 백성에게 있어서 신용카드의 후불제와 같은 것입니다. 최근에는 쇼핑을 할때 신용카드를 사용하는 분도 많아졌습니다. 그 때 확실히 부채가 발생합니다만 그 자리에서는 청구되지 않고 월말에 일괄 청구되는데요. 이스라엘의 부채도 예수 그리스도의 십자가에 의해 일괄적으로 정산되었습니다. 과거, 현재, 미래의 모든 죄가 정산 되었음으로 그리스도 안에 있는 자들은 회개 할 때마다 죄 사함을 받을 수 있는 것입니다.

하나님과 이스라엘 사이에는 「너희는 나의 백성이 되고 나는 너희의 하나님이 되리라」는 은혜의 언약이 채결되었습니다. 그러나 역사를 통해서 밝혀진 것은 이 언약은 예를 들어 세대마다 새롭게 갱신되고 반복적으로 하나님께서 세우셨다고 할지라도 이스라엘 백성은 언약을 지키지 않고 순간마다 그 언약을 깨버렸다는 것입니다. 주님을 배신하고 이교의 신들을 섬기고 언약을 파기하며 그들 앞에 놓인 축복과 저주 가운데 대개는 저주를 선택해 버렸다는 사실입니다.

그렇다면 이 은혜의 언약이란 결국 인간측의 불순종에 의해 인간측의 불이행에 의해 파기되어 없었던 것으로 여겨져 버렸습니까? 그렇지 않습니다. 확실히 인간은 언약에 대해서 성실하지 않았고 신실하지도 않았지만 하나님께서 자신의 언약을 잊지 않고 은혜의 언약은 오로지 하나님의 긍휼하심에 확고한 모습을 유지하고 있는 것입니다. 왜냐하면 거기에는 하나님의 이름에 의한 맹세가, 하나님 자신의 존재가 걸려 있기 때문에 파기할 수 없기 때문입니다. 하나님은 자신의 이름으로 맺은 언약을 파기할 수 없습니다.

그렇기 때문에 이스라엘 백성은 몇번이라도 죄를 저질러도 하나님쪽에서 찾아 오시고 회개하도록 인도하시고 이스라엘을 흩어진 땅에서 다시 모으시는 것입니다. 이스라엘의 모든 죄는 예수 그리스도의 십자가에 의해 정산되어 있기 때문입니다.

결론

우리도 하나님께 돌아오면 몇번이라도 그 죄가 용서가 됩니다. 날마다 하나님께 죄를 짓고 “이제 더 이상은 안될 거야”라고 생각해도 회개한다면 하나님이 상황을 바꾸어 주실 것입니다. 하나님께 돌아가는 것, 그것은 믿음으로 하나님의 선물을 받는 것입니다. 믿음으로 의롭게 되었음을 믿고 믿음으로 생명과 복을 선택하고 믿음으로 규례와 계명을 지키고 믿음으로 사랑의 길에 사는 것입니다. 하나님께 돌아가는 것은 모든 것을 이루신 예수 그리스도를 믿고 그리스도께 모든 것을 맡기고 믿음으로 하나님의 선물을 받는 것입니다. 한층 더 나아가 말한다면 되돌아 갈 수 있는 것 하나님을 기억나게 하는 것 그런 것 조차도 하나님이 하시는 일입니다.

모세의 세 번째 설교에서 7번이나 반복되는 슈브는 하나님께서 이스라엘 백성에게 찾아와 주시고 하나님께서 이스라엘 백성을 회복시키신다는 것입니다. 우리의 마음에도 그리고 우리 자녀들의 마음에도 오늘 슈브가 일어나도록 기도합시다.

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