2022年10月23日「用心すべきパン種 누룩을 주의하라」

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用心すべきパン種 누룩을 주의하라

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マタイによる福音書 16章1節~12節

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聖句のアイコン聖書の言葉

16:1ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。
16:2イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、
16:3朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。
16:4よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。
16:5弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。
16:6イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。
16:7弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。
16:8イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。
16:9まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。
16:10また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。
16:11パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」
16:12そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 16章1節~12節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 本日は、マタイによる福音書の16章の御言葉に耳を傾けてまいります。本日の箇所は信仰の危機に陥ったファリサイ派とサドカイ派についてのお話しです。イエス様はファリサイ派とサドカイ派のパン種に用心しなさいと言われましたが、これは何のことかと言えば、ファリサイ派とサドカイ派の「教え」に用心しなさいということです。しかし、当時の人々が、このイエス様の御言葉を聞いても、何のことかさっぱり分からなかったことでしょう。というのは、ファリサイ派とサドカイ派の「教え」とは、真向から対立するものだったからです。イエス様は何故、ファリサイ派とサドカイ派の「教え」を一緒くたに扱われたのでしょうか。彼らの教えに用心しなさいとは、一体どういう意味なのでしょうか。

【1】. しるしを求める人々

 1節において、しるしを求めるファリサイ派とサドカイ派の人々が出てきますが、この、しるしを求めるという願いは、人間誰でも持っていると思います。私は若い頃、「あ~新約時代ではなく、旧約時代に生まれて、直接神様の御言葉を聞きたかったな」と思ったことがありました。もし自分が、旧約の預言者たちが聞いたように、御言葉をダイレクトに聞くことができたなら、はっきりと主の御心を悟り、きっと上手くやり、イスラエルが不信仰の罪を犯したようにはしなかっただろうに、と考えていました。しかし、最近思わされていることは、ファリサイ派やサドカイ派というのは、人間の姿をそのまま映し出しているのではないか、私たちの罪の現実をそのまま映し出しているのではないかと思うようになりました。

さて、宗教指導者であったファリサイ派とサドカイ派は、その教えや立ち位置において真逆でありましたが、サンヘドリン議会を構成する二大勢力でありました。ファリサイ派とは、旧約聖書を熱心に研究します。律法学者は、たいていファリサイ派でありました。彼らは、復活や霊の存在を信じ、その律法に対する厳格さと熱心さのゆえに、民衆から強い支持を得ていました。庶民派ということです。一方で、サドカイ派とは、霊なんて存在しない、死者の復活などないと断言します。彼らは上流階級に属する集団で、政治権力に執着するあまり、ローマと妥協するようになっていきました。このように、教えも、立ち位置も異なるファリサイ派とサドカイ派でありましたが、イエス様を試そうとし、一緒になってやって来たのです。彼らに対し、イエス様は3節の終わりで「時代のしるしは見ることができないのか」と語られました。この「時代」という言葉は、その次の4節に出て来る「時代」とは別の単語が使われていまして、「カイノス:時」という言葉が使われています。カイノスという言葉は、時は時でも「チャンス、終末論的な時、定められた時」というような意味です。今まさに神の国が到来している、その定められた時のしるしを、終末的な時のしるしを、見ることができないのかという意味です。続いて4節をご覧ください。

よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。

イエス様がメシアであるしるしは、既に十分に与えられていました。洗礼者ヨハネの証言、神の国の権威ある教え、さらには、目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされています。神の国が今、まさに訪れていることを明らかにされていました。それでもなお、「しるし」、「しるし」と、しるしを要求するのなら、そのような人にはヨナのしるし以外には与えられないと言うのです。「ヨナのしるし」とは何かと言いますと、以前にもイエス様がファリサイ人に対し、ヨナのしるしについて言及していましたのでそのくだりを見てみましょう。マタイ12:38~40をご覧ください。

すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。

この個所でもファリサイ派の人々は相変わらずしるしを要求していますが、ヨナのしるしというのは、「三日三晩、大魚の腹の中にいたこと」だと語られています。旧約聖書にヨナ書というのがありまして、ヨナは神様から次のように命じられました。「ニネベという大きな都市に行って、不信仰な民に悔い改めを説きなさい。」ニネベとは、今のイラクの北部に位置していました。ところが、ヨナは神様の命令に従わず、舟でニネベとは反対方向のタルシシュへ向かいました。ところがです。舟の中で嵐に遭遇し、結局、ヨナは海に放り出され大魚に飲み込まれてしまいます。そして三日三晩、大魚の腹の中にいたのですが、そこで神に祈ると陸地に吐き出され、命拾いすることになります。ヨナは今度こそニネベの町に行って神の審判を宣教しました。この時のヨナの宣教の言葉とは全く単純なものでした。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる!」(ヨナ書3:4)これだけです。しかしどうでしょうか、異邦人のニネベの人々は不思議なことに、この言葉を聞いて神を信じ、身分の高い者も低い者も身体に粗布をまとって悔い改め、神を信じたというのです。ニネベの人々には、「三日三晩、大魚の腹の中にいたヨナのしるし」しか与えられなかったのに、彼らは、神を信じました。イエス様の時代にも、ヨナのしるしと同じようなしるしが与えられます。それは、これからイエス様にご自身において起こるであろう、十字架と復活の出来事です。それ以上のしるしは与えられないでしょう。ニネベの人々は「ヨナのしるし」を通して神を信じましたが、十字架と復活という決定的なしるしを前にした時、あなた方は果たしてどうするのかとイエス様は尋ねられているのです。

【2】. 思い起こす信仰

 さて、弟子たちは向こう岸に移動しました。5~6節をご覧ください。

弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。

少し地理的状況を整理しますと、まずイエス様は15:39において、マガダン地方に行ったとあります。この場所ははっきり特定できませんがガリラヤ湖の西側のイスラエルの領土であると思われます。なぜなら、その後すぐにファリサイ人とサドカイ人がやって来たからです。最初、ガリラヤ湖の東側にいて西側にやってきた。しかし、それもほんの束の間で、再び湖の東側へ、つまり異邦人の地へ、とんぼ返りしたと思われます。実はここには少し皮肉が込められているのですが、異邦人の地において、イエス様は認められ、神を信じるという現象が起こりました。15:31には、「群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。」とありますが、湖の西側のイスラエルの地では主を試そうとしたのです。この対照が浮き彫りにされているということです。

とにかく、イエス様の一行は向こう岸へ、再び異邦人の地にお戻りになられ、弟子たちに「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われました。弟子たちはというと、うっかり食料のパンを忘れて来てしまったことが気にかかっていましたので、パン種のことをパンと誤解し、イエス様の警告は「パンを持って来なかったせいだ」「誰がパンを忘れたのか」と、責任のなすり合いをしていました。するとイエス様は、「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。まだ、分からないのか。覚えていないのか。」(8節)と諭されます。イエス様は、五つのパンをもって五千人に分け与えた時、残ったパンを幾籠に集めたのかと思い起こさせます。「十二籠」でありました。また、七つのパンをもって四千人に分け与えた時、残ったパンを幾籠に集めたのかと思い起こさせます。「七籠」でありました。少し余談ですが、五千人の供食の時と四千人の供食の時の「籠」というギリシア語でそれぞれ異なる単語が使われています。五千人の供食の時は、十二籠は、これはバスケットのようなものを指しています。四千人の供食の時は七籠は、これは人間も入ることのできるような、大きな籠のことを指しています。とにかく、残ったパンを拾い集めると、それが、12籠、7籠に増し加えられたのです。この12と7という数字には特別な意味が含まれているように思われます。ご存じのように「12」とはイスラエル12部族を現しており、「7」とは完全数です。ですから、全イスラエルは神の守りの中で完全に養われ、完全に守られる。新約的な表現を使うなら、神の教会である、あなた方は、安心して主イエスに信頼しなさい。日々の糧は与えられるだろう。そのことをおっしゃっているように私には思われるのです。あの時、余ったパンを籠に一生懸命集めながら、神の教会である弟子たちは、まるでモーセの時代に荒れ野でイスラエルの民が毎日、天から降って来るマナを拾って食べたかのような恵みの体験をしたのであります。続いて11~12節をご覧ください。

パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。

この時になってようやく、弟子たちはパンについて言われているのではなく、ファリサイ派とサドカイ派の教えについて言われていることに気づきました。しかし冒頭でも触れましたように、その教えが異なるのに、彼らの教えに用心しなさいとは、どういうことか、となります。文脈から理解するなら、「しるしを求める」ということでしょう。もっと突っ込んで言えば、しるしを求めるということの、その根底に、真理を軽蔑する懐疑主義を指しているのだと思います。神の不在を最初から前提にしているということです。ファリサイ派とサドカイ派の人々にそのような不信仰な態度が先入観として根底にあるのだと思います。しかし彼らは、そのような懐疑主義、神の不在を前提にするような不信仰に、いつから陥ってしまったのでしょうか。イスラエルの宗教指導者である彼らは、歴史を通して、先祖たちの不信仰により、アッシリア捕囚、バビロン捕囚を、その痛い体験してから、律法を中心とした生活に悔い改めたはずです。悔い改めて、生活の中心に律法を据えた彼らでありましたが、信仰生活を続けていくうちに、自分たちが恵みによって暗闇から助け出されたことをすっかり忘れてしまい、気づいた時には信仰そのものまでも危機的状況にあったということだと思います。信仰とは、常に神の恵みを思い起こすことであり、それは、祈りの中で、神との生きた交わりの中で、恵みが回想され、信仰そのものが日々新しくされるのだと思います。このことは、弟子たちにおいてもそのまま当てはまることでしょう。まさか弟子たちが五千人の供食、四千人の供食の奇跡を完全に忘れていたということではありませんでした。ただ、日々の生活の中で、その出来事の生き生きとした記憶、感動が、少しずつ失われ、少しずつ風化していき、弟子たちの生きた信仰から動的な力が失われていき、ついには、そのような事実が実際に起こったということを疑うような懐疑主義に至ってしまうのです。弟子たちもファリサイ派とサドカイ派のような物の考え方に陥いり、生きた信仰を少しずつ浸食される可能性が十分にあるということです。

【結論】

 用心すべきパン種は、現代に生きる私たちの信仰をも浸食する可能性があります。イエス様によって救われた私たちは、価値観が変えられ、生きる目的が変えられ、人生全てが新しくされました。しかし、信仰生活を続けて行くうちに、救われた当初の喜びと感動は薄れ、自分がイエス様によって暗闇から救い出されたことを感謝できず、気付いた時には、礼拝出席さえままならなくなったり、信仰の危機に瀕するということがあるのかもしれません。なぜ、このようなことが起こるのかと言いますと、信仰というのは、私たちとイエス様との関係を示しているからです。信仰とは動的であり、常にイエス様の御声に聴いていくことに、信仰の本質があるからです。したがって信仰生活とはイエス様との交わりによって、イエス様との会話によって、支えられ、維持されるのです。ですから、祈りの中で、或いは礼拝における神との交わりの中で、私たちは日々、恵みが回想され、日々、信仰が新しく更新されなければならないということです。今日、イエス様は私たちにも問い掛けられます。「パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。」私たちは、週ごとの主日礼拝に参加し、兄弟姉妹と共に礼拝の中に身を置く時、主なる神によって、恵みが回想され、信仰が新しくされることでしょう。礼拝によって主への賛美がほとばしり、また、神の家族の中で共に祈り合う時に、信仰の成長がなされていくのです。神様は私たちにそのことを求めておられるのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

누룩을 주의하라

2022년 10월 23일 센겐다이교회 주일설교

마태복음 16장 1~12절

서론

오늘은 마태복음 16장 말씀을 경청하겠습니다. 오늘 부분은 신앙의 위기에 빠진 바리새인과 사두개인에 대한 이야기입니다. 예수님은 바리새인과 사두개인의 누룩을 주의하라고 하셨는데, 이게 무슨 말이냐면 바리새인과 사두개인의 「교훈」을 주의하라는 것입니다. 그러나 당시 사람들은 이 예수님의 말씀을 듣고도 무슨 말인지 전혀 몰랐을 것입니다. 그 이유는 바리새인과 사두개인의 「교훈」이란 정면에서 대립하는 것이었기 때문입니다. 예수님은 왜 바리새인과 사두개인의 교훈을 함께 다루셨을까요? 그들의 교훈을 주의하라는 것은 도대체 무슨 의미일까요?

(1) 표적을 요구하는 사람들

1절에서 표적을 원하는 바리새인과 사두개인들이 나오는데, 이 표적을 원하는 소원은 인간 누구나 가지고 있다고 생각합니다. 저는 젊었을 때 ‘아~신약시대가 아니라 구약시대에 태어나 직접 하나님의 말씀을 듣고 싶었는데..’라고 생각한 적이 있었습니다. 만약 자신이 구약 선지자들이 들은 것처럼 말씀을 직접 들을 수 있었다면 분명히 하나님의 마음을 깨닫고 분명히 잘 해서 이스라엘이 불신앙의 죄를 지은 것처럼 되지는 않았을 것이라고 생각했습니다. 하지만 요즘 생각하는 것은 바리새인이나 사두개인이라는 것은 인간의 모습을 그대로 비추고 있는 것이 아닌가, 우리의 죄의 현실을 그대로 비추고 있는 것이 아닌가 생각하게 되었습니다.

종교지도자였던 바리새인과 사두개인은 그 교훈이나 입지에 있어서는 정반대였지만 산헤드린 의회를 구성하는 양대 세력이었습니다. 바리새인이란 구약성경을 열심히 연구합니다. 서기관은 대개 바리새인이었습니다. 그들은 부활과 영의 존재를 믿었고 그 율법에 대한 엄격함과 열성 때문에 민중으로부터 강한 지지를 받았습니다. 서민파라는 거죠. 한편 사두개인은 영혼 같은 것은 존재하지 않는다. 죽은 사람의 부활을 없다고 단언합니다. 그들은 상류층에 속하는 집단으로 정치권력에 집착한 나머지 로마와 타협하게 되었습니다. 이처럼 교훈도, 서 있는 위치도 다른 바리새인과 사두개인이었지만 예수님을 시험하려고 합세해서 온 것입니다. 그들에게 예수님은 3절 말미에 「시대의 표적은 분별할 수 없느냐」고 말씀하셨습니다. 이 「시대」라는 말은 그 다음 4절에 나오는 「세대」와는 다른 단어가 쓰이고 있고, 「카이로스: 時」라는 말이 쓰이고 있습니다. 카이로스라는 말은 때는 때이나 「기회, 종말론적인 때, 정해진 때」와 같은 뜻입니다. 지금 바로 하나님의 나라가 도래하고 있다. 그 정해져 있는 때의 표적을 종말적일 때의 표적을 볼 수 없느냐는 뜻입니다. 이어서 4절을 만나보시죠.

악하고 음란한 세대가 표적을 구하나 요나의 표적 밖에는 보여 줄 표적이 없느니라 하시고 그들을 떠나 가시니라

예수님이 메시아임을 표적하는 것은 이미 충분히 주어져있었습니다. 세례자 요한의 증언, 하나님 나라의 권위 있는 가르침, 심지어 눈먼 사람이 보이고 다리가 불편한 사람은 걷고, 중한 피부병을 앓고 있는 사람은 정결해지고 귀가 안 들리는 사람은 듣게 되고 죽은 사람이 살아나고 가난한 자에게 복음이 알려지고 있었습니다. 하나님의 나라가 지금 바로 오고 있다는 것이 밝혀졌습니다. 「요나의 표적」이 뭐냐 하면 예전에도 예수님이 바리새인들에게 요나의 표적을 언급하셨으니까 그 대목을 살펴보도록 하겠습니다. 12장 38~40절을 읽어보시겠습니다.

38 그 때에 서기관과 바리새인 중 몇 사람이 말하되 선생님이여 우리에게 표적 보여주시기를 원하나이다

39 예수께서 대답하여 이르시되 악하고 음란한 세대가 표적을 구하나 선지자 요나의 표적 밖에는 보일 표적이 없느니라

40 요나가 밤낮 사흘 동안 큰 물고기 뱃속에 있었던 것 같이 인자도 밤낮 사흘 동안 땅 속에 있으리라

이 곳에서도 바리새인들은 여전히 표적을 요구하고 있지만, 요나의 표적이라는 것은 「밤낮 사흘 동안 큰 물고기 뱃속에 있었던 것」이라고 말씀하십니다. 구약성경에 요나서가 있는데, 요나에게 하나님께서 다음과 같이 명령하셨습니다. 「너는 일어나 저 큰 성읍 니느웨로 가서 그것을 향하여 외치라 그 악독이 내 앞에 상달되었음이니라」라고 말씀하셨습니다. 니느웨는 지금의 이라크 북부에 위치해 있었습니다. 그런데 요나는 하나님의 명령에 따르지 않고 배를 타고 니느웨와는 반대 방향인 다시스로 향했습니다. 그런데 말입니다. 배 안에서 폭풍을 만나 결국 요나는 바다에 던져서 큰 물고기에게 삼켜지고 맙니다. 그리고 밤낮 사흘 동안 큰 물고기 뱃속에 있게 되는데 거기서 하나님께 기도하고 육지에 토해져 목숨을 건지게 됩니다. 요나는 이번에야말고 니느웨 성읍에 가서 하나님의 심판을 외쳤습니다. 「사십 일이 지나면 니느웨가 무너지리라(요나 3장 4절)」이것뿐입니다. 그런데 어떻게 됐습니까? 이방인 니느웨 사람들은 신기하게도 이 말을 듣고 하나님을 믿었고 신분이 높은 자나 낮은 자를 막론하고 굵은 베 옷을 입었습니다. 니느웨 사람들에게는 「밤낮 사흘 동안 큰 물고기 뱃속에 있었던 요나의 표적」밖에 주어지지 않았는데도 그들은 하나님을 믿었습니다. 예수님 시대에도 요나의 표적과 같은 표적이 주어집니다. 그것은 앞으로 예수님 자신께 일어날 십자가와 부활의 사건입니다. 그 이상의 표적은 주어지지 않을 것입니다. 니느웨 사람들은 「요나의 표적」을 통해 하나님을 믿었는데 십자가와 부활이라는 결정적인 표적을 앞에 두었을 때 너희들은 과연 어떻게 할 것이냐고 예수님은 묻고 계시는 것입니다.

(2) 상기시키는 믿음

자, 제자들은 건너편 기슭으로 이동했습니다. 5,6절을 보시기 바랍니다.

5 제자들이 건너편으로 갈새 떡 가져가기를 잊었더니

6 예수께서 이르시되 삼가 바리새인과 사두개인들의 누룩을 주의하라 하시니

지리적 상황을 정리하자면, 먼저 예수님은 15장 39절에 마가단 지경으로 가셨다고 합니다. 이 장소는 명확하게 특징 할 수 없지만 갈릴리 호수 서쪽의 이스라엘 영토인 것으로 보입니다. 왜냐하면 그 후 바로 바리새인과 사두개인이 찾아왔기 때문입니다. 처음에 갈릴리 호수 동쪽에 있다가 서쪽으로 왔지만 그것도 잠깐 사이에 다시 호수 동쪽으로, 즉 이방인의 땅으로 곧 발길을 돌렸다고 생각됩니다. 사실 여기에는 조금 아이러니가 담겨 있는데 이방인의 땅에서 예수님은 인정받고 하나님을 믿는 현상이 일어났습니다. 15장 31절에는 「말 못하는 사람이 말하고 장애인이 온전하게 되고 다리 저는 사람이 걸으며 맹인이 보는 것을 무리가 보고 놀랍게 여겨 이스라엘의 하나님께 영광을 돌리니라」라고 쓰여져 있는데 호수 서쪽 이스라엘 땅에서는 주님을 시험하려 하였습니다. 이 대조가 부각되고 있는 것입니다.

어쨌든 예수님 일행은 건너편 기슭으로 다시 이방인 땅으로 돌아갔고 제자들에게 바리새인과 사두개인들의 누룩을 주의하라고 하셨습니다. 제자들은 무심코 떡 가져가기를 잊은 것이 마음에 걸렸으므로 누룩을 떡의 일로 오해했고 “예수님의 경고는 떡을 잊은 탓이다” “누가 떡 가져오기를 잊었는가?”라고 책임을 서로 떠 넘기고 있었습니다. 그러자 예수님은 「믿음이 작은 자들아 어찌 떡이 없으므로 서로 논의하느냐(8절)」라고 깨닫게 하십니다. 예수님은 떡 다섯 개를 가지시고 오천 명에게 나누어 주셨을 때 남은 떡을 몇 바구니에 모았냐고 그 일을 상기시키십니다. 「열두 바구니」였습니다. 또 일곱 개의 떡을 가지고 사천 명에게 나누어 주셨을 때 남은 떡을 몇 광주리에 모았나 상기시켜 주십니다. 「일곱 광주리」였습니다. 조금 여담이지만 오천 명을 먹이실 때와 사천 명을 먹이실 때의 「바구니, 광주리」는 헬라어로 각각 다른 단어가 사용되고 있습니다. 오천 명을 먹이시고 남은 것을 담은 열 두 바구니는 말 그대로 바구니입니다. 사천 명을 먹이시고 남은 것을 담은 일곱 광주리는 인간도 들어갈 수 있는 큰 것을 말합니다. 어쨌든 남은 떡을 주워 모으자 그것이 열두 바구니 일곱 광주리에 늘어나 더해진 것입니다. 이 「열둘」과 「일곱」이라는 숫자에는 특별한 의미가 담겨 있는 것으로 보입니다. 아시다시피 「열둘」은 이스라엘 「열두 부족」을 나타내고 「일곱」은 완전 수입니다. 그러므로 모든 이스라엘은 하나님의 보호 속에서 완전히 보호되고 완전히 지켜진다는 말입니다. 신약적 표현을 사용한다면 이스라엘은 하나님의 교회입니다. 「너희들은 안심하고 주 예수님을 신뢰하라, 매일의 양식은 주어질 것이다」그 일을 말씀하시는 것처럼 저는 생각되어집니다. 그 때 남은 떡을 바구니에 열심히 모으면서 하나님의 교회인 제자들은 마치 모세 시대에 광야에서 이스라엘 백성들이 매일 하늘에서 내려오는 만나를 주워 담은 것과 같은 은혜의 체험을 했던 것입니다. 이어서 11,12절을 읽어보시기 바랍니다.

11 어찌 내 말한 것이 떡에 관함이 아닌 줄을 깨닫지 못하느냐 오직 바리새인과 사두개인들의 누룩을 주의하라 하시니

12 그제서야 제자들이 떡의 누룩이 아니요 바리새인과 사두개인들의 교훈을 삼가라고 말씀하신 줄을 깨달으니라

그제서야 제자들은 떡에 대해서 말씀하시는 것이 아니라 바리새인과 사두개인의 교훈에 대해 말씀하시고 계신다는 것을 깨달았습니다. 그런데 첫 머리에서 언급했듯이 그 둘의 교훈이 서로 다른데 그들의 교훈을 주의하라는 것은 무슨 뜻인가 하는 것입니다. 문맥상으로 이해한다면 「표적을 구한다」라는 것이겠죠. 더 파고 들어서 말하면 「표적을 구하는」것의 근저에는 진리를 경멸하는 회의주의를 가리키는 것이라고 생각합니다. 하나님의 부재를 처음부터 전제하고 있다는 것입니다. 바리새인과 사두개인들에게 그런 불신하는 태도가 선입견으로 뿌리 내리고 있다고 생각합니다. 그러나 그들은 그런 회의주의, 하나님의 부재를 전제로 하는 불신에 언제부터 빠져버렸을까요? 이스라엘의 종교지도자인 그들은 역사를 통틀어 선조들의 불신앙으로 아시리아 포로, 바빌론 포로로서 그 아픈 체험을 하고 나서 율법을 중심으로 한 생활로 회개했을 것입니다. 회개하고 삶의 중심에 율법을 놓은 그들이었지만 신앙생활을 계속하다 보며 자신들이 은혜로 어둠 속에서 구원 받았음을 까맣게 잊어버렸고 깨달았을 때에는 믿음 자체까지도 위기 상황에 놓여져 버렸다는 생각이 듭니다. 믿음이란 항상 하나님의 은혜를 상기시키는 것이고, 그것은 기도 속에서 하나님과의 살아있는 교제 속에서 은혜가 상기되고 믿음 자체가 날마다 새롭게 되는 것이라고 생각합니다. 이 일은 제자들에게도 그대로 해당될 것입니다. 설마 제자들이 오천 명을 먹이신 일, 사천 명을 먹이신 그 기적을 완전히 잊고 있었다는 것은 아니었습니다. 다만 일상생활 속에서 그 사건의 생생한 기억, 감동이 조금씩 사라지고 조금씩 풍화되어 가면서 제자들의 살아있는 믿음에서 동적인 힘이 상실되고 마침내는 그런 사실이 실제로 일어났다는 것을 의심하는 회의주의에 이르고 마는 것입니다. 제자들도 바리새인과 사두개인과 같은 사물의 사고방식에 빠져 살아있는 믿음이 조금씩 침식당할 가능성이 충분히 있다는 것입니다.

결론

주의해야 할 누룩은 오늘을 사는 우리의 믿음도 침식당할 수 있습니다. 예수님에 의해 구원받은 우리는 가치관이 바뀌었고, 삶의 목적이 바뀌었으며, 삶의 모든 것이 새로워졌습니다. 그러나 신앙생활을 계속하다 보면 구원 받은 당초의 기쁨과 감동은 희미해지고 자신이 예수님에 의해 어둠 속에서 구출된 것을 감사할 수 없으며 깨달았을 때에는 예배 참석조차 여의치 않거나 믿음의 위기에 처할 수 있습니다. 왜 이런 일이 일어나느냐 하면 믿음이라는 것은 우리와 예수님의 관계를 보여주기 때문입니다. 믿음이란 동적이며 항상 예수님의 목소리를 듣는데 믿음의 본질이 있기 때문입니다. 따라서 신앙생활이란 예수님과의 교제에 의해, 예수님과의 대화에 의해 뒷받침되고 유지되는 것입니다. 그러므로 기도 속에서 혹은 예배에서의 하나님과의 교제 속에서 우리는 날마다 은혜가 상기되고 날마다 믿음이 새롭게 갱신되어야 한다는 것입니다. 오늘 예수님은「떡 다섯개로 오천 명을 먹이고 주운 것이 몇 바구니이며 떡 일곱 개로 사천 명을 먹이고 주운 것이 몇 광주리였느냐」고 우리에게도 물으십니다. 우리는 주마다 주일예배에 참석하고 형제자매와 함께 예배를 드릴 때에 여호와 하나님에 의해 은혜가 상기되고 믿음이 새롭게 이루어질 것입니다. 예배로 말미암아 하나님에 대한 찬양이 넘치고 또 하나님의 가족 안에서 함께 기도할 때 믿음의 성장이 이루어져 가는 것입니다. 하나님은 우리에게 그것을 요구하고 계신 것입니다.

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