2022年10月02日「呪いに込められた神の愛 저주에 담긴 하나님의 사랑」

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呪いに込められた神の愛 저주에 담긴 하나님의 사랑

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 28章1節~19節

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聖句のアイコン聖書の言葉

28:1もし、あなたがあなたの神、主の御声によく聞き従い、今日わたしが命じる戒めをことごとく忠実に守るならば、あなたの神、主は、あなたを地上のあらゆる国民にはるかにまさったものとしてくださる。
28:2あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うならば、これらの祝福はすべてあなたに臨み、実現するであろう。
28:3あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。
28:4あなたの身から生まれる子も土地の実りも、家畜の産むもの、すなわち牛の子や羊の子も祝福され、
28:5籠もこね鉢も祝福される。
28:6あなたは入るときも祝福され、出て行くときも祝福される。
28:7主は、あなたに立ち向かう敵を目の前で撃ち破られる。敵は一つの道から攻めて来るが、あなたの前に敗れて七つの道に逃げ去る。
28:8主は、あなたのために、あなたの穀倉に対しても、あなたの手の働きすべてに対しても祝福を定められ、あなたの神、主が与えられる土地であなたを祝福される。
28:9もし、あなたがあなたの神、主の戒めを守り、その道に従って歩むならば、主はお誓いになったとおり、あなたを聖なる民とされる。
28:10地上のすべての民は、あなたに主の御名が付けられるのを見て、あなたに畏れを抱く。
28:11主は、あなたに与えると先祖に誓われた土地で、あなたの身から生まれる子、家畜の産むもの、土地の実りを豊かに増し加え、
28:12恵みの倉である天を開いて、季節ごとにあなたの土地に雨を降らせ、あなたの手の業すべてを祝福される。あなたはそれゆえ、多くの国民に貸すようになるが、あなたが貸してもらうことはないであろう。
28:13わたしが今日、忠実に守るように命じるあなたの神、主の戒めにあなたが聞き従うならば、主はあなたを頭とし、決して尾とはされない。あなたは常に上に立ち、決して下になることはないであろう。
28:14あなたは、今日わたしが命じるすべての言葉から離れて左右にそれ、他の神々に従い仕えてはならない。
28:15しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、今日わたしが命じるすべての戒めと掟を忠実に守らないならば、これらの呪いはことごとくあなたに臨み、実現するであろう。
28:16あなたは町にいても呪われ、野にいても呪われる。
28:17籠もこね鉢も呪われ、
28:18あなたの身から生まれる子も土地の実りも、牛の子も羊の子も呪われる。
28:19あなたは入るときも呪われ、出て行くときも呪われる。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 28章1節~19節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

申命記28章には祝福と呪いが書かれています。一言で要約すると、「イスラエルの民は主の御声に聞き従い、従順にするなら祝福され、反対に御声に不従順にするなら呪われる」ということです。祝福の内容と呪いの内容について、具体的に書かれていますが、その分量に注目すると、本日お読みしなかった20節以降に呪いが拡張されているため、28章全体では呪いの言葉が祝福の言葉の4倍ほどになっています。私たちは呪いの分量の多さに圧倒されるのであります。私も最初、28章を最後まで通読しようとして、途中で息切れしてしまいました。古代の国際的な契約文書を見るなら、一般的に、従順に聞き従わない時の呪いに重点が置かれていますので、この申命記の文体も、そのような古代の様式に影響を受けたものと思われます。しかし、そうだとしても、呪いについてこれほど詳細に書かれているのは、イスラエルの民に対する何らかの神様のメッセージが込められているのではないかと思わされます。ところで、一つ問題提起させていただきますが、果たして聖書は全般的に、神の御言葉に従順に聞き従えば祝福され、不従順ならば呪われるという機械的な法則を教えているのでしょうか。もし、そうであるなら、神の法則というのは、それはまるで、血も涙もない冷酷な絶対法則となってしまいます。もし、そうであるなら、聖書66巻という膨大な御言葉を記録しなくとも、わずかな量で事足りるのではないでしょうか。神様のなされることは、それほど単純なものではないということです。第一に、ここで語られているのは個人的な次元での約束ではなく、共同体的な次元での、国家的な次元での「約束」であるということを踏まえるべきでしょう。国家的な祝福と災いは、必ずしも、個々人の神との関係によって左右されるわけではなく、個々人の従順、不従順とは全く別次元であると言えるのです。例えば、現在ロシアでは国民の徴兵がなされています。予備役の人々まで、つまり60歳以上の定年退職者も徴兵の対象になっているそうですが、ニュースを見ていたら白髪の老人が武器を持たされていました。このような災いが降りかかったのは、その人が何か罪を犯したからとか、或いは、その人の両親が何か罪を犯したからなどと、簡単に片づけられるものではありません。現実として実際起こってくる出来事を、そのような機械的な法則に当てはめて、単純化することは、とてもできないのです。神様は悪人を憐れむこともあれば(創18:26、ハバ1:13)、逆に義人を試みるために災いを下されることもお許しになるからです(ヨブ1章、ヨハ9:3、11:4、2コリ12:7)。

【1】. 祝福と呪い

私たちは聖書の中で、祝福と呪いという言葉が、どのような意味合いで使われているのかを、まず理解しなければなりません。呪いと言えば、ともすると「藁人形」を釘で打ち付けるイメージを思い起こす方もいるかもしれませんが、そのようなイメージは一旦、脇に置いてください。3~19節には、祝福と呪いの具体的内容が記述されています。それらは、ちょうど6つの事柄について対称的な書き方がなされていることに気づかされます。抜粋のプリントに表でまとめたものを参照していただければと思いますが、6つの対称の事柄とは、第一に、神の祝福と呪いは、町において注がれます。第二に、神の祝福と呪いは、野において注がれます。28:3と28:16を見比べてください。

28:3 あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。

28:16 あなたは町にいても呪われ、野にいても呪われる。

続いて、第三の祝福と呪いは、女性の胎と土地の産物と家畜の赤ちゃんへと及びます。28:4と28:18を見比べてください。

28:4 あなたの身から生まれる子も土地の実りも、家畜の産むもの、すなわち牛の子や羊の子も祝福され、

28:18 あなたの身から生まれる子も土地の実りも、牛の子も羊の子も呪われる。

続いて、第四の祝福と呪いは、籠とこね鉢に及びます。28:5と28:17を見比べてください。

28:5 籠もこね鉢も祝福される。

28:17 籠もこね鉢も呪われ、

続いて第五、第六の祝福と呪いは、戦争における軍事作戦に及びます。敵の陣地に攻め入る時も祝福され、出ていく時も祝福されます。28:6-7と28:19、そして19節を超えますが、25節を見比べてみましょう。

28:6-7 あなたは入るときも祝福され、出て行くときも祝福される。主は、あなたに立ち向かう敵を目の前で撃ち破られる。敵は一つの道から攻めて来るが、あなたの前に敗れて七つの道に逃げ去る。

28:19 あなたは入るときも呪われ、出て行くときも呪われる。

28:25 主は敵の前であなたを撃ち破らせられる。あなたは一つの道から敵を攻めるが、その前に敗れて七つの道に逃げ去る。あなたは地上のすべての王国にとって恐るべき見せしめとなる。

以上、見て参りましたように、神の祝福と呪いは対称的な関係になっているということが、見て取れます。そして、神様との関係が正常な場合、祝福の中にあり、神様との関係が正常でない場合、呪いの中にあると言うことが出来るんだと思います。つまり本来あるべき姿ではない、的外れな状態にあることを、「呪われている」と、言い換えられるのです。そして、神こそ祝福の源泉であるという結論に導かれるのです。ですから聖書の言う呪いとは何かと言えば、それは罪によってもたらされた神と断絶された状態、罪によってもたらされた悲惨な状態を指しているということです。この神様から断絶された状態が、いかに恐ろしいことであるのかを警告しているのです。そして、御言葉に聞き従わないことこそ、神様から断絶することなのです。

【2】. この世は、呪いのもとに置かれている

さて、それでは、この呪いの起源は、一体どこにあるのでしょうか。実は、アダムとエバが罪を犯した時にまで遡ります。創世記3:17~18には、アダムの罪の故に土地が呪われてしまったと書かれています。創世記3:17~18をご覧ください。

神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。

呪いとは、罪に起因するものであり、それは、すでにエデンの園において、罪が人類に入ってきた瞬間から、土地は呪われ、罪の結果である悲惨、みじめさを、人類はその身に招くようになったというのです。人間の罪の故に、理性をもっていない被造物までも虚無と腐敗に服するようにされ、今や、被造物はともに嘆きつつ、神の子供たちの現れによって、万物が贖われることを待ち焦がれているのです。例えて言うと、理性を持っていない植物が、理性を持っていない石ころが「あー、みじめだな、早く万物が贖われたらいいな」と待ち焦がれているということです。もし万物が贖われるなら、イザヤ書11章に書かれているように、狼が子羊と共に宿り、豹が子ヤギと共に伏し、乳飲み子がコブラと共に戯れるという信じられない光景が、実際に現れるのかもしれません。古代ギリシアの詩人であるソフォクレスはこんな名言を残しました。“死ぬ他はない人間は、不幸から自由ではなく、誰も自分の運命を抜け出すことができない。人間は影のように儚くて、夢のように空虚で、彼の幸福は幻想に過ぎない。生まれないことが最も良いことだが、しかし、もし、生れて来たならば、できるだけ早く死ぬことだ”。大変悲観的な詩であります。また、古代ギリシアの哲学者ソクラテスは、次のような名言を残し、自ら毒を飲んで死にました。“死がおそらく最も偉大な善であろう”。このような悲観的な意見を聞きますと、「この世界は、何だかんだ言っても、まんざら捨てたものでもない。実際に、イエス・キリストを信じなくたって、祝福を受けて幸せに暮らしている人もいるではないか」と反論する人も、もしかしたらいるかもしれません。確かにその通りだと思います。しかし、もし、そのように感じるのは、怒るのに遅い神様が、当然下されるべき裁きを、思い留めておられるからだと言われたらどうでしょうか。聖書は、この世で悪人が栄えているように見えるのは、彼らが悔い改めるようにと、憐み深く、怒るのに遅い神様が、完全な裁きを下すのを思いとどめておられるからだと主張しているのであります。裁かれて当然の世界ですけど神様が完全な裁きを思い留めておられる、この恵みの時に、まだイエス様を知らない人々は、福音を聞いてイエス様を信じ受け入れるべきなのです。やがては、神の恐ろしい裁きの日が訪れるからです。

【3】. 祝福の完了形

 従いまして、この世は、罪によって汚され、呪いのもとに置かれている、これが人間の出発点であるということが分かりました。この呪いの状態から解放されるために、この悲惨な状態から解放されるために、神様はイスラエルの民に御言葉を与えて下さったというのであります。もし、主の御声によく聞き従うなら、神との関係が回復され、神と一つになって、イスラエルの罪深さには、とても相応しくない、イスラエルの罪深さにとても似つかわしくない「祝福」が恵みとして与えられるのです。28:1~2節をもう一度ご覧ください。

もし、あなたがあなたの神、主の御声によく聞き従い、今日わたしが命じる戒めをことごとく忠実に守るならば、あなたの神、主は、あなたを地上のあらゆる国民にはるかにまさったものとしてくださる。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うならば、これらの祝福はすべてあなたに臨み、実現するであろう。

私は、この御言葉は、新約聖書のエフェソ1:3の御言葉と同じことを言わんとしているのではないかと思いました。エフェソ1:3をご覧ください。

わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。

この御言葉と申命記28章1節、2節との共通点は、祝福が臨むということが完了形、もしくは過去形になっているという点です。申命記の2節の最後の箇所は、これらの祝福はすべてあなたに「臨むだろう」より、「臨む」という動詞が完了形になっています。「もし~ならば」という条件節で始まっているのですが、不思議にも動詞は、完了形で書かれているのです。神様の目にはすでに完了されたものとして映っているということでしょう。同じようにエフェソ書を見ると、最後の所は「祝福で満たしてくださいました」と過去形になっています。私たちが、いざ信仰を告白して、信仰生活に入っても、一向に28章に書かれているような豊かな祝福を体験することは出来ないではないか!と思われるかもしれませんが、実は神様の目には、もうすでに、「天のあらゆる霊的な祝福で満たされた」と、映っているということです。このことは、私たちの信仰生活において、信仰の完成には時間が伴う、信仰の完成にはプロセスが伴うということを意味しているのだと思います。その間、私たちは右に左に揺さぶられることがあるでしょう。しかし神様の目には、もうすでに高くあげられた。もうすでに祝福が臨んだ。天のあらゆる霊的な祝福で既に満たされた、と映っているのです。私たちの目にはそれを見ることができませんし、それを実際に感じることも、難しいかもしれませんが、私たちはそのことをひたすら信じて、御言葉にしがみつき、イエス様にしがみついて、歩んでいくのです。

【結論】

 神様はイスラエルがカナンの地に入って罪を犯すことを知りつつも、「祝福が臨んだ」と、すでに完了形で書かれているということは、この祝福が、私たちの力ではなく、イエス・キリストの中で私たちを受け入れてくださったからこそ臨むのだと思います。この完了形は、私たちの行いよらず、イエス・キリストの故に、必ず祝福するという神の強い意志を読み取ることができるのではないでしょうか。したがって、神様がイスラエルの民に、呪いの言葉を四倍も多く語られたということに込められたメッセージとは、神様がいかにご自身の民と交わりを持ちたいのかの現れであったということです。この呪いの分量に、まさに神様の愛が込められているのです。私たち罪びとは、申命記に書かれている呪いの中に置かれて当然の者でありましたが、今や、イエス・キリストの故に、祝福に与る人生へと変えられました。実が結ばれるのを、この目で見るには時間が必要となりますが、神様の御言葉を愛し、神様の御言葉を口ずさみつつ、神様との豊かな交わりの中で、信仰の完成を目指して、歩んでいく私たちとならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

저주에 담긴 하나님의 사랑

2022년 10월 2일 센겐다이교회 주일설교

신명기 28장 1~19절

서론

신명기 28장에는 축복과 저주가 적혀 있습니다. 한마디로 요약을 하면 「이스라엘 백성은 여호와의 말씀을 듣고 순종하면 축복받고 반대로 말씀에 순종하지 않으면 저주 받는다」라는 것입니다. 축복의 내용과 저주의 내용에 관하여 구체적으로 쓰여져 있는데 그 분량에 주목해 보면 오늘 읽지 않은 20절 이후로 저주가 확장 되었기 때문에 28장 전체에서는 저주의 말씀이 축복의 말씀의 4배 정도나 됩니다. 우리는 저주의 분량이 많은 것에 압도당해버립니다. 저도 처음 28장을 끝까지 통독하려고 하다가 도중에 숨이 차 버릴 정도입니다. 고대의 국제적인 계약 문서를 본다면 일반적으로 순종적으로 말을 듣지 않을 때의 저주에 중점을 두고 있기 때문에 이 신명기의 문체도 그런 고대 양식에 영향을 받은 것으로 보입니다. 그러나 그렇다고 해도 저주에 대해 이렇게 상세하게 적혀 있는 것은 이스라엘 백성에 대한 하나님의 어떤 메시지가 담겨 있지 않을까 생각됩니다. 그런데 한 가지 문제제기를 드리자면 과연 성경은 전반적으로 하나님의 말씀을 순종적으로 듣고 따르면 축복받고 순종적이지 않으면 저주를 받는다는 기겨적인 법칙을 가르치고 있는 것일까요? 만약 그렇다면 하나님의 법칙이라는 것은 마치 피도 눈물도 없는 냉혹한 절대 법칙이 되어 버립니다. 만약 그렇다면 성경 66권이라고 하는 방대한 말씀을 기록하지 않더라도 적은 분량으로도 충분하지 않을까요? 하나님이 하시는 일은 그렇게 간단한 것이 아니라는 것입니다. 첫째, 여기서 이야기되고 있는 것은 개인적인 차원에서의 약속이 아니라 공동체적인 차원에서의, 국가적인 차원에서의 「약속」이라는 것을 감안해야 할 것입니다. 국가적 축복과 재앙은 반드시 개개인의 하나님과의 관계에 의해 좌우되는 것은 아니며 개개인의 순종, 불순종과는 전혀 다른 차원이라고 할 수 있습니다. 예를 들면 현재 러시아에서는 국민 징병이 이루어지고 있습니다. 예비역의 사람들까지 즉 60세 이상의 정년퇴직자도 징병 대상이 되고 있다고 하는데, 뉴스를 보니 흰머리의 노인이 무기를 들고 있습니다. 이런 재앙이 닥친 것은 그 사람이 무슨 죄를 지었기 때문이라든가 아니면 그 사람의 부모님이 무슨 죄를 지었기 때문이라고 쉽게 정리되는 것이 아닙니다. 현실에서 실제로 일어나는 일들을 그런 기계적 법칙에 적용해서 단순화하는 것은 도저히 불가능합니다. 하나님은 악인을 불쌍히 여기실 수도 있고(창세기 18장 26절, 하박국 1장 13절) 반대로 의인을 시험하기 위해 재앙을 내리실 수도 있기 때문입니다(욥기 1장, 요한복음 9장 3절, 11장 4절, 고린도후서 12장 7절).

(1) 축복과 저주

우리들은 성경 가운데 축복과 저주라고 하는 단어가 어떤 의미로 쓰이는지 먼저 이해해야 합니다. 저주하면 자칫 「지푸라기 인형」에 못을 박는 이미지를 떠올리시는 분들도 계실지 모르지만 그런 이미지는 일단 제쳐두시기 바랍니다. 3~19절에는 축복과 저주의 구체적 내용이 기술되어 있습니다. 그것들은 정확히 6가지 사항에 대해 대칭적인 글쓰기가 이루어지고 있다는 것을 알게 됩니다. 발췌한 프린트에 표로 정리한 것을 참조해 주시면 감사하겠습니다만 6개의 대칭의 사항은 첫째, 하나님의 축복과 저주는 성읍에 쏟아집니다. 둘째 하나님의 축복과 저주는 들에서 쏟아집니다. 28장 3절과 28장 16절을 비교해 보세요.

3절 성읍에서도 복을 받고 들에서도 복을 받을 것이며

16절 네가 성읍에서도 저주를 받으며 들에서도 저주를 받을 것이며

이어서 세 번째 축복과 저주는 여성의 태와 땅의 산물과 가축의 새끼에도 이릅니다. 28장 4절과 28장 18절을 비교해 보시기 바랍니다.

4 네 몸의 자녀와 네 토지의 소산과 네 짐승의 새끼와 소와 양의 새끼가 복을 받을 것이며

18 네 몸의 소생과 네 토지의 소산과 네 소와 양의 새끼가 저주를 받을 것이며

이어서 네 번째 축복과 저주는 광주리와 떡 반죽 그릇에 이릅니다. 28장 5절과 28장 17절을 비교해 봅시다.

5 네 광주리와 떡 반죽 그릇이 복을 받을 것이며

17절 또 네 광주리와 떡 반죽 그릇이 저주를 받을 것이요

이어서 다섯째, 여섯째 축복과 저주는 전쟁에서의 군사작전에 이릅니다. 적의 진지로 처들어갈 때도 축복받고 나갈 때도 축복받습니다. 28장 6,7절과 28장 19절 그리고 19절 이후지만 25절을 비교해 보겠습니다.

6 네가 들어와도 복을 받고 나가도 복을 받을 것이니라

7 여호와께서 너를 대적하기 위해 일어난 적군들을 네 앞에서 패하게 하시리라 그들이 한 길로 너를 치러 들어왔으나 네 앞에서 일곱 길로 도망하리라

19 네가 들어와도 저주를 받고 나가도 저주를 받으리라

25 여호와께서 네 적군 앞에서 너를 패하게 하시리니 네가 그들을 치러 한 길로 나가서 그들 앞에서 일곱 길로 도망할 것이며 네가 또 땅의 모든 나라 중에 흩어지고

이상 살펴보았듯이 하나님의 축복과 저주는 대칭적인 관계를 맺고 있다는 것을 알 수 있습니다. 그리고 하나님과의 관계가 정상인 경우 축복 속에 있고 하나님과의 관계가 정상이 아닐 경우 저주 속에 있다고 말할 수 있다고 생각합니다. 즉 본래 있어야 할 모습이 아닌 빗나간 상태에 있는 것을 「저주받고 있다」라고 바꿔 말할 수 있는 것입니다. 그리고 하나님이야말로 축복의 근원이라는 결론에 다다르게 되는 것입니다. 그래서 성경이 말하는 저주란 무엇인가 하면 그것은 죄에 의해 초래된 하나님과 단절된 상태, 죄에 의해 초래된 비참한 상태를 가리키고 있다는 것입니다. 이 하나님으로부터 단절된 상태가 얼마나 무서운 일인지 경고하고 있는 것입니다. 그리고 말씀을 듣지 않는 것이야말로 하나님으로부터 단절되는 것입니다.

(2) 저주 아래 놓여 있는 이 세상

자, 그렇다면 이 저주의 기원은 도대체 어디에 있는 것일까요. 사실 아담과 하와가 죄를 지었을 때까지 거슬러 올라갑니다. 창세기 3장 17.18절을 참조하십시오.

17 아담에게 이르시되 네가 네 아내의 말을 듣고 내가 네게 먹지 말라 한 나무의 열매를 먹었은즉 땅은 너로 말미암아 저주를 받고 너는 네 평생에 수고하여야 그 소산을 먹으리라

18 땅이 네게 가시덤불과 엉겅퀴를 낼 것이라 네가 먹을 것은 밭의 채소인즉

저주란 죄에서 비롯된 것이며, 그것은 이미 에덴동산에서 죄가 인류에게 들어온 순간부터 땅은 저주받고 죄의 결과인 비참함을 인류는 그 몸에 불러오게 되었다는 것입니다. 인간의 죄 때문에 이성을 갖지 못한 피조물까지도 허무와 부패에 시달리게 되었고 이제 피조물이 하나님의 아들들이 나타나기를 탄식하면서 만물이 속죄되기를 고대하고 있는 것입니다. 예를 들면 이성을 가지지 않은 식물이 이성을 가지지 않은 돌맹이가 “아~비참하구나 빨리 만물이 속죄되었으면 좋겠다”라고 애타게 기다리고 있다는 것이죠. 만일 만물이 속죄된다면 이사야서 11장에 적혀 있듯이 이리가 어린 양과 함께 살며 표범이 어린 염소와 함께 눕고 젖 먹는 아이가 독사의 구명에서 장난치는 믿을 수 없는 광경이 실제로 나타날지도 모릅니다. 고대 그리스 시인인 소포클레스는 이런 명언을 남겼습니다. “죽을 수밖에 없는 인간은 불행으로부터 자유로울 수 없고, 아무도 자신의 운명을 벗어날 수 없다. 인간은 그림자처럼 덧없고, 꿈처럼 공허하며 그의 행복은 환상일 뿐이다. 태어나지 않는 것이 가장 좋은 일이지만 만약 태어나면 가능한 빨리 죽는 것이다” 매우 비관적인 시입니다. 또한 고대 그리스 철학자 소크라테스는 다음과 같은 명언을 남기고 스스로 독을 마시고 죽었습니다. “죽음이 아마도 가장 위대한 선이리라” 이런 비관적인 의견을 듣고 “이 세상은 이러니 저러니 해도 반드시 나쁜 것만은 아니다. 실제로 예수님을 믿지 않는다해도 축복을 받고 행복하게 살고 있는 사람도 있지 않은가?”라고 반론하는 사람도 혹시 있을지도 모릅니다. 확실히 그렇다고 생각합니다. 그러나 만약, 그렇게 느낀다는 것은 노하시기를 더디하시는 하나님이 당연히 내려야 할 형벌을 마음에 담아두시고 인내하고 계시기 때문이라고 한다면 어떨까요? 성경은 이 세상에서 악인이 번성하는 것처럼 보이는 것은 그들이 회개하기를 바라고 긍휼하심이 많고 더디 노하시는 하나님께서 완전한 심판을 내리시는 것을 인내하고 참으시고 계시기 때문이라고 주장하고 있습니다. 심판을 받아야 마땅하지만 하나님께서 완전한 심판을 참고 계시는 이 은혜의 때에 아직 예수님을 모르는 사람들은 복음을 듣고 예수님을 믿고 영접해야 하는 것입니다. 머지않아 하나님의 무서운 심판의 날이 찾아오기 때문입니다.

(3) 축복의 완료형

따라서 이 세상은 죄로 더럽혀지고 저주 아래 놓여 있고 이것이 인간의 출발점이라는 것을 알게 되었습니다. 이 저주의 상태에서 해방되기 위해서 이 비참한 상태에서 해방 되기 위해서 하나님은 이스라엘의 백성에게 말씀을 주셨다는 것입니다. 만약 주님의 음성을 듣고 순종한다면 하나님과의 관계가 회복되어 하나님과 연합하여 이스라엘의 죄성에는 아주 합당하지 않은 이스라엘의 죄성과는 전혀 어울리지 않는 축복이 은혜로 주어지는 것입니다. 28장 1,2절을 다시 한 번 보시기 바랍니다.

1 네가 네 하나님 여호와의 말씀을 삼가 듣고 내가 오늘 네게 명령하는 그의 모든 명령을 지켜 행하면 네 하나님 여호와께서 너를 세계 모든 민족 위에 뛰어나게 하실 것이라

2 네가 네 하나님 여호와의 말씀을 청종하면 이 모든 복이 네게 임하며 네게 이르리니

저는 이 말씀이 신약성경의 에베소서 1장 3절 말씀과 같은 말을 하려는 것이 아닌가 생각했습니다. 에베소서 1장 3절을 보세요.

찬송하리로다 하나님 곧 우리 주 예수 그리스도의 아버지께서 그리스도 안에서 하늘에 속한 모든 신령한 복을 우리에게 주시되

이 말씀과 신명기 28장 1절, 2절과의 공통점은 축복이 임한다는 것이 완료형 혹은 과거형으로 되어 있다는 점입니다. 신명기 2절의 마지막 부분은 이 축복들은 모두 네게 「임할 것이다」보다 「임하며」라고 하는 동사가 완료형이 되어 있습니다. 「네가... 말씀을 청종하면」라고 하는 조건절로 시작을 했는데 신기하게도 동사는 완료형으로 쓰여져 있어요. 하나님의 눈에는 이미 완료된 것으로 비치고 있다는 것이겠지요. 마찬가지로 에베소서를 보면 마지막 부분은 「신령한 복을 우리에게 주시되」라고 과거형으로 되어 있습니다. 우리가 막상 믿음을 고백하고 신앙생활에 들어가더라도 전혀 28장에 적혀 있는 것과 같은 풍성한 축복을 체험할 수는 없지 않을까?라고 생각하실지 모르지만 사실 하나님의 눈에는 이미 「하늘의 온갖 영적 축복으로 채워졌다」라고 비쳐지고 있다는 것입니다. 이는 우리 신앙생활에서 신앙의 완성에는 시간이 따르고 신앙의 완성에는 과정이 따른다는 것을 의미한다고 생각합니다. 그동안 우리는 오른쪽으로 왼쪽으로 치우칠 수 있습니다. 그러나 하나님의 눈에는 이미 높이 들리워졌다. 벌써 축복이 임했다. 하늘의 온갖 영적 축복이 이미 채워졌다고 비치고 있는 것입니다. 우리 눈에는 그것을 볼 수 없고, 그것을 실제로 느끼기도 어려울 수 있지만, 우리는 그것을 오로지 믿고, 말씀에 매달리고, 예수님께 매달리고, 걸어가는 것입니다.

결론

하나님께서는 이스라엘이 가나안 땅에 들어가 죄를 짓는다는 것을 아시면서도 「축복이 임했다」고 완료형으로 말씀하신 것은 이 축복이 우리의 힘이 아니라 예수 그리스도 안에서 우리를 받아주셨기에 임하는 것이라고 생각합니다. 이 완료형은 우리의 행위에 의한 것이 아니라 예수 그리스도 때문에 반드시 축복하겠다는 하나님의 강한 뜻을 읽을 수 있지 않을까요? 그러므로 하나님께서 이스라엘 백성들에게 저주의 말씀을 네 배나 더 많이 하셨다는 것에 담긴 메시지란 하나님이 얼마나 자신의 백성과 교제하시기를 원하는지의 표현이었다는 것입니다. 이 저주의 분량 안에 그야말로 하나님의 사랑이 담겨져 있는 것입니다. 우리 죄인들은 신명기에 적혀 있는 저주 속에 놓여 당연한 자였지만 이제 예수 그리스도 때문에 축복받는 삶으로 바뀌었습니다. 열매가 맺어지는 것을 이 눈으로 보려면 시간이 필요하지만 여호와의 말씀을 즐거워하여 그의 말씀을 주야로 묵상하며 하나님과의 풍요로운 교제 속에서 신앙의 완성을 목표로 걸어가는 우리가 되도록 합시다.

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