2022年09月25日「契約更新の命令 언약 갱신의 명령」

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契約更新の命令 언약 갱신의 명령

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 27章1節~26節

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聖句のアイコン聖書の言葉

27:1モーセは、イスラエルの長老たちと共に民にこう命じた。今日、わたしが命じるすべての戒めを守りなさい。
27:2ヨルダン川を渡り、あなたの神、主が与えられる土地に入る日には、大きな石を幾つか立て、しっくいを塗り、
27:3あなたが川を渡ったとき、その上にこの律法の言葉をすべて書き記しなさい。こうしてあなたは、あなたの先祖の神、主が約束されたとおり、あなたの神、主が与えられる乳と蜜の流れる土地に入ることができる。
27:4あなたたちがヨルダン川を渡ったならば、わたしが今日命じるこれらの石をエバル山に立て、しっくいを塗り、
27:5またそこに、あなたの神、主のために祭壇を築きなさい。それは石の祭壇で、鉄の道具を当ててはならない。
27:6自然のままの石であなたの神、主の祭壇を築き、その上であなたの神、主に焼き尽くす献げ物をささげなさい。
27:7また、和解の献げ物を屠ってそれにあずかり、あなたの神、主の御前で喜び祝いなさい。
27:8あなたは石の上にこの律法の言葉をすべてはっきりと書き記しなさい。
27:9モーセは、レビ人である祭司と共に全イスラエルに向かって告げた。イスラエルよ、静かにして聞きなさい。あなたは今日、あなたの神、主の民とされた。
27:10あなたの神、主の御声に聞き従い、今日わたしが命じる戒めと掟を行わねばならない。
27:11その日、モーセは民にこう命じた。
27:12あなたたちがヨルダン川を渡ったならば、民を祝福するために、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ヨセフ、ベニヤミンはゲリジム山に立ち、
27:13また呪うために、ルベン、ガド、アシェル、ゼブルン、ダン、ナフタリはエバル山に立ちなさい。
27:14レビ人は、大声でイスラエルの人すべてに向かって宣言しなければならない。
27:15「職人の手の業にすぎぬ彫像や鋳像は主のいとわれるものであり、これを造り、ひそかに安置する者は呪われる。」それに答えて、民は皆、「アーメン」と言わねばならない。
27:16「父母を軽んずる者は、呪われる。」民は皆、「アーメン」と言わねばならない。
27:17「隣人との地境を動かす者は呪われる。」民は皆、「アーメン」と言わねばならない。
27:18「盲人を道に迷わせる者は呪われる。」民は皆、「アーメン」と言わねばならない。
27:19「寄留者、孤児、寡婦の権利をゆがめる者は呪われる。」民は皆、「アーメン」と言わねばならない。
27:20「父の妻と寝る者は呪われる。父の衣の裾をあらわにするからである。」民は皆、「アーメン」と言わねばならない。
27:21「どんな獣とも寝る者は呪われる。」民は皆、「アーメン」と言わねばならない。
27:22「異母姉妹であれ、異父姉妹であれ、自分の姉妹と寝る者は呪われる。」民は皆、「アーメン」と言わねばならない。
27:23「妻の母と寝る者は呪われる。」民は皆、「アーメン」と言わねばならない。
27:24「隣人をひそかに打ち殺す者は呪われる。」民は皆、「アーメン」と言わねばならない。
27:25「賄賂を取って、人を打ち殺して罪のない人の血を流す者は呪われる。」民は皆、「アーメン」と言わねばならない。
27:26「この律法の言葉を守り行わない者は呪われる。」民は皆、「アーメン」と言わねばならない。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 27章1節~26節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 私たちは申命記の御言葉に聞き続けています。モーセの第二の説教と第三の説教の区切りがどこになるのか学者によって諸説ありますが、本日の27章と、次回の28章をもって第二の説教が終わると見ていいかと思います。29章からは、モーセ第三の説教が(つまり最後の説教が)始まります。しかし、第三の説教は大変短い内容となっていますから、申命記もいよいよ終わりが見えてきたということです。これまで旧約聖書の難しい御言葉に忍耐を持って聞き続けてくださったことに感謝いたします。

本日の説教題は「契約更新の命令」ということですが、神様はイスラエルの民と一体どのような契約を結ばれていて、更新をするというのは、一体何のために更新をするのでしょうか。神様は、イスラエルの民と「恵みの契約」を結ばれています。この契約は皆さまもご存じのように、イスラエルの民の行いを条件として、彼らを神の民とするということではありません。民がきちんと律法を守ったために、彼らをご自身の民とするということではないということです。この契約は、人となられた、神の子イエス・キリストの立てられた従順を条件として結ばれています。キリストが律法を完全に守ったために、キリストの功を条件としているため、それは、正確に言えば、御父と御子の間に結ばれた契約であると言えるでしょう(ウェストミンスター大教理問答31)。御父と御子の間に結ばれた契約は、永遠であり、あたかも運転免許証のように、契約の有効期限が定められているということではないのです。それは決して失効されることはありません。それでは、なぜ、説教題に「契約更新」という言葉が出てくるのでしょうか。そもそもなぜ、御父と御子の間に結ばれた契約が、イスラエルの民に適用されるのでしょうか。

その答えを考える前に、私たちは、原罪を持ってこの世に生まれてきます。アダムとエバの犯した罪が、なぜ、私たちにも適用されるのか、と悩んだことはないでしょうか。アダムの中から生まれた者は、つまり全人類は、地に属する者であり、原罪を持って生まれてくるのです。このことは私たちの経験からも理解することができるでしょう。同じ考え方で、神の霊によって新しく生まれた者は、天に属する者であり、キリストに結ばれているため、御父と御子の間に結ばれた恵みの契約が適用されるのです。つまり、信仰によって、キリストの成就された恵みを、私たちは受け取ることが出来るのです。ですから契約の更新というのは、私たちがこれまで信じてきたことを(イエス様の福音ですが)、もう一度再確認するという意味なのです。これまで締結されていた契約内容に変化が生じたり、よりグレードアップした契約になるということではありません。

ただ、旧約時代においては、まだイエス様がお生まれになってはいませんね。どうやってイエス様の福音を再確認するのでしょうか。確かにイエス様はまだお生まれになっていませんが、イエス様を指し示すものは、しっかりと出てくるのであります。本日の申命記27章のケースでは、3節に出て来る「律法の言葉(「ダバル ハ トーラー」)」です。ヘブライ語のダバルとは、ギリシア語ではロゴスとなります。この「律法の言葉」である「ダバル ハ トーラー」を愛することが、新約のイエス様を信じることになるのです。

【1】. イエス・キリストを指し示すもの

 それでは本文を見ていきますが、書式が古代の宗主国と属国の間に結ばれた契約の形を取っているため、戒めや呪いに焦点が当てられています。しかしこのような書き方が、当時、ごく普通の契約文書であったということを理解しながら読み進めていきたいと思います。1~3節をご覧ください。

モーセは、イスラエルの長老たちと共に民にこう命じた。今日、わたしが命じるすべての戒めを守りなさい。ヨルダン川を渡り、あなたの神、主が与えられる土地に入る日には、大きな石を幾つか立て、しっくいを塗り、あなたが川を渡ったとき、その上にこの律法の言葉をすべて書き記しなさい。こうしてあなたは、あなたの先祖の神、主が約束されたとおり、あなたの神、主が与えられる乳と蜜の流れる土地に入ることができる。

まず1節を見ると「全ての戒め」を守りなさいと書かれています。律法は有機体のようなものですから、一つの戒めを違反するなら、すべてを違反したことになってしまいます。ですから、神の民イスラエルに対して、全ての戒めを守るように要求されるのです。しかし、そうは言われても、一体どのようにこれまで語られてきた膨大な戒めを、全て守るのでしょうか。それは、いくつかの大きな石を立て、漆喰を塗り、その上に律法の言葉を書き記し、保存することによって、守りなさいと言っているのですね。小さな石ではダメです。大きな石をいくつか探してこなければなりませんでした。さらに言えば、8節には、よく見えるように「すべてはっきりと書き記しなさい」と書かれています。因みに古代において文字を記す方法はいくつかありました。エジプトにおいてはパピルスと言われる植物でできた紙に文字を書くということがなされ、メソポタミアでは、粘土板に鉄の筆で書いたり、或いは、表面に蜜蝋を塗った木版に、文字を書いたりしました。石に漆喰を塗り文字を刻むことは非常に多くの時間を費やしたと思われます。私たちも神の御言葉を愛し、律法が心に刻まれるように、時間をかけて保存しなければならないということだと思います。それから、そこに、主のための祭壇を築くように命じられました。4~7節をご覧ください。

あなたたちがヨルダン川を渡ったならば、わたしが今日命じるこれらの石をエバル山に立て、しっくいを塗り、またそこに、あなたの神、主のために祭壇を築きなさい。それは石の祭壇で、鉄の道具を当ててはならない。自然のままの石であなたの神、主の祭壇を築き、その上であなたの神、主に焼き尽くす献げ物をささげなさい。また、和解の献げ物を屠ってそれにあずかり、あなたの神、主の御前で喜び祝いなさい。

エバル山とゲリジム山は、カナンの中心にある向かい合った山です。北にあるのがエバル山で、南にあるのがゲリジム山です。約束の地カナンに入ることになれば、この二つの山で契約更新の儀式を執り行うようにと、モーセは命じているのです。エバル山とゲリジム山に、それぞれ六部族ずつ向かい合うように配置し、レビ人が神の戒めを大声で朗読します。その朗読を聞いて、それぞれの山から「アーメン」と呼応させるということです。エバル山は高度923メートル、ゲリジム山は高度855メートルと、それほど大きな山ではありませんが、その、容貌は、まさに祝福と呪いを象徴するかのようになっています。私は直接エルサレム旅行をしたわけではございませんが、現在、南のゲリジム山には草木が茂っていることを確認できますが、北のエバル山は禿山で、草木が全く生えてこないそうです。祭壇はこの、呪いが置かれたエバル山に置かれたということです。なぜゲリジム山ではなく、エバル山に祭壇が置かれたのでしょうか。その理由として、イスラエルの民の現在地を指し示していると考えられます。イスラエルの民は元来、罪人であり、弱さがあり、欠けがあり、呪いの中に置かれていて、死の支配の中にあったということです。滅びて当然の者たちでありました。その状態から救い出してくださり、神様が恵みによって、祝福へと導いてくださることを示している、と理解出来るのです。このことは、現代に生きる私たちにもそのまま当てはまります。私たちは元来、罪びとであり、滅びて当然の者たちでありました。しかし、神様が、恵みによって、私たちを呪いから、死の支配から贖い出してくださったのです。

さて、祭壇が積まれると、そこで何をしなさいと書かれてありますでしょうか。まず「焼き尽くす献げ物」を捧げなさいと書かれています。その次に、「和解の献げ物」を捧げなさいと書かれています。この二つの献げ物が何を意味しているのかということですが、この二つの献げ物は、契約の際に行われる宗教儀式であると考えられます。先に焼き尽くす献げ物が捧げられ、次に和解の献げ物が捧げられたという順番にも注目しなければなりません。第一に、「焼き尽くす献げ物」が何かと言いますと、レビ記によれば、牛、羊、山羊の雄の傷のないものが主へ捧げられたと書かれています。そして祭壇の上で完全に焼き尽くされ煙となり、香ばしい香りとなって天に立ち上りました。神様はその煙を喜ばれるのですが、この香りは、一般的に「主への献身」を意味していると言われています。イスラエルの民が「焼き尽くす献げ物」を捧げるたびに、それは、主なる神への献身を、愛なる御父への完全な献身を意味したということです。しかし、これは実は、究極的には、死に至るまで、完全に従順に歩まれた十字架上のイエス・キリストを指し示しているのです。イエス・キリストがゴルゴタの丘で、ご自身を完全に御父に明け渡された、あの生贄を指し示しているのです。私たち罪びとの献身は、神の御前に出る以前に、傷があり、汚れていると言えるでしょう。しかし傷のないお方が、罪のないお方が、神の子羊として十字架を通し、完全な「献身の供え物」となってくださり、神様の怒りをなだめて下さいました。従って「焼き尽くす献げ物」とはキリストの献身であり、キリストが立ててくださった功を指し示しているのです。

次に、「和解の献げ物」ですが、和解の献げ物の特徴は、何といっても神の前で食べる食卓にあります。この食事の重要性は、神がご自身の民と一緒に集まって、傷のない生贄が捧げられ、それを神が受け取られた犠牲祭事に基づいて、喜びの中でご自身の民と結合することを意味しています。神様はイスラエルに近づかれ、民の中に住まい、ご自身の民を食事に招く主人として振る舞ってくださり、そしてこの食事に参加する者は皆、神との契約に与り、喜びの中で神様と結合されるのです。これは私たちが普段、与っている聖餐式の恵みと同じであると言っていいでしょう。喜びの中で神様と結合し、神と一つになるのです。ですからイスラエルが神様の戒めを全て守ることができるのは、神ご自身がイスラエルと一つになってくださるからなのです。イスラエルが神の民として「聖なる国民」と呼ばれるのは、彼らが神の所有とされ、神と一つにされるからなのです。したがって契約更新の儀式とは、律法の御言葉を中心にして、キリストの立てられた功を指し示す「焼き尽くす献げ物」とキリストとの結合を指し示す「和解の献げ物」であったということが分かります。これは、私たち教会がイエス・キリストを礼拝し、御言葉を中心に生きるときに、その現場において、契約の更新が教会においても、日々なされていると理解することが出来るのではないでしょうか。

【2】. 御言葉の実践

 11~26節までは、イスラエルの6部族がゲリジム山に、残りの6部族がエバル山に振り分けられる様子が書かれており、そして、レビ人によって12の戒めが語られています。12の戒めの内容をよく見ますと、ひそかに行われる罪という点に共通点がございます。人の目を欺くことはできても神様の目をあざむくことはできません。そして、12の戒めは神様との関係から始まり、社会的な関係、そして個人的・性的な関係にまで広くカバーしているということが分かります。つまり、戒めは何も神様に対する宗教的な罪だけに留まらず、世俗的な面にまで、等しく及んでいるということです。ですから、イスラエルの民は安息日だけでなく、日常の生活の中で、戒めを守りながら、聖なる民として歩まなければならないということでしょう。簡単に言えば、日常を通して神を愛し、隣人を愛するということです。

民はその都度「アーメン」と答えなさいとあります。アーメンとは、「主がその通りにしてくださるように」という意味です。つまり、もし戒めを破るなら呪われるようにと、言っています。それでは、実際にイスラエルの民は律法の御言葉をきちんと守り行うことが出来たのでしょうか。その後の歴史を見れば分かる通り、答えはノーでありました。イスラエルは御言葉を守り行うことができず、むしろ呪いをその身に招いてしまいました。しかし、たとえ呪いが実現され、悲惨をその身に招いてしまったとしても、神の契約は決して揺れることはありません。神様は信実なお方であり、いつでも悔い改めるイスラエルに助けの御手を伸ばしてくださるということも私たちは聖書を通して確認することが出来るのです。私たちは罪びとであり、弱さと欠けを持つ者であります。「御言葉を守り行いなさい」「神が聖であるように聖なる者となりなさい」「まったき者になりなさい」このような戒めを聞く時、自分自身を振り返って、御前に畏れる者たちであります。果たして御言葉を全て守り行うことができるだろうか?果たして神が聖であるように聖なる者となれるだろうか?という畏れです。しかし神様が私たちと一緒に歩んでくださり、神様が私たちと結合してくださり、人生の様々な局面を羊飼いとして導いてくださることを信じ、イエス様に従い、イエス様に献身し、御言葉が成就されることを待ち望む者とさせていただきましょう。

【結論】

 私たちの信仰生活は、御言葉を愛することに尽きます。この一言に尽きるのです。「ダバル ハ トーラー」がまさに、イエス様であるからです。契約更新の儀式が強調する点は「焼き尽くす献げ物」を通してイエス様の全き献身を仰ぎ見て、「和解の献げ物」を通してイエス様との結合に与り、御言葉を中心とした歩みを決意することです。そのような意味で教会の聖餐式の恵みは、まさに契約更新であると言えるでしょう。聖餐式のたびに神の御前に屠られたイエス・キリストを黙想し、神との和解がなされ、神の臨在の中で食事をすることによってそのことを喜び楽しむのです。そして私たちの主キリストへの愛と献身が、新たにされるのです。

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언약 갱신의 명령

2022년 9월 25일 센겐다이교회 주일설교

신명기 27장 1~26절

서론

저희는 신명기의 말씀에 계속해서 귀를 기울이고 있습니다. 모세의 두 번째 설교와 세 번째 설교의 구분이 어디가 될 것인지 학자마다 여러 설이 있지만, 오늘의 27장과 다음의 28장으로 두 번째 설교가 끝난다고 보아도 좋을 것 같습니다. 29장 부터는 모세의 세 번째 설교(즉 마지막 설교)가 시작됩니다. 그러나 세 번째 설교는 매우 짧은 내용이기 때문에 신명기도 드디어 끝이 보이는 것입니다. 그동안 구약성경의 어려운 말씀을 인내심을 갖고 계속 들어 주심에 감사드립니다.

오늘의 설교제목은 「언약 갱신의 명령」입니다만 하나님은 이스라엘 백성들과 도대체 어떤 언약을 맺고 있고 갱신을 하신다는 것은 도대체 무엇을 위해 갱신을 하신다는 것입니까? 하나님은 이스라엘 백성과 「은혜의 언약」을 맺고 계십니다. 이 언약은 여러분도 아시다시피 이스라엘 백성의 행위를 조건으로 그들을 하나님의 백성으로 하신다는 것이 아닙니다. 백성들이 제대로 율법을 지켰기 때문에 그들을 자신의 백성으로 삼는 것은 아니라는 것입니다. 이 언약은 사람이 되신 하나님의 아들 예수 그리스도가 율법을 완전히 지켰기 때문에 그리스도의 공로를 조건으로 삼았기 때문에 그것은 정확히 아버지와 아들 사이에 맺어진 언약이라고 할 수 있습니다(웨스터민스터 대교리 문답 31). 아버지와 자녀 사이에 체결된 언약은 영원하며 마치 운전면허증처럼 계약의 유호기간이 정해져 있는 것은 아닙니다. 그것은 결코 파기되지 않습니다. 그러면 왜 설교제목에 「언약 갱신」이라는 말이 나올까요? 애초에 왜 아버지와 자녀 사이에 맺어진 언약이 이스라엘 백성들에게 적용되는 것일까요?

그 답을 생각하기 전에 우리는 원죄를 가지고 이 세상에 태어났습니다. 아담과 하와가 범한 죄가 왜 우리에게도 적용이 되는 것일까 고맨해 보신 적은 없으신가요? 아담 안에서 태어나는, 곧 모든 인류는 땅에 속한 자이며 원죄를 가지고 태어나는 것입니다. 이 일은 우리의 경험으로도 이해할 수 있을 것입니다. 같은 생각으로 하나님의 영에 의해 새로 태어난 자는 하늘에 속한 자이며 그리스도께 연합되어 있기 때문에 아버지와 아들 사이에 맺어진 은혜의 언약이 적용되는 것입니다. 즉 믿음으로 그리스도에 의해 성취된 은혜를 우리는 받을 수 있는 것입니다. 그래서 언약 갱신이라는 것은 우리가 그동안 믿어왔던 것을(예수님의 복음이지만) 다시 한번 재확인 하겠다는 뜻입니다. 기존에 체결되었던 언약 내용에 변화가 생겨서 보다 업그레이드된 언약으로 갱신된다는 것이 아닙니다.

다만 구약시대에 있어서는 아직 예수님이 태어나지는 않았네요. 어떻게 예수님의 복음을 재확인할 수 있을까요? 확실히 예수님은 아직 태어나지 않았지만 예수님을 가리키는 것은 확실히 나옵니다. 오늘의 신명기 27장의 케이스에서는 3절에 나오는 「울법의 모든 말씀(다바르 하 토라)」입니다. 히브리어의 다바르는 그리스어로는 로고스 입니다. 이 「율법의 모든 말씀」인 「다바르 하 토라」를 사랑하는 것이 신약의 예수님을 믿는 것입니다.

(1) 예수 그리스도를 가리키는 것

그럼 본문을 살펴보겠지만 서식이 고대 종주국과 속국 사이에 맺어진 계약의 형태를 취하고 있기 때문에 훈계와 저주에 초점이 맞춰져 있습니다. 그러나 이러한 글쓰기가 당시 지극히 평범한 계약 문서였다는 것을 이해하면서 읽어나가도록 하겠습니다. 1~3절을 보시기 바랍니다.

1 모세와 이스라엘 장로들이 백성에게 명령하여 이르되 내가 오늘 너희에게 명령하는 이 명령을 너희는 다 지킬지니라

2 너희가 요단을 건너 네 하나님 여호와께서 네게 주시는 땅에 들어가는 날에 큰 돌들을 세우고 석회를 바르라

3 요단을 건넌 후에 이 율법의 모든 말씀을 그 위에 기록하라 그리하면 네 하나님 여호와께서 네게 주시는 땅 곧 젖과 꿀이 흐르는 땅에 네가 들어가기를 네 조상들의 하나님 여호와께서 네게 말씀하신 대로 하리라

먼저 1절을 보면「이 명령을」너희는 다 지킬지니라고 쓰여져 있습니다. 율법은 유기체와 같기 때문에 한 가지 율법을 위반한다면 모든 것을 위반한 것이 되어 버립니다. 그렇기 때문에 하나님의 백성 이스라엘에 대해서 모든 명령을 지키라고 요구하고 있습니다. 그러나 그렇게 말한다하더라도 도대체 어떻게 지금까지 회자되어 온 방대한 계명을 모두 지킬수 있을까요? 그것은 몇개의 큰 돌을 세워 석회를 바르고 그 위에 율법을 기록하여 보존함으로써 지키라는 것이네요. 작은 돌로는 안 됩니다. 큰 돌 몇 개가 필요했습니다. 더 말하자면 8절에는 「분명하고 정확하게 기록할지니」라고 쓰여져 있습니다. 덧붙여서 고대에 문자를 적는 방법은 몇 가지가 있었습니다. 애굽에서는 파피루스라고 불리는 식물로 된 종이에 글자를 썼고 메소포타미아에서는 점토판에 갈대 가지를 뾰족하게 잘라 만든 쇠붓으로 쓰거나 표면에 밀랍을 바른 목판에 글자를 쓰기도 했습니다. 돌에 석회를 바르고 글자를 새기는 것은 매우 많은 시간을 들였다고 생각됩니다. 우리도 하나님의 말씀을 사랑하고 율법이 마음에 새겨지도록 시간을 들여 보존해야 한다고 생각합니다. 그리고 거기에 여호와를 위한 제단을 쌓으라는 명령을 받습니다. 4~7절을 보세요.

4 너희가 요단을 건너거든 내가 오늘 너희에게 명령하는 이 돌들을 에발 산에 세우고 그 위에 석회를 바를 것이며

5 또 거기서 네 하나님 여호와를 위하여 제단 곧 돌단을 쌓되 그것에 쇠 연장을 대지 말지니라

6 너는 다듬지 않은 돌로 네 하나님 여호와의 제단을 쌓고 그 위에 네 하나님 여호와께 번제를 드릴 것이며

7 또 화목제를 드리고 거기에서 먹으며 네 하나님 여호와 앞에서 즐거워하라

에발 산과 그리심 산은 가나안의 중심에 있는 서로 마주한 산입니다. 북쪽에 있는 것이 에발 산이고 남쪽에 있는 것이 그리심 산입니다. 약속의 땅 가나안에 들어가게 되면 이 두 산에서 언약 갱신의식을 거행하라고 모세는 명하고 있는 것입니다. 에발 산과 그리심 산에 각각 여섯 부족씩 마주보도록 배치하고 레위인들이 하나님의 계명을 큰 소리로 낭독합니다. 그 낭독을 듣고 각 산에서 「아멘」이라고 호응을 시킨다는 것입니다. 에발 산은 고도 923미터, 그리심 산은 고도 855미터로 그리 큰 산은 아니지만 그 외형은 그야말로 축복과 저주를 상징하는 것처럼 되어 있습니다. 제가 직접 예루살렘을 여행 한 것은 아니지만 현재 남쪽에 있는 그리심 산에는 초목이 우거져 있는 것을 확인할 수 있는데 북쪽의 에발 산은 민둥산이고 초목이 전혀 자라지 않는다고 합니다. 제단은 이 저주받은 외형의 에발 산에 놓였다고 합니다. 왜 그리심 산이 아니라 에발 산에 제단이 놓였을까요? 그 이유로 이스라엘 백성들의 현재 위치를 가리키고 있다고 생각됩니다. 이스라엘 백성들은 원래 죄인이고 연약함이 있고 흠이 있으며 저주 가운데 놓여져 있고 죽음의 지배 속에 있었다는 것입니다. 망해야 마땅한 자들이었습니다. 그 상태에서 구해주시고 하나님께서 은혜로 축복으로 인도해주신다는 것을 보여주신다고 이해할 수 있습니다. 이 일은 오늘을 사는 우리에게도 그대로 적용됩니다. 우리는 원래 죄인이었고 망해야 마땅한 자들이었습니다. 그러나 하나님께서 은혜로 우리를 저주에서 죽음의 지배에서 속량해 주신 것입니다.

자, 제단이 쌓이면 거기서 무엇을 하라고 쓰여 있을까요? 먼저 「번제」를 드리리고 적혀 있습니다. 그 다음에 「화목제」를 드리라고 쓰여 있습니다. 이 두 제사가 무엇을 의미하느냐는 것인데 이 두 제사는 언약할 때 행해지는 종교 의식이라고 생각됩니다. 먼저 불태우는 번제가 바쳐지고 그 다음에 화목제가 드려졌다는 순서도 주목해야 합니다. 첫째, 「번제」가 뭐냐하면 레위기에 의하면 소, 양, 염소의 수컷의 흠이 없는 것이 주로 바쳐졌다고 합니다. 그리고 제단 위에서 완전히 타 연기가 되고 향긋한 향기가 되어 하늘로 피어 올랐습니다. 하나님은 그 연기를 기뻐하시는데 이 향기는 일반적으로 「하나님께 드리는 헌신」을 의미한다고 합니다.

이스라엘 백성들이 「번제」를 드릴 때마다 그것은 주님께 드리는 헌신을, 사랑하는 아버지에 대한 완전한 헌신을 의미했다는 것입니다. 그러나 이것은 사실 궁극적으로 죽음에 이르기까지 완전히 순종적으로 걸어가신 십자가 위의 예수 그리스도를 가리키는 것입니다. 예수 그리스도께서 골고다 언덕에서 자신을 제물로서 완전히 아버지께 내어드린 그 일을 가리키고 있는 것입니다. 우리 죄인들의 헌신은, 하나님 앞에 나가기 전에 흠이 있고 더럽혀져 있다고 말할 수 있겠지요. 그러나 흠이 없는 분이, 죄가 없으신 분이, 하나님의 어린 양으로 십자가를 통해 완전한 「헌신의 제물」이 되어 주셔서 하나님의 분노를 달래주셨습니다. 따라서 「번제」란 그리스도의 헌신이시며 그리스도가 세워주신 공로를 가리키는 것입니다.

다음은 「화목제」인데 화목제의 특징이 무엇인가 하면 뭐니뭐니 해도 하나님 앞에서의 식사에 있습니다. 이 식사의 중요성은 하나님이 자신의 백성과 함께 모여 흠이 없는 제물이 바쳐지고 그것을 하나님이 받으신 희생제사를 바탕으로 기쁨 속에서 자신의 백성과 연합하는 것을 의미합니다. 하나님은 이스라엘에 가까이 다가 가셔서 백성 속에 살고, 자신의 백성을 식사에 초대하는 주인으로 행세해 주시고, 이 식사에 참여하는 자는 모두 하나님과의 언약에 참여하여 기쁨 속에 하나님과 연합하는 것입니다. 이것은 우리가 평소에 받고 있는 성찬식의 은혜와 같다고 해도 좋을 것입니다. 기쁨 속에서 하나님과 연합하여 하나님과 하나가 되는 것입니다. 그렇기 때문에 이스라엘이 하나님의 계명을 모두 지키는 것이 가능한 것은 하나님 자신이 이스라엘과 하나가 되어 주시기 때문입니다. 이스라엘이 하나님의 백성으로서 「거룩한 백성」이라고 불리는 것은 그들이 하나님의 소유로 여겨지고 하나님과 하나가 되기 때문입니다. 따라서 언약 갱신 의식이란 율법의 말씀을 중심으로 그리스도가 세우신 공로를 가리키는 「번제」와 그리스도와의 연합을 가리키는 「화목제」였음을 알 수 있습니다. 이것은 우리 교회가 예수 그리스도를 예배하고 말씀을 중심으로 살 때 그 삶의 현장에서 언약 갱신이 교회에서도 매일 이루어지고 있다고 이해할 수 있지 않을까요?

(2) 말씀의 실천

11~26절까지는 이스라엘의 여섯 부족이 그리심 산으로, 나머지 여섯 부족이 에발 산으로 나뉘는 모습이 적혀 있고 레위인들에 의해 열 두개의 계명이 전해지고 있습니다. 열 두 계명의 내용을 살펴보면 은밀하게 이루어지는 죄라는 점에 공통점이 있습니다. 남의 눈을 속일 수는 있어도 하나님의 눈을 속일 수는 없습니다. 그리고 열 두 계명은 하나님과의 관계에서 시작하여 사회적인 관계, 그리고 개인적, 성적인 관계까지 폭넓게 다루고 있음을 알 수 있습니다. 즉 계명은 그저 하나님에 대한 종교적인 죄에만 그치는 것이 아니라 세속적인 면에까지 고루 미치고 있다는 것입니다. 그러므로 이스라엘 백성들은 안식일 뿐만 아니라 일상생활 속에서 계명을 지키며 거룩한 백성으로 살아야 한다는 것이겠지요. 쉽게 말해 일상을 통해 하나님을 사랑하고 이웃을 사랑한다는 것입니다.

백성들은 그때마다 「아멘」이라고 대답하라고 합니다. 아멘은 「하나님께서 그대로 해주시기를」이라는 뜻입니다. 즉 만약 계명을 어길거면 저주를 받으라고 말하고 있습니다. 그렇다면 실제로 이스라엘 백성들은 율법의 말씀을 제대로 지켜나갈 수 있었을까요? 그 뒤의 역사를 보면 알 수 있듯이 답은 NO였습니다. 이스라엘은 말씀을 지킬 수가 없었고 오히려 저주를 그 몸에 불러들이고 말았습니다. 그러나 비록 저주가 실현되고 비참함을 그 몸에 초래해 버렸다 하더라도 하나님의 언약은 결코 흔들리지 않습니다. 하나님은 신실하신 분이며 언제나 회개하는 이스라엘에 도움의 손길을 뻗쳐 주신다는 것도 우리는 성경을 통해 확인할 수 있는 것입니다. 우리는 죄인이며 연약함과 흠을 가진 자들입니다. 「이 명령을 너희는 다 지킬지니라」

「하나님이 거룩하신 것처럼 너희도 거룩하라」「완전한 자가 되어라」이러한 계명을 들을 때 자기자신을 돌아보며 하나님을 경외하는 자들입니다. 과연 모든 말씀을 전부 지켜나갈 수 있을까? 과연 하나님이 거룩하신 것처럼 거룩한 자가 될 수 있는가? 라는 경외감입니다. 그러나 하나님이 우리와 함께 동행하여 주시고 하나님이 우리와 연합해 주시고 인생 가운데 일어나는 여러가지 국면의 일들을 목자로서 인도해 주실 것을 믿고 예수님을 따르고 예수님께 헌신하며, 말씀이 성취되기를 고대하는 자로서 살아갑시다.

결론

우리의 신앙생활은 말씀을 사랑하는 것으로 끝납니다. 이 한마디로 끝나는 것입니다. 「다바르 하 토라」가 바로 예수님이시기 때문입니다. 언약 갱신의 의식이 강조하는 점은 「번제」를 통해 예수님의 모든 헌신을 우러러보고 「화목제」를 통해 예수님과의 연합에 참여하고 말씀을 중심으로 살겠다는 것을 결의하는 것입니다. 그런 의미에서 교회의 성찬식의 은혜는 바로 언약 갱신이라고 할 수 있습니다. 성찬식 때마다 하나님 앞에 바쳐진 예수 그리스도를 묵상하고 하나님과의 화해가 이루어며 하나님의 임재 속에서 식사를 함으로써 그 일을 기뻐하고 즐기는 것입니다. 그리고 우리의 주 그리스도에 대한 사랑과 헌신이 새롭게 되는 것입니다.

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