2022年09月18日「神の民の信仰告白 하나님의 백성의 신앙고백」

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神の民の信仰告白 하나님의 백성의 신앙고백

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 26章1節~19節

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聖句のアイコン聖書の言葉

26:1あなたの神、主が嗣業の土地として得させるために与えられる土地にあなたが入り、そこに住むときには、
26:2あなたの神、主が与えられる土地から取れるあらゆる地の実りの初物を取って籠に入れ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所に行きなさい。
26:3あなたは、そのとき任に就いている祭司のもとに行き、「今日、わたしはあなたの神、主の御前に報告いたします。わたしは、主がわたしたちに与えると先祖たちに誓われた土地に入りました」と言いなさい。
26:4祭司はあなたの手から籠を受け取って、あなたの神、主の祭壇の前に供える。
26:5あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい。「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。
26:6エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。
26:7わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、
26:8力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、
26:9この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。
26:10わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。」あなたはそれから、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前にひれ伏し、
26:11あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を、レビ人およびあなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい。
26:12十分の一の納期である三年目ごとに、収穫物の十分の一を全部納め終わり、レビ人、寄留者、孤児、寡婦に施し、彼らが町の中でそれを食べて満ち足りたとき、
26:13あなたの神、主の前で次のように言いなさい。「わたしは、聖なる献げ物を残らず家から取り出し、すべてあなたが命じられた戒めに従って、レビ人、寄留者、孤児、寡婦に施し、あなたの戒めからはずれたり、それを忘れたりしませんでした。
26:14それを喪中に食べたり、汚れているときに取り出したり、死者に供えたりしたことはありません。わたしの神、主の御声に聞き従い、すべてあなたが命じられたとおりに行いました。
26:15天にあるあなたの聖なる住まいから見下ろして、あなたの民イスラエルを祝福し、あなたが先祖に誓われたとおりに、わたしたちに授けられた地、乳と蜜の流れる土地を祝福してください。」
26:16今日、あなたの神、主はあなたに、これらの掟と法を行うように命じられる。あなたは心を尽くし、魂を尽くして、それを忠実に守りなさい。
26:17今日、あなたは誓約した。「主を自分の神とし、その道に従って歩み、掟と戒めと法を守り、御声に聞き従います」と。
26:18主もまた、今日、あなたに誓約された。「既に約束したとおり、あなたは宝の民となり、すべての戒めを守るであろう。
26:19造ったあらゆる国民にはるかにまさるものとし、あなたに賛美と名声と誉れを与え、既に約束したとおり、あなたをあなたの神、主の聖なる民にする」と。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 26章1節~19節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 本日の箇所は、初物の献げ物と、三年ごとの十分の一の献げ物について書かれています。これらの献げ物は、もともと農耕的な儀式であったため、遊牧民のイスラエルの民にとっては文化的に全く新しいフェーズに入れられることを意味していました。そこでは豊かさと共にカナン人の文化や風習の影響を受けやすいという危険が伴っていました。ところでここに出てまいります初物の献げ物と、三年ごとの十分の一の献げ物の規定は、実は、以前にも出てまいりました。14章と18章においてです。それでは本日の箇所と、以前に読んだ箇所と何が異なるのかというと、中央聖所において献げ物をした後に、神の御前に出て信仰告白が付け加えられているという点です。ちょうど本日の礼拝では、この後、信仰告白式がプログラムされていますね。献げ物をした後に信仰告白が付け加えられていること、これは何を意味しているのでしょうか。色々と解釈はありますが、イスラエルの礼拝において大切なことは、礼拝を捧げている対象をはっきりさせることではないでしょうか。民は誰に礼拝を捧げているのか、果たして神を神として認めているのか、この点をはっきりさせることだと思います。ただ、形式的に初物を持って来て献げているだけでは、それを誰に献げているのか次第に分らなくなってくることもあると思うのです。キリスト教は、礼拝の対象をはっきりさせることに関して、決してあいまいにしたり、妥協したりすることはありません。悪く言えば、他のいかなる神々も認めない、排他的な宗教であります。日本においては「八百万の神」という言葉がありますが、私たちはともすると、その名も知られていない神々を拝み、その名も知られていないそれらの神々を恐れる習性がございますね。人間は本来、唯一なる神様と交わるように創造されました。しかしアダムとエバが堕落し、神様との交わりは断絶されてしまいました。ところが、堕落後も人間には宗教の種のようなものが植えられていますから、真の神様を礼拝する代わりに、自分たちが勝手に作り出した神々を拝むようになってしまったのです。これが、まさに八百万の神々を拝もうとする私たちの姿なんだと思います。しかし、聖書はこの世に、主なる神以外に、他の神は存在せず、私たちの礼拝を受けるお方は、この唯一なる神、主であると主張いたします。26章の信仰の告白は、後に共同体の信条(クレドー)として代々引き継がれることになったのではないかと考えられていますが、カナンの地において、異教の神々を拝む雰囲気がムンムンとしている中で、自分たちが一体、誰に礼拝を捧げているのか、この点をはっきりさせることが神の民のアイデンティティの形成のために重要だったのでしょう。本日は民が神の前に捧げた信仰の告白を中心に聖書の御言葉に耳を傾けていきたいと思います。

【1】. 信実なる神

 カナンの地に入り、農耕生活が始まったなら、そこで取れるあらゆる地の実りの初物を取って籠に入れ、それを持って神の御前に出なければなりませんでした。2節に「あらゆる地の実り」とありますから、それは小麦や、大麦や、ぶどう、いちじく、ざくろ、オリーブ油や蜜などを指していると思われます。そうであるなら、収穫の時期がそれぞれ異なるために、初物の献げ物の時期は、もしかしたら、イスラエルの三つの祝祭の時期と関係があったのかもしれません。つまり除酵祭では大麦の初穂を持って来たり、七週の祭りでは小麦の初穂を持って来たり、そして、仮庵の祭りではぶどう酒の初物、いちじく、ざくろの初物などを持って来るといった感じです。つまり、イスラエルの喜ばしい祝祭に、それぞれの初物の献げ物がなされたと考えられるのです。そして、その時に第一の告白として次のような告白がなされました。3節をご覧ください。

“あなたは、そのとき任に就いている祭司のもとに行き、「今日、わたしはあなたの神、主の御前に報告いたします。わたしは、主がわたしたちに与えると先祖たちに誓われた土地に入りました」と言いなさい。”

ここで第一の告白がなされました。この告白は、イスラエルが神から与えられた土地に住むようになった時、それは神様が先祖たちに誓った約束であったという点を思い起こすということです。神様は信実なお方であられ、ご自身が約束されたことは、必ず成就される神であることを覚えるということです。イスラエルの民に約束の地が与えられることは大変重要なことでした。それは神様がイスラエルに永遠の嗣業を与えて下さることを象徴的に予型しているからです。カナンの地が指し示す実体とは、この約束の地の実体とは、イエス・キリストにある神の国そのものであり、もっと言えば、私たちの永遠の嗣業である天のエルサレムのことです。私たちは既に神の国に入れられていますが、また既に、罪赦され、義とされ、聖とされていますが、神様は究極的には、私たちに神の国の完成を約束してくださっているのです。つまり、罪も涙もない世界、新しい天と新しい地のその栄光と、豊かな祝福を約束してくださっているのです。信実な神様によって、そのような約束が必ず私たちの人生において、成就されるということを信じながら、私たちも神様に向かって「今日、…主がわたしたちに与えると先祖たちに誓われた土地に入りました」という告白を捧げつつ、同時に未だ見ない神の国の完成を待ち望むのです。

【2】. 救い主なる神、

 続いて第二の告白を見てまいりましょう。初物の籠を受け取った祭司は、主の祭壇の前にそれを供えてから、第二の告白がなされました。5~10節途中までご覧ください。

“あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい。「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。」”

この告白は、主なる神様がイスラエルの救い主であることを告白しています。最初のところで、「私の先祖は、滅びゆく一アラム人」とありますが、これはヤコブのことを指していると思われます。ヤコブはラバンの娘ラケルを妻としてもらうために、ラバンおじさんが住んでいたパダン・アラムで20年間、過ごしました。この叔父のラバンは、アラムに住んでいたためにアラム人と呼ばれていた訳です。ヤコブもアラム人であると考えられるのです。因みにイスラエルという名前は「神と人とに戦い、勝った」という意味ですが、この名前はヤコブが自分でそのように呼んでいるだけで、周囲の人々にはアラム人として映っていたのでしょう。このヤコブの家族は70人でエジプトに寄留させていただき、その後エジプトで60万人に数が増大しました。ところがエジプト人は寄留者であるイスラエルを奴隷として苦役に服させ、イスラエルの民はその苦役の中で「助けてください」と主に叫び求めました。イスラエルの心の叫びを主は天から聞かれ、主は力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもって、イスラエルをエジプトの支配から解放させてくださったのでした。このように、神様は私たちの叫びに耳を傾けられます。そして私たちをみじめな状態から贖い出され、神の民としての新しい歩みを与えて下さいます。ですから救い主なる神様を信仰によって告白するときに、まず私たちがどのような状態から、神様に呼び出されたのかを思い起こさなければなりません。神様は、私たちの魂の叫びを聞いてくださり、その叫びに応えてくださり、今、現在の私たちがあるのです。私たちのこの叫びは神様によって聞かれ、神様はしるしと奇跡をもって私たちを導き続けられることでしょう。

【3】. 愛なる神

 続いて第三の告白です。三年目のごとの十分の一の献げ物をした後に、第三の告白がなされました。第三の告白がなされました。13~15節をご覧ください。

“あなたの神、主の前で次のように言いなさい。「わたしは、聖なる献げ物を残らず家から取り出し、すべてあなたが命じられた戒めに従って、レビ人、寄留者、孤児、寡婦に施し、あなたの戒めからはずれたり、それを忘れたりしませんでした。それを喪中に食べたり、汚れているときに取り出したり、死者に供えたりしたことはありません。わたしの神、主の御声に聞き従い、すべてあなたが命じられたとおりに行いました。天にあるあなたの聖なる住まいから見下ろして、あなたの民イスラエルを祝福し、あなたが先祖に誓われたとおりに、わたしたちに授けられた地、乳と蜜の流れる土地を祝福してください。」”

ここには、神を愛し、隣人に施しをすることによって皆が共に喜び楽しむことができたことへの、感謝の思いがにじみ出ています。皆さんも教会で献金を捧げていますね。献金を捧げることが出来た時に、私たちはどれほど多くの喜びと感謝の気持ちが沸き起こることでしょうか。本当はもっと多くの献金を捧げたかったけど、それでも、このように自分に出来る精一杯の献金を捧げることが出来た時に、私たちは神様に心から感謝することが出来るのです。収入の少ない人は少ないなりに献金を捧げることが大変かと思います。また、収入の多い人は収入の多い人なりに献金を捧げることが大変でありましょう。しかし、愛なる神様は、私たちが捧げた献金を通して、一般収入のないレビ人のような奉仕者(つまり牧師のような人ですね)、寄留者(外国人)、そして社会的弱者を助け、信仰の共同体全体が豊かになるように顧みてくださるのです。

次に、献げ物が、死者崇拝のために用いられることはなかったと告白しています。つまり異教の習慣に従わなかったと告白しています。死者崇拝とは、どこにでもある古くからの礼拝様式です。どこの国にも先祖礼拝をするための祭壇や祠のようなものがあり、それを通して、死者がきちんと昇華したり、成仏するように願うのです。或いは死者が自分たちを守ってくれるようにと願を懸けるのです。このような異教の風習は、私たちが常に唯一の神である主に思いを向けなければ、その土地の文化やその土地の風習を通して、無意識のうちに私たちの考えや行動に影響を及ぼし、気づいたら偶像礼拝をしてしまうということが起こることを警告しています。主は愛なるお方ですから、もしイスラエルの民が、故意ではなくても異教の神々を拝むなら妬みを起こされるのです。

【結論】

 最後に16~19節までは、民の告白に対し、主の祝福が語られています。ここでは、特に「今日」という言葉が三度も繰り返されていますが、その意味は神の祝福が当時のイスラエルの民だけでなく、すべての世代のイスラエルの民に当てはまる祝福であるということです。したがって、現代に生きる私たちにも当てはまる祝福であります。「今日」、あなた方は三つの告白を通して、神の御前に誓約しました。すると神様もイスラエルに対して、今日、誓約するとおっしゃってくださるのです。その誓約とは、18~19節の御言葉です。ご覧ください。

“主もまた、今日、あなたに誓約された。「既に約束したとおり、あなたは宝の民となり、すべての戒めを守るであろう。造ったあらゆる国民にはるかにまさるものとし、あなたに賛美と名声と誉れを与え、既に約束したとおり、あなたをあなたの神、主の聖なる民にする」と。”

私たちの誓約と神の誓約とは比較することはできません。私たちの誓約とはもろく、心変わりしやすいからです。例えば結婚式においても通常、新郎新婦に愛を誓約していただきますが、離婚が後を絶たないという現実があります。しかし神の誓約は必ず成就されるのです。この後イスラエルの民はカナンの地に入り、自分たちの誓約から離れてしまいます。彼らは、結局、主ヤハウェは荒れ野で自分たちを守ってくださったけれども、カナンの地では豊かな収穫のために、バアルを拝まなければならないと勘違いしてしまいました。そして主なる神もバアルも両方拝むという「混合宗教」に陥ってしまいます。神様は、イスラエルが今後、罪を犯すことを知っていながら、そして、イスラエルに弱さがあるにも拘わらず、イスラエルを、宝の民とし、聖なる民と見做してくださると誓約してくださる愛なるお方なのです。ですから、私たちの人生において、たとえ自分の思い通り事が進まなくても、他の神々や異教の風習に流されるのではなく、すべてを治めておられる主なる神だけに依り頼み、ひたすら、この神様だけに願いを求めていくことが大切だと思うのです。「主は必ずご自身の誓いを成就される信実なる神様です。」「主は私たちの心の叫びに耳を傾けて下さる救いの神様です。」「主は愛なる神様、ねたむ神様です。」この三つの告白を私たちは日々捧げながら、主との結びつきが一層強められ、主との交わりがいよいよ深められる私たちとならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

하나님의 백성의 신앙고백

2022년 9월 18일 센겐다이교회 주일설교

신명기 26장 1~19절

서론

오늘의 구절은 모든 소산의 맏물과 셋째 해에 드리는 십일조에 대해 쓰여져 있습니다. 이러한 헌물들은 원래 농경적인 의식이었기 때문에 유목민인 이스라엘 백성들에게는 문화적으로 완전히 새로운 단계에 들어가는 것을 의미했습니다. 가나안에서는 풍요로움과 함께 가나안인의 문화와 풍습의 영향을 받기 쉽다는 위험이 도사리고 있었습니다. 그런데 여기에 나오는 맏물과 셋째 해에 드리는 십일조의 헌물에 대한 규정은 사실 예전에도 나왔습니다. 14장과 18장에서 살펴 보았지요. 그러면 오늘의 부분과 이전에 읽었던 곳이 무엇이 다르냐면 중앙성소에서 헌물을 드린 후에 하나님 앞에 나와 하는 신앙고백이 덧붙여져 있다는 점입니다. 마침 오늘 드리는 예배가운데 신앙고백식이 프로그램 되어 있습니다. 헌물을 한 후에 신앙고백이 덧붙여져 있는 것, 이것은 무엇을 의미하고 있는 것일까요. 여러가지 해석이 있지만 이스라엘 예배에서 중요한 것은 예배를 드리고 있는 대상을 명확히 하는 것이 아닐까요. 백성들은 누구에게 예배를 드리고 있는지, 과연 하나님을 하나님으로 인정하고 있는지 이 점을 분명히 하는 것이라고 생각합니다. 다만 형식적으로 소산의 맏물을 가져와서 바치는 것만으로는 그것을 누구에게 바치고 있는지 점점 알 수 없게 될 수도 있다고 생각합니다. 기독교는 예배의 대상을 명확히 하는 것에 관해 결코 모호하게 하거나 타협하지 않습니다. 나쁘게 말하면 기독교는 다른 어떤 신들도 인정하지 않는 배타적인 종교입니다. 일본에는 「팔백만의 신」이라는 말이 있습니다만 우리는 걸핏하면 그 이름도 알려지지 않은 신들에게 배례를 하고 그 이름도 알려지지 않은 그 신들을 두려워하는 습성이 있지요. 인간은 본래 유일한 하나님과 교제하도록 창조되었습니다. 그러나 아담과 하와가 타락하면서 하나님과의 교제는 단절되고 말았습니다. 그런데 타락 후에도 인간의 본성에는 종교의 씨앗 같은 것이 심어져 있기 때문에 참된 하나님을 예배하는 대신에 자신들이 마음대로 만들어낸 하나님을 예배하게 되어 버린 것입니다. 이게 바로 팔백만 신들에게 절하려는 우리의 모습인 것 같아요. 그러나 성경은 이 세상에 주 하나님 외에 다른 신은 존재하지 않으며, 우리의 예배를 받는 분은 이 유일한 여호와 하나님이라고 주장합니다. 26장 신앙고백은 나중에 공동체의 신조(크레도;나는 믿습니다라는 라틴어)로 대대로 이어지게 된 것이 아닌가 생각되는데 가나안 땅에서 이교의 신들을 기리는 분위기가 물씬 풍겨나는 가운데 자신들이 도대체 누구에게 예배를 드리고 있는지 이 점을 분명히 하는 것이 하나님의 백성의 정체성 형성을 위해 중요했을 것입니다. 오늘은 백성들이 하나님 앞에 바친 신앙고백을 중심으로 성경 말씀에 귀를 기울이고자 합니다.

(1) 신실하신 하나님

가나안 땅에 들어가 농경생활이 시작됐다면 그곳에서 나는 온갖 땅의 소산의 맏물을 가져다가 광주리에 담아서 하나님께서 그의 이름을 두시려고 택하신 곳으로 그것을 가지고 가서 하나님 앞에 나가야 했습니다. 2절에 「모든 소산」이라고 되어 있기 때문에, 그것은 밀이나 보리나 포도, 무화과 석류, 올리브유나 꿀 등을 가리키는 것으로 생각됩니다. 그렇다면 수확 시기가 각기 다르기 때문에 맏물을 바치는 시기는 어쩌면 이스라엘의 세가지 절기축제시기와 관련이 있었을지도 모릅니다. 즉 무교절에는 보리의 첫 이삭을 가져오거나, 칠칠절에서는 밀의 첫 이삭을 가져오거나, 그리고 초막절에서는 포도주의 첫 번째, 무화과와 석류의 첫 소산 등을 가져오는 식입니다. 즉 이스라엘의 기쁜 절기축제에 각각의 소산의 맏물의 헌정물이 이루어졌다고 생각됩니다. 그리고 그때 첫 번째 고백으로 다음과 같은 고백이 이루어졌습니다. 3절을 보시기 바랍니다.

그 때의 제사장에게 나아가 그에게 이르기를 내가 오늘 당신의 하나님 여호와께 아뢰나이다 내가 여호와께서 우리에게 주시겠다고 우리 조상들에게 맹세하신 땅에 이르렀나이다 할 것이요

여기서 첫 번째 고백이 이루어졌습니다. 이 고백은 이스라엘이 하나님께서 주신 땅에 살게 되었을 때 그것은 하나님이 조상들에게 맹세하신 약속이었다는 점을 상기시킨다는 것입니다. 하나님은 신실한 분이시기 때문에 자신이 약속하신 것은 반드시 성취하시는 하나님임을 기억한다는 것입니다. 이스라엘 백성들에게 약속의 땅이 주어지는 것은 매우 중요한 일이었습니다. 그것은 하나님께서 이스라엘에 영원한 기업을 주실 것을 상징적으로 예형하고 있기 때문입니다. 가나안 땅이 가리키는 실체란, 이 약속의 땅의 실체란 예수 그리스도께 있는 하나님의 나라 그 자체이며, 더 말하면 우리의 영원한 사업인 하늘 예루살렘을 말합니다. 우리는 이미 하나님의 나라에 들어가 있지만, 또 이미 죄 용서받고 의롭고 거룩하게 여겨지지만, 하나님께서는 궁극적으로 우리에게 하나님의 나라의 완성을 약속해 주시는 것입니다. 즉 죄도 눈물도 없는 세상, 새 하늘과 새 땅의 그 영광과 풍요로운 축복을 약속해 주시는 것입니다. 신실하신 하나님에 의해 그러한 약속이 반드시 우리들의 인생에 있어서 성취될 것임을 믿으면서 우리도 하나님을 향해 「오늘.. 여호와께서 우리에게 주시겠다고 우리 조상들에게 맹세하신 땅에 이르렀나이다」라는 고백을 드리면서 동시에 아직 보지 못한 하나님 나라의 완성을 고대하는 것입니다.

(2) 구세주 하나님

이어서 두 번째 고백을 살펴보겠습니다. 첫 광주리를 받은 받은 제사장은 여호와의 제단 앞에 놓은 후 두 번째 고백이 이루어졌습니다. 5~10절 중간까지 봐 주세요.

5 너는 또 네 하나님 여호와 앞에 아뢰기를 내 조상은 방랑하는 아람 사람으로서 애굽에 내려가 거기에서 소수로 거류하였더니 거기에서 크고 강하고 번성한 민족이 되었는데

6 애굽 사람이 우리를 학대하며 우리를 괴롭히며 우리에게 중노동을 시키므로

7 우리가 우리 조상의 하나님 여호와께 부르짖었더니 여호와께서 우리 음성을 들으시고 우리의 고통과 신고와 압제를 보시고

8 여호와께서 강한 손과 편 팔과 큰 위엄과 이적과 기사로 우리를 애굽에서 인도하여 내시고

9 이곳으로 인도하사 이 땅 곧 젖과 꿀이 흐르는 땅을 주셨나이다

10 여호와여 이제 내가 주께서 내게 주신 토지 소산의 맏물을 가져왔나이다..

이 고백은 여호와 하나님이 이스라엘의 구세주임을 고백하고 있습니다. 처음에는 「내 조상은 방랑하는 사람 아람 사람」이라고 되어 있는데 이것은 야곱을 가리키는 것으로 보입니다. 야곱은 라반의 딸 라헬을 아내로 얻기 위해 라반 삼촌이 살던 밧단 아람에서 20년을 보냈습니다. 이 삼촌 라반은 아람에 살았기 때문에 아람인이라고 불렸던 것 입니다. 야곱도 아람인으로 생각됩니다. 덧붙여서 이스라엘이라는 이름은 「하나님과 사람과 겨루어 이겼다」는 뜻인데, 이 이름은 야곱은 스스로 그렇게 부르고 있을 뿐 주위 사람들에게는 아람인으로 비쳐졌을 것입니다. 이 야곱의 가족은 70명으로 애굽에서 객이었고 그 후 애굽에서 60만 명으로 수가 불어났습니다. 그런데 애굽인들은 객인 이스라엘을 노예로 고역에 처하게 했고 이스라엘 백성들은 그 고역 속에서 「도와주세요」라고 여호와께 부르짖었습니다. 이스라엘의 마음의 외침을 주님은 하늘에서부터 들으셨고 주님은 강한 손과 편 팔과 큰 위엄과 이적과 기사로 이스라엘을 애굽의 지배에서 해방시켜 주셨습니다. 이처럼 하나님은 우리의 부르짖음에 귀를 기울이십니다. 그리고 우리를 비참한 상태에서 속량하여 주시고 하나님의 백성으로서의 새로운 삶을 주십니다. 그러므로 구세주 하나님께 신앙을 고백할 때 먼저 우리가 어떤 상태에서 하나님께서 불러 주셨는지를 상기해야 합니다. 하나님은 우리 영혼의 부르짖음을 들어주시고 그 외침에 응답해 주셨기에 지금 현재의 우리가 있는 것입니다. 우리들의 이 부르짖음은 하나님께 들려지고 하나님은 이적과 기사로 우리를 계속해서 인도해 주실 것입니다.

(3) 하나님은 사랑이시라

이어서 세 번째 고백입니다. 셋째 해 곧 십일조의 헌물을 한 후에 세 번째 고백이 이어졌습니다. 13~15절을 읽어주시기 바랍니다.

13 그리 할 때에 네 하나님 여호와 앞에 아뢰기를 내가 성물을 내 집에서 내어 레위인과 객과 고아와 과부에게 주기를 주께서 내게 명령하신 명령대로 하였사오니 내가 주의 명령을 범하지도 아니하였고 잊지도 아니하였나이다

14 내가 애곡하는 날에 이 성물을 먹지 아니하였고 부정한 몸으로 이를 떼어두지 아니하였고 죽은 자를 위하여 이를 쓰지 아니하였고 내 하나님 여호와의 말씀을 청종하여 주께서 내게 명령하신 대로 다 행하였사오니

15 원하건대 주의 거룩한 처소 하늘에서 보시고 주의 백성 이스라엘에게 복을 주시며 우리 조상들에게 맹세하여 우리에게 주신 젖과 꿀이 흐르는 땅에 복을 내리소서 할지니라

여기에는 하나님을 사랑하고 이웃에게 베품으로써 모두가 함께 기뻐하고 즐길 수 있었던 것에 대한 감사의 마음이 배어 있습니다. 여러분도 교회에 헌금을 바치고 있습니다. 헌금을 바칠 수 있었을 때 우리는 얼마나 많은 기쁨과 감사의 마음이 넘치겠습니까? 사실은 더 많은 헌금을 바치고 싶었지만 그래도 이렇게 자신이 할 수 있는 힘껏 헌금을 바칠 수 있을 때 우리는 하나님께 진심으로 감사할 수 있는 것입니다. 수입이 적은 사람은 적은 대로 헌금을 바치기가 힘들지 않을까 생각합니다. 또 수입이 많은 사람은 수입이 많은 사람 나름대로 헌금을 바치기가 힘들것입니다. 그러나 사랑이신 하나님께서는 우리가 바친 헌금을 통해 일반 수입이 없는 레위인 같은 봉사자(즉 목사 같은 사람이군요), 객(외국인), 그리고 사회적 약자를 도와 믿음의 공동체가 풍요로워지도록 보살펴 주시는 것입니다.

다음으로 헌물이 죽은 자 숭배를 위해 사용되는 일은 없었다고 고백하고 있습니다. 즉 이교의 습관을 따르지 않았다고 고백하고 있습니다. 죽은 자 숭배란 어디에나 있는 오래된 예배 방식입니다. 어느 나라에나 조상을 예배하기 위한 제단이나 사당 같은 것이 있는데 이를 통해 죽은 자들이 제대로 승화하거나 성불하기를 바라는 것입니다. 혹은 죽은 사람들이 자신들을 지켜주기를 바라는 것입니다. 이러한 이교의 풍습은 우리가 항상 유일신이신 여호와께 마음을 돌리지 않으면 그 땅의 문화나 그 땅의 풍습을 통해 무의식적으로 우리의 생각이나 행동에 영향을 미치고 깨닫지 못한채 우상숭배를 해 버리고 마는 일이 일어날 것임을 경고하고 있습니다. 주님은 사랑이시지만 만약 이스라엘 백성들이 고의는 아니더라도 이교의 신들을 숭배한다면 질투하실 것입니다.

결론

마지막으로 16~19절까지는 백성들의 고백에 대해 하나님의 축복이 이야기되고 있습니다. 여기서는 특히 「오늘」이라는 말이 세 번이나 반복되고 있는데 그 의미는 하나님의 축복이 당시 이스라엘 백성뿐만 아니라 모든 세대의 이스라엘 백성에게 해당하는 축복이라는 것입니다. 따라서 현대에 사는 우리에게도 해당되는 축복입니다. 「오늘」그들은 세가지의 고백을 통해서 하나님 앞에서 서약했습니다. 그러자 하나님께서도 이스라엘에 대해 「오늘」 서약한다고 말씀해 주시는 것입니다. 그 서약이란 18,19절의 말씀입니다. 함께 보시겠습니다.

18 여호와께서도 네게 말씀하신 대로 오늘 너를 그의 보배로운 백성이 되게 하시고 그의 모든 명령을 지키라 확언하셨느니라

19 그런즉 여호와께서 너를 그 지으신 모든 민족 위에 뛰어나게 하사 찬송과 명예와 영광을 삼으시고 그가 말씀하신대로 너를 네 하나님 여호와의 성민이 되게 하시리라

우리의 서약과 하나님의 서약은 비교할 수 없습니다. 우리의 서약은 무르고 변심하기 쉽기 때문입니다. 예를 들어 결혼식에서도 보통 신랑 신부가 사랑을 서약하지만 현실에서는 이혼이 끊이지 않고 있습니다. 그러나 하나님의 서약은 반드시 성취되는 것입니다. 이 후 이스라엘 백성들은 가나안 땅으로 들어거 자신들이 한 서약에서 떠나버리고 맙니다. 그들은 결국 주 여호와께서 광야에서 자신들을 지켜주셨지만 가나안 땅에서는 풍성한 수확을 위해 바알을 섬겨야 한다고 착각하고 말았습니다. 그리고 여호와 하나님도 바알도 섬기는 「혼합종교」에 빠지고 맙니다. 하나님은 이스라엘이 앞으로 죄를 지을 것을 알면서도 그리고 이스라엘에 약점이 있음에도 불구하고 이스라엘을 보배로운 백성, 거룩한 백성으로 간주해 주시겠다고 서약해 주시는 사랑의 하나님이십니다. 그렇기 때문에 우리 삶에 있어서 비록 자신의 뜻대로 일이 진행되지 않더라도 다른 신들이나 이교 풍습에 휩쓸리지 말고 모든 것을 다스리고 계신 주님에게만 의지하고 오로지 이 하나님에게만 소원을 구하는 것이 중요하다고 생각합니다. 「하나님은 반드시 자신의 맹세를 성취하시는 분입니다」「하나님은 우리들의 마음의 부르짖음에 귀를 기울여 주시는 분이십니다」「하나님은 사랑이시고 질투하시는 하나님 이십니다」이 세 고백을 날마다 드리면서 주님과의 유대가 한층 강해지고 주님과의 교제가 더욱 깊어지는 우리가 되도록 합시다.

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