2022年09月11日「霊の家族 영의 가족」

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霊の家族 영의 가족

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 3章20節~35節

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聖句のアイコン聖書の言葉

3:20イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
3:21身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
3:22エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
3:23そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。
3:24国が内輪で争えば、その国は成り立たない。
3:25家が内輪で争えば、その家は成り立たない。
3:26同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
3:27また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
3:28はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。
3:29しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
3:30イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。
3:31イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
3:32大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、
3:33イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、
3:34周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
3:35神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 3章20節~35節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 私たちのそれぞれの家族構成を振り返ってみますと、最近は少子化の傾向があり、一人っ子もしくは、子どもがいないというケースもしばしば見られるようになりました。私自身の家族構成は、両親は健在で、兄と妹がいます。5人家族で両親も兄弟も姉妹もいるという比較的恵まれた環境で育てられました。しかし、当然ですが全ての家庭において必ずしも、お兄ちゃん、お姉ちゃんがいるわけではございません。一人っ子として育てられたり、あるいは片親によって育てられたり、孤児院で育てられたというケースもあるかと思われます。ところが、神の家族の中には孤児はいません。母親のような人が大勢いて、兄弟姉妹が大勢います。父親はイエス・キリストの父なる神様です。教会は、私たちに与えられた「霊の家族」、或いは「神の家族」なのです。本日はこの霊の家族について、お話しさせていただきます。

【1】. あの男は気が変になっている

 今お読みした聖書箇所のマルコ3章20~35節は、三つの段落から構成されておりまして、三つの段落の外側の段落が、内側の段落を包み込むような、サンドイッチの形になっています。マルコはこのサンドイッチ構造をよく用いますので、覚えておいてください。サンドイッチの内側の部分、つまり具の部分は、22節から30節までになります。ここは所謂「ベルゼベル論争」と言われている箇所です。そしてそれを包み込むように外側の部分には、イエス様の肉親の家族と、霊の家族が描写されています。ベルゼブル論争についてはサラッと流していきます。別の機会がありましたら、詳しく見ていくとして、本日は特に、サンドイッチの外側のパンにあたる部分について御言葉に聞いていきたいと思います。それでは、20~21節をご覧ください。

“イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。”

20節の冒頭に「家」という言葉が出てまいります。この家とは誰の家でしょうか。これは恐らくマルコ1:29、2:1の御言葉から、シモン・ペトロの家だと思われます。イエス様のガリラヤ伝道において拠点となった場所です。この家にイエス様の一行が帰られると、群衆(ギリシア語でオクロースと言います)が、どっと集まって来て、食事をする暇もないほどになったというのです。群衆はなぜ集まってきたのでしょうか?それはイエス様の働きのためでありました。福音を宣教し、病が癒され、悪霊が追い出され、神の国の到来を告げ知らせてくださったその働きの故でありました。そこへ身内の人たちが、彼に関する噂を聞いて取り押さえに来たというのです。この「取り押さえる」というギリシア語は、とても強い言葉で、「ひっ捕らえる」、「逮捕する」という意味なんですね。よほどイエス様についての悪い噂を聞いたのでしょう。21節を見ると「あの男は気が変になっている」つまり「気が狂っている」という言葉があります。この言葉の主語は、噂を流している人々であると読み取ることができます。ところが、新しく出た聖書協会共同訳を見ると、ここの箇所は翻訳が訂正されていて、「気が変になっている」、「気が狂っている」と考えている主体が、人々ではなく、なんと、身内の人となっています。つまり、イエス様の母マリアや、イエス様の兄弟たちがイエス様のことを「気が狂っている」と考えて、ひっ捕らえに来たのです。そうしますと、この時の身内の人たちの心境として、当時の宗教指導者であったファリサイ人や律法学者と衝突することを恐れたのだと考えられます。世間を騒がしている張本人の「うちの子」を、ひとまず、この群衆から隔離するなら、騒ぎは収まるのではないか、と考えたのだと思います。神の国の到来を告げ知らせているイエス様を、まるで問題の張本人のように、容疑者扱いしているのであります。

エルサレムから来た律法学者たちは、イエス様に対しさらにひどい烙印を押しました。因みにマルコによる福音書の中では「エルサレム」とはいう言葉には常に否定的な響きを持って使われています。そこには、十字架刑と死の影が常に漂っています。律法学者たちはイエス様に対し「悪霊の頭、ベルゼブル」に取りつかれて、悪霊を追い出していると言うのです。ベルゼブル、つまりサタンのことです。したがって、片や、イエス様のことを救い主、癒し主として見做し、イエス様のもとに殺到する群衆があり、片や、イエス様のことを狂っている者、悪霊の頭に取りつかれた者と見做している人々がいるのです。この違いは一体何なのでしょうか。

【2】. 主イエスの論証

 イエス様はエルサレムから来た律法学者たちに、たとえによって彼らの見解の矛盾点を指摘しつつ論証されました。「国が内輪で争えば、その国は成り立たない、家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じようにサタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。」これは、尤もなことですね。注目してほしいのはその次の御言葉です。27節でイエス様は大切な真理を語られています。ご覧ください。

“また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。”

イエス様は悪霊を追い出すためには、まず一番強い人を縛り上げなければ、だれもその人の家に押し入り、その家を占領することはできないと言っています。これは何のことでしょうか。つまりイエス様は彼らが言うように、悪霊の頭によって、悪霊追い出しをしているのではなく、まず一番強い者である悪霊の頭、サタンを縛り上げない限りは、汚れた霊たちを追い出したり、その家を占領することなどできない、つまり悪霊に取りつかれた人を罪の力から開放することなどできないと言っているのです。ということは、すでにサタンが縛られ、その活動は制限されているということです。もちろん、サタンの力は完全に消滅したのではありません。現代においても、なお影響力を及ぼしています。キリストが再臨し、最後の審判が訪れ、悪魔が火と硫黄の池に投げ込まれることによって、その終局を迎えるまでは、影響を及ぼし続けるでしょう。しかし、サタンはすでに鎖に縛られているのです。キリストにあってサタンの支配から、罪の支配から解放され、キリストにあって神の国が到来しているのです。

【3】. 霊の家族への招き

 さて、話はイエス様の母と兄弟たちに戻ります。彼らは依然として外に立ちながら、人をやってイエスを呼ばせました。自分たちはイエスの肉親であって、彼を指導したり、或いは自分たちの統制下に置くことができると考えたのでしょうか。たとえ、イエス様が御言葉を教えている最中であっても、それを中断させて、中に割って入ることができるという考えが、透けて見えます。イエス様は、そのような身内の人たちの無理解を利用されました。逆にご自身のメシアとしての本質を知らせるための「招き」の機会へと変えられたのです。32~34節をご覧ください。

“大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。”

まず、「大勢の人がイエスの周りに座っていた」、という言葉に注目してください。新共同訳の「大勢の人」と訳されていますが、この個所はギリシア語では、3:20に出て来た「群衆」と同じ言葉(オクロース)が使用されています。次に群衆が周りに座っていたという、この「座る」という言葉ですが、この言葉は、当時のユダヤの人々にとって、教えを聞く者が教師の周りを囲んで聞く姿を連想させます。ルカによる福音書の、姉マルタと、妹マリアの記事においても、姉のマルタが台所で忙しく立ち働いている中で、妹マリアは静かにイエス様の足元に座っていました。この時、イエス様は、「ただ一つの必要なことを、マリアは選んだ」と言われました。マリアがイエス様の教えに耳を傾けて座っているように、群衆はイエス様を取り囲み座りながら、その教えに耳を傾けているのです。イエス様はここで、内部の人と外部の人とに境界線を引いておられます。境界線の内部にいる人々とは、イエス様を取り囲んで座っている群衆であり、境界線の外部にいる人々とは、外で待っている母マリアと兄弟姉妹とそして、エルサレムから来た律法学者たちです。イエス様は外部の人々に向かって言いました。「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」そして次に内部の人々に向かって言いました。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」

この外部の人に言われた「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」この言葉がまさに招きの言葉であったということです。この言葉は、実際、自分自身に言われたら、かなり当惑する言葉だと思います。しかし、この言葉は、まさにイエス様の肉親に対する、イエス様の招きの言葉なのです。どういうことかと申しますと、これと同じような招き言葉が、特に母マリアに対して何度も何度も聖書に記録されています。それは、「婦人よ」という言葉です。イエス様は「お母さん」と呼ばずに、よそよそしく「婦人よ(ギリシア語でグナイ)」と呼び掛けているのです。イエス様はカナの婚礼において、この呼び掛けをしました。ヨハネによる福音書2:4をご覧ください。

“イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」”

自分の母親に対して「婦人よ」とは、大変よそよそしい言葉です。これだけではありません。イエス様が十字架上に掛かられ、間もなく息を引き取る際にも、この呼び掛けをしました。ヨハネによる福音書19:26をご覧ください。

“イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。”

ここで、愛する弟子とは、ヨハネのことです。イエス様は十字架で死なれる際に、母マリアを誰に委ねたと書かれているでしょうか。肉親の家族であり、イエス様の弟たちであるヤコブやユダにマリアを委ねたのではなく、霊の家族であるヨハネに委ねているのです。なぜでしょうか。この一連の言葉が意味しているのは、イエス様は母マリアに対して、或いは弟、妹たちに対して、霊の家族に加えられるように、そして、ご自身のことを「主、メシア」であると告白するようにと、忍耐強く招かれていると考えられるのです。私たちは肉親の家族への伝道というのが、いかに難しいことかがこの個所から伺えるのではないでしょうか。しかし、安心してください。使徒1:14には、弟子たちと一緒に母マリアと兄弟たちが心を合わせて熱心に祈っていたと書かれています。イエス様の家族は、後にイエス様を、神の御子、救い主と信じ、教会の交わりの中に生きる者とされたのであります。

肉親の家族に対し、「霊の家族への招き」を見てまいりました。このことから、イエス様が「神の国」と言われる時に、それは、政治的統治として理解していたのではないということが分かります。「神の国」と言われる時、それは、「霊の家族として、信仰の共同体」として理解されていたということです。イエス様にとって神とは、王なるお方であると同時に、父なるお方であったということです。神とは父であられる。神の国とは霊の家族である。そしてイエス様の使命である神の国を建て上げることとは、まさにこの、霊の家族に人々を招き入れることだったのです。そこに全ての情熱を注がれました。教会こそ、霊的な神の家族であり、神の家族であり、神の国なのです。私たちもイエス様の忍耐と情熱をもって人々に神の家族への招きを続けてまいりましょう。

【結論】

 最後に35節では、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と付け加えられています。当時の人々にとっては「神の御心を行う人」とは「神の律法を守り行う人」のことだと思ったことでしょう。しかし、そのような意味ではありません。なぜならそのような高い基準をクリアすることができる人は、正直、誰一人いないからです。そのことはファリサイ人や律法学者たちでさえ、本音のところ、分かっていたと思います。律法とは有機体のようであり、一つ破ると全て破ったことと同じであるからです。律法を完全に守り行われた方はこの世に一人、イエス・キリストしかおられません。このイエス様の御言葉に信頼し、イエス様を取り囲んで、その教えに耳を傾けること、そのことこそ、「神の御心を行う人」であると私は信じています。今、私たちは神の御言葉に耳を傾けています。まさにこのことであります。私たちは、外に立っている者ではなく、イエス様を取り囲んで主の教えに耳を傾けている者なのです。私たちは、イエス様を信じ、イエス様の十字架による贖いの死によって罪赦され、イエス様が立ててくださった功によって義とされ、このイエス様に従っていき、日々その御言葉によって養われることにより、神の家族とされているのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

영의 가족

2022년 9월 11일 센겐다이교회 주일설교

마가복음 3장 20~35절

서론

우리의 각 가정의 가족 구성을 돌아보면, 최근에는 저출산 경향이 있어 한 자녀 혹은 자녀가 없는 경우도 종종 볼 수 있게 되었습니다. 저의 가족 구성은 부모님은 건재하시고 형과 여동생이 있습니다. 5인 가족으로 부모도 형제도 있는 비교적 축복받은 환경에서 자랐습니다. 하지만 당연하게 모든 가정에 꼭 형이나 누나가 있는 것은 아닙니다. 외동으로 자라거나 한 부모에 의해 길러지거나 고아원에서 자란 경우도 있을 것으로 생각됩니다. 그런데 하나님의 가족 중에는 고아가 없습니다. 어머니 같은 사람이 많이 있고 형제자매가 많이 있습니다. 아버지는 예수 그리스도의 아버지이신 하나님이십니다. 교회는 우리에게 주어진 「영의 가족」 혹은 「하나님의 가족」인 것입니다. 오늘은 이 영의 가족에 대해 살펴보겠습니다.

(1) 그가 미쳤다 함일러라

오늘 읽은 성경 부분의 마가복음 3장 20~35절은 세 단락으로 구성되어 있는데, 세 단락의 바깥 단락이 안쪽 단락을 감싸는 샌드위치 형태로 되어 있습니다. 마가는 이 샌드위치 구조를 자주 사용하기 때문에 기억해 주시기 바랍니다. 샌드위치의 안쪽 부분, 즉 내용물 부분은 22절에서 30절까지입니다. 이곳은 이른바 「바알세불 논쟁」이라고 불리는 곳입니다. 그리고 그것을 감싸듯 바깥 부분에는 예수님의 육친 가족과 영의 가족이 묘사되어 있습니다. 바엘세불 논쟁에 대해서는 오늘은 그냥 넘어가겠습니다. 다른 기회가 있다면 그때 자세히 살펴보도록 하겠습니다. 오늘은 특히 샌드위치 바깥쪽 빵에 해당하는 부분에 대해서 살펴 보고자 합니다. 자 그럼 20,21절을 보시겠습니다.

20 집에 들어가시니 무리가 다시 모이므로 식사할 겨를도 없는지라

21 예수의 친족들이 듣고 그를 붙들러 나오니 이는 그가 미쳤다 함일러라

20절 첫머리에 「집」이라는 단어가 나옵니다. 이 집이 누구 집일까요? 이것은 아마 마가복음 1장 29절, 2장 1절 말씀으로 미루어 시몬 베드로의 집이라고 생각됩니다. 예수님의 갈릴리 전도에 거점이 되었던 곳입니다. 이 집에 예수님 일행이 돌아오자 무리(그리스어로 오크로스라고 합니다)가 우르르 몰려들어 식사할 틈도 없을 정도가 되었다는 것입니다. 무리는 왜 모여 들었을까요? 그것은 예수님의 사역 때문이었습니다. 복음을 전하고 병이 낫고 더러운 귀신이 쫓겨 나가고 하나님 나라의 도래를 선포하고 알려주신 그 사역 때문이었습니다. 그곳에 친족들이 그에 관한 소문을 듣고 붙들러 왔다는 것입니다. 이 「붙들다」라는 그리스어는 굉장히 강한 말로 「체포하다」라는 뜻입니다. 어지간히 예수님에 대한 나쁜 소문을 들었나 봅니다. 21절을 보면 「그가 미쳤다 함일러라」라고 되어 있는데 즉 「미쳤다」라는 말이 있습니다. 이 말의 주어는 소문을 내고 있는 사람들이라고 읽을 수 있습니다. 그런데 새로 나온 성경협회 공동번역(일본성경)을 보면 이 부분은 번역이 정정되어 있고 「미쳤다」라고 생각하는 주체가 사람들이 아니라 무려 친족들입니다. 즉 예수님의 어머니 마리아, 예수님의 형제들이 예수님에 대해서 「미쳤다」라고 생각해서 붙들러 온 것입니다. 그러면 이때 친족들의 심경은 당시 종교지도자였던 바리새인이나 율법학자와 충돌하는 것을 두려워했던 것으로 생각됩니다. 세상을 떠들썩하게 하고 있는 장본인인 「우리 아들」을 일단 이 무리로부터 격리한다면 소동은 가라앉지 않을까 생각했던 것 같습니다. 하나님 나라의 도래를 알리고 있는 예수님을 마치 문제의 장본인처럼 용의자 취급을 하고 있는 것입니다.

예루살렘에서 온 율법학자들은 예수님에 대해 더욱 심한 낙인을 찍었습니다. 덧붙여서 마가복음서 가운데는 「예루살렘」이라고 하는 단어에는 항상 부정적인 울림을 가지고 사용되고 있습니다. 거기에는 십자가형과 죽음의 그림자가 항상 감돌고 있습니다. 율법학자들은 예수님께 「귀신의 왕 바알세불」을 힘입어 귀신을 쫓아낸다고 했습니다. 바알세불, 즉 사탄을 말합니다. 따라서 한쪽은 예수님을 구원자, 치유자로 간주하고 예수님께 몰려드는 무리가 있고 한쪽은 예수님을 미친자, 귀신의 왕의 힘을 입은 자로 간주하는 사람들이 있는 것입니다. 이 차이는 도대체 무엇일까요?

(2) 주 예수님의 논증

예수님은 예루살렘에서 온 율법학자들에게 비유를 들어가시며 그들의 견해의 모순점을 지적하시면서 논증하셨습니다. 「사탄이 어찌 사탄을 쫓아낼 수 있느냐 또 만일 나라가 스스로 분쟁하면 그 나라가 설 수 없고 만일 집이 스스로 분쟁하면 그 집이 설 수 없고」라고 말씀하셨습니다. 이것은 당연한 것입니다. 주목해 주셨으면 하는 것은 그 다음 말씀입니다. 27절에서 예수님은 소중한 진리를 말씀하십니다. 보시기 바랍니다.

사람이 먼저 강한 자를 결박하지 않고는 그 강한 자의 집에 들어가 세간을 강탈하지 못하리니 결박한 후에야 그 집을 강탈하리라

예수님은 사탄을 쫓아내기 위해서는 먼저 가장 강한 사람을 결박해 묶어 놓지 않으면 아무도 그 사람의 집에 침입하여 그 집을 점령할 수 없다고 말씀하십니다. 이게 무슨 일일까요? 즉 예수님은 그들이 말하는 것처럼 귀신의 왕에 힘입어 사탄을 쫓아내는 것이 아니라 먼저 가장 강한 자인 귀신의 머리, 사탄을 결박하지 않는 한 더러운 영혼들을 쫓아내거나 그 집을 점령할 수 없는 즉 더러운 귀신에게 사로잡힌 사람을 죄의 힘으로부터 해방시킬 수가 없다고 말씀하시는 것입니다. 그렇다는 것은 이미 사탄이 결박당하여 그 활동은 제한되어 있다는 것입니다. 물론 사탄의 힘은 완전히 소멸된 것은 아닙니다. 오늘날에 있어서도 더욱 영향력을 미치고 있습니다. 그리스도가 재림하시고 최후의 심판이 찾아오고 사탄이 불과 유황 연못에 던져짐으로써 그 종국을 맞이할 때까지는 영향을 계속 미칠것입니다. 그러나 사탄은 이미 사슬에 결박되어 있습니다. 그리스도 안에서 사탄의 지배와 죄의 지배로부터 해방되고 그리스도 안에서 하나님의 나라가 도래하여 있는 것입니다.

(3) 영의 가족으로의 초대

자, 이야기는 예수님의 어머니와 형제들에게로 돌아갑니다. 그들은 여전히 밖에 서 있으면서 사람을 시켜서 예수님을 부르게 했습니다. 자신들은 예수의 육친이며 그를 지도하거나 혹은 자신들의 통제 하에 둘 수 있다고 생각했을까요? 비록, 예수님계서 말씀을 가르치시는 중이라 할지라도 그것을 중단시키고 그 속으로 비집고 들어갈 수 있다는 생각이 들여다 보입니다. 예수님은 그러한 친족 사람들의 몰이해를 이용하셨습니다. 반대로 자신의 메시아로서의 본질을 알리기 위한 「초대」의 기회로 바꾸신 것입니다. 32~34절을 보시기 바랍니다.

32 무리가 예수를 둘러 앉았다가 여짜오되 보소서 당신의 어머니와 동생들과 누이들이 밖에서 찾나이다

33 대답하시되 누가 내 어머니이여 동생들이냐 하시고

34 둘러 앉은 자들을 보시며 이르시되 내 어머니와 내 동생들을 보라

먼저 「무리가 예수를 둘러 앉아 있다」라고 하는 단어에 주목해 주시기 바랍니다. 이 구절에는 그리스어인 3장 20절에 나온 「무리」와 같은 단어(오크로스) 가 사용되어 있습니다. 다음으로 무리가 둘러 앉아 있다라고 하는 이 「앉는다」라고 하는 단어입니다만, 이 단어는 당시의 유대인들에게 가르침을 듣는 자가 교사 주위를 둘러싸고 듣는 모습을 연상시킵니다. 누가복음의 언니 마르다와 동생 마리아의 기사에도 언니 마르다가 부엌에서 바쁘게 서서 일하고 있는 가운데 동생 마리아는 조용히 예수님의 발밑에 앉아 있었습니다. 이때 예수님은 「단 한 가지 필요한 것을 마리아는 선택했다」고 말씀하셨습니다. 마리아가 예수님의 가르침에 귀를 기울이고 앉아 있듯이 무리는 예수님을 에워싸고 앉아서 그 가르침에 귀를 기울이고 있는 것입니다. 예수님은 여기서 내부 사람과 외부인으로 경계선을 긋고 계십니다. 경계선 내부에 있는 사람들이란 예수님을 둘러싸고 앉아 있는 무리이고, 경계선 외부에 있는 사람들은 밖에서 기다리는 어머니 마리아와 형제자매와 그리고 예루살렘에서 온 율법학자들입니다. 예수님은 외부인들을 향해 말했습니다. 「누가 내 어머니이며 동생들이냐」그리고 나서 내부 사람들을 향해서 말씀하셨습니다. 「내 어머니와 내 동생들을 보라」

이 외부의 사람들을 향해서 말씀하신 「누가 내 어머니이며 동생들이냐」이 단어가 그야말로 초대의 말이었다는 것입니다. 이 말은 실제로 제 자신이 들었다면 상당히 당혹스러운 말이라고 생각합니다. 그러나 이 단어는 바로 예수님의 친족에 대한 예수님의 초대의 말씀입니다. 무슨 말이냐면, 이와 비슷한 초대의 말이 특히 어머니 마리아에 대해 여러 번 성경에 기록되어 있습니다. 바로 「여자여」라는 단어입니다. 예수님은 「어머니」라고 부르지 않고 서먹서먹하게 「여자여(그리스어로 구나이)」 라고 부르시는 것입니다. 예수님은 가나의 혼례에서 이 말을 했습니다. 요한복음 2장 4절을 보시기 바랍니다.

예수께서 이르시되 여자여 나와 무슨 상관이 있나이까 내 때가 아직 이르지 아니하였나이다

자신의 어머니에게 「여자여」는 매우 서먹서먹한 말입니다. 이것뿐만이 아닙니다. 예수님이 십자가 위에 못박혀 곧 숨을 거둘 때도 이 당부를 하셨습니다. 요한복음 19장 26절을 참조하십시오.

예수께서 자기의 어머니와 사랑하시는 제자가 곁에 서 있는 것을 보시고 자기 어머니께 말씀하시되 여자여 보소서 아들이니이다 하시고

여기서 사랑하는 제자란 요한을 말합니다. 예수님은 십자가에서 죽으실 때 어머니 마리아를 누구에게 맡겼다고 적혀 있습니까? 육친의 가족이자 예수님의 동생들인 야고보나 유다에게 마리아를 맡긴 것이 아니라 영의 가족인 요한에게 맡기고 있는 것입니다. 왜일까요? 이 일련의 말씀들이 의미하는 것은 예수님께서 어머니 마리아에 대하여 혹은 동생들이 영의 가족으로 들어오도록 그리고 자신이 「주 메시아」라는 것을 고백하도록 인내심을 가지고 초대하고 계신다고 생각됩니다. 우리들은 육친의 가족 전도라는 것이 얼마나 어려운 일인지 이 구절에서 알 수 있지 않을까요? 하지만 안심하시기 바랍니다. 사도행전 1장 14절에는 제자들과 함께 어머니 마리아와 형제들이 합심하여 열심히 기도했다고 적혀 있습니다. 예수님의 가족은 나중에 예수님을 하나님의 아들, 구원자로 믿으며 교회의 교제 가운데 사는 사람들이 되었습니다.

육친의 가족에 대해 「영의 가족으로의 초대」를 살펴 보았습니다. 이를 통해 예수님이 「하나님의 나라」라고 말씀하실 때, 그것은 정치적 통치로서 이해하고 있다는 것이 아니었다라는 것을 알 수 있습니다. 「하나님의 나라」라고 할 때 그것은 「영의 가족으로서 신앙의 공동체」로 이해되었다는 것입니다. 예수님에게 하나님이란 주님이시며 동시에 아버지 되신 분이었다는 것입니다. 하나님은 아버지이시다. 하나님 나라는 영의 가족이다. 그리고 예수님의 사명인 하나님 나라를 세우는 것은 바로 이 영의 가족으로 사람들을 초대하는 것이었습니다. 거기에 모든 열정을 쏟아 부으셨습니다. 교회야말로 영적인 가족이고 하나님의 가족이며 하나님의 나라입니다. 우리들도 예수님의 인내와 열정을 가지고 사람들에게 하나님의 가족으로의 초대를 계속해서 해 나갑시다.

결론

마지막으로 35절에서는 「누구든지 하나님의 뜻대로 행하는 자가 내 형제요 자매요 어머니이니라」라고 덧붙여져 있습니다. 당시 사람들에게 있어서는 「하나님의 뜻을 행하는 자」란 「하나님의 율법을 지키고 행하는 사람」이라고 생각했을 것입니다. 하지만 그런 의미는 아닙니다. 왜냐하면 그런 높은 기준을 충족시킬 수 있는 사람은 솔직히 아무도 없기 때문입니다. 그 사실은 바리새인이나 율법학자들조차도 속으로는 알고 있었다고 생각합니다. 율법이란 유기체와 같고 하나를 어기면 다 어긴 것과 같기 때문입니다. 율법을 온전히 지키고 행하신 분은 이 세상에 한 분, 예수 그리스도 밖에 안 계십니다. 이 예수님의 말씀을 신뢰하고 예수님을 둘러싸고 그 가르침에 귀를 기울이는 것, 그것이야말로 「하나님의 뜻을 행하는 사람」이라고 저는 믿습니다. 지금 우리는 하나님의 말씀에 귀를 기울이고 있습니다. 바로 이 일입니다. 우리는 밖에 서 있는 자들이 아니라 예수님을 둘러 앉아 주님의 가르침에 귀를 기울이고 있는 자입니다. 우리들은 예수님을 믿고, 예수님의 십자가에 의한 속죄의 죽음으로 죄 용서 받고, 예수님이 세워주신 공적에 의해 의롭게 여김을 받고 이 예수님을 따라가고 날마다 그 말씀으로 양육됨으로써 하나님의 가족으로 여겨지고 있는 것입니다.

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