2022年09月04日「人道主義に関する諸規定 인도주의에 관한 여러 규정」

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人道主義に関する諸規定 인도주의에 관한 여러 규정

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 25章1節~19節

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聖句のアイコン聖書の言葉

25:1二人の間に争いが生じ、彼らが法廷に出頭するならば、正しい者を無罪とし、悪い者を有罪とする判決が下されねばならない。
25:2もし有罪の者が鞭打ちの刑に定められる場合、裁判人は彼をうつ伏せにし、自分の前で罪状に応じた数だけ打たせねばならない。
25:3四十回までは打ってもよいが、それ以上はいけない。それ以上鞭打たれて、同胞があなたの前で卑しめられないためである。
25:4脱穀している牛に口籠を掛けてはならない。
25:5兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、
25:6彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。
25:7もし、その人が義理の姉妹をめとろうとしない場合、彼女は町の門に行って長老たちに訴えて、こう言うべきである。「わたしの義理の兄弟は、その兄弟の名をイスラエルの中に残すのを拒んで、わたしのために兄弟の義務を果たそうとしません。」
25:8町の長老たちは彼を呼び出して、説得しなければならない。もし彼が、「わたしは彼女をめとりたくない」と言い張るならば、
25:9義理の姉妹は、長老たちの前で彼に近づいて、彼の靴をその足から脱がせ、その顔に唾を吐き、彼に答えて、「自分の兄弟の家を興さない者はこのようにされる」と言うべきである。
25:10彼はイスラエルの間で、「靴を脱がされた者の家」と呼ばれるであろう。
25:11二人の男が互いに相争っているとき、一方の妻が近づき、夫が打たれるのを救おうとして、手を伸ばし、相手の急所をつかんだならば、
25:12その手は切り落とされねばならない。憐れみをかけてはならない。
25:13あなたは袋に大小二つの重りを入れておいてはならない。
25:14あなたの家に大小二つの升を置いてはならない。
25:15あなたが全く正確な重りと全く正確な升を使うならば、あなたの神、主が与えられる土地で長く生きることができるが、
25:16このようなことをし、不正を行う者をすべて、あなたの神、主はいとわれる。
25:17あなたたちがエジプトを出たとき、旅路でアマレクがしたことを思い起こしなさい。
25:18彼は道であなたと出会い、あなたが疲れきっているとき、あなたのしんがりにいた落伍者をすべて攻め滅ぼし、神を畏れることがなかった。
25:19あなたの神、主があなたに嗣業の土地として得させるために与えられる土地で、あなたの神、主が周囲のすべての敵からあなたを守って安らぎを与えられるとき、忘れずに、アマレクの記憶を天の下からぬぐい去らねばならない。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 25章1節~19節

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【序】

 私たちは申命記のモーセの第二の説教に聞き続けておりますが、本日の箇所をもって、所謂、申命記法典と呼ばれる諸々の戒めが終わり、次回の26章から28章までは、第二の説教のまとめの部分に入ります。申命記は1~4章までが第一の説教、5~28章までが第二の説教、29~32章までが第三の説教となります。特に第二の説教は長く律法がたくさん書かれています(申命記法典)。ですから、申命記の5章から始まったモーセの第二の説教が少し終わりが見えつつあるということです。本日の箇所は、人道主義に関する諸規定が与えられていますが、その中で特に強調されていることは、神の民として正しく、誠実に歩むことと、しかし、その中にあって弱者への憐れみも忘れないという事です。それでは早速、聖書に目を向けて行きましょう。1~3節をご覧ください。

【1】. 鞭打ちの限界、脱穀している牛への配慮

 二人の間に争いが生じ、彼らが法廷に出頭するならば、正しい者を無罪とし、悪い者を有罪とする判決が下されねばならない。もし有罪の者が鞭打ちの刑に定められる場合、裁判人は彼をうつ伏せにし、自分の前で罪状に応じた数だけ打たせねばならない。四十回までは打ってもよいが、それ以上はいけない。それ以上鞭打たれて、同胞があなたの前で卑しめられないためである。

ここでは、義人が正しいとされ、悪人は必ず罪に定められなければならないと書かれています。つまりイスラエルの裁判において、神の公義が宣言されるべきであって、その判決は賄賂や個人的な感情によって左右されてはならず、歪められてはならないことが強調されています。これは、例えば、日本のプロ野球とアメリカのメジャーリーグを比較すると分かりやすいと思います。日本とアメリカでは異なる点は、球審の権威が異なります。アメリカは権威的ですが、日本の場合ですと、選手も審判も皆で仲良くプロ野球を盛り上げていこうという雰囲気があり(最近はそうでもないかもしれませんが)、ストライクとボールのジャッジがされる度に、バッターは「今のは、ボール一つ外れていたよね」とか、平気で審判と会話するシーンが見られました。しかしメジャーリーグにおいては、審判のジャッジに対し、選手が不平をこぼしたり、選手が審判に教え諭そうとするなら、一発退場になってしまいます。アメリカにおいては、大前提として、球審のジャッジは公正な判断であって、試合を盛り上げるため、試合を面白くするためのジャッジというのはあり得ないのです。ですから「義人が正しいとされ、悪人は必ず罪に定められなければならない」この律法の精神は、日本よりも、どちらかと言えばアメリカに見られるのではないかと思います。3節を見ますと、鞭打ちの刑を行う際に、注意事項が付け加えられています。原則として罪状に応じた数だけ鞭が打たれるのですが、40回以上は打ってはならないとあります。その理由は一体なぜでしょうか。それは、同胞が、つまりイスラエルの兄弟が、人々の前で卑しめられないためとあります。古代の他の法典などと比較すると鞭打ちの限度は、60回、或いは100回まで認められているケースもありました。そういった中で40回に限定されているのは、おそらく、余りにも多くのむち打ちをしてしまうと、理性を失ってしまったり、その残忍さに驚いて汚物を排泄するようなこともあるため、イスラエルでは40回までに制限されていたのだと思われます。人権の保護という意味ですね。人間は神のかたちに造られましたから、たとえ悪い者であっても、その人の尊厳は守られなければならないということです。因みに、イエス様はローマの兵士によって鞭打ちを受けました。これはおそらくローマの法律によって鞭打ちにされていますので、40回の鞭打ちではなく、それ以上の残酷な鞭打ちを受けたと思われます。続いて4節です。

脱穀している牛に口籠を掛けてはならない。

これはどういうことかと言うと、牛に大きな円盤型の挽き臼を引かせる場面です。家で使われる小さな挽き臼ではなく、家畜に引かせる大きな挽き臼があって、それを回すようにしながら脱穀したようです。その時に牛が穀物を食べれないように、口籠をはめてはならないと命じています。この規定は、動物に対する憐れみについて書かれていると言えるでしょう。イスラエルの民は人間だけでなく、動物や自然にも配慮をすべきであります。箴言12:10には次のような御言葉が書かれていました。そのままお聞きください。

神に従う人は家畜の求めるものすら知っている。神に逆らう者は同情すら残酷だ。

神の民は、正しく、誠実であるべきですが、憐れみの心も決して忘れてはならないのです。

【2】. レビラート婚、妻の不当な介入

 5節~10節までは、レビラート婚について書かれています。レビラート婚とは、子どもを設けずに夫に先立たれた未亡人と、その夫の兄弟や親族が結婚することによって子どもを設け、亡くなった夫の名を継いでいくという制度です。聖書の中で実際に、このレビラート婚によって子孫を設けた女性として、タマルとルツが出てまいります。レビラート婚の一番の目的とは、6節にあるように、「その名をイスラエルに絶えないようにすること」つまり、神から賜物として与えられた土地が子孫に継承されていくことでありました。もし、亡くなった夫の兄弟や親族が、自分のタイプではなかったり、様々な理由で、このレビラート婚を拒否するならあるなら、その男は女に訴えられ、町の長老たちの前で大変不名誉な呼び名が与えられます。それは「靴を脱がされた者の家」ということです。そして顔に唾を吐きかけられます。この人はそのように呼ばれる限り、いつまでも恥を背負って生きていくことになるんですね。ですから、この箇所を読むことによって創世記に出てくるタマルの取った破廉恥な行動を、私たちは理解することが出来るのです。タマルの行動を振り返りますと、ユダの家には息子たちが三人いて、その名は、エルとオナンとシェラでありました。タマルは長男のエルと結婚しますが、子供を設ける前に、夫エルは死んでしまったため、弟のオナンがタマルと結婚しました。ところがオナンはタマルとの間に子供を産もうとはせず、精子を地面に流したとあります。恐らく、このままタマルとの間に子供を設けなければ、兄エルの財産は、そのまま自分のものになると欲を出したのだと思われます。ところが、そのことが神の怒りに触れ、オナンは神に打たれ、タマルは再び未亡人になってしまいました。しばらくの間、三男のシェラが成人するまで待つようにと、義理の父ユダから言われたのですが、実際、ユダは、不吉な女タマルとレビラート婚をさせて、三男のシェラまで死なせてしまっては大変だということで、わざとシェラと結婚させないようにしていました。そのような中、ユダの妻が亡くなり、喪が終わったある日のこと、タマルは遊女に扮して義理の父であるユダと寝て、子どを設けたというのです。マタイ福音書によると、このタマルの産んだ子孫が、イエス様の先祖として系図に入れられているから驚きであります。タマルのこの破廉恥な行動は、実は、律法を深く黙想し、主を愛するという彼女の信仰から、そのような行いが出たということが分かるのです。

続いて申命記に戻りまして、11~12節にも、ものすごい戒めが書かれています。二人の男が争っているケースで、一方の男の妻が自分の夫を助けるために、相手の急所を、つまり生殖器をつかんではならないということです。もし相手の急所をつかんだなら、その女の手は切り落とされなければならないというのです。この規定が実際に執行されたという記録はありませんが、25:12節の「憐れみをかけてはならない」という言葉は、私たちに異彩を放って聞こえてきます。これまでの25章全体の論調と逆行しているからです。女の手を切り落とすことは、「目には目、歯には歯」という同態復讐法を超えています。これはどういうことなのか、私にはよく分かりませんが、恐らく、女性としての慎みが限度を超えていて、その行為が相手の男に大変な辱めを与えるものとして、タブー視されるもの、境界線を超えた行為として、厳しい体罰が規定されているということなのかもしれません。

【3】. 全く正確な重り、敵アマレク

 続いて13~16には二種類の重りを使ってはならないこと、或いは二種類の升を使ってはならないことが書かれています。商人が使用する重りや升です。実際、商売人の中には、自分が物を購入する際には、重い方の重りを使用し、自分が物を売る際には、軽い方の重りを使用して人を騙す者がいたそうです。このように自分の都合のいいようにダブルスタンダードになってはなりませんね。私たちは、神様が私たちの必要を全て満たしてくださるという信仰に立っているので、不正の利得を拒否し、誠実に歩むことができるのです。15~16節をご覧ください。

あなたが全く正確な重りと全く正確な升を使うならば、あなたの神、主が与えられる土地で長く生きることができるが、このようなことをし、不正を行う者をすべて、あなたの神、主はいとわれる。

15節の冒頭に、「全く正確な重りと全く正確な升」という言葉があります「全く正確な」という言葉が強調されています。これはイスラエルの神、主が全きお方、義なるお方なので、神の民イスラエルも完全で、正しい重りと升を使わなければならないということです。

最後に17~19節は、「非道なアマレク人を思い起こしなさい、忘れてはならない」と書かれています。このイスラエルの敵であるアマレク人とは、誰なのかと言いますと、出エジプトをした直後のイスラエルを、真っ先に襲ってきた民族でございます。聖書の中で「アマレク」と言えば、敵の代名詞のように使用されています。この時の戦いが出エジプト記17章に書かれていますが、そこにおいて彼らが取った作戦については、この申命記25章にしか書かれていません。25:18節をご覧ください。

彼は道であなたと出会い、あなたが疲れきっているとき、あなたのしんがりにいた落伍者をすべて攻め滅ぼし、神を畏れることがなかった。

アマレクの取った作戦とは、疲れ切ったイスラエルの、さらに、そのしんがりにいた落伍者を攻め滅ぼしたというのです。つまり彼らは、ハイエナのように弱者だけをねらい撃ちしているのです。ここに神を恐れない者の残忍性が伺えます。神を畏れることがいかに大切であるのか、アマレクの残忍性を通して私たちは学ぶことが出来るでしょう。神さまは、特に寄留者、孤児、寡婦の味方であり、社会的弱者を顧みられるお方なので「アマレクの記憶を天下から滅ぼさなければならない!滅ぼし尽くさなければならない!」と命じているのです。神の民は正しく、誠実に歩むことが第一に大切ですが、その中にあって、神を畏れ、憐れみの心を持つことを決して忘れてはなりません。私たちは自分を他人と比較したり、或いは偏差値、収入、社会の尺度などによって自分を測ろうとします。その時「自分は案外優れている」、「自分は結構、いい線、行っているんじゃないか」と自分に自信を持ち、そのことを誇りに思うことがしばしばございます。しかし、これは神を畏れないアマレクの状態です。もし神の御前に立ち、神の聖なる律法という鏡に自分が照らされるならば、その時は、自分自身に対する信頼は崩れ去り、高ぶりは消えて無くなります。そして「あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は/命あるものの中にはいません。」という、ダビデの告白と言われる詩編143:2の祈りだけが出て来るのです。罪深い私たちに、赦しを与えてくださる神を恐れる時に、私たちは他人をも憐れむ気持ちが自然にわいて来るのです。

【結論】

 何度も言っていることですが、イスラエルの民は近隣諸国の民と比較して、数が多い民でもなく、特に力があり、功の多い民であった訳でもありませんでした。神様の側から一方的に罪深い民イスラエルに近づかれたこと、イスラエルを神の民として形成され、約束の地カナンへ導いてくださったことは、一方的な神の恵みでありました。ところで、イスラエルが神の民とされたこと、イスラエルが義とされたこと、イスラエルが聖別され完全な者とされたこと、これらは決して巧みな「言葉の綾」でもなければ、社交辞令的なお世辞でもありません。神の法に照らしてみる時に、法的に義とされ、法的に聖別され、全き者とされ、法的に神の家族とされ、神との交わりに参与させられているのです。なぜなら、イエス・キリストがそのために代価を完全に支払ってくださったからです。このことを宗教改革者ルターは、キリストとの「喜ばしい交換」が起こったと表現しました。法的に義とされ、聖別され、全き者とされ、神の家族とされ、神との交わりに参与させられているのです。しかしそのことは、依然として完成されていない工事中である私たちにとっては、理解しづらいものであります。「王子と乞食」という物語の中で、エドワード王子と乞食のトムは、互いに顔がそっくりさんでありました。ある日、ひょんなことから、エドワード王子と、乞食トムが入れ替わり、その日からトムは王子として生きていくことになります。しかし、いざ、憧れていた王子の生活が始まってみると、守らなければいけない規則があれば、勉強しなければならない難しい事柄もたくさんあり、その生活は大変困難を極め、窮屈なものでありました。私たちも同じです。神の御前に、義とされ、聖別され、全き者とされ、神の家族とされました。これまでの生活を放棄し、異邦人とは区別された新しい人生を生きるために、神さまに依り頼みつつ、正しく、誠実に歩むべきであります。しかし、そこには困難もあり、罪の誘惑もあるでしょう。私たちは直ちに、罪を犯さないで一時たりとも生きることなんて不可能だと気付かされるのです。「神さま、どうぞ私を憐れんでください」という祈りと、神を恐れる気持ちが湧き出てくるのです。しかし、私たちが真に神を恐れる時に、自然に、他人をも憐れむことができるようになるのです。そして、神のかたちに創造された一人ひとりを尊敬し、愛していけるようなそのような私たちの歩みへと、神さまが導いてくださるのです。神さまに信頼しつつこの一週間も希望と感謝を持って歩ませていただきましょう。

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인도주의에 관한 여러 규정

2022년 9월 4일 센겐다이교회 주일설교

신명기 25장 1~19절

서론

우리들은 신명기의 모세의 제 설교를 계속 듣고 있습니다만, 오늘의 부분을 가지고 소위 신명기 법전이라고 불리는 여러 가지 계명이 끝나고 다음 26장부터 28장까지는 두 번째 설교의 마무리 부분으로 들어갑니다. 신명기는 1~4장까지가 첫 번째 설교, 5~28장까지가 두 번째 설교, 29~32장까지가 세 번째 설교입니다. 특히 두 번째 설교는 길고 율법이 많이 쓰여 있습니다(신명기 법전). 그래서 신명기 5장에서 시작된 모세의 두번째 설교가 조금 끝이 보이고 있는 것입니다. 오늘 살펴 볼 본문은 인도주의에 관한 여러 규정이 주어졌는데 그 중에서 특히 강조되는 것은 하나님의 백성으로 옳바르고 성실하게 사는 것과, 그리고 그 안에서 약자에 대한 연민도 잊지 않아야 된다는 것입니다. 그럼 바로 성경을 살펴 보시죠. 1~3절을 보세요.

(1) 매질의 한계, 탈곡하고 있는 소에 대한 배려

1 사람들 사이에 시비가 생겨 재판을 청하면 재판장은 그들을 재판하여 의인은 의롭다 하고 악인은 정죄할 것이며

2 악인에게 태형이 합당하면 재판장은 그를 엎드리게 하고 그 앞에서 그의 죄에 따라 수를 맞추어 때리게 하라

3 사십까지는 때리려니와 그것을 넘기지는 못할지니 만일 그것을 넘겨 매를 지나치게 때리면 네가 네 형제를 경히 여기는 것이 될까 하노라

여기서는 의인은 의롭다하고 악인은 반드시 정죄하라고 적혀 있습니다. 즉 이스라엘 재판에서 하나님의 공의가 선언되어야 하며 그 판결은 뇌물이나 개인적 감정에 의해 좌우되어서는 안 되며 왜곡되어서는 안 된다는 점이 강조되고 있습니다. 이것은 예를 들어 일본 프로 야구와 미국 메이저 리그를 비료하면 알기 쉬울 것입니다. 일본과 미국에서는 다른 점은 구심의 권위가 다릅니다. 미국은 권위적이지만 일본의 경우에는 선수도 심판도 다 같이 사이좋게 프로야구를 북돋아 나가자는 분위기가 있었고(요즘은 그렇지 않을지도 모르지만) 스트라이크와 공이 저지가 될 때마다 타자는 “지금 것은 공 하나가 빠져 있었지”라든가 아무렇지 않게 심판과 대화하는 장면을 볼 수 있었습니다. 하지만 메이저리그에서는 심판의 저지에 대해 선수가 불평하거나 선수가 심판에게 가르치고 타이르려 한다면 단번에 퇴장당하고 맙니다. 미국에서는 대전제(大前提: 추론에 있어서 결론의 기초가 되는 판단을 나타낸다)로서 구심 심판의 심판은 공정한 판단을 위해야지 경기의 흥을 돋구고 재미있게 하기 위한 심판이라는 것은 있을 수 없습니다. 그래서 「의인은 의롭다 하고 악인은 반드시 정죄함을 받아야 한다」는 것입니다. 이 율법의 정신은 어느쪽인가 하면 일본 보다 미국에서 볼 수 있지 않을까 생각합니다. 원칙적으로 죄상에 따른 수만큼 매질을 맞는 것이 맞지만 40회 이상은 때리면 안된다고 합니다. 그 이유는 도대체 무엇일까요? 그것은 동포가, 즉 이스라엘 형제가 사람들 앞에서 경히 여김을 받지 않기 위해서라고 합니다. 고대의 다른 법전 등과 비교하면 매질의 한도는 60회 혹은 100회까지 인정되는 경우도 있었습니다. 그런 가운데 40회로 한정되어 있는 것은 아마도 너무 많은 채찍질을 받으면 이성을 잃거나 그 잔인함에 놀라 오물을 배설하는 경우도 있기 때문에 이스라엘에서는 40회까지 제한되어 있었던 것으로 보입니다. 인권보호라는 뜻이죠. 인간은 하나님의 형상을 닮아 만들어졌기 때문에 비록 나쁜 자라도 그 사람의 존엄성은 지켜져야 한다는 것입니다. 덧붙여서 예수님은 로마 병사에 의해 채찍질을 받으셨습니다. 이것은 아마 로마의 법률에 의해 채찍질되었기 때문에 40회의 매질이 아니라 그 이상의 잔혹한 채찍질을 받았을 것으로 생각됩니다. 이어서 4절입니다.

곡식 떠는 소에게 망을 씌우지 말지니라

이게 무슨 말이냐면 소에게 큰 원반모양의 맷돌을 당기게 하는 장면입니다. 집에서 쓰는 작은 맷돌이 아니라 가축에게 끌게 하는 큰 맷돌이 있어서 그걸 돌리듯이 하면서 탈곡을 하는 것 같아요. 그때 소가 곡식을 먹지 못하도록 망을 씌우면 안 된다고 명하고 있습니다. 이 규정은 동물에 대한 연민에 대해 쓰여져 있다고 할 수 있습니다. 이스라엘 백성들은 인간뿐만 아니라 동물과 자연에도 배려를 해야 합니다. 잠언 12장 10절에는 다음과 같은 말씀이 적혀 있습니다. 제가 읽을 테니 그대로 들으셔도 됩니다.

의인은 자기의 가축의 생명을 돌보나 악인의 긍휼은 잔인이니라

하나님의 백성은 바르고 성실해야 하지만 긍휼한 마음도 결코 잊어서는 안 됩니다.

(2) 레비라트혼, 그리고 여인의 부당한 개입

5~10절까지는 레비라트혼에 대해 쓰여저 있습니다. 레비라트혼은 자녀를 남겨 두지 않고 남편을 앞세운 과부와 그 남편의 형제나 친족이 결혼함으로써 자녀를 남기지 않고 죽은 남편의 이름을 이어가는 제도입니다. 성경에서 실제로 이 레비라트혼을 통해 후손을 둔 여성으로 다말과 룻이 나옵니다. 레비라트혼의 가장 큰 목적은 6절에 나와있듯이 「그 이름이 이스라엘 중에서 끊어지지 않게 할 것이니라」즉, 하나님께서 주신 땅이 후손들에게 계승되어 가는 것이었습니다. 만약 죽은 남편의 형제나 친족이 그 과부가 자신의 타입이 아니거나 여러 가지 이유로 이 레비라트혼을 거부한다면 그 남자는 여자에게 고소당하고 동네 장로들 앞에서 매우 불명예스러운 호칭이 주어집니다. 바로 그의 발에서 신이 벗겨지고 「신 벗김 받은 자의 집이라」라고 부르라고 합니다. 그리고 얼굴에 침을 뱉습니다. 이 사람은 그렇게 불리는 한 언제까지나 수치스러움을 안고 살아가게 되겠지요. 그래서 이 부분을 읽음으로써 창세기에 나오는 다말이 취한 파렴치한 행동을 우리는 이해할 수 있는 것입니다. 다말의 행동을 돌이켜보면 유다의 집에는 아들이 셋 있었는데 그 이름은 엘과 오난과 셀라였습니다. 다말은 장남 엘과 결혼하지만 아이를 낳기 전에 남편 엘이 죽었기 때문에 동생 오난이 다말과 결혼했습니다. 그런데 오난은 다말과의 사이에 아이를 낳지 않으려고 정자를 땅에 흘려보냈다고 합니다. 아마도 이대로 다말과 자신의 사이에 아이가 생기지 않으면 형 엘의 재산은 그대로 자신의 것이 될 것이라고 욕심을 냈을 것으로 보입니다. 그런데 그 일이 하나님의 노여움을 사 오난은 하나님께 죽음을 맞고 다말은 다시 과부가 되고 말았습니다. 셋째 아들 셀라가 장성할 때까지 한동안 기다리라고 시아버지 유다가 말했는데 실제로 유다는 불길한 여자 다말과 레비라트혼을 시켜 셋째 아들 셀라까지 죽게 되면 큰일이라 생각해 일부러 셀라와 결혼시키지 않으려고 했습니다. 그러던 중 유다의 아내가 죽고 상이 끝난 어느 날의 일입니다. 다말은 창녀로 분장하여 시아버지와 잠자리를 해 아이를 낳았다고 합니다. 마태복음에 따르면 이 다말이 낳은 자손이 예수님의 조상으로 족보에 들어가 있으니 놀랍습니다. 다말의 이 파렴치한 행동은 사실 율법을 깊이 묵상하고 주님을 사랑하는 그녀의 믿음에서 그런 행실이 나왔다는 것을 알 수 있는 것입니다.

이어서 신명기로 돌아와서 11,12절에도 엄청난 계명이 적혀 있습니다. 두 남자가 싸우고 있는 경우로 한 남자의 아내가 자신의 남편을 돕고자 상대 남성의 급소를, 즉 생식기를 잡지 말아야 한다는 것입니다. 만약 상대방의 급소를 잡았다면 그 여자의 손을 찍어버리라는 것입니다. 이 규정이 실제로 집행되었다는 기록은 없지만 25장 12절의 「그를 불쌍히 여기지 말지니라」라는 말은 우리에게 이채로움을 주며 들려옵니다. 지금까지의 25장 전체 논조와 역행하고 있기 때문입니다. 여인의 손을 찍어버린다는 것은 눈에는 「눈에는 눈, 이에는 이」라는 동태복수법을 넘어서고 있습니다. 이게 무슨 말인지 저는 잘 모르겠지만 아마 여성으로서의 신중함이 한도를 초과하고 그 해위가 상대방 남성에게 엄청난 수모를 주는 것으로 금기시되는 것, 경계선을 넘는 행위로 엄격한 체벌이 규정되어 있다는 것인지도 모릅니다.

(3) 온전하고 공정한 저울추 그리고 적 아말렉

계속해서 13~16절에는 두 종류의 추를 사용해서는 안 된다, 아니면 두 종류의 되를 집에 두어서는 안 된다라고 쓰여있습니다. 상인이 사용하는 저울추나 되입니다. 실제로 장사꾼 중에는 자신이 물건을 살 때는 무거운 쪽의 저울추를 사용하고, 자신이 물건을 팔 때는 가벼운 쪽의 저울추를 사용하여 사람을 속이는 사람이 있었다고 합니다. 이렇게 자기 편한대로 이중 잣대를 가지면 안되겠죠. 우리는 하나님께서 우리의 필요를 모두 채워주신다는 믿음에 서 있기 때문에 부정의 이득을 거부하고 성실히 살 수 있는 것입니다. 15,16절을 보시기 바랍니다.

15 오직 온전하고 공정한 저울추를 두며 온전하고 공정한 되를 둘 것이라 그리하면 네 하나님 여호와께서 네게 주시는 땅에서 네 날이 길리라

16 이런 일들을 행하는 모든 자, 악을 행하는 모든 자는 네 하나님 여호와께 가증하니라

15절의 첫머리에 「온전하고 공정한 저울추와 공정한 되」라는 말이 있습니다. 「온전하고 공정한」이라는 말이 강조되고 있습니다. 이는 이스라엘의 하나님, 주께서 온전하신 분, 의로운 분이시므로 하나님의 백성인 이스라엘도 온전하고 바른 저울추와 되를 써야 한다는 것입니다.

마지막으로 17~19절은 「천하에서 아말렉에 대한 기억을 지워버리라 너는 잊지 말지니라」라고 쓰여 있습니다. 이 이스라엘의 적인 아말렉인들이 누구냐 하면 출애굽을 한 직후의 이스라엘을 가정 먼저 덮친 민족입니다. 성경에서 아말렉이라고 하면 적의 대명사처럼 사용되고 있습니다. 이때의 전투가 출애굽기 17장에 적혀 있는데, 거기서 그들이 취한 작전에 대해서는 이 신명기 25장에만 적혀 있습니다. 25장 18절을 참조하시기 바랍니다.

곧 그들이 너를 길에서 만나 네가 피곤할 때에 네 뒤에 떨어진 약한 자들을 쳤고 하나님을 두려워하지 아니하였느니라

아말렉이 취한 작전이란 지칠대로 지친 이스라엘의, 게다가 뒤에 떨어진 약한 자들을 쳤다는 것입니다. 즉 그들은 하이에나처럼 약자만을 겨냥하고 있는 것입니다. 여기에 하나님을 두려워하지 않는 자의 잔인성이 엿보입니다. 하나님을 경외하는 것이 얼마나 중요한지 아말렉의 잔인성을 통해 우리는 배울 수 있을 것입니다. 하나님은 특히 객, 고아 과부의 편이며 사회적 약자를 돌보는 분이므로 「천하에서 아말렉에 대한 기억을 지워버리라 너는 잊지 말지니라」라고 명하고 계시는 것입니다. 하나님의 백성은 옳고 성실하게 사는 것이 첫째로 중요하지만, 그 가운데 하나님을 경외함으로 긍휼한 마음을 가지는 것을 절대로 잊어서는 안 됩니다. 우리들은 자신을 타인과 비교하거나 혹은 편사치(테스트를 받은 집단 가운데 자신이 어느정도 위치에 있는가를 나타내는 수치), 수입, 사회의 척도 등으로 자신을 재려고 합니다. 그때 “나는 의외로 뛰어나다, 나는 꽤 좋은 배경을 가지고 있지 않은가?”라고 자신감을 갖게 되고, 그러한 것들이 자랑스러울 때가 종종 있습니다. 그러나 이것은 하나님을 경외하지 않는 아멜렉의 상태입니다. 만약 하나님 앞에서 서서 하나님의 거룩한 율법이라는 거울에 자신이 비춰진다면 그때는 자기 자신에 대한 믿음은 무너지고 높고 낮음은 사라지고 없어집니다. 그리고 「주의 종에게 심판을 행하지 마소서 주의 눈 앞에는 의로운 인생이 하나도 없나이다」라는 다윗의 고백이라고 일컬어지는 시편 143편 2절의 기도만이 나오는 것입니다. 죄 많은 우리에게 용서를 주시는 하나님을 두려워할 때 우리는 타인을 불쌍히 여기는 마음이 저절로 생기는 것입니다.

결론

여러 번 말했지만 이스라엘 백성들은 이웃나라 백성들에 비해 수가 많은 백성들도 아니고 특별히 힘이 있고 공적이 많은 백성들이었던 것도 아니었습니다. 하나님 편에서 일방적으로 죄 많은 백성 이스라엘에 가까이 다가 주시고, 이스라엘을 하나님의 백성으로 형성하여 약속의 땅, 가나안으로 인도해 주신 것은 일방적인 하나님의 은혜였습니다. 그런데 이스라엘이 하나님의 백성으로 여겨졌다는 것, 이스라엘이 의롭게 여겨졌다는 것, 이스라엘이 거룩하게 성별되어 온전한 자로 여겨졌다는 것, 이것들은 결코 능란한 「언변의 뛰어남」때문도 아니거니와 사교적인 아첨도 아니었습니다. 하나님의 법에 비추어 볼 때 법적으로 의롭고 법적으로 성별되며 온전한 자로 여겨져 법적으로 하나님의 가족으로 여겨지며 하나님과의 교제 참여할 수 있게 되었습니다. 왜냐하면 예수 그리스도께서 그것을 위해 대가를 온전히 치르셨기 때문입니다. 이 일을 종교개혁자 루터는 그리스도와의 「기쁜 교환」이 일어났다고 표현했습니다. 법적으로 의롭게 여겨지고 성별되고 온전한 자로 여겨지고, 하나님의 가족이 되고 하나님과의 교제에 참여하게 되었다는 것입니다. 그러나 그것은 여전히 완성되지 않은 공사 중인 우리로서는 이해하기 어려운 것입니다. 「왕자와 거지」라는 이야기에서 에드워드 왕자와 거지 톰은 서로 얼굴이 꼭 닮았습니다. 어느 날 뜻밖의 일로 에드워드 왕자와 거지 톰이 바뀌게 되고 그날부터 톰은 왕자로 살아가게 됩니다. 그러나 막상 동경하던 왕자의 생활이 시작되고 보니 지켜야 할 규칙이 있으며 공부해야 할 어려운 일들도 많이 있었고 그 생활은 매우 어렵고 답답했습니다. 우리도 마찬가지 입니다. 하나님 앞에서 의롭게 여겨지고 성별되고 온전한 자로 여겨지고 하나님의 가족이 되었습니다. 그동안의 생활을 포기하고 이방인과는 구별된 새로운 삶을 살기 위해 하나님께 의지하며 올바르고 성실하게 살아야 합니다. 하지만 거기에는 어려움도 있고 죄의 유혹도 있겠지요. 우리는 죄를 짓지 않고 한시라도 산다는 것은 불가능하다는 것을 금방 깨닫게 됩니다. “하나님 부디 저를 불쌍히 여겨주세요”라는 기도와 하나님을 두려워하는 마음이 샘솟는 것입니다. 그러나 우리가 진정으로 하나님을 두려워할 때 자연스럽게 다른 사람도 불쌍히 여길 수 있게 되는 것입니다. 그리고 하나님의 형상으로 지음 받는 한 사람 한 사람을 존중하고 사랑해 나갈 수 있는 그런 우리의 삶으로 하나님이 인도해 주시는 것입니다. 하나님께 믿음을 가지면서 이번 한 주도 희망과 감사를 가지고 살아갑시다.

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