2022年08月21日「使徒の任命 사도의 임명」

問い合わせ

日本キリスト改革派 千間台教会のホームページへ戻る

使徒の任命 사도의 임명

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 3章13節~19節

音声ファイルのアイコン音声ファイル

礼拝説教を録音した音声ファイルを公開しています。

聖句のアイコン聖書の言葉

13イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。
14そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、
15悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。
16こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。
17ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。
18アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、
19それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 3章13節~19節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 本日の箇所で「使徒」という言葉は、一部の写本にはないため、イエス様が十字架に架けられた後のキリスト教会において造られた概念ではないかと問題提起されることがありますが、有力とされている写本(シナイ、ヴァチカン、ワシントン)には、きちんとこの文字が書かれています。従いまして本文をその通り読んでいきたいと思います。使徒とは一体何か、そして、使徒を任命するとは何を意味しているのかについて、本日はご一緒に考えていきたいと思います。「12使徒」という言葉を聞くときに、もしかしたら、私たちキリスト教会の信仰の土台であると思い浮かべる人もおられるでしょう。使徒とは、ギリシア語で「アポストロス」という言葉です。その意味は、「遣わされた者」という意味です。イエス様から遣わされた者です。これは、父の御そばにおられたイエス様が、父からこの世に遣わされたように、使徒たちもやはりイエス様の御そばに置かれて、イエス様から遣わされたということを意味しています。イエス様は何のために使徒をこの世に遣わされるのかと言うと、ご自身の代理として、ご自身の働きを担う者として、世に遣わされるのです。それは御子が御父から遣わされたのと同じであります。

【1】. 使徒としての召し

 さて、マルコの福音書は、本日の3章の13節から第二の段落が始まります。マルコの福音書1章をご覧ください。1:1~15節までは洗礼者ヨハネから受洗される記事から始まり、ヨハネが捕らえられる迄書かれています(14節にヨハネが捕らえられた後とある)。この部分を序論とするなら。1:16~3:12節までの第一の段落は、「イエス様のガリラヤ宣教」について書かれていると言えます。イエス様のガリラヤ宣教とは、「会堂で福音を教え」、「安息日には癒しの奇跡をなされ」、「悪霊を追い出し」、「多くの病を癒された」ことです。この時のイエス様の働きは、大変センセーショナルなものであり、当時の人々にとって、まさに古い革袋に新しいぶどう酒が注がれるような、そのような目を見張るものでありました。そして3:13から8:26までが、第二の段落と考えることができます。この第二段落へ移行しながら、第一段落では、イエス様の働きそのものに焦点が置かれていたのですが、第二段落では、イエス様が弟子たちを養育される現場へと焦点が移されて行きます。所謂、弟子訓練です。この第二段落を始めるにあたり、12使徒を任命している訳です。13~14a節をご覧ください。

“イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。”

ここで、突然「山」という言葉が出てまいります。ガリラヤ地方にある山とはどこの山なのか、或いはもっと低い、丘陵地帯を指しているのか、その辺は、はっきりしませんが、とにかくイエス様と弟子たちは山に登られました。「山に登る」という行為は、聖書の中で、イエス様が祈りに行かれるためであったり、或いは神様から大切な啓示が与えられるためであったり、未来の展望について指し示されるための場所として繰り返し登場します。イエス様のお姿が、白く栄光の姿に変えられて、モーセとエリヤが共に現れたのも、山の上での出来事でした。また、復活の主が、弟子たちに宣教命令(The Great Commission)を委任するのも、やはり山の上での出来事でした。従って、「山に登る」ということは、そこに何らかの神学的な意味が盛り込まれていると考えることができるのです。それは一体何なのでしょうか。

イエス様は山に登り、これと思う人々を寄せられると、彼らは御もとに集まってきました。「御もとに集まって来た」という言葉は、召された弟子たちの従順な態度を示していますが、この時、弟子たちの側に、何かイエス様に選ばれるに違いない、他人より秀でた点があったということではありません。彼らの人柄が良かったから、彼らの信仰の素質が良かったから、というのでもありません。普通の人々が選ばれました。むしろ、小さき人々(9:42)が選ばれました。その選びとは、ただただ、イエス様がお望みになったということに起因いたします。このようにしてイエス様は十二人を選ばれ、使徒として任命いたしました。因みに、ここでの召しは、イエス様の弟子となるための召しではありません。明らかにイエス様は、既に弟子として召された者たちの中から、12使徒を召されたのであります。つまり、ここでの召しとは一回目の弟子としての召しではなく、二回目の使徒としての召しであったということになります。

それから十二という数に注目してください。この数字はおそらく、神の民、イスラエル12部族に由来していると考えられます。ところがこの時、イスラエルの12部族からそれぞれ一人ずつ代表して選ばれたということではありませんでした。というのは、この時代まで、イスラエル12部族の子孫が血統を守りながら、生きながらえていた訳ではなく、既に過去のアッシリア捕囚、バビロン捕囚などを通して、12部族は完全に散らされてしまったからです。辛うじて、ユダ族やベニヤミン族は自分たちの血統を維持できたかもしれませんが、ガリラヤ地方の人々はと言えば、異邦人との混血が進んでいたであろうと推測されるのです。ですから、イエス様が山の上で十二人の使徒を選ばれたというのは、旧約時代の神の民を延長して立てられたということではないということです。来るべき神の国における、信仰の共同体を立てることによって、神の民の回復を象徴しているということになります。イスラエルの回復に対する預言は、旧約聖書にいくつか見られますが、一例としてイザヤ49:6をお読みします。

“こう言われる。わたしはあなたを僕として/ヤコブの諸部族を立ち上がらせ/イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして/わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。”

山の上で12使徒を立てられたその神学的意味とは、イスラエル12部族の回復であり、神の民の回復であったという事です。12使徒が「全イスラエル」の、「神の民」を象徴しているのです。イエス・キリストを頭とした信仰の共同体を立てることによりイスラエル12部族の回復が象徴されているのです。皆様もご存じのように、旧約時代における、神の民は全イスラエルでありました。新約時代における神の民は信仰の共同体であるという事です。そうであるなら、旧約の時代は、信仰がなくても、アブラハムの子孫というだけで、その血統によって天国に行くことができたということなのでしょうか。そういうことではありません。創世記15:6に「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」と書いてある通りです。旧約時代においても実は、信仰によらなければ義とされることはなく、天国に入ることもできませんでした。ですから、山の上でイエス様が12使徒というキリストを頭とした信仰の共同体を立てられたのは、旧約においておぼろげであった神の啓示が、より鮮明にされたというふうに私たちは理解すべきであります。続いて12使徒を立てられたその目的について見てまいりましょう。3:14b~15節をご覧ください。

【2】. 12使徒の使命_主の働きを歴史化すること

 “彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。”

ここには12使徒を立てられた目的が二つあると書かれています。一つ目の目的は、彼らをご自身のそばに置くためであります。「ご自身のそばに置くため」とは、イエス様と特別な関係を結び、常に一緒にいるようにさせることです。師匠が弟子に荷物持ちをさせている状況を思い浮かべてください。例えば、モーセの従者はヨシュアであり、預言者エリヤの従者はエリシャでした。彼らは荷物持ちのように師匠に仕えました。12使徒もヨシュアやエリシャのように、師匠に仕え、師匠から学ぶために御そばに置かれたのです。二つ目の目的は、主によって派遣され、宣教し、そして悪霊を追い出す権能を持つようにさせるためです。弟子たちは、イエス様から与えられた権能によって、実は、イエス様と全く同じ働きをすることになります。マルコ6:12-13を見ますと派遣された弟子たちの現場について書かれています。6:12-13ご覧ください。

十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

ここを見ると派遣された十二人は、悔い改めの福音を宣べ伝え、悪霊を追い出し、病人を癒したと書かれていますね。この描写は、マルコ1:38~39にガリラヤ宣教におけるイエス様のお働きの要約が書かれているのですが、実はこれと全く同じであります。1:38~39をご覧ください。

“イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。”

つまり、派遣された十二人の働きというのは、イエス様のお働きをそのまま継続していたという事に気づかされるのです。主イエスと特別な関係に入れられた使徒たちは、まさに主イエスと共に過ごした者たちであり、主イエスから派遣された者たちであり、主から権能を授かり、主イエスの口から出て来た御言葉を持つ者たちであったということです。主イエスから派遣された12使徒は、イスラエル全部族を象徴すると同時に、主イエスの代理人として、主イエスと全く同じ働きを担っていると言えるのです。

このことは、イエス・キリストの魚拓が12使徒であると言い換えることができるのではないかと思います。釣りをされない方には「魚拓」という言葉が分からないかもしれませんが、少し説明させていただきます。魚拓とは自分が釣り上げた魚を墨で塗って、それを白い布に版画のように押し当てて、原寸大の記録を残すことです。60センチ級のフナが釣れた!70センチ級の鯛が釣れた!ということで、記念に魚拓を取るわけです。使徒たちの働きは、イエス様の地上生涯という、その時を確かに歴史に刻み、魚拓を取り、後世にはっきりと記憶させるためのものであったということだと思います。主イエスの公生涯である、あの三年半が決して夢や幻でもなく、人々の証言が誇張されたものでもない、そのことを確かに歴史に刻み、後世にはっきりと記憶させるための十二使徒であったと言えるのです。

【3】. 教会の使徒性

 今日、もはや使徒は存在しません。ただ、キリストの弟子たちだけが存在するのみです。それでは、12使徒と私たちキリスト者とは、全く関係がなくなってしまったのかと言うとそう事ではありません。12使徒が回復された全イスラエルの象徴であったように、12使徒のエキスというか、教会の使徒性は、2,000年経った今日でも確かに機能していて、キリスト教会は、12使徒の使徒性の上に立て上げられているのです。つまり、キリストを頭とする使徒的な信仰共同体として立て上げられているということです。もし、そうであるなら、12使徒がこの世に派遣されたように、私たちも主イエスによって世に派遣されていることを信じるべきであります。インマヌエルなる主は、私たちと共におられ、私たちと特別な関係を結んでくださると同時に、私たちをこの世に遣わしてくださっているのです。遣わされる目的は、それは使徒たちが地の塩であり、世の光であり、キリストの魚拓であるように、私たちも同じように、地の塩であり、世の光であり、キリストの魚拓であるからです。使徒がこの世に対して、キリストの手紙であるように、私たちもこの世に対してキリストの手紙であるからです。2コリント3:3に次のような御言葉がございましたので、紹介させていただきます。

“あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。”

手紙は公にされているとありますね。もし、塩が塩気をなくしてしまったら、もう使い道がありませんね。光は覆いで隠すものではなく、高いところに掛けて全体を照らすために用いられます。同じように私たちも地の塩、世の光、キリストの魚拓、キリストの手紙として、明らかにされるべきであり、世に対して大胆に御言葉を宣べ伝えていくべきであります。私たちは自分の信仰だけを守ろうとして、恵みを受けることにばかり熱心になるのではなく、使徒的な教会であることを意識し、キリストによって遣わされた者として、周りの人々に恵みを分かち合う者に、そして仕える者に、人々を祝福する者にならせていただきましょう。そのようにして神の宣教が拡大され、神の国が前進していくのです。

【結論】

 神さまは12使徒を立ててくださり、神の民、イスラエル12部族を回復してくださいました。そのイスラエルの回復とは、血統にはよらない、キリストを頭とした信仰の共同体であったという点が際立っていました。彼らは、キリストの働きをそのまま継承し、国々の光として、救いをもたらす働きを担いました。この使命は、今日、教会の使徒性として、私たちにも継承されています。イエス・キリストによって立てられた12使徒が、御言葉を宣べ伝え、そしてその伝えられた者たちが同じように別の方々に宣べ伝え、二千年の時を経て、私たちにも福音が伝えられたのです。私たちもイエス様から、この世に派遣された者として、御言葉を宣べ伝え、国々の光として救いをもたらす働きを、主と共に成していくものとさせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

사도의 임명

2022년 8월 21일 센겐다이교회 주일설교

마가복음 3장 13~19절

서론

오늘날 「사도」라는 단어는 일부의 사본에는 없기 때문에 예수님이 십자가에 못박힌 이후 기독교에서 만들어진 개념이 아니냐는 문제가 제기되기도 하는데, 유력한 사본(시내, 바티칸, 워싱턴) 에는 제대로 이 문자가 적혀 있습니다. 따라서 본문을 그 대로 읽어보도록 하겠습니다. 사도가 도대체 무엇인지, 그리고 사도를 임명한다는 것은 무엇을 의미하는지 오늘은 함께 알아보겠습니다. 「12사도」라는 말을 들을 때 어쩌면 우리 기독교 신앙의 토대라고 떠올리는 분도 있을 것입니다. 사도라는 것은 그리스어로 「아포스톨로스」이고 보냄을 받은 자」라는 뜻입니다. 예수님께서 보내신 자입니다. 이는 아버지 곁에 계시던 예수님이 아버지로부터 이 세상으로 보내심을 받은 것처럼 사도들 역시 예수님 옆에 있다가 예수님으로 부터 보내졌다는 것을 의미합니다. 예수님은 무엇 때문에 사도를 이 세상에 보내셨느냐 하면, 자신의 대리로서, 자신의 사역을 담당하는 자로서 세상에 보내신 것입니다. 그것은 성자가 성부로부터 보내심을 받은 것과 같습니다.

(1) 사도로서의 부르심

마가복음은 오늘 3장 13절부터 두 번째 단락이 시작됩니다. 마가복음 1장을 보세요. 1장 1~15절까지는 세례자 요한으로부터 세례를 받는 기사로 시작하여 요한이 사로잡힐 때까지 쓰여져 있습니다(14절에 요한이 잡힌 후). 이 부분을 서론이라고 한다면 1장 16절 부터 3장 12절까지의 첫 번째 단락은 「예수님의 갈릴리 선교」에 대해서 쓰여져 있다고 말할 수 있습니다. 예수님의 갈릴리 선교라는 것은 「회당에서 복음을 가르치고」 「안식일에는 치유의 기적을 일으키시고」 「더러운 귀신을 쫓아내시고」 「많은 병을 고치셨다」는 것입니다. 이때 예수님의 사역은 엄청난 센세이셔널한 것이었고 당시 사람들에게는 바로 낡은 가죽부대에 새 포도주가 부어지는 것과 같은 눈이 휘둥그레질만한 일이었습니다. 그리고 3장 13절부터 8장 26절까지가 두 번째 단락이라고 생각할 수 있습니다. 이 두 번째 단락으로 넘어가면서 첫 번째 단락에서는 예수님의 사역 자체에 초점이 맞춰져 있었는데, 두 번째 단락에서는 예수님이 제자들을 양육하시는 현장으로 초점이 옮겨지게 됩니다. 이른바 제자 훈련입니다. 이 두 번째 단락을 시작하면서 12사도를 임명한 셈입니다. 13,14a절을 보세요.

13 또 산에 오르사 자기가 원하는 자들을 부르시니 나아온지라

14a이에 열둘을 세우셨으니

여기서 갑자기 「산」이라는 단어가 나옵니다. 갈릴리 지방에 있는 산이 어느 산인지 아니면 더 낮은 구릉지대를 가르키는지 그 부분은 분명치 않지만 어쨌든 예수님과 제자들은 산에 올랐습니다. 「산에 오르다」라고 하는 행위는 성경 가운데 예수님이 기도하시기 위해서 가시기 위해서이거나 혹은 하나님으로 부터 중요한 계시가 주어지기 때문이거나 미래의 전망에 대해 지시받기 위한 장소로 반복적으로 등장합니다. 예수님의 모습이 하얗고 영광스러운 모습으로 바뀌면서 모세와 엘리야가 함께 나타난 것도 산 위에서 일어나 일이었습니다. 부활의 주가 제자들에게 선교명령(The Great Commission)을 위임하는 것 역시 산 위에서 일어난 일이었습니다. 따라서 「산에 오르다」라는 것은 거기에 어떤 신학적 의미가 담겨 있다고 생각할 수 있는 것입니다. 그것은 도대체 무엇일까요?

예수님은 산에 오르시고 원하시는 자들을 부르시자 그들은 주님 앞에 나아왔습니다. 「나아온지라」라고 하는 단어는 부르신 제자들의 순종적인 태도를 나타내고 있습니다만 이때 제자들 쪽에 예수님께 선택받을 만한 남들과는 다른 무엇인가 뛰어난 점이 있었다는 것은 아닙니다. 그들의 인품이 좋았기 때문에, 그들의 믿음이 뛰어났기 때문도 아니라는 것입니다. 보통 사람들이 부르심을 받았습니다. 오히려 작은 자들(9장 42절)이 선택 받았습니다. 그 선택이란 오로지 예수님이 원하셨다는 데 기인합니다. 그리하여 예수님은 12명을 선출하여 사도로 임명하셨습니다. 덧붙여서 이곳에서의 부르심은 예수님의 제자가 되기 위한 부르심이 아닙니다. 분명히 예수님은 이미 제자로 부르신 자들 중에서 12사도를 세우신 것입니다. 즉 여기서의 부르심은 첫 번째 제자로서의 부르심이 아니라 두 번째 사도로서의 부르심이었다는 얘기가 됩니다.

그리고 12라는 숫자에 주목하시기 바랍니다. 이 숫자는 아마도 하나님의 백성 이스라엘 12 부족에서 유래한 것으로 생각됩니다. 그런데 이때 이스라엘의 12 부족에서 각각 한 명씩 대표로 뽑힌 것은 아닙니다. 왜냐하면 이 시대까지 이스라엘 12부족의 후손들이 혈통을 지키면서 살아가던 것이 아니라 이미 과거 앗시리아 포로, 바빌론 포로 등을 통해 12 부족은 완전히 흩어졌기 때문입니다. 간신히 유다족속이나 베냐민족속은 자신들의 혈통을 유지할 수 있었을지도 모르지만 갈릴리 지방 사람들은 이방인과의 혼혈이 진행되었을 것으로 추측됩니다. 그러므로 예수님이 산 위에서 열두 명의 사도를 뽑으셨다는 것은 구약시대 하나님의 백성을 연장하여 세우셨다는 것이 아니라는 것입니다. 다가올 하나님의 나라에서 신앙의 공동체를 세우심으로써 하나님의 백성의 회복을 상징하고 있는 것입니다. 이스라엘의 회복에 대한 예언은 구약성경에서 몇 가지 볼 수 있는데 일례로 이사야 49장 6절을 읽어보겠습니다.

그가 이르시되 네가 나의 종이 되어 야곱의 지파들을 일으키며 이스라엘 중에 보전된 자를 돌아오게 할 것은 매우 쉬운 일이라 내가 또 너를 이방의 빛으로 삼아 나의 구원을 베풀어서 땅 끝까지 이르게 하리라

산 위에서 12사도를 세우신 그 신학적 의미는 이스라엘 12부족의 회복이요, 하나님의 백성의 회복이었다는 것입니다. 12 사도가 「온 이스라엘」의 「하나님의 백성」을 상징하고 있는 것입니다. 예수 그리스도를 머리로 한 신앙의 공동체를 세우는 것에 의해서 이스라엘 12 부족의 회복이 상징되어져 있는 것입니다. 여러분도 아시다시피 구약시대의 하나님의 백성은 온 이스라엘이었습니다. 신약시대의 하나님의 백성은 신앙의 공동체라는 것입니다. 그렇다면 구약시대는 믿음이 없어도 아브라함의 후손이라는 것만으로 그 혈통에 의해 천국으로 갈 수 있었다는 말씀인가요? 아닙니다. 창세기 15장 6절에 「아브라함이 여호와를 믿으니 여호와께서 이를 그의 의로 여기시고」라고 쓰여져 있는 그대로입니다. 구약시대에도 실은 믿음에 의하지 않으면 의롭게 될 수가 없었고, 천국에 들어갈 수도 없었습니다. 그러므로 산 위에서 예수님이 12 사도라는 그리스도를 머리로 한 신앙의 공동체를 세우신 것은 구약에서 희미했던 하나님의 계시가 더 선명하게 이루어졌다는 식으로 우리는 이해해야 합니다. 이어서 12 사도를 세우신 그 목적에 대해 알아보겠습니다. 3장 14b~15절을 참조하시기 바랍니다.

(2) 사도의 사명 _ 주의 일을 역사화 하는 것

14b 이는 자기와 함께 있게 하시고 또 보내사 전도도 하며

15 귀신을 내쫓는 권능도 가지게 하려 하심이러라

여기에는 12사도를 세우신 목적이 두 가지라고 적혀 있습니다. 첫 번째의 목적은 그들을 자신의 곁에 두기 위해서입니다. 「자기와 함께 있게 하시고」라는 것은 예수님과 특별한 관계를 맺어 항상 함께 있게 하는 것입니다. 스승이 제자에게 짐을 지게하는 상황을 떠올려 보세요. 예를 들어 모세의 시종은 여호수아였고 예언자 엘리야의 시종은 엘리사였습니다. 그들은 짐꾼처럼 스승을 섬겼습니다. 12사도들도 여호수아나 엘리사처럼 스승을 섬기고 스승으로부터 배우기 위해 있었던 것입니다. 두 번째 목적은 주님으로 부터 파송되어 선교하고 그리고 귀신을 내쫓는 권능을 가지게 하려 하심이었습니다. 제자들은 예수님께서 주신 권능에 따라 사실 예수님과 똑같은 일을 하게 됩니다. 마가복음 6장 12,13절을 보면 제자들이 파견된 현장에 대해서 적혀 있습니다. 6장 12,13절을 보시기 바랍니다.

12 제자들이 나가서 회개하라 전파하고

13 많은 귀신을 쫓아내며 많은 병자에게 기름을 발라 고치더라

여기를 보면 파견된 열두 명은 회개의 복음을 전하며 귀신을 쫓아내고 병자를 고쳤다고 적혀 있습니다. 이 묘사는 마가복음 1장 38,39절에 갈릴리 선교에서 예수님의 사역에 대한 요약이 적혀 있는데 사실은 이와 완전히 같습니다. 1장 38,39절을 참조하시겠습니다.

38 이르시되 우리가 다른 가까운 마을들로 가자 거기서도 전도하리니 내가 이를 위하여 왔노라 하시고

39 이에 온 갈릴리에 다니시며 그들의 여러 회당에서 전도하시고 또 귀신들을 내쫓으시더라

즉 파견된 열두 명의 사역이라는 것은 예수님의 사역을 그대로 이어갔음을 알 수 있는 것 입

니다. 주 예수와 특별한 관계에 들어간 사도들은 그야말로 예수님과 함께 지낸자들이었고, 주 예수로부터 파견된 자들이었으며, 주 예수의 입에서 나온 말씀을 가진 자들이라는 것입니다. 주 예수에게 파견된 12사도는 이스라엘 전체 부족을 상징하는 동시에 주 예수의 대리인으로서 주 예수와 똑같은 사역을 담당하고 있다고 할 수 있습니다.

이것은 예수 그리스도의 어탁이 12사도라고 바꾸어 말할 수 있지 않을까 생각합니다. 낚시를 하지 않으시는 분들은 「어탁」이라는 말을 모르실 수도 있기에 조금 설명을 드리겠습니다. 어탁이란 자신이 낚아 올린 물고기에 먹물을 칠하고 그것을 흰 천에 판화처럼 눌러 원래 크기의 기록을 남기는 것입니다. 60cm급 붕어를 잡았다! 70 cm급 도미를 잡았다! 그래서 그 기념으로 어탁을 남기는 것입니다. 사도들의 사역은 예수님의 공생애라는 그 때를 확실히 역사에 새기고 어탁을 취해 후세에 분명히 기억시키기 위한 것이었다고 생각합니다. 주 예수의 공생애인 그 3년 반이 결코 꿈이나 환상도 아니고 사람들의 증언이 과장된 것도 아니었다. 그것을 분명히 역사에 새기고 후세에 분명하게 기억시키기 위한 12사도였다고 할 수 있습니다.

(3) 교회의 사도성

오늘날 더 이상 사도는 존재하지 않습니다. 오직 그리스도의 제자들만이 존재할 뿐입니다. 그러면 12사도와 우리 그리스도인은 아무런 관계가 없느냐 하면 그렇지 않습니다. 12사도가 회복된 온 이스라엘의 상징이었던 것처럼 12사도의 엑기스라고 할까, 교회의 사도성은 2000년이 지난 오늘날에도 확실히 기능하고 있고 기독교는 12사도의 사도성 위에 세워져 있는 것입니다. 즉 그리스도를 머리로 하는 사도적 신앙공동체로 세워져 있다는 것입니다. 만약 그렇다면 12사도가 이 세상에 파견된 것처럼 우리도 주 예수에 의해 세상에 파견되었음을 믿어야 합니다. 임마누엘되신 주님은 우리들과 함께 계시고 우리들과 특별한 관계를 맺어 주시는 동시에 우리를 이 세상에 보내 주시는 것입니다. 보내시는 목적은 사도들이 땅의 소금이요, 세상의 빛이요, 그리스도의 어탁이듯이 우리도 마찬가지로 땅의 소금이요, 세상의 빛이요, 그리스도의 어탁이기 때문입니다. 사도가 이 세상에, 그리스도의 편지인 것처럼 우리도 이 세상에 보내진 그리스도의 편지이기 때문입니다. 고린도후서 3장 3절에 다음과 같은 말씀이 있어 소개해드리겠습니다.

너희는 우리로 말미암아 나타난 그리스도의 편지니 이는 먹으로 쓴 것이 아니요 오직 살아 계신 하나님의 영으로 쓴 것이며 또 돌판에 쓴 것이 아니요 오직 육의 마음판에 쓴 것이라

나타난 편지라고 하네요. 만약 소금이 짠맛을 잃어버리면 더 이상 쓸모가 없겠지요. 빛은 덮개로 가리는 것이 아니라 높은 곳에 걸어서 전체를 비추기 위해 사용됩니다. 마찬가지로 우리도 땅의 소금, 세상의 빛, 그리스도의 어탁, 그리스도의 편지로서 밝혀져야 하며, 세상을 향해 담대하게 말씀을 전해야 합니다. 우리는 자신의 믿음만을 지키려고 은혜를 받는데만 열심을 낼 것이 아니라 사도적 교회임을 의식하여 그리스도에 의해 파견된 자로서 주위 사람들에게 은혜를 나누는 자로, 그리고 섬기는 자로, 사람들을 축복하는 자가 되도록 합시다. 그렇게 하나님의 선교가 확대되고 하나님의 나라가 전진해 나가는 것입니다.

결론

하나님은 12사도를 세우시고, 하나님의 백성, 이스라엘 12부족을 회복시켜 주셨습니다. 그 이스라엘의 회복이란 혈통에 의하지 않은 그리스도를 머리로 한 신앙의 공동체였다는 점이 돋보였습니다. 그들은 그리스도의 사역을 그대로 계승하고 열방의 빛으로서 구원을 가져오는 사역을 맡았습니다. 이 사명은 오늘날 교회의 사도성으로서 우리들도 계승하고 있습니다. 예수 그리스도에 의해 세워진 12사도가 말씀을 전하며, 그리고 그 전함을 받은 자들이 똑같이 다른 사람들에게 전하며, 2000년의 시간을 거쳐 우리에게도 복음이 전해진 것입니다. 우리도 예수님께서 이 세상에 파견한 자로서 말씀을 전하고 열방의 빛으로서 구원을 가져다 주는 사역을 주님과 함께 이루어 나가는 자가 됩시다.

関連する説教を探す関連する説教を探す