2022年08月07日「主の会衆に 여호와의 총회」

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主の会衆に 여호와의 총회

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 23章2節~9節

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2睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない。
3混血の人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても主の会衆に加わることはできない。
4アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることはできない。
5それは、かつてあなたたちがエジプトから出て来たとき、彼らがパンと水を用意して旅路で歓迎せず、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇って、あなたを呪わせようとしたからである。
6あなたの神、主はバラムに耳を傾けず、あなたの神、主はあなたのために呪いを祝福に代えられた。あなたの神、主があなたを愛されたからにほかならない。
7あなたは生涯いつまでも彼らの繁栄や幸福を求めてはならない。
8エドム人をいとってはならない。彼らはあなたの兄弟である。エジプト人をいとってはならない。あなたはその国に寄留していたからである。
9彼らに生まれる三代目の子孫は主の会衆に加わることができる。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 23章2節~9節

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【序】

 本日の箇所は、「主の会衆」はこうあるべきだという戒めが定められています。この「主の会衆」という言葉ですが、もしかしたらあまり聞きなれない言葉かもしれませんが、ヘブライ語では、「カーハール ヤハウェ」、英語ではassembly of the LORDとなっておりまして、その意味は、「主の御前に呼び集められた者たち」という意味です。何のために呼び集められたのかと言いますと、主との契約の中に入れられるために、であります。「カーハール」は、ギリシア語ではエクレシアとして翻訳され、語源的に言えば、まさに教会という意味になります。「主の会衆」は、主の教会という意味になります。従って、本日お読みした個所は、教会はこうあるべきだということが書かれているということになります。

この23章に至るまでの流れを確認しますと、22:13から、結婚と性を主題とした戒めが語られています。これらの戒めの背景には、第七戒「姦淫してはならない」があると想定されます。そして23章に入り、「主の会衆を汚すもの」の排除と、「主の陣営を汚すもの」の排除について書かれています。主の会衆をなぜ汚してはならないのか、主の陣営をなぜ汚してはならないのか、その理由は、そこが、聖なる場所であり、主が臨在される場所であるからです。もっと言えば、教会が、私たち信仰の共同体が、聖なる場所であり、主が臨在される場所であるからです。従ってイスラエルの民に対し、「主の会衆とは、聖いものだ」ということを徹底的に教えるために、本日お読みした23章に書かれている三つの戒めが定められていると理解できるわけです。これらの三つの戒めの背景には「姦淫してはならない」という第七戒が置かれていることを念頭に置きながら、本日は読み進めていきたいと思います。2節をご覧ください。

【1】. 睾丸のつぶれた者、陰茎を切断された者

 睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない。

主の会衆を汚すものとして、一つ目に「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断された者」という言葉が出てきます。突然驚かれるかもしれません。彼らは、なぜ主の会衆加わることが出来ないのでしょうか。端的に言えば、彼らは生殖機能を持たず、子孫を残すことが出来ないため、神様の祝福を享受できないから、と思われます。神さまがアダムに与えられた祝福は「産めよ、増えよ、地に満ちよ」というものでありました。この祝福はノアにも与えられ(創9:1)、アブラハム、そしてヤコブにも与えられました(創15章、17章、35:11)。契約の民が空の星のように、海辺の砂のように増し加えられていくことは、神さまの約束でありました。それから、もう一つ興味深いことが注解書に書かれていました。当時、カナンの偶像崇拝において、去勢が強要されていたために、睾丸のつぶれた者、陰茎を切断された者というのは、異教の神々に仕える者たちであったと考えられていたようです。つまり陰茎が切断されていると分かると、「あ~、お前は、異教の神に仕える者だな」と分かったということです。このように当時、カナンの地において、偶像崇拝と男性の生殖器が関連づけられていたのです。

聖書は、常に、偶像崇拝と、性的な罪の関連性について、強く警告しております。性的な罪を犯す者は、異教の神々に仕える偶像崇拝者として、或いは、主ヤハウェに対し姦淫の罪を犯す者として、神の祝福を享受することができないし、主の会衆を汚す者として、そこへ加わることが許されなかったのです。ところがです。イザヤ書を見ますと次のような記事に出くわします。イザヤ56:3~5をご覧ください。

主のもとに集って来た異邦人は言うな/主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな/見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。なぜなら、主はこう言われる/宦官が、わたしの安息日を常に守り/わたしの望むことを選び/わたしの契約を固く守るならわたしは彼らのために、とこしえの名を与え/息子、娘を持つにまさる記念の名を/わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。

なんと、イザヤ書においては、宦官も主の御前に集い、彼らの名がとこしえに消し去られることがないと書かれているのです。聖書は、矛盾しているという事でしょうか。前言を翻しているのでしょうか。そういうことではありません。確かにヤハウェの会衆は完全で、どのような性的な罪も、どのような偶像礼拝の罪も、そこには存在しませんが、それなのに、異教の民と宦官がそこに加えられるのは、彼らが悔い改めて立ち帰る時に、イエス・キリストの恵みによって、罪が取り除かれ、回復され、彼ら自身聖い者とされるからなのです。

【2】. 混血の人

 第二に、主の会衆を汚すものとして「混血の人」が挙げられています。23:3節をご覧下さい。

混血の人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても主の会衆に加わることはできない。

「十代目」という言葉は、言い換えれば「永遠に」主の会衆に加わることはできないという意味です。「混血の人」という言葉は少し分かりにくいのですが、ここの箇所は、新改訳聖書をみますと、「不倫の子」と訳されています。英語の聖書では、法的に子として認められない「私生児」として訳されています。ある神学者は、祭儀の中で神殿遊女が生んだ子供たちを指しているのでは、と主張します。偶像の神々の為に、偶像崇拝をしながら、快楽にふけり、その結果、生まれてきた子供たちだというのです。このような性的な罪によって生まれてきた子供たちは、主の会衆を汚す者として、やはり排除されたということです。

ところがです。ホセア書1:2と2:25を見ますと次のような記事に出くわします。最初にホセア書1:2をご覧ください。

主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。「行け、淫行の女をめとり/淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」

預言者ホセアは、主に命じられた通り、姦淫の女ゴメルと、淫行による子供たちを受け入れました。ホセアの子供である、ロ・ルハマ(女の子)と、ロ・アンミ(男の子)は、おそらく妻ゴメルの淫行によって生まれてきた私生児であると考えられています。因みにヘブル語で「ロ」という言葉は否定語を意味しますから、ロ・ルハマちゃんは「憐れまれぬ者」、ロ・アンミ君は「わが民でない者」という意味なんですね。こんなひどい名前が子供たちにつけられました。この名前は、同時に、当時偶像礼拝にふけるイスラエルの民に対する預言でもありました。その意味は主なる神がもはや「イスラエルの民を憐れまれない」という宣言であり、また、「あなたがたは私の民ではない」という宣言でありました。ところが、その後、この預言を翻すかのように、主は、イスラエルに対し次のように言われたのです。ホセア2:25をご覧ください。

わたしは彼女を地に蒔き/ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみ/ロ・アンミ(わが民でない者)に向かって/「あなたはアンミ(わが民)」と言う。彼は、「わが神よ」とこたえる。

つまり、不貞によって、生まれてきた私生児に、主の命令によってロ・ルハマちゃん、ロ・アンミ君と名付けられたのですが、ところがその子たちが、やがて「ロ」が取り除かれるように扱われるというのです。つまり、私生児であるロ・ルハマちゃんが憐れまれるようになり、私生児であるロ・アンミ君がわが民と呼ばれるようになるのです。これも、一見、聖書が矛盾しているように見えますが、そうではなく、救い主イエス・キリストが十字架上で私たちの代わりに刑罰を受けてくださったために、まさに私生児のような存在であった私たちが、神の子とされるということを意味しているのです。全く罪の中に生まれて来た私たちが、イエス・キリストによってロイヤルファミリーに入れられ、ヤハウェの会衆に入れられるのです。

【3】. アンモン人とモアブ人

 続いて申命記に戻りまして、第三に、主の会衆を汚すものとして、アンモン人とモアブ人が挙げられています。23:4節をご覧下さい。

アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることはできない。

アブラハムの甥のロトの娘たちの子どもがアンモンとモアブです。彼らは、元来、どのようにして生まれて来たのかと言いますと、皆さまもご存じのように、実は娘たちが父親のロトにお酒を飲ませて、近親相姦によって生まれてきたのが、アンモンとモアブでありました。それだけではありません。彼らが永遠に主の会衆に加わることの許されない理由として、23:5節に書かれているように、イスラエルが出エジプトをした後、荒れ野で、パンと水を用意してイスラエルを歓迎してくれず、むしろモアブの王バラクは、占いをする者、即ちアンモンに住むバラムを雇い、イスラエルを呪わせようとしたのです。ですから、アンモンとモアブに対する措置は、アブラハムへの約束の成就だと見ることが出来るのです。創世記12:3を見ると、次のような約束があるからです。

あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」

申命記23:7節には、モアブとアンモンに対して生涯、繁栄と幸福を求めてはならないと書かれていますが、「繁栄」と翻訳された言葉は、シャロームという言葉であり、「幸福」と翻訳された言葉はトーブという言葉です。つまり、イスラエルは、モアブとアンモンに対し永遠に契約関係を結んではならないという意味です。彼らと平安な関係になってはならない、彼らと幸いな関係になってはならない、そういう意味です。一方で、エドムとエジプトに対しては、三代目に、主の会衆に加わり、契約の民に加わることが許されています。エドムとは誰かといいますと、ヤコブの双子の兄、エサウのことですが、エサウは自分の長子権をだまし取られたため、ヤコブを生涯、苦しめました。しかし、最後にヤコブと和解いたしました。エジプトは、イスラエルが430年の間、そこで奴隷として苦役に甘んじなければなりませんでしたが、エジプトは、イスラエルの民が、人数が増えるように、保育器、インキュベーターの役割をしたというふうにも捉えることが出来るのです。つまり、エドム人も、エジプト人もイスラエルを苦しめはしましたが、少なくともイスラエルを呪うようなことはしませんでした。この点においてモアブとアンモンの罪深さが際立って見えてくるわけです。

ところがです。ルツ記を見ますと、モアブ人であるルツを神様がお用いになり、ものすごい奇跡を起こされました。聖書は矛盾しているのでしょうか。そうではありません。確かにモアブとアンモンの罪は大きいのですが、それに余りあるほど、キリストの恵みが大きいということなのです。このキリストに信頼するなら誰であれ、たとえ、モアブ人であっても主の会衆に加わることが許され。神の家族に入れられるのです。少し、ルツ記の物語を振り返ってみましょう。ナオミは、モアブの地で夫と二人の息子たちに先立たれてしまい、一文無しになって、ベツレヘムに帰ってきました。その際、死んだ息子の嫁のルツも一緒にベツレヘムに帰って来ました。ナオミはルツに対して、モアブの地で新しい人生を歩むようにと何度も勧めましたが、ルツは義理のお母さんのナオミに対し、「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き/お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。」(ルツ1:16)ここまでルツにお願いされましたからナオミはそれ以上、何も言うことはできませんでした。ところがこのルツの信仰によって、苦い人生をとことん味わうことになったナオミの家に回復がもたらされます。ルツ記の最後にナオミが、ルツとボアズから生まれてきた子供を、わが子のようにして、抱きかかえている姿が描写されていますが、これはまさにナオミに家の回復が象徴されているようです。それだけではありません。ナオミによって抱きかかえられたその赤ちゃんからエッサイが生まれ、エッサイからダビデが生まれて来たのです。イスラエルの信仰を回復するための、ゲームチェインジャ―が送られたということです。

このようにモアブの女性がなんと、イエス・キリストの系図の中に入れられたのです。本来、ヤハウェの会衆にさえ加わることのできない、モアブ人に、イエス・キリストの恵みが注がれたのです。このように律法によっては、到底不可能なことを、イエス・キリストの恵みによって可能になるのであります。

【結論】

 本日の申命記23章に書かれている戒めには、ヤハウェの会衆から、姦淫する者、異教の神々に仕える者、そして、その私生児や、モアブ人・アンモン人が締め出され、ヤハウェの会衆というものが、どれだけ聖いものなのかについて教えられています。しかし、よくよく考えてみるなら、神の聖なる律法の前では、私たちも霊的には、枯れ木のような宦官であります。私たちも霊的には不倫の子であり、罪の子であります。霊的にはモアブ人・アンモン人のように罪にどっぷりと浸っている者たちでありました。永遠に主の会衆に加わる資格のない者として、私たちも彼らと何ら変わりありません。しかし、十字架に架けられたイエス・キリストの恵みによって、このような私たちであっても、聖なる者へと回復させてくださり、主の会衆へ、招き入れられたのです。裁かれて当然である私たちの人生の中に、イエス様が介入してくださり、イエス様の方から私たちを捜し求めて下さり、罪の中から掬い上げて、十字架の勝利に与る者としてくださいました。この驚くべき、主の恵みを思い起こし、今週一週間も感謝と喜びに満たされて歩ませていただきましょう。

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여호와의 총회

2022년 8월 7일 센겐다이교회 주일설교

신명기 23장 1~8절

서론

 오늘의 구절은 「여호와의 총회」는 이래야 한다는 계명이 정해져 있습니다. 이 「여호와의 총회」라는 말인데 어쩌면 생소한 말일지도 모르지만 히브리어로는 「카하르 야훼」, 영어로는 assembly of the LORD라고 되어 있는데, 그 뜻은 「주 앞으로 불려진 자들」이라는 뜻입니다. 무엇 때문에 불리어 모아졌냐면 주님과의 언약안에 들어가기 위함이었습니다. 「카하르」는 그리스어로는 에클레시아로 번역되며 어원적으로 말하면 바로 교회라는 뜻이 됩니다. 「여호와의 총회」는 「주의 교회」라는 뜻이 됩니다. 따라서 오늘 읽은 부분은 교회는 이래야 한다는 것이 적혀 있다는 것입니다.

이 23장에 이르기까지의 흐름을 확인한다면, 22장 13절부터 결혼과 성을 주제로 한 계명이 이야기되고 있습니다. 이러한 계명의 배경에는 제 칠 계명인 「간음해서는 안 된다」가 있다고 성정(想定)됩니다. 그리고 23장에 들어가 「주의 총회를 더럽히는 것」의 배제와「주의 진영을 더럽히는 것 」의 배제에 대해 쓰여 있습니다. 주님의 총회를 왜 더럽히지 말아야 하는지, 주님의 진영을 왜 더럽히지 말아야 하는지 그 이유는 그곳이 거룩한 곳이고 주님이 임재하시는 곳이기 때문입니다. 더 말하면 교회가, 우리 신앙의 공동체가 거룩한 곳이요, 주님이 임재하시는 곳이기 때문입니다. 따라서 이스라엘 백성들에게 「여호와의 총회란 거룩한 것이다」라는 것을 철저히 가르치기 위해 오늘 읽은 23장에 적혀 있는 세 가지 계명이 정해져 있다고 이핼 수 있는 것입니다. 이 세가지 계명의 배경에는 「간음해서는 안 된다」는 제 칠계명이 놓여 있음을 염두에 두면서 본문을 읽어보도록 하겠습니다. 1절을 보세요.

(1) 고환이 상한 자나 음경이 잘린 자

고환이 상한 자나 음경이 잘린 자는 여호와의 총회에 들어오지 못하리라

여호와의 총회를 더럽히는 것으로 첫째, 「고환이 상한자나 음경이 절단된 자」라는 말이 나옵니다. 갑자기 놀라실 수도 있다고 생각합니다. 그들은 왜 여호와의 총회에 들어오지 못할까요? 단적으로 말하면 그들은 생식 기능을 갖지 못하고 자손을 남길 수 없기 때문에 하나님이 주시는 복을 누릴 수 없기 때문이라고 생각됩니다. 하나님이 아담에게 주신 복은 「생육하고 번성하여 땅에 충만하라」는 것이었습니다. 이 복은 노아에게도 주어졌고(창세기 9장 1절) 아브라함 그리고 야곱에게도 주어졌습니다(창세기 15장, 17장, 35장 11절). 언약하신 백성들이 하늘의 별처럼, 바닷가의 모래처럼 더해져 가는 것은 하나님의 약속이었습니다. 그리고 또 하나 흥미로운 것이 주해서에 적혀 있었습니다. 당시 가나안의 우상숭배에서 거세가 강요되었기 때문에 고환이 상한 자, 음경이 절단된 자라는 것은 이교의 신들을 섬기는 자들이었다고 생각했던 것 같습니다. 즉 음경이 절단되어 있다는 것을 알게 되면 “아~,너는 이교의 신을 섬기는 자구나”라는 것을 알았다는 것입니다. 이처럼 당시 가나안 땅에서 우상숭배와 남성 생식기가 연관되어 있었던 것입니다.

성경은 항상 우상숭배와 성적인 죄의 연관성에 관해서 강하게 경고하고 있습니다. 성적인 죄를 짓는 자는 이교의 신들을 섬기는 우상숭배자로서, 아니면 주 야훼에게 간음의 죄를 짓는 자로서 하나님이 주시는 복을 누릴 수 없고, 여호와의 총회를 더럽히는 자로서 거기에 가담하는 것이 허용되지 않았습니다. 그런데 말입니다. 이사야서를 보면 다음과 같은 기사를 만나게 됩니다. 이사야 56장 3~5절을 참조하십시오.

3 여호와께 연합한 이방인은 말하기를 여호와께서 나를 그의 백성 중에서 반드시 갈라내시리라 하지 말며 고자도 말하기를 나는 마른 나무라 하지 말라

4 여호와께서 이와 같이 말씀하시기를 나의 안식일을 지키며 내가 기뻐하는 일을 선택하며 나의 언약을 굳게 잡는 고자들에게는

5 내가 내 집에서, 내 성 안에서 아들이나 딸보다 나은 기념물과 이름을 그들에게 주며 영원한 이름을 주어 끊어지지 아니하게 할 것이며

이사야서에는 고자도 주님 앞으로 모으시고 그들의 이름이 영원히 끊어지지 않게 하시겠다고 적혀 있습니다. 성경은 모순된다는 말씀인가요? 앞말을 번복하고 있는 걸까요? 그런 것이 아닙니다. 물론 여호와의 총회에는 완전하고 어떤 성적인 죄도 어떤 우상 예배의 죄도 거기에는 존재하지 않지만, 이교의 백성과 고자가 거기에 가해지는 것은 그들이 회개하고 돌아올 때 예수 그리스도의 은혜로 죄가 제거되고 회복되어 그들 자신이 거룩한 자로 여기지기 때문입니다.

(2) 사생자

둘째, 여호와의 총회를 더럽히는 것으로 「사생자」가 꼽히고 있습니다. 23장 2절을 참조하시기 바랍니다.

사생자는 여호와의 총회에 들어오지 못하리니 십 대에 이르기까지도 여호와의 총회에 들어오지 못하리라

「십 대에 이르기까지」라는 말은 다시 말해 「영원히」여호와의 총회에 들어올 수 없다는 뜻입니다. 「사생자」라는 말은 조금 이해하기 어렵지만, 이 부분은 신개역 성경(일본성경)을 보면「불륜의 자식」라고 이라고 번역되어 있습니다. 영어 성경과 한국 성경에서는 법적으로 자식으로 인정받지 못하는 「사생아, 사생자」로 번역되어 있습니다. 어떤 신학자는 제의 안에서 신전창녀가 낳은 아이들을 지칭하는 것이 아니냐고 주장합니다. 우상의 신들을 위해 우상숭배를 하면서 쾌락에 빠졌고 그 결과 태어난 아이들이라는 것입니다. 이러한 성적인 죄로 태어난 아이들은 여호와의 총회를 더럽히는 자로 역시 배제되었다는 것입니다.

그런데 말입니다. 호세아서 1장 2절과 2장 23절을 보면 다음과 같은 말씀을 보게 됩니다. 첫 번째로 호세아서 1장 2절을 보시기 바랍니다.

여호와께서 처음 호세아에게 말씀하실 때 여호와께서 호세아에게 이르시되 너는 가서 음란한 여자를 맞이하여 음란한 자식들을 낳으라 이 나라가 여호와를 떠나 크게 음란함이니라 하시니

선지자 호세아는 주께 명령받은 대로 음란한 여자 고멜과 음행으로 인해 태어난 아이들을 받아들였습니다. 호세아의 자녀인 로루하마(여자아이)와 로암미(남자아이)는 아마도 아내 고멜의 음행에 의해 태어난 사생아일 것으로 생각됩니다. 덧붙여서 히브리어로 「로」라는 말은 부정어를 의미하기 때문에 로루하마 양은 「긍휼히 여김을 받지 못하는 자」로암미 군은 「내 백성이 아니다」라는 뜻이군요. 이런 끔찍한 이름이 아이들에게 지어졌습니다. 이 이름은 동시에 당시 우상예배에 빠진 이스라엘 백성들에 대한 예언이기도 했습니다. 그 뜻은 주 하나님께서 더 이상 「이 스라엘 백성을 긍휼히 여기시지 않는다」는 선언이었고 또한 「너희는 내 백성이 아니다」라는 선언이었습니다. 그런데 그 후 이 예언을 번복하듯 주님은 이스라엘에 대해 다음과 같이 말씀하셨습니다. 호세아 2장 23절을 보시기 바랍니다.

내가 나를 위하여 그를 이 땅에 심고 긍휼히 여김을 받지 못하였던 자를 긍휼히 여기며 내 백성이 아니었던 자에게 향하여 이르기를 너는 내 백성이라 하리니 그들은 이르기를 주는 내 하나님이시라 하리라 하시니라

즉 불륜에 의해서 태어난 사생자에게 주님의 명에 의해서 로루하마, 로암미라고 이름이 붙여졌는데, 그런데 그 아이들의 이름에서 「로」가 제거된다는 것입니다. 즉 사생자인 로루하마 양이 긍휼하심을 받고 사생자인 로암미 군이 하나님의 백성이라고 불리게 된다는 것입니다. 이것도 언뜻 성경이 모순된 것처럼 보이지만 그게 아니라 구세주 예수 그리스도께서 십자가 위에서 우리 대신 형벌을 받아주셨기 때문에 바로 사생자와 같은 존재였던 우리가 하나님의 아들로 여겨진다는 것을 의미하는 것입니다. 완전히 죄 가운데 태어난 우리가 예수 그리스도에 의해 로열 패밀리에 들어가 여호와의 총회에 들어갈 수 있는 것입니다.

(2) 암몬 사람과 모압 사람

이어서 신명기로 다시 돌아와서 셋째, 여호와의 총회를 더럽히는 것으로 암몬 사람과 모압 사람이 꼽히고 있습니다. 23장 3절을 참조하시기 바랍니다.

암몬 사람과 모압 사람은 여호와의 총회에 들어오지 못하리니 그들에게 속한 자는 십 대뿐 아니라 영원히 여호와의 총회에 들어오지 못하리라

아브라함의 조카 롯의 딸들의 아이가 암몬과 모압입니다. 그들이 원래 어떻게 태어났냐면 여러분도 아시다시피 사실 딸들이 아버지 롯에게 술을 먹이고 근친상간으로 태어난 것이 암몬과 모압이었습니다. 그뿐만이 아닙니다. 그들이 영원히 여호와의 총회에 들어가는 것이 허용되지 않는 이유로 23장 4절에 적혀 있듯이 이스라엘이 출애굽 한 후 광야에서 떡과 물로 길에서 영접하지 아니하고 오히려 모압의 왕은 점을 치는 자, 곧 암몬에 사는 발람을 이용하여 이스라엘을 저주하게 하려고 했습니다. 그래서 암몬 사람과 모압 사람에 대한 조치는 아브라함에 대한 약속의 성취라고 볼 수 있는 것입니다. 창세기 12장 3절을 보면 다음과 같은 약속이 있기 때문입니다.

너를 축복하는 자에게는 내가 복을 내리고 너를 저주하는 자에게는 내가 저주하리니 땅의 모든 족속이 너로 말미암아 복을 얻을 것이라 하신지라

신명기 23장 6절에는 모압 사람과 암몬 사람에 대하여 이스라엘 사람의 평생에 그들의 평안함과 형통함을 구하지 말라고 쓰여져 있는데 「평안함」이라고 번역된 말은 「샬롬」이라는 말이고 「형통함」으로 번역된 말은 「토브」라는 말입니다. 즉 이스라엘은 모압과 암몬에 대해서 영원히 계약관계를 맺어서는 안 된다는 뜻입니다. 그들과 평안한 관계가 되어서는 안 된다. 그들과 형통한 관계가 되어서는 안 된다 그런 의미입니다. 한편, 에돔과 애굽에 대해서는 그들의 삼 대 후 자손은 주의 총회에 들어오는 것이 허용되고 있습니다. 에돔이 누구냐 하면 야곱의 쌍둥이 형 에서를 말하는데 에서는 자신의 장자권을 사기 당해 빼앗겼기 때문에 야곱을 평생 괴롭게 했습니다. 하지만 마지막에 야곱과 화해했습니다. 애굽은 이스라엘이 430년 동안 그곳에서 노예로서 고역을 감수해야 했지만 애굽은 이스라엘 백성들이 인원이 늘어나도록 보육기 즉 인큐베이터의 역할을 했다는 식으로도 파악할 수 있습니다. 즉 에돔 사람들도 애굽 사람들도 이스라엘을 괴롭히기는 했지만 적어도 이스라엘을 저주하는 일은 하지 않았습니다. 이 점에서 모압과 암몬의 죄심이 두드러지게 드러나는 것입니다.

그런데 말입니다. 룻기를 보면 모압 사람 룻을 하나님이 쓰셔서 놀라운 기적을 일으키셨습니다. 성경은 모순된 것일까요? 그렇지 않습니다. 확실히 모압과 암몬의 죄는 크지만 그 죄를 능가할 정도록 그리스도의 은혜가 크다는 것입니다. 이 그리스도를 신뢰한다면 누구든지 설령 모압인일지라도 여호와의 총회에 가담하는 허락되고 하나님의 가족에 들어 갈 수 있다는 것입니다. 잠깐 룻기의 이야기를 되돌아봅시다. 나오미는 모압 땅에서 남편과 두 아들을 먼저 보내고 빈털털이가 되어 베들레헴으로 돌아왔습니다. 그 때 과부인 며느리 룻도 함께 베들레헴으로 돌아왔습니다. 나오미는 룻에게 모압 땅에서 새로운 삶을 살라고 여러 차례 강권했지만 룻은 시어머니 나오미에게 「내게 어머니를 떠나며 어머니를 따르지 말고 돌아가라 강권하지 마옵소서 어머니께서 가시는 곳에 나도 가고 어머니께서 머무시는 곳에서 나도 머물겠나이다 어머니의 백성이 나의 백성이 되고 어머니의 하나님이 나의 하나님이 되시리니(룻기 1장 16절) 」 라고 말합니다. 지금까지 룻에게 강권했던 나오미는 더 이상 아무 말도 할 수 없었습니다. 그런데 이 룻의 믿음으로 인해 쓰라린 삶을 말년에 맛보게 된 나오미의 집에 회복이 찾아옵니다. 룻기의 마지막에 나오미가 룻과 보아스 사이에 태어난 아이를 자기 자식처럼 안고 있는 모습이 묘사되어 있는데 이는 바로 나오미에게 집안의 회복이 상징되는 것 같습니다. 그뿐만이 아닙니다. 나오미에게 안긴 그 아기로부터 이새가 태어나고 이새에게서 다윗이 태어난 것입니다. 이스라엘의 신앙을 회복하기 위한 게임 체인저가 보내졌다는 것입니다.

이렇게 모압 여성이 무려 예수 그리스도의 족복 속에 들어간 것입니다. 본래 여호와의 총회조차 들어갈 수 없었던 모압 사람에게 예수 그리스도의 은혜가 부어진 것입니다. 이처럼 율법에 의해서는 도저히 불가능한 일이 예수 그리스도의 은혜로 가능하게 되는 것입니다.

결론

오늘의 신명기 23장에 적혀 있는 계명에는 주의 총회로부터 간음하는 자, 이교의 신들을 섬기는 자, 그리고 그 사생자와 모압 사람 암몬 사람이 쫓겨나 여호와의 총회라는 것이 얼마나 거룩한 것인지에 대해 가르치고 있습니다. 그러나 곰곰이 생각해 본다면 하나님의 거룩한 율법 앞에서는 우리도 영적으로는 마른 나무와 같은 고자입니다. 우리도 영적으로는 사생자이자 죄의 자녀입니다. 영적으로는 모압 사람 암몬 사람처럼 죄에 흠뻑 젖어 있는 자들이었습니다. 영원히 여호와의 총회에 들어갈 자격이 없는 자로서 우리도 그들과 아무런 차이가 없습니다. 그러나 십자가에 못 박힌 예수 그리스도의 은혜로 이런 우리도 거룩한 자로 회복시켜 주시고 주의 총회로 들어가게 되었습니다. 심판 받아야 마땅할 우리 삶 속에 예수님께서 개입해 주시고 예수님께서 우리를 찾아 주시고 죄 속에서 건져내주시고 십자가로 인해 승리한 자로 여겨 주셨습니다. 이 놀라운, 주님의 은혜를 상기하며 이번 한 주도 감사와 기쁨으로 충만한 하루 하루를 살도록 합시다.

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